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BEPPU CONJYAKU (6)

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BEPPU CONJYAKU

海岸物語り(6)

    

第三十六話●「

正義隊」誕生

    

第三十七話●北小学校の誕生

    

第三十八話●名物「

別府の生姜」

    

第三十九話●空の新婚旅行

    

第四十話 

●海門寺

    

第四十一話●内蔵助の下僕の墓

    

第四十二話●菊紋入りのカゴ

    

「別府今昔」「オオイタデジタルブック」について

    

初版

二〇〇六年四月二十八日発行

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大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(6)」

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政府はいつ転覆するかもわからない

という物騒な時代で、明治元年六月

二十日には納涼花火の中の大きな玉

の音が砲声とまぎらわしいから時節

柄、花火打ちあげまかりならぬ…と

いうような達しまで出ていた世情だ

けに洋式訓練は大きな話題を呼んだ。

 

洋式といっても幕末ごろの幕府と

フランスとの密接な関係から鉄砲は

ナポレオン三世時代、普仏戦争に使

用したような古い物ばかり、もちろ

ん制服などはなくて上衣は陣羽織、

短いマントのようなもの。下衣はダ

ンブクロというズボンにハカマの腰

板をつけたのを着用、つまり服装は

 

王政復古の明治二年、日田県令

(

県知事)

の松方助左衛門正義は治

安維持のために兵制の初歩ともいえ

る郷兵取り立て方を考えた。この命

令を受けたのは大分郡光吉村の大庄

屋であり村の世話役をしていた首藤

周三。さっそく彼が隊長になり県令

の名前にちなんで「正義隊」と名付

け別府に訓練所を設けた。

 

別府市誌などによるとこの正義

隊に参加した幹部の中に亀川の高

橋敬一、別府

の高倉定三、

古市の高橋新

治、隊員には

石垣の矢田欣

之進、中石垣

の吉良元雄ら

の名前もあり

隊員はおよそ

五十人。地方の有力者が多かった。

 

明治になったとはいえ警察署はま

だ別府とん所とよばれ警察官は羅卒、

それも明治八年までは制服もなくて

木札などぶらさげ身分を証明してい

た時代、まだ世の中が維新直後で新

「正義隊」

誕生

海岸物語り

第三十六話

●昭和三十九年十二月一日掲載

和洋折衷といったスタイル。

 

はきものはワラジが多かったが、

どこから手に入れたのかクツをはい

て得意そうな者もいた。まだ断髪令

が出ていない時勢だから女のように

オールバックの長髪を後で束ね紫色

のヒモで結んでいた。帽子などしゃ

れたものはなくバッチョロ笠のよう

なものをかむった。

 

教練は的ケ浜の砂原でオイチニ、

オイチニと鉄砲かついだ行進のケイ

コから的ケ浜の砂原に横隊に銃列を

しいて攻撃のまねをした。この教練

には太鼓と笛、ラッパの音楽班がい

つも付きそっていてラッパや笛、太

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別府駅の建設場所が北町の別府小

学校一帯ときまったのは明治四十三

年三月の町会だった。海門寺から北

町に新築移転してからおよそ三十年

たっていたわけだ。

 

鉄道の停車場に学校構内をほとん

ど取られてしまうことになった別

府小学校は移転先を海門寺浜にきめ

たが、停車場の工事の関係で追い立

てられるようなあわただしい新築工

事が海門寺の東側につづく砂原で始

まった。そして新築校舎の一部が落

成したのが明治四十五年一月十日、

同三月十一日には全校舎が完成し五

月五日落成式が行なわれた。現在の

北小学校の誕生した日である。

 

位置は現在の校舎よりもかなり南

北小学校の誕生

海岸物語り

第三十七話

●昭和三十九年十二月九日掲載

寄りで運動場のまん中あたりが校舎

のあった場所だ。学校の裏庭の境界

が現在の正面玄関前の地下を流れて

いる暗渠の小川。そのころの運動場

は駅前通りの南側までのびていた。

だから当時としては広い前庭運動場

を持った小学校だった。

 

ところがこの運動場は砂浜ばかり

で歩くのにも困った。学校が現在の

構内配置になったのは駅前通りが北

浜海岸に開通したときこの道路で断

ちきられた道路南側の校庭の替地と

して、北側の裏庭の境界を暗渠以北

の現在の線にまで拡張した。日豊線

開通という温泉都市別府にとって歴

史的な時期のなかで、街全体が活気

にあふれているとき北小学校は砂山

ばかりの北浜海岸に広々とした敷地

をもって生れた。

 

現在、電車とバスとタクシーなど

で東京なみに混雑している亀の井バ

ス本社前の国道は、北浜埋め立てが

できた大正十年以前は北小学校の運

動場で小学生の相

撲場だった。「馬

蹴り」や「王様ごっ

こ」など乱暴な

遊びで砂まみれに

なった子供たちは

千切れたソデを心

鼓にあわせて行進した。

 

教練は気合いの入ったきびしいもの

で宿舎の西法寺に引き揚げる時には鉄

砲が重く、はき馴れないクツで足にマ

メを出した勇士諸君はビッコをひきひ

きアゼ道を歩いて帰ったという。

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江戸時代の古い地図をみると流川

にそった北部地区のうち北町から行

合町を結ぶ線から海岸近くまではほ

とんどがショウガ(

生姜)

畑になっ

ている。

 

竹瓦温泉から銀座裏の周辺は全部

がその畑ばかりで「豊後国志」やそ

の他の古文書にも日本第一の生産地

とまで書かれているが、天保時代の

地図ではさらに詳しく梅園町や市役

所の周辺なども豪商たばこ屋の生姜

畑となっており、海岸の砂原には

中浜から北浜にかけて生姜をかこう

「砂倉」の列がならんでいた。

 

砂のなかに貯蔵しておいて、いつ

でも出荷できるよう出荷調整をした

わけだが石垣、亀川地区にもでき「た

ばこ屋」の荒金家が一手に買いとっ

て「

干し生姜」

にし船で大阪のくす

り問屋に送られた。漢方薬や香味料

の原料に使われたが「

別府の生姜」

は永い間、全国の主要産地として名

声を保っていた。

 

この生姜は入湯土産品にも登場、

薄く切って砂糖にまぶしたものや芽

生姜を「

ス漬け」

にしたものなどが

出てきたのは明治中期になってか

名物「

別府の生姜」

海岸物語り

第三十八話

●昭和三十九年十二月十日掲載

配しながら家に帰っていた。

 

夏は体操の時間に柵をこえて海水

浴をやったが秋になると鯨が潮を吹

いて学校の沖までやってきた。そし

て美しい渚にチドリが鳴き白いカモ

メが群れてとんだ。温泉町の遊蕩気

分とはおよそ遠い静かな小学校だっ

たが、砂浜は天与の土俵で運動競技

のなかでも相撲は大分県一、そして

大正五年速見郡内の小学校連合大運

動会というのが日出町藤原の競馬場

で開かれたとき、砂浜を走り馴れて

いる北小学校の六年生椎原静という

児童は競馬場の砂地コースで郡内一

位をとり優勝旗をもらった。

 

郡の優勝旗を手にした校長は大い

に感激、夕方別府に帰りつくとそのま

ま優勝旗を先頭に校長、全教員、児童

が校歌を唄いながら別府の町中を練

り歩いた。世はまさに平和であった。

 

校庭につづいてイリコ干し場が

あったが、そのころの卒業生のほと

んどは「学校を思えばイリコを思い

出し、イリコを思えば学校を思い出

す」…それほどイリコ小屋とイリコ

干しの風景はなつかしく、いつも図

画の時間に画材になっていた。そし

て悪童たちはこのイリコをネコのよ

うにすばやくひとつかみとってきて

はムシャムシャ食ったものだ。

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ら、今度の大戦後は、新しい土産品

のために次第に店頭から姿を消して

いったが、現在でも流川通りで古い

ノレンを誇る椎原ざぼん舗だけが新

生姜を材料にした独特の風味を持つ

砂糖まぶしの薄切り生姜を店先にな

らべている。

 

全国どこの観光地にいっても同じ

ような土産品が多くなっている昨

今、別府名物としてこの郷土色豊か

な砂糖漬け生姜に、も少しくふうを

こらすと本当の名物として古風な風

味が人気を呼ぶのではあるまいか。

 

日本一を誇った別府名物も遠く遠

洲浜松の海岸地方に名産の座を奪わ

れてしまったが、郷土史家の書いた

ものによると「

日田出身の大蔵永常

という農学者が天保十五年浜松藩主

水野越前守忠邦に招かれて別府の生

姜栽培法と貯蔵法を伝え、大阪、江

戸の薬種問屋も水野様のご気嫌とり

に運賃の安い浜松生姜にのり替えた」

となっている。江戸と大阪のまん中

に当たる浜松の方が収り引き上の立

地条件がよかったわけだ。

 

明治の末に書かれた菊池幽芳の

「別府温泉繁昌記」のなかにも生姜

畑をめぐる美しい一文がある。

 「床屋を出て町の裏へ抜けてみ

る。道は鶴見山の方へ爪先上りに

上っていく。何ともいえ

ぬいい景色だ。…名物生姜

の作ってある畝のなかを歩

くと小さな流れが紫ばんだ

暮色の間に藍のような蒸気

を立てて流れている。流れ

の上も下も見えぬが蒸気が

目じるしになるので流れの

跡はちゃんと知れる…だん

だん上っていくと田や畝の間の池

に四〇ばかりの乳房の大きな女が

十四、五の娘と乳のみ子と一〇ばか

りの男の子と一緒にその池のなかに

入っている。

 

無論、丸裸だ。驚きながら傍へ

行ってみると、それは十三

平方メートルばかりの自然

に湧いている野天の温泉な

のだ。女や娘は恥ろう風情

もない。温泉のなかには大

きな石がごろごろしていて

底が見えて澄みわたり…。

 

この野天の湯がどの辺に

あったのかはっきりしない

が、別府駅前通りの両側や流川の周

辺など海岸部に向って現在の別府の

繁華街がその畑の跡と思えば間違い

ない。明治時代、生姜を貯えた砂山

はホテルや旅館、商店街、車に埋ま

る舗道になってしまった。

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その晩長身の青年がひょっこり訪

ねてきて

 

試験飛行の帰りに大阪まで乗せ

てほしい。新婚旅行をあなたの飛行

機でぜひやってみたい」

 

この奇抜な申し出をした青年は当

時別府市議会議長の長男でそのと

き二十五歳の山田耕平(

前別府収入

役)

、ニカ月前に結婚したが飛行艇

見物に海岸に出かけたとき「美しき

十八歳のわが新妻と二人だけで空を

飛んでみたい」と空を二人で飛ぶた

のしい新婚旅行計画が心にひらめい

て矢もたてもならず、一人で決心し

てその晩の訪問となった。

 

昭和二年夏七月のある日、川西

航空が日本で初めて大型旅客機のモ

デルにドイツから買い入れたドニヱ

ワール飛行艇(十八人乗り)

が大阪

の新聞記者団や、特別招待された別

府の日名子益太郎夫妻らを乗せて別

府の沖に着水した。

 

十八人乗りというような大型機は

日本で初めてのものだけにテストパ

イロットは当時日本一の民問飛行家

といわれた後藤勇吉で日名子旅館に

投宿した。

 

大よろこびで日名子の玄関を出た

がその晩どう考えてもこの計画は無

茶なような気がするし、目がさえ

空の新婚旅行

海岸物語り

第三十九話

昭和三十九年十二月十一日掲載

て眠れない。翌日父に相談してみる

と意外にも父が大賛成、その翌日大

分市の奥さんの実家の父に話すとこ

れも大賛成、こうなるともはや中止

するわけにもいかず、美しい花嫁の

横顔を見ながら悲壮な決意のもとに

新婚旅行のあわただしい門出の日が

やってきた。

 

花嫁の実家佐藤庄太郎も大分市議

会議長、両市を代表する政界有力者

の縁組だけに北浜海岸は親類、知己

でいっぱい、しかも新婚旅行を飛行

機でやるのは日本で初めてとデヵデ

カに新聞が書き立てたため一般市民

や入湯客まで見物に押しかけた。

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的ケ浜が別名で海門寺浜と呼ばれ

ているように曹洞宗永平寺派の宝生

山海門寺は海岸の砂浜がそのまま境

内につづいていた「海辺の寺」であ

海門寺

海岸物語り

第四十話

昭和三十九年十二月十二日掲載

 

二人を乗せたテンマ船が北浜海岸

を離れようとしたとき、も一つ別の

珍事件が起こった。

 

見送り人のなかに山田と親友でこ

れも別府屈指の系図を誇る米屋旅館

の若主人堀七衛が一年前に結婚した

新妻と一緒にきていたが、堀さんが

「私も乗ってみたい」と何の気なし

に言ったことから周囲の知名士たち

が「キミたちも乗ってもう一ぺん新

婚旅行をやり直せ」とワッショイ、

ワッショイ…といった騒ぎを巻き起

こして着のみ着のままの二人を山田

夫妻と一緒にテンマ船に押しこんで

しまった。知人たちがフトコロの持

ち金をみんな出しあって急ごしらえ

の旅費を堀さんに持たせた。

 「ワーッ」という声と「バンザー

イ」という声がどよめきとなって北

浜海岸にひびきわたるなかを、テン

マ船は岸を離れ花菱の横に着水して

いる飛行艇に四人を運んだ。

 

日本一の飛行艇はやがて波を蹴立

てて走り出したがただ海上を走るば

かりでなかなか離水できず、見送り

陣をヒヤヒヤさせる一幕もあったあ

と、ようやく爆音高く東の空に飛び

立った。この時四人は窓を開けてハ

ンカテを振ったというから当時の新

鋭飛行艇も速力はあまり速くなかっ

たらしい。

 

ところが大阪天保山沖に着水した

とき数十人の新聞カメラマンと記者

が小船でどっと四人をとり巻いた時

には強心臓の由田青年もびっくり仰

天、大阪の全部の新聞が夕刊トップ

扱いで「日本で初めての空の新婚旅

行」と大きく報道、ホテルに泊まる

と女中や泊まり客まで顔を見にきた

という。「乗れば落ちる」と思われ

ていた民間航空の草分け時代を背景

にした三十七年前の話である。

る。波打ちぎわに近い弓掛け松のふ

たかかえもある太い技が根本から一

本横に曲がっていて、曲がったと

ころが砂にくっついていたので小さ

い子でも木登り遊びができたが、こ

の松の木登り遊びや、その横の砂原

の墓地のなかまで子供たちの遊び場

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になり、子守りたちもよくここに集

まった。

 

いなかから雇われてきた子守りの

なかには年ごろの者もあったので近

所の若者とねんごろになっては墓場

をデイトの場所に利用した。浜協や

別府で女遊びをするにはゼニの足り

ないアンチャンたちは子守りの「ネ

エチャン」たちを口説いて、大変安

い女遊びが墓場のかげでできたとい

う。昼間いかにさびしい場所とはい

え海門寺の墓地の広さや規模の大き

さが想像できよう。

 

旅館や料理屋稼業の多い別府の町

でも明治から大正時代に子守りを雇

う家はかなりの家庭だけにそのころ

赤ん坊だった別府の「現在の知名

士」のうち何人かは「ある時間」墓

石の側に一人おいてきぼりにされた

組である…とうがった海門寺風俗史

を伝えてくれた古老もある。

 

海門寺は戒律きびしい禅寺で、見

渡す限りの広いりっぱな墓地を持っ

ていたが故に、アンチャンたちの格

好の場所にもなっていたのだろう。

しかし北小学校が裏側に拡張してか

らはこのような昼間のけしからぬデ

イトは不可能になり、替わって悪童

たちからよく荒らされたものだ。

 

小学校の庭でボール投げをやって

いて、ボールが境内にとびこむたび

に小学生は境界の低い土塀を乗りこ

えたが、ボール捜しは表面の理由

で、寺の境内にたくさんあった夏み

かんの木は味がよくなるまでにほと

んど小学生の手で「ミカン狩り」が

行なわれてしまった。

 

土塀をこえるのをやかましくしか

ると、、「朝日にかがやく海門寺、和

尚さんの頭はピーカピカ」と塀を身

軽くこえて学校の構内に逃げ寺男を

バカにしたものだ。

 

明治四十一年二月十四日発行され

ている「海門寺由来記」によると海

門寺は初めは久光山海門寺といって

別府湾に浮かぶ久光島(

ひさみつじ

ま)

にあったが、慶長二年七月の大

地震で鶴見山が爆発、山津波で別府

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の大部分が流失したとき、久光島と

ともに海中に没したという。

 

今から三百六十七年前の「はな

し」である。

 

その後悪疫の流行と米麦の大凶

作で困り果てているとき雷州大禅

師が府内(

大分)からきて救ってく

れ、海門寺を現在の場所に再建、宝

生山海門寺と改称したのが二百八十

年前の貞亨年間のこと。りっぱ

な寺院建築ができたのが元禄五年

(

二百七十二年前)

。ところが亨和

二年(

百六十二年前)

に火事で全焼

したが直ちに復興ができたというか

ら、そのころ強力な信者門徒を持っ

ていたことがわかる。

 

戦後切った境内の一番古い巨松の

切り株の年輪を、酒好きな近所のM

食堂の主人が「先代の和尚が海門寺

は四百年たっとるちゅうが本当じゃ

ろうか」と一ぱいきげんで根気よく

一本一本数えてみたら二百八十六本

あった。宝生山海門寺と改称再建し

た年代と、この松が植えられた年代

とがピタリ一致していることを考え

ると、一ぱいきげんで巨松の年輪を

ていねいに数えた食堂の主人は歴史

考証のうえで貴重な証拠を残してく

れたわけだ。お寺側で調べてみたら

やはり二百八十六本あった。

内蔵助の下僕の墓

海岸物語り

第四十一話

昭和三十九年十二月十三日掲載

 

海門寺公園やその周辺の道路、民

家など大正時代までほとんどが海門

寺の墓地だったが、昭和初めに市側

から「この一角は市有地であるから

墓地を移転せよ」と突然通告を受け、

びっくりして土地台帳を調べてみる

と、市側のいうように寺側が登記を

してなかったことがわかり、市の主

張どおりに現在の海門寺公園とその

周辺にあった墓地を全部野口の墓地

に移転した。

 

土葬禁止令が出てまだ二十年ぐら

いしかたっていなかったので、移転

のとき大金持ちの家の墓の下からは

じょうぶな棺おけ(

桶)

がそのまま

出てきたそうだ。

 

夏になると広い日蔭をつくってく

れる公園内の大きな二本のくすの木

も墓地の中にあったものだ。松の巨

木は昔は十数本あったというが、落

雷のために枯れたり、台風で折れた

りでしだいに少なくなり、今では門

外には三本だけ残っている。

 

一本の松の根元に忠臣蔵の主人公

大石内蔵助の下僕「元助」という人

物が葬むられたという…この物語り

は豊後の国学者として有名な鶴崎の

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をとげたのち切腹したことを知り、

そのあとを追う…という意味のこと

が書き残されてあった。

 

赤穂浪士の討ち入りの話題で国内

が湧き立っていたときだけに、堀家

でもびっくり、さっそく海門寺の南

門の少し東の松の木の下にねんごろ

に葬り、小さなお墓を建てた…

 

毛利空桑の書いたものによると、

このような内容を書いた古文書が

あったということを聞いたが、残念

にもその古文書の行くえがはっきり

しない」

となっており、一部には考

証的に弱い物語りだと思われていた

ところ、米屋旅館についての古文書

毛利空桑の古文書から最近初めて日

の日を見たもので、赤穂から遠い別

府に身をかくした下僕の悲壮な運命

が物語られている。

 

時は元禄十五年(

二百六十二年前)

赤穂義士の大石内蔵助の下僕元助は

当時別府の大庄屋だった堀助之亟の

家に「林忠助」と名乗って客分の扱

いを受けていた。無口な人物だが、

代筆などしながら村民にも親しま

れ、ヒマをみては「不断枕」と題す

る日記をつけていた。その忠助が突

然短刀で割腹自殺をした。堀家で忠

助の日記を開いてみると、主人大石

内蔵助が吉良の屋敷に討ち入り本懐

や口伝調査の結果、米屋には奥州の

名刀工「宝寿」の銘のある短刀が屋

敷内のホコラに忠助の物語りととも

に伝えられているところから、空桑

の古文書と米屋の史実とを結びつ

け、この物語りに関心を持つ人たち

が南門東側の老松(

昭和二十六

年、台風の被害で切った)

の根

元を三年前掘ってみると古文書

に書かれてあるとおりに人骨が

出てきた。

 

縁は不思議なもので、忠臣蔵

で有名な大高源吾の直系の子孫

沢田義人(

関汽観光取締役=別

府市真光寺区)

がこのお墓復元

の主役を演じたことだ。沢田さんは

骨を拾い集め、折れていた墓石の復

元など、いっさいの費用を引き受け

た。

 

海門寺でも昔から「義士の墓」と

いう口伝があったのでくわしい物語

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威容を誇る山門と老松の間の白壁

の塀の道を、海門寺から出てきた

りっぱなカゴが妙見山(

銀座裏)

小道をゆっくりと通って中浜筋に

行く…まだ江戸時代のことだが、海

門寺の和尚さんは殿様カゴのような

りっぱなカゴで檀家巡りをやってい

た。カゴには十六菊の紋が入って

いた。天皇家と同じ菊の紋は永平寺

菊紋入りのカゴ

海岸物語り

第四十二話

昭和三十九年十二月十四日掲載

直末としての権威と格式を物語るも

の。

 

しかし時代の波のなかでは「

タク

ハツ」

でやっと生活を支えた苦しい

時代もあったという。それでも気位

だけは高く、ことばていねいにお願

いしないとお葬式にきてくれなかっ

た。

 

幕末のころ住職だった海門寺第

十四世の玉潤観嶺という和尚さんは

勤皇討幕運動にも参加したが、維新

後の新政府のやり方にも反対、反政

府運動をやったために捕まり、熊本

に送られて明治三年熊本で獄死をと

げた。この人は名僧の名の高かった

りの内容はわからないながら無縁墓

を全部野口原に移した時も、「義士

の墓」だけは破損してはいても、そ

のままたいせつに残した。沢田さん

は三つに折れていた石を補修、復元

し、南門を入るとすぐ右側の松の根

元に移して市の観光課に頼んで説明

文も掲示した。墓石は御影石で高さ

一メートル、横四〇センチ、厚さ

十五センチ、碑文は何も入っていな

いが、奇しくも二百六十年目に忠臣

蔵をめぐる縁故の人の手によって復

元されただけに、墓石の主人公も安

らかな眠りを得ていることだろう。

人物で画家としてのすぐれた天分も

持っていた。和尚が描いた釈迦出山

の像は現在も同寺に大切に保存され

ている。

 

狭い別府村の路地から路地を、そ

して流川の置屋街を和尚さんを乗せ

て歩いたカゴは今も本堂にちゃんと

安置されている。うるし塗り、菊紋

入りのカゴの内部は座席に両ヒジ掛

けがついていて、座席正面には違え

だなまで備えてある。貧乏しても格

式のなかに閉じこもった歴世の住職

の魂が面影を残す古寺の風格とでも

いうべきか。

 

明治末期の第十七世観孝和尚は美

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大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(6)」

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声の主で有名だった。夜は絃歌さん

ざめくために聞えなかったが、まだ

早朝で流川一帯の料理屋や置屋など

が眠りからさめない静かな朝のひと

とき、観孝和尚の美しい読経の声が

流川にまで澄み切って聞えていたと

いう。海門寺から流川までかなりの

距離だが、妙見裏一帯が海門寺から

流川までまだ家らしい家も少ない田

圃つづきで、読経の声をさえぎるも

のがなかったこともあろうが、田圃

の朝のしじまを渡ってくる読経の美

声は、流川の水くみ場に朝の水くみ

にくる女中やおかみさんたちの話題

になるほど美しい声の持ち主だった

という。

 

北小学校が隣にできてから野口、

行合方面の児童は海門寺墓地(

海門

寺公園)のなかの小道を通って通学

した。道幅が狭かったので学校がひ

けるころはこの道はラッシュアワー

で、いたずらざかりの子供たちは基

地の花をひっこ抜いたものだ。

 

海門寺公園ができたあとも山門入

口の両側の白壁塀は老松にそって残

されていたが、公園の見とおしが悪

いとかなんとか文句をいわれて惜し

くも取りのけられた。終戦直後の台

風で老松が折れ、危いので人をや

とって切っていると、新しく近所

に住んだ人で寺の歴史を知らない人

物が「海門寺が松の木を盗伐してい

る」と当時の別府市警に急報、武装

警官がトラックでかけつけるという

ひと幕もあった。

 

山門入口と東京庵との間は今は家

が密集しているが、塀をのけたあと

弓道場として利川されていたところ

だ。

 

北側の境内の空地内に春口通りに

通ずる新道を開通して、駅前通りと

北部地区とを結びつけ「新銀座通

り」と名付けているが、この通りが

数年内に新しい別府の繁華街になる

ことが期待されているだけに由緒の

禅寺「

海門寺」

がどのような姿で近

代化の波を泳ぐか、激動する観光都

市の中心点で海門寺は時勢の波に大

きくゆさぶられているといえよう。

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大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(6)」

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 オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社と学校法人別

府大学が、大分の文化振興の一助となることを願って立ち上

げたインターネット活用プロジェクト「NAN-NAN(なんな

ん)」の一環です。NAN-NANでは、大分の文化と歴史を伝承

していくうえで重要な、さまざまな文書や資料をデジタル化

大分合同新聞社 別 府 大 学

して公開します。そして、読者からの指摘・追加情報を受け

ながら逐次、改訂して充実発展を図っていきたいと願ってい

ます。情報があれば、ぜひNAN-NAN事務局にお寄せください。

 NAN-NAN では、この「別府今昔」以外にもデジタルブッ

ク等をホームページで公開しています。インターネットに接

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上がります。まずは、クリック!!!

■別府今昔

 

大分合同新聞夕刊に一九六四年

十一月一日から一九六五年十二月

四日にかけて連載された記事。明

治大正のころを知る三百六十九人

に対する取材をもとに、同紙の故

是永勉氏が書き上げた。挿し絵は

大分大学教授だった故武藤完一氏

が担当した。

©大分合同新聞社

 

デジタル版

  

「別府今昔」

海岸物語り6

  

二〇〇六年四月二十八日初版発行

  

著者  

是永 

  

さし絵 

武藤 

完一

  

編集 

大分合同新聞社

  

制作 

別府大学情報教育センター

  

発行 

NAN‐NAN事務局

     〒八七〇‐八六〇五

       

大分市府内町三‐九‐一五

       

大分合同新聞社 

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