NIHON ART JOURNAL September/October, 2012

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NIHON ART JOURNAL asks the world what the "way of art" is and endeavors to enlarge upon the artistic heart. Special feature: finding newcomers. Serial articles: Cezanne and steam railway, master makers of Goryeo (dynasty of Korea) tea cups.

Transcript of NIHON ART JOURNAL September/October, 2012

銅造半肉象

体部を三分の二を残して切断し、半肉に鋳造

する。細部は手慣れた鏨の仕上げ。両牙と尻尾

先を欠失し、全体に軽度の火傷をみるほかは健

全。前後の二脚で自立する。当然ながら不安定

で用途問題に課題を残す。現在のところ目的不

明というのが思案の果ての現状である。

大きく見開いた両眼は気力に充ちるが、痩せ

て背骨が視認されるほか、垂れる頸の皮膚や大

きく刻まれた皺も老いの姿につながって、若象

の気配はない。老いた哲学者のような象と言っ

ては言葉が過ぎようか。

恣意的な造形を感じさせるのは二本を呈す牙

と、蓮葉の葉脈のように工作された耳である。

 

象と言えば即座に普賢菩薩の白象を連想する

が、造形的にみて象座は考えられない。それで

も神性を予断させるのは、潜在のなすところだ

けではないようだ。本来の使われようを意識し

た撮影を試み、賢兄からの正解到着を待つこと

にする。

(主筆・森川潤一)

﹇表紙﹈

朴ほお

の木き

真の立華

花材……朴の木・龍りん

胆どう

・すすき・ななかまど・萩・檜扇・節黒

仙翁・檜・松・若松・秋唐松

花器……銅造薄端遊環月形耳付立華瓶(高さ三一㎝、巾三一・六㎝)

葉の色付きはじめた朴の木を直す

真しん

に立て、副そ

のすすき、

請うけ

と前ま

置おき

のななかまど、正真の龍胆、銅ど

作づくりの

檜扇、色のあ

しらいの節黒仙翁等々、花葉の形も大きさも彩

いろどりも

変化に富

んだ花材を適材適所に取り合わせ、夏から秋へ移りゆく風

情をかもしだした一瓶である。

朴の木は落葉高木で、葉が枝先に輪生状につくのが特

徴。枝をよく張り、高さ二五メートルに達する大木にもな

るが、作品に用いたような若木は、直立した梢の先に葉を

ひろげ、付き枝がまばらに出るのみの単純な樹形である。

作品は若木の樹形を生かし、直真の立華に拵えたもの。

但し、若松の直真の立華などと違い、雑木とされる朴の木

の直真の立華は祝いの席に飾ることは禁じられており、普

段の日に飾る「常つ

の花」や自分自身のために飾る「慰な

ぐさ

めの

花」や「楽しみの花」として扱われる。祝儀、不祝儀も含

め、おもて向きの席の花は、何かと定めが多く、禁忌も多

いが、常の花や慰めの花、楽しみの花では、名詮の悪い草

木や名もない花も使用でき、除真の場合は花形の自由度も

大きいという利点がある。

ちなみに、古い花書の一つ『仙伝抄』には「平へ

生ぜい

はたつ

といへども、しうげん(祝言)にいむものの事」として、

紫し

苑おん

、猿取茨、苺、芭蕉、桔梗、女郎花、萩など、三十九

種もの花材があげられている。

なお、『立花秘伝抄』では、同じ直真でも若松真など格

調の高いものを真の真の立華、笠松真を真の行の立華、「心

梅、海棠、梅もどき、水木、檜、鶏頭などの直なるを用」

いるものを真の草の立華と区分している。作品はこのうち

の真の草の立華に相当する。

華瓶・釣花入 

オークションハウス古裂會提供(69回・11月開催出品)

モノの心・形の心

日本美術随想

銅造半肉象 21×13cmオークションハウス古裂會提供(69回・11月開催出品)

3

﹇裏表紙﹈

雁がん

緋ぴ

と鵯

ひよどり

上じょう

戸ご

の釣花

花材……雁緋・鵯上戸・桔梗・秋唐松

花器……大西閑斎 

信楽釣花入(高さ一六㎝、幅二〇㎝、奥行一三㎝)

信楽焼の舟形花入に、白い小さな花をつけた鵯上戸をな

びかせて入れ、その足元を留めるように朱色の花をつけた雁

緋を挿し加えた釣花。長短二種の花材の後方には桔梗の葉や

莟、小花をつけた秋唐松をさりげなく入れて作品に奥行きや

深みをもたせている。

雁緋は室町時代から「専

もっぱら

祝儀に可用物」とされていた花材

の一つ。中国原産の園芸植物で、中国語名は「剪夏羅」であ

る。鵯上戸は秋に赤い液果をつける蔓性の野草であるが、作

者は庭に植え、好んで花材として用いている。また、花入は

三重箱に保管されている品で、内箱側面に「大西閑斎作」と

朱書してある貼紙がある。大西閑斎(正保二・一六四五〜享保二・

一七一七)は大和小泉藩主片桐石州の家臣で、石州から茶の湯

を学んだ人。後に大坂へ移住し、石州流大西派を開いた。

舟形の釣花入を用いるいけばなはすでに室町時代から

あり、「釣船」、「釣船の花」、「船の花」などと呼ばれてき

た。また器自体も釣船という。花形は、船の連想から鎖で

区切られた窓内に、帆に見立てた花材を用いたり、櫓や櫂

に見立てた花材を船の外へ垂れ下がらせて形づくることが

多く、出船や入船などと名づけて花形を違えた。これらは

各時代に共通する船の花の特徴であるが、室町時代のみは

「舟などに物をつみたる躰」や「舟にたから(宝)をつみた

るがごとし」などという花伝と共に、器いっぱいに色とり

どりの花を盛り込んだ花形絵が伝えられている。後代は花

数少なく、簡素な花形が主流である。

釣船を床の間に飾る場合は、落

おとし

掛かけ

の内側にある折釘に吊す

か、床の天井の蛭ひ

鉤かぎ

に吊るす。

(花 

・岩井 

陽子)

(文 

・山根  

緑)

(写真・西村 

浩一)

﹇表紙﹈

朴ほお

の木き

真の立華

花材……朴の木・龍りん

胆どう

・すすき・ななかまど・萩・檜扇・節黒

仙翁・檜・松・若松・秋唐松

花器……銅造薄端遊環月形耳付立華瓶(高さ三一㎝、巾三一・六㎝)

葉の色付きはじめた朴の木を直す

真しん

に立て、副そ

のすすき、

請うけ

と前ま

置おき

のななかまど、正真の龍胆、銅ど

作づくりの檜扇、色のあ

しらいの節黒仙翁等々、花葉の形も大きさも彩

いろどりも

変化に富

んだ花材を適材適所に取り合わせ、夏から秋へ移りゆく風

情をかもしだした一瓶である。

朴の木は落葉高木で、葉が枝先に輪生状につくのが特

徴。枝をよく張り、高さ二五メートルに達する大木にもな

るが、作品に用いたような若木は、直立した梢の先に葉を

ひろげ、付き枝がまばらに出るのみの単純な樹形である。

作品は若木の樹形を生かし、直真の立華に拵えたもの。

但し、若松の直真の立華などと違い、雑木とされる朴の木

の直真の立華は祝いの席に飾ることは禁じられており、普

段の日に飾る「常つ

の花」や自分自身のために飾る「慰な

ぐさ

めの

花」や「楽しみの花」として扱われる。祝儀、不祝儀も含

め、おもて向きの席の花は、何かと定めが多く、禁忌も多

いが、常の花や慰めの花、楽しみの花では、名詮の悪い草

木や名もない花も使用でき、除真の場合は花形の自由度も

大きいという利点がある。

ちなみに、古い花書の一つ『仙伝抄』には「平へい

生ぜい

はたつ

といへども、しうげん(祝言)にいむものの事」として、

紫し

苑おん

、猿取茨、苺、芭蕉、桔梗、女郎花、萩など、三十九

種もの花材があげられている。

なお、『立花秘伝抄』では、同じ直真でも若松真など格

調の高いものを真の真の立華、笠松真を真の行の立華、「心

梅、海棠、梅もどき、水木、檜、鶏頭などの直なるを用」

いるものを真の草の立華と区分している。作品はこのうち

の真の草の立華に相当する。

華瓶・釣花入 

オークションハウス古裂會提供(69回・11月開催出品)

紫し

錦きん

唐から

松まつ

の置生け

花材……紫錦唐松・しだ

花器……能野(種子島)花生(高さ二〇・二㎝、幅一三・二㎝)

花生 

オークションハウス古裂會提供(69回・11月開催出品)

撮影日:二〇一二年七月一七日

花座敷・花舞台

│京都・妙心寺大心院/町家

2

いただけるでしょう」

という下りがあるが、まさにそのとおりである。

いい茶

の条件

│魅力と見所

道具としての茶盌の条件に次いで、美しい茶盌の条件を述べる。

ここで少し断っておくが、私は茶盌を芸術品や美術品などといったたいそうなもの

でなく、しいていえば工芸品だと思っている。もちろん民芸品だなどとは思っていない。

ただ同じ工芸品のなかでも、茶盌ほど人の心を震わせるものはない。ある時は慰め、ある

時は癒し、ある時は落ち着かせ奮い立たせてくれる。茶盌は人の心を養ってくれる。それ

ならどうして、と思われるだろう。

絵画や彫刻は誰が見てもそれなりにわかる。茶盌はそうはいかない。四十年前、十雨に

茶盌を見せられた時は、私はまるでわからなかった。近頃、八十才近くになってようやく

少しはわかるようになったが、茶盌はそれほどまでに見るものの力を要求する。相当な

審美眼がなければわからないということである。

最近、ある人に、ならどうすれば良いのか、と聞かれ

て、私は、今あなたが自由に使える金の倍の金額の茶盌

を買って、毎日それで茶を点てて喫むことだ、と答えた

ことがある。マイ茶盌を持てということだ。そうすれば

その茶盌が色々なことを教えてくれる。自分の茶盌以外

の茶盌を見たとき、無意識の内に自分の茶盌が物指となっ

て、やれ大きいな、軽いな、派手だな、といったことに

はじまって、茶盌の良し悪しまでわかるようになる。

物指は精度が良いほどいいに決まっている。マイ茶盌は

無理をして良いものを持つに限る。さすればそれ以下の

ものはすべてわかるはずだ。

ところで、私は茶盌の最大の魅力は、使い込むことに

よって大きく変化することだと思っている。気に入った

いくつかの茶盌を手許に置いて、昨日はあれで喫んだ

が、今日はこれでといった具合に、毎日、茶を楽しんで

いるうちに、ふと茶盌がしっとりと落ち着いた色に

変わっていたり、手に良く馴染んでいることに気がついた時

はうれしいものだ。あれやこれやと茶盌を取り出して、

かみさん相手に茶盌談義をするのも楽しいものである。

古くから、造り手七分に使い手三分という言葉がある。造り手が七分まで造りあげた

ものを使い手が手塩に掛けて完成させるということだが、これはすべてのことに共通する。

もちろん素材がよくなければ駄目だ。いくら使い込んでも変化しないものや、使い込む

ことによって汚れていく茶盌がある。したがってそれを見極める眼が要求される。

造り手にとって、「この茶盌、使い込めば、良くなるだろうな」という言葉は、最高の

褒め言葉である。逆に、使い込まれてきた古い茶盌は、それを見ただけで、どんな人に

どの様に可愛がられてきたかがわかる。

さて茶盌の見所だが、まず最初に問題になるのが、その茶盌のもつ雰囲気だろう。大切

なのが品である。全体がよくまとまっていて違和感のない品の良いものが良い。奇を

てらったものや、陶技の稚拙なものは論外だ。仁清風のものや乾山風のものは、絵付が

それなりに熟達したもので盌形に良くあっているものがよい。

次に盌形と釉調だろう。盌形は、井戸ならこう、呉器ならこうといった風に茶盌によって

それぞれ伝わってきた形がある。それにそれぞれに約束ごとがある。よく高台を見れば造り

手の技量がどの程度かということがわかるといわれるが、

そんな大事な見所の高台一つにしても、井戸なら竹節高台

だとか、呉器なら撥高台といった風にそれぞれ決まりがある。

それがどこまで踏襲されているかということも見所だろう。

釉調も同様である。どんな土とどんな土を交ぜ合わせて、

どんな釉薬を掛けて、どれ位の温度でどれ位の時間を掛け

て焼くかということは、茶盌によっておおよそ決まってい

るが、これらは少しのことで大きく変化する。

登窯か穴窯か電気窯かガス窯かによって、同じ土や釉薬

でも違ってくる。そこで見所となるのが釉調、すなわち

陶肌と土味である。

土によっておこる石はぜ、ロクロの挽きようによって

おこる石筋や土べ筋や細筋、口切れをつづくろったべべら、

釉薬のかけようによっておこるかけはずしや釉流れや梅華

皮、それに釉薬をかけた時の手跡も見逃せない景色の一つ

である。また、窯の焚きようによっておこる灰被や火色、

窯変なども見逃せないみどころである。(つづく)

(工芸評論家・青山清)

十雨作 釘彫茶盌

5

●連載

│高麗茶

の名手

森田統・十雨の茶(2)

点て良い茶

の条件

茶盌は茶を喫む道具である。美術的な価値を云々する前に、まず、道具としての条件が

整っているかどうかが肝心である。道具であるかぎり、決まりごとや条件があるのは当然

のことだ。これらのことは、実際に茶を点ててみると良くわかる。

点て良い茶盌の条件を項目にして記すと、一に見た目、二に重さ、三に大きさ、四に手

止まり、五に水切り、六に茶点ち、七に茶映り、八に熱伝導、九に茶の流れ、十に口縁の

感触、といったところだろう。

それを一から説明すると、まず一に、茶盌は道具であると同時に食器である。したがって

見た目に清潔感が無ければならない。形や色彩、模様などが不快なものだったり、いくら

古いものだからといっても、薄汚く黴臭いものはもちろん駄目だ。

二に、大事なのが重さである。重さは実際よりは見た目にやや重く、手に取ってやや軽く

感じられるものがよい。具体的には二五〇グラム前後が良いようだ。三〇〇グラムを越し

たり二〇〇グラムを割ったのでは、重かったり軽かったりして扱いにくい。

三と四だが、まず大きさは手止まりのよい大きさ、具体的にはお点前のとき、口縁に親指

をかけ中指と薬指を高台の向う側にかけて持てる大きさが良い。大き過ぎて指が届かず

高台の中に指を入れなければ持てないようでは駄目だ。それに高台が低過ぎたり、丸くて

指がかかりにくいのも良くない。

五に、口縁が抱え込んでいたりして水切りの悪いのも駄目だ。茶筅とうしを終えて建水

に水を捨てる時、何回も振らなければ水が切れないようでは困る。

六に茶点ちだが、これこそ最も肝心なことである。茶は点てようによって随分味が変わ

る。あるお茶の師匠の家で出された茶があまりおいしかったので、思わず「おいしいです

ね」といったところ、「私はお茶をいかにおいしくいただくかを教えているんですよ」と

いわれた。「ただし、お茶や腕がいくら良くても、茶盌が良くなくては」ともいわれた。

見込みがやたら広かったり狭かったり、筒茶盌によくあるような底が平らで腰が真っ直ぐ

立ち上がっていたり、茶筅が痛むほど茶盌の肌が粗かったり、逆につるつるし過ぎて茶筅

が滑るのも良くない。見込みは茶筅とほぼ同じカーブで立ち上がっているのが、茶がママコ

にならず綺麗に泡立っておいしく点つ。

七の茶映りだが、これこそ千差万別である。しっとりと落ちついた、やや色の濃い陶肌

のものが茶の緑とよく合うようだ。薄い色の茶盌だと茶が揺れるたびに周囲が汚れる。茶

の湯のために生み出された黒楽、赤楽がやはり最も良い。次が高麗ものだが、柿の蔕が格別

に良い。

八の熱伝導だが、これは誰しもが経験していることで、熱いものを入れると熱くて持て

ないものがある。備前の陶芸家に、登窯を築いたときにその初窯で焼いたという緋襷の茶盌

を中風のマジナイだということで貰って飯茶盌に使っているが、炊きたての飯をいれると

高台まで熱くなって持てない。白湯や味噌汁などを入れようものなら触ることもできない

ほどである。

備前焼や丹波焼などは、高温で何日も焼くから堅く焼締っていて熱が伝わりやすい。磁器

も同じだ。それにくらべて萩や美濃などのものは、やや低い温度でじっくり焼くからやわ

らかく焼けて熱が伝わりにくい。高麗茶盌も同様だ。とりわけ熱伝導が低いのが、楽茶盌

である。むかしそんなこととは知らず備前焼や丹波焼の焼締めで編笠風の瓶掛を造って

もらったことがあるが、火を入れるとすぐ割れた。同じ頃に楽焼で作ってもらった土風炉

はいまだに健在である。ゆきひらや土鍋が楽でできていることからしてもうなずける。

ちなみに楽茶盌に熱湯を入れても高台まで熱くなって手に持てないということはない。

九の茶の流れだが、茶を喫もうとして茶盌を傾けて口元に持っていった時、茶が逆三角形

に流れてくるかどうかだ。茶盌の口造りがやや抱え込んでいたり、口が端反りの茶盌だった

りすると、口元で広がって茶をこぼすことになる。これは、何人かで喫み回す濃茶では

とくに重要である。

最後の十の口縁の感触だが、これは説明を要しないだろう。茶を喫む時、自然と茶盌の

口縁が唇に触れる。その時の感触が悪いようでは、もうそれは茶盌とはいい難い。

茶盌の条件を十項目にわたって説明したが、これらの条件を完璧とはいえないまでも、

大方満たしている茶盌がある。茶盌造りの名人といわれた森田統・十雨の茶盌である。

この原稿を書いていて、ふと気になって客用に手許に置いている十雨の茶盌を取り出して

その重さを計って見た。十盌あったがその内の八盌が二五〇グラムで、黄伊羅保の女性

持ちのものが二〇〇グラム、男使いの大振りの伊羅保が三〇〇グラムだった。二五〇グラム

だった八盌はいずれも二五〇グラムにプラスマイナス五グラムというものだった。信じ

られないほどの正確さである。これには改めて驚いた。

昭和五六年に大阪大丸で開かれた十雨の個展の図録の巻頭に、表千家家元而妙斎宗匠の

言葉が載っているが、その一節に

「お茶をいただける茶盌をと

一生懸命に造られた

茶盌の数々は、さぞ

皆様に楽しんで

4

外の「外光視覚」における対象の色面化と推定

できる。そしてセザンヌは、そうした影絵的な

「色面」の平面性を、従来のルネサンス的リア

リズムにおける「肉付」(固有色の明暗による

立体感表現)の立体性とは「正反対」と把握し

ていると判定できる。

確かに、セザンヌが屋外写生の際に(図1)、

そうした色面モザイクから画面を構成していた

ことは、水彩の《ローヴから見たサント・ヴィ

クトワール山》(一九〇二│

〇六年)(図2)や、

《プロヴァンスの風景》(一八九五│一九〇〇年)

(図3)等で確認できる。

そして、セザンヌはこの彩色手法に基づき、

油彩の《ローヴから見たサント・ヴィクトワー

ル山》(一九〇四│

〇六年)(図4)、《曲り道》

(一九〇四年頃)(図5)、《ローヴの庭》(一九〇六

年頃)(図6)等では、さらにその彩色密度を

高めていったのだと理解できる。

ここで興味深いことは、こうした絵画上に表

象された「外光視覚」による対象の色面化が、

「鉄道乗車視覚」による車窓風景の点描化と酷

似している問題である。そうであれば、セザン

ヌは、「外光視覚」を絵画上で追求する過程で、

「鉄道乗車視覚」をも想起した可能性がある。

例えば、《オーヴェール・シュル・ロワーズ

近郊の小さな家並》(一八七三│

七四年)(図7)

等は、その水平方向に素早い筆致で反復される

色面に、「外光視覚」のみならず「鉄道乗車視

覚」の反映も推定できる。

セザンヌの「感覚」は、多様な内容を含むと想

定されて良い。そして、一八七八年四月一四日付

のエミール・ゾラ宛書簡で、セザンヌが疾走する

汽車から眺めたサント・ヴィクトワール山を「何

と美しいモティーフだろう(註4)」と讃美して

いる以上、意識的にしろ無意識的にしろ、そうし

た「鉄道乗車視覚」がセザンヌの「実現」すべ

き「感覚」に含まれている可能性は、決して誰に

も否定することができないだろう。(つづく)

(美術史家・秋丸知貴)

図6:ポール・セザンヌ 《ローヴの庭》 1906年頃図7:ポール・セザンヌ《オーヴェール・シュル・ロワーズ近郊の小さな家並》1873-74年

図5:ポール・セザンヌ 《曲り道》 1904年頃

図3:ポール・セザンヌ《プロヴァンスの風景》 1895-1900年

図4:ポール・セザンヌ 《ローヴから見たサント・ヴィクトワール山》 1904-06年

(註1) Paul C

ézanne, Correspondance , recueillie,

annotée et préfacée par John Rew

ald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augm

entée, Paris, 1978, p. 324.

邦訳『セ

ザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編、

池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、

二五九頁。

(註2) Ibid ., pp. 122-123. 邦訳、同前、八〇頁。

(註3) Ibid ., p. 152.

邦訳、同前、一一二頁。

(註4) Ibid ., p. 165.

邦訳、同前、一二二頁。

 

ポール・セザンヌの「感覚の実現」のより詳細

な読解については、次の拙稿を参照。秋丸知貴

「ポール・セザンヌの絵画理論

│『感覚の実現』

を中心に」『形の科学会誌』第二六巻第二号、形

の科学会、二〇一一年、一五七│

一七一頁。

 

本連載記事は、二〇一一年度に京都造形芸術

大学大学院に受理された筆者の博士学位論文

『ポール・セザンヌと蒸気鉄道

│近代技術によ

る視覚の変容』の要約である。

 

また、本連載記事は、筆者が連携研究員とし

て研究代表を務めた、二〇一〇年度〜二〇一一

年度京都大学こころの未来研究センター連携研

究プロジェクト「近代技術的環境における心性

の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部

である。同研究プロジェクトの概要については、

次の拙稿を参照。秋丸知貴「近代技術的環境に

おける心性の変容の図像解釈学的研究」『ここ

ろの未来』第五号、京都大学こころの未来研究

センター、二〇一〇年、一四│

一五頁。(http://

kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/

Kokoro_no_m

irai_5_02_02.pdf

7

前四回で、私達は、ポール・

セザンヌ(Paul

Cézanne:

一八三九〜一九〇六年)の造形表現に

は、一九世紀後半当時の最先端の視覚である鉄

道乗車視覚が反映している可能性が高いことを

確認した。

それでは、セザンヌの絵画理論として有名な

「感覚の実現」は、その蒸気鉄道による視覚の変

容と一体どのような関係があるのだろうか? 

今回は、外光視覚と鉄道乗車視覚という観点か

ら考察したい。

まず、セザンヌは一九〇六年九月八日付の息

子宛書簡で、絵画制作における「感覚の実現」

について次のように証言している。

最後に、お前に言っておくが、私は画家

として自然を前にするとより明晰になる。

しかし、私の作品では、自分の感覚の実現(la

réalisation de mes sensations

)は、常に非常に

骨が折れるのだ。私は、自分の感覚に展開

する強烈さに到達することができず、自然

を生き生きとさせるあの色彩の壮麗な豊富

さも持つことができない(註1)。

このことから、セザンヌの「感覚」は、「強

烈さ」を持って「展開」し、「色彩の壮麗な豊

富さ」で「自然を生き生きとさせる」ものであ

ることが分かる。

これに関連して、セザンヌは一八六六年一〇

月一九日頃のエミール・ゾラ宛書簡で、屋外写

生における「外光視覚」について次のように説

明している。

ところで君、屋内で、アトリエで制作さ

れた絵画は全て、屋外で(en plein air

)制作

されたものに決して匹敵できない。屋外の

光景を描写する時、背景と人物の対照は驚

くべきもので、風景は壮麗だ(註2)。

また、セザンヌは一八七六年七月二日付のカ

ミーユ・ピサロ宛書簡でも、屋外写生における

「外光視覚」について次のように解説している。

ここは、太陽がとても強烈なので、私に

は、事物が白色や黒色だけでなく、青色や、

赤色や、茶色や、紫色によるシルエット

(silhouette

)となって浮き出るように思えま

す。私の間違いかもしれませんが、これは

肉付の正反対であるように思えます(註3)。

これらのことから、セザンヌは、「強烈」な

「太陽」に照らし出された事物を、その反射光

の強さから「面」(シルエット=輪郭図形)とし

て浮き出るように感受していることが分かる。

さらに、その「面」は、それぞれ「白色」や「黒

色」だけでなく、「青色」「赤色」「茶色」「紫色」

等の「生き生き」とした「壮麗で豊富」な「色

面」として享受されていることが分かる。

つまり、セザンヌ自身の「感覚」は、まず屋

●連載

─美術への新視点

セザンヌと蒸気鉄道(5)

図2:ポール・セザンヌ《ローヴから見たサント・ヴィクトワール山》 1902-06年

図1:筆者撮影 図2・図3の現場写真 2006年8月26日

6

New Viewpoint on Art Cézanne and Steam Railway (5)

In the last four chapters, we discerned the possibility that Paul Cézanne (1839–1906), in his painted representations, was influenced by the transformed vision induced by passing sceneries seen from a moving train, which is the new vision in the second half of the nineteenth century.

How, then, is Cézanne’s “realization of sensations,” one of his famous painting theories, related to the transformation of visual perception induced by the steam railway? Let’s analyze this problem from the viewpoint of the vision under sunlight and the vision from a moving train.

First, in his letter dated September 8, 1906, Cézanne wrote to his son about his “realization of sensations” in his paintings as follows:

Finally I must tell you that as a painter I am becoming more clear-sighted before nature, but that with me the realization of my sensations is always painful. I cannot attain the intensity that is unfolded before my senses. I have not the magnificent richness of colouring that animates nature. (1)

This indicates that Cézanne’s sensations are intense, develop, and activate nature by the magnificent richness of coloring. Similarly, in his letter dated October 19, 1866, Cézanne told Emile Zola about his sensation under sunlight in his outdoor

paintings as follows:

But you know all pictures painted inside, in the studio, will never be as good as those done outside. When out-of-door scenes are represented, the contrasts between the figures and the ground is astounding and the landscape is magnificent. (2)

In addition, in his letter dated July 2, 1876, Cézanne described to Camille Pissarro his sensation under sunlight in his outdoor paintings as follows:

The sun here is so tremendous that it seems to me as if the objects were silhouetted not only in black and white, but in blue, red, brown, and violet. I may be mistaken, but this seems to me to be the opposite of modelling. (3)

Fig. 1 A photograph of the scene in Fig. 1 and Fig. 2, taken by the author on August 26, 2006.

Fig. 2 Paul Cézanne,The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves, 1902-06

Fig. 4 Paul Cézanne,The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves, 1904-06

9

From this, we can understand that Cézanne perceived an object that was irradiated by intense sunlight as a “plan” (silhouette; outline figure), which stood out due to the intensity of the catoptric light. Moreover, we can judge that Cézanne perceived the plans as colored, shining plans by the magnificent richness of coloring, such as blue, red, brown, and purple as well as white and black.

In other words, one of Cézanne’s sensations is the colored flattening of an object induced by viewing it in sunlight. In this case, we can interpret that Cézanne felt that the shadow-like flatness of each color plan is in complete contrast to the solidness by “modelling” (the expression of solidity through a continuous shift in local color) in Renaissance realism.

We can surely ascertain that in his outdoor paintings (Fig. 1), Cézanne started from such a color plan mosaic to create the picture, especially in watercolor paintings such as The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1902-06) (Fig. 2) and Landscape in Provence (1895-1900) (Fig. 3).

Further, we can understand that Cézanne used this painting technique to enrich color on the surface, especially in oil paintings such as The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1904-06) (Fig. 4), Turning Road (c. 1904) (Fig. 5), and The Garden at Les Lauves (c. 1906) (Fig. 6).

Interestingly, this colored flattening of an object induced by viewing it in sunlight, which was reflected in his paintings, resembled the spotting of the object induced by viewing it from a moving train.

Thus, we can suppose that Cézanne recollected his vision from a moving train through the pursuit of vision under sunlight in his paintings.

For example, about Small Houses at Auvers-sur-Oise (1873-74) (Fig. 7) we can assume to the color plans repeated quickly and horizontally the reflection of the vision from a moving train as well as the vision under sunlight.

We should consider that Cézanne’s sensations were characterized by various aspects. Moreover, Cézanne actually praised the Mont Sainte-Victoire as seen from a moving train in his letter dated April 14, 1878, in which he says, “what a beautiful motif.” (4) Therefore, the possibility that Cézanne’s realization of sensations included the transformation of visual perception induced by the steam railway is undeniable.

(AKIMARU Tomoki / Art Historian)

(1) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 324. (English translated by Marguerite Kay, New York, 1941; new edition revised and enlarged, New York, 1976; New York, 1995, p. 327.)

(2) Ibid., Paris, 1978, pp. 122-123. (English edition, New York, 1995, pp. 112-113.)

(3) Ibid., Paris, 1978, p. 152. (English edition, New York, 1995, p. 146.)

(4) Ibid., Paris, 1978, p. 165. (English edition, New York, 1995, p. 159.)

Fig. 3 Paul Cézanne, Landscape in Provence, 1895-1900

Fig. 5 Paul Cézanne, Turning Road, c. 1904

Fig. 7 Paul Cézanne,Small Houses at Auvers-sur-Oise, 1873-74

Fig. 6 Paul Cézanne, The Garden at Les Lauves, c. 1906

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KATAGAMI Style

│世界が恋した日本のデザイン展

一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて欧

米で流行したジャポニスムに、絵画について

は、日本の北斎や広重等の天才的な個人画家

による浮世絵が大きな影響を与えたことはよ

く知られている。しかし従来、工芸について

は、その様態の多様さのために影響の全貌の

調査が遅れていた。特に、工芸の中でも、無

名の職人集団の手による消耗品である「型紙

(かたがみ)」の影響は、これまでほとんど光

が当てられてこなかった。

このジャポニスムのもう一つの知られざ

る火付役である「型紙」に、国内で初めて

着目し、国内外の約七〇か所から約四〇〇

点を集めた「KATAGAMI

Style

―世界が恋した日本のデザイン」展が、

東京、京都、三重を巡回中である。

内容は、第一章で日本における型紙の歴

史や実例を示し、第二章から第四章で英米

仏独など欧米各国の受容の展開を辿り、第

五章で現代への反映を紹介している。展示

では、日本の型紙とその影響を受けた欧米

の作品を並置する等、デザインの類似性を

理解しやすい工夫がなされていた。

本展で扱われる型紙は、鎌倉時代頃から

一千年近い伝統を持つ日本古来の染色技法

である、「型紙染」に用いる紙製の型を指

す。この型紙は、柿渋で貼り重ねて厚くし

た和紙に細かい模様を切り透かしたもの

で、型紙染が庶民男女の服飾に盛んに用い

吉川霊華

│近代にうまれた線の探求者展

線の美を追い求め、筆を「使えた」最後

の世代の最高峰の画家と謳われる、「吉川

霊華

│近代にうまれた線の探求者」展が、

東京国立近代美術館で開催された。回顧展

としては、一九八三年のサントリー美術館

以来実に約三〇年ぶりである。

内容は、畢生の代表作《離騒》を始め、

初公開作品を多数含む約一〇〇点。スケッ

チ帳三八冊、模写、草稿、資料、印章等も

展示され、実見できる機会の少なさから幻

とさえ呼ばれる霊華芸術の全体像を捉える

上で非常に貴重で有益な機会であった。

霊華作品の魅力は、その要所に配される

清華な淡彩は勿論、何よりもまずその大和

絵や東洋美術に深く学んだ古典的な線描美

にある。特に、同様に古典志向で線を大切

にする同時代の少数派の画家達と比べて

も、精緻で流麗な運筆自体が霊妙な音楽的

詩情を豊かに生み出す点を大きな特徴とし

ている。また、日本や中国の故事伝説を踏

まえた伝統的画題や、晩年の画と詩文が同

質に一体化する画風、格調高い軸装等も、

高雅な気品を醸し出している。

ただし、霊華の場合、そうした古典研究

は、単なる懐古趣味に留まらず、古典美術

を生み出した原初の心境自体を自らの創作

られた江戸時代中期から明治時代前半にか

けて、極めて精緻で意趣に富む連続模様を

数多く生み出していた。

明治時代後半以後、この型紙が染物業者

の廃業の際等に海外に大量流出する。当時、

欧米では工業化による大量生産が進む一方

で、製品には粗悪なデザインが増えてい

た。そこで、芸術性が高く機械的反復にも

適した日本の型紙の意匠図案が注目され、

アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌー

ヴォー、ユーゲントシュティールを始めと

するデザイン改良運動の触媒となり、本来

の染色の用途を超えて、平面デザインは勿

論、立体デザインをも含めた多様な分野に

影響を及ぼしていくことになる。

例えば、そうした日本の型紙の影響は、

英米圏ではウィリアム・モリスの壁紙や

テキスタイルに、チャールズ・レニー・

マッキントッシュの家具に、ルイス・コン

フォート・ティファニーのガラス工芸に、

仏語圏ではアルフォンス・ミュシャのポス

ターに、ルネ・ラリックやエミール・ガ

レのガラス工芸に、独語圏ではコロマン・

モーザーやヨーゼフ・ホフマンやアンリ・

ヴァン・デ・ヴェルデのテキスタイル等に

観取できる。現代では、英国のブリントン

ズ社がカーペットに適用する等再び流行の

兆しも見せている。

こうしたジャポニスムにおける日本の型

紙の受容は、本来の使用用途や作者の固有

名とは直接関係しない純粋に視覚造形上の

影響であったと言える。しかし、逆にその

ことは、日本人一般が持つ繊細な芸術的感

性や高度な職人的技術が世界的に普遍性を

持つことを例証するものと言えよう。日本

文化の潜在力に気付かせてくれる格好の展

覧会である。

に昇華させることで、独特の真実味溢れる

清冽で典雅な絵画世界を創出することに成

功している。「正しき伝統の理想は復古であ

ると同時に未来である」という霊華の言葉

も、その意味でこそ解されるべきであろう。

吉川霊華(きっかわれいか)は、明治八

(一八七五)年に旧幕臣の儒学者の息子とし

て東京湯島で生まれる。初め浮世絵や狩野

派を学び、明治二八(一八九五)年頃に有

職故実家の松原佐久に師事し、松原の影響

で幕末の復古大和絵派の冷泉為恭に私淑す

る。さらに、平安・鎌倉期の古絵巻等を模

写し、大和絵の豊かな筆線表現を研究する。

明治四四(一九一一)年の初出品以後は、

文展への出品を止め、孤高に研鑽を積む。大

正五(一九一六)年に、結城素明、平福百穂、

鏑木清方、松岡映丘と金鈴社を結成し、日本

や中国の古典美術の研究に邁進する。大正

一一(一九二二)年には帝展の審査員に任命さ

れるが、帝展への出品は大正一五(一九二六)

年の《離騒》ただ一度だけであった。

申し分ない経歴にもかかわらず、霊華が長

らく忘れられた存在となったのは、元々寡作

である上に、官展への出品が極めて少なく、

その作品の殆どが霊華芸術を支援した個人の

所蔵品であることが大きい。しかし、それ以

上に重要なことは、霊華が当時の画壇の主流

から距離を置き、終生独自の画道を追求した

ために美術史的評価が遅れた問題である。

当時の画壇の主流は西洋的近代化であ

り、日本画でも、視覚的造形性のみに純化

し、展覧会用に大型化し、印象派的に色彩

を重視する傾向が強かった。これに対し霊

華は、そうした西洋志向を声高に否定する

のではなく、東洋的古典画題、書画一致、

床間用掛軸、線描という失われゆく伝統の

美しさを、静かに自ら身をもって実践して

見せたのである。

そうした骨太で筋の通った画家も正しく

再評価できることこそが、本当の意味で文

化の厚みなのではないだろうか?

展覧会評◉Exhibition Review

東京国立近代美術館

 

二〇一二年六月一二日〜七月二九日

吉川霊華 《離騒》 双幅(右) 大正15(1926)年

三菱一号館美術館

 

二〇一二年四月六日〜五月二七日

京都国立近代美術館

 

二〇一二年七月七日〜八月一九日

三重県立美術館

 

二〇一二年八月二八日〜一〇月一四日

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戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

帝政ローマの重層ガラス玉、

京都の古墳で国内初発見

二〇一二年六月二一日に奈良文化財研究

所と長岡京市埋蔵文化財センターは、京都

府長岡京市にある五世紀中頃の宇う

津つ

久く

志し

墳で発見された国内最古級の重層ガラス玉

が、ローマンガラスである可能性が極めて

高いと発表した。 

ローマンガラスは、一般に帝政開始から

東西分裂までの紀元前一世紀から四世紀に

かけて、ローマ帝国領内で製造されたガラ

ス製品を指す。今回の発表は、ローマ帝国

の影響がほぼ同時代に古墳時代中期中頃の

京都周辺にまで及んでいたことを具体的に

示す点で非常に興味深い。

一九八八年に、一辺七メートルの方墳で

ある宇津久志一号墳から副葬品として、最

大で直径五ミリ、長さ五ミリ以上、中心に

一・五ミリの孔を持つ重層ガラス玉が三点

見つかる。これらに対し、同研究所が文化

財の材質分析で広く利用される蛍光X線分

析による非破壊調査を行ったところ、技法

と組成の両面でローマンガラスを示す特徴

が明らかになった。

まず、技法上は、ローマ帝国領内でよく

使われていた、ガラス層の間に金箔等を挟

み込んで装飾効果を高める「重層ガラス玉」

という高度な技法が用いられていた。また、

組成上は、溶剤にナトロン(蒸発塩)を用い、

酸化アルミニウム、酸化マグネシウム、酸

化カリウムの含有量が少なく、アンチモン

が検出される等、ローマンガラス特有の成

分を示す分析結果が出た。

重層ガラス玉自体は、日本では五世紀中

頃以後の八〇以上の遺跡で二〇〇点ほど出

土している。しかしその内、化学分析の結

果が公表されているのは六世紀中頃以降の

五遺跡一〇点ほどで、いずれもササン朝ペ

ルシアか南・東南アジアで作られたガラス

ルーヴル美術館と

東芝製LED照明

二〇一〇年六月から、株式会社東芝と

ルーヴル美術館はパートナーシップ契約を

締結して、同美術館の照明改修プロジェク

トに取り組んでいる。その内容は、既存の

環境負荷の高いキセノンランプ等を、環境

負荷の低いLED照明に置き換えることで

ある。

LEDとは、発光ダイオード(Light

Emitting D

iode

)の略で、これを利用した照

明は、供給電力の多くを発光に使うため発

光効率が高く、白熱灯や蛍光灯等の従来の

照明に対し、電力の消費が少ない。また、

真空やフィラメントを必要としないので衝

撃に強く、高寿命で保守費用も安い。さら

に、環境や人体に有害な鉛や水銀も使用し

ない。そして、低発熱で紫外線や赤外線を

ほとんど発しないので、芸術品や文化財の

保護に向いているという特徴がある。

同プロジェクトの第一弾として、まず

ルーヴル美術館の外観照明に東芝製の

LED照明が適用された。まず、二〇一一

年一二月に、ピラミッド、ピラミディオン、

パビリオン・コルベールに同社製のLED

照明が設置され、二〇一二年五月一二日に

は、ナポレオン広場全体の改修が完了した。

この改修では、建築の美観に厳しい基準

を持つルーヴル美術館が、建物外観に初め

て採用したLED照明が日本製であったこ

とが特に注目される。東芝製のLED照明

の環境的・経済的効果は高く、今回新たに

同社とルーヴル美術館が協力して開発した

専用のLED照明三五〇台を用いると、従

来比で消費電力が七三パーセントも節約さ

れるという。また、その美的効果も優れて

おり、最新技術により適切な光の量と色温

度を実現したことに加え、照明器具自体の

建物と調和するデザインがフランス関係者

の特徴を示している。これに対し、国内で

ローマンガラスと特定される重層ガラス玉

が確認されたのは今回が初めてである。

勿論、ローマンガラスが日本に届いてい

たとしても、それがすぐに日本とローマ帝

国が直接交易していたことを意味する訳で

はない。おそらく、中国等のユーラシア大

陸の様々な国々を媒介にして、極めて貴重

な珍宝として日本にもたらされたと考える

べきであろう。しかし、ローマ帝国は季節

風を利用してインドとも交易しており、今

回の重層ガラス玉は、陸のシルクロードで

はなく海のシルクロード経由で渡って来た

可能性もある。

少なくとも、品物が渡来できたというこ

とは、思想はより容易に渡来できたことを

示唆する。その意味で、例えば聖徳太子が

厩戸で出生したという伝承が、イエスが厩

戸で誕生したという伝説の影響を受けてい

たとしても特に不思議ではない。そうであ

れば、日本のグローバルな文化交流は、既

に古代から始まっていたとさえ言えよう。

いずれにしても、今回の調査成果は、モ

ノが歴史のロマンを物語る好例である。同

重層ガラス玉は、二〇一二年一一月に同セ

ンターの企画展で展示予定である。

に高く評価されている。

この「環境負荷の低減と芸術性の両立」

の成功を受けて、二〇一二年五月二四日に、

さらに東芝はルーヴル美術館と、同プロ

ジェクトの第二弾として、同美術館の館内

照明の一部も同社製のLED照明に置き換

えることで基本合意したと発表した。

これにより、二〇一三年五月末までに、

レオナルド・ダ・ヴィンチ作《モナ・リ

ザ》専用の展示照明や、ジャック=ルイ・

ダヴィッド作《皇帝ナポレオン一世と皇后

ジョゼフィーヌの載冠》や、ユジェーヌ・

ドラクロワ作《民衆を率いる自由の女神》

等の大型作品が多数展示されている「赤の

間」の天井照明が、東芝製LED照明に改

修されることになった。さらに、二〇一四

年前半には、全ての来場者を迎える同美術

館の顔とも言えるメインエントランスの

「ナポレオン・ホール」も、東芝製LED

照明に改修される予定である。

このように、《モナ・リザ》を初めとする

人類の貴重な芸術的財産である名画群を、

日本製の明かりが照らすことは文字通り明

るいニュースである。こうした繊細で卓越

した美的感受性と技術的創造性こそ、これ

からの日本が特に世界文化に貢献できる分

野ではないかと期待される。

時評◉Review

on current events

東芝製LED照明に照らされるルーヴル美術館(写真提供・株式会社東芝)

宇津久志1号墳から出土した重層ガラス玉(左)側面 (右)上面(写真提供・奈良文化財研究所)

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戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

藤井雅一(黄稚) 《牡丹画額》 紙本 水墨 2006年 75×45cm

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岸田劉生 《麗子十六歳之像》昭和4(1929)年

岸田劉生 《麗子微笑(青果持テル)》大正10(1921)年

美人画

 

再見

岸田劉生(明治二十四・一八九一〜昭和四・一九二九)は、大正・昭和初期の洋画家・日本画家。

初め、劉生は洋画家として黒田清輝に外光派を学ぶ。後、雑誌『白樺』を通じて印象派・後印象

派に心酔し、ゴッホ風の反写実的な画風に転向する。

やがて、劉生は武者小路実篤ら白樺派との交友により、内心の自然な要求を重視するようになる。

次第に、劉生はレオナルド等の写実的なルネサンス絵画に開眼し、反写実的な西洋近代美術を崇拝

する画壇からは時代錯誤と蔑まれる細密描写を孤高に敢行する。さらに、初期肉筆浮世絵や北宋画

等の東洋美術に傾倒し、日本画も多数描いた。満州旅行の帰途、山口県で客死。享年三十八歳。

重要文化財指定で切手にもなった《麗子微笑(青果持テル)》は、劉生がレオナルドの《モナ・リザ》

に影響を受けて制作したとされ、ちょ

うど写実回帰から東洋回帰への転換点

となった作品である。

劉生は、愛娘麗子を誕生以来二〇点

以上描いており、その最後の一枚であ

る《麗子十六歳之像》は浮世絵の大首

絵を意識して描かれている。

ちなみに、岸田麗子は、昭和八

(一九三三)年の二〇歳の時には女優と

して活躍している。

参考:

 梅原龍三郎・谷川徹三・脇村

義太郎・土方定一責任編集/東京

国立近代美術館監修『岸田劉生

画集』岩波書店、一九八四年。

 『生誕一二〇周年記念

 岸田

劉生展』図録、大阪市立美術館、

二〇一一年。

一日ごとに秋の訪れを感じる季節になりまし

た。『日本美術新聞』の第五号をお送り致します。

昨今、「国際化」や「国際人」という言葉をよ

く耳にします。

本来、「諸国間の交際」を意味する「国際」と

いう語は、まず個々の「国」が確立しているこ

とを前提としています。その意味で、真の「国

際化」や「国際人」には、他国の文化に詳しく

なることはもちろん、自国の文化を大切にする

ことも含まれるのでしょう。

古来、日本は当時の先進国である中国や西洋

から進んだ文化を受容してきました。しかし、

内に芯が通っていたからこそ、外から受け入れ

たものを取捨選択し、本当に自らのものとする

ことができたように思います。

グローバル化の急激に進む今日ほど、日本文

化を大切にすることが改めて求められている時

代は他にないのかもしれません。

(編集部一同)

モノには不思議な魅力があります。そのモノを

作った人の想いはもちろん、そのモノを手にした

人々の想いが込められています。また、そのモノ

が時間の経過の中で受けてきた物質的変化や、そ

のモノがその時々に生み出してきた歴史的由来が

備わっています。時には、モノの語る悠久の歴史

に耳を傾けてみたいと思います。

(M)

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上

げました。バックナンバーを無料で閲覧して頂

くことができます。また、年間定期購読も承っ

ております。編集部一同、皆様のご訪問を心

よりお待ち申し上げております。(http://w

ww.

n-artjournal.com/

(A)

編集後記

藤井雅一

(ふじい

まさかず)/黄稚

(ホワン・ツィー)

 略歴

一九六四(昭和三九)年

江蘇省啓東市出生

一九八四(昭和五九)年

蘇州大学美術学院卒業

一九八五(昭和六〇)年

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

一九八八(昭和六三)年

世界青年ファッションショー(スイス)入選により研修招待

一九九二(平成四)年

来日

一九九三(平成五)年

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

一九九四(平成六)年

藤井伸恵と結婚

一九九五(平成七)年

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事

二〇〇七(平成一九)年

「墨の力

│日中・墨人交流展」(京都市美術館)出展

二〇〇八(平成二〇)年

一休寺《虎》(衝立)作画

二〇一〇(平成二二)年

高台寺円徳院《蓮独鯉》(襖絵)作画

二〇一二(平成二四)年

『藤井雅一・黄稚/画集 

龍虎』(日本美術新聞社)近日刊行予定

藤井雅一(黄稚) 《牡丹画賛額》 紙本 水墨 2006年 93×49cm

元興寺住職 辻村泰善賛

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