NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

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NIHON ART JOURNAL asks the world what the "way of art" is and endeavors to enlarge upon the artistic heart. Special feature: finding newcomers. Serial articles: Cezanne and steam railway, the future of the art industry.

Transcript of NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

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銅造神亀

亀甲部、亀体部、岩座を別造し、亀甲中央と

岩座を一本の銅の心棒で貫き一体に組む。亀甲

部と岩座は鍛造、亀体部は鋳造。亀甲部は素銅

胎に毛彫し、錫を溶着してのち薄鍍金。亀体部

では素銅の頭部と手足に鏨で目鼻や鱗などを表

し鍍金。胴には加飾を加えず薄鍍金。岩座は素

銅を巧みに打ち出して岩の質感をみせ、窪みに

岩苔を鏨彫する。

亀はいわゆる淡水亀の手足を示し、蓑亀とも

呼ぶことになる長寿の瑞祥と人々が信じた緑藻

を長く伸ばしている。一般の蓬莱飾では亀の背

に岩礁を置くので、掲出は、万年の長寿を寿ぐ

熨斗押と見るべきだろう。それでも耳を立てる

など天然の亀ではない面貌や長い蓑の表現が、

神性の主張を感じさせる。

熨斗押は、神前に供された熨斗(

干し鮑)

の重

石に由来し、のち、大事なモノを押え鎮める具

へと展開し、さらには、吉祥を約束する室礼調

度に位置取りを果たした。いずれにせよ、天然

の亀と差別した造形が、神様の傍に近侍したで

あろう歴史を想像させる。

造形感覚に加え、鍍金の磨滅などから近世初

期を下限に作期を想定するが確証はもてない。

また、岩座の下辺には墨汚れが顕著で、神様の

傍を離れてのち、硯の脇で筆架として用いられ

た痕跡を指摘させる。

モノの心・形の心

日本美術随想

銅造神亀 13×55×8cmオークションハウス古裂會提供(66回5月開催出品)3

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﹇裏表紙﹈

四月の花

白玉椿と鶯かぐらの掛花

花材……れんぎょうと椿の釣花

花器……銅造月形釣花生(高さ五六㎝、巾四八㎝、奥行一四㎝)

おおぶりの月形花生に、ようやく咲き始めたれんぎょう

と、旬の季節を迎えた椿を生け合わせた釣花。吊るしてい

ける花生の特徴を生かし、窓内には椿の花や葉を姿よくこ

んもりと生け込み、れんぎょうの枝を窓内から伸びやかに

挿し上らせたり、垂れ下がらせてある。れんぎょうの枝は

相当長いが、枝先の形姿をありのままに生かし、風情興あ

る姿に仕上げている。

春に咲く花には、れんぎょうのほか、雪柳やこでまり、

山吹など枝のなびくものや枝垂れる花材も多く、掛花や釣

花の花材には恵まれている。

釣花は昔も今もそれほど多くいけられるものではないが、

起源は古く、室町時代にさかのぼる。日本最古の花書といわ

れる『花王以来の花伝書』には当時の作品の花形絵が四〇点

以上、秘文とともに記されており、枝葉を「櫓櫂のごとくな

びかせよ」とする釣花や、香炉形の器を縁際の軒下に吊るし

た釣花、室内に鉢形の器を吊るした釣花などが描かれている。

釣花生で広く親しまれているのは舟形の器で、銅製、竹

製、木製など素材もさまざまで形も多様である。

月形の釣花生はそれほど多くないが、窓が円形にくりぬ

かれたもの、器自体が三日月形のものとがある。多くは無

地だが、作品のものは下辺に波文を打ち出して加飾してあ

る。彦根伊井家には同じタイプの月雲の花生が伝わってい

る。また『立華訓蒙圖彙』(元禄八年序)には、伊達政宗の

物好きという「金の丸さし渡三尺五寸にしてけほり雲かた

あ」る「三ケ月」の花形絵が逸話とともに載せられている。

(花 

・岩井 

陽子)

(文 

・山根  

緑)

(写真・西村 

浩一)

﹇表紙﹈

三月の花

松真に桃請の立華

花材……五葉松・若松・桃・枇杷・しゃが・伊吹・薮椿・菜の花・

水仙・檜葉・つげ

花器……銅造竹節紋中口中蕪遊鐶耳付立華瓶(高さ三二㎝、巾

二五㎝)

五葉松をはじめとする常緑の花材に、桃や椿の花姿が映

える春らしい立華である。五葉松の直線的な枝ぶりと、桃

の丸みのある枝ぶりが程よく対応し、両者に釣り合うよう

に他の花材も調えられている。真の五葉松は産う

挿ざ

しにする

ために丈の長いものを選び、長く飾っていても水揚げの心

配があまりないようにしてある。

真の五葉松の足元は真直ぐに挿し立ててあるが、花器口

から約二四㎝の位置で幹を後方に向けて曲げ、幹が中心線

上から離れる(除く)ように傾斜させている。このような

真を除の

真しん

といい、作品のように梢が中心線から離れたまま

のものは不及の真ともいう。

桃は室町時代から三月に用いるべき花材とされ、三月三

日(上巳の節句)にも用いた。陰暦の三月は桃の咲く季節

であることに加え、桃に薬効や呪性があると一般に広く信

じられ、三月三日に桃の花を神に供える風習のあることに

も由来して、上巳の花材として定着したのであろう。例え

ば、寛永年間に活躍した池坊専好は寛永十年三月二日に、

翌日の上巳の節句のために、真と見越が碧桃、請とあしら

いに緋桃を取り合わせた除真の立華を拵えている。

専好の立華は百瓶以上が精妙な花形絵として記録され、

今日もその立体的な形姿をうかがい知ることができる。花

器の形もわかりやすく、作品に用いたのと類似する中口中

蕪の立華瓶も多々見うけられる。また、寛文十三年刊行の

『立角堂池坊並門弟立花砂之物圖』には同タイプで中口中

蕪遊鐶耳付の立華瓶が載っている。

華瓶・花生 

オークションハウス古裂會提供

(66回・5月開催出品)

書院棚の花

花材……土佐水木、岩鏡もどき、しゅす蘭

花器……銅造水盤(高さ七㎝、巾三〇㎝、奥行二五㎝)

水盤 

オークションハウス古裂會提供(65回・3月開催出品)

花座敷・花舞台

│京都・妙心寺大心院

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象牙鵺根付

トラツグミは不吉な鳴き声から鵺と呼ばれて忌み嫌われた。『平家物語』は御所の

上に毎夜現れ、帝の宸襟を悩まし、源頼政によって退治された妖怪を鵺と呼ぶ。射

落とされた鵺は、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴き声がヌエと解説された。

『源平盛衰記』では、頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸、声はヌエ。

根付師の「楽」が牙彫した鵺は、両説を折衷している。頭を猿、胴を虎、尻尾を

蛇とするもので、妖怪に固執した歌川国芳(寛政九・一七九七〜文久元年・一八六一)

の版画などとも構図を同じくする。

根付師の「

楽」

について上田令吉著『根付の研究』(金尾文淵堂・一九四三年)は、

「牙刻をなす、初期の人なり」と記して詳細に触れない。初期を江戸前期と解釈する

ならば、「楽」の方が国芳に先行して鵺を彫刻したことになるが確証はない。 

掲出で注目されるのは、鵺の四本の足裏の肉球の刻出である。動物をモチーフに

した美術品を、肉球を描いているかに着目し、美術品の鑑賞法に、執拗なまでの精

密な観察の必要を提案した美術研究家が白鶴美術館学芸員・山中理で、山中は、肉

球画についてかく結論した。「この肉球表現は一体何を私たちに語り掛けてくるので

しょうか。肉球表現のある美術作品は、なべて質の高い作品です。・・・・・・結局、作

り手が龍表現を志した時、その鋭い爪と共に足裏・足甲の様子にも心を砕いたかど

うかが、豊かな表現を生み出せるか否かの分岐点になるのではないでしょうか」。(山

中理著『その龍に肉球はあるか?』里文出版・二〇一〇年)

「楽」が刻んだ鵺の四本の足裏のすべてに、いかにも肉感的な肉球が丁寧に彫り出

されている。なかでも右の後肢で顎を掻く仕草をみせるが、ことさらに肉球を露出

しており、山中理論の証明に躍起になっているようで可笑しい。

参考:荒俣宏著『世界大博物図鑑(4)』平凡社・一九八七年

モノの心・形の心日 本 美 術 随 想

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オークションハウス古裂會提供

肉球をみせる鵺

楽 象牙鵺根付 4×3.5×3cmオークションハウス古裂會提供(66回・5月開催出品)

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右双 頭山満 筆 紙本 352×187cm 頭山満翁記念室蔵

左双 米内光政 筆 紙本 352×187cm 頭山満翁記念室蔵

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頭山満・米内光政の書

「菜根譚屏風」

本間

六曲一双

本間一双屏風の右双を頭山満、左双を米内光政が墨書する。『菜根譚』

の一節を二人が書き分けたもので、頭山は「徳」、米内が「心」を分担した。

文意とは別に絵画的にこれをみるならば、者、之、未、有、不、而の文字

が重複している。二人の筆跡を比すと、字は口ほどに物を言うようである。

大胆な頭山、実直な米内と見ては皮相的か。いずれにせよ「

徳」

と「

心」

の分担の妙に感心させられる。

『菜根譚』は明代末期に洪自誠が著した前集・後集からなる思想書。本

国よりも日本人の方が注目したようで、文化五年には刊行され、禅僧を

含む知識人が愛読した。三教一致の立場に立ち、前集では人生、後集で

は閑居の楽しみを説いた。屏風の字句は前集。

頭山と米内の具体的な交遊については情報を持たないが、二人が肝胆相

照らす関係であったことは、この屏風が雄弁に語ってくれる。

(主筆・森川潤一)

米内光政

(よない みつまさ) 略歴

一八八〇(明治一三)年

三月二日、現在の岩手県盛岡市に、旧盛岡藩士米内受政の長男と

して生まれる。

一九〇五(明治三八)年

五月、日露戦争日本海海戦に、海軍中尉として従軍。

一九三六(昭和一一)年

一二月、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に就任。

一九三七(昭和一二)年

二月、林銑十郎内閣の海軍大臣に就任。

四月、海軍大将に昇進。

六月、第一次近衛文麿内閣の海軍大臣に留任。

一九三九(昭和一四)年

一月、平沼騏一郎内閣の海軍大臣に留任。

一九四〇(昭和一五)年

一月、昭和天皇より組閣の命が下り、内閣総理大臣に就任。

七月、陸軍首脳部が米内内閣倒閣のため畑俊六陸軍大臣に辞職を

勧告し、畑陸相の辞表提出後、軍部大臣現役武官制の下で後任

陸相が決まらず米内内閣は総辞職。

一九四一(昭和一六)年

一二月、太平洋戦争勃発。

一九四三(昭和一八)年

六月、盟友の山本五十六元帥の国葬委員長を務める。

一九四四(昭和一九)年

七月、小磯国昭内閣の海軍大臣に就任。

一九四五(昭和二〇)年

四月、鈴木貫太郎内閣の海軍大臣に留任。

八月、東久邇宮稔彦内閣の海軍大臣に留任。

一〇月、幣原喜重郎内閣の海軍大臣に留任。

一二月、昭和天皇より慰労の言葉と記念の硯箱を賜わる。

一九四八(昭和二三)年

四月二〇日、脳溢血・慢性腎炎と肺炎を併発し、自宅で死去。享

年六八歳。

 参考:七宮涬三編『米内光政のすべて』新人物往来社・一九九四年

米内光政は、海軍内の良識派と目され、昭和天皇の信頼が厚かったことで知られる。

宮内大臣を務めた石渡荘太郎は、昭和天皇が時々「米内内閣をつぶしたくなかったネ、

あの時もう少し米内の内閣がつづいていたら、この戦争に突入しなくてもすんだかも

知れないネ」と述べられていたと証言している。

参考:阿川弘之著『米内光政』新潮社・一九七八年

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藤井雅一(黄稚) 《鯉》紙本 パネル 2009年 85×51cm

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藤井雅一(黄稚) 《生き屏風》 紙本 本間六曲一隻 2011年 376×171cm

藤井雅一

(ふじい

まさかず)/黄稚(ホワン・ツィー) 略歴

一九六四(昭和三九)年

江蘇省啓東市出生

一九八四(昭和五九)年

蘇州大学美術学院卒業

一九八五(昭和六〇)年

北京服装学院講師・同学院校章デザイン採用

一九八八(昭和六三)年

世界青年ファッションショー(スイス)入選により研修招待

一九九二(平成四)年

来日

一九九三(平成五)年

京都市立芸術大学大学院美術研究科に研究留学

一九九四(平成六)年

藤井伸恵と結婚

一九九五(平成七)年

京都で和装・洋装の意匠図案作画に従事。

二〇〇七(平成一九)年

「墨の力

│日中・墨人交流展」(京都市美術館)出展

二〇〇八(平成二〇)年

一休寺《虎》(衝立)作画

二〇一〇(平成二二)年

高台寺円徳院《蓮独鯉》(襖絵)作画

二〇一二(平成二四)年

『藤井雅一・黄稚/画集 

龍虎』(日本美術新聞社)近日刊行予定

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師について学んだことはなく、また、煎茶ははじめ村瀬栲亭について学んだといわれる。

江戸、京都、大阪、馬関、長崎、熊本など、全国を旅し多くの文人墨客と交遊したが、

その数は百人を越すといわれ、なかでも頼山陽とは深く親交したといわれる。また、煎茶

の研究に熱心で、新しい知識の吸収のために奔走し、『茶説図譜』など、多くの著作を残

している。天保六年(一八三五)五十六才で没した。

頼山陽は、安永九年(一七八〇)、安芸国竹原の藩儒の家に生まれ、幼少より書を読み

詩文を作った。青年期は素行がおさまらず、放蕩の末、脱藩するなどして廃嫡され座敷牢

にいれられるが、三十二才のとき、京に出て塾を開き、生涯仕官せず、学問に励み著作に

つとめた。詩文書画ともにすぐれ、京に出た頃にはすでにその才名は天下に知られたが、

煎茶に親しむようになったのはこの頃からで、住した鴨川西の水西荘内の小草堂「山紫水

明処」には、多くの文人墨客が寄って書画を語り茶を楽しんだといわれる。

著作に、二十年の歳月を費やしてまとめられた『日本外史』二十二巻のほかに、『日本

政記』十五巻、『通議』三巻などがあり、詩文を集めたものに『山陽詩鈔』がある。天保

三年(一八三二)に五十三才で没した。

青木木米は明和四年(一七六七)京都の茶屋に生まれ、若くして古器を好んで鑑賞し、

木村蒹葭堂に見せられた『龍威秘書』に刺激されて作陶の道に入り、古器を模陶して多く

の煎茶器を手がけた。そのかたわら『龍威秘書』を『陶説』として翻刻し、京焼に新風を

吹き込んだ。また、文人画家としても力を発揮し、煎茶を愛好して文人としても広く知ら

れたという。

文化、文政から幕末にかけては、煎茶が全盛しただけでなく、その影響を受けて文人

画もその全盛期を迎え、また工芸の世界も木米のほかに頴川、道八、六兵衞、保全、和全、

竹泉、宝山などの名工があらわれて、染付、金欄手、交趾、青磁、白磁、南蛮など、多種

多様なものが焼かれ、多くの煎茶器が手がけられて、かつてない隆盛期を迎えた。

また、煎茶の隆盛につれて、中国より煎茶器や文房具が最も数多くもたらされたのもこ

の時期で、伝世する唐物の煎茶器や文房具の大方は、この時期に中国よりもたらされたも

のである。まさに文化、文政から幕末、明治にかけては、量、質ともに、煎茶はその黄金

期ともいうべき時期を迎えたわけだが、これがそのまま山本梅逸らに受け継がれ、それが

さらに竹田の養子、田能村直入や富岡鉄斎らに受け継がれ、煎茶の流儀の誕生もあってま

すます加速し、文久二年(一八六二)四月二十二日に、売茶翁の百回忌を記念して直入に

よって大阪で開かれた青湾茶会には、数百人の参加者と、幾千人の見学者が集まるまでに

なったのである。

煎茶の道具の値段

大正末から昭和の初頭にかけて、数多くの名家やコレクターが世界的な大不況を受けて

旧蔵の名品類を一斉に入札売立したことがある。このときの売立目録に多くの煎茶器が登

場する。昭和六十一年に『煎茶道美術大観』を編纂したおり、収録した煎茶の道具の来歴

を知るのに、これらの売立目録を調べたが、その時の資料にもとづき『煎茶道美術大観』

に収録したものに限定し、煎茶の道具が当時、どのような値段で売買されていたのか、そ

の一部を紹介しよう。ただし落札価格は当時のままのものである。貨幣価値は当時と現在

とでは異なる。仮に一万倍だとすれば当時の一円が現在の一万円ということになる。

まず最初に、大正十四年の大阪の野村家の売立目録に目を通してみよう。この売立目録

には費隠通容筆の書三行一千八百三十九円と、青木木米の三島雲鶴文菓子鉢三千九百十一

円と、唐物で趙昆玉在銘の古錫木瓜式茶心壺六百五十円が登場する。ところが、この唐物

の茶心壺は、このあと、昭和十二年の三楽庵の売立目録にも登場していて、このときは、

一千六百円で落札されている。

次に大正十四年の大阪某家の売立目録だが、これには張星輝の古錫六稜式茶心壺が登場

するが、このときの落札価格の記録は無く、このあと、この茶心壺は昭和五年の大阪某家

の売立目録に登場し、このときは三百八十円で落札されている。

昭和三年の江州の浅見家の売立目録には、宜興窯の紫泥茶銚と青木木米の染付山水之図

詩有茶巾筒と、鉄象嵌玉簪葉式茶量が登場し、茶銚が二百三十九円で落札されているが、

そのほかの落札価格の記録はない。

昭和四年の須磨の中村陶庵の売立目録には、青木木米の急須、涼炉、炉台の一式が

四千九百円、同じく木米の染付淑園九友図茶巾筒が五百三十九円、宜興窯の倶輪独茶銚が

三千三百九十円で落札された記録がある。

昭和十二年の大阪における湯川七石翁の遺愛品の売立目録には、寧窯の乾隆在銘の蕪文

羊耳花瓶二千八百九十円、青木木米の白磁素焼急須二百六十一円、上田秋成の蝶来送刻急

須一百七十三円、九谷吉田屋の赤絵茶巾筒六百十九円、初代秦蔵六の純錫六稜式茶心壺

一千六百七十八円、古漆玉杵嵌長方盆四百八十三円の六点が登場し落札されている。

以上が手許にある売立目録の資料に登場する煎茶の道具のあらましだが、煎茶器がいか

に珍重され、驚くべき値段で売買されていたかということがよくわかる。

これらの現象は、文化、文政から幕末、明治にかけて全盛期を迎えた煎茶のもたらした

もので、これはやがて第一次世界大戦による世界的な大不況と、第二次世界大戦の勃発に

よって、幕が閉じられたのである。(つづく)

(工芸評論家・青山 

清)

背景図版 : 青木木米 白磁霊芝陽文提梁式急須

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わが国の美術と煎茶

わが国の美術に大きな影響をあたえたものの一つに、茶道がある。茶道には二つの流れ

があり、一般的には、抹茶を喫するものを茶道といい、茶葉を煎じて喫するものを煎茶と

呼んでいる。この二つには、あらゆる点で大きな違いがある。いずれも中国からもたらさ

れたのだが、茶道が時の権力者に結びついて広まったのに対して、煎茶は文人らによって

市井の人たちの間に広まったもので、ここに大きな違いがある。

「未来は過去の延長線上にある」といわれるが、この二つを知ることによって、わが国

の美術や美術業界の行方の一端を、うかがい知ることができる。

そこで今回は、わが国の美術と煎茶とのかかわりについて述べてみよう。

前号で、昭和八年に売立られた松本雙軒庵コレクションの売立図録について、その中身

の概要を紹介したが、その中で特に目を引いたのが、田能村竹田と頼山陽の作品の多さで

あった。竹田と山陽の作品の数は、書画のほかの手造りの陶磁器や遺印の類まで入れると

竹田が四十五点、山陽が四十一点にもなる。図録の収録点数の総計が二百七十点だから、

竹田と山陽で全体の約三分の一を占めることになる。

これは文化、文政から幕末、明治にかけて黄金期を迎えた煎茶の影響で、田能村竹田と

頼山陽は、その渦中にあって、煎茶人にもっとも迎えられた文人だったのである。また、

先述の売立図録の入札高値表に記されているこれらの作品の値段は、全盛期の煎茶がいか

に凄まじいものであったかを示すものである。

煎茶をわが国にもたらした隠元と、それをひろめた売茶翁

煎茶は一般的には、十七世紀の中頃、中国より渡来した黄檗の開山、隠元禅師によって

わが国にもたらされ、売茶翁高遊外によって広められたとされている。

隠元禅師は、中国明末の高僧で、日本からの招きに応じて承応三年(一六五四)に門人

や文化人を伴って来朝し、徳川幕府や後水尾法皇の帰依を受けて京都の宇治に黄檗山萬福

寺を創建し、中国明代の文化や煎茶の作法を伝えるとともに、多くの煎茶器をもたらし、

寺の周辺の農民に茶の栽培を奨励したと伝えられる。

煎茶を広めたとされる売茶翁高遊外は、もと黄檗の僧で、延宝三年(一六七五)肥前国

に生まれ、十二才で化霖道龍について得度し、二十二才のとき江戸にのぼり翌年、仙台の

僧堂に入り、二十九才のとき師に従って黄檗山にのぼり、のち肥前に帰っている。

●連載

─美術業界の行方(2)

売茶翁が肥前を離れ灘波をへて京都に移り住んだのは、享保十五年(一七三〇)の秋、

五十七才のときである。伏水街道の第二橋のほとりに通仙亭と名付けた茶店を開いて、は

じめて茶を売ったのは、元文元年(一七三六)、六十二才のときである。 

煎茶全盛の素地を確たるものにした上田秋成と木村蒹葭堂

宝暦十三年(一七六三)に八十九才の高齢をもって亡くなった売茶翁高遊外の後を受け

て煎茶を広めたのが上田秋成で、煎茶器に対する考え方を大きく変えさせたのが木村蒹葭

堂である。

上田秋成は、享保十九年(一七三四)に大阪に生まれ、三十代の前半までは浮世草子の

作家として活躍したが、四十代に入ってからは医家となり、六十才のとき京都に移り住ん

で、儒者で詩文をよくし書画に長じた村瀬栲亭と親交し、田能村竹田や木村蒹葭堂とも交

遊してともに煎茶を愛好した。寛政六年(一七九四)に煎茶書『清風瑣言』を著わし、み

ずからも茶器を手がけたが、『清風瑣言』は空前の売れ行で、これが煎茶の普及をもたら

し、秋成の手作りの茶器は評判を得て、なかには急須一つを十五両で買ったという人物ま

で現れたという。

木村蒹葭堂は、元文元年(一七三六)に大阪に生まれ、長じて家業の酒造業を継いだが

のち船場呉服町で文房具を商い、家が富裕であったところから、和漢にわたる書籍や古器

を蒐集し、浦上玉堂や多くの文人画家を援助したといわれる。もともと客好きであったと

ころへ、蒐集品を多く有していたところから、文人墨客が数多く訪れ、煎茶愛好家を集め

て清風会を主宰するなど、その住まいは文人のサロンと化したといわれる。

煎茶器が、用を第一とする売茶翁の時代から脱して、煎茶器に雅味や美術工芸品的な美

しさが求められるようになり、煎茶器観がうち立てられて、煎茶の美意識が確立されたの

は、この二人に負うところが大きい。

また、木村蒹葭堂は、多くの文人を育て、その文人たちと煎茶を結び付け鑑識眼を高め

て、次ぎに訪れる煎茶全盛期の素地を確たるものにしたが、同時に青木木米を指導するこ

とによって煎茶器制作を促進し、わが国の焼物の中心である京焼に新風を吹き込み、幕末

における京焼全盛期のきっかけを作ったことが、最も高く評価される功績であろう。

文人画を大成させた田能村竹田と史家の頼山陽

田能村竹田は、安永六年(一七七七)豊後国岡藩の藩医の家に生まれ、一八才で藩医と

なるが、二十二才のとき願い出て藩校由学館の教授に転じ、のち頭取となり、三十七才の

とき職を辞して家督を子に譲り、自由の身となって文人の世界に身を投じた。絵は特定の

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入れている「電信柱と電線」は鉄道機構の一部に他ならない。つまり、セザンヌはこ

の画面に、「鉄道駅」と「電信柱と電線」という二つの鉄道画題を描き込んでいるので

ある。

ここで注目すべきは、セザンヌの中学校以来の親友である小説家エミール・

ゾラ

が、この図2が描かれる直前に出版した『我が憎悪』(一八六六年)で、「鉄道と電信」

に三度言及している事実である。

現に、ゾラは冒頭の序文で、「我々は、鉄道と電信(les chem

ins de fer et le

télégraphe électrique

)が、我々の肉体も精神も無限かつ完全に運ぶこの時代にいる。

人間精神が新しい真実の陣痛の中にある、深刻で落ち着きのないこの時代に(註2)」

と言っている。また、「文学と体操」で、「我々は、笑いがしばしば不安の苦笑でし

かない鉄道(des chem

ins de fer

)と息切れした喜劇の時代に、極端な結果が厳格で残

酷な現実である電信(du télégraphe électrique

)の時代にいる(註3)」と述べている。

さらに、「芸術家イポリット・テーヌ氏」で、「私は文学と美術の批評における新しい

科学を、電信と鉄道(du télégraphe électrique et des chem

ins de fer

)の同時代物と見な

す(註4)」と語っている。

こうしたゾラの「鉄道と電信」の強調は、科学技術の発達により急速に発展する同

時代の社会的現実から目を背け、空想上の理想美ばかり追い求めようとする前世代の

古い美意識に異議を唱えるものであった。

例えば、ゾラは、一八六五年には「我が友P・セザンヌ(註5)」に捧げた自伝的

小説『クロードの告白』で、「嘘は沢山だ! 

人生の問題に苦悩している者には、赤

裸々な真実は奇妙な甘美さを持っている(註6)」と告げている。また、一八六六年

には「小説の二つの定義」で、「『近代』の科学的・数学的傾向」の下に「観察と分析

の小説」が生れたと説いている(註7)。さらに、この一八六六年の『我が憎悪』で、

文学における「科学」的探究という新しい潮流を論じ、「近代社会はここにあり、歴

史家達を待っている」と綴っている(註8)。そして、一八六六年に「我が友ポール・

セザンヌ(註9)」に献じた『我がサロン』で、「科学」の時勢に「夢想を描くことは

女子供の遊びだ。男には現実を描く責任がある」と檄している(註10)。

これに関連して、セザンヌは、その前年の一八六五年三月一五日付カミーユ・ピサ

ロ宛書簡で、自分達の新しい美意識を認めようとしないサロンにわざと挑戦的な絵画

を出品して、「アカデミーを激怒と絶望で真っ赤にしてやる(註11)」と意気込んでい

る。また、その当時のことを、ゾラは「テオフィル・ゴーティエ」(一八七九年)で、

「ロマン主義者達は、世紀の精神まで嫌悪した。科学と工業の大きな運動は彼等の

大嫌いなものだった。彼等にとっては、鉄道や電信(un chem

in de fer, un télégraphe

électrique

)は、最も美しい風景を台無しにするものだった(註12)」と回想している。

図2:ポール・セザンヌ《ボニエールの船着場》1866年夏

15

Page 15: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

ポール・

セザンヌ(一八三九〜一九〇六)は、印象派に属した画家の中で一番最初に

「鉄道絵画」を描いている!

なぜ、誰が一番早く蒸気鉄道を描いたのかが重要なのだろうか? 

それは、シャル

ル・

ボードレールのいう「近代性(モデルニテ)」への感受性の鋭敏さを測る指標だか

らである。

フランス美術で蒸気鉄道を初めて本格的に描いたのは、印象派である。そして従来、

印象派の中で最も早く蒸気鉄道を絵画化したと言われてきたのがクロード・モネであ

り、その作品が《田舎の列車》(一八七〇年)(図1)であった。

一八七〇年頃のフランスでは、まだ蒸気鉄道は絵画に描かれることはほとんどな

かった。なぜなら、当時の人々にとって、最先端の近代技術である蒸気機関車は、異

常な速度と轟音で爆走する醜悪な怪物であり、新たに敷設される鉄道線路は、自然風

景を暴力的に貫通する不気味な異物だったからである。

そのため、鉄道線路が走る風景を絵画に描くことは忌避され、まれに蒸気機関車が

画面に描かれるとしても、中心的な主役としてではなく、遠景に小さく脇役として描

かれるのが常であった。また、その場合でも、本画としての油彩画ではなく、画格が

低いとされる版画や挿絵として描かれるのが一般的であった。そこに、フランス美術

で蒸気鉄道を初めて本格的に油彩画で主題化した、モネを筆頭とする印象派の画期的

先進性があったといってよい(それでもなお、図1ではまだ蒸気機関車は樹木の背後に隠

されて描かれていることに注意したい)。

ここで興味深いことは、一般には「自然愛好の画家」としてのみ知られるセザンヌが、

実はモネよりも約四年早く蒸気鉄道を画題化した「近代生活の画家」でもある問題で

ある。事実、セザンヌは一八六六年夏に《ボニエールの船着場》(図2)を描いている。

実際に、その現場に立つと、画面左の電信柱の足元にパリ=ル・アーヴル鉄道路線

のボニエール駅が存在し、画面中景の左右を鉄道線路が横切っていることが分かる

(図3〜図8)。この明白な景観的事実を、写生のためにこの場所に滞在したセザンヌ

が認識していなかったことはありえない。

また、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』(一九七七年)によれば、

電信は、一九世紀に汽車の運行調整のために鉄道路線に付随して発展した。(註1)そ

して、ボニエール駅の開設が一八四三年五月九日である以上、ここでセザンヌが描き

●連載

─美術への新視点

セザンヌと蒸気鉄道(2)

図1:クロード・モネ《田舎の列車》1870年

14

Page 16: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

図3~図8は、筆者が2006年8月27日に撮影したボニエール駅周辺の現場風景。実際のボニエール駅の列車の通過風景は、筆者撮影による次の動画を参照。

http://www.youtube.com/watch?v=eq8ZiwmJiMg

図3

図5

図7

図4

図6

図8

17

Page 17: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

そして、セザンヌは、この図2を描いた一八六六年夏に、ゾラと一緒にボニエール

周辺で夏休暇を過ごしている。また、描き上げられた図2は、ゾラが亡くなるまで所

蔵していた。

すなわち、この図2は、二〇代のセザンヌとゾラの一夏の青春の記念であり、現地

を知る二人にとって、画面に「留守絵」的に確かに描き込んだ蒸気鉄道は、前世代の

古い美意識に反抗して同時代事物の芸術的主題化を称揚するゾラに対する、セザンヌ

の親密な同志的共感の表明であったと解釈できる。少なくとも、セザンヌが当時はま

だ風景を醜くすると敬遠されていた「鉄道や電信」を画面から除外しなかった背景に

は、ゾラとの交友があったことは間違いない。

興味深いことに、後にゾラは、セザンヌを主人公のモデルとする『制作』(一八八六

年)で、パリからボニエールへの鉄道旅行を魅力的な最新風俗として取り上げ、正に

この作品に描かれた場所を描述している。このとき、ゾラの脳裏には、セザンヌの描

いた図2の画像が浮かんでいたはずである。

クロードは、一日中彼女と一緒にいられることに狂喜し、彼女を郊外へ連れ出したいと

考えた。遥か遠く、大きな太陽の下で、彼女を独占したかったのである。クリスティーヌ

も大喜びだった。二人は夢中で飛び出し、サン・ラザール駅に駆け付け、発車間際のル・

アーヴル行鉄道列車に飛び乗った。クロードは、マントの先にあるベンヌクールという小

村を知っていた。そこには芸術家達の常宿があり、彼も時々仲間達と出かけていた。蒸気

鉄道で二時間なら気にならず、まるでパリ近郊のアニエールに出かけるように、彼は彼女

をベンヌクールに昼食に連れ出したのである。彼女は、この果てしなく続く旅行に大はしゃ

ぎだった。遠いほど素敵、世界の果てまでも! 

二人には、夜なんて永遠に来ないかのよ

うだった。一〇時に、二人はボニエールで下車し、渡し舟に乗った。古舟は、軋みつつ鎖

を伝って航行した。ベンヌクールは、セーヌ川の対岸にあるのだ。(註13)

そうであるならば、この文章と同じ場所を描出している図2にもまた、ここで記述

されているのと同様の蒸気鉄道の高速移動的解放感が判じ絵的に内包されていると指

摘できる。

いずれにしても、セザンヌが描いた《ボニエールの船着場》(一八六六年夏)(図2)

は、彼の画業の中で最も早い鉄道絵画であり、印象派に属した画家の中でも一番最初

に描かれた鉄道絵画であると主張できる。(つづく)

(美術史家・秋丸知貴)

(註1)Wolfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung

von Raum und Zeit im

19. Jahrhundert, München, 1977; Frankfurt am

Main,

2004, pp. 32-34.(邦訳、ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』加藤二

郎訳、法政大学出版局、一九八二年、四四│四八頁。)

(註2)Ém

ile Zola, M

es Haines (1866), in Œ

uvres complètes, I, Paris: N

ouveau M

onde, 2002, p. 723.

(註3)Ibid., p. 750.

(註4)Ibid., p. 835.

(註5)Ém

ile Zola, La C

onfession de Claude (1865), in Œ

uvres complètes, I, Paris:

Nouveau M

onde, 2002, p. 407.

(註6)Ibid., p. 439.

(註7)Ém

ile Zola, “D

eux définitions du roman ” (1866), in Œ

uvres complètes, II,

Paris: Nouveau M

onde, 2002, p. 510.

(註8)Ém

ile Zola, M

es Haines (1866), in Œ

uvres complètes, I, Paris: N

ouveau M

onde, 2002, p. 820.

(註9)Ém

ile Zola, M

on Salon (1866), in Œuvres com

plètes, II, Paris: Nouveau

Monde, 2002, p. 617.

(註10) Ibid., p. 642.

(註11)Paul C

ézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John

Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augm

entée, Paris, 1978, p. 113.

(註12)Ém

ile Zola, “Théophile G

autier ” (juillet 1879), in Œuvres com

plètes, X, Paris:

Nouveau M

onde, 2004, p. 710.

(註13)Ém

ile Zola, L ,Œ

uvre (1886), in Œuvres com

plètes, XIII, Paris: N

ouveau M

onde, 2005, p. 109.

(邦訳、エミール・ゾラ『制作(上)』清水正和訳、岩波文庫、

一九九九年、二六〇│二六一頁。)

本記事は、二〇〇九年六月一三日に京都大学で開催された日仏美術学会第一一一

回例会で、「ポール・セザンヌの鉄道主題

│《ボニエールの船着場》(一八六六年夏)

を中心に」と題して口頭発表した内容の要約である。

また、本連載記事は、二〇〇七年五月二五日に九州大学で開催された美術史学会

第六〇回全国大会で、「セザンヌと蒸気鉄道」と題して口頭発表し、二〇一一年三

月に形の文化会の『形の文化研究』第六号で論文発表した、「セザンヌと蒸気鉄道

│一九世紀における近代技術による視覚の変容」の要約である。

なお、本連載記事は、筆者が研究代表を務める、二〇一〇年度〜二〇一一年度京

都大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト「近代技術的環境における

心性の変容の図像解釈学的研究」の研究成果の一部である。同研究プロジェクトの

概要については、次の拙稿を参照。秋丸知貴「近代技術的環境における心性の変

容の図像解釈学的研究」『こころの未来』第五号、京都大学こころの未来研究セン

ター、二〇一〇年、一四│一五頁。(http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronom

irai/pdf/vol5/K

okoro_no_mirai_5_02_02.pdf

16

Page 18: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

New Viewpoint on Art

Cézanne and Steam Railway (2)

Paul Cézanne (1839–1906) was the first painter to depict the steam railway among impressionist painters!This is an important fact, which shows that he had the most acute sensibility with regard to “modernité” (modernity), as referred to by

Charles Baudelaire.In France, the impressionist painters were the first ones to ardently portray the steam railway. It has been said that Claude Monet’s A

Train in the Country (1870) (Fig. 1) is the earliest impressionist railway painting. In the France of the 1870s, it was not conventional to paint the steam railway because it was technologically modern and was considered

an ugly monster that would advance forward at an extraordinary speed with roaring sounds. Railroads were also considered intruders in the natural landscapes.

Therefore, painters avoided painting sceneries in which the railway would be prominent. If a steam locomotive had to be depicted, it was usually drawn small and from a distant view and was never the main player but a by-player. Even in such cases, the work was usually a drawing or a print and never an oil painting. The former were considered inferior to the latter. Thus, members of the impressionist group lead by Monet were considered innovators in the sense that they were the first ones in France to topicalize the steam railway through oil paintings. (Nevertheless, I would like to point out that, in A Train in the Country, the steam locomotive was kept hidden behind trees.)

Interestingly, Cézanne, a painter of modern life as well as a well known nature lover, topicalized the steam railway about four years before Monet did. In fact, Cézanne painted Ferry at Bonnières (Fig. 2) in the summer of 1866.

If one actually stands at the spot from which the scene is viewed, one will notice that the Bonnières station on the Paris to Le Havre line is near the telegraph pole, which is to the left, and the train passes from the right to the left (Fig. 3–Fig.8). Cézanne who took this spot to sketch must have recognized this specific scene.

Moreover, according to Wolfgang Schivelbusch’s The Railway Journey (1977), in the nineteenth century, the telegraph network developed along with the railway network to facilitate the smooth operation of the train system (1). When the Bonnières station was established on May 9, 1843, “the telegraph pole and electric wires,” which Cezanne depicts (Fig. 2), were a definite part of the railway mechanism; Cezanne depicted two railway subjects: “a station” and “a telegraph pole and electric wires” in the painting.

Here, it is very important to note that novelist Emile Zola, Cezanne’s best friend since junior high school, mentioned “the railway and the telegraph” three times in My Hatreds (1866) published just before Cézanne’s revelation of his painting.

Actually, Zola, in the preface, said, “We are in an age in which, through the railway and the telegraph, we can transport our bodies and thoughts absolutely and infinitely, and in which the human mind suffers tremendous pain and is serious and restless” (2). In “Literature and Gymnastics” Zola wrote, “We are in an age in which the railway often elicits uneasy bitter smiles like those elicited by a bad comedy, and in which, the telegraph, in the most extreme cases, conveys merciless realities” (3). Moreover, in “Mr. H. Taine, Artist” Zola insisted, “I believe that the new scientific method of critiquing literature and art is contemporaneous with the telegraph and the railway” (4).

Thus, through mentions of “the railway and the telegraph,” Zola objected to the former generation’s old aesthetic sense. The members of this generation avoided involving themselves in the contemporary society that was developing quickly and only wanted to pursue the idealized and fantastical notion of beauty.

Fig. 1Claude MonetA Train in the Country1870

Fig. 2Paul CézanneThe Ferry at Bonnièressummer of 1866

Fig. 3 Fig. 4

(1)Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, The University of California Press, 1986, pp. 29-32.(2)Émile Zola, Mes Haines (1866), in Œuvres complètes, I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 723. (3)Ibid., p. 750. (4)Ibid., p. 835.

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Page 19: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

For example, in Claude’s Confession (1865) that was dedicated to “my friend P. Cézanne” (5), Zola proclaimed that “No more lies! The brutal truth is strangely sweet for those who are tormented by the problems of life” (6). In Two Definitions of the Novel (1866), Zola explained that “the novel method of observation and analysis” was produced under the “scientific and mathematical tendency of modern times” (7). In My Hatreds (1866), Zola discussed the new trend of “scientific” study in literature and argued, “Modern society is here and is waiting for the historians” (8), and, in My Salon (1866), which he dedicated to “my friend Paul Cézanne,” (9) Zola claimed that under the “scientific” trend of the times, “To paint dreams is child’s and woman’s play; men have to paint realities” (10).

Relevantly, in his letter to Camille Pissarro on March 15, 1865, Cézanne said that he intended to send his aggressive painting to a salon that did not accept its new aesthetic sense and “make the Institute blush with rage and despair” (11). Zola also commented in Theophile Gautier (1879) that “Romanticists abominated the spirit of the century. They abhorred the great scientific and industrial movement. According to them, the railway and the telegraph ruined the best of sceneries” (12).

Moreover, Cézanne enjoyed the vacation with Zola around Bonnières in the summer of 1866 and painted Ferry at Bonnières during that period; Zola owned the painting until his death.

In short, it can be interpreted that this painting commemorates Cézanne and Zola’s youthful summer. Undoubtedly, Cezanne and Zola, who were aware of the actual spot, understood that this picture topicalized the steam railway. This is indicative of the intimate relationship between them. It is certain that to solidify his friendship with Zola, Cézanne included “the railway and the telegraph,” which was then disliked by people.

Interestingly, in The Masterpiece (1886) whose protagonist is modeled on Cézanne, Zola wrote about a train trip from Paris to Bonnières as trendy new custom and described the exact same place that is depicted in the painting.

Claude was delighted to have her with him for a whole day and suggested taking her to the country, feeling he wanted her all to himself, far away from everything, in the sunshine. Christine was thrilled by the idea, so they rushed out like a pair of mad things and reached the Gare Saint-Lazare just in time to jump into the train for Le Havre. He knew a small village just on the other side of Mantes, Bennecourt, where there was an artists’ inn on which he had descended more than once with his friends, and, without a thought for the two-hour journey, he took her there for lunch with as little fuss as if he had been taking her no farther afield than Asnières. She thought the long journey was great fun; the longer the better! It seemed impossible that the day itself could ever come to an end. By ten o’clock they were at Bonnières. There they took the ramshackle old ferry boat, worked by a chain, across the Seine to Bennecourt (13).

Therefore, it can be said that Ferry at Bonnières, which depicts the same place as this text describes, expresses the same feeling of freedom induced by the high-speed of the steam railway. It can be concluded that the Ferry at Bonnières (summer of 1866) (Fig. 2) by Cézanne is the earliest impressionist railway painting.

(AKIMARU Tomoki / Art Historian)

Fig. 5

Fig. 3–8 depict the scenery around Bonnières station that the present author photographed on August 27, 2006. Watch the following film on the actual scenery through which the train passes at Bonnières station.http://www.youtube.com/watch?v=eq8ZiwmJiMg

Fig. 6 Fig. 7 Fig. 8

(5)Émile Zola, La Confession de Claude (1865), in Œuvres complètes, I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 407. (6)Ibid., p. 439. (7)Émile Zola, “Deux définitions du roman” (1866), in Œuvres complètes, II, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 510. (8)Émile Zola, Mes Haines (1866), in Œuvres complètes, I, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 820. (9)Émile Zola, Mon Salon (1866), in Œuvres complètes, II, Paris: Nouveau Monde, 2002, p. 617. (10)Ibid., p. 642. (11)John Rewald (ed.), Paul Cezanne Letters, translated from the French by Marguerite Kay, New York, 1995, p. 102. (12)Émile Zola, “Théophile Gautier” (juillet 1879), in Œuvres complètes, X, Paris: Nouveau Monde, 2004, p. 710. (13)Émile Zola, The Masterpiece, translated by Thomas Walton, translation revised and introduced by Roger Pearson, Oxford University Press, 1999, pp. 155-156.

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Page 20: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

日本絵画のひみつ展

日本近世の画家達がどのように絵画を作

り上げていたかを「ひみつ」と捉え、形態・

技法・素材の多角的な観点からその特質と

魅力に迫る、「日本絵画のひみつ」展が神戸

市立博物館で開かれた。本展は、同館の開

館三〇年プレ企画特別展であり、所蔵する

異国趣味美術を収集した「池長孟コレクショ

ン」を中心に、関連作品一〇五点が展覧さ

れた。

本展の核心は、十六世紀の南蛮貿易時代

以来、日本がいかに西洋美術の影響を受容

してきたかを辿ることにある。特に、明治

以後に西洋の「アート」概念を摂取し、展

覧会や美術学校等の美術制度が確立される

中で、「(西)洋画」に対する新ジャンルと

して「日本画」が成立し、それ以後の近代

的な「日本画」がどのように西洋化された

か、またそれ以前の伝統的な「日本画」様

式がどのように忘失されたかを再考するも

のであったと言って良い。

形態面では、日本の伝統絵画は住環境に

合わせて、掛軸、巻子、屏風、衝立など様々

な形式を持ち、時には対幅・一双等の複数

で一作品と数えられ、画中の賛や落款もま

た重要な構成要素であることが、河村若芝

《寒山拾得図》や狩野内膳《南蛮屏風》等で

示されていた。また作品は、絵自体だけで

はなく表具と併せて初めて完成するもので

あり、表装が作品鑑賞に大きく反映するこ

とが《泰西王侯騎馬図》等で紹介されてい

た。技

法面では、日本近世の画家達は、全く

の独創ではなく先行する本画や粉本の模写

から制作を始めるのが一般的であることが、

雪村周継や狩野探幽等の実例で表されてい

た。また、その手本は中国や西洋にも大い

に求められており、本展の中心画家ともい

える江戸時代の秋田蘭画の佐竹曙山・小田

中国近代絵画と日本展

十九世紀後半から二十世紀前半の約

一〇〇年の近代中国絵画の展開を、「伝統」

と「近代」という時間軸と、「東洋」と「西洋」

という空間軸に基づき、日本との交流とい

う観点から概観する、「中国近代絵画と日本」

展が京都国立博物館で開催された。

展示内容は、南京総領事等を務めた外交

官・須磨弥吉郎が、一九二七(昭和二)年

から一九三七(昭和一二)年までの中国在

勤中に収集し、京都国立博物館に寄贈した

「須磨コレクション」を核とし、近代中国画

壇で活躍した呉昌碩、斉白石、高剣父、黄

賓虹、張大千、徐悲鴻、劉海粟など、国内

外の約二〇〇点の優品で構成されていた。

概略すれば、日中両国にとって「近代」は、

アヘン戦争と黒船来航に象徴される欧米列

強の東アジア進出から始まる。圧倒的優位

を示す近代西洋の合理主義精神と科学技術

文明への対応は、中国よりも日本の方が早

かった。日本が和魂洋才を唱え、明治維新

を通じていち早く西洋型近代国家へと発展

するのに対し、中国は中華思想からの脱却

が遅れ、戊戌の変法の失敗等により政治・

会・

経済面で長らく低迷する。

文化・

芸術面でも、当初特に絵画では、日

本が西洋の「アート」の翻訳概念としての

「美術」を積極的に推進したのに対し、中国

は伝統的な文人の教養である詩書画として

の「筆墨」を保守する傾向が強かった。し

かし、中国も次第に西洋的近代化の波に洗

われる中で、「筆墨」から「美術」への革新

が目指される。そのとき中国が、留学や視

察等を通じて、画法・美術史・美術制度等

の多くの面で参考にしたのが、先行する日

本であった。

画法では、日本における「(西)洋画」と

「日本画」と同様に、中国でも西洋画材を用

いる「西画」と伝統画材を用いる「国画」

野直武や、洋風画家の石川大浪・谷文晁等

が、鎖国という情報の限定された時代にい

かに精力的に西洋的写実画法を消化し新た

な作品へと昇華したかが、実際に参照した

原本と数多く比較されていた。

素材面では、伝統的な日本画では、鮮や

かな立体表現を行う際には裏彩色が行われ

ていたが、西洋美術の感化でより明るく華

やかな最新の色材が追求されたことが、曙

山《椿に文鳥図》や直武《不忍池図》のプ

ルシアンブルー及び、狩野芳崖《仁王捉鬼

図》の合成顔料等に指摘されていた。また、

明治三〇年代以降の近代的な日本画では、

人造や天然の新しい岩絵具も開発され、展

覧会用や洋風建築の壁画用に額装の大画面

が志向されるにつれて、絵絹に替わり巨大

和紙が普及したことも説明されていた。

本展が多様な作品を通じて示す重要な意

義は、西洋美術の輸入は非常に長い歴史を

持ち、明治以後に限ってもそれ自体が既に

新たな日本絵画の伝統を形成しているとい

う事実である。その意味で、当然明治以後

の近代的な「日本画」は正統な日本の伝﹅

統﹅

絵﹅

画﹅

として評価されるべきである。しかし

同時に、明治以前の伝統的な「日本画」が

持つ豊潤な奥行きもまた決して忘却される

べきではないだろう。そこにこそ、新たな

伝統の土壌となる「日本絵画のひみつ」が

隠されているのではないだろうか。

が成立し、特に伝統的な水墨画に西洋的な

立体感や空間表現を取り入れる「新国画」

には、西洋的写実を消化した円山四条派の

流れを汲む京都画壇の竹内栖鳳や山本春挙

等の影響が大きかったことが、実作品の比

較展示により明瞭に示されていた。

また、中国が一方的に日本に学んだので

はなく、日本もまた、西洋化を進める過程

で、東洋の文人的伝統を中国から積極的に

受容しており、近代日中の国際交流が双方

向的であったことが、富岡鉄斎を巡る人間

関係等で明確に提示されていた。

こうした近代中国絵画を紹介する展覧会

が国立博物館で開催される背景には、昨今

の中国の急速な台頭があることは間違いな

い。展覧会内容における西高東低を脱し、

従来知られていなかった中国との歴史的・

文化的交流に光を当てた点で、本展を高く

評価したい。

本展でもう一つ特筆すべきは、須磨弥吉

郎が、作品のほとんどを当地の画家や政治

家達との交友によって入手している点であ

る。人間的な魅力を備え、確かな審美眼を

持ち、内外新旧の文化や芸術を正しく評価

できる、真の「文人」外交官、さらには真

の「文人」政治家の登場を待ちたい。

展覧会評◉Exhibition Review

神戸市立博物館

二〇一一年一二月一〇日~

        

二〇一二年一月二二日

京都国立博物館

二〇一二年一月七日~

        

二〇一二年二月二六日

21

Page 21: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

大阪市立近代美術館は

不要か?

橋下徹大阪市長が言及した、大阪市立近

代美術館建設計画の白紙化が話題を呼んで

いる。

大阪市立近代美術館は、一九八三(昭和

五八)年に大阪市制一〇〇周年記念事業とし

て構想され、一九九〇(平成二)年に建設準

備室を設置。一九九八(平成一〇)年に、中

之島の大阪大学医学部跡地が建設予定地とし

て購入され、同年基本計画が策定された。

収蔵品としては、大阪市出身の佐伯祐三

《郵便配達夫》等の約三五〇〇点の寄贈を

受け、アメデオ・モディリアーニ《髪をほ

どいた横たわる裸婦》(一九億三〇〇〇万

円)、サルヴァドール・

ダリ《幽霊と幻影》

(六億三〇〇〇万円)等、既に一五三億円

の美術品を購入し、約四千五〇〇点の作品

を所有している。

しかし、バブル崩壊を経て、二〇〇四(平

成一六)年に、当時の関淳一市長が財政難等

を理由に計画を凍結。二〇〇七(平成一九)

年に計画を再開した当時の平松邦夫市長も、

二〇一〇(平成二二)年に発表した「大阪

市立近代美術館整備計画(案)」で、延床

面積を二万四〇〇〇平米から一万六〇〇〇

平米へ、整備費を二八〇億円から一二二億

円へ縮小し、さらに二〇一一(平成二三)

ぜひ大阪に、パリのオルセー美術館や

ニューヨーク近代美術館に並ぶ、素晴らし

い近代美術館を!

東日本大震災と

岡倉天心・五浦六角堂

二〇一一(平成二三)年三月一一日の東

北地方太平洋沖地震による約一〇メートル

の津波で土台だけを残して流失した、茨城

県北茨城市の五浦海岸にある「六角堂」の

復興が進められている。

この六角堂は、岡倉天心(文久三・

一八六三〜大正二・一九一三)が思索の場

所として、一九〇五(明治三八)年に自ら

設計したものであり、国登録有形文化財に

認定されていた。天心は、旧文部省に入省

後、東京美術学校(現東京藝術大学)校長

や、米国ボストン美術館の中国・日本美術

部長を務め、日本の美術行政及び日本画の

復興・革新運動に携わると共に、東洋や日

本の芸術を海外に広く紹介した思想家・実

務家である。『茶の本』や『東洋の理想』

等の著作でもよく知られている。

六角堂の建設当時、天心は誹謗により東

京美術学校校長を失職し、新たに創設した

日本美術院の新画風も「朦朧体」と非難さ

れるなど非常に厳しい苦境にあった。それ

でも天心は、自らの理念に共鳴する横山大

観、菱田春草、下村観山、木村武山という

若き俊英画家達を率いて五浦に移住し、意

欲的に近代日本画の名作を世に送り出し、

画壇に一時代を築く。その指導活動の拠点

となったのが、この六角堂であった。

現在、六角堂を管理する茨城大学は、

「岡倉天心記念六角堂等復興基金」を設立

し、文部科学省、茨城県、北茨城市、関係

機関等と協力して、六角堂の再建に取り組

んでいる。二〇一一(平成二三)年一一月

二一日には再建起工式が行われ、竣工は

二〇一二(平成二四)年四月中旬を予定し

年五月に事業費を追加で一割削減する方針

を決めていた。

これに対し、同年一二月に徹底した財政

改革を掲げて新市長に当選した橋下氏が、

建設計画の一からの見直しを表明。不建設

の場合の国への用地購入契約上の違約金約

四八億円の支払いや、所蔵作品の売却も辞

さない姿勢を示したため、全国的に大きな

注目を集めた。

ただし、橋下氏の大阪市立近代美術館建

設計画の白紙化は、「大阪市単独での建設」

についてであり、「美術館の建設」自体に

ついてではないことに注意したい。

事実、橋下氏は二〇一一(平成二三)年

二月二日に自身の公式ツイッターで次のよ

うに述べている。「僕は美術館が要らない

と言っているわけではありません。こん

な二九〇億円の事業をまた大阪市が単独で

やるの? 

これこそかつて誤ってきた二重

行政の典型例なんです。大阪府は現代美術

品を抱え込んで、現代美術センターを作り

たい。そしたら大阪全体のことはまとめて

やったらいいじゃないの」。

大阪市立近代美術館の建設の是非や具体

的内容はともかく、初めに建設ありきでは

なく、より良い美術館を目指して建設の文

化的意義や経済的合理性を広く議論の俎上

に載せた点では、橋下氏の建設計画の白紙

化は高く評価できる。今後の展開を、期待

を込めて見守りたい。

既に大阪市には、市の大阪市立美術館、

東洋陶磁美術館、旧サントリーミュージア

ム、府の大阪府立現代美術センター、国の

国立国際美術館等が存在する。これらが

個々に特色を発揮しつつ相互に連携すれ

ば、大阪市は一大ミュージアム・コンプ

レックスとして大きな可能性を秘めてい

る。もし芸術作品を通じて人々の心を豊か

にし、文化的・経済的にも地域や国際社会

に貢献できるならば、大阪市立近代美術館

は決して不要ではないだろう。

ている。屋根の宝珠には海底捜索で回収さ

れた元の水晶柱を組み込み、瓦は愛知県、

ガラスはイギリスから取り寄せる等、創建

当初に限りなく近い復元的再現が目指され

ている。

また、既に失われていた近隣の日本美

術院研究所の再建や、復興の経緯を展示す

る復興記念館の新設も併せて進められてい

る。復興基金の目標は二億円であり、現在

約二三〇件三五〇〇万円の寄付が集まり、

引き続き募金が呼びかけられている。

さらに、復興支援の一環として、生誕

一五〇年、没後一〇〇年にあたる二〇一三

(平成二五)年の公開を目指して、岡倉天

心の映画化も松村克弥監督により進められ

ている。二〇一二(平成二四)年一一月に

クランクインの予定であり、橋本昌茨城県

知事、池田幸雄茨城大学学長、宮田亮平東

京藝術大学学長が特別顧問を務める「天心」

映画実行委員会が発足し、一口一万円から

協賛金を募集している。

天心が東京から離れて五浦に移住した

時、一般からは「都落ち」と揶揄された。

しかし、実際に六角堂から清冽で峻厳な海

岸風景を眺めていると、天心は強固な意志

と雄渾な大志を湧き立たせる再起の地とし

て、五浦を自発的に選択したと感じずには

いられない。再建される新しい六角堂が、

東日本の復興、そして日本全体の復興のシ

ンボルとなることを心より祈念したい。

時評◉Review

on current events

アメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》1917年

五浦海岸と流失前の六角堂(茨城大学提供)

20

Page 22: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

藤島武二 《芳蕙》 1926(大正15)年

竹久夢二 《黒船屋》1919(大正8)年

美人画 

再見

藤島武二(慶応三・一八六七〜昭和一八・一九四三)は、明治末から昭和期の洋画家。初め日本画

を学ぶが、二四歳の時に洋画家に転向。一歳年上の黒田清輝の推薦を受けて、一八九六(明治

二九)年に東京美術学校(現東京藝術大学)の助教授に就任した。以後、情感豊かな装飾的画風

を示し、洋画壇の中心画家として活躍した。

竹久夢二(明治一七・一八八四〜昭和九・一九三四)は、明治末から昭和期の画家・詩人。終生在野

にあって、大衆の生活に根ざした芸術を展開した。特に、大正期に発達した装丁挿絵や商業

美術の分野で活躍し、独特の叙情を示す「夢二式美人」により国民的画家として人気を博した。

筆名の夢二は、尊敬する藤島武二から「二」の字を一字取っている。

武二の《芳蕙》と夢二の《黒船屋》のモ

デルは、共にお葉(永井カ子ヨ)とされる。

一九一七(大正六)年の一三歳の時に東京

美術学校の人気モデルとなったお葉は、

一九一九(大正八)年の一六歳の時に夢二

と知り合い同棲、一九二五(大正一四)年に

夢二と別離し、一九三一(昭和六)年以後

は医師の妻として生涯を送った。

参考:金森敦子著『お葉というモデルがいた

夢二、晴雨、武二が描いた女』晶文社・一九九六年

暖かな春が来ました。『日本美術新聞』の第二号を

お送り致します。

創刊号である前号を刊行してすぐに、大勢の美術

愛好家の方々から暖かい応援の言葉を頂きました。

ある方からは、「近年、美術に関する読み物が少ない

と思っていた。このような美術新聞が発行されるこ

とはとても嬉しい」と言って頂き、お世辞とは分か

りつつも、編集部一同、厳しい出版環境下での編集

の労も報われるように感じています。

また、表紙の生け花や、前号の特集「逸品発見」

の地球儀、連載「美術業界の行方」や「セザンヌと

蒸気鉄道」にもそれぞれ数多くのお問い合わせやご

声援を頂いており、執筆者一同心よりありがたく感

じています。

一万二〇〇〇部という小規模の発行部数ですが、

「美の用の敷衍」という社是の下、これからもより良

い紙面作りに鋭意努力して参りますので、どうぞ宜

しくご愛顧のほど心よりお願い申し上げます。 

(編集部一同)

『日本美術新聞』は編集方針として、一般的に広く

知られていてもまだ知られざる一面があったり、素

晴らしい価値があってもまだ一般には広く知られて

いない美術を積極的に紹介していきたいという秘め

た野心を持っています。限られた紙数に頭を悩ませ

つつ、今日も編集作業に取り組んでいます。 

(M)

日本美術新聞社の公式ウェブサイトを立ち上げま

した。バックナンバーを無料で閲覧して頂くことが

できます。どうぞ、ご訪問頂けますよう心よりお待

ち申し上げております(http://w

ww.n-artjournal.com

)。

(A)

編集後記

Page 23: NIHON ART JOURNAL March/April, 2012

辻惟雄

『奇想の系譜』

筑摩書房(ちくま学芸文庫) 

二〇〇四年

東京大学名誉教授で日本美術研究の第

一人者である、辻惟雄氏が三〇代後半で

著した、日本近世の個性的な前衛画家達

を論じた意欲作。

大学紛争燃え盛る一九六八年に『美術

手帖』で連載された後、一九七〇年に

美術出版社から単行本として刊行され、

一九八八年にぺりかん社から新版が発行

され、二〇〇四年に筑摩書房のちくま学

芸文庫に加わった、日本絵画史の相貌を

大きく変えた画期的名著である。

本書は、当時ゲテモノとして長く忘れ

られていた、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊

藤若冲、曾我蕭白、長澤芦雪、歌川国芳

を、大量の図版を掲載して紹介し、再評

価の機縁を作った。現在の若冲・蕭白ブー

ムの先鞭を付けたことでも知られる。

本書がこの六人を位置付ける「奇想の

系譜」とは、「眠っている感性と想像力が

一瞬目覚めさせられ、日常性から解き放

たれたときの喜び」をもたらす、「奇矯

(

エキセントリック)

で幻想的(

ファンタ

スティック)

なイメージの表出を特色と

する画家の系譜」の謂である。

こうした意味での「奇想」は、「エキセ

ントリックの度合の多少にかかわらず、因

赤瀬川原平・山下裕二

『日本美術応援団』

日経BP社 

二〇〇一年

「日本美術応援団」を標榜する、前衛芸

術家・芥川賞作家で『老人力』『超芸術ト

マソン』『路上観察学入門』等の著者と

して知られる赤瀬川原平(団員1号)と、

明治学院大学教授で室町時代の水墨画を

専門とする美術史家である山下裕二(応

援団長)の対談集。二〇〇四年には、筑

摩書房のちくま文庫に入っている。

本書は、『日経アート』一九九六年五月

号から約三年間、隔月で一八回連載され

た日本美術を巡る対談を基に、装幀の南

伸坊(団員2号)を加えた鼎談「第一回

特別ゼミ」からなる。ゼロ年代の日本美

術再評価ブームの基点となった快著であ

り、その後一〇年以上続いている日本美

術応援団シリーズの最初の一冊である。

本書の刊行当時、一般に日本で行われ

る展覧会や出版される書籍は、まだ西洋

美術偏重の傾向が強かった。これに対し、

本書は、幅広く明快に日本美術の魅力を

紹介し、日本美術をより身近に感じさせ

る新しい鑑賞方法を提案する。

取り上げられるのは、雪舟、等伯、若

冲、写楽、北斎、光琳、応挙、蕭白、蘆

雪、円空、木喰、また高橋由一、青木繁、

佐伯祐三、安井曾太郎、さらに縄文土器、

襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のす

べてを包括できる」ので、異端の少数派で

あるどころか、その系譜には、雪村、永

徳、宗達、光琳、白隠、大雅、玉堂、米山

人、写楽等の日本近世絵画史の主流も含め

うる。つまり本書は、「奇想」という新し

いキーワードを提出することで、忘却され

ていた魅力ある画家達を日の当たる場所に

連れ出すと共に、旧来の平板で無機的な日

本近世絵画史像も根底から変革する野心的

な意図も有しているのである。

筆者のこうした観点には、日本の伝統美

術への敬慕はもちろん、筆者の個人的なピ

カソやダリ等のシュルレアリスム絵画への

関心や、マンガやポスターや壁画等を有力

な表現の場とする同時代のアヴァンギャル

ド造型への柔軟な理解も働いている。

さらに、こうした「奇想」には、「陰」

と「陽」の両面があると説明される。「陰」

の奇想とは、近代的な自意識を持つ芸術

家が現実社会との軋轢を触媒として内面

に育んだ奇矯なイメージの世界であり、

血なまぐさい残虐表現等が含まれる。

一方、「陽」の奇想とは、観客への娯楽

として演出された奇抜な身振りや趣向で

あり、見立てのパロディ表現等が含まれ

る。これは、日本美術が古来持つ奔放で

闊達な「あそび」の精神や、生の喜びの

表現である「かざり」の伝統に深く繋が

るものであり、その意味で「奇想」は、「時

代を超えた日本人の造形表現の大きな特

徴」としても捉えられる。

一九八九年に平凡社より出版された姉妹編

の『奇想の図譜』も、二〇〇五年に同じちく

ま学芸文庫に入っている。また、二〇一〇年

にはダイジェスト版といえる『ギョッとする

江戸の絵画』が羽鳥書店から刊行されている。

美とは発見されうるものであることを

実証した優れた美術史家が展開する、飛

びきりスリリングで魅惑的な日本美術史

を堪能したい。

装飾古墳、根来塗、龍安寺の石庭等であ

る。記述は平易な対話形式で、各章の分

量が適度に短く、図版も数多く掲載され

ているのでとても読みやすい。主に、赤

瀬川氏が芸術家の観点で自由な見解を提

出し、山下氏が美術史家の立場から補足

するという体裁を取る。

従来の日本美術の見方を変えたとされ

る本書の特徴は、その一貫した実感主義

と反教養主義にある。通説による一面的

な理解や、国宝・重要文化財といった権

威付けを排し、「ナマ」の現物との直接的

な鑑賞体験から生まれる快感を称揚する。

「雪舟は長嶋と野茂を足したような奴」、

「典型的な成り上がり者で俗人の極みみた

いな等伯」、「光琳とスケベは切っても切

れない」、「手擦れニコン的根来の美」等

の指摘に、本書の真骨頂がある。

画家を、着地点から逆算して作業する

「デザイナー」と、着地点が分からないま

まとにかく描き進んでいく「絵描き」と

いう二つの要素から見る視点や、単なる

荒々しさではなく押さえきれない精神の

発露が生む力強い表現を「乱暴力」、その

裏返しの異常に繊細な表現を「丁寧力」

とする定義も面白い。

多少下ネタに走り過ぎるきらいはある

が、日本美術を難しい専門用語ではなく、

平易な日常感覚で語る姿勢には好感が持

てる。表紙の著者二人の学ラン姿も、エ

ンターテインメントに徹しているという

意味では成功している。

ただし、語り口は斬新でも、取り上げ

る作品はやはり従来通りの権威的なビッ

グネームばかりではないかという疑問は

残る。また、日本美術のカルさを強調す

るあまり、逆に真摯な精神性等について

はほとんど言及されていないのも残念で

ある。日本美術の裾野の広さや重厚性ま

でを含んだ、包括的な「日本美術応援団」

であることを期待したい。

書評◉Book Review

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