NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

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NIHON ART JOURNAL asks the world what the "way of art" is and endeavors to enlarge upon the artistic heart. Special feature: finding newcomers. Serial articles: Cezanne and steam railway, master makers of Goryeo (dynasty of Korea) tea cups.

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銅造獅子水滴

日本人は、百獣の王と讃えられる獅子(ライオ

ン)を実見することなく、仏教伝来と同時に、聖

獣・瑞獣・霊獣として獅子を受容した。

実際の獅子に日本人が出逢うのは、慶応二年

(一八六六)を待たねばならない。

神仏を守護する狛犬との僻邪一対。牡丹に遊

ぶ獅子。招福を約束する獅子舞など、受容後の

活躍を例示するのに事欠くことはない。

ともあれ、獅子奮迅の働きをなし、心中のみ

ならず獅子の身中に虫をも養った。

さて、掲出だが、これまでの伝統的な獅子とは

様子が違う。少なくとも威風堂々になく、人なつ

こい飼い犬の風情をみせている。首に蓄えた鬣も

穏やかならば、強調された尻尾も腰下に下げてお

り、表情にも媚びが色濃い。そして、投げる視線

は中空というか、上方に向けられている。

何かを訴えているかのような瞳の先に、ふと、

文殊菩薩を感じた。獅子の仕草が背に載って

欲しいと文殊に訴えているようにも見えなくな

い。文殊菩薩は獅子を台座にして知恵を駆使し

て衆生を救済する。

不思議な姿の銅造獅子の水滴から、文殊の知

恵を獲得すべく水滴に変身したのではないかと

独り合点することになった。

獅子の口先から吐き出される水は、文殊菩薩

から授かる知恵の水なのだ。獅子水滴でなく、

知恵の水滴と呼んでみようか。作期には室町を

想定しているが、確証はない。(

主筆・森川潤一)

﹇表紙﹈

七月の花

すすき真に百合請の立華

花材……矢筈すすき・桔梗・笹百合・鳴子百合・薊・夏はぜ・

しゃが・杉

花器……銅造広口中蕪立華瓶(高さ二一㎝、巾三一・四㎝)

すすき数本を真として用い、正真に桔梗、請に笹百合、

控に鳴子百合を取り合わせて、全体を草く

物もの

がちに調えた立

華。広口の器に水をなみなみと張って梅雨の終りごろの季

節感をかもしている。

草物を真に用いる場合、草物のみを取り合わせる「草く

一いっ

色しき

」の立華にもできるが、存在感のある花器との調和を考

え合わせて、力強さの出せる木き

物もの

の夏はぜを中段や下段に

用いている。草の真に木を取り合わせる心得として、古い

花伝書には「夏山の草葉のたけぞしられけり。去年みし小

松ひとしなければ」の歌が引用されている。

すすきの真は、「葉付き面白きを見立て、もしはたらき

なき時は、二本合わせて一本に見ゆるように細工して挿す

べし」とか「薄す

すき、

穂に出るときは一本にても心し

にすべき」

などとされる花材で、穂のない夏のすすきは葉のなびきを

効果的に働かせて扱うと見映えがする。真のほか、副や請

やあしらいにも葉のなびきを生かして用いられる。

夏は立華にふさわしい草物が多数あり、花をつける花材

も多様多彩である。たとえば、葦あ

、荻お

、黍き

、唐も

ろこし黍

、すすき、

ふとい、蒲が

、鶏頭、射ひ

おうぎ干

、萱草、山百合、鉄砲百合、鹿の

子百合、笹百合、透かし百合、姫百合、鳴子百合、杜若、

花菖蒲、蓮、立葵、薊、桔梗、撫子、しゃがの葉、紫菀の

葉、擬ぎ

宝ぼう

珠し

の葉等々。これらを適材適所に取り合わせ、草

一色や木物もまじえた草物がちの立華に拵えると、やわら

いだ風情や華やいだ趣が出しやすく、木物主体の立華とは

一味違う立華になる。

華瓶・丸壺 

オークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

モノの心・形の心

日本美術随想

銅造獅子水滴 10×4×7.5cmオークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

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﹇裏表紙﹈

八月の花

茶碗蓮の置生け

花材……茶碗蓮・縞ふとい・藺い

草ぐさ

花器……李朝白磁丸壺(高さ一七㎝、巾一九㎝)

とても小さな茶碗蓮を一花一葉に用い、縞ふといと藺草を

取り合わせた置生け。それぞれの花材は壺の底に仕込んであ

る剣山に挿し留めてすっきりした立ち姿に仕上げてある。

茶碗蓮は小形の園芸品種でふつうは花の直径が一二㎝

前後、草丈は五〇㎝前後、長い葉柄の頂につく葉は二〇〜

二五㎝になる。作品に使用したのは早咲きさせたものでふ

つうサイズの半分にも満たないが、一花一葉が壺の中から

立ち伸びているかのように扱うことで気品のある蓮らしい

姿になっている。更に水み

物もの

のふといや藺草を添えることで

水辺の風情までも思い起こさせる作品である。なお、水物

とはいけばな花材を分類する用語の一つで、蓮や河骨、葦、

ふといなど沼や池に生育するものの総称。これに対し、陸

上に生育するものを陸お

物もの

という。

作品のように、数少ない花材を規矩に縛られることなく、

しかも気品の高い花形に仕上げるいけばなは、古くから茶

人に好まれ、江戸時代の初期には、「抛なげ

入いれ

花はな

」と呼ばれて

いた。文字通り、器に花材を投げ入れるのが本来なのだが、

器の縁にもたせかけたくないときは花留めによって枝や茎

をゆるやかに留めることもある。たとえば、深鉢形の広口

の器に水を張り、蓮や河骨を一花一葉から数葉、茎が水中

から伸び出るように留めて入れると、水際が引き立ち、印

象深い一瓶になる。ところで抛入花には茶人好みのものの

ほか、親しみやすい一輪挿しのようなものや、立華の役枝

を意識してつくられたものもあり、さまざまな人によって

伝えられ、変化もしていった。

(花 

・岩井 

陽子)

(文 

・山根  

緑)

(写真・西村 

浩一)

﹇表紙﹈

七月の花

すすき真に百合請の立華

花材……矢筈すすき・桔梗・笹百合・鳴子百合・薊・夏はぜ・

しゃが・杉

花器……銅造広口中蕪立華瓶(高さ二一㎝、巾三一・四㎝)

すすき数本を真として用い、正真に桔梗、請に笹百合、

控に鳴子百合を取り合わせて、全体を草く

物もの

がちに調えた立

華。広口の器に水をなみなみと張って梅雨の終りごろの季

節感をかもしている。

草物を真に用いる場合、草物のみを取り合わせる「草く

一いっ

色しき

」の立華にもできるが、存在感のある花器との調和を考

え合わせて、力強さの出せる木き

物もの

の夏はぜを中段や下段に

用いている。草の真に木を取り合わせる心得として、古い

花伝書には「夏山の草葉のたけぞしられけり。去年みし小

松ひとしなければ」の歌が引用されている。

すすきの真は、「葉付き面白きを見立て、もしはたらき

なき時は、二本合わせて一本に見ゆるように細工して挿す

べし」とか「薄す

すき、穂に出るときは一本にても心し

にすべき」

などとされる花材で、穂のない夏のすすきは葉のなびきを

効果的に働かせて扱うと見映えがする。真のほか、副や請

やあしらいにも葉のなびきを生かして用いられる。

夏は立華にふさわしい草物が多数あり、花をつける花材

も多様多彩である。たとえば、葦あ

、荻お

、黍き

、唐も

ろこし黍

、すすき、

ふとい、蒲が

、鶏頭、射ひ

おうぎ干

、萱草、山百合、鉄砲百合、鹿の

子百合、笹百合、透かし百合、姫百合、鳴子百合、杜若、

花菖蒲、蓮、立葵、薊、桔梗、撫子、しゃがの葉、紫菀の

葉、擬ぎ

宝ぼう

珠し

の葉等々。これらを適材適所に取り合わせ、草

一色や木物もまじえた草物がちの立華に拵えると、やわら

いだ風情や華やいだ趣が出しやすく、木物主体の立華とは

一味違う立華になる。

華瓶・丸壺 

オークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

木むくげ槿の一輪生け

花材……木槿

花器……銅造遊環耳付花入

花入 

オークションハウス古裂會提供(68回・9月開催出品)

撮影日:平成二十四(二〇一二)年五月二〇日

花座敷

│京都・町家

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釉肌、それにやはり伊羅保特有のべべらや石はぜだろう。

伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、名物の「秋の山」、馬越家伝来の

「伊羅保」(釘彫椀形)と、「釘彫」伊羅保(椀形)があり、ほかに「苔清水」、「橘」、「両彦」、

「布引」、「釘彫」(藤田美術館蔵)、「常盤」、「地蔵院」がある。

伊羅保片身替

伊羅保片身替は、伊羅保釉と井戸風の釉の掛け分けで、見込の井戸風の釉側に白く

一刷毛あり、古伊羅保の作風を基調とするものが多く見受けられる。伊羅保片身替の見所

は、盌形と、掛け分けられた釉の釉調、伊羅保釉と井戸風の釉の重なった部分の釉調の

変化、見込の一刷毛、口縁の切回し、大き目の竹節高台、それにやはり砂交じりの粗土

から生じるべべらや石はぜだろう。

伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、

中興名物で平瀬家伝来の「千種」伊羅保、名物で松平家

伝来の「千種」伊羅保、「池水」、「夏山」、「若草」、

山川家伝来の「片身替」、「薬替」があり、ほかに

「初雁」、「山の井」、「両国」、「片身替」(藤田美術館蔵)、

「虹」がある。

黄伊羅保

黄伊羅保は、全体に黄色く焼けているからこの名が

ある。盌形は、口が大きく開いた感じで、口縁が樋口で

少し端反り、古伊羅保や釘彫伊羅保と比べて繊細で、

やや小振りで女性的である。

黄伊羅保の見所は、繊細でやや女性的な造形と肌の

黄味、竹節高台とその周辺の釉の焦げ、口縁の樋口と

どべ筋、それにやはりべべらと石はぜだろう。指あとも

景色の一つとして見逃せない。

伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているものに

「柞は

はそ」、「黄伊羅保」(静嘉堂文庫美術館蔵)、松岡家伝来

の「黄伊羅保」、戸田家伝来の「黄伊羅保」、坂上家

伝来の「黄伊羅保」があり、ほかに「岩波」、「立鶴」、

「女お

みなえし

郎花」、「秋の野」、「小男鹿」、「橘」、「とこは」がある。

侘びの筆頭、柿の蔕

「侘び物三盌」の中でももっとも侘びたもので、名は全体が柿の蔕を伏せた形や、

高台の作りが柿の蔕に似ているからとか、胎土が赤味を帯びた黒褐色で、柿の色に似て

いるところからともいわれる。全体にごく薄い水釉がかかり、切立ちはゆるく腰で段を

付け、口は開きかげんで見込が広い。

柿の蔕の見所は、枯淡な大寂びの趣きであろう。ねっとりした鉄分の多い砂交じりの

土が使われ、釉が薄いため、肌は黒褐色や枯れ葉色など変化に富み、釉をかけ残した

火間が景をなしている。

伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているものに、「龍田」、細川家伝来の「柿の蔕」、

「背尾」、「大津」、堀田家伝来の「柿の蔕」、「龍川」、「京極」があり、このほかに、重要

文化財の「毘沙門堂」、「早川」、「白雨」がある。

高台脇の縮緬皺が美しい斗々屋

「侘び物三盌」の一つで魚とと

屋や

とも書く。堺の魚商の

元締であった納屋衆ゆかりのもので、利休に伝わって

この名が付いた。普通、朝顔形に口の広がった平茶盌形

が多く、窯火によって色調が美しく変化するねっとり

した土が用いられ、ろくろ目がいく筋も際立って、

高台は竹節高台で内は兜と

巾きん

、高台脇と高台内に縮緬皺

が出ている。

斗々屋の見所は、ねっとりした土で焼かれた肌が

青鼠色や紫がかった赤色に変化する火色であろう。

高台内の兜巾や縮緬皺も魅力である。

伝来する名品で、大正名器鑑に所載されているもの

に大名物の「利休とヽや」(藤田美術館蔵)、中興名物で

江戸高麗や江戸斗々屋とも呼ばれる「東高麗」、中興

名物「江戸魚屋」、秋草とも呼ばれる「市原」、「広島」、

「春霞」、「峰雪」、「唐織」、「蛍」、名物「龍田」、「小鷹」、

「葉鶏頭」があり、ほかに「綵さ

雲うん

」、「隼」、「奈良」、「霞」

がある。(つづく)

(工芸評論家・青山清)

図版:十雨 柿の蔕

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Page 5: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

●連載

│高麗茶

の名手

森田統・十雨の茶(1)

本誌の創刊号から三号までの三回にわたって「美術業界の行方」について書かせても

らった。はじめは読者の層が掴めなくて随分うろうろした。だからあまり面白くもなかっ

ただろうと思っていた。ところが意外にも何人かの人から電話や手紙をもらった。

これは書き手にとってまことにうれしいことである。それにこれらの人の何人かから高麗

茶盌の名手として知られた森田統・十雨先生の人と茶盌について書けとすすめられた。

私が十雨先生の顕彰事業を手掛けていることを知ってのことだろう。図にのるわけでも

ないが、ついうれしくなって書くことにした。十雨先生のことなら、書きたいことや

聞いて欲しい話は山ほどある。茶盌のこととなればそれこそ書き切れないほどだ。

ここに一盌の茶盌がある。十雨先生の柿の蔕である。この茶盌は、私の晩年の生き様

を変えた茶盌である。凄い茶盌である。この茶盌の写真をのせさせてもらったが、写真

ではわかってもらえないだろうと思うと、まことに残念である。とにかく十雨先生の茶盌

の話となれば気持が騒ぐ。

そんなことは、ともかくとして、ここは一番、正気にもどって、順序よく、十雨先生の

人と茶盌について書くまえに、まずはじめに、高麗茶盌のあらまし、とりわけ高麗茶盌

の粋とされる「侘び物三盌」について述べることにしよう。

高麗茶

の粋﹁侘び物三

わが国では古くから茶の湯に用いる茶盌を大別して、中国、朝鮮のものを唐物、わが国

のものを和物、東南アジアのものを島物、欧州のものを紅オ

ランダ毛と、四つに分類してきた。

唐物がもっとも重く用いられてきたが、茶がわが国にもたらされ、喫茶の風習が上流

階級に広まった当初は、唐物の中でも中国より渡来したものが主流をなしていたが、

唐から

様よう

の茶から侘び茶へ、書院から草庵の茶へと、茶の湯が推移するにつれて、同じ唐物

の中でも高麗茶盌と呼ばれた朝鮮のものが主流をなすようになった。

朝鮮のものが高麗茶盌と呼ばれたのは、高麗時代のものだからではない。わが国では

朝鮮が李朝時代に入っても高麗と呼び続けていたからである。勿論、高麗時代にわが国

に渡来したものもあるが、ほとんどは李朝時代にもたらされたものである。

中国の規格的な天目や青瓷の茶盌よりも、自由闊達にのびのびと作られた個性的で

変化のある高麗茶盌の方が、草庵の侘び茶には、よりふさわしかったのであろう。

高麗茶盌の代表的なものには、大井戸、青井戸、小井戸、小貫入、井戸脇、熊こも

川がい

、三島、

彫三島、刷毛目、粉引、堅手、雨漏、玉子手、斗々屋、柿の蔕、伊羅保、呉器、割高台、

狂言袴、金海、御所丸、御本などがある。

これらの中で高麗茶盌の粋とされてきたのが伊羅保、柿の蔕、斗々屋の「侘び物三盌」

である。十雨が生涯をかけて追い求め作り続けてきたのが、この「侘び物三盌」である。

﹁侘び物三

﹂の雄、伊羅保

伊羅保には、①古伊羅保、②釘彫伊羅保、③伊羅保片身替、④黄伊羅保がある。

伊羅保は、いずれも素地に褐色で砂まじりの粗土を使うため、肌がいらいらと荒い

ところから、その名がついたもので、全体に特有の伊羅保釉が高台までかかる土見ずで、

胴に挽き目のどべ筋が見られ、口は大きく開いた感じで、口縁の切れたのを土で補って

直したべべらや、胴の石はぜ、口縁の切回しなどの見どころがあり、釘彫伊羅保を除く

他の高台は、やや大き目の竹節高台である。

古伊羅保

古伊羅保は、本手伊羅保ともいわれ、全体に力強くどっしりとして見所あるものを

いい、内に一刷毛あるものもある。

古伊羅保の見所は、高台脇から腰にかけてやや丸く広がったどっしりした盌形と、

口縁の切回し、大き目の竹節高台、砂交じりの粗土から生じるべべらや石はぜだろう。

伝来する名品で大正名器鑑に所載されているものに、名物の「對馬伊羅保」と、同じく

名物の「沖伊羅保」があり、ほかに「嵯峨」と「巴」がある。ただし大正名器鑑では

「對馬」、「沖」ともに伊羅保の変物と分類している。

また、平瀬家伝来の片身替の「千種」と、松平家伝来の片身替の「千種」伊羅保を、

古伊羅保とする説もあり、片身替を古伊羅保に入れる分類説もある。

釘彫伊羅保

釘彫伊羅保は、高台が撥形になっていて高台の中を釘様のもので渦状に削っている

ところから、この名がある。

全体に力強く、伊羅保きっての風格があり、釉肌は、黄味がかった伊羅保釉のかせた

もの、ねっとりした土で茶褐色のもの、暗くやや青味を帯びたものと変化がある。

釘彫伊羅保の見所は、造形の力強さである。大胆に削りだされた撥高台と高台内の渦状

の釘彫、裾から高台脇の大胆な二段あるいは三段の切り回し、全体に釉がうすくかかった

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Page 6: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

藤井雅一(黄稚) 《蓮》 紙本 水墨 2006年 95×65cm

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Page 7: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

藤井雅一(黄稚)―天に加護された美の創造

中国の重厚で濃密な美と、日本の軽妙で洒脱な美

│中国と日本の

二つの母国を持つ画家・藤井雅一(黄稚)は、この本来は正反対な二つ

の美意識を昇華させようと試みる。

しかし、それは決して口で言うほど簡単なことではない。既に確立

された成功例があり、そこを目指しさえすればいつかは必ず到着が約

束されている安易な道程ではないのだ。

誰も助けてはくれない。全てが手探りの未知の世界。一人孤独に、

まだ誰も足を踏み入れたことのない新たな地平に立ち、藤井の絵筆は、

時に彷徨い、呻吟する。

「それでも、真面目に努力していれば、また天が助けてくれる気がす

る。自分の意図を超えて、墨が独りでに形を成していくように思える

瞬間があるんだ」と、藤井は語る。

これは、芸術だけの話だろうか? 

Heaven helps those w

ho help

themselves.

(天は自ら助くる者を助く。)確かに、時に人生には、誰にも

甘えず最善の努力を尽くした時にだけ、人智を超えた眩しい光が差し

込む瞬間がある。私達は、それを奇跡と呼ぶ。

藤井雅一

(ふじい

まさかず)/黄稚

(ホワン・ツィー)

 略歴

一九六四(昭和三九)年

江蘇省啓東市出生

一九八四(昭和五九)年

蘇州大学美術学院卒業

一九八五(昭和六〇)年

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

一九八八(昭和六三)年

世界青年ファッションショー(スイス)入選により研修招待

一九九二(平成四)年

来日

一九九三(平成五)年

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

一九九四(平成六)年

藤井伸恵と結婚

一九九五(平成七)年

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事

二〇〇七(平成一九)年

「墨の力

│日中・墨人交流展」(京都市美術館)出展

二〇〇八(平成二〇)年

一休寺《虎》(衝立)作画

二〇一〇(平成二二)年

高台寺円徳院《蓮独鯉》(襖絵)作画

二〇一二(平成二四)年

『藤井雅一・黄稚/画集 

龍虎』(日本美術新聞社)近日刊行予定

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Page 8: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

図1:ポール・セザンヌ 《サント・ヴィクトワール山と大松》 1887年頃

図5:ポール・セザンヌ《ローヴから見たサント・ヴィクトワール山》 1904-06年

図6:筆者撮影図1の現場写真 2006年8月24日

図3:ポール・セザンヌ 《サント・ヴィクトワール山》 1902-06年

図4:ポール・セザンヌ《ヴァルクロ街道から見たサント・ヴィクトワール山》 1878-79年

図2:図1の拡大部分

(註1) G

yorgy Kepes, Language of Vision , C

hicago, 1944; New

York, 1995, p. 171.

ギオルギー・ケ

ペッシュ『視覚言語』グラフィック社編集部訳、グラフィック社、一九七三年、一五一頁。

(註2) W

olfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum

und Zeit im

19. Jahrhundert , München, 1977; Frankfurt am

Main, 2004, p. 61.

ヴォル

フガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史

│一九世紀における空間と時間の工業

化』加藤二郎訳、法政大学出版局、一九八二年、八〇頁。

(註3) Paul C

ézanne, Correspondance , recueillie, annotée et préfacée par John R

ewald, Paris,

1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165.

『セザンヌの手紙』

ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、一二二│

一二三頁。

(註4)

実際のアルク渓谷の鉄道橋通過時の車窓風景については、二〇〇六年八月二六日に筆

者が撮影した次の動画を参照。(http://w

ww.youtube.com

/watch?v=BAAAuO

oEKPI

 

ポール・セザンヌの中心点については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「ポール・セザンヌ

の中心点

│自筆書簡と実作品を手掛りに」『形の科学会誌』第二六巻第一号、形の科学会、

二〇一一年、一一│

二二頁。

 

本連載記事は、二〇一一年度に京都造形芸術大学大学院に受理された筆者の博士学位論文

『ポール・セザンヌと蒸気鉄道

│近代技術による視覚の変容』の要約である。

 

また、本連載記事は、筆者が連携研究員として研究代表を務めた、二〇一〇年度〜二〇一一

年度京都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性

の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部である。同研究プロジェクトの概要については、

次の拙稿を参照。秋丸知貴「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」『ここ

ろの未来』第五号、京都大学こころの未来研究センター、二〇一〇年、一四│

一五頁。(http://

kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/K

okoro_no_mirai_5_02_02.pdf

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Page 9: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

前三回で、私達は、ポール・セザンヌ(Paul C

ézanne:

一八三九〜一九〇六)が、印象派の

画家の中で最も早く鉄道機構の外観を画題化し、最も早く列車内から眺めた鉄道乗車視覚

を造形化していることを確認した。

今回は、より具体的に、蒸気鉄道による視覚の変容がセザンヌの造形表現にどのように

反映しているかを見ていこう。

まず、疾走する汽車の車窓から眺めた風景の特徴を考察しておこう。

この問題について、ギオルギー・ケペッシュは『視覚言語』(一九四四年)で次のように

説明している。「走っている列車から見れば、物は近くにあるほど速く動くように見える。

遠く離れた物はゆっくり動き、極めて遠く離れた物は静止して見える(註1)」。

つまり、車窓風景では、物は遠景にあるほど動きが遅く、近景にあるほど高速で水平方

向に過ぎ去って見える。

また、ヴォルフガング・シヴェルブシュは『鉄道旅行の歴史』(一九七七年)で次のよう

に解説している。「工業化以前の知覚における奥行は、速力により近くにある物が飛び去

ることで、蒸気鉄道では全く文字通り失われる。これは、工業化以前の旅行の本質的経験

を構成していた空間領域である、前﹅

景﹅

の終焉を意味する。〔…〕蒸気鉄道の速力は、乗客を、

従来は自分もその一部であった空間から分離する。乗客が空間から抜け出すにつれて、そ

の空間は乗客には、絵タ

ブロー画

(または、速力が視点を絶えず変化させるので、連続画像あるいは連

続場面)になる(註2)」。

すなわち、車窓風景では、最も近くにある物は高速度のために消えてしまい、前景全体

が失われるように感じられる。その結果、従来身体の連続的延長として風景との距離感を

把握していた旅行者は、風景から疎外されると共に、奥行が減退しスペクタクルと化した

画面を気楽な気晴らしとして鑑賞することになる。

こうした車窓風景の視覚的特徴と特に呼応するセザンヌ絵画の一つが、《サント・ヴィ

クトワール山と大松》(一八八七年頃)(図1)である。

興味深いことに、この作品には、最遠景のサント・ヴィクトワール山の中央に中心点が

描かれている(図2)。そして、この中心点から近景の松の枝葉に近付くにつれて、徐々

に筆触が横方向に反復し、粗くなる傾向を示している。このことから、セザンヌはこの中

心点を、遠景から近景に近付くにつれて次第に物が高速で水平方向に飛び去っていく鉄道

乗車視覚を想起するための手掛かりとして用いた可能性を指摘できる。

また、近景左の松の幹は異様に細いまま画面下に消えているので、画面から下の空間把

握を困難にしている。少なくとも、遠景の山から中景の平原に広がる地平と、この松が同

一平面上に存在していないことは確かである。そのため、鑑賞者は、まるで空中に浮かん

でこの風景を眺めているように見える。

これに関連して、サント・ヴィクトワール山とその上に懸かる松の枝葉の間には、小さ

な白い筆触が描き入れられている。そのため、山と枝葉の前後関係は非常に曖昧になって

いる。また、近景右の三本の枝葉同士と山の稜線も重ならず、特に一番下の枝葉は山に影

を落としているように見え、さらに近景左の枝葉も画面に平行しているように見えるの

で、遠近感の曖昧化は一層強化されている。

こうした鉄道乗車視覚と対応するセザンヌの造形的特徴は、「筆致の近粗化」「運筆の水

平化」「前景の消失化」「画像の平面化」と定義できる(「

│性」ではなく「

│化」とする

ことには重要な含意があるが、紙数の都合上ここでは省略する)。そして、これらの諸特徴は、

他の複数作品と比較分析した場合にさらに明瞭になる。

例えば、《サント・ヴィクトワール山》(一九〇二│〇六年)(図3)、《ヴァルクロ街道から

見たサント・ヴィクトワール山》(一八七八│七九年)(図4)、《ローヴから見たサント・ヴィ

クトワール山》(一九〇四│

〇六年)(図5)等を対照すれば、遠景から近景に近付くにつれ

て漸次筆触が横方向に反復されて粗くなり、最近景ではほとんど横長の色帯と化し、前景

が消失しているように見える。そのため、鑑賞者と風景の連続的一体性が弱まり、やはり

鑑賞者は空中から風景を眺めているように感じられ、さらに地面の稜線が層を成して高く

積み上げられているので、画面全体は平板化して見える。

既に第一章で述べた通り、図1の画面右中央に描き込まれた陸橋は鉄道橋であり(図6)、

セザンヌがこ﹅

の﹅

鉄﹅

道﹅

橋﹅

通﹅

過﹅

時﹅

に﹅

疾﹅

走﹅

す﹅

る﹅

汽﹅

車﹅

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眺﹅

め﹅

た﹅

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ト﹅

・ヴ﹅

ィ﹅

ク﹅

ト﹅

ワ﹅

ー﹅

ル﹅

山﹅

を、

一八七八年四月一四日付書簡で「何と美しいモティーフだろう(註3)」と賛美している

ことは歴史的事実である。そうである以上、意識的にしろ無意識的にしろ、そうした蒸気

鉄道による視覚の変容がセザンヌの造形表現に反映している可能性は、決して誰にも否定

することができないだろう(註4)。(つづく)

(美術史家・秋丸知貴)

●連載

─美術への新視点

セザンヌと蒸気鉄道(4)

8

Page 10: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

New Viewpoint on Art Cézanne and Steam Railway (4)

In the last three chapters, we saw that Paul Cézanne (1839–1906) was the first Impressionist painter to topicalize the appearance of the railway

system and represent the visual transformation influenced by the perception of the moving scenery induced by a moving train. We will now discuss

more concretely the influence of the transformed visual perception induced by the passing sceneries seen from a moving train on Cézanne’s painted

representations.

First, let’s review the features of scenery when viewed from a moving train.

Gyorgy Kepes writes about this in his Language of Vision (1944) that, “From a moving train, the closer the object the faster it seems to move. A far-

away object moves slowly and one very remote appears to be stationary.” (1)

Thus, from a train window, objects at a distance appear to move slowly while those that are near appear to move quickly and horizontally.

Moreover, Wolfgang Schivelbusch explains in his Railway Journey (1977) that “there the depth perception of pre-industrial consciousness was, literally,

lost: velocity blurs all foreground objects, which means that there no longer is a foreground—exactly the range in which most of the experience of pre-

industrial travel was located...[T]he train’s speed separated the traveler from the space that he had previously been a part of. As the traveler stepped out of

that space, it became a stage setting, or a series of such pictures or scenes created by the continuously changing perspective.” (2)

In short, from a train window, the nearest elements of the scenery pass at such high speeds that they seem to disappear, which is experienced as a loss

of the whole foreground. Thus, any traveler who has grasped a sense of distance with scenery as a continuous extension of his body will be alienated from

the landscape and will appreciate a screen that has turned this loss of depth into a spectacle as a comfortable form of leisure.

One of Cézanne’s works that duplicate the visual features of train window scenery in a particularly striking manner is The Mont Sainte-Victoire and

Big Pine, (c. 1887) (Fig. 1).

Interestingly, in this painting, a central point is drawn on the center of the Mont Sainte-Victoire (Fig. 2). From this central point to the nearby pine

branches, the brush strokes tend to be repeated in the transverse direction and gradually become coarse. We may therefore suppose that Cézanne used

this central point to depict the manner in which nearby objects fly away quickly in the horizontal direction when perceived from a moving train.

Moreover, since the trunk of the nearby pine on the left disappears under the canvas while it remains strangely thin, it is difficult to perceive the

lower space under the screen. We certainly cannot assume that this pine exists on the same ground level that spreads from the mountain to the plain. The

observer thus seems to be looking at this landscape from above.

In relation to this, the small white brushstroke drawn between the Mont Sainte-Victoire and the branch of pine on it renders the spatial relationship

between the mountain and the branch very ambiguous.

Moreover, the ambiguity of the depth perception is intensified by the fact that the branches on the near right and ridgeline of the mountain do not

overlap (even the bottom branch seems to cast a shadow over the mountain) and the branches on the near left seem to be parallel to the screen.

These expressions replicating the view from a moving train can be defined as a “nearer-roughening of touch,” “side-repeating of stroke,” “disappearing

of foreground,” and “flattening of picture” (although using the progressive form has important connotations, it is omitted here because of space

limitations). These characteristics become even clearer through comparison with Cézanne’s other works.

For example, comparing The Mont Sainte-Victoire (1902–06) (Fig. 3), The Mont Sainte-Victoire Seen from the Chemin de Valcros (1878–79) (Fig. 4),

and The Mont Sainte-Victoire Seen from Les Lauves (1904–06) (Fig. 5), we notice that the brushstrokes are gradually repeated in the transverse direction

and the images of the closer objects appear rougher. In the nearest view, they turn into an almost oblong color belt, and the whole foreground seems lost.

Thus, the continuity between the observer and the scenery weakens, and the observer seems to look at these landscapes while hovering in the air.

Furthermore, because the ridgelines of the ground form high layers, the whole screen appears to lose depth.

We saw in chapter 1 that the bridge drawn in the center right of Fig. 1 is a railway bridge (Fig. 6) and that Cézanne praised the Mont Sainte-Victoire

while viewing it from a train passing over this bridge, saying in a letter dated April 14, 1878, “What a beautiful motif.” (3)

Therefore, the possibility that the transformation of visual perception induced by the steam railway is reflected in Cézanne’s painted representations is

undeniable. (4)

(AKIMARU Tomoki / Art Historian)

(1) Gyorgy Kepes, Language of Vision, Chicago, 1944; New York, 1995, p. 171. (2) Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, Berkeley and Los Angeles: The University of California Press, 1986,

pp. 63-64. (3) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. (English edition, New

York, 1995, pp. 158-159.)(4) See the Mont Sainte-Victoire, which can be seen from the train when it runs through the railway bridge at the Arc valley, filmed by the author on August 26, 2006. (http://

www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI)

11

Page 11: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

Fig. 3 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire, 1902–06 Fig. 2 The expansion part of Fig. 1

Fig. 4 Paul Cézanne, The Mont Sainte-VictoireSeen from the Chemin de Valcros, 1878-79

Fig. 5 Paul Cézanne, The Mont Sainte-VictoireSeen from Les Lauves, 1904-06

Fig. 6 A photograph of the scene in Fig. 1, taken by the author on August 24, 2006

Fig. 1 Paul Cézanne, The Mont Sainte-Victoire and Big Pine, c. 1887

10

Page 12: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

慮されねばならない。また、日本美術を実

物で紹介する国際的な文化交流の拠点が海

外にあることも非常に望ましいことであ

る。しかし、それでもなお、本来は当初か

ら日本の伝統美術は日本人自身こそが手厚

く保護すべきだったのではないかという問

題は常に再考されても良いだろう。

日本絵画

│組み合わせの美展

二〇一二年四月一四日から六月三日にか

けて、滋賀県立近代美術館で「日本絵画

│組み合わせの美」展が開催された。所

蔵品だけで構成された、展示約二五点の小

規模展であったが、出品作は優品や佳作が

多く、ユニークな展覧会だったのでぜひ紹

介したい。

古来、日本絵画は、掛軸・絵巻物・屏風・

襖絵・衝立など多種多様な形式を持ってい

る。その上で、それらは「一双」「一対」「揃

い」等、複数の点数の組み合わせとして鑑

賞されることが多い。本展は、こうした組

み合わせには、一つの画面で完結する作品

とは異なる創意工夫があるとし、その観点

から三部構成で日本絵画の魅力に迫ろうと

するものであった。

第一部「連続する画面

│パノラマの美」

では、六曲一双という屏風の形式を生かし、

横長の大画面に迫力ある眺望を描いた作品

が紹介されていた。例えば、塩川文麟《近

江八景図》、庄田鶴友《耶馬渓の朝》、山元

春挙《雪松図》、池田遥邨《湖畔残春》、岸

竹堂《保津峡図》は、鑑賞者を取り囲むこ

とで眼前に迫るような臨場感を醸し出して

いた。また、幸野楳嶺《群魚図》や大林千

萬樹の《街道》は、屏風の屈曲が角度によっ

て見え方を変化させることで不思議な奥行

感を演出していた。

第二部「競い合う構図と色

│対比の美」

では、一双の屏風や双幅の掛軸等で、左右

の画面が対比的に描かれた作品が陳列され

的に広く紹介したいと考えていた。

明治二十三(一八九〇)年に、フェノロサ

とビゲローが収集した大量の日本美術がボ

ストン美術館に寄託される。これを受けて、

同館に日本美術部が成立し、フェノロサ

が初代部長に任命され、翌年にはビゲロー

が理事に加わる。明治二十九(一八九六)

年のフェノロサの辞任後、明治三十七

(一九〇四)年からは天心が作品整理に携わ

り、天心は明治四十三(一九一〇)年からは

中国・日本美術部長として収蔵品の拡充に

努めた。こうしてボストン美術館には、「西

洋人の理解のために日本美術の歴史を示

す」(天心)ことを目的とする、体系的で網

羅的な一大日本美術コレクションが形成さ

れたのである。

本展の見所は、国宝級の仏画や、長谷川

等伯、尾形光琳の屏風、伊藤若冲の掛軸な

ど数多いが、特に在外二大絵巻として知ら

れる《吉備大臣入唐絵巻》と《平治物語絵

巻》は、その購入が契機となって古美術品

等の海外流出を防止する「重要美術品等ノ

保存ニ関スル法律」が制定された点で興味

深い。また、修復後世界初公開の《雲龍図》

を始め、近年再評価の進む曽我蕭白の逸品

群は先見の明を示して圧巻である。

本展で誰もが考えさせられるのは、美術

品の散逸防止が海外流出を生んだという逆

説である。もちろん、当時は美術品の海外

輸出は外貨獲得のために奨励されており、

それらは海外で保存されなければ国内では

消失していた可能性が高いことは十分に考

ボストン美術館

│日本美術の至宝展

米ボストン美術館は、「東洋美術の殿堂」

と称され、中でも一〇万点を超える日本美

術の収蔵品は海外随一の質と量を誇ってい

る。その内、国宝・重要文化財級の厳選さ

れた約九〇点の名品による「ボストン美術

―日本美術の至宝」展が、東京、名古

屋、福岡、大阪を里帰り巡回中である。

よく知られているように、明治維新後の

日本では、西洋的近代化を急ぐあまりに伝

統的な古美術品は非常に軽視されていた。

特に明治政府による廃仏毀釈令により、仏

画や仏像は多数破壊され、窮乏する寺院は

貴重な寺宝を手放さねばならなかった。実

際に、現在は国宝である奈良・興福寺の五

重塔でさえ、売りに出され薪にされそうに

なったほどである。

こうした混乱の中で、明治十一

(一八七八)年に東京大学で政治学・哲学を

教えるために来日したアーネスト・フェノ

ロサは、日本美術の魅力に開眼し、調査研

究を進めると共に一〇〇〇点以上を収集し

た。また、明治十五(一八八二)年に来日

したウィリアム・ビゲローも、資産家とし

てフェノロサと協力して約四万一〇〇〇点

を収集した。この二人を助けたのが、フェ

ノロサに東大で薫陶を受けた若き文部省官

僚、岡倉天心である。彼等は急速に失われ

つつある日本の伝統美術を再評価し、国際

ていた。例えば、北野恒富《暖か》《鏡の

前》、下村観山《鵜鴎図》、山元春挙《富士

二題》、冨田溪仙《風神雷神》、岸連山《龍

虎図》、岸竹堂《鉄拐蝦蟇仙人図》は、左

右で形態や色彩を対比させ、絵画ならでは

の独特な造形的リズムを生み出していた。

また、中島来章《武稜桃源図》は、桃源郷

に迷い込んだ漁師とその船を別画面に描く

ことで物語の進行を暗示していた。

第三部「〝揃い〞の愉悦

│セットの美」

では、二点以上の複数作品が一揃いで一作

品である連作等が展示されていた。例えば、

野村文挙《近江八景図》、伊東深水《近江

八景》の名所絵や、小茂田青樹《四季草花

図》の四季絵、中島来章《十二ヶ月図》の

月次絵は、空間の変化や時間の推移を複数

の画面で繊細かつ大胆に表現していた。

もちろん、こうした複数作品による組み

合わせの美は、日本美術だけに限られるも

のではない。しかし、一般に西洋美術は主

客を分離させ、一枚の絵画を閉じられた一

つの世界として完結させる傾向がある。こ

れに対し、自然と人間を分け隔てずに連続

的に捉える日本的感受性は、こうした複数

作品を組み合わせる美意識と非常に相性の

良いものであることは確かである。そのこ

とは、画法や形式面で西洋化が進む近代日

本画においてもなお明瞭に感じられること

を示したところに、本展のもう一つの魅力

があったと言えるだろう。

展覧会評◉Exhibition Review

滋賀県立近代美術館

 

二〇一二年四月一四日~六月三日

東京国立博物館

 

二〇一二年三月二〇日~六月一〇日

名古屋ボストン美術館

 (前期)二〇一二年六月二三日~九月一七日

 (後期)二〇一二年九月二九日~一二月九日

九州国立博物館

 

二〇一三年一月一日~三月一七日

大阪市立美術館

 

二〇一三年四月二日~六月一六日

13

戌亥蔵ウェブサイト http://inuigura.web.fc2.com/

Page 13: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

グーグル・アートプロジェクトに

日本初参加

二〇一一年二月二日に、インターネット

検索大手のグーグル社は、世界中のミュー

ジアム及びその所蔵品をオンラインで公開

する無料サービス「グーグル・アートプロ

ジェクト」を始動した。

これは、既にグーグル・マップで用いら

れている現場パノラマ写真によるストリー

トヴュー機能を屋内にも適用し、館内を画

面上で移動しつつ、気に入った作品を解説

付きの高解像度写真で鑑賞できるようにす

るものであった。第一弾として、米メトロ

ポリタン美術館や伊ウフィツィ美術館等、

欧米の一七館・約一〇〇〇点が公開された。

二〇一二年四月四日には、第二弾として、

アジア、オセアニア、中東、南米等にも対象

館が拡大され、一五一館・三〇〇〇〇点以上

が公開された。日本からは、足立美術館、大

原美術館、国立西洋美術館、サントリー美術

館、東京国立博物館、ブリヂストン美術館の

六館が参加した。これにより、各館が所蔵す

る国宝一六点・重要文化財五一点を含む、美

術作品五六七点がネット上で閲覧可能になっ

た。また、東京国立博物館と足立美術館は

ストリート(ミュージアム)ヴュー機能にも

対応し、館内(足立美術館は庭園も)のヴァー

チャル廻覧も可能である。

さらに、同プロジェクトでは、参加館に

よっては一点ずつ、七〇億画素の超高解像

度写真も公開している。国内では、東京国

立博物館の狩野秀頼筆《観楓図屏風》(室町

〜安土桃山時代)と、足立美術館の横山大観

作《紅葉》(一九三一年)がその対象となっ

ており、ズーム機能により肉眼では不可能

な細部まで確認できる。そして、同プロ

ジェクトでは、気に入った作品を個人的に

編集する「マイギャラリー」機能や、同じ

画家・年代・種類の作品を検索する機能の

ルーヴル美術館と

ニンテンドー3DS

二〇一二年四月一一日に、仏パリのルー

ヴル美術館は、任天堂の「ニンテンドー

3DS」を使った新しい館内案内を開始した。

「ニンテンドー3DS」は、任天堂が

二〇一一年二月二六日から世界中で販売し

ている最新の携帯型ゲーム機。「DS」は

「Dual Screen

(二つの画面)」の略で、本体

は縦七・四㎝、横一三・四㎝、厚さ二・一㎝

の折畳み式であり、重さは二三五gと軽

量。開いた上画面が、三・五三型の視差バ

リア方式ワイド3D液晶ディスプレイ(約

一六七七万色を表示可能)になっており、

専用メガネを掛けなくても裸眼で立体映像

を楽しめることを大きな特徴としている。

今回導入された「オーディオガイド・ルー

ヴル・ニンテンドー3DS」は、同館と任

天堂が共同で開発した専用ガイドソフトを

内蔵した3DSを用いるもので、本来はゲー

ム用に開発された機体がその高性能を評価

されて別の用途で活用される点が興味深い。

また、3DSの特性を生かして、音声の

みならず、立体映像や動画表示による多角的

な案内を実現し、従来の単一機能型の音声ガ

イド機からの切替えである点が注目される。

同ガイドでは、画像や音声で七〇〇以上

の作品や展示室が解説される。画像は高解

像度写真を多用し、ズーム機

能で細部まで拡大が可能。ま

た、建物の構造により現実に

は見られない立体作品の背面

をディスプレイ上で回り込ん

で見ることもできる。

特筆すべきは、位置検索機

能により、利用者の現在位置

を館内地図で確認できるこ

とである。また、地図では

主要作品が目立つように表

充実も図られている。

これまでも国内では、日本美術の画像アー

カイヴ事業として、「文化遺産オンライン」や

「e国宝」等の取組みがあった。しかし、国内

美術館の所蔵作品が世界共通規格のプラット

フォームで公開されるのは、今回のグーグル・

アートプロジェクトが初めてである。

このように、自宅に居ながらにして世界

中の美術作品を鑑賞できることは、まず素

晴らしいことである。また、日本の文化や

美術作品が、広く世界中の人々に情報発信

されることも望ましい。デジタル化は時代

の趨勢であり、文化財や美術作品が人類全

体の共有財産として未来の世代に継承され

ることは高く評価すべきである。

しかし、こうしたデジタル技術は、あくま

でも実物鑑賞とは異質な別物であり、その補

助に過ぎないこともはっきりと認識すべきだ

ろう。例えば、どれほど精巧な画像であって

も、サイズが異なれば作品全体の印象が異な

り、どれほど高解像度であっても、ディスプ

レイ上では表面の微細なマティエールは再現

されないことは、誰もが一般に経験する事実

である。やはり、芸術作品の鑑賞は、実物に

触れることこそを第一としたい。

示され、自分で自由にルートを設定できる

他、《モナ・リザ》や《ミロのヴィーナス》

等の代表作品を巡るツアーも用意されてい

る。同

ガイドは現在、日本語を含む七ヶ国語

に対応し、近日中にフランス語手話にも対

応予定。一般料金は五ユーロ(約五三〇円)

で、誰でも利用することができる。

重たい音声ガイド機を首からぶら下げて

歩く代わりに、手軽に持ち運べる小型の視

聴覚ガイド機が登場したことをまず喜びた

い。また、広大な館内を迷ったり作品を見

落としたりせずに廻覧できることも、特に

高齢者・身障者や海外旅行者にとっては有

益であろう。

ただし、たとえどれほど優れたガイド機

であれ、もしせっかく現場で実物を目の前に

しているのに、小さなディスプレイ画面ばか

り覗き込むようなことがあれば本末転倒であ

る。デジタル技術の進歩は、グーグル・アー

トプロジェクトに関してと同様に、むしろ芸

術鑑賞における実体験の重要性こそを浮かび

上がらせるものではないだろうか?

そうした中で、日本のデジタル技術が、

世界で最も来館者数の多い美術館の一つに

受け入れられたことは示唆に富む。高度な

技術力はもちろん、芸術作品への繊細な感

受性と鑑賞者への細やかな心配りこそは、

日本人が最も得意とする分野の一つである

ように思われるからである。

時評◉Review

on current events

グーグル・アートプロジェクト(写真提供・Google)

オーディオガイド・ルーヴル・ニンテンドー3DS(写真提供・任天堂)(c)2012 musee du Louvre - Olivier Ouadah

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Page 14: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

二代国貞 《生写美人鏡新吉原角町稲本楼 小稲》明治元(1868)年

高橋由一 《花魁》明治5(1872)年

美人画

 

再見

高橋由一(文政十一・一八二八〜明治二十七・一八九四)は、幕末・明治期の洋画家。

幕末に西洋製石版画で見た西洋画法の写実性に衝撃を受け、油彩画や美術制度を日本に移植しよ

うと生涯尽力した。日本近代洋画の父と呼ばれ、他の代表作に、切手にもなった重要文化財指定の

《鮭》(一八七七年)等がある。

明治五(一八七二)年四月二八日付の『東京日日新聞』によると、由一は兵庫下髪の娼妓の油彩

画を描いており、これが重要文化財指定の《花魁》(一八七二年)と推定されている。

描かれているのは、新吉原・稲本楼の「呼び出し」(最高級の花魁)で、当時二十七歳頃の四代

目左近小稲。一般にはまだ珍し

かった油彩画のモデルを由一が

探した時、引き受けたのは小稲

だけであった。

ところが、その小稲でさえ、

浮世絵のように類型化された美

人画を期待していたため、完成

した本作を見て、あまりの生々

しさに「私はこんな顔じゃあり

ません」と泣いて怒ったという。

現在の目から見ればきちんと美

人に描かれているので、由一の

写実的な美意識がいかに時代を

先取りしていたかを示すエピ

ソードであろう。

ちなみに、その四年前に、同

じ小稲を描いた歌川国貞(二代)

の浮世絵が左の作品である。

一日ごとに夏の訪れを感じる季節になりまし

た。『日本美術新聞』の第四号をお送り致します。

本号の時評は、どちらもデジタル技術と芸術

鑑賞の問題を扱うことになりました。ディス

プレイ上に映し出される超高解像度写真には、

ハッと息を呑むばかりです。

しかし、もはや肉眼以上に鮮明で便利な画面

を見ていると、これは何か異質な別物を見てい

るのではないかという感慨も生まれます。テレ

ビ放送が登場して、野球の観戦には新しいスタ

イルが付け加わりましたが、ここでもまた芸術

の鑑賞に何か新しいスタイルが付け加わりつつ

あるのかもしれません。

小紙は、そうした技術の発達は十分に評価し

つつ、それでもやはり実体験という芸術鑑賞の

基本こそが常に一番大切なのではないかと考え

ています。

(編集部一同)

光陰矢の如し。早いもので、二〇一二年もも

う半年が過ぎました。月日の流れの早さに、改

めて驚きます。しかし、モノは時間を超えて受

け継がれていきます。また、美は永遠へとつな

がっています。いつも、そのようなことを考え

て編集作業に取り組んでいます。

(M)

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上げ

ました。バックナンバーを無料で閲覧して頂くこ

とができます。また、フェイスブックでも日本美

術新聞社の公式ページを公開しております。編集

部一同、皆様のご訪問を心よりお待ち申し上げて

おります。(http://w

ww.n-artjournal.com

/

)。(A)

編集後記

Page 15: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012

書評◉Book Review

原作/早川光

 漫画/連打一人

監修・協力/木村宗慎

『私は利休』集

英社

 二〇一二年〜

茶道マンガの世界に司馬遼太郎的なマ

ンガ『私は利休』があらわれた。的と言う

のは、歴史小説の体裁をとりながら、史

実を掘りさげて新鮮で刺激的な歴史学を

展開した司馬遼太郎に似ていないかとい

うことだが、『私は利休』を読了したとき、

この一冊が茶道のみならず歴史マンガを

本質から問い直す契機になるかもしれな

いと感じたのである。

言うまでもなく『私は利休』はマンガ本

である。従って、ここに表現されたことを

そのまま史実や事実としてとらえることは

できない。しかし、これまでのマンガへの

視点がぐらついた。もしも、『私は利休』が

史実や事実を精密に検証して、それらをマ

ンガに託していたとしたら、立ち読みでな

く身構えて読まなければならないだろう。

司馬遼太郎が小説の限界を超えて人々

の支持を得たように、『私は利休』がマン

ガの負の部分や限界をさわやかに、やすや

すと超えそうに思われるのである。「所詮、

マンガ本なのでしょう」という内なる批判

が何度も浮かんだが、消え去った。

茶道マンガでいえば、『へうげもの』(山

田芳裕著・講談社・二〇〇五年〜)が先行し、

『へうげもの』がマンガだから許される

「虚」を重視し、『私は利休』が遺伝子によ

る再生というきわめてマンガ的な手法を

採用しながら、これによって非現実な部分

を合理させ、言葉を尽くして、茶道の本質

=事実の敷衍を試みている様子が明らか

になった。

木村宗慎(監修・協力)のコラムの執拗

さもマンガ的ではない。『私は利休』の先

鋭的な部分は、木村宗慎の助言ではないか

とみている。木村の豊富な知識と高い見識

とは尋常ではない。彼をチームに加えた出

版社の慧眼に感動すら覚える。

『へうげもの』は、巻頭(八頁目)で「能

書きがうるさい」と織部の口上を信長に遮

らせている。このあたりに、「能書き」(背

景)を軽視する、否、軽視したい山田がい

るようだ。

『へうげもの』で山田は、主たる登場人

物を色分けしてみせた。古田左介(織部)

グリーン&パーシモン、織田信長レッド

&ブラック、千宗易(利休)ブラック、羽

柴秀吉ゴールド、明智光秀パープル。そ

して利休のブラック(黒茶碗)に対し、秀

吉に「黒という色は喪に服す色だ……死

を司る色だ(中略)何ゆえ今焼をわざわざ

黒く作るのだ、こんなものはゲセンな者

から高貴な者まで誰も欲しがらぬ」。

……果たしてそうだろうかという疑問

が頭のなかで肥大する。日本の伝統的な

色文化のなかで黒色を冷静に検証するな

ら、黒はもっとも大切、すなわち正式な

色だと理解される。喪服が黒なのも、死

者に対して生ける者が礼を尽くしている

わけで、より具体的には、堂上の四位以

上が正儀に着用する束帯の上衣は黒袍で

ある。黒は利休の専売でなく、ましてや

山田の言う不吉な色では決してない。山

田の目線こそ黒ずんではいないか。

目を二冊の第一巻がみせる「茶碗」の

扱いに転じたい。山田は、信長の在世時代

すでに社会現象的な成功をおさめている。

『私は利休』の単行本の発売を耳にしたと

き、二匹目の泥鰌をねらった安易な企画だ

ろうと思った。しかし、予見は見事にはず

れた。二冊は立ち位置を異にしていた。『私

は利休』は、出発に際し、たっぷりと時間

をかけて内容を吟味していた。それはマン

ガ化のためではなく、真剣に正面から茶道

に取り組んだ時間の永さと言ってよい。

『私は利休』の一カット、一つの台詞に

は、茶の神髄が散りばめられている。これ

を採用した出版社の希有な目線に感動す

ら覚える。

とは言え、『へうげもの』が、古田織部

を現代に蘇生させた功績は甚だ大である。

史実の検証が危ういのとは別にだ。著者の

山田芳裕とは一面識もないが、モノがスキ

な御仁であろうことは、「私が今欲しいの

は織部黒という鯨のような茶碗です」の独

白で充分に知れる。

古田織部の「

へうげもの」

は、慶長四年

(一五九九)に織部が茶会で用いた茶碗の記

録、「セト茶碗 

ヒツミ候也 

ヘウケモノ

也」(宗湛日記)を初見とする。山田は、史

実を些末化して「へうげもの」を流行語に

し、織部の個性を際立て、個性的な美意識

を謳いあげた。

利休と織部には、政治的な権力者に自刃

させられたという共通の分母がある。利休

は秀吉、織部は家康。政道と茶道が一つで

あった証でもある。結果は、利休の死のみ

が謎として耳目をあつめ、織部のそれは、

豊臣方への内通だと簡単に処理されてき

た。ともあれ『へうげもの』によって織部

は完璧に復権した。織部自刃を山田が終章

でどのように扱うか、個人的に興味があ

る。が、ここでは深追いしない。

これらとは別に、立ち位置の違う両者

の第一巻を俎上に、細部の確認を急ごう。

この結果、『私は利休』に仮託された「真」

のありようが、より鮮明になった。

の織部主導の美濃窯に「志野茶碗」の試作

を登場させ、ついで場面を遅らせて三茶

頭の一人であった利休に長次郎の手にな

る「黒茶碗」を創らせた。利休が主導した

長次郎の「黒茶碗」の出現は、天正十四年

(一五八六)の「宗易形の茶ワン」(松屋会記)

及び「クロヤキ茶碗」(天正十六・一五八八)

あたりに比定するのが自然で、信長時代で

は十年弱ながら時間を遡らせてしまう。茶

碗史にとって、微妙ながら、看過できな

い重要なポイントだろう。さらに志野茶碗

については、最も新しい茶碗史が、二十年

にわたる懸案であった「志野茶碗」の創始

問題に結論を下した。慶長三年(一五九八)

以降、すなわち利休が自刃してのち七年を

隔て、秀吉の死を惜しむかのように、織部

主導により「へうげ茶碗」(志野)は出現す

るのである。よりへうげた織部茶碗に至っ

ては、慶長十二年(一六〇七)以後と考え

られている。考古学の成果をふまえた刺激

的な判断だった。キャッチコピー的には

「利休は志野茶碗をみていない」。(『茶碗 

今を生きる』中日新聞社・二〇一一年)

繰り返すが山田は、「黒茶碗」も「志野

茶碗」も信長時代に併存させてしまった。

『へうげもの』が犯した時代考証のズレは

小さくない。いわば決定的な釦の掛け違い

を指摘しなければならないだろう。

他方、『私は利休』は、主役の一人であ

る雪吹なつめに、楽了入の黒茶碗を過失で

割らせてしまうが、「筒井筒」の故事を引き

合いに、茶の湯ならではの知恵で解決した。

繰り返しになるが、『へうげもの』の成

功がなければ『私は利休』に陽が当たるこ

とはなかった。しかし腰をすえてながめな

おすと、『私は利休』の出現こそ、『へうげ

もの』の旧マンガ的に対する、別視点から

の揺り戻しのように思われてならない。遠

からず、茶道の現場から見えてくる利休

が、その姿を新マンガ的にあらわすことに

なるのだろう。鶴首して待ちたい。

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Page 16: NIHON ART JOURNAL July/August, 2012