Title 聖武開天記に就いて 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329...

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Title 聖武開天記に就いて Author(s) 石濱, 純太郎 Citation 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329 Issue Date 1944-03-15 URL https://doi.org/10.14989/145809 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 聖武開天記に就いて 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329 ......肯ほ原本の碓である。博士は進呈の歳を記しtものであらう。筑摩書房本もあって、農酉は三十二年、己卯は三十八年に営るから依ると「是編成於康煕農酉之秋、進呈於己卯之春」で

Title 聖武開天記に就いて

Author(s) 石濱, 純太郎

Citation 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329

Issue Date 1944-03-15

URL https://doi.org/10.14989/145809

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 聖武開天記に就いて 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329 ......肯ほ原本の碓である。博士は進呈の歳を記しtものであらう。筑摩書房本もあって、農酉は三十二年、己卯は三十八年に営るから依ると「是編成於康煕農酉之秋、進呈於己卯之春」で

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聖武開天記に

い`

 

察字の「聖武開天記」o名の初めて見えるのは「元史」

百三十七列傅巻第二十四〇察孚傅であって、「且詔詳帝

範、叉命詳脆必赤顔、シ聖武開天記、及紀年纂要太

宗千金始末等書、倶付史館」とある。所が清の郡遠千

の「元史類編」巻十四察牢傅では之を改めて、「且命謬

帝範及累朝起居注、名曰聖武開天紀、井述太宗千金始

末、倶付史館」として記の宇が紀の字になってゐる。

「元史類編」の中には明かに聖武開天紀として引いた

文は無いが、巻首0引用書目には聖武開天紀を載せて

あるから目堵したものに違ひない。

 

然るに清の李文田は「聖武親征録」を校注した時に元

史に抹って、「然則此卸聖武開天記。其叉名篤皇元聖武

親征旅、営由傅寫改受耳」と云って雨書は同じも0で

あると断定した。我が那珂通世博士も此説を承けて、

 

 

 

 

 

「察字0秘史より譚し出せる聖武開天記の名は後世に`

少しも聞えす、親征録の名は元代の書に少しも見えず

して、親征録の内容は秘史に本づきたりと見ゆれば、

親征鎌は印t開天記にして、筥寫の間に標題を改めら

れたりと見て誤り無がらん。清の康煕二十八年に郡遠

平0著やる元史類編に厘今の親征録の文を引きて聖武

親征記と云へり。然らば三名一物にして元の聖武開天

記は清0初に至り聖武親征記となり、乾隆中に至り聖

武親征録となりて、その上に皇元を冠らせたるなり」

と「成吉思汗宦録」の序論に述ぶるに至った。案する

に開天記と親征録とが内容の上に於ては殆んど同じ様

なものであったらう事は推測するに難くはないが、同

万物であるかは未だ確かではない。殊に「元史類編」

では親征記のみを引いてゐるが、‐用書目には判然と

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Page 3: Title 聖武開天記に就いて 東洋史研究 (1944), 8(5-6): 328-329 ......肯ほ原本の碓である。博士は進呈の歳を記しtものであらう。筑摩書房本もあって、農酉は三十二年、己卯は三十八年に営るから依ると「是編成於康煕農酉之秋、進呈於己卯之春」で

開天記の外に聖武親征紀を掲げてゐるのだから、雨書

の別物である事は明かである。固より今o親征録が穀

征紀である事は其引用文が之を鐙する。

 

清の王静安先生が「聖武親征録」を校注するに及ん

では所書o別物たる事は澄せられた。其序中に之を考

誼して云今「顧開天記鐸於仁宗時、而此録之成蹊在世

組之世。今本葵亥年王孤部下有原注云今愛不花騎馬丞

相白達達是也。考閻復高唐忠猷王碑、及元史阿剰几思

剔吉忽里傅、愛不花営中統之初已總軍事、叉其子閥里

吉思成宗印位封高唐王、則愛不花之卒必在世岨時、而

此録成時、愛不花匈存、則非察竿所鐸之開天記明矣」。

此論瞭は精確で議すべくもない。愈々以て用書o別物

なるは疑ふ可きでない。

 

親征録ぼ諸君の校注によって世に傅播やられたが、

開天記は埋没して知られてゐたいのである。或は壇滅

に蹄して了ったちうか。茲に「清吟閣書目」倦一鈴本

  

0中に其名を留めてゐる。

      

  

I聖武開天記一巻峠貼匹

 

元察

 

旱を

 

清吟閣は銭塘の崔世瑛の築く所。彼は牢見の古書を手

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如し以て日課となしたと云ふ・清吟閣妙本にして災提

客の皺があるのであるから、此本にして今に傅存して

ゐるならば、聖武開天記の賀面目を藤現し得るであら

う。此書の登見こそ期待に堪へない所である。

 

注の「那珂通世遺書」本「校正層注元親征録」による。

  

②二十八年の二の字は三の誤植だらう。郡逍乎の凡例に

   

依ると「是編成於康煕農酉之秋、進呈於己卯之春」で

   

あって、農酉は三十二年、己卯は三十八年に営るから

   

博士は進呈の歳を記しtものであらう。筑摩書房本も

   

肯ほ原本の碓である。

  

③「王忠賠公遺書」三集本による。序は別に逍書本「狭

   

堂集林」倦十六にも収録されてゐる。

  

④矣氏雙照桜刊「松鄭叢書」乙編に収ひ。

  

④楊立誠金歩浪合編「中國蔵書家孜略」(民國十八年杭州

   

刊)による。

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