Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉...

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Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 邦・呂后をめぐる歌物語 Author(s) 谷口, 洋 Citation 中國文學報 (2009), 78: 1-53 Issue Date 2009-10 URL https://doi.org/10.14989/180331 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 荊軻頂羽劉邦呂后をめぐる歌物語

Author(s) 谷口 洋

Citation 中國文學報 (2009) 78 1-53

Issue Date 2009-10

URL httpsdoiorg1014989180331

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

-刑珂

項羽劉邦

呂后を

めぐる歌物語I

力抜山号気蓋世

時不利骨錐不逝

雄不逝今可奈何

度今

虞今奈若何

奈良女子

大撃

力は山を抜き気は世を蓋う

時に利あらずして雄逝かず

雄逝かざれば奈何すべき

虞や虞や若を奈何せん

どもたちまで集めた大宴合を開き自ら筑を鳴らしつつ自

作の歌を歌

った劉邦は子どもたちにこの歌を歌わせ自

ら立

って舞い感極ま

って涙にむせんだという

大風起今雲飛揚

大風起こ-て雲飛揚す

威加海内骨鋸故郷

安得猛士今守四方

威は海内に加わ-て故郷に締る

安-んぞ猛士を得て四方を守らん

核下で四面楚歌の窮地に陥り観念した項羽は夜更け

に帳の中で酒を飲み憤慨してこの歌を何度も線-返した

虞美人がこれに和した項羽は涙をはらはらと流し左右

の者も皆涙に-れた

あたかもこれと封をなす如-天下統

一を成し遂げた劉

邦は故郷の柿で昔なじみを勢揃いさせ百二十人の子

『史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

天下を争

った両雄の命運を鮮やかに印象づけるこれらの

情景は『史記』全巻中の白眉というべき名場面であるし

それぞれの思いを歌いあげた二人の歌も希代の英雄の絶

唱として古来人口に膳灸してきた

ところでこれらの歌とそれを含む場面は高等学校の

教科書にも採られるような有名な箇所であるが多少なり

とも踏み込んで鑑賞しようとすればたちまちひとつの問

題に突き昔たる歌を理解するためには首然

『史記』の前

後の記述を参照し項羽や劉邦の置かれた状況を頭に入れ

て鑑賞することになるしかしここでは四面楚歌の窮地

- 7 -

中囲文学報

第七十八冊

におかれた項羽にせよ

故郷に錦を飾

った劉邦にせよ極

めて劇的な筆致で措かれてお-それ自憶を

一つの物語的

場面として謹むこともできるのみならず両者の封比の

うちに勝者と敗者を鮮やかに措き分けた著者司馬遷の意

園を謹みとることもできそうだ

そのような多様な謹みを許容するところが『史記』の

懐の深さなのだということもできようがここにはそこ

に登場する項羽と劉邦の歌が現れるのであるから問題は

いささか厄介である項羽や劉邦の歌を味わうために前

後の記述から必要な情報を得ようとしてもその記述はあ

ま-に劇的でそれ自膿

一つの物語のように見えるとこ

ろが場面全膿を物語としてみるならへそこに書かれてい

ることが事賓であるかどうかは第

一義的には問えないか

らそれを項羽や劉邦の歌の解樺のための情報源とするこ

とはできないそれどころか賓際に項羽や劉邦がこれら

の歌を作

ったかどうかも論理上

『史記』だけからは判断

できないということにな

ってしまう

しかしこの間題が突きつめて考えられたことはこれ

までなか

ったように思われる項羽や劉邦の歌を論ずる者

は前後の

『史記』の記述が事賓そのままの記述であるこ

とを暗獣の前提とする

一方『史記』を物語としてみる論

者はそこに含まれる歌には注意を捕

ってこなか

ったので

ある

筆者はさきに『史記』を文学として研究する際には

まずはそれをいったん司馬遷と切-離しそれぞれの俸承

に分解し物語として見るところから出費すべきことを論

じた

『史記』

のほとんどの部分は先行する博承に依接し

てお-それらの倖承の少なからぬ部分は物語の形をと

ているからであるここでもそのような立場に立ち目頭

にふれた場面も全膿をひとつの物語的俸承としてとらえ

る自然そこに含まれる歌も歴史的人物としての項羽

や劉邦からはいったん切-離し博承の

一部としてとらえ

られることになるただしへそのことによってこれらの

歌が項羽や劉邦の作であることを否定しようとか別の作

者を想定しょうとかいうのでは全-ないまたそのことに

って項羽や劉邦の歌を考える意味が減じるとも全-考

- 2 -

えない本稿の趣旨はむしろこれらの歌が項羽や劉邦

の俸説の中において極めて重要な作用を果たしていること

を論ずるにあるここでは項羽と劉邦の博説に加え同

様に歌を含む剃軒や呂后の物語

-呂后の物語は劉邦の

博説と切れ目な-接頼する績編でもあるー

をも視野に入

れ『史記』の物語における歌のもつ意味について考えた

rOレ

なお右に奉げた項羽と劉邦の歌については『史記』で

題名が輿えられておらずさまざまな呼び方が存在するが

ここでは習慣に従い「核下歌」「大風歌」と呼ぶことにす

J

『史記』における歌の意味

-

「核下歌」「大風歌」はどのようにみられてきたか

「核下歌」「大風歌」は古来絶唱として賞賛され『文

選』が

「大風歌」を収録する

ど畢猫でも詩歌集に収め

られてきたと-に末書は『楚鮮後語』にこれら二首を

『史記J)にみえる秦末湊初の歌と博説

(谷口)

収め評語を附している「核下歌

については「羽は固

よ-楚人にして其の詞は慌慨激烈千載の不平の鎗憤有

-是を以て之を著す」といい「大風歌」については

それが

「楚聾」であることを指摘した上で「千載以来よ

-人圭の詞亦た未だ是-のごと-其れ壮麗にして奇倖な

る者有らざるな-ああ雄なるかな」

と絶賛している

朱貢がこれらの歌を

『楚辞後語』に収めたのはこれら

の歌が今字を交える楚調であることその

「杭慨激烈」を

『楚辞』の精神を受け継ぐものとみたことに加え項羽も

劉邦も楚人であることなどによ-これらの歌を

『楚節』

の後継たるにふさわしいと認めたからであろうこのよう

な認識は基本的に近代の文学史にも受け継がれている

その中でも中国において近代的な文学史の鰭裁で書かれ

た比較的早い例である謝無量

『中国大文学史』はその第

三編

「中古文学史」の第

1章を

「漠高租の創業と楚聾の文

学」と名づけ次のようにいう

さて秦が東方六園を奪うとその民衆に暴虐をはた

- 3 -

中国文筆報

第七十八冊

らいたため各地で怨瞳の聾が上がったのだが楚は

と-わけ怒-を馨しどうにかして報復したがった

「楚は三戸と錐も秦を亡ぼすは必ず楚ならん」とい

う言葉があるがその意気たるや何と盛んなことであ

ろう--

か-

して世の憤慨の士たちは多-葉の調

べを好んだのである

そもそも漠が秦を亡ぼしたのはもとの楚の盛んな

気勢に乗じてのことであった文学の始ま-もまた

楚の音楽が先陣を切ったのである「(劉邦の)大風の

歌」や「(唐山夫人の)安世居中歌」は漠代輿国文

撃の根本であるといわねばならない

楚人である項羽や劉邦が『楚辞』の系譜を引-楚歌を

作-さらに劉邦の天下統

一によってそれが時代の主流

となって新しい文学の形成を促したというのは中国に

おいても我が国においても文学史にしばしば見られる記述

である細部はともか-今日における文学史家の共通理

解といってよいであろう

さて「核下歌」「大風歌」を語る上では小川環樹

川幸次郎の雨碩学によって相次いで沓表された論文と吉

川氏の論文に封する書評の形でなされた桑原武夫氏の反論

とが半世紀以上を経た今なお避けて通れないものであ

-績けている今さら引用するまでもない著名な論考では

あるがこれらの歌に関する論難を見つめ直すという意味

でそれぞれの要鮎を摘んでおこう

l九四八年に費表された小川氏の

「風と雲-

感傷文学

の起源

は『詩経』から六朝までの中国詩歌史における

自然描寓を西洋文学における

「素朴主義」から

「感傷主

義」への展開と野比しっつ説-きわめて大きなスケール

を持つ論考である氏によれば「大風歌」冒頭の

「大風

起こ-て雲飛揚す」という

一句こそは作者劉邦の心象風

景として漠武帝

「秋風静」いわゆる李陵蘇武詩「古詩

十九首」さらには魂晋の五言詩へとつながってゆ-

〟悲

傷文学〟の濫腸となったものである『詩経』においては

人間の生

活に影響する外界の事物としてのみとらえられて

いた自然というものが個人の内面を表現するものとして

- 4 -

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 2: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

-刑珂

項羽劉邦

呂后を

めぐる歌物語I

力抜山号気蓋世

時不利骨錐不逝

雄不逝今可奈何

度今

虞今奈若何

奈良女子

大撃

力は山を抜き気は世を蓋う

時に利あらずして雄逝かず

雄逝かざれば奈何すべき

虞や虞や若を奈何せん

どもたちまで集めた大宴合を開き自ら筑を鳴らしつつ自

作の歌を歌

った劉邦は子どもたちにこの歌を歌わせ自

ら立

って舞い感極ま

って涙にむせんだという

大風起今雲飛揚

大風起こ-て雲飛揚す

威加海内骨鋸故郷

安得猛士今守四方

威は海内に加わ-て故郷に締る

安-んぞ猛士を得て四方を守らん

核下で四面楚歌の窮地に陥り観念した項羽は夜更け

に帳の中で酒を飲み憤慨してこの歌を何度も線-返した

虞美人がこれに和した項羽は涙をはらはらと流し左右

の者も皆涙に-れた

あたかもこれと封をなす如-天下統

一を成し遂げた劉

邦は故郷の柿で昔なじみを勢揃いさせ百二十人の子

『史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

天下を争

った両雄の命運を鮮やかに印象づけるこれらの

情景は『史記』全巻中の白眉というべき名場面であるし

それぞれの思いを歌いあげた二人の歌も希代の英雄の絶

唱として古来人口に膳灸してきた

ところでこれらの歌とそれを含む場面は高等学校の

教科書にも採られるような有名な箇所であるが多少なり

とも踏み込んで鑑賞しようとすればたちまちひとつの問

題に突き昔たる歌を理解するためには首然

『史記』の前

後の記述を参照し項羽や劉邦の置かれた状況を頭に入れ

て鑑賞することになるしかしここでは四面楚歌の窮地

- 7 -

中囲文学報

第七十八冊

におかれた項羽にせよ

故郷に錦を飾

った劉邦にせよ極

めて劇的な筆致で措かれてお-それ自憶を

一つの物語的

場面として謹むこともできるのみならず両者の封比の

うちに勝者と敗者を鮮やかに措き分けた著者司馬遷の意

園を謹みとることもできそうだ

そのような多様な謹みを許容するところが『史記』の

懐の深さなのだということもできようがここにはそこ

に登場する項羽と劉邦の歌が現れるのであるから問題は

いささか厄介である項羽や劉邦の歌を味わうために前

後の記述から必要な情報を得ようとしてもその記述はあ

ま-に劇的でそれ自膿

一つの物語のように見えるとこ

ろが場面全膿を物語としてみるならへそこに書かれてい

ることが事賓であるかどうかは第

一義的には問えないか

らそれを項羽や劉邦の歌の解樺のための情報源とするこ

とはできないそれどころか賓際に項羽や劉邦がこれら

の歌を作

ったかどうかも論理上

『史記』だけからは判断

できないということにな

ってしまう

しかしこの間題が突きつめて考えられたことはこれ

までなか

ったように思われる項羽や劉邦の歌を論ずる者

は前後の

『史記』の記述が事賓そのままの記述であるこ

とを暗獣の前提とする

一方『史記』を物語としてみる論

者はそこに含まれる歌には注意を捕

ってこなか

ったので

ある

筆者はさきに『史記』を文学として研究する際には

まずはそれをいったん司馬遷と切-離しそれぞれの俸承

に分解し物語として見るところから出費すべきことを論

じた

『史記』

のほとんどの部分は先行する博承に依接し

てお-それらの倖承の少なからぬ部分は物語の形をと

ているからであるここでもそのような立場に立ち目頭

にふれた場面も全膿をひとつの物語的俸承としてとらえ

る自然そこに含まれる歌も歴史的人物としての項羽

や劉邦からはいったん切-離し博承の

一部としてとらえ

られることになるただしへそのことによってこれらの

歌が項羽や劉邦の作であることを否定しようとか別の作

者を想定しょうとかいうのでは全-ないまたそのことに

って項羽や劉邦の歌を考える意味が減じるとも全-考

- 2 -

えない本稿の趣旨はむしろこれらの歌が項羽や劉邦

の俸説の中において極めて重要な作用を果たしていること

を論ずるにあるここでは項羽と劉邦の博説に加え同

様に歌を含む剃軒や呂后の物語

-呂后の物語は劉邦の

博説と切れ目な-接頼する績編でもあるー

をも視野に入

れ『史記』の物語における歌のもつ意味について考えた

rOレ

なお右に奉げた項羽と劉邦の歌については『史記』で

題名が輿えられておらずさまざまな呼び方が存在するが

ここでは習慣に従い「核下歌」「大風歌」と呼ぶことにす

J

『史記』における歌の意味

-

「核下歌」「大風歌」はどのようにみられてきたか

「核下歌」「大風歌」は古来絶唱として賞賛され『文

選』が

「大風歌」を収録する

ど畢猫でも詩歌集に収め

られてきたと-に末書は『楚鮮後語』にこれら二首を

『史記J)にみえる秦末湊初の歌と博説

(谷口)

収め評語を附している「核下歌

については「羽は固

よ-楚人にして其の詞は慌慨激烈千載の不平の鎗憤有

-是を以て之を著す」といい「大風歌」については

それが

「楚聾」であることを指摘した上で「千載以来よ

-人圭の詞亦た未だ是-のごと-其れ壮麗にして奇倖な

る者有らざるな-ああ雄なるかな」

と絶賛している

朱貢がこれらの歌を

『楚辞後語』に収めたのはこれら

の歌が今字を交える楚調であることその

「杭慨激烈」を

『楚辞』の精神を受け継ぐものとみたことに加え項羽も

劉邦も楚人であることなどによ-これらの歌を

『楚節』

の後継たるにふさわしいと認めたからであろうこのよう

な認識は基本的に近代の文学史にも受け継がれている

その中でも中国において近代的な文学史の鰭裁で書かれ

た比較的早い例である謝無量

『中国大文学史』はその第

三編

「中古文学史」の第

1章を

「漠高租の創業と楚聾の文

学」と名づけ次のようにいう

さて秦が東方六園を奪うとその民衆に暴虐をはた

- 3 -

中国文筆報

第七十八冊

らいたため各地で怨瞳の聾が上がったのだが楚は

と-わけ怒-を馨しどうにかして報復したがった

「楚は三戸と錐も秦を亡ぼすは必ず楚ならん」とい

う言葉があるがその意気たるや何と盛んなことであ

ろう--

か-

して世の憤慨の士たちは多-葉の調

べを好んだのである

そもそも漠が秦を亡ぼしたのはもとの楚の盛んな

気勢に乗じてのことであった文学の始ま-もまた

楚の音楽が先陣を切ったのである「(劉邦の)大風の

歌」や「(唐山夫人の)安世居中歌」は漠代輿国文

撃の根本であるといわねばならない

楚人である項羽や劉邦が『楚辞』の系譜を引-楚歌を

作-さらに劉邦の天下統

一によってそれが時代の主流

となって新しい文学の形成を促したというのは中国に

おいても我が国においても文学史にしばしば見られる記述

である細部はともか-今日における文学史家の共通理

解といってよいであろう

さて「核下歌」「大風歌」を語る上では小川環樹

川幸次郎の雨碩学によって相次いで沓表された論文と吉

川氏の論文に封する書評の形でなされた桑原武夫氏の反論

とが半世紀以上を経た今なお避けて通れないものであ

-績けている今さら引用するまでもない著名な論考では

あるがこれらの歌に関する論難を見つめ直すという意味

でそれぞれの要鮎を摘んでおこう

l九四八年に費表された小川氏の

「風と雲-

感傷文学

の起源

は『詩経』から六朝までの中国詩歌史における

自然描寓を西洋文学における

「素朴主義」から

「感傷主

義」への展開と野比しっつ説-きわめて大きなスケール

を持つ論考である氏によれば「大風歌」冒頭の

「大風

起こ-て雲飛揚す」という

一句こそは作者劉邦の心象風

景として漠武帝

「秋風静」いわゆる李陵蘇武詩「古詩

十九首」さらには魂晋の五言詩へとつながってゆ-

〟悲

傷文学〟の濫腸となったものである『詩経』においては

人間の生

活に影響する外界の事物としてのみとらえられて

いた自然というものが個人の内面を表現するものとして

- 4 -

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 3: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中囲文学報

第七十八冊

におかれた項羽にせよ

故郷に錦を飾

った劉邦にせよ極

めて劇的な筆致で措かれてお-それ自憶を

一つの物語的

場面として謹むこともできるのみならず両者の封比の

うちに勝者と敗者を鮮やかに措き分けた著者司馬遷の意

園を謹みとることもできそうだ

そのような多様な謹みを許容するところが『史記』の

懐の深さなのだということもできようがここにはそこ

に登場する項羽と劉邦の歌が現れるのであるから問題は

いささか厄介である項羽や劉邦の歌を味わうために前

後の記述から必要な情報を得ようとしてもその記述はあ

ま-に劇的でそれ自膿

一つの物語のように見えるとこ

ろが場面全膿を物語としてみるならへそこに書かれてい

ることが事賓であるかどうかは第

一義的には問えないか

らそれを項羽や劉邦の歌の解樺のための情報源とするこ

とはできないそれどころか賓際に項羽や劉邦がこれら

の歌を作

ったかどうかも論理上

『史記』だけからは判断

できないということにな

ってしまう

しかしこの間題が突きつめて考えられたことはこれ

までなか

ったように思われる項羽や劉邦の歌を論ずる者

は前後の

『史記』の記述が事賓そのままの記述であるこ

とを暗獣の前提とする

一方『史記』を物語としてみる論

者はそこに含まれる歌には注意を捕

ってこなか

ったので

ある

筆者はさきに『史記』を文学として研究する際には

まずはそれをいったん司馬遷と切-離しそれぞれの俸承

に分解し物語として見るところから出費すべきことを論

じた

『史記』

のほとんどの部分は先行する博承に依接し

てお-それらの倖承の少なからぬ部分は物語の形をと

ているからであるここでもそのような立場に立ち目頭

にふれた場面も全膿をひとつの物語的俸承としてとらえ

る自然そこに含まれる歌も歴史的人物としての項羽

や劉邦からはいったん切-離し博承の

一部としてとらえ

られることになるただしへそのことによってこれらの

歌が項羽や劉邦の作であることを否定しようとか別の作

者を想定しょうとかいうのでは全-ないまたそのことに

って項羽や劉邦の歌を考える意味が減じるとも全-考

- 2 -

えない本稿の趣旨はむしろこれらの歌が項羽や劉邦

の俸説の中において極めて重要な作用を果たしていること

を論ずるにあるここでは項羽と劉邦の博説に加え同

様に歌を含む剃軒や呂后の物語

-呂后の物語は劉邦の

博説と切れ目な-接頼する績編でもあるー

をも視野に入

れ『史記』の物語における歌のもつ意味について考えた

rOレ

なお右に奉げた項羽と劉邦の歌については『史記』で

題名が輿えられておらずさまざまな呼び方が存在するが

ここでは習慣に従い「核下歌」「大風歌」と呼ぶことにす

J

『史記』における歌の意味

-

「核下歌」「大風歌」はどのようにみられてきたか

「核下歌」「大風歌」は古来絶唱として賞賛され『文

選』が

「大風歌」を収録する

ど畢猫でも詩歌集に収め

られてきたと-に末書は『楚鮮後語』にこれら二首を

『史記J)にみえる秦末湊初の歌と博説

(谷口)

収め評語を附している「核下歌

については「羽は固

よ-楚人にして其の詞は慌慨激烈千載の不平の鎗憤有

-是を以て之を著す」といい「大風歌」については

それが

「楚聾」であることを指摘した上で「千載以来よ

-人圭の詞亦た未だ是-のごと-其れ壮麗にして奇倖な

る者有らざるな-ああ雄なるかな」

と絶賛している

朱貢がこれらの歌を

『楚辞後語』に収めたのはこれら

の歌が今字を交える楚調であることその

「杭慨激烈」を

『楚辞』の精神を受け継ぐものとみたことに加え項羽も

劉邦も楚人であることなどによ-これらの歌を

『楚節』

の後継たるにふさわしいと認めたからであろうこのよう

な認識は基本的に近代の文学史にも受け継がれている

その中でも中国において近代的な文学史の鰭裁で書かれ

た比較的早い例である謝無量

『中国大文学史』はその第

三編

「中古文学史」の第

1章を

「漠高租の創業と楚聾の文

学」と名づけ次のようにいう

さて秦が東方六園を奪うとその民衆に暴虐をはた

- 3 -

中国文筆報

第七十八冊

らいたため各地で怨瞳の聾が上がったのだが楚は

と-わけ怒-を馨しどうにかして報復したがった

「楚は三戸と錐も秦を亡ぼすは必ず楚ならん」とい

う言葉があるがその意気たるや何と盛んなことであ

ろう--

か-

して世の憤慨の士たちは多-葉の調

べを好んだのである

そもそも漠が秦を亡ぼしたのはもとの楚の盛んな

気勢に乗じてのことであった文学の始ま-もまた

楚の音楽が先陣を切ったのである「(劉邦の)大風の

歌」や「(唐山夫人の)安世居中歌」は漠代輿国文

撃の根本であるといわねばならない

楚人である項羽や劉邦が『楚辞』の系譜を引-楚歌を

作-さらに劉邦の天下統

一によってそれが時代の主流

となって新しい文学の形成を促したというのは中国に

おいても我が国においても文学史にしばしば見られる記述

である細部はともか-今日における文学史家の共通理

解といってよいであろう

さて「核下歌」「大風歌」を語る上では小川環樹

川幸次郎の雨碩学によって相次いで沓表された論文と吉

川氏の論文に封する書評の形でなされた桑原武夫氏の反論

とが半世紀以上を経た今なお避けて通れないものであ

-績けている今さら引用するまでもない著名な論考では

あるがこれらの歌に関する論難を見つめ直すという意味

でそれぞれの要鮎を摘んでおこう

l九四八年に費表された小川氏の

「風と雲-

感傷文学

の起源

は『詩経』から六朝までの中国詩歌史における

自然描寓を西洋文学における

「素朴主義」から

「感傷主

義」への展開と野比しっつ説-きわめて大きなスケール

を持つ論考である氏によれば「大風歌」冒頭の

「大風

起こ-て雲飛揚す」という

一句こそは作者劉邦の心象風

景として漠武帝

「秋風静」いわゆる李陵蘇武詩「古詩

十九首」さらには魂晋の五言詩へとつながってゆ-

〟悲

傷文学〟の濫腸となったものである『詩経』においては

人間の生

活に影響する外界の事物としてのみとらえられて

いた自然というものが個人の内面を表現するものとして

- 4 -

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 4: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

えない本稿の趣旨はむしろこれらの歌が項羽や劉邦

の俸説の中において極めて重要な作用を果たしていること

を論ずるにあるここでは項羽と劉邦の博説に加え同

様に歌を含む剃軒や呂后の物語

-呂后の物語は劉邦の

博説と切れ目な-接頼する績編でもあるー

をも視野に入

れ『史記』の物語における歌のもつ意味について考えた

rOレ

なお右に奉げた項羽と劉邦の歌については『史記』で

題名が輿えられておらずさまざまな呼び方が存在するが

ここでは習慣に従い「核下歌」「大風歌」と呼ぶことにす

J

『史記』における歌の意味

-

「核下歌」「大風歌」はどのようにみられてきたか

「核下歌」「大風歌」は古来絶唱として賞賛され『文

選』が

「大風歌」を収録する

ど畢猫でも詩歌集に収め

られてきたと-に末書は『楚鮮後語』にこれら二首を

『史記J)にみえる秦末湊初の歌と博説

(谷口)

収め評語を附している「核下歌

については「羽は固

よ-楚人にして其の詞は慌慨激烈千載の不平の鎗憤有

-是を以て之を著す」といい「大風歌」については

それが

「楚聾」であることを指摘した上で「千載以来よ

-人圭の詞亦た未だ是-のごと-其れ壮麗にして奇倖な

る者有らざるな-ああ雄なるかな」

と絶賛している

朱貢がこれらの歌を

『楚辞後語』に収めたのはこれら

の歌が今字を交える楚調であることその

「杭慨激烈」を

『楚辞』の精神を受け継ぐものとみたことに加え項羽も

劉邦も楚人であることなどによ-これらの歌を

『楚節』

の後継たるにふさわしいと認めたからであろうこのよう

な認識は基本的に近代の文学史にも受け継がれている

その中でも中国において近代的な文学史の鰭裁で書かれ

た比較的早い例である謝無量

『中国大文学史』はその第

三編

「中古文学史」の第

1章を

「漠高租の創業と楚聾の文

学」と名づけ次のようにいう

さて秦が東方六園を奪うとその民衆に暴虐をはた

- 3 -

中国文筆報

第七十八冊

らいたため各地で怨瞳の聾が上がったのだが楚は

と-わけ怒-を馨しどうにかして報復したがった

「楚は三戸と錐も秦を亡ぼすは必ず楚ならん」とい

う言葉があるがその意気たるや何と盛んなことであ

ろう--

か-

して世の憤慨の士たちは多-葉の調

べを好んだのである

そもそも漠が秦を亡ぼしたのはもとの楚の盛んな

気勢に乗じてのことであった文学の始ま-もまた

楚の音楽が先陣を切ったのである「(劉邦の)大風の

歌」や「(唐山夫人の)安世居中歌」は漠代輿国文

撃の根本であるといわねばならない

楚人である項羽や劉邦が『楚辞』の系譜を引-楚歌を

作-さらに劉邦の天下統

一によってそれが時代の主流

となって新しい文学の形成を促したというのは中国に

おいても我が国においても文学史にしばしば見られる記述

である細部はともか-今日における文学史家の共通理

解といってよいであろう

さて「核下歌」「大風歌」を語る上では小川環樹

川幸次郎の雨碩学によって相次いで沓表された論文と吉

川氏の論文に封する書評の形でなされた桑原武夫氏の反論

とが半世紀以上を経た今なお避けて通れないものであ

-績けている今さら引用するまでもない著名な論考では

あるがこれらの歌に関する論難を見つめ直すという意味

でそれぞれの要鮎を摘んでおこう

l九四八年に費表された小川氏の

「風と雲-

感傷文学

の起源

は『詩経』から六朝までの中国詩歌史における

自然描寓を西洋文学における

「素朴主義」から

「感傷主

義」への展開と野比しっつ説-きわめて大きなスケール

を持つ論考である氏によれば「大風歌」冒頭の

「大風

起こ-て雲飛揚す」という

一句こそは作者劉邦の心象風

景として漠武帝

「秋風静」いわゆる李陵蘇武詩「古詩

十九首」さらには魂晋の五言詩へとつながってゆ-

〟悲

傷文学〟の濫腸となったものである『詩経』においては

人間の生

活に影響する外界の事物としてのみとらえられて

いた自然というものが個人の内面を表現するものとして

- 4 -

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 5: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文筆報

第七十八冊

らいたため各地で怨瞳の聾が上がったのだが楚は

と-わけ怒-を馨しどうにかして報復したがった

「楚は三戸と錐も秦を亡ぼすは必ず楚ならん」とい

う言葉があるがその意気たるや何と盛んなことであ

ろう--

か-

して世の憤慨の士たちは多-葉の調

べを好んだのである

そもそも漠が秦を亡ぼしたのはもとの楚の盛んな

気勢に乗じてのことであった文学の始ま-もまた

楚の音楽が先陣を切ったのである「(劉邦の)大風の

歌」や「(唐山夫人の)安世居中歌」は漠代輿国文

撃の根本であるといわねばならない

楚人である項羽や劉邦が『楚辞』の系譜を引-楚歌を

作-さらに劉邦の天下統

一によってそれが時代の主流

となって新しい文学の形成を促したというのは中国に

おいても我が国においても文学史にしばしば見られる記述

である細部はともか-今日における文学史家の共通理

解といってよいであろう

さて「核下歌」「大風歌」を語る上では小川環樹

川幸次郎の雨碩学によって相次いで沓表された論文と吉

川氏の論文に封する書評の形でなされた桑原武夫氏の反論

とが半世紀以上を経た今なお避けて通れないものであ

-績けている今さら引用するまでもない著名な論考では

あるがこれらの歌に関する論難を見つめ直すという意味

でそれぞれの要鮎を摘んでおこう

l九四八年に費表された小川氏の

「風と雲-

感傷文学

の起源

は『詩経』から六朝までの中国詩歌史における

自然描寓を西洋文学における

「素朴主義」から

「感傷主

義」への展開と野比しっつ説-きわめて大きなスケール

を持つ論考である氏によれば「大風歌」冒頭の

「大風

起こ-て雲飛揚す」という

一句こそは作者劉邦の心象風

景として漠武帝

「秋風静」いわゆる李陵蘇武詩「古詩

十九首」さらには魂晋の五言詩へとつながってゆ-

〟悲

傷文学〟の濫腸となったものである『詩経』においては

人間の生

活に影響する外界の事物としてのみとらえられて

いた自然というものが個人の内面を表現するものとして

- 4 -

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 6: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

とらえ直される

一大樽機にこの歌は位置しているという

のである

氏はさらに「大風歌」の最後の一句

「安-んぞ猛士を

得て四方を守らん」の気分がその前の

「威は海内に加わ

-て故郷に締る」と同じでないとして次にように言う

長いあいだの戦乱を平定し中国全域の君主として

郷里をおとずれた高租であってみれば「威

海内に

加わ-

故郷に締る」と誇-やかに歌ったのははなは

だ自然であるがそれにもかかわらず

「安んぞ猛士を

得て四方を守らしめん」と結ぶのはなぜか高租には

たのみとすべき猛士がなかったのであろうか--結

末の一句をもってこの満足しきったはずの皇帝の前

途に射して抱-漠然たる不安の表現であると解するの

は誤-でなかろう

そこで第

1句に戻るならば大風吹きおこって室を

ただよいゆ-雲の姿にはその帝の抑えがたい不安を

隠した心情を暗示するところがあるように見える

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

--ところさだめぬ雲の行方をおもいやるはてはや

がておのれのあるいはおのれの子の将来の蓮命につき

思いまよう君主の胸中に去来する憂慮をさそい出すと

考えてよいと思う

小川氏の論文は決して長大なものではないが「大風

歌」を中囲文学史の大きな流れの中に位置づけようとする

巨視的なものでありそのため

「大風歌」そのものに費や

された言葉は多-ないしかし

「大風歌」に劉邦の不安を

謹みとる小川氏の論難は

一九五〇年代に入-吉川氏の

「項羽の核下歌について

「漠高租の大風歌について

二つの専論によって極限まで推進される氏はいう

『詩経』『楚酢』においては天は信頼できるものであ-

常に正義の側に立つものであったたとえ自らが苦況にあ

ろうともそれは何者かが天意を妨げているからであ-

けっして天の本意によるのではなかったところが「核

下歌」「大風歌」においては天は窓意的に人を支配して

いるのであ-そこから生じる不安の情緒が中囲博統詩歌

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 7: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

の主調になってゆ-のであると小川

吉川両氏の論考は

宏観

微観の差こそあれこれらの歌に不安の情緒を謹み

とることそしてそこに時代を毒する意義を見出すことで

共通している

これに封して桑原氏は吉川氏が

「不安の哲学の玄妙

にとらわれている」と批判し劉邦はそのように内省的な

人ではなかったとして「大風歌」はただ自らの得意の気

持ちを素直にうたったにすぎないとする

その昔否はとも

かくこの論争を通じてこれらの歌が英雄の心象を歌い

あげた絶唱として改めて評慣されそれが文学史上に意味

を持つものであることが確認されたということはできよう

ところで以上のような見方に共通するのは「核下歌」

「大風歌」を項羽や劉邦の作品として

『史記』の中から

敬-出して論じている鮎であるそこでは前後の記述は

まず第

一に作品の制作背景を示す史料として扱われること

になるところが『史記』を論じる際には『史記』の記

述のどこまでが史賛そのものであるのかという鮎が常に

問題となってきた項羽本紀や高租本紀を謹む者はその

劇的な迫力に墜倒されると同時にそのすべてを事案そ

のままを記録した単なる史料としてのみ扱うことには蒔

賭せざるを得ないだろうたとえば小川環樹氏はのちに

『史記』の列俸部分を邦話した際その困惑を次のように

率直に述べている

厳密に言えば

『史記』に書きしるされているいろい

ろな人物の封話は根凍となった資料からの引用その

ままである場合を除き讃者にとってはたして誰が

記憶していて侍えたのかという疑いを起こさせること

がある項羽が核下の戦いに敗れ鳥江まで来たとき

の老人のことば

(小船をか-していてそれに乗って川を

わた-江東へ落ちのび再挙をはかれとすすめる)をこの

二人以外の誰が聞いていたのか

その少し前になるが項羽が陣中でうたう楚歌

「虞

や虞や若を奈何せん」で終わる

一章はいかにも避

けがたい死を像見できた英雄のことばとしてふさわし

いだがそれが事賓だったと仮定することはできる

- O -

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 8: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

そのときかれの部下はまだ相昔な数がいてそのうち

の誰かがあとで語った可能性を否定できないからであ

るそれでもこのあた-の叙述は劇的にすぎるわれ

われはもはや司馬遷の利用しえた記録や資料の原

文と比較することはできないからどれだけの部分を

彼が付け加えたのかを知ることはできないしたがっ

て賓在の人物項羽その人についてわれわれは確かめる

手段がないが司馬遷が措いてみせたイメージはすば

らし-てわれわれはそのイメージから抜け出すこと

が不可能であるつま-われわれは彼の想像力

(また

は構想力)のとりこになってしまう

ここでは項羽が

「核下歌」を歌ったことを事賓だった

「仮定」しっつも

一方でそれらが

「司馬遷が措いてみ

せたイメージ」であるかもしれずしかもそれを

「われわ

れは確かめる手段がない」ことが指摘されているそれは

『史記』を多少なりとも賓謹的に論じょうとする者なら誰

しも遭遇する困難であり『史記』に引かれた形で俸わる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

歌を扱う際には避けがたい困難である小川氏自身の

「風

と雲」は「大風歌」にみえる自然の表現を論じたもので

ありtか-に

「大風歌」の作者が劉邦その人でなかったと

してもその論旨が覆るわけでもその債値が減じるわけ

でもないそうはいっても「核下歌」「大風歌」を項羽や

劉邦の作品として論じることに大きな限界と危険がある

ことは認めざるを得ない

従ってそれとは全-異なる立場からの論が現れるのも

また皆然のことであろう七〇年代に入り白川静氏は

「核下歌」について次のように言っている

「文字は姓名をしるすに足るのみ」と稀して講書を

拒んだこの英雄の唯

一のそして最後の歌としては

あま-にもできすぎているこのとき項羽が悲歌

憤慨したことは事賓であったとしても何を歌ったの

かは知るべ-もないことである要するにこれらのこ

とは俸承者によって加えられたものであろう「核

下の歌」に和した美人の歌が

『楚漢春秋』の侠文に残

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 9: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中隊文学報

第七十八冊

されていることからいえば「核下の歌」ももとその

書にあったものと思われる

これは小川民らとは封照的に「核下歌」を項羽そ

の人とは切-離し博承の産物としてとらえようとする立

場ということができるただ白川氏は必ずしもその立

場にとどまってはいないようだ氏はこの箇所に先んじて

項羽の最期にふれ「この懐惨な最期の場面を陸貢はお

そら-劉邦の幕中にあって知-えたのであろう」として

『楚湊春秋』の著者とされる陸貫が項羽のすぐ間近にい

たことを指摘しているその見方は「大風歌」について

述べた次の一段にも共通するものである

この柿における宴楽のときにも陸貫はおそらく高

租の左右にあったであろう--昔時の漠室の内部に

最も精通した人であり唐の劉知幾が漠初の

「書はた

だ陸貢のみ」というのも首肯される呂后専制のとき

一時家居したがかつて南越に使したときにえた貨を

責って千金を収め外に出るときは安車馳馬琴忘を

鼓するもの十人を従え随所に歌舞して遊んだという

よほど歌曲を好んだ人であるこの陸貫が

『楚湊春

秋』の著者であ-その書が

「高租」「項羽」二本紀

の有力な資料であったとするとこの二人の英雄の歌

とされるものもかれを通じて博えられたものであろ

うそれでこれらの歌をこの英雄たちの賞賛の作品

としてその文学性を論ずることはあまり意味のな

いことであるそれは本質的にはなお俸承文学の範

圏に層するのである

「核下歌」「大風歌」を

「博承文学」と規定し歴史的

賓在としての項羽や劉邦から切-離した白川氏はその博

承の由来を陸貢の著とされる

『楚漠春秋』に求める氏

は『楚漠春秋』の侠文と

『史記』との比較から「『楚漠

春秋』が正確な記録としてよ-も戦記物的な物語性を

もつ文献であ-い-らかの口話性をもつ文膿であった

ことを論じている陸頁が音曲をよくしたという言い俸え

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 10: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

に言及するのもへ彼が歌を交えた垂能的な博承技法の保持

者であったことを想定しているのであろう

しかし白川氏は

l方で記録者たる陸貫が賛際に項羽や

劉邦の間近にいたことを線-返し指摘しその記録性をも

強調している氏は歌を含まない鴻門の骨の一段について

も次のようにいう「鴻門の骨のような場面描幕はお

そら-その目撃者あるいはその俸承者によってのみ博

えることができたであろう物語として多少の潤色が加え

られているとしてもまった-の架空の話ではあるまい

そしてその現場には『楚漢春秋』の著者である陸貢が

たしかに居合わせていたと思われる諾逃がある

」そこに

はいま

『史記』にみられる臨場感あふれる措寓は「司

馬遷が描いてみせたイメージ」などではあり得ず硯賓を

目の普たりにした著しかなし得ない現賓の模駕であるいう

確信があったようだ

白川氏の論に従えば項羽や劉邦の歌を含む場面は現

場に居合わせた陸貫によって俸承文学の手法で語られた

史書ということになる博承文学の形で史書が語られるの

『史記J)にみえる秦末漠初の歌と俸諜

(谷口)

はご-普通にあることだからこの想定自膿には何ら不

自然な鮎はないただ

『楚漠春秋』が俸承文筆であるなら

ばそれが史賓を菊したものであるかどうかあるいはそ

こに特定の著者の意園がはたらいているかどうかは第

義的には問題とならないはずだその描寓のリアリティは

内容が史賓をふまえることや著者がその場に居合わせた

こととは全-別の問題である項羽や劉邦の歌を彼らの

「真書の作品」とみることができないのであれば鴻門の

倉に登場する人物たちの言動もたとえ記録着陸貫がその

場にいたとしてもただちに彼らの賞賛の言動ということ

はできない少な-ともまずはそれらを

一つの物語蛮

能としてとらえる作業の方が先になされるべきであろう

白川氏が項羽本紀や高租本紀をいささか性急にみえ

るほど強-陸頁と結びつけようとしたのは昔時の

『史

記』研究の潮流と無縁ではない小川氏や吉川氏が項羽

や劉邦の歌についての論考を費表して大きな反響を呼んだ

後六〇年代から七

〇年代にかけては田中謙二氏や宮崎

市走民らによって『史記』の小説的

戯曲的側面に注目

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 11: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中鰯文学報

第七十八冊

した論が相次いで提出されているそれらは『史記』を

事賓の記録としてみるのではな-むしろ

『史記』と史書

との禿離もっと大胎にいえば虚構性に注目したものであ

-特に田中氏の場合は著者司馬遷の創意を探ろうとす

る方向性を内包していた

白川氏は『史記』に書かれて

いることをナイーヴに手書とみることはできなかったが

その一方で『史記』を虚構としてあるいは創作として

みる論に輿することもできなかったでは

『史記』をどの

ようにみるべきなのかこの難問にはかの碩学にして

すぐには答えを出しかねたようだその

『史記』に封する

覗鮎のゆれが本来事案性や作家性を聞えないはずの博承

文学について著者その人が目の普た-にした手書の記録

であることを強調するといういささかわか-に-い態度

につながったのではないか

白川氏は項羽本紀や高租本紀が

『楚漠春秋』に出るこ

とを指摘することによってそれらの巻と司馬遷とのかか

わ-をいったん断ち切ったのだがにもかかわらず『史

記』全髄については司馬遷の著作としての意味を問おう

とする「『史記』のうち最もひろ-知られている

「項羽本

紀」など湊初の史賓に関するものが多-

『楚漠春秋』な

ど先行の記録によって編述されたものであるとすれば文

学としての

『史記』を考えるときこれらの事章をもその

税鮎のうちにお-べきであろう

「文学としての

『史記』

はひとえに受刑によって開かれた達の運命観とその表

現者としての自覚によって支えられている部分にあるそ

れは

『史記』のうちのある限られた部分において強-主

調音としてはたらきながら全憶を大交響曲として高める

役割をしている」などの馨言にうかがえるようにここ

での氏の関心は『史記』の記述が多-先行する史料に基

づ-ことを指摘することによって『史記』の中から異に

司馬遷の手になる箇所を析出Ltそこから司馬遷の作品と

しての

『史記』の主題を論じることにあったように思われ

る白川氏にあっては「核下歌」「大風歌」の作者は問題

にされない代わりに『史記』全腔の

「作者」としての司

馬遷が問題なのであったその一方項羽や劉邦の

「其賓

の作品」と認められなかった

「核下歌」「大風歌」につい

- 10-

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 12: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

ての考察はこれ以上深められることがなかった

2

「核下歌」「大風歌」をどのようにみるか

かつての文学研究は作品をそれを生み出した作者と

の闘わ-から謹み解-「人と作品」という形の研究が主

流であったその背後には作品は作者の感情の表現であ

るとする文学観がある中国の詩歌の場合「詩は志を言

う」という俸続がそのような文学観とそれに支えられ

た研究をさらに後押ししたようにも思われる「核下歌」

「大風歌」についても『史記』を史料として扱うことの

困難さにとまどいつつもまずは作者たる項羽や劉邦との

関わ-から眺められたのである「核下歌」「大風歌」を博

説の産物とみた白川静氏の覗鮎も賓は

『史記』全鰻を

その作者たる司馬遷との関わ-においてみようとする立場

からのものであった

しかし前世紀の後半からそうした作者中心主義を脱

したより多様な文学研究の方法が試みられるようになる

そのことが「核下歌」「大風歌」への言及に多少とも影響

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説(谷口)

して-るのは

一九八〇年代のことのようである

たとえば沼口勝氏は漠初における楚歌の流行にふれ

た際「核下歌」「大風歌」などが

「明らかな

『楚鮮』の博

統」を引-ことを述べた後で次のように言う「楚歌の

特色と思われるもうひとつの鮎は歌が物語的背景をもつ

ことである「核下歌」は項羽と虞美人の別れ「大風

歌」には天下をとって故郷柿に錦を飾った高祖と故郷の

父老子弟との交歓が背景にある

」ここではこれらの歌

の前後の

『史記』の記述が歌についての事賓の説明とし

てではな-歌の背景をなす物語としてとらえられている

ただ概説書という制約もあってか楚歌が物語的背景を

もっことの意味についてはこれ以上述べられていない

この鮎についてもう少し踏み込んだ費言をしているの

は川合康三氏である氏はやはり

一九八〇年代に出さ

れた

「大風歌」の鑑賞において小川

吉川

桑原各氏の

所論を紹介し「以上のようなさまざまな解輝をこの詩

は生み出しているのだがこうした多義性を含んでいるこ

と自鰹この作品の凡庸ならざることを示しているともい

ll

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 13: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

えよう」とその債値を稀揚するそして

「風を呼び雲を

起こして世界の頂鮎に立った高租は自分が頂郭に立って

しまったことへそのこと自健に底知れぬ不安を覚えたので

はないだろうか自分が達成したものが崩壊するのを恐れ

るといった形をもったものではな-もっと漠然とした

それゆえにもっと根源的な恐れを抱いているかに讃みたい

と思う」という自らの解樺を提示する

しかしここで重要なのは氏自身の魅力的な解稗もさ-

ながら氏がその後に積けて「大風歌」研究の進むべき

別の方向を示していることである

従来は

「作者」劉邦の心理を謹み取ることに力が注

がれていたが秦末

漠初の時期楚の民謡風の歌が

項羽

劉邦といった

「英雄」のみによって残されてい

ることそれらがいずれも劇的な場面でうたわれてい

ることそれを思えば作品を特定の個人に還元する

より作品のもっている物語的性格に今後もっと注

目すべきかもしれない

川合氏のこの指摘は

一般向けの鑑賞書の中においてな

されたものであ-氏がその後

「大風歌」や漠初の楚調歌

についての専論を馨表したわけではないこともあってい

まだ研究者の十分な注意をひいていないように思われる

しかし『史記』のこれらの場面が単なる史料の域を超え

た劇的な盛-上がりを見せていることを認めるなら「核

下歌」「大風歌」を物語性とのかかわりの中でとらえるべ

きだという川合氏の提言はむしろ首然のことといえよう

ただし「核下歌」も

「大風歌」もわずか敷句の短詩

であ-それらの

「作品」が

「物語性」を帯びているとい

う川合氏の言い方には検討の鎗地があるのではなかろう

かたしかにこの短い歌に彼らの人生が凝縮されている

とはいえる「核下歌」についていうなら「力は山を抜き

気は世を蓋う」という初めの句は「力は能-鼎を虹げ

才気は人に過ぐ」といわれた項羽の華々しい活躍を思わせ

るし績-

「時に利あらずして雄逝かず」の句はまさに

四面楚歌の窮地に追い込まれた現在を表現しているここ

において

「雅逝かざれば奈何すべき虞や虞や若を奈何せ

- 72-

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 14: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

ん」と嘆くしかない無力さが暴露され来るべき破滅が示

されるただしそれはあ-まで歌をと-ま-物語と歌

そのものの内容に相似関係があるということなのであ-

これらの歌が物語との緊密な関係をもつものであるとはい

えても後の禦府詩にみられるようなそれ自腔で完結し

たプロットをもつ物語歌とは明らかに異質のものといわ

ねばならない

項羽本紀本文と

「核下歌」の相似についてはつとに吉

川幸次郎氏も気づいていた氏は

「核下歌」に宿命論の色

彩が強いことにふれ「蓮命の糸が

一たび不幸の方向にか

たむいたがさいごもはや人間の能力も努力もすべて

はむだである」と述べるついで

『史記』の本文について

「そうした意識をいだきつつ滅亡した英雄として項羽を

えが-ことが『史記』項羽本紀全篇の

1つの重鮎で

あったように思われる項羽という人物はその失敗を

みずからの軍事力政治力の不足には掃せずして抵抗すべ

からざる天の意思であると意識していたということを

司馬遷は項羽本紀のなかで--かえし--かえし叙述し

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

ている」として項羽の言葉に

「天の我を亡ぼす」という

語が三度も出て-ることを指摘しているそして

「もし項

羽本紀のもつ小説性を重視するならばこの歌はそのクラ

イマックスであるであろう」ともいう

このような吉川氏の論述に従えば司馬遷は項羽自ら

の作った

「核下歌」にもとづいて宿命論者項羽の形象を創

-出したということになろうたしかに項羽本紀は

『史

記』でももっとも文学性の強い巻といえるLt項羽が

「核

下歌」をうたってから

「天の我を亡ぼす」と繰-返すあた

-にかけてはtと-わけ劇的な場面ではあるだが司馬遷

は決して作家ではな-『史記』は決して小説ではない

歴代の多-の学者によって考諾され近年の出土文献の尊

兄によ-さらにはつき-してきていることは司馬遷はす

でにある材料に依接して

『史記』を書いたということであ

るさまざまな材料を自由に取捨選拝して組み合わせたと

いうことはあ-得るがけっして軽々し-

「小説」のよう

な文章を書いた-はしなかったのだだとすれば宿命論

者項羽の物語も司馬遷以前にすでにあったと考えること

- 13-

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 15: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中囲文筆報

第七十八冊

もできるのではないか「核下歌」と項羽本紀との相似は

「核下歌」の物語に沿って項羽本紀が書かれたというよ-

はむしろこの歌が項羽をめぐる大きな物語の中の一つ

の要素として組み込まれていることを示すのではなかろう

先秦漠初の歌謡は『詩経』『楚鮮』に収められたものを

除けば歴史文献や思想文献

(これは今日のわれわれの見方

からする便宜的な呼稀にすぎないが)の中に断片的に残され

ているにすぎないそれらの文献においては歌謡は常に

俸説や物語と結びついていることに注意してお-必要があ

る中園の古典の特質としてそれらはほとんどの場合過

去の史賓として語られるから今それらを便宜的に歴史故

事とよんでお-歴史文献や思想文献が歌謡を載せるのは

歌謡そのものを博えようとしてのことではな-歌謡と結

びついた歴史故事に歴史上もしくは思想上の意味がある

と考えられたからなのである

『史記』の場合もまた例外ではない速欽立

『先秦漠観

音南北朝詩』によって数えると『史記』に引かれる歌謡

は二十九候ある本来が詩歌集である

『詩経』『楚鮮』を

別にすれば『史記』は先秦から前漠の歌謡を最も多-煤

存する書物であるその中には孔子世家に引-接輿の歌

『論語』微子篇に出るように現存する古籍にみえるも

のもあるが項羽や劉邦の歌をはじめ『史記』に引かれ

たことによって今日まで博わったものも多い『詩経』の

あとまとまった詩歌が

『楚鮮』に収められたものしか残

らない中で『史記』に引かれた歌謡は確かに貴重なも

のではあるただそれらはいずれも歴史故事の中におい

てそこに登場する人物または無名の民衆によって歌われ

たものであ-故事

の中に包括されているこの鮎

「諺」や

「語」がしばしば論質においてある意見や感

慨を述べるために太史公によって直接引用されるのとは

異なる段本紀や周本紀には股周民族の起源に関わる感生

説話が述べられその内容は

『詩経』の商項

「玄鳥」や大

「生民」と

一致するが司馬遷はそれらの詩篇を直接引

用することはしていない

彼の関心はあ-まで歴史を語

る故事の方にあって詩歌そのものにはないのだ

14

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 16: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

その中にあって『史記』が唯

一歌そのものを意識的

に引いたと思われるのが伯夷列侍の場合であるここで

は孔子が伯夷

叔斉を論許した

「善悪を念わず怨み是

を用て希な-」「仁を求めて仁を得又た何をか怨みん」

という語に異議を唱える形で「余

伯夷の意を悲しむ

秩詩を勝るに異とすべし」として彼らが首陽山で作った

という歌が引かれるしかし伯夷列侍がほとんど太史

公による議論で占められ全編が論質ともいえる膿裁を

とっていることを思えばやは-これは例外とみるべきだ

ろう

そしてここでも歌は単猫では引かれないまず

「其の

侍に日-」として孤竹君の子であった二人が園を譲

って

西伯に蹄するもその後を継いだ武帝の武力革命に反馨し

周の粟を食むことを恥じて首陽山に隠棲するまでの顛末が

語られるその末尾に「餓えに及びて且に死せんとLt

歌を作る其の節に日-」としてようや-歌が引かれる

のである『史記』に引-

「博」そのものを現存する他

の文献の中に兄いだすことはできないがこの書き方から

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

みて伯夷

叔斉が作

ったとされる歌が司馬遷以前から

「倦」に組み込まれた形で博わっていたことは確かだろう

ところで伯夷

叔斉の歌は首陽山に隠棲し蕨を

採って暮らしていた二人が餓えに陥-死に瀕して作

った

ものというそのような状況で作られた歌が後世に博わる

というのは四面楚歌の状況に追い込まれた陣中で作られ

たという項羽の歌の場合と同じ-事賓として考えるには

いささか不自然に感じられる小川環樹氏が項羽の場合に

ついて考えたようにこれらの歌がたまたま誰かによっ

て聞き博えられた可能性を想定することはできな-はない

しかし両者に共通する滅びゆ-者が死に際して歌を残す

という場面設定は歌に込められた感情と相まって謹み

手の心に直接訴えるものをもっておりそれらが本営に事

案であるかどうか歌がいったいどのようにして侍わって

きたのかといった穿整を寄せつけないところがある小川

氏の言葉を借-ていえばわれわれはその

「イメージのと

りこ」になってしまうそしてそう感じるのはおそら-

われわればかりでな-司馬遷もまたそうであった項羽

- 15-

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 17: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中囲文筆報

第七十八冊

本紀でこそ彼は黒衣に徹しているが伯夷

叔斉の歌を引

-にあたっては「余

伯夷の意を悲しむ」とその感想を

率直に吐露Lt「此に由-て之を観れば怨みたるや否

や」と孔子の語への疑問をぶつけてもいる

このように考えて-れば「核下歌」「大風歌」について

も歌だけを項羽や劉邦の

「作品」として取り出して早漏

で考えるのではな-前後の記述の中で考えなければなら

ないだろう司馬遷自身はこれらの歌を項羽や劉邦その

人の作と考えていたかも知れないしかし彼は項羽や劉

邦の歌をどこかからもってきて他の資料と結びつけてそ

の俸記を書いたのではな-すでに歌をその中に含んでい

た俸承に基づいてこれらの場面を書いたのであるならば

歌を特定の個人に結びつけること以前に歌を前後の物語

から濁立した

一つの

「作品」として取り扱うこと自髄そ

もそも的外れだったのではなかろうか歌が物語性を帯び

ているのではな-物語が歌の背景になっているのでもな

-歌と物語は

一億のものであるあるいは歌は物語の中

の映くべからざる要素であるという硯鮎からこれらの歌

を見直すことが必要なのである

そのような歌を含む物語が陸貫の手になるという

『楚

漠春秋』に由来するのかどうかは確かに興味ある問題では

あるが今はそのことはしばら-措き物語そのものを謹

み解-ことそしてその物語において歌がどのように機能

しているかを明らかにすることにつとめたいそれは

『史記』に書かれていることをすべて事賓としてみてよい

のかそのうちの項羽や劉邦をめぐる記述が

『楚漠春秋』

とどのようにかかわるのかそもそも

「核下歌」「大風

歌」が項羽や劉邦その人の作品なのかどうかへ研究者を悩

ませてきたこれらの問いをいったんすべて棚上げにする

ことであるただしそれはテキスー論的讃解に無批判に

依接して新奇な謹みを追求することではな-ましてや賓

護的研究に背を向けることではむろんない物語の形をし

たものはまず物語の文法に沿

って謹み解いてみるという

ご-あた-まえの最も基礎的な作業にはかならない

- Jpart-

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 18: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

3

秦末漠初の歌の現れ方

『史記』の歌を含む部分を物語としてみる際注目され

るのはこれらの歌の前後の描寓には謹者を塵倒する劇

的な緊張感にもかかわらずむしろ型にはまったところが

兄い出されることであるO項羽は四面楚歌の窮状に陥って

帳の中でわずかな側近を前に

「悲歌慌概」して

「核下

歌」を歌う「歌うこと散開美人

之に和す」と愛姫

虞美人との別れを惜しみ感極まって

「涙数行下る」ほど

であったと博えられる

l方これに封する劉邦は項羽を

倒して故郷に錦を飾る晴れがましい場面で多-の知人た

ちと百二十人の子どもたちを前に自ら筑を鳴らして

「大

風歌」を歌う何から何まで正反封の場面ではあるがそ

れぞれの命運が決定づけられる場面で宴席において親し

い者を前に自分の心情を歌うという鮎で共通してもいる

おもしろいことに勝者であるはずの劉邦も歌を歌った

後では項羽と同じように

「憤慨傷懐し涙数行下る」と

いうありさまだったのである

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

この二例だけをみれば二人の英雄を封照して描き出し

た司馬遷の作為とする解樺も導かれ得ようLt事賓そのよ

うに説かれることもままあるが劉邦にはもうひとつ留

侯世家に載せる

「鴻鵠歌」というのがある劉邦は太子に

代えて愛姫戚夫人の子である如意を後嗣に立てようとす

るが四時なる老人たちの説得によって断念するもっと

も司馬光はこの話を

「癖士」の誇張と疑って

『資治通

鑑』に採っていないが

それはともか-『史記』では

如意が立てられないことが決定的になった場面で「我が

為に楚舞せよ吾

若が篤に楚歌せん」といって歌を歌っ

たことになっている戚夫人に楚舞を舞わせて劉邦自身が

歌ったというあた-項羽と虞美人の別れの場面を思わせ

るそのあと

「歌うこと敢闘威夫人嘘時流沸す上起ち

て去-酒を罷む」というから劉邦こそ涙を流さないも

のの「核下歌」の場合とそっ--である

このように歌を歌って涙にむせぶのは何も項羽と劉邦

に限ったことではない刺客列侍の剃軒も秦王暗殺の族

に出る緊迫した場面で歌を歌う

77

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 19: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

太子及賓客知其尊者皆自衣冠以迭之至易水之上

匪租取追う高漸離撃筑刑珂和而歌馬愛徴之聾士

皆垂涙沸泣又前而鵠歌日

風薫育今

易水寒

壮士

一去今不復遠

復鳥羽聾慌慨士皆隈目髪蓋上指冠於是剤珂就

車両去ー終巳不願

太子と賓客のうちで刑軒を刺客に送ることを知っ

ている者たちはみな白装束で彼を送った易水のほ

と-まで来て道租神を配って秦に向かう道についた

ところで高漸離が筑を撃ち別封がそれに和して歌

い愛徴の調を奏でると士はみな涙を流して泣いた

刑軒はさらに進み出て歌った

風粛粛として易水寒し

壮士

1たび去れば復た還らじ

さらに羽の調を奏すると気持ちは高ぶ-士はみな

日をかっと見開き髪はことごと-逆立

って冠を衝-

ほどであったこうして刑軒は車に乗って去り最後

まで振-向-ことはなかった

ここではまず高漸離の筑の音に和して別封が歌い

(その

歌詞は示されない)周囲の者がみな涙に-れる中であら

ためて

「風粛粛として易水寒し」という歌が歌われるので

あ-歌詞と涙の順序が入れ替わっているが感情が極鮎

に達した場面で歌が歌われ涙が流されるのは項羽や劉邦

の場合と同様である

ここまで類型化したものは偶然の一致とか英雄たち

の気質の相似とかいったことで説明はつ-まい司馬光が

いうような

「耕土」の誇張であるかどうかはさておき俸

承における

一つの型として解樺する方が自然であろう特

に刺客列博は司馬遷の父司馬談によって書かれていたこ

とがほぼ確害で

これらの描幕を司馬遷の史筆の妙に蹄す

るのはあたらない劇的な場面で登場人物が歌を歌って涙

を流すというのが物語の一つの型として存在していたの

だ類

型化しているのは歌をと-ま-物語だけでな-歌

IS

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 20: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

そのものもまたそうである歌によって表される感情は

項羽の場合に典型的なように悲しみや嘆きであ-また

歌の中で自らの身の上を語ることが多い項羽の歌はわ

ずか三句という短いものではあるがさきにみたように

その過去と現在を凝縮された形で歌い最後に虞美人の行

く末を思って嘆く劉邦の場合も「大風歌」はしばらく

措-としても「鴻鵠歌」においてはtのちに示すように

太子の勢力が決定的となったさまを比倫によってうたった

あともうどうしようもないと嘆-物語の時代を秦末漠

初に限らなければその傾向はますます顕著になるたと

えば伯夷

叔斉の歌もまず

「彼の西山に登-其の夜を

乗る」とその境遇を述べ「干嵯租かん

命の衰えたるか

な」と嘆息するのであるこのように自らの身の上を

語って嘆息する

「嘆き節」とよぶべき類型は先秦の歌に

最も多-みられるものである

ただし歌であっても不特定多数によって歌われるも

のは「謡」「謂」などとよばれるものと同様為政者に封

する賞賛を歌う

「褒め歌」または批判をこめた

「あてこ

『史記』にみえる秦末漢初の歌と侍説(谷口)

す-歌」とよび得るものである

(敦としてはやは-マイナス

の感情を歌う

「あてこすり歌」の方が多い)「あてこす-歌」

は特定の個人によって歌われることもあ-その場合は

多-は宴席で身分の下位のものがしばしば謎語の形を

用いて上位のものに非を悟らせる『史記』でいえば

楚荘王の前で孫叔敦の窮状を訴えた優孟の歌がその典型的

な例である「長鉄よ韓らんか」と歌って待遇改善を訴え

た鳩健

の例も宴席でのものではないがこの類型に含め

てよかろう

以上を要するに先秦の歌謡で表現される感情は悲嘆

あるいは不平というマイナスの感情であることが多-こ

とに歌い手の名が示されているものはいくつかの

「あて

こす-歌」のほかはことごと-

「嘆き節」であるといっ

てもよい劉邦が故郷に錦を飾

って歌

った

「大風歌」は

ほとんど唯

一の例外ということになる

(それすら害は不安の

表現であるとする解樺があることについてはすでにみたこのこ

とについてはのちに改めてふれる)人生には思わず歌い出

すような喜びの感情というのもあるはずだと思いたいが

19

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 21: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八放

歌という

受け手の感情に強く訴えかけるメディアには

悲しみの感情の方が親和的なのだろうか『史記』の世界

において歌を歌うほどの強い喜びを味わい得たのは天

下を統

一した劉邦ただ

一人であったともいえよう

さらに考えるべき問題は特に秦末漠初の歌として俸わ

るものは作者とされる人物に著しい偏-がみられること

である川合康三氏がこの鮎について楚調の民歌は秦末

漠初にはただ項羽

劉邦らの

「英雄」によってしか作られ

ていないと述べたことはさきにふれたが賓際には必ずし

「英雄」とはいえない人物も含まれているいまそれら

を速欽立

『先秦漢魂晋南北朝詩』に従

ってその最も早

い典様と合わせて掲げると以下のようである

(篇名は該書

に従ったため本稿での呼び方と異なるところがある)なおへ

作者の示されない

「謡」およびそれに類するものは除いて

ある刑

別珂歌

(『史記』刺客列博tr戦闘策』燕策)

琴女

琴女歌

(冠hellip丹子』下『史記』刺客列侍正義引

『燕

丹子』)

漠高帝劉邦

歌詩二首

「大風」(『史記』高租本紀)

「鴻鵠」(『史記」留侯世家)

楚覇王項羽

(『史記』項羽本紀)

美人虞

和項王歌

(『史記』項羽本紀正義引

『楚漠春秋』)

四時

(『御覧』五七三引

「荏埼四時頒」同五〇七引

『高士俸』)

採芝操

(『楽府詩集』五八引

『琴集』)

戚夫人

春歌

(『漢書』外戚俸)

趨王劉友

(『史記』呂后本紀)

城陽王劉章

耕田歌

(『史記」賛悼恵王世家)

これらの歌の作者とされる人物はその信悪性はしばら

く措-として

一見してわかるように項羽

劉邦と彼

らをめぐる人物が多数を占めるこのことを項羽と劉邦

がともに楚人であることと関連づけ『楚餅』の文学的俸

続が中央に持ち込まれ新たな文学の興隆をもたらしたと

説く文学史が多いことはさきにもふれたしかしこれら

20

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 22: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

の歌を眺めると戚夫人の三言

五言による歌や城陽王

劉章の四言の歌など必ずしもいわゆる楚調のものばか-

ではない他方「吾

(戚夫人)が馬に楚歌せん」と

いって歌われる劉邦の

「鴻鵠歌」は今

字を用いぬ四言で

あるつま-句型や今字のあるなしといった外形から

それが

「楚歌」であるかどうかを判断することはできない

ましてや

『楚鮮』との関連を云々するにはまだ検討すべ

き問題が多-残されているのである

項羽や劉邦の関係者の歌ばか-が残されていることに関

しては王者とその周達の人物の作であったからこそ幸

いにも博承されたという

一廉合理的な解稗が可能ではあ

るしかしむしろ注目すべきはここに名の挙がる人物が

すべて刑軒の秦王暗殺未遂楚漠の封決あるいは劉邦

死後の劉氏と呂氏の抗争に関わる人物である鮎だいずれ

も『史記』のなかでも劇的に緊迫した場面を特に多-含

む部分である歌の現れるのが劇的に盛り上がる箇所であ

ることへそこに強い情緒が表現されることを考えるなら

戦国漠初の歴史を彩るこれらの大事件はそれに関わった

『史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

人物の歌を交えて極めてエモーショナルな物語として俸

えられていたことになるそこで以下に章を改めてこれ

らの歌を含んだ物語についてよ-具標的に考えてみたい

歌からみた項羽

劉邦俸説

0線借的考察「易水歌」と刑軒侍説

項羽と劉邦の物語について考える前に線億的考察とし

て刺客列博の刑軒の話をと-あげ物語における歌の機

能について考えておきたい別封の話は歌を含む物語の

うち項羽

劉邦と時代も近-故にみたような内容上の

共通鮎もあるまた項羽や劉邦の話が非常に長大であ

る上相互にからみ合

ってお-特に劉邦については漠

の朝廷に停わった記録文書のような他の要素も大幅に混入

しているとみられるのに暫し刑軒の話は比較的短-ま

とまってお-他の要素の混入も少ないように思われ全

鰹像をとらえやすい

さきにふれたように刑軒の話には刑軒が秦王暗殺に

- 21-

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 23: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

出かける前にうたったという歌が含まれているこの歌に

は題が示されていないが習慣に従い

「易水歌」とよんで

お-「風粛粛として易水寒し

壮士

一たび去れば復た還

らじ」というわずか二句の短いものであるが刑軒の心象

風景とも受け取れる荒涼たる易水を背景にその決死の覚

悟をうたったものと

1鷹は鑑賞できよう刑河は衝の人で

あ-歌が歌われたのは燕であるにもかかわらず来貢は

この歌をも

『楚餅後語』に採録Lt「其の詞の悲壮激烈

楚に非ずして楚観るに足る者有-」という「楚に非ず

して楚」という言葉には単に楚調であるという以上に

楚人である項羽や劉邦の

「核下歌」「大風歌」との共通性

が意識されていたのかもしれない

ところでこの劇的な場面は刑軒の侍の前から三分の二

ほど進んだところに現れるのだがいろいろな意味で刑軒

侍の節目というべき場所にあたっているこれよ-前の部

分では別封はおよそ刺客らしいふるまいをみせない蓋

轟ににらまれすごすごとその場を逃れてしまったかと思

えば魯句稜にも同じような目に遭う燕に来てからも

高漸離と酒を飲んではう歌った-騒いだ-挙句に泣き出

したり「穿若無人」にふるまうばか-

一方その人とな

-は

「沈床として書を好む」ともいわれ田光の紹介で燕

太子丹にまみえてからもなかなか行動を起こそうとはし

ないそもそも秦に行-ことになったのもいっこうに出

費しない刑軒にいらだった燕太子が秦舞陽を先に行かせ

ようとしたのに怒

って「僕の留まる所以の者は吾が客

を待ちて輿に供にせんとすればなり今太子之を遅Lとす

れば請う解決せんと」と半ば喧嘩別れのように出費す

るのであるこのいささかじれったいような重苦しい展開

は「易水歌」の後では

一樽して直ちに秦の王宮での決

戦の場面とな-刑軒の敗北と死秦の燕

への侵攻と破

局に向かって

一気に突き進んでゆく

この急展開は「易水歌」において刑軒の決死の覚悟が

表出されたことがきっかけになっているそれまでの別封

はけっして自らの胸中を吐露することがないいつまで

も出費しないことを燕太子丹にとがめられてはじめて自

分には待ち人がいるのだと打ち明けるがそれがいかなる

- 2_7-

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 24: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

人物であるかは明かされず燕太子に理解を求めていると

は到底言えない「易水歌」においてはじめて刑軒が燕

のために覚悟を決めていることが明らかになる刑軒は

「易水歌」を歌うことでようや-ただのゴロッキから刺

客になったのである

さらにこの歌の内容やこの場面の記述があとに清

く悲劇的展開を先取りしているということも指摘しておき

たいこの歌は別封の決死の覚悟をいかにもそれにふ

さわしい状況でうたったものとひとまずは受け取れるだ

が別封停全膿をひとつの物語とみれば秦に行

ったまま

締らぬ人となってしま

った別封の運命を線言しているとみ

ることもできな-はないそこまで探謹みしないとしても

これまで伏せられていた別封の心中が明るみに出ることで

そのあとにただならぬ出来事が起きるということを務感さ

せるものだとはいえようこのように「易水歌」は刑

軒の作品というよ-別封の物語の鉄-べからざる構成部

品というべきものなのである『文選』がこの歌を収める

に際し別封の物語の

一部を切り取

って序としているこ

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

はこの歌が物語の中においてはじめて機能するというこ

とを端な-も示している

別封の事件は『史記』に収められる以前から贋-世

に知られたものであったがそこにはtのちに

『燕丹子』

のような小説を生み出す素地が晩にあったようだ刺客列

侍の質では燕太子丹が秦に人質にとられていた際「天

粟を雨ふらせ馬

角を生ず」という超自然現象が起こっ

たと俸えられることまた別封が秦王を傷つけたという史

書と異なる侍承があったことを指摘しそれらを批判して

いるそして秦王狙撃の場に居合わせた夏無且と交遊の

あった公孫季功

董生の二人に直接話を聞いたとして自

らの記述の異音性を主張するにもかかわらず刑軒侍の

記述には物語として周到に構成されたあとがある別封

が飲んだ-れていた頃からの友人である高漸離は刑軒が

いよいよ秦に出費する際には

「易水歌」にあわせて筑を鳴

らし別封が殺され燕が滅ぼされたあとには楽人として

始皇帝の宮廷に入-復讐を試みるなど全髄にわたって重

要な役割を果たしているまた刑軒が秦に出馨するまで

- 23-

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 25: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文筆報

第七十八冊

の間には

彼を燕太子に紹介した田光と燕に亡命してき

た秦の将軍焚於期とが相次いで自らの命を差し出して

秦王打倒への思いを刑軒に託しいやが上にも緊迫感を盛

-上げるおそら-『史記』に載せる別封の侍は公孫

季功と董生の話を参考にして質にいうような不合理な話

を排除するなどの編集はされているものの大筋としては

昔時の物語的侍承にのっとったものだったのであろう

「易水歌」はその中にあって物語を悲劇的結末に向

かって動かす鍵としての機能を果たしているのである

-

「核下歌」と項羽侍説

この刑軒の話を雛形として項羽と劉邦の物語について

も歌のも

つ機能を考えることができる項羽の場合

「核下歌」を歌う前に軍事的劣勢は奴に決定的になって

いたその意味では「易水歌」のような形での物語の轄

換を示しているとはいえないかも知れないしかし「核

下歌」もまた項羽の物語を動かす鍵となっているとい

うのは「核下歌」の前と後とで項羽の人物像が百八十

度愛化しているからである

すなわち「力は能-鼎を虹げ才気は人に過ぐ」とい

う人並みはずれた能力始皇帝を見かけて

「彼取-て代ゎ

るべきな-」と豪語した倣慢不遜威陽の秦官を三ケ月消

えないほどの猛火で焼き操った横暴非道それら非人間的

なまでの強さを見せていた項羽は「核下歌」において

「時に利あらざれば雄逝かず」という現賓を初めて認め

「雄逝かざれば奈何すべき」という昔惑を初めて露呈する

つづ-

「虞や虞や若を奈何せん」の句では愛姫への思い

が示されるのだがそれは彼がそれまで決して見せなかっ

た人間的な思いやりでもあるしかし初めてあらわにさ

れたその感情はそれまでの英雄としての項羽にはおよそ

ふさわし-ない無力感に伴われているそしてこの歌の後

での項羽は「天の我を亡ぼす」と線-返すばか-の運命

論者に愛わってしまい悲運の最期に向かってなすがまま

に押し流されてゆ-刑軒が

「易水歌」を歌うことで刺客

として力強-生まれ愛わったのと封照的に項羽は「核

下歌」を歌うことで英雄としての力を失

ってしまったの

- 27-

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 26: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

であるしかしいずれの場合も歌は人物の秘められた

感情をあらわにすることで物語に決定的韓換をもたらす

とともに悲劇的結末を先取-するものとして機能してい

ることに違いはない

もう

lつつけ加えるなら「核下歌」を境に項羽本紀

の筆致そのものも項羽に封して同情的になる核下を八百

鎗人で脱走した項羽の軍は漠軍に追われ途中道を尋ね

た農夫にまでだまされ東城に至

ったときにはわずか二十

八騎になっていた観念した項羽は「諸君をして天の我

を亡ぼし戦いの罪に非ざるを知らしめん」として漠の

数千騎に戦いを挑み数十百人を殺すというおよそ現賓

とは思えない戟いぶりを見せるこの話の俸承者たちは

この希代の英雄に簡単には滅びてほし-ないと願ってい

るかのようであるそして烏江にいたると亭長が船の支

度をして待

ってお-「願わ-は大王急ぎ渡れ」と聾をか

けるしかし彼はまたも

「天の我を亡ぼす」を口にする

かつて江東の子弟八千人を率いて西へ向かったのが今

1

人も掃

って来ないのでは江東の父兄に合わせる顔がない

『史記』にみえる秦未漠初の歌と博説

(谷口)

彼はそう言って愛馬の雄を亭長に譲

ってしまうのだ江

東は項羽が挙兵した地であるから項羽を支援する勢力も

賓際にあったかもしれぬが重要なのはむしろ気に入ら

ない相手は片端から殺してきた項羽が第二の故郷ともい

うべき江東を目前にしてはじめて人の同情を受けるとい

うことそしてそれを断

ってしまうことであるその後ま

たもや

一人で漢軍数百人を殺すという奮闘を見せるが敵

陣に古なじみの呂馬童を見つけると自分の首には懸賞が

懸かっているそうだからおまえに恵んでやろうといって

自剃するかつての非情な英雄は愛姫への思いを口にし

た後自らに同情的な旗揚げの地を再び踏むこともな-

今は敵となった奮友に情けをかけつつその眼前で息絶え

る「核下歌」よ-後の記述は他者

への同情に充ち満ち

ているがそれらが通い合うことはついにないそれは

抗いがたい運命に押し流される項羽に封する停承者たち

のついに満たされることのない同情を投影したものでも

あるのではなかろうか

ところが項羽本紀の質は前半では項羽が

「重睦子」

2J

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 27: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文筆報

第七十八冊

であ

ったという不思議な俸承まで引いて-

それは司馬遷

には珍しいことだ彼にとっては受け入れられる範囲のこ

とがらであったのかはたまた項羽のあま-に華々しい前

半生にさすがの司馬遷も神秘の念を抱いたのだろうか

-

項羽の急速な興起に感嘆しながら後半では項羽が

自らの失敗を天のせいにばか-していることを批判してお

り本文の筆致と正反射になっているさきにふれたよう

に吉川幸次郎氏は項羽本紀の宿命論者としての項羽像

は「核下歌」をもとにして描き出されたと考えていたふ

しがあるが「天の我を亡ぼす」と繰-返す項羽は「核下

歌」の後になって初めて現れるものでありそこでは同情

的な筆致をもって措かれていて論費の批判的な論調と合

わない賓はこのように博の本文と論質とが食い違う例は

『史記』にはい-つもあるのだが項羽本紀について考え

得る最も合理的な解樺を述べれば司馬遷は本文におい

てはそれまでの博承を尊重して記述しながらも論質では

猪臼の硯鮎から項羽を論評したということであろう

項羽本紀ほどの長大な篇幅をもつ巻ともなれば史料の

来源もさまざまであったと思われる項羽に関わった多数

の人物の行跡を編年してゆ-ためには相普な史料の集積

と整理が必要だったはずでその苦労は

「秦楚之際月表」

という形で克明に残されているとはいえ項羽本紀全腰

を見渡せばそこに一貫した筋書きを兄いだせるのもまた

事案であ-それが断片的な資料の集積から導かれたもの

とは考えられないおそら-司馬遷の前には超人的な

意志と能力でのし上がった英雄が人智を越えた天に押し

流されて滅びゆ-姿を項羽への哀惜の念をこめて語る博

承があったのである項羽侍説がそのようなものであった

なら窮地に陥

った彼が

「天の我を亡ぼす」と線-返すば

か-で「その失敗をみずからの軍事上政治上の能力の

不足に結びつけ」ようとしないのはむしろ普然であろう

そして

「核下歌」はその中にあって項羽の人間としての

感情を表出することで超人的な英雄であった項羽を

l人

の人間に引き戻す機能を果たしまた哀惜の情をいやが上

にも盛り上げる役割を掩

っていたのであろうところが司

馬遷はそうした物語の文脈を無税して項羽の行動だけ

20

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 28: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

に注目して論許したためにそのあま-に蓮命論的な態度

を批判することになったのである

附-虞

『史記』では項羽が

「核下歌」を数回繰-返した後

虞美人がそれに

「和」したといっているこれだと虞美人

は項羽とともに

「核下歌」を歌ったようにも謹めるが張

守節の正義に引く

『楚漠春秋』には虞美人が自ら作

った

という歌を収める

漠兵巳略地

四方楚歌聾

大王意気壷

焼妾何柳生

購 大 四 漠妾 王 万 兵

巳に地を略し

楚歌の聾

意気壷-

何ぞ柳生せん

もしこれが陸貢の撰と俸えられる

『楚漠春秋』の侠文

であるなら司馬遷以前の項羽博承にすでに歌が組み込ま

れていたことの謹接になるのだがこの歌についてはかね

「史記』にみえる秦末漠初の歌と俸説

(谷口)

てから疑問視する聾が絶えないまずなぜ司馬遷はこの

歌を

『史記』に採らなかったのかという疑問が残るこれ

については天下の行方を述べた本紀の記述に愛姫の歌

は必要ないとする判断が働いたという

一席筋の通った想

定が可能であるしかしそもそも秦末漠初にこのように

った五言詩が存在したかどうか疑わしい

楊合林氏は漠初以前にも五言詩の萌芽的なものがあっ

たことは認めつつ虞美人の歌がそれらとは性質を異にす

ることを指摘するすなわちこのころの五言句は句中

に必ず

「以」「干」「之」などの虚詞が用いられる鮎「誰

謂」「何以」などきまったフレーズを繰り返す鮎二つの

野照的な封象を封比して詠みこむことが多い鮎など民歌

の単純さを備えているが虞美人の歌にはそれらがみられ

ないのである

歌の真備を棚上げして物語における機能について考え

てみても『史記』には虞美人について項羽の歌に和し

たという以上のことは何も書かれていないのだからそこ

のこの歌をおいたところで「核下歌」をなぞる以上の意

27

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 29: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

味はもたない

内容を見ても「核下歌」のように人間

を超えた

「時」の力に言及するわけでもな-軍に状況を

措いて結句において自らの思いを述べただけであ-そ

の単調さもまたこの歌の存在の軽さを荒しているかのよ

うである少な-とも

『史記』の文肱に即して見る限-

この歌はあってもな-てもかまわないのであるこの歌は

むしろ

『楚漠春秋』について考える際に何らかのヒント

を輿えてくれるように思われるがそれは本稿の範囲を超

えることであるのでここでは問題の指摘にとどめる

2

「大風歌」と劉邦停説の樽折

さて劉邦の

「大風歌」はどうかというと「核下歌」と

は封照的な場面で歌われているにもかかわらず歌の前後

の場面措菊が驚-ほど似ているのは故に述べたとお-で

あるのみならず「大風歌」白檀の内容も「核下歌」と

封照的な鮎をむろん含みつつも「核下歌」が項羽の人生

のダイジェストであったのと同様劉邦の人生を凝縮した

ようなところがある

「大風起こ-て雲飛揚す」についてはこの歌を収めた

『文選』の注に三つの解梓が示されているまず李善注

は「『風起こりて雲飛ぶ』は以て葦兇競逐して天下乱る

るに愉うるな-

といい群雄割接の混乱を比愉するとす

る次に李周翰注は「風は自らに愉え雲は乱に愉うる

な-」というさらに

『文選集注』に引-陸善経注は

「『風起こる』とは初め事を起こす時に愉え『雲飛揚

す』とは従臣に峨う

といい風を劉邦自身の比除とす

るのは李周翰と同じだが雲を自らの臣下の比倫とする

吉川幸次郎氏は「大風」という語が暴風を意味すると

ころから「みずからの興起を暴風にたとえたと見るのは

安首でない」としてまず李周翰と陸善経の説を退けるが

李善の説でも十分ではないとして次のように論を展開す

るこの歌は項羽の

「核下歌」と方向こそ反封だが同

じょうに境遇の激賛に野する感動から作られたものである

境遇の激賛は天の懇意を感ずる機合である「大風起こ

-て」とは世の中全鰹が天の窓意によって暴風のよ

うな激しい混乱と動揺に巻き込まれたことを比瞭するので

3S

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 30: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

はないか「雲飛揚す」はその天の悪意によって偶然に

も輿起し得た自らの幸福を祝福するのではないかあるい

はそのように何かを具髄的に比愉するというよ-「天

の懇意を感じ得べき動揺の雰囲気」を示唆するのではな

いかtと氏はさらに劉邦が晩年病に伏した際自らが

天下を取ったことも今こうして病に倒れたこともとも

に天命だと述懐したエピソードを引き劉邦は「天の窓

意をみとめ人間はその支配下にあると意識する人物で

あった」と論じる

「大風歌」を

「作者」劉邦と直接には結びつけない本稿

の立場からは自らを暴風にたとえるのが不適普であると

いう理由で李周翰と陸善経の説を退けることはできない

川合氏が指摘するように風と雲は『易』の

「雲は龍に

従い風は虎に従う」を介して龍と結びつ-が龍と劉邦

との結びつきは『史記』高租本紀冒頭の感生譜

からすで

にみられるのであるただ風と雲を単に劉邦自身を比愉

したものとみる必要もまたないのであって「大風起こ-

て」が世の中全健の混乱と動揺を表現するという吉川氏

『史記』にみえる秦未漠初の歌と倦説

(谷口)

の見方はやは-安富なものと思われる「雲飛揚す」が

自らを祝福するものかどうかはともか-秦滅亡後の群雄

の出現を象徴したものとみて不可はないだろうこの句は

「核下歌」の冒頭と同じ-それまでの物語を凝縮したも

のとみてよいただ「核下歌」の

「力は山を抜き気は世

を蓋う」があ-まで項羽自身のことを述べるにとどまる

のに封Lt「大風起こりて雲飛揚す」はtより大きな状況

そのものを表現しているのであ-しかもそれが風や雲と

いった天象を用いてうたわれるところにこの状況が天意

によって起こったという意識を謹み取ることができるた

だしここで劉邦が境遇の激愛に感動して天の窓意を感

じたと考える必要はなかろう自らの病を天命と嘆いたエ

ピソード

(これについてはのちにふれる)を参照する必要も

まだないここに措かれるのは不穏ではあるが力強い天

でありこの句はうその天によって起こるべ-して起こっ

た今の状況を象徴するものとしてひとまず理解できるの

ではないか

つづ-

「威は海内に加わりて故郷に締る」が劉邦の現

29

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 31: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

在を示すものであることはいうまでもなかろうただ

「核下歌」の第二句において「時に利あらずして匪逝か

ず」と自らを超えた

「時」の存在が言及されそれが

「馳逝かざれば奈何すべき」という首惑へとつながってゆ

-のに暫し「大風歌」では現在の自らの状況が単純に述

べられるにとどまる鮎第

1句とは逆の意味で「核下

歌」と封照をなしている

ならばかつてその解樺をめぐって論争が行われた結句

「安-んぞ猛士を得て四方を守らん」はどのように謹

むべきなのだろうか「大風歌」に不安を謹みとる論は

奴に引いた小川環樹氏の論にみるように結句が反語で始

まることを論蝶のひとつにしてきたここでは吉川幸次郎

氏の言葉を引-ことにする「この強気のように見える

行が「安ず-にか」或いは

「安かでか」と問いかけの

言葉を以て起こることはそれ自僅不安をふ-んでいる

問いかけの言葉は

疋した答えを得がたいものである

「猛士を得る」ことの可能を信じ希求しっつもその困難

を思っているのではないか

」氏はまた劉邦がこの歌を

歌った後涙を流したのも「この歌が悲哀の要素を含むか

らではないか」

という

一方「大風歌」を得意の絶頂の

歌とする桑原武夫氏はこの

「安」を単純に反語による強

調とみなし「四方を守るべき猛士はそもいず-にいるか

いうにや及ぶそれはほかならぬお前たちだお前たちが

いるかぎ-おれは安心しておれるさあ

一しょにどんど

ん酒をのんで元気よ-合唱しようといったのである」

と解する劉邦の涙についても「人は感動するときtと

-に酒の入っているときそうした泣き方をするものなの

であ-そのさい歌の内容など探-反省することがない」

とみる

しかしこれまでみてきたように「大風歌」は「核下

歌」と随所に鋭い封照を見せながらも歌の外形や構成は

非常に似通っている両者ともに第

一句で自らの来し方

を述べ第二句で自らの今にふれたのち行-末を思う気

持ちを反語形で述べているこれまでの議論は「大風

歌」の

「安」の一字にこめられた

「作者」劉邦の心境を追

うことに心血を注いできたためか「核下歌」と封比する

- 30-

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 32: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

第一句 (過去) 第二句 (現在) 結び (未来)

反語核下歌 強力な自己 天意への敗北

無力な自己大風歌 強力な天意 勝利した自己

にしても項羽

と劉邦との境遇の違いに関

心が向けられて

いたしかしここで注目

すべきは「大風

歌」「核下歌」それ自鰹の

共通性と封照性

ではなかろうかここまで

に述べてきたことを園式化して示し

てみよ

う(上表参照)

こうしてみれ

ば「大風歌」はと-あ

えずは文字づら

通-に劉邦の得意の表現

として謹んでお

-のがよいように思うた

だしそれは劉

邦が内省的な人物でないか

らでも酒が入

っていたからでもない項

羽の

「核下歌」

やのちに劉邦自身が歌う

ことになる

「鴻鵠

歌」で悲哀と絶望が表

現されること

との封比において「大風

歌」は歓喜の表

現であるべきなのである

「大風歌」に不

安を謹みとろうとする論者

もこの歌が歓

喜の歌として

「核下歌」と

封比されるべきものであることまで否定し

ようとしたわけではなかった

たとえば吉川氏も「安-

んぞ猛士を得て四方を守らん」

という句それ自膿は何と

しても猛士を得て天下を守るの

だという強い意力の表現

として謹まれるべきであると

いったんは認めている反

語で結ばれているという形式上

の共通鮎に内容上の共通

性を謹みとろうとするよりも

むしろ

「奈何せん-いかん

ともしがたい」というあきらめ

と「安-にか得ん=

どう

にかして得たい」という意志という内容上の封比を

こそ

みるべきであろう

ただそのように全膿を歓喜

の表現としてとらえるにし

ても「大風歌」の結句には

まだ問題が残されているよ

うに思えるそこに表出される

猛士を得てこの天下を守

-たいという願いは天意とは

かかわらぬこの世の王者

としての思いである上の表に

示した

「核下歌」との封照

からいえば「大風歌」の結び

にはもう

一度天意

への言

及があってもよさそうに思える

がそうはなっていない

一句で天意の高揚をうたい

第二句で自らの帝国の成立

を寿いだ劉邦だが結句におい

ては天への感謝を述べる

-31-

「史記』にみえる案

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 33: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

でもな-

天への信頼を宣言するでもな-はたまた天へ

の所-を捧げるでもな-「猛士を得る」という硯賓の問

題それも自分

一人では立ちゆかぬ問題の前に取-残され

たような格好になっている劉邦は項羽と封照的に天に

支えられて現在の勝利をかちえたのだがその天は婿乗を

語る結句では姿を滑しているのであるこうしてみれば

これまでの研究者がこの歌に不安の影を謹みとろうとした

のも理由のないことではない

もっとも結句における天の不在によってた

「大風歌」に不安の感情が宿るとするのは早計であ

問題は「大風歌」に不安が戒されているかどうかではな

-むしろこの歌を劉邦侍説の中に戻してみたときど

のように機能するかということである歓喜の頂鮎で歌わ

れたはずの

「大風歌」の賂束への決意を述べたはずの結

句において天が姿を消してしまうそのこと自膿の劉

邦俸説全膿の中でもつ意味が問われなければならない

ここでいったんこの歌を離れ前後の

『史記』の記述を

もう

一度たどっておこうこの歌が作られたのは高租十二

年十月項羽を破

ってから鉦に七年近-の月日がたってい

るその七年の間には韓信や彰越らかつての味方を謀

反の疑いで諌殺しているそもそも今回の掃郷も准南王

等布の反乱を伐

った蹄途に立ち寄

ったものでありしかも

このとき蘇布はまだ劉邦の手に落ちておらず別に牌を遣

わして追わせているのである天下の頂鮎に立

ったとはい

えいやむしろそのゆえに彼は天下を保つことに常に腐

心し積けなければならな-なったのでありその終わりの

ない-

あってはならない-

道のりの造かさに思いをい

たすこともあったろう「大風歌」を作

ったときの劉邦は

桑原氏がいうほどには

「得意の絶頂」ではなかったのだ

一方で「大風歌」の不安を論ずる際にも見落とされ

ていることがあるように感じられるそれはこの歌が締

郷に際して作られたということの意味であるこのときの

ほしいまま

宴は「悉-故人父老子弟を召して酒を

し柿中の

晃を蓉して百二十人を得之に歌を敬う」という盛大なも

のであった劉邦は自ら作

った

「大風歌」をもこの百

二十人の兄童合唱隊に歌わせたというその後も十数日に

ー j2-

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 34: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

わた

って

「活の父兄諸母

故人日々飲を禦

み確を極め

奮故を道い

て笑柴を為す」

という歓待が績い

た「故人父

老子弟」「父兄諸母故人」という

家族的な温かいつながり

の中で歌を歌い昔の懐かしい話に笑い興ずるこの宴は

高租本紀の中でも最も心和む場面であるそれは君主と

しての緊張の日々から解放されたひとときでもあるこの

歌はただ項羽に勝って

「威

海内に加わる」ことを記念

するのではなくこうして久しぶ-に

「故郷に締る」こと

を得た自らをも祝福しているのであるあるいは劉邦は

「故郷に締る」ことによってはじめて「威

海内に加わ

る」ことを心から税いうる心境になったともいえよう

その中にもふとよぎる影があるとすればそれはいった

いどのようなものなのだろうかその答えは「大風歌」

を歌い終わって涙を流した劉邦が自ら語っているように

思われる

荘子悲故郷吾錐都開中寓歳後吾魂塊猶禦思柿

且朕自活公以諌暴逆逐有天下以活為朕湯休邑復

F史記Jにみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

其民世世無有所輿

さすらい人は故郷を懸Lがるものだわしは開中に

都を置いておるが高年ののちにもわしのたましいは

やは-柿を懐かし-思っておるだろうそれに朕は柿

公であったころから暴虐の徒を抹殺しその結果天下

を取るに至ったのだそこで浦を朕の湯休の邑とし

その民には租税努役を免除し代々にわたって御役御

免といたそう

「遊子故郷を悲しむ」と諺でも引くように

一般論と

して語りながらも長安に都する自らを

「遊子」として意

識し故郷を懲し-思う気持ちをこぼしているそしてそ

れが故郷を離れての述懐ではな-故郷で歓待されてい

るそのときに馨せられている鮎がまた注意をひくいまこ

こでこそ懐かしい人々と笑い興じているが自分はいつま

でもここにとどまることはできず長安に戻らなければな

らない「故郷に締る」と歌ったことがかえ

って

「四方

を守る」という自らのつとめを思い出させたのであるも

- 33-

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 35: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中隊文学報

第七十八冊

ちろんそれは天下を取った者だけに許される尊い任務で

あるしかしいま故郷を離れれば簡単には戻

ってこられ

ないだろうこれが最後になるかも知れない-

事賓最

後になってしまったのだが

という思いもあったにちが

いや自分は奴に故郷を離れ開中に都する身だ

とえ

天下の頂鮎に立とうとも故郷を捨てた

「遊子」で

しかないのだ--

功成-名遂げて故郷に錦を飾る高揚感天下を統治する

重責をしばし忘れて故郷の懐に抱かれる解放感そこにふ

とよぎる影がもしあるとしたらいまここにあるはずの幸

福な故郷が賓はもう自分の居場所ではないという感覚で

はなかろうかこのような思いに名をつけるとしたら不

安というよ-は感傷とよぶ方がふさわしい劉邦が涙し

ヽヽ

た場面の

「憤慨傷懐」という語はそのようにこそ謹まれ

るべきだろうもっともこのような感傷が「大風歌」

そのもののうちに表現されているかというと疑わしいそ

れはこの歌そのものにひそむ感情であるというよ-も

幸福のうちにこの歌を繰-返し繰-返し歌ううちにふと

わき出た思いなのではなかろうか

しかし劉邦の心中を付度するのはう本稿の目的ではな

い問題はむしろ故郷に錦を飾るということが劉邦侍

説の中でもつ意味であるここでも劉邦は項羽と鮮明な

封照をなしつつも強い共通性をも帯びているのである

項羽も劉邦も覇権を確立した後に故郷に掃っているの

は同じだが項羽が故郷の彰城に都をおいた際劉邦の里

鍾-のように幸福な場面があるわけではないそれどころ

か「人言えら-楚人は休猫にして冠するのみと果た

して然-」と酷評されている物語としてみたとき項羽

にとって意味をもつのはむしろ旗揚げの地としての江東

の方である「核下歌」を歌ってからの項羽はひたすら

江東に向かって逃げのびその地を目前にして通い合う

ことのない同情の中で日割する項羽が烏江の亭長の援助

を断る際の次の言葉は彼の江東

への思い入れを語るもの

ではあるまいか「籍

江東の子弟八千人と江を渡-て西

たと

するも今

一人の還る無し縦

江東の父兄憐れみて我を

王とすとも我何の面目有-て之を見ん」項羽は「父

- 34-

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 36: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

兄」の待ち受ける心の故郷に「子弟」を失った自分が締

るのを潔しとしなかったのであるOか-して項羽の物語

は囲満に閉じられることを得なかった囲環として語られ

るのであ-そのことが強い悲劇性をもたらすところが

劉邦は天下統

一の偉業を成し遂げ「故人父老子弟」の

待つ柿に締

って歓待されるのであ-その意味では彼の

物語は「大風歌」を歌って感涙にむせんだ時鮎でいった

ん完結してしまっているならばそのあとには首然それ

までとは異なる展開が待ち受けているのでな-てほならな

4ヽ0

ここにおいて劉邦が

「大風歌」を歌って涙を流した後

の言葉が改めて注目される「遊子故郷を悲しむ吾

中に都すと錐も寓歳の後吾が魂塊は猶お柿を思うを楽

しむ」賓にこの場面においてこそ劉邦の口から初めて

感傷的な言葉が漏らされるのである桑原氏流にいえば

大きな仕事を成し遂げて心許せる故郷に掃ってきたのだか

らしばし感傷に浸ることがあっても何の不思議もないと

いうことになろうOLかしへ「核下歌」において項羽が初

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

めて愛姫への思いを口にLtそのことが物語を悲劇的結未

に向けて突き動かしていたことを思えばここでの劉邦の

感傷的な言葉には注目せずにおれないこのあと柿を湯休

呂にすると宣言した箇所では「朕」という王者専用の一

人稀を用いているのに勤しここでは

「吾」という個人と

しての1人稀を用いている鮎にも注意しておこう

そしてもう

一つ「寓歳の後」すなわち自らの死後のこ

とがここではじめて劉邦の関心にのぼるもちろんここ

でのこの言葉は自分は決して故郷を忘れないということ

の誇張された表現でしかないここでの劉邦の言葉自健に

不吉なものを謹みとる必要はないそれは「大風歌」の

結句に不安を謹みとるに及ばないのと同じであるしかし

自らを

「遊子」と規定した上での感傷死後

への言及と

「大風歌」の後に現れた新しい要素は劉邦の物語がそ

れまでとは違う方向に展開するのを複感させるに十分であ

るそ

のうえに「大風歌」結句の天の不在ということを重

ね合わせればその新しい展開というのはどうもあま-

35

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 37: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

明るい方向ではなさそうに思われてくるいささかうがっ

た見方になるが「大風歌」についてこれまで論じられて

きた不安なるものは賓は歌い手たる劉邦の不安ではな-

この話はこの先どうなってしまうんだろうという物語の

受け手の側の不安だ

ったのかも知れない

3

「鴻鵠歌」と劉邦倖説の結末

劉邦の侍説は高租本紀だけでな-多-の臣下の博記

の中に分散して現れるがその結末について考えるとき

留侯世家の記事を見逃すわけにはいかない張良は劉邦の

最も重要な腹心の

一人であ

ったがtLかしまさにいつも劉

邦につき従

っていたためにその俸記である留侯世家には

概して物語的な起伏が乏しいたとえば彼は鴻門の倉に参

加しているが留侯世家にはと-あえず項羽に頭を下げ

てお-よう劉邦を説得する言葉が見えるのみで鴻門の骨

の折の具健的な記述はな-「語は項籍の事の中に在-」

というひと言で片づけられてしま

っているちなみにこう

したハイパーリンクのような手法は『史記』には十数箇

所みられるがその多-は始皇帝

項羽

劉邦に関連する

人物に用いられているこのこともまた留侯世家の内容

がもとは楚漠の戦いをめぐる長編博説から切-取られた

ものであ-張良はそこでの脇役でしかなかったことを示

していよう

か-して淡々と綴られる留侯世家も後半にいたって劉

邦の後嗣問題に話が及ぶと俄然精彩を増して-る劉邦

は晩年戚夫人を寵愛し再三にわたってその子の如意を

太子に立てようとするが結局は

「四時」なる四人の長老

に説き伏せられやむな-断念するこのことが高租本紀

ではな-留侯世家に載

っているのだがいうまでもな-こ

れは本来劉邦博説のひとこまであ-張良が

「四時」の招

請にあずかったためにここで述べられているにすぎない

さてここで特に注意を引-のはさきにもふれたよう

にこの一段において劉邦がまたも歌を歌

っている鮎だ

司馬光がこの

一段を疑

っていることはさきにみたがい

そのことは顧慮しない

ー 36-

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 38: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

鴻鵠高飛

一撃千里

羽翻巳就

債権四海

横絶四海

昔可奈何

難有贈赦

筒安所施

鴻鵠高く飛び

一撃千里

羽蘭巳に就き

四海に横絶す

四海に横絶すれば

首に奈何

すべき

贈敵有-と錐も

筒お安-に

か施す所あらん

ここでは千里の天に昇ってゆくのは太子でありまた

その母の呂后でもある劉邦は戚夫人とともにへ地上に取

-残されてしまうかつて

「威は海内に加わる」とうたっ

た英雄がここでは彼らの

「四海に横絶」せんとするさ

まを指をくわえて見つめるばかりであるそして後半四

句では「核下歌」の項羽と同じように「皆に奈何すべ

き」とうろたえるしかない結句は

「大風歌」と同じよう

「安-んぞ」という反語を用いるがここでの反語は

むしろ項羽の

「核下歌」と同じように状況をどうしよう

もないというあきらめの響きをも

って用いられているち

なみに来貢はこの歌をも

『楚辞後語』に収めその

「意

「史記』にみえる秦末漠初の歌と博説

(谷口)

象粛索」たる結びが「大風歌」と全-似ないことを述べ

ている

このようにへ「鴻鵠歌」はちょうど

「大風歌」を裏返

したような作りになってお-その結果

「核下歌」に近い

ものになっている歌の前後の措寓が

「核下歌」の場合と

似通っているのもうなづけるところである「大風歌」を

含む

一節では「核下歌」と対照的な形で劉邦の絶頂が

強-印象づけられたのだがここではかつての自らの絶

頂との封比において現在の己の無力が映し出されるので

ある

天下に君臨した劉邦がただ

一つ意のままにできずに終

わったのが戚夫人との子の如意を太子に立てることで

あったこのこと自性は呂后や臣下たちとの間の政治的

問題であ-本来はどこまでもこの世の問題であるはずだ

しかし劉邦に引導を渡したのは「四時」といういささか

仙人のような風貌をもった長老たちであるし彼らを招い

た張良も導引や騨穀に関心を示し「願わ-は人間の事

を弄て赤松子に従いて瀞ばんと欲するのみ」と口にする

ー 37-

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 39: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

この話にはどこか神仙のにおいがまといつき劉邦と戚夫

人だけがこの世に取-残されている

のちの武帝が博説の世界においてはめでた-仙界入-

を果たし『漢武内俸』のような書物が生み出されるのに

封し劉邦は結局はただの人としてこの世を去らねばな

らないのであった天下を統

1したこの偉大な英雄の晩年

は少なくとも俸承に見る限-では必ずしも幸福なもの

ではなかったようだ「鴻鵠歌」は劉邦が天意の後ろ

盾を失

ってただの人になってしまったことの宣言として

機能しているのである

「鴻鵠歌」のもつ意味をふまえれば高租本紀の劉邦

が病に伏した際のエピソードもよ-理解できるように思

われる劉邦は浦に錦を飾る前に准南王蘇布を攻めて

いるがその際流れ矢にあたったことがもとで長安に戻

る道中で病を得た長安に締って呂后が警者を呼び診

察を受けたところ治せるという診断だったが劉邦は意

外にも尊者をののしって次のように言う「わしは

一介の

庶民から三尺の剣をひっさげて天下を取ったのだこれは

天命ではないか命は天にこそあるのじゃ届鶴のような

名撃がいたとて何の役に立つものか」

そして治療をさせ

ずに金をやって締らせてしまうのである

このエピソードについて吉川幸次郎氏が劉邦の

「天

の窓意」に封する意識を謹みとっていることはさきにみた

これに封しては堀敏

一氏のように天命は

「決して宿命

を意味するのではな」-「天を信じて人々は行動し自

分の力をつ-すのであるその結果が天命なのである」と

し「天下をとるまで全力をつ-した」劉邦が自らの死

期を悟

って「そのことは天にゆだねるほかない」と述べ

たものとする見方もできようただ物語としてみたとき

重要なのは項羽の場合と同じように天命に封する諦念

が劉邦自身の口から語られていることだ嘗療によって首

座の命をつないだところで人はいつかはこの世を去らね

ばならない天下を取った劉邦といえどもそれを逃れる

ことはできない劉邦を天子にまで押し上げて-れた天も

永遠に彼に味方して-れるわけではないのだここにおい

て劉邦も項羽と同じように天命を口にLtこの世にお

38

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 40: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

ける努力を放棄する運命論者の相貌を帯びて-る

このエピソードは高租本紀では故郷に錦を飾

って

「大風歌」を歌ったあとまもな-現れるがここに現れる

劉邦の姿は病を得たとはいえ「大風歌」の時とはあま

-にも異な-いささか唐突の感を免れない劉邦は

「大

風歌」を歌った後で感傷的な言葉をもらしてはいるがそ

れは全膿としては幸福に包まれたものであった両者の落

差は留侯世家において

「鴻鵠歌」が歌われ劉邦がただ

の人でしかないことが明らかになる場面を間にお-ことに

よってはじめて説明がつく

ふりかえれば「大風歌」は確かに劉邦の歓喜の歌で

はあったがtLかしこの歌を境に劉邦が天意の支えも

な-故郷を離れ死に向かってさすらう

「遊子」でしか

ないことが次第に明らかになる「核下歌」のように鮮

やかな轄換ではないがひそやかにしかし確賓に歌は

物語を悲劇に向かって突き動かしているのだそしてその

悲劇がもはや避けられないものとなったとき「鴻鵠歌」

が歌われるのである「大風歌」において文字づらとは

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

別の次元において指し示されていた天の不在が「鴻鵠

歌」においてついに顕在化するそれよ-後の劉邦は

「核下歌」を歌った後の項羽と同様の無力な存在でしかな

lO

i

劉邦が世を去ったのは高租十二年の四月「大風歌」

を歌ってから半年後のことであった

4

劉邦侍説と呂后博説をつなぐもの-戚夫人の歌

劉邦の晩年の失意を象徴する

「鴻鵠歌」は呂后の専横

を諌示するものでもあった劉邦の博説は劉邦の死に

よって完結するものではな-そのまま呂后の俸説に接積

するそして呂后の俸説も戚夫人劉友劉章の三首の

歌を節目として展開してゆ-0

まず戚夫人の歌は彼女を寵愛した劉邦が世を去-呂

后による戚夫人への復讐がなされるところに現れる歌の

前後の記述もあわせて引いておこう

高組崩意帝立へ呂后烏皇太后乃令永巷囚戚夫人

- 39-

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 41: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八筋

覚紺衣緒衣令春戚夫人春且歌日

子馬王母馬虜

終日春薄暮常輿死為伍

相去三千里常誰使告女

太后聞之大怒目乃欲伶女子邪乃召龍王諌之

高租が崩じ恵帝が立った呂后は皇太后になると

永巷の役人に命じて戚夫人を囚え髪を剃-首かせを

はめ赤い服を着せて臼抱きをさせた戚夫人は白

梅きながらこう歌った

子は王たるに母は虜と為る

せま

終日春きて暮れに薄-常に死と伍と為る

相去ること三千里昔に誰をして女に告げしむべ

太后はこれを聴いて大いに怒

っていった「おまえ

は自分の息子に頼る気かね」そこで趨王を召し出し

て諌殺しょうとした

戚夫人の没落は「鴻鵠歌」が歌われた時鮎で奴に決定

されていたとはいえその傍らにはまだ皇帝劉邦がいたの

だったそれが今や彼女は頼るべき息子である趨王如意

とも引き裂かれて

一人囚われの身とな-罪人の赤い服を

着せられ穀物を拍-という姫女の努働をさせられている

この歌では後ろ盾を失

った戚夫人の落ちぶれた姿とその

心情が歌われかつて皇帝の歌に合わせて舞

った姿と鮮や

かに封比されるそしてそれを呂后に聴かれたことが契機

となって如意暗殺計葦が動き出すのであ-物語を動か

すものとしての歌の機能をここにもみることができる

ただしこの歌にはこれまでみてきた歌と同列に扱え

ないところがある項羽や劉邦の歌は「時に利あらざれ

ば維逝かず」「大風起こりて雲飛揚す」「鴻鵠高く飛び

撃千里」など人智を超えた

「天」の存在を連想させる表

現をもっていたが戚夫人の歌にはそれがな-ただ自ら

の身の上と心情を歌うのみであるそして何よ-この歌

『漢書』外戚侍が初出であって『史記』には収められ

ていない『史記』で詳し-述べられるのは呂后に召し

出された如意を行かせまいとする趨相周昌の言葉や結局

- 40---

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 42: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

は長安に出てきた如意を自ら先回-して清上に出迎え

呂后の凶手から守ろうとする恵帝の行動の方であるすな

わち『史記』は戚夫人よ-も如意に焦鮎を普ててこの

一段を語っていることになる

劉邦が自らの死期を悟

って嘗者を追い返した話はさきに

ふれたが呂后はその後で相園の粛何にもしものことが

あったら誰に代わ-を務めさせるべきかと劉邦に尋ねて

いるその問いのあま-の執鋤きにさすがに劉邦も

「お

前の知

ったことではない」と話を打ち切ったこのエピ

ソードからもうかがえるように呂后の物語は天下を

った項羽と劉邦の物語の後を承け劉邦亡き後の権力の

蹄趨を語るものであるそこでは呂氏と劉氏の抗争が主

題となるのであるからここでの中心人物はあ-まで呂后

と如意であ-戚夫人はtのちに

「入鹿」として無惨な姿

をさらすことになるとはいえへ所詮は脇役にすぎない戚

夫人の歌に

「天」が現れないのもう彼女が結局は劉邦につ

き従うのみで自ら天意と封決する存在ではなかったこと

を示すそれはさきにふれた虞美人の歌に

「天」が現れ

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

ないのと同じことである

戚夫人が脇役であることその歌が

『史記』には現れな

いことから推すとこの歌は本来の博承にはな-『史

記』から

『漢書』までの間の停承の過程で附加された可能

性も考えられな-はない漠初においては呂氏と劉氏と

の抗争は生々しい記憶であり呂后の侍説もあ-まで権力

争いとして語られていたのに勤し前漠も末期になると

むしろ呂后と戚夫人との女の戦いとして語られていた可能

性は大いにあるましてや外戚の権力が槍し宮廷内で

の抗争が政治に大き-影響していた時代にあってはなおの

ことであるそのような脈絡の中で物語における戚夫人

の地位が向上し彼女をめぐる歌物語が抽入されたという

のは十分あ-得ることである

『史記』では軍に戚夫人を囚えたとのみあるのが『漢

書』では罪人の服を着せ穀物を鳴かせたという先帝の

愛姫に姫女の努働である杵鳴きをさせるというのは話と

してはおもしろいが賓際に行われたかどうか疑問なしと

しないLtそのような境遇におかれた戚夫人がすぐに杵

41

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 43: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文筆報

第七十八冊

鳴き歌を作

ったというのも話として作られた感をぬぐえ

ないちなみにこの歌は三言と五言の句から成るが杵鳴

き歌に起源をも

つといわれる

『萄子』成相篇が三言

七言の組み合わせで成

っていることを考え合わせれば

賓際の杵鳴き歌の旋律によるものかとも思われるただそ

の歌詞は戚夫人の置かれた状況を説明的に述べたものに

すぎず呂后が戚夫人に杵梅きをさせたという話に合わせ

て戚夫人の境遇を杵鳴き歌の形で詠み込んだというふう

に考えられな-もない本稿は

『史記』に載せる歌の事案

性には拘泥しない立場をとるとはいえこの歌が「核下

歌」や

「大風歌」以上に物語のひとこまとして作為され

た跡を感じさせる鮎は

一膳注意しておいてよい

っともこれらの鮎から戚夫人の歌が本来の俸承にな

かったと結論づけるものまた早計である虞美人が四面

楚歌の場面のいわば彩-として唐突に登場するのと異な

-戚夫人は劉邦の寵愛と呂后の恰悪との封象として

劉邦と呂后の侍説をつなぐ重要な位置にある『漢書』に

収めるその歌も自らの凋落を鮮やかに印象づけるととも

に趨王如意暗殺計量の契機ともなっていて本来の主題

である呂氏と劉氏との抗争にも有機的に関連づけられて

いるいささか先走

っていえばこのあと如意

恢と

趨王に封じられた三人が相次いで呂氏によって死に追いや

られるのだが劉友にはのちにみるような歌があ-劉恢

も歌詞こそ博わらないが歌を作

ったというからもし戚夫

人の歌が如意暗殺の契機になったのなら三遷王抹殺のい

ずれにも何らかの形で歌が絡んでいることになるこのよ

うにみて-れば威夫人の歌が呂氏と劉氏との抗争を語

るもともとの侍承の中に含まれていたという想定も十分成

-立つか-に司馬遷が戚夫人の歌を含む俸承に接した

としても権力の蹄趨を措-呂后本紀の主題に直接関連し

ないという判断からこれを割愛したということは普然あ

-得る

一万班園が同じものを見たならば宮廷の女性

を記述する外戚博の著者という立場からは格好の資料と

してこれを収録したはずである

威夫人の歌が

『史記』には収められず

『漢書』に出るこ

とについてそれが博承の新たな展開によるものなのか

- 42-

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 44: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

呂后を本紀に列した司馬遷と外戚博に押し込めた班国の立

場の違いによるものなのかにわかに判断することはでき

ないただこの歌が「核下歌」や

「大風歌」と異なる

鮎をもちながらもやは-物語の中で機能を果たしている

ことは認められてよいだろう

5

劉友

劉章の歌と呂后俸説

如意が鳩殺された後に准陽から轄封された趨王劉友も歌

を残してお-『史記』『漢書』ともにこれを収める劉友

は呂氏の娘を后としたのだが他の官女を寵愛したために

后に謹言され呂后に召し出されて幽閉されるその際に

飢えの中で歌ったというのが次の歌である

あとろ

諸呂用事今劉氏徴

諸呂

事を用い

劉氏

迫脅王侯今彊授我妃

王侯を迫脅し

彊いて我に妃

を授-

我妃旺炉今轟我以悪

我が妃

奴に炉み

我を]う

るに悪を以てす

『史記」にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

護女乱囲今上曾不審

我無忠臣今何故弄囲

自決中野今蒼天拳直

干嵯不可悔今寧蚤自財

烏王而餓死今誰者憐之

呂氏絶埋骨託天報仇

議女

園を乱すも

上は曾ち

宿らず

我に忠臣無きか

何故に園を

弄つ

中野に自決せん

蒼天

直を

挙げよ

子嵯悔ゆべからず

寧ろ蚤-

自財すべきを

王と為-て餓死すれば

誰か

之を憐まん

呂氏

理を絶つ

天に託して

仇に報いん

- 43-

呂后はこの事件の前年

(呂后六年)には少帝を幽殺し

常山王劉義を帝位につける

(この際劉弘と改名)など専権

の限りを蓋-していたそのような状況で劉氏の王が呂

氏に追いつめられて落命するという事件が起きたのである

この歌はまさに呂后の絶頂と劉氏の危機を象徴するもの

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 45: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中囲文学報

第七十八冊

としておかれている

しかしこの歌が象徴するものはそれにとどまらない

『史記』はこの後に積いて呂后七年正月己丑に日食が

あったと記す劉友が幽死した十二日後のことである呂

后はそれを嫌悪Lt心楽しまず周囲に

「此れ我が馬な⑲

-」これは自分に向けられたものだともらしたという

この不吉なエピ

ソードは歌の結句の

「呂氏

理を絶つ

天に託して仇に報いん」と呼癒しやがて乗る呂氏の失脚

を線告するものともみることができようこの歌は呂氏

の破滅と劉氏の勝利という結末を先取-するものとしても

機能しているのである

ちなみに劉友のあとに梁から韓封された劉恢もう劉友

と似た運命をたどった同じように呂産の娘を安らされた

上呂氏の従官たちに見張られて心理的には幽閉状態に

あった恢も呂氏の后を愛さず他に愛姫がいたのだが

后によって鵠殺されてしまう恢はその死を悼んで歌詞四

章を作-禦人に歌わせたというそして最後には悲し

みのあまり自殺するのであるただし彼が作

った歌の歌詞

は博わらない

幽閉という密室状況で作られたとされる劉友の歌が俸わ

り章際に宮廷で歌われたはずの劉恢の歌が残らなかった

というのは皮肉なことであるが歌が俸えられるために物

語の支えが必要であ

ったことをよ-示している劉友の歌

はその身の上を楚調の形で述べたといった膿のもので

劉友が賓際に歌

ったものかどうかはかな-疑わしいにも

かかわらず王が幽殺されるという衝撃的な事件とその

すぐ後におこった日食に結びつけられ劉氏の危機を象徴

するものとして残ることができた

一方劉恢の歌は四

章から成

ったというからある程度まとまったものであっ

たはずだが事件を語る物語との強固な結びつきをもたな

った

ために

『史記』にもとどめられずやがて散供し

てしま

ったのであろう

さて劉友の歌と封照的な位置にあるのが同じ年に歌

われた城陽王劉章の

「耕田歌」である斉悼恵王世家に

よれば宋虚侯であった二十歳の劉章は劉氏が用いられ

ないことに不満を持

っていた呂后との宴合の席で自ら

44

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 46: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

が長安の宿衛であったことにかこつけて

「軍法を以て酒を

行う」ことを申し出「太后の篤に耕田歌を言わんことを

請う」といって歌ったのが次の歌である

深耕概種

立苗欲疏

非其種者

鋭而去之

A「ノ

深-耕し種を概え

苗を立て疏せんと欲す

其の種に非ざる者は

組きて之を去る

「其の種に非ざる者」が劉氏に非ざる者たる呂氏をさ

すのはいうまでもない呂后はこれを聞いて欺-込んだと

いうこのとき呂氏のうちの一人が酒に酔って逃げ出し

たのを章は軍法によって斬-殺したこれ以降呂氏の者

も章を悼-大臣たちまでもが彼についたので劉氏は力

を噂したと

『史記』は記しているこのあとには翌年呂

后の没後に呂氏討伐の兵が興ったことそして劉章がそこ

で大きな役割を果たしたことが述べられるのであ-この

エピソードにはその伏線としての意味がもたされている

『史記』にみえる秦末湊初の歌と倦説

(谷口)

ちなみに呂后本紀では呂后の死後斉王が兵を奉げるまで

のいきさつは省略され「語は賛王の語の中に在-」とし

て奔悼恵王世家参照が指示されている

この歌はこれまでみてきたものとは明らかに性質が異

なるさきにふれた先秦の歌の類型に照らせば他の歌は

登場人物が自らの身の上を語って嘆-

「嘆き節」であった

がこの歌は謎かけの形で特定の相手に封する批判を

述べる

「あてこす-歌」に展する

「嘆き節」においては多-の場合歌を歌った人物に

は滅亡が待ち受けている

一見例外的に見える劉邦の

「大

風歌」の場合も歌を境に滅びへの歩みが始まっていたの

だったそれに暫し「あてこす-歌」はそのような悲劇

性をもたないただ

「耕田歌」の場合に特徴的なのは

「あてこす-歌」であ-ながら滅亡の物語の中に組み込

まれている鮎であるすなわち「嘆き節」の場合滅び

ゆ-人物が歌うことによって悲劇の主人公として美化さ

れるのに封し「耕田歌」の場合歌を歌う劉章ではな-

その相手たる呂后の方が滅亡に向かうのであり歌が滅亡

45

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 47: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文学報

第七十八冊

を線示するという構園は共通しているただここでは滅

びるべき呂后ではなく自らは滅びない劉章の方が歌うこ

とによっていわば憂国の志士としてスポットライトが首

てられているのである

っとも「耕田歌」が歌われてすぐに呂氏討伐の兵が

ったわけではな-劉氏の賓際の反撃は呂后の死を得

たねばならなかった翌る高后八年三月呂后が蒼犬のよ

うなものに肢を噛まれるという事件が起こる占

ったとこ

ろ趨王如意の崇-であ

ったという呂后は結局この傷

がもとで病を得て四ケ月後に死ぬのであるが日食や崇

-といった超常現象に彩られたその死は天罰というべき

ものである劉友が臨終の歌で復讐の念を託した天が

いにその手を下したのである

一万劉章は確かに呂后

の前で毅然とした態度を貫いた剛の者ではあ

ったが「耕

田歌」に天が現れないことに示されるとお-劉邦のよう

に天意を背負

った存在というわけではなかった呂后が天

罰によって死んではじめて彼らは兵を興すことができた

のである

項羽と劉邦の戦いは革に人間と人間との戦いであるの

みならず天意をめぐる争いでもあ

った天に敗れて滅び

った項羽や天に支えられて統

lの偉業を成し遂げなが

らも最後は天に見放された劉邦はそれぞれの天に封する

思いを歌の形で残し悲劇の主人公として散

っていった

それに野し呂后は天をも無みする専横の限-を蓋-した

とはいえ天に戦いを挑んだわけではない彼女は歌を

ってスポットライトを浴びることもな-どこまでも暗

黒の存在としてただ天罰を受けて死んでゆ-その後に

現れるのはもはや天意とは関係をもたずあ-まで目の

前の呂氏のみを打倒の封象とする劉章らの兵である封す

る呂氏の側も単なる敵役としてなすすべもな-滅びて

ゆ-そこには歌う悲劇の英雄が現れる鎗地はない

呂氏なきあとには諸大臣の合議によって選ばれた代王

劉恒が即位して文帝となる孝文本紀には「大横庚庚

天王と為る」という卜占を得てから即位を承認したと

すものの項羽や劉邦のような意味で天下の蹄趨が天意

によって決められていた時代はもはや過去のこととなっ

46

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 48: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

たのであった

された問題

本稿における観察は項羽と劉邦をめぐる俸承の全牒像

を封象としたものではないしかしそれでも歌が物語の

節目において滅亡の悲劇への扉を開き主要な人物そ

れもほとんどの場合は滅びゆ-人物に光を首てる重要な

機能を果たしていることは確認できたであろう別封の例

にみるように戦国末の事件のうちには漢初において

こうした歌を含む物語の形で侍えられるものがあった項

羽と劉邦の野決やそれに績-劉氏と呂氏の抗争という歴

史上の大事件も同様の歌物語的枠組の中で倖えられたの

である別封の物語は

『燕丹子』につながってゆ-Lt項

羽と劉邦の物語は

『楚漠春秋』に多-を負

っているといわ

れるがここでみた歌物語という枠組は中国古小説史の

構築にもひとつの新たな覗鮎を提供するものであろう

ただし『楚漠春秋』との関係についてはよ-慣重な

検討が必要である少な-とも歌に関する部分においては

『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

項羽はもとよ-天下を統

lした劉邦までもが死すべき

者滅びゆく者として描かれているそのような物語が

劉邦の重臣であった陸貢の手になるという

『楚漠春秋』に

出るものと簡単に結論づけることはもちろんできない

一方『楚漠春秋』の侠文にみえる虞美人の歌はすでに

みたようにその性質に疑問が残るものであった『史

記』と

『楚漠春秋』あるいは

『楚漢春秋』と陸貢とのか

かわ-についてはまだ精査すべきことが多-残されてい

るのである

さらにここでは歌物語という言葉を用いたがその用

語が果たして適切であるかどうかの検護もまだこれから

の問題であるのちの奨文や賓巻ある種の白話小説など

韻文を含みつつ展開する物語という形式は中国では普遍的

なものであるが『史記』にみるような歌を伴う物語を

その系譜に位置づけて論じることは可能なのだろうかま

たこのような歌物語を成り立たせる基盤としてたとえば

歌をその中に含む語-の斐能といったものを想定すること

もできようがそれをどこまで具膿的に明らかにすること

47

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 49: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中開文学報

第七十八冊

ができるのだろうか

『史記』の歌は確かに物語の中で

重要な機能を果たしているがその背後に歌を含む蛮能を

想定するには歌の量的な比重が小さすぎるのではないか

これらの重要な問題も今はすべて今後の研究に侯つほか

はない

本稿は『史記』に記された秦末漠初の歌とその作者の

事害性についていったん棚上げにすることでそれらの歌

に関してこれまで見過ごされていた鮎を明らかにしたこ

の時期の歌の作者に項羽

劉邦とその関係者が多いのは

楚歌の流行を示すのでも他の歌が摩滅したのでもおそら

-はな-彼らが物語の中で停えられてきた人物であ-

その中でも歌を歌うべき位置にいたからであると-わけ

さえないゴロッキから牽身して

一団の命蓮を背負う刺客に

ふさわしい決意を歌いあげた別封やわずか敷句のうちに

自らの人生と天とのかかわ-を詠み込んだ項羽と劉邦の形

象はやは-水際立

ったものがあるそれは彼らの物語が

天下の蹄趨をひいては天を問うものだったからだろう

それに比べると呂后をめぐる博説は結局は朝廷内部の

権力闘争の話にすぎないのであ-呂后の周囲で歌われた

歌がいまひとつ平板な印象しか輿えないのもやむを得な

いことなのかも知れないまた呂后がらみの歌に関して

は戚夫人が杵鳴きをするとか幽閉されたはずの劉友の

歌が博わるとか劉章が歌の前にわざわざ

「軍法」を行う

とか物語としての作為がかな-目につ-劉邦について

も四時の説得で太子廃立を思いとどまった

「鴻鵠歌」の

場面となるとそこに漂う神仙臭がいささかいかがわし-

もあるそれに封し刑河や項羽の場合さらに劉邦が

「大風歌」を歌う場面は項羽の帳中の歌を誰が博えたか

という疑問はあるにせよそれほど違和感な-物語世界に

ひたることができる物語としての叙述の洗練にもや

-それぞれに差があったという感は否めない近代の文学

史の中にはこの時期の歌のうち「鴻鵠歌」と戚夫人の

歌について侶託との疑いを示すものがある

その理由は

示されていないが「鴻鵠歌」については司馬光がこの

歌を含む

一段の記述を疑

っていること戚夫人の歌につい

てはそれが

『史記』にみえないことが直接の理由であろ

48

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 50: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

うただ想像をた-まし-すればこれらの歌の前後の物

い-らか作為が目立

つことも間接的な理由にな

るのではないか

こうしてみると『文選』が刑軒

の歌と劉邦

「大風

歌」を収め来貢の

『楚辞後語』がそれに項羽の歌を加え

た三首を探

ったことも近代においてさえそれらの歌が

それぞれ作者とされる人物の

「作品」として扱われてきた

のもそれな-に理由のあることではあ

ったのかもしれな

いしかしこれらの歌について考えられてきた作品性が

賓は歌をと-ま-物語の深みと洗練に依掘していたのだと

いうことになればそれらの歌を本来あるべき物語の文脈

の中に返してはじめてその本営の意味を明らかにできる

はずだだがそのための試みはまだ緒に就いたばか-な

のである

註①

拙稿

「『悲劇の星雲』との格闘-文学としての

『史記』研

究序説」『中国文筆報』七〇二〇〇五

『文選』では革に

「歌

一首」とのみ題している

「史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説

(谷口)

⑨⑲⑪

『楚僻後語』では

「核下帳中之歌」と遺す

『楚鮮後語』巻

1咳下帳中之歌第五羽固楚人而其詞

慌慨激烈有千載不平之鎗債へ是以薯之

同前へ大風歌第六-上破架布於曾甑遭遇沌留置酒柿宮

--酒酎上撃筑自歌hellip-此其歌正楚聾也--自千載

以来人圭之詞亦未有若是其壮麗而奇倖者也鳴呼雄哉

謝無量

『中国大文学史』(中華書局

一九

一八)第三編-

夫秦取六囲暴虐其衆四方怨恨へ而楚尤番憤欲得督以報

語目楚雄三戸亡秦必楚英気亦何盛也-於是江湖激昂

之士多好楚聾(頁

1)

同前-夫漠之滅案悪政楚之壮気文学所肇則亦楚音是

先大風之歌へ安世之柴不可謂非湊代興国文学之根本也

(頁二)

初出は

『東光』二

一九四七のち

『風と雲-中国文学論

集』朝日新聞社tl九七二また

『小川環樹著作集』(筑摩

書房

一九九七)第

一筋

前掲

『小川環樹著作集』第

l冊頁l三六-三七O以下小

川氏の文章は著作集による

初出は

『中園文学報』

11九五四のち

冒口川幸次郎全

集』(筑摩書房

一九六八1七六)第六巻

初出は

『中国文学報』二一九五五のち全集第六巻

桑原武夫

「書評-吉川幸次郎

『項羽の核下歌について』

『漠高租の大風歌に

ついて』」へ『中歯文学報』四へ

1九五六0

- 49-

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 51: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中開文学報

第七十八筋

のち

「漠高租の大風歌について」と改造し『桑原武夫全集』

(朝日新聞社

山九六八

七二)第

一審に収録o

小川環樹

今鷹巣

二相島吉彦詳

F史記列博』(筑摩書房

「世界古典文学全集」二〇

一九六九のち岩波文庫

一九

七五五冊)解説のちに

「『史記』の文学」と改造し『風

と雲』及び

『小川環樹著作集』第

一巻に収録引用箇所は

『著作集』第

1冊頁一三

〇-二二

白川静

『中国古代の文学

(二)史記から陶淵明へ』中央

公論社

一九七六引用は

『白川静著作集』(平凡社

一九

九九-)第八巻頁二九八によるなお白川氏の著書の引用

『著作集』によるが書名

篇名を

一律に

[

]で--つ

ているのは

一般的な用法に改めた

前掲

『白川静著作集』第八巻頁二九九

同書頁二九三

同書へ頁二九四

田中氏の

『史記』研究の特質についての筆者の論評は注

①前掲拙稿頁七-八及び頁

山五-

1七参照宮崎氏について

は同じく頁九-

山参照

白川前掲書頁三〇〇

同書頁三〇

一O

荘司格

l編著

『概説中園の文学』(高文堂出版社

一九八

三)頁四二-四三引用箇所は沼口勝氏の執筆である

輿膳宏

川合康三

『文選』(角川書店

「鑑賞中国の古典」

一九八八)頁

l〇八-

1〇九引用箇所は川合氏の執筆であ

吉川注⑲前掲論文引用は

『全集』第六巻頁八-

一oo

以下吉川氏の文章は全集による

『史記』に引-歌謡には多-題が附されず歌謡であるか

どうかの断-さえない場合もあるがここでは遠鉄立の分類

に従った具膿的には先秦詩巻

一(歌上)巻二

(歌下)塞

(請)に収めるもの漢詩巻

山に収める前漠の歌へそれに

巻三雄歌謡静のうち

「歌辞」に収められるものである「幾

許」「諺」「語」の類や商君列侍に引-

「逸詩」は含まない

なお漢武帝

「瓢子歌」二首は

一棟と数えた

段本紀の冒頭

「股契母目簡秋有城氏之女寅帝馨次妃

三人行浴見玄烏堕其卵簡秋取香之困畢生契」は『詩

経』「玄鳥」の

「天命玄鳥降而生商」と関連をもつはずだ

が股本紀には特にそのことにはふれない周本紀冒頭の

「安原出野見巨人跡心析然説欲践之践之而身動如学

者居期而生子以為不群弄之隆巷馬牛過者皆蹄不践o

徒置之林中へ適合山林多人遭之0両弄渠中氷上飛鳥以其

翼覆薦之葦原以鵠紳逐収養長之初欲弄之へ因名目弄O

弄鵠見時吃如巨人之志其済戯好種樹麻寂麻寂美及

為成人選好耕農相地之宜宜穀者稼穂駕民皆法則之」

は『詩経』「生民」とほぼ同様の内容であるが『詩』

への

言及は

一切な-文健も用語も

『詩』とは異なる

50

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 52: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

『呂覚』誠廉篤に引-伯夷

叔斉の言葉には紳農氏への

言及「乱を以て暴に易う」という句周徳の衰えへの慨嘆

など『史記』の歌を思わせる表現がみられるが歌の形を

とるわけではない遠鉄立

『先秦詩』巻

一頁七参照なお

『史記』索陰には

「按其博蓋韓詩外博及呂氏春秋也」とい

うが『韓詩外侍』には伯夷

叔斉が首陽山で餓死したこ

とは散見するもののそれ以上の詳しい事跡や彼らの歌への

言及は見あたらない

『資治通鑑』考異-按高租剛猛侃席非畏招紳讃議者也

但以大臣皆不肯従恐身後進王不能猫立故不寅耳若決意

欲廃太子立如意不願義理以留侯之久故親信猶云非口

舌所能事豊山林四里片言速能梶其事哉借便四聖書能梶英

幸不過汚高組数寸之刀耳何至悲歌云

「羽醐巳成給敵安

施」平若四里賓能制高租使不敢慶太子へ是留侯満子立薫以

制其父也へ留侯山豆鵠此哉此特粁士欲李大四里之事故云黙

亦猶蘇秦約六園従う秦兵不敢闘函谷関十五年魯仲連折新垣

術秦格間之御軍五十里耳凡此之類皆非事賓司馬遷好

奇多愛而宋之今皆不取

刺客列侍の質には刑軒が秦王暗殺に失敗した事件につい

てその場に居合わせた夏無且と交遊のあった公孫季功

生の二人から太史公が直接話を聞いたことが記されている

刑軒の事件からの年教を考えるとここの太史公は司馬遷で

はあ-得ず刺客列侍は司馬談の筆に出ることが知れる

『史記』にみえる秦末漠初の歌と倖説

(谷口)

滑稽列侍

『史記』孟嘗君列俸『戦国策』斉策四

野田雄史

「楚辞と楚歌-文学作品の舞墓としての楚につい

て」(『中国文学論集』(九州大学)三

一二〇〇二)は楚

歌がさまざまな

「田舎振-」の歌を漠然と指すのに射し楚

辞は東達後の禁の宮廷において作られた

二疋の形式をもつ韻

文であると説-その所論にはまだ検討の鈴地を残すが楚

歌と楚辞が簡単に結びつ-ものでないことは確かである

『楚餅後語』巻

一易水歌第三-余於此又特以其詞之悲壮

激烈非楚而楚有足観者於是録之

『文選』巻二八-燕太子丹便利珂刺秦王丹租迭於易水上

高漸離撃筑刑珂歌宋如意和之ただしこの文は

『史記』

の節録とはいえず『史記』や

『戦国策』にみえない宋如意

なる人物まで現れており何らかの別の俸承によったとしな

ければならない

楊合林

(青山剛

一郎講)「漠代禦府と五言詩七言詩の登

場」(『中国文学報』七五二〇〇八)頁三-四

風起雲飛以略筆兇競逐而天下乱也威加四海言己静也

夫安不忘危故思猛士以銭之なお

『文選集注』に引-李善

注はこれとやや異なるがここでは胡刻本によった

翰日風白幡雲愉乱也言巳平乱而韓故郷故思賢才共

守之

陛書経日風起愉初越事時雲飛揚聴従臣守四方

-51-一

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 53: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

中国文拳報

第七十八冊

思鋲安之也なお吉川民法⑪前掲論文では「越」を

「起」

に改めて樺しておりここでもそれに従った

吉川注⑪前掲論文頁三三-三七

興膳

川合前掲書風と雲といえばまず想起されるの

はへ『易経』文言博の

「雲は龍に従い風は虎に従う」であ

ろうが龍といえば高租が龍と強-結びつ-のは周知の通

-である(頁

一〇九)

其先劉娩嘗息大津之肢夢輿紳遇是時雷電晦箕へ太公社

税へ則見蚊龍於其上巳而有身逐産高租

吉川注⑪前掲論文頁三九

同前へ頁四

桑原注⑫前掲論文全集第

一審四

l四頁

瀧川魚太郎

『史記曾注考謹』にも「遊子悲故郷蓋古

詞」という

『楚鮮後語』巻

一鴻鵠歌第七-此詞卒章意象粛索へ亦

非復三侯比臭「三保」は「大風歌」が

「三侯之章」ともよ

ばれたことをふまえる

高租本紀-高租撃布時寅流失所中へ行道病病甚呂后

迎良腎嘗人見高租間馨暦日病可治於是高租娘罵之

日吾以布衣提三尺剣取天下此非天命乎命乃在天難局

鶴何釜逐不便治病へ賜金五十斤罷之

堀敏

『漠の劉邦トものがた-漢帝国成立史』(研文出版

二〇〇四)頁

一七八〇

『史記』では

「微」を

「危」に作るがへ『漢書』高五王俸

により改むここは

「徴」と

「妃」で押韻しているが王念

孫は「危」と

「妃」では韻にならないことを指摘する

『漢書』五行志下之下にこのことを引き「明年鷹ず」と

いう「雁」とは師古注に

「高后崩ずるを謂うな-」とい

うように日食によって示された凶兆が現賓となったことを

指すこのときの日食が呂后の死の確兆と見られていたこ

とがうかがえる

呂太后本紀-三月中呂后赦還過較道見物如蒼犬稼

高后扱忽弗復見卜之云趨王如意為崇高后逐病根傷

たとえば久保得二

(天随)『支那文学史』上

(早稲田大学

出版部)には「漢代の作最も古るきは高租の風起なり

これよ-先項羽に核下の歌あり

一に抜山操といふ-

呂后の時に及びては樋の幽王の幽歌あ-他に呂氏纂奪の

史的事賓に聯関して高租の鴻鵠の歌

戚夫人の春歌あ-と経

も後人の仮託に出でしやの嫌あ-」という(第二期第

一両漢文学二〇

漢詩の債値及び略評へ京都大学文学部

蔵本頁二九二)また鬼島願書郎

『支那大文学史

古代編』

(冨山房

一九〇

九)

も「核下歌」「大風歌」「幽歌」の三

篤を取-あげ高く許債した後へ「その他高租の鴻鵠の歌へ戚

夫人の春歌ありと錐も皆後人の恨託に出づるものにして必

ずしも信ずべからず」(第五期

禰縫時代

両漢文学第三

高租の創業と西漠の思潮頁五八三)という

J2

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)

Page 54: Title 「史記」にみえる秦末漢初の歌と傳說 : 荊軻・頂羽・劉 …『史記』にみえる秦末漠初の歌と侍説-刑珂・項羽・ 劉 邦・呂后を めぐ

なお久保天随の

『中囲文学史』は人文祉版と早稲田大学

出版部版とがあるが内容は全-異なるまた早稲田大学出

版部版には奥付がないが筆者が凍った京都大学文学部蔵本

は明治四〇

(一九〇七)年版と推定される該書について

は芳村弘道氏の解題を参考にした

(川合康三編

『中国の文学

史観』創文社二〇〇二「日本で刊行された中国文学史

(一明治編)」横組頁六三-七九)0

本稿は科学研究費補助金

基盤研究

(C)三五二〇三〇四による

研究成果の一部である

『史記』にみえる秦末漠初の歌と停説

(谷口)