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Meiji University Title 1930�Author(s) �,Citation �, 83(5-6): 1-30 URL http://hdl.handle.net/10291/17584 Rights Issue Date 2015-03-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title 1930年の出版,神保町,そして人権

Author(s) 外池,力

Citation 政經論叢, 83(5-6): 1-30

URL http://hdl.handle.net/10291/17584

Rights

Issue Date 2015-03-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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1930年の出版,神保町,そして人権

外池 力

一一《論文要旨》

本稿では 1930(昭和 5)年の出版状況と神田神保町に焦点をあて,それを背景と

しながら,当時の反体制運動が「なぜ戦争や人権抑庇を防げなかったのか」という

問題意識のもと,政治犯の救援活動について考察する。この当時,厳しい弾圧にも

かかわらず,彪大な数の左翼的出版物が刊行されていた背景について論じ,それら

の出版物と人々の出会いの場であった神田神保町について,出版社や書庄が密集し

ていたということだけでなく,活動家たちが集会や結社の場として利用していた講

堂や貸席が多くあったことも合め,その活気ある状況を描く。このような時代状況

を踏まえ,不当逮舗や拷問などの基本的人権の侵害に対抗する遂動にもかかわらず,

人権運動としてとしてではなく革命・解放運動として位慣付けられてきた「救援会」

の流れと問題点を考えることで,いかに人権の普遍性を展開していくかについて考

え,人権という視点で歴史を捉え直すーっの試みとする。

キーワード:日本の人犠,戦前の出版,神保町,救援会,政治犯

本稿では 1930(昭和 5)年の出版状況と神田神保町に焦点をあて,それを

背景としながら,当時の反体制運動が「なぜ戦争や人権抑圧を防げなかった

のか」という問題意識のもと,政治犯の救援活動について考察する。前稿で

は,同様の問題意識により「転向」について考察したがω,本稿では,政治

と社会をつなぐものとしての書物や街を中心として,時代状況を描きつつ,

人権のあり方について論じることにする。

対象となる時間と場所を絞ったのは,当時の時代状、況を分かりやすく捉え

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るためである。時間の設定について言えば,戦争とファシズム,そしてスター

リニズムを象徴する 1930年代論は数多く存在するし,モダニズムの時代と

しての 1920年代論も盛んであるω。この時代を総体的に捉える場合には,

それも有効であろう。しかし,対象の時代安幅広く取ることによってかえっ

てわかりづらくなる問題もある。

1930年を対象とした現由は,何よりもその年に刊行された左翼的出版物

の腫大な数とその内容の過激さが印象的であるからである。もちろん,左翼

的出版物の洪水は,大正末期から昭和一桁の時代全体に及んでいるし,その

ピークが 1930年であるかというとそうとはいえない。それらの左翼的出版

物は,社会主語や革命を志向していたとはいえ,直接,反戦や人権擁護を訴

えていたわけではない(九しかし,これらの審物群を眺めるたびに,ここま

で皮体制的な出版物が溢れかえっていたにもかかわらず,どうして戦争や人

権抑圧を防ぎきれなかったのかという,素朴な疑問がつきまと~"嘆息を禁

じえない。この時代の左翼の盛衰は,いまだ多くの問題を突きつけていると

思われる。もちろん,対外戦争に突入し,国民のナショナリズムが強まり,

言輪等に対する勝肢が強化され,転向などにより友翼連動が「自壊」してい

くなかで,いくら左翼的出版物が氾濫していた時代であっても,それはいか

ようにも転換したのだということはできる。しかし繰り返しになるが,当時

の審物群を眺めると, iなぜ戦争や人権抑圧安防げなかったのかJという思

いと,これだけ開花した文化が破壊されたことに対する悔しさと虚しさは拭

い去ることはできない。

ここで,注意しておかなければならないのは,当時の言説の勢いと,その

後の時代状況の展開との落差に印象づけられるにしても, iこんな言説もあっ

たJというような発見や驚きを記すだけではあまり意味がない。左翼的言説

だけでなく,右翼的言説についてもいえることであるが,それらの言説は,

その当時の法的,政治的,経済的,社会的,そして倫理的な表現の水準を前

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1930年の出版,神保町,そじて人権

提としたうえで,一般的には,その範囲内か,それをわずかに打ち破る範囲

でなされている。そう考えると,現時点からの発見や驚きについては,禁欲

的であるべきであるO とはいえ,その時代の息吹も再確認しておかなければ

ならなL、。その点で,それらの出版物と人々の出会いの場であった神田神保

町が,当時, どのような様子であったかということについても,時代状況を

知るために確認しておく。神田神保町を取り上げる意味は,出版社や書屈が

密集していたということだけではなく,労働者や知識人,そして学生が集会

や結社の場として利則していた講堂や貸席が多くあったことにある。このよ

うな 1930年の時代状況を踏まえ,当時の政治犯を救援する運動について論

じることで,戦争と人権抑伍を正当化させないためにも 、かに人権の普遍

性を展開していくかについて考え,人権という視点によって歴史を捉え直す

ーっの試みとする。

第 1章 1930年の政治社会的背景 在翼的出版と神保町

1930年については,一般的に以下のように記述される。

「金解禁とともに, 日本経済は不況の上にさらに不況を重ねて,これま

でに例をみない深刻な恐慌に陥った。大企業とともに中小企業の危機は

カルテル結成によっても打開されず,事業会社の倒産は相次ぎ,解雇,

賃金引き下げが随所に起こり,失業者は 1930年中に 250万人にのぼっ

たとも 300万人にのぼったともいわれ,それはさらに 1932年を頂点と

して増大した。当然,激しい労働争議が 1930年を特徴づけた。統計に

よれば,この年が戦前昭和期において最高の参加人員を記録しており,

翌 31年には,争議件数の最高が記録された。知識層の失業も「知識階

級職業紹介所」で学校出の失業者を日雇いに周旋するほど深刻で, I大

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学は出たけれどJという言葉が流行した。だがそのなかで,都市には,

「ネオンやアルゴンのサイン灯にまばゆく,掘声嬬声」のあふれるカフム

パーが襲出し,映画やレヴュー,ラジオやレコードが新しい大衆的都市

文化を拡大怯播し, Iエロ・グロ・ナンセンス」という新語が生まれる

一方では,ルンペン風俗がその底辺をのぞかせてL、た(九

ここでは 1930年は,不況,失業,争議(5) 大衆文化として象徴されてい

るが, これに軍縮(会議),震災復興(祭〕を加えてもよい。この時期は,

統帥権干犯問題で逆風が吹き荒れたとはL、ぇ,ロンドン軍縮会議により,軍

縮は一つのブームであった。反戦軍人として有名な水野広徳ωは, I顧みれ

ば尾崎号堂氏が我国に於て初めて軍備縮少を唱へて頑唄派から国賊視せられ,

東京駅頭暴漢に襲はれたりしたのは,僅かに数年前に過ぎなL、。然るに今や,

マハン信者の軍事当局者ですら,内心はイザ知らず表聞だけでも『衷心より

軍縮に賛成す』など h言はなければ,世間が渡れなくなったかとd思へば,世

相は暗黙の裡に案外速に遷移しっ、ある」と述べている九

ここで 1930年を描くのによく引用される文章を紹介しよう。林芙美子の

『放浪記』と並んでこの年を代表する文学作品である川端康成の「浅草紅団」

の次の部分である削

「和洋ジャズ合奏レヴイウ」と L、ふ粛し調子な見世物が,一九二九年型の

浅草だとすると,東京にただ一つ舶・来「モダアン」のレヴイウ専門に

旗奉げしたカジノ・フオウリイは,地下錨食堂の尖塔と共に,一九三O

年型の浅草かもしれない。/エロチシズムと,ナンセンスと,スピイド

と,時事漫薫風なユウモアと,ジャズ・ソングと,女の足と一一ω。

そのほか, ~浅草紅団』では, 1930年は次のように描かれている。

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1930年の出版,神保町,そして人権

だがしかし,昭和五年の春は東京の華々しい復興祭だ。新しい東京はあ

の地震が振り出しだ。もちろん浅草も,あれから新しく生れたのだ〔ω。

「飲食児童震Jだとか, r一家心中Jだとか一一諸君は嬢ちきりんな言葉の

おなじみになった。「不景気」と「エロチシズム」一一この二つの作文ば

かりを,新聞記者が書いてゐる一九三O年だω。

諸君,これは浮浪者ではない。三人の男が女工誘拐圏を,失業の信州へ

派遣しようといふ密談なのだ。/彼等の夢のやうな儲け識であれば幸だ。

しかし,彼等の日頃の遣り口と十寓近い失業女工と一一貫はありさうな

ことなのだ。/そこで信州の警官よ。社舎運動家を警戒するよりも,彼

等を捕縛してくれ給へ附。

1930年は, rダダの余燈いまだくすぶりつづけ,シュールリアリズムは謎

の誘惑を仕掛けつづけ,ロシア構成主義はガタゴトと機械的なリズムを刻み,

プロレタリア運動はウオツカ臭い気勢をあげる」時代であり fベエロ・グ

ロ・ナンセンスに内包される批判精神は, r反抗とデカダンス」として,ア

ナーヰーな反体制思想と結びつき,自由を拡大する近代化を後押していたと

することもできる。

吉本隆明は, r日本のナショナリズム」を論じるあたり,明治期からの流

行歌をたどりつつ, r己れの利益のためには「お国の為」などかまっていら

れないという明治資本主義が宵てた利己主義と個人主義により,農村や家族

をもとにした「お国の為」や「立身出世」というそれまでの大衆のナショナ

リズム心情的な碁螺が失われ」たまさにその昭和期に,知識人によりウルト

ラ=ナショナリズムである天皇制イデオロギーが思想化され,注入されたと

した(!九それはある意味で,近代化により世俗化が進行した空白に宗教的

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「原理主義」が入り込んでくる過程と似ている。

大衆文化の浸透は, r公」の押しつけに対する「個」による歯止めになっ

たはずであるが,一方では. r個」のエゴイズムや退廃について,ブルジョ

ア的,資本主義的「悪」とみなす左翼の「公Jは,布翼の「公」とも安易に

結びついた。資本主義や自由主義は,左右どちらからも攻撃され,デモクラ

シーも同様の運命にあった(ヘ左翼も右翼も. rどちらも腐敗した政治家を

嫌い,金の亡者と化した資本家を憎む点では共通してj(l6)おり,このことは

資本主義や自由主義を批判する考えによって,戦争や人権抑圧が正当化され

たことを意味している。

次に.1930年を中心として左翼的出版物の興隆と衰退について論じよう。

『目で見る出版ジャーナリズ、ム小史』においては, r1930年は,その後の日

本のすすむ道を決めた最後の分岐点となった」とされ,その頃に創刊された

50冊以上の雑誌の表紙が並んでいる見聞きのページの左半分は,プロレ夕

リア文学などの2友z翼雑誌が占めている(1口ヘ7

の「大正末期から昭和初年」の章において. r社会思想物の出版」の項の小

見出しについて時代順に.rr種蒔く人」その他の創刊j.rr赤旗jrマルクス

主義などjj,r無産階級の芸術活動j.r労農派の新聞雑誌j,r~資本論』その

他の啓蒙書j.r左翼物の全集・叢書などJ,rマルクス,エンゲルス等の学説

ものJ,rマルクスからレーニンへj.r左翼物の出版社とその刊行書物j,r平凡社・叢文閣等の社会思想物j,rスターリン,ブハーリン等の翻訳ものj,

「岩波版「資本主義発達講座Jjとし,おびただしい数の左翼的書物を紹介し

ている (8)。

6

『マルクス・エンゲルス全集』の購読者は警察のリストに「要注意人物」

として載ったが,これらの左翼出版物は少ないものでも二,三千部,物

によっては一万,二万も売れたので,営利的出版として成り立っていっ

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たのである側。

1928年に創刊した全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌「戦旗』も,

「最初五千部ぐらい発行したが二,三年の聞に忽ち二万数千部の発行を見る

までに躍進した。しかもその読者層は労働者,農民等による直接購読者が主

で,それは全発行部数の 76%を占めていたといわれる。支配階級のあらゆ

る弾圧にもかかわらず短期間に驚くべき発展を示した」ことからも「当時の

左翼的出版がいかに有力な地歩を出版界に占めていたか想像できる」仰とさ

れる。

本年春以来,プロレタリア芸術書の安価本が四,五十種も発売せられて,

どれもこれも相応の成績を示している。また婦人雑誌の領域においても

『女人雑誌」が近噴メッキリ左翼張りになったこと,これに対向すべ《

生まれたアナ系の「婦人戦線』また大の左翼ばりで読者ぞ呼んでいるこ

となどをみれば,左翼もの歓迎の一般的傾向が十分に看取されるように

思う。/かくて,中間的な生ぬるいものはすべて歓迎されず,思い切っ

'て左翼化するか,でなければエロチックまたはグロテスクの傾向に出る

か,または,思い切ってナンセンスばりを発揮するか,杜会内面の暴露

に出るか,そのいずれかでなくては出版物としての存在意義がなくなった

かのようにいわれている。少なくとも尖端性をもっ雑誌界においては(ヘ

もちろん,これらの左翼的出版物の隆盛舗に対し,当局が,検閲をはじ

めとする弾圧で臨んだことはいうまでもなく,検閲,発禁,伏字がこの時代

の特色である。しかし,この時期の出版界を,弾圧の側面だけで語ることは

できなL、。出版に対する抑圧面だけを強調するのではなく, I戦前の社会問

題・社会主義文献の盛況はなぜありえたのか」という疑問を提起した梅田俊

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英は, I出版言論史について「弾圧と抵抗」という視点からとらえたり, I言

論の牢獄」という見方で近代日本を総括するのには批判的」である」仰とす

る。何よりも昭和初期の空前の円本ブームの波に,社会科学本が「乗った」

ことは確かである。 1925年から 1929年までの 5年間に企閣発行されたシリー

ズものは三百数十種にのぼり, ~マルクス・エンゲルス全集」なども,その

ような円本ブームの一環としてとらえられる則。

「上からと下からとの反動攻勢の挟撃をうけながら,なおかつ当時言論界

において,むしろ左翼的言説が盛行しえた根拠」について畑中繁雄は,右翼

系理論は「えてして科学性が乏しJく, I一般市民とくに知識層の反撤ムー

ドも意外につよ」かったし, Iなおかれらの拠りどころとなりえたものは,

依然として科学的な思考方法一一社会科学的分析と環論の展開であ」り,

「右寄り思想のつきあげがつよければつよいだけにかえって,根づよく一般

知識階級の魅力の対象となっていた」ことをあげている制。その底流とし

て, 1920年代前半にイギリス的社会主義の文献が大麗に翻訳され, Iさかん

に紹介された」こと26)に見られるように,経済学などの社会科学の自然な発

展とそれに伴う活発な論争があったことにも注意しておかなければならない(2九

さらに「出版企業の側からいうならば,それらの理論や言説は,それゆえ

になお商品価値の高さを維持し,企業の採算に十分のったばかりか企業に

かなりな利潤安もたらしJ,さらに「当時一流と目されていた大小出版企業

の多くは,明治・大正・昭和にまたがるデモクラシーないし社会主義の思想

的系譜を体して生誕あるいは成長し,その格調をむしろ経営の伝統と称して,

使用人たる編集者はもとより,執筆者および読者のかなりの部分をもそうい

うイデオローグのうちに有していたことも,その理由のひとつ」である。さ

らに「やや急進的とおもわれる言論告も商品としてならばあえて採択するこ

とによって,大幅な利潤をあげてきたのである。弾圧の手が主として寄稿家

の検挙や直接担当者の司法処分にとどまっていたこの段階では,その程度の

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弾圧がかえって宣伝効果をあお」ることになったとも言えるのである制。

ところが,このような商業ベースでの左翼的出版は,逆に,過当競争など

により採算が取れなくなると,そこからの撤退を加速させることになる。商

業的左翼出版社は初年代に入って急速に衰えを見せた。その理由について,

梅田は検閲体制の強化,左翼的出版の過当競争,さらに根本的には, 1満州

事変以後の世論の排外主義化」をあげている側。

円本ブームは, 1929年頃になると,過当競争,テーマでの競合,種切れ

などによりその質も低下する。円本のおさまりがおおよそついたのは, 1930

年とされる倒。左翼的出版も円本ブームの終意によって危機を迎えるわけ

である。円本ブームの危機の状況は,次のように描かれている。

「大正十五年の年末から始まった円本合戦は,昭和三年末に講談社が出

した同社一流の枕本(昼寝の枕になるような厚さ)~講談全集』と『修

養全集』の驚異的な売行きをピークに下り坂へさしかかっていった」が,

それとともに,返品された“円本"がゾッキにまわされるという事態が

起った。それら返品された“円本"は,次のようなゾッキ本の業者に引

き取られた。 /1児童文庫(アルス)三十万部を一冊三銭で酒井久三郎

氏が引取って,その処分に七年を要した。/明治大正文学全集(春陽堂)

三十万部を春江賞が七銭五厘で引取った。/大衆文学金集(平凡社)二

十万部を河野書庖が十三銭で引取った。/現代日本文学全集(改造社〉

三十万部を河野書庖が十二銭で引取ったJ/一挙に大部数の予約を獲得

した“円本"も隆盛期は短く,その末路は,このように哀れであった(問。

もちろん,それらの多くの書籍が古本業界に流れ,古書街が左翼文化の下

支えをしたわけである。実際,後に当局の弾圧が厳しくなり,発禁,押収が

あっても,古書庖へのそれは,時間差をもってやってきたので,流通は長引

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政経論叢第 83巻第 5・6号

くことになるが,その後は,古書眉からも発禁本が押収されることにな

るω九出版業界は,円本バブルの崩壊という危機を雑誌と文庫でしのいで

いく。昭和に入ってからは「雑誌時代」とされ,当時,一応の概算でざっと

一万積,月々一千万冊ぐらいの雑誌が出ていた附。また 1930年頃を象徴さ

せる出版物として文庫があげられる。 rr円本ブームへの挑戦」として」岩波

文庫が 1927年,改造文庫が 1929年に創刊される。改造文庫においては,そ

の創刊から 5年聞の刊行書目の内容はマルキシズム関係が約 30%にもな

る(3九またこの年を象徴する文庫としては,白揚社から 1930年の 7月から

12月まで刊行された「マルクス主義の旗の下にJ文庫があり,それは「赤

いクロスの表紙に丸背の本格的な装丁で,表紙にはマルクスとレーニンの肖

像が型押しされている」閣もので,とても印象的な文庫である。

ここまでは時間軸を 1930年として切り取り,その出版状況を中心に描い

てみた。次に場所としてこの時代の特徴を際立たせるために,神田神保町の

当時の状況に注目してみよう。もちろん, この時代後際立たせるには他の場

所でも十分であるが.rなぜ戦争や人権抑圧を防げなかったのか」という問

題に深く関連する出版と社会連動の状況を描くためには,神田神保町は適切

な対象と考えられる(図 l参照〉。

これもよく引用される箇所だが. 1930年に出版された『モデルノロヂオ」

で今和次郎は次のように摘し

10

「紳回といふ慮lま,駿河蓋下から九段にかけて電車通りに面してずらり

とー列に本屋さんが軒を列べてゐる。……だが本屋さんの列はいは Y

紳回の外皮である。さらに皮下脂肪組織に就て検するならば,これはま

た何と,喫茶厨を始め諸積飲食l苫の密集地帯である事よ。(中略)外皮

に相嘗する本屋さん四一軒に謝して,各種飲食庖-0三軒といふ欣態で

あるJ'田)。

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1930年の出版,神保町,そして人権

また同じ今和次郎編の「新版大東京案内」では

「神田の神保町近くに,カフエー街の出現したのは,注目すべき現象で

ある。パーと喫茶屈を兼ねた禰翻なカフエーが,裏通り一面に撒き散ら

されてゐるのである。そしてその庖の名さへ,キネマ好きの若い学生に

アツビールするやうに,たとへばザンパとか或ひは又センチメンタルに

カフエー・カナリヤとかスズランとか,その何れもが白昼から蓄音器を

鳴らして正に別天地を造ってゐる。果然九月十九日午前,警察隊がこ』

に乗り込んで,学校をエスケープしてカフエーに熔周を捲いてゐる大学

生,中学生,女学生数十人を検挙した。夜など大学生が,遊廓をひやか

すやうにしてこのカフエー街をうろうろしてゐる有様を見ては,これはてっつい

誰れの眼にも当然の鉄槌としか思へぬだらうJ37)。

4・岡剛

F帽『胃_...............,!キングスト鯨J

(457 )

ー「現:Jは現在の構造物の年代

図 1 1930年の神田神保町界隈

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政経論叢第四巻第 5・6号

1930年の神保町には,左翼的出版物が溢れ,カフェなどの消費文化が咲

き誇るのである。 1930年には,震災復興記念祭が催された。震災以後,道

路の拡張は言うまでもなく,新たに建設されたり,修復された多くの建築物

があるが,それらの多くは 20年代後半から 30年代前半に完成した。まさに

建築ラッシュである。神田川(著渓と呼ばれた〉にかかる聖檎(1927年)

やお茶の水橋 (1891年建設,関東大震災で損壊, 1931年に架け替え),ニコ

ライ堂や明治大学の「第三代」記念館もそれにあたる。東京では多くの公園

も整備されたが,大公園以外にも,多数の小公園が整備された。

政府の予算で,大規模な公園が新しく三つできたし(中略),市も小さ

な公園を五十以上も作った。ほとんどは学校の近くだっだし,水路のそ

ばに作ったものも多かった。こうした小公園の中で現在もほぼ当時の姿

を残しているのは,御茶ノ水駅の近くの元町公園くらいのものだろう。

昭和五年の開闘で,愛らしいアール・デコ風の造りである。どこか,フ

ランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルを思わせるところもあるω}。

神保町と雷えば,何よりもまず,書屈である。今も続く主要な審胞は,明

治時代からほぼ現在の位置にあるがく三省堂 1881年-,富山房 1886年~,

東京鷺 1890年-),ミ三省堂新社麗が学生のデパートとして,書籍・雑誌、・文

具・学生服・化粧品・洋品雑貨・薬品等を取り扱う木造3階建てとなったの

は, 1929年である慨。ちなみに富山房の地上五階地下一階建ての大会議室

や展示室などを備えたビルは 1932年の完成である仰〉。古書j苫の広がりは言

うまでないし,図書館についても, 1929年,一橋図書館が駿河台図書館に

名称変更し, 1930年に開館,閲覧開始された(ω。

そして,この地は学校,特に法律学校の集積地である。自由民権運動の展

開のなかで, 1872年の代言人制度以後,代言人を養成する法律学校の創立

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1930年の出版,神保町,そして人権

が相次いだが,その流れで,私立の法律学校として, 1880年から東京法学

社(法大),明治法律学校(明大),専修学校(専大),英吉利法律学校(中

大), 日本法律学校(日大〉がこの近辺にあり,次第に法学から様々な専門

分野(学部)が分かれていった。多様な専門学校を含め今に続く伝統校や,

それらの学校に入学するために無数の私塾が神保町界隈に誕生した。文化学

院においては, 1929年夏,国際文化研究所ω による外国語夏期大学で毎朝

6時から二時間三週間にわたって英,独,仏,露,中,エスペラント語を教

え, rその最終日の解散式には,全講習生がそれぞれ学んだ各国語でのイン

タナショナルを合唱し,早朝"神田の高台に歌声をひびかせ,意気さかんな

光景を現出したJ(43l。働きながら学ぶ苦学生のための学校として,神保町近

辺で,中等学校や工科,商科などの各種学校の夜間校から,夜間教授の英語

学校,簿記やタイピストのための学校まで, 30近くの学校が紹介されてい

る(叫。また,現在の東京医科歯科大学の地に「日本の近代教育発祥の地」

の碑があるように, 1872年には神田川を挟んで師範学校ができ,のちに高

等師範学校となり移転するが, 1874年にできた東京女子高等師範学校は,

1932年までこの地にあった。

これらに通う学生や若者が,文学,社会科学,自然科学の審物を求めに訪

れた神保町は,大衆文化の一大市場となったのである。そして,下宿街であ

る。「神田明神裏の穴ぼこのやうに落込んだ湯島町にも一群の下宿が軒を並

べ,神田猿楽町から表神保町には野性を帯びたすさまじい下宿が窓を開いて

騒しく都会行進曲を奏してゐるJ<冊。『婦人倶楽部J(1932年 8月号〉の折込

付錦である「新東京大パノラマ漫画」には,下宿の二階同士で「オーイ 固

から為替が来たか-~、Jr小遣いが来たら神保町へ繰り出そうぜ」と声を掛

け合う学生の療が描かれている“九映画館については,当時,神保町近辺

には東洋キネマをはじめとして, 日活館,シネマパレス,南明座,新聾館,

銀映座などがあった。しかし,この地の映画館を語るなら,時代は外れるが,

(459 ) 13

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政経論叢第83巻第 5・6号

1918年8月の神田の大火災により焼失した錦輝館にも触れずにはL、られな

い。錦輝館は 1891年に造られ, 1897年ヴァイタスコープによる映画の上映

会が聞かれ,日本最初の映画館ともされるが,当時の映画館は,集会場,演

説会場としても使われたので, 1908年の大杉栄,荒畑寒村,管野スガ,堺

利彦,山川均らが検挙された有名な赤旗事件の現場となった。

このように,錦輝館に限らず,近代日本の政治・社会運動の舞台となった

拠点, とくに集会所,演説会の会場となった有名な講堂,貸席が多数あるの

もこの地の特徴である刷。まず挙げられるのは,これも 2003年まで存在し

た東京YMCAr神田青年会館Jcr東京碁督教青年会館J)であろう(震災後,

1929年に新館完成)0rそれまで集会といえば,神田明神,平河天神,伝法

院あるいは日比谷原といったところでもたれていた」が, 1894年にできた

この建物には, 1000人以上を収容する大講堂があり, r政治運動,社会運動

の発火点となる演説会がひんぱんに催されていたJ'叫。

また,政治の集会場,拠点といえば,貸席も軍要で,神田錦町の松本亭

(1875-1945)は,自由民権運動をはじめ,左翼から右翼まで多くの活動家や

政治家たちが集会所や拠点として使った臼九時代は少し前になるが,神田

三崎町には,幸徳秋水の「社会主義金曜講潰会」が聞かれた吉田屋, 1903

年片山潜の帰京歓迎会が聞かれた寺田屋,そして片山潜が自宅を改良し,キ

リスト教社会事業の拠点とした日本人最初の隣保館である今ングスレー館が

あり(印老舗の筆屋である玉川堂の裏の茶亭(貸席〉では労働問題に取り

組む社会政策学会が発会した白日。また猿楽町には, 1919年 2月 8日に朝鮮

人留学生たちが「独立宣言文」を出す韓国 YMCAがある。

14

キリスト教の社会事業の一環としての東京碁督教青年会館CYMCA)俗

に神田の青年会館や,山室軍平の救世軍活動,片山潜のキングスレー館

などを舞台に,市内の「細民」のための社会改良運動がくりひろげられ

(460 )

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1930年の出版,神保町,そして人権

た。(中略)これと平行して,社会運動と表裏の関係で,労働運動の中

心地でもあった。明治 15年の車会党(人力車夫の団体),明治 30年結

成の職工義友会,あるいは日本社会党の結成など,いずれも神田から起

こった。/このような環境は,各種の出版活動後うながした(52)

ここでは 1930年を軸にして,時代の状況について述べてきたが,そのな

かで,人権がどのようにとらえられていたかについて,次章で論じる。

第 2章 1930年頃の人権のあり方一一政治犯擁護の運動を

中心に

ここでは, 1930年を中心に,人権のあり方について,政治犯擁護の運動

に焦点を当てて考察する。政治犯擁護を取り上げたのは,それが人権の一つ

にすぎないものであるにもかかわらず,このような時代状況の中で, Iなぜ

戦争や人権抑圧を防げなかったのか」という問題にとって重要であると恩わ

れるからである。

日本では, 1920年代後半から 1930年代前半にかけて,権力によって弾圧

治安維持法違反数(司法省調)c田)

検挙送 起訴局者数 者数

1928年 3,967 525 1929年 5,308 339 1930年 6,877 461 1931年 11,250 309 1932年 16,075 646 1933年 18,397 1,285 1934年 5,947 496 1935年 1,886 114

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政経論叢第 83巻第 5・6号

された人々を援助する団体が結成され,精力的に活動した。この運動につい

て簡単に歴史をたどって見ょう側(図 2参照)01921年 8月に,神戸の川崎

造船・三菱造船・三菱内燃機・三菱電機での争議での人権操踊事件の調査と

抗議に加わった弁議士たち(主唱者:布施康治,山崎今朝弥,上村進ら〉安

中心に「自由法曹団」が結成された。

調査団は 8月 13日午後から夜にかけて,三回の演説会をひらいている。

この演説会には数百名の警官が出動して干渉した。とくに 13日午後,

日本劇場でひらいた人権蹄繭問題糾弾演説会は,聴衆 2000名にのぼる

盛況であったが,まず高山義三が開会の辞をのべ,宮沢武七が「官憲の

横暴」という題で報告演説をおこない, r資本主義が根強くなって官憲

と相通ずるようになるは日本の際盛を阻害する憂うべき現象なりと説き

来るや,巡査十数名が中止々々と叫びつ,舞台に駈上り,弁士と格闘を

演じ,聴衆また総立ちとなって一大修羅場と化せんとせしが,漸く双方

の了解をえて事無きを得J(法律新聞,大正 10年 8月 18日, 1871号〉

といったような具合であった慨。

同年 9月20日には神田基督教青年会館で,この争議の指導者の一人であっ

た賀川農摩らのよ京をえて,神戸人権探繭問題演税会が開かれている〈欄s由悶e的)

国際的には,同年 11月,革命運動の犠牲者を援助する国際赤色救援会(モッ

プル)が設立されている。 1923年 5月には鈴木茂三郎らにより「防援会」

が設立されたが,盟い期間で活動を休止した。その後,革命運動の盛り上が

りと弾圧の強化とともに, 1928年に「解放運動犠牲者救援会」が設立され,

自由法曹聞の左派を主体とした弁護士聞もできる。救援会は 1930年 8月の

第二回大会で,モップルに加盟し,その名称も「日本赤色救援会J(赤救)

と改めた。これと前後して, 3・150928年), 4・160929年)の大検挙が

16 (462 )

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直召

ソ連共産党・コミンテルン・社会ファシズム論

1930年の出版,神保町,そして人権

自由法曹団

1921年B月初日

1932年7月

1933年 1月お目 1J.

l 日本労農弁護士団

1933年9月13日の弁護士団一斉検挙

唱V

戦前の政治犯救援運動

ここでは,共産党を中心とした運動を図示し,それとは対立してきた他の社会主義政党などによ

る救援活動についてはほとんど触れていない。またこの他にも 1931年に労働者の貧困や自然災

害などへの経済的救援を目的とした日本労農救援会準備会が結成される。

(463 ) 17

図 2

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あり,共産党関係の刑事事件が圧倒的に多くなり,布施,上村らは,その他

の青年弁護士らとともに,この弁護に奔走するようになり, 1931年4月,

「解放運動犠牲者救援弁護士団」がつくられた。

1932年 11月,モップル創立 10周年にあたって,モップル第 l回世界大

会がモスクワで聞かれ,各国のさまざまな党派の代表 200名以上が出席し,

大会は片山潜によって開会された (6九 1933年 1月.r解放運動犠牲者救援弁

護士団」と「全農全国会議弁護士団」が合併して「日本労農弁護士団」となっ

たが, 1933年9月には, r日本労農弁護士団」所属の多数の弁護士が検挙さ

れ,その後も検挙は続き,運動は壊滅=さFせられる(側5闘刷8則)

この運動においては,被告,家族,弁護士,一般市民らによる圏内におけ

る連帯だけなく,国際的連帯も顕著であった。

18

年頭,わが国勤労大衆に多大の感銘を与えたものは, ドイツ赤色救援会

の日本共藤党に対する判決への闘争であった。ドイツ赤色救援会は(中

略〉日本政府に宛て(中略)抗議電報を発した。 /rドイツ赤色救援会

員百万人の名において, 165名の日本共産党員への判決に対し,われわ

れは燃ゆるが如き抗議を発するとともに,その即時無罪釈放を要求する

ものである。J/東京, 日本政府御中/翌 12月 1日, ドイツ赤救中央常

任委員会は,ベルリンの日本大使館に抗議文安突き付けた倒。

この頃注目すべき問題は,太平洋労働組合会議書記ルーエッグ夫妻が,

八月初旬反動蒋介石政府の手で上海で捕えられ,死刑の危険に脅かされ

た事件だ。これに対して中国の労働者農民をはじめ,各国プロレタリアー

トによって釈放要求運動が行なわれたが,赤救も会日本のプロレタリアー

トに救援のアピールを発して戦った。(中略)また,同じ頃アメリカの

弗帝国主義の犠牲となって捕えられ,電気椅子による死刑を宣告せられ

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1930年の出版,神保町,そして人権

たスカツパラの黒人七青年の救援闘争が,モップル・アメリカ支部を通

じ全世界に訴えられた。赤救はいずれもこれを自己の任務として取り上

げて救援した側。

パトロン制度というのは何であるか,一言でいえば,犠牲者とその家族

のための救援世話人,ないし後見人といったものである。吾々が従来行

なってきたストライキ犠牲者のための大衆的救援委員会なるものは,実

は日常闘争犠牲者のためのパトロン組織に外ならなL、。/だがパトロン

は救援委員会よりも識かに広汎なものだ。例えば Aなる犠牲者に対し

て,個人であれ,組織であれ,パトロンになることができる。また広島

の刑務所の全政治犯人に対して,赤救東京地方委員会がパトロンになり,

中国の政治犯人に対して赤救日本支部がパトロンになることもでき

る(60。

このパトロン制度などは,現在の国際人権運動の手法を扮御させるが,も

ちろん当時は,国際プロレタリアートの階級的連帯として捉えられていた。

私は,権力への弾圧の犠牲者を救う運動が連帯し,統一され,人権擁護の輪

が広がっていけば,戦争や人権抑圧を防ぐことができたと思うほど楽観的で

はない。しかし, 1930年ごろに大衆文化が全盛期を迎え,市中では左翼的

反体制出版物が溢れ返り,政治・社会運動が興隆していた状況下で,なぜ戦

争や人権抑圧を防げなかったのかを考える場合,弾圧の厳しさと当局の対策

の巧妙さという外的要因はまず抑えておかなければならないとはいえ, r転向」を論じた際にも述べたように (62) 反体制運動が抱える問題も直視して

おかなければならない。

何よりもこの運動は,革命運動として位置づけられ,現在でも,日本の

「人権の歴史」としてはあまり触れられてはいない(6九この時期は,階級闘

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政経論叢第 83巻第 5・6号

争が激化し,すべての闘争や騒援は階級闘争とみなされたため,政治犯は階

級闘争の犠牲者として捉えられ,裁判での弁護活動も,公判闘争の一環とし

てなされていた(叫。従って政治犯を擁護する運動も,人権運動としては位

置づけられていない。しかし,人権という概念のもつ意味が現在とは異なっ

ていたとはいえ,不当な逮捕と残虐な拷問が日常化する状況において政治犯

を救援する運動は,本来,人権運動の核心部分を構成するはずである。この

運動は,人権運動としてみれば多くの問題点があり,階級闘争のもつ負の部

分が,人権の普遍性を侵食したともいえるのであり,権力側もまさにその点

奇突いてきていた。

この運動の問題点は,当時の革命運動の問題点と重なる。第ーに指摘しな

ければならないのは,共産党が社会民主主義者を主要な敵と定義した「社会

ファシズム論」に代表されるような「同士打ち」であり,無用な対立である。

もちろんここには「反共産主義」を原則とした社会民主主義側の責任もある。

しかし,圧政に対して基本的人権を守るためには,理念の普遍性はもちろん

のこと,運動においてもできるだけ統一行動を指向し,平和や人権の守るべ

き原則に亀裂を入れようとする思想や行動には桟意しなければならなL、

左右の社会民主主義的党,右翼や中聞の労働組合等の犠牲者も,また真

に敵と闘争した人選である。それは立派に前衛および在翼の兄弟であり,

同志である。これらの人達と,その家族に対する援助と激励とは,もち

ろん少しでも怠るべきではない。救援会の合言葉は「すべての階級的犠

牲者の救援! 全労働者農民の革命運動の後衛!Jである。このスロー

ガンを実現する仕事こそ,一つの階級的戦線統一戦術たるものであるの

だ(65)。

上記の言葉からは,とりあえず統一が目指されているように見えるし,実

20 (466 )

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1930年の出版,神保町,そして人権

際に, 1分け隔てなきJ救援方針は随所にみられ。救援活動は,その他の運

動体に比べれば,幅広い参加を維持していたとされる(田]。しかし,社会ファ

シズム論から人民戦線戦術への転換がなされたのは少し後となる。それまで

にも統一戦線への動きはあったにせよ, 1930年には社会民主主義や自由主

義は,共産党の「主敵」であった。共産党系の囚人は,自分たちより「右寄

り」の弁護士の弁護を断っただけでなく,救援運動も,解党派や転向者の弁

護を拒否している。

31年6月初日の第一回統一公判で,佐野学は「喜々は大衆党及労農党

に所属する弁護士には弁護して貰うことを断ることにしました」と発言

して,これらの政党を非難した問。

被告人のなかの水野成夫,門屋博らのいわゆる「解党派」に対し,共産

党は,これを裏切りだとして除名した(昭和4年9月〉。救援会も解党

派の被告人をはげしく非難攻撃し,以下のように述べている。 /1かか

る解党派は, もはやハッキリ労働者農民の敵である。これらの労働者農

民の敵である解党派に対しては,わが救援会は断乎として関わねばなら

ない」畑。

1933年になると,佐野学自身が転向することになり, 1弁護士団は,転向

組の弁護人をやめ,転向組の方からも,解任すると言ってきたり」附するこ

とになる。

赤救中央委員会は慎重にこの問題を討議し,それを決議として発表し

た。それは「戦争と白色テロルに迎合せる佐野,鍋山の裏切りに対し,

断固たる闘争を撮す」と題するものであった。つづいて別に彼等に宛て

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政経論叢第 83巻第十日号

たつぎの決議を決定,刑務所面会で彼等に通達した。

決議

佐野学,鍋山貞親は,労働者階級を裏切り,支配階級の最悪の手先

に成り下がり,階級的政治犯人たる資格後失いたる理由にもとづき,

日本赤色救援会より除名し,佐野学は名誉中央委員たる資格を剥奪

し,今後彼等に対する一切の救援を停止す。さらにモップルはその

活動を通じて彼等との断固たる闘争を遂行するものである側

モップル成立後の 10年間は,フ。ルジョアジーに反対する闘争の 10年間

であり,モップルを絶滅するためにあらゆることをやってきたブルジョ

アジーから社会民主主義者, トロツキスト,右翼裏切者lこいたるまでの

人々との闘争の 10年間である(川。

弾圧による活動の停滞もあるとはいえ,このような犠牲者の「選別」は,

政治犯の救援を, I帝国更新会jのような「転向の立場」にある支援団体に

委ねることにもなる問。

第二の問題点は,当時の革命運動にとっては超えがたい限界とみなされる

ところだろうが,ソ連の政治体制の犠牲者については,まったく触れられて

いないどころか,プロレタリアートの祖国であるとされたソ速の支持が前提

となっていたことである。

22

日本の他の革命的諸組織は, 日本赤色救援会に対して,帝国主義戦争反

対,ソ連邦擁護の闘争において最大の援助を与えなければならない。こ

のカンパニアにあたって,モップルは,ソ連邦が資本主義諸国の正反対

の国であるという事実を強調しなければならない。ソ連邦は,労働者・

農民・兵士の共和国であり,大衆が搾取されることのない,失業も恐慌

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1930年の出版,神保町,そして人権

も存在しないただ一つの園である。ソ連邦に対する襲撃は,自分の祖国

に対する襲撃,自分自身に対する戦争である (7九

アナ・ボル輸争に象徴されるように,大杉栄そはじめとしたアナーキスト

たちは,かなり早い段階から,ソ連の独裁的性格を弾劾していたし,粛清裁

判をはじめ,ソ速のスターリン体制の強化のプロセスの実態は,同時代でも

詳しく報道され,ソ連で多くの弾圧の犠牲者が出ていたことは周知の事実で

あった。しかし,その犠牲は,草命の理念や理論にはほとんど影響せず,ソ

連における弾E配巨は正当化されて黙認された〈附7刊刈4ω)

第三には, 1930年のメーデーの武装デモに象徴されるように,極左的方

針が打ち出されることで, I救援会の超党派性に対する反対」がなされたこ

とである。「救援会の組織の超党派性ということは社会民主主義的な誤謬で

あ」り, Iしたがって救援運動を通じてから下からの統一戦線を組織するな

どということはあり得ないJと主張された(7ヘさらには,合法事務所や弁

護士活動や裁判のプロセス自体についても,敵階級の道具であるとして拒否

するような方針すらも出された。「合法活動に反対する見地から,同じく合

法的な弁護士活動は無用」とし,地下活動のみを主張することで「救援会の

基本的組織と活動を覆えす極左的暴論」がなされた。これは「当時総選挙か

らメーデーにかけて, 日本共産党,金協,共青などの諸団体を風騨した極在

的傾向が救援会内に反映したものだといえるJ'7九このような状況は,救援

活動に限らないことであり,運動の現場からの批判や後悔の声は枚挙にいと

まがない(77)。

言論の自由,集会の自由,公正な裁判,そして何よりも拷問の禁止は,基

本的人権の中棋をなすものであり, I普遍的人権Jとして結晶すべきもので

ある。当時の運動の目標は,人権の擁護ではなく,革命もしくは解放であり,

救援運動自体も解放運動や階級闘争の一環として位置づけられた。自の前で

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政経論叢第 83巻第5・6号

苦しんでいる犠牲者を,方針や党派などの遣いによって切り捨てることは,

不当逮捕や拷聞などに対する人権擁護にとって必要と思われる「救急車的」

普遍性が軽視されていたことを意味する。歴史的には言うまでもなく,現在

でも,このような「犠牲者の分別Jは行われており,様々な人々が,戦争や

民族紛争における「敵J.国民や人民の「敵J.そして自らの集団の「敵」と

して非人間化され,人権からの適用外とされる。

イデオロギーや宗教は,人権からの適用外とする範鳴を作りやすいが,た

とえば「テロリスト」というカテゴリーもそれにあたる。日本の戦前の政治

犯たちが体制転覆を目指している「革命家Jとして拷問され,その残虐行為

は世間から黙認されていたことを考えると,体制を批判する人々を「テロリ

ストJとして人権のカテゴリーから安易に外してしまう論理には,深刻な危

険性があることについて,指摘しておかなければならなL、。

政治犯擁護の人権運動は,個別の人権問題への対応が普遍的な人権運動へ

と広がっていく契機となりうる。たとえば,国際的人権運動の発展にとって

画期的だったとされる旧ソ連の人権運動は, もとをたどれば. 1970-80年

代にソ連内のユダヤ人の国外移住希望者に対する出国許可数が政治状況に左

右され激しく増減したことに対して,出国許可を求める人々が抗議する運動

がはじまりであった。出国を拒否されたことに抗議する人々が,その抗議ゆ

えに当局によって逮捕され,それらの抑圧された人々の人権後支援する人々

の輸が広がっていき,ユダヤ人の出国問題の枠を超えて,公正な行政手続き

ゃ司法手続き,言論や集会の自由を求める人権活動家が生まれ,彼らが国際

法や国際機関に訴えることで,国際的支援の輪も広がっていくということが

みられた(7九これは社会権と自由権の連動とも言えるし,個別から普遍へ

の展開という意味では,人権連動の理想的なあり方であるo もちろん,この

プロセスが、ノ連の政治体制の民主化に直接つながったかというとそうでもな

く,実際には,ソ連崩壊は,この運動が弾圧し尽くされた後に起きた。とは

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1930年の出版,神保町,そして人権

いえ,不当な弾圧の犠牲者への支援の輸は,普遍的な理念を熟成させていっ

たと考えられる。政治的に活発で文化的にも瑚熱した社会のなかで,政治犯

を救う運動である「解放運動犠牲者救援会」は,現在からみれば多くの限界

を抱えていたとはいえ,ナショナリズム一辺倒に向かう流れの中で,一つの

抵抗の要であったはずである。

人権は,個別から普遍,それも聞かれた普遍性安志向しなければならない。

具体的な人権課題は,その内容と対象の範囲とが限定されている。このよう

に限られた人権は,自らとは異質の対象を抑圧し,排除する傾向を伴う可能

性がある。普遍的人権として意識化されていない人権擁護連動も,その危険

性を抱えている。特に,集団の自決権(自己決定権)の場合,その傾向が強

まる。革命運動についても,集団の自己決定権をラジカルにしたものとも言

えるのであり,他集団への排除が起きやすい。これは人権侵害によって引き

起こされたはず革命が,人権侵害を引き起こす理由の一つである。

普適性についても,それが闘定化されると,その概念の抽象性により,内

部への抑圧と外部への排他性を伴うものである。初めから「普遍」を想定す

るのではなく,既存の「普遍性」を含め現状の倫理や論理の枠組みを常に問

い直さなければならない。実際の人権抑圧とそれへの抵抗の歴史を検討し,

人権という視点によって歴史を捉えなおす試みは,なぜ「戦争や人権抑圧を

防ぐJという普遍性が定着してこなかったのかについて考察することにつな

がると言える。

{注}

(1) 拙稿「転向論J~政経論叢J 第 82 巻第 5 ・ 6 号,明治大学政治経済研究所,

2014年3月参照。

(2) 1920年代もモダニズム論として論じられる(海野弘「モダン都市東京ーー

日本の 1920年代」中央公論新社(中公文庫),改版, 2007年など)。

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政経論叢第 83巻第 5・6号

(3) 左翼文護家線聯合編『戦争に対する戦争一一アンチミリタリズム小説集』南

宋書院, 1928年(復刻版,不二出版, 1984年),越中谷利一『戦争に対する戦

争』日本平和論体系 8,臼本図書センター, 1993年などは,反戦を前面に出し

てはいるが,反資本主義,反帝国主義的な視点で編集されている。この本につ

いては,鹿野政蔵「近代日本思想案内』岩波書庖(岩波文庫別巻, 1999年),

288ページ。

(4) 荒川幾男「昭和思想史 暗く輝ける 1930年代」朝日新聞社, 1989年, 7-8

ページ。

(5) たとえば,金賛汀『朝鮮人女工のうた一一 1930年・岸和田紡績争議』岩波

書庖(岩波新苦手), 1982年。

(6 ) 水野広徳については,松下芳男原著,前坂俊之編『水野広徳 海軍大佐の反

戦』雄山閣出版, 1993年,木村久遜典『帝国軍人の反戦 水野広徳と桜井忠

温』朝日新聞社(朝日文庫), 1993年なと・0

(7) 水野康徳『無産階級と図防問題』クララネ土, 1929年, 44ページ。

(8) 新聞紙上での巡識は 1929年である。

(9) 川端康成『浅草紅圏~ 1930年,先進社, 40-41ページ(復刻版,特選名著復

刻全集近代文学館・編集会議編,ほるぷ出版, 1972年〉。たとえば,前掲「モ

ダン都市東京~ 55-56ページ,加藤秀俊,加太こうじ,岩崎爾郎,後藤総一郎

「明治・大正・昭和 世相史』社会思想、社, 1967年, 229ページ,寺島珠雄

『南天堂松岡虎玉麿の大正・昭和』倍星社, 1999年, 40ページなどにも引用。

(10) W浅草紅圏~, 81ページ。

(11) 同上, 158ページ。

(12) 向上, 171-172ページ。

(13) 坂崎重盛『神保町「二階世界」巡り 及び其ノ他』平凡社, 2009年, 82ぺー

ユノ。

(14) 吉本隆明「日本のナシ冒ナリズムJ(吉本隆明編「ナシ田ナリズム』現代日

本思想、体系 4,筑摩書房, 1964年所収), 29-33ページ。

(15) デモクラシーが「左右上下」から攻撃されることについては,拙稿「デモク

ラシー批判の構造JIr政経論叢』第 70巻第3・4号,明治大学政治経済研究所,

2001年 12月, 41-42ページ参照。

(16) エドワード・サイデンステッカー(安西徹雄訳)W立ち上がる東京 〈廃境,

復興,そして喧騒の都市へ)~早川書房, 1992年, 80ページ。

(17) 日本ジャーナリスト会議・出版支部「増補版 目で見る出版ジャーナリズム

小史」高文研, 1989年, 6-7ページ。

(18) 岡野他家夫「日本出版文化史」原書房, 1981年, 325-346ページ。

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1930年の出版,神保町,そして人権

(19) 向上. 325ページ。

(20) 同上. 331ページ。

(21) 下中弥三郎(栗田篠也編)r出版人の遺文平凡社下中弥三郎』栗田t}]ti,1968年. 58ページ(初出「綜合ヂャーナリズム講座』第一巻,内外社. 1930

年. 6-7ページ,復刻版,日本図書センタヘ 2004年〉。

(22) この時代の社会主義文献の概説に就いては,祖父江昭二 i1927(昭和 2)一

1931年(昭和 6)年 27年テーゼー労農-3・15一政治テーゼ草案J(細川嘉

六監修,渡部義通,坂田庄兵衛編『日本社会主義文献解説』大月書庖. 1958

年所収), 196-260ページ。また 1930年を挟んだ全集としては. 11マルクスぉ

エンゲルス全集』改造社. 1928年一1934年. 11経済学全集」改造社. 1928年-

1934年.rスターリン・フ'ハーリン著作集J白揚社, 1928年-1930年などがあ

る(向上. 228-9ページ)。

(23) 梅田俊英『社会運動と出版文化一一近代日本における知的共同体の形成』御

茶の水害房. 1998年. 5ページ。

(24) 橋本求『日本出版販売史J講談社, 1964年.353, 366同 376.377ページ。

(25) 畑中繁雄『覚書 昭和出版弾圧小史』園書新聞社, 1965年, 16ページ。脇

村義太郎も昭和初期の出版界における社会科学フ、、ームについて論じている(脇

村義太郎『東西書諜街考」岩波書応〔岩波新書), 1979年, 164-166ページ〕。

(26) 杉原四郎『日本の経済学史」関西大学出版部. 1992年, 48-52ページ。

(27) 石田雄「増補新装版 日本の社会科学」東京大学出版会, 2013年. 109-119

ページ。

(28) 前掲『覚書昭和出版弾圧小史J], 16-17ページ。

(29) 前掲「社会運動と出版文化J], 22-23ページ。

(30) 前掲「日本出版販売史J]. 377ページ。

(31) 南博社会心理研究所『昭和文化 1925-1945J]勤草書房. 1987年, 302ぺー

手ノ。

(32) ちなみに,ブームから 90年にもなろうとするのに,いまだ円本はシリーズ

本の端本ならば,神保町の均一棚などに紛れ込み数百円で手に入れることがで

きる。

(33) 前掲「日本出版販売史J]. 383ページ。

(34) 石川弘義「文庫本 昭和初期の文庫ブーム 岩波書庖・改造社・春陽党・新

潮社J(石川弘義,尾崎秀樹『出版広告の歴史 1895年ー1941年』出版ニュー

ス社. 1989年所収), 217ページ。

(35) 奥村敏明『文庫パノラマ館』青弓社, 2000年, 88-90ページ。

(36) 今和次郎,吉田謙吉編『モデルノ口ヂオ(考現学)J春陽堂, 1930年, 217

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政経論叢第 83巻第 5・6号

ページ(復刻版,学陽書房, 1986年)。

(37) 今和次郎編『新版大東京案内』上,ちくま学芸文庫,筑摩書房, 285-286ペー

ジ(初版,中央公論社, 1929年,復刻版,批評社, 1986年, 159ページ),

nIMBOCHO 神保町公式ガイド 2012-13J]Vol. 3,神田古書1苫連盟, 2012年.

26-27ページ,稲上健之助「神田・喫茶寮点描J(j11本三郎編『モダン都市文

学班犯罪都市』平凡社, 1990年所収), 390-394ページ。「モデルノロヂオ』

には神保町のカフェ街の詳しい地図も掲載されている(前掲「モデルノロヂオJ],

218ページ)。

(38) 前掲『立ち上がる東京1 14-15ページ。

(39) 三省堂書庖百年史刊行委員会編「三省堂書底百年史』三省堂書庖, 1981年,

186, 193, 236ページ。

(40) 富山房編『冨山房』冨山房, 1932年(非売品〉。

(ω41) ["千代回図書館の歴史Jh凶1沈ttゆp:jjwww.libr悶ar門y

tωorげyj(千代回区図書飴館.の HP刊)アクセス臼:2015年 1月5日。

(42) 1929年9月に解散し,プロレタリア科学研究所となる。同年 11月の創立記

念講習会には 1,500人が集まった(山田宗陸『現代思想史年表』三一書房.

1961年, 131ページ)。

(43) 大島義夫,宮本正男『反体制エスペラント運動史』三省堂, 1974年, 160ぺー

Lノ。

(44) 小学生全集編輯昔日編「世の中への道」小学生全集 84 巻,興文社,文章~春秋

社, 1929年, 124-170ページ。

(45) 前掲『新版大東京案内J], 217ページ。

(46) 石黒敬章編,古井由吉,種村季弘,加太こうじ『絵、天然色写真版 なつかし

き東京」講談社, 1992年, 108ページ。

(47) 社会主義者たちの演説会場や貸席については,山泉進「日本社会主義演説の

曙J~初期社会主義研究』不二出版,第 6 号, 1992年, 85-90ページ。

(48) 阿部若手丸『千代田区史跡散歩 東京史跡ガイド①』学生社, 1992年, 182ペー

;/。

(49) 川合貞吉『神田錦町松本亭梁山泊の女・松本フミ J察署E書林, 1977年。

(50) 河畠修「福祉史を歩く 東京・明治』日本エディタースクール出版部, 2006

年, 124-146ページ。

(51) http://gyokusen・do.jp(玉川堂の HP)アクセス日:2015年 1月5日。

(52) 鈴木理生,東京にふる里をつくる会編『千代田区の歴史」名著出版. 1978

年, 207-208ページ。

(53) 潮見俊l盗『治安維持法』岩波書庖(岩波新書), 1977年, 56ページなどによ

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1930年の出版,神保町,そして人権

る。

(54) この運動については,以下の文献を参考にした。上田誠古『昭和裁判史論

治安維持法と法律家たち」大月書庖. 1983年,大石進「弁護士 布施辰治』

西国書j苫. 2010年,潮見俊隆編著「日本の弁護士」法学セミナー増刊, 日本

評論社, 1972年,社会問題資料研究会編「昭和 7年商 1月蚕6月社会運動情

勢一一東京控訴院管内一一(上)(思想研究資料第 27輯H社会問題資料叢書第

l輯,東洋文化社. 1979年,社会問題資料研究会編「京都学生事件の梗概と身

上調査(思想研究資料第7輯〉 日本赤色救援会資料(思想研究資料第 51輯).]

社会問題資料叢書第 l輯,東洋文化社. 1980年,自由法曹団編『自由法曹因

物語 戦前編」日本評論社, 1976年,瀧津一郎「日本赤色救援曾史」日本評

論社, 1993年,田中真人 n930年代日本共産党史論」三一書房. 1994年,難

波英夫『一社会運動家の回想」白石番庖, 1974年,難波英夫「救援運動物語J

日本国民救援会. 1966年,布施柑治「ある弁護士の生涯一一布施辰治ーー」岩

波書庖(岩波新書), 1963年. 79-87ページ,モ γプル資料集刊行会編,難波

英夫,平野義太郎,藤森成育,太田慶太郎監修「モップル資料集 階級的救援

運動の原点』モップル資料集刊行会, 1975年,森正「治安維持法裁判と弁護

士」日本評論社. 1985年,森長英三郎「山崎今朝弥一一ある社会主義弁護士

の人間像」紀伊闇屋書唐. 1972年。

(55) 前掲『自由法曹団物語~, 19ページ。

(56) 同上. 20ページ。

(57) 前掲『モップル資料集Jl. 48ページ。

(58) 前掲『治安維持法~. 82-88ページ。

(59) 前掲『日本赤色救援曾史~. 220ページ。

(60) 向上. 133ページ。

(61) 向上. 200ページ。

(62) 前掲「転向論J.170-172ページ。

(63) たとえば,側世界人権問題研究センター,上田正昭編『人権歴史年表」山川

出版社. 1999年や前掲「近代日本思想案内』の人権関連部分 (139-156ページ)

では,この運動に触れられていない。

(64) 1931年 6月から 1932年 10月まで,共産党統一公判が聞かれたのであるが,

「党は 6月公判闘争委員会を結成し獄内外,相呼応して公判闘争を強カに推進

した。被告団は公開公判,法廷委員会の結成,法廷内における言論の自由など

をかちとり,共産党中央部は「孤立せる被告のみの闘争ではなく法廷外の大衆

闘争に支持されこれに従属する闘争」を宣言し,党機関,外廓団体,左翼系大

衆団体を動員して果敢なアジプロを展開した。J(大谷敬二郎「昭和憲兵史』み

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政経論叢第 83巻第 5・6号

すず書房. 1966年. 27ページ)。

(65) 難波英夫「解放運動犠牲者救援運動の意義と任務J(前掲『モップル資料集~.

133 ページ)。この論文は熊谷丑太のペンネームで『マルクス主義~ 1929年4

月号に掲載された。

(66) 前掲 n930 年代日本共産党史論~. 188-189ページ。

(67) 前掲「自由法曹因物語J.30-31ページ,前掲『治安維持法裁判と弁護士J.219-220ページ。

(68) 前掲『自由法曹団物語J.97-98ページ。

(69) 同上. 99ページ。

(70) 前掲「日本赤色数援金史~. 226-227ページ。

(71) 前掲『モップル資料集~. 15ページ。

(72) 遊上孝一編,小林社人n-転向期」のひとびと一一治安維持法下の活動家群

像』新時代社. 1987年. 193ページ,石堂清倫「解題(1)小林杜人のたどった

道J(同書所収), 262, 263, 267ページ。

(73) 片山潜「日本におけるテロルと日本赤色救援会J(前掲「モップル資料集J.107-108ページ)。この論文は『インプレコル』ドイツ語版. 1932年 10月 29

日付,第89号掲載された。

(74) 統一公判では,宮城実裁判長から,ソ速の粛清裁判の実態を知っているかと

皮肉られている(前掲『昭和裁判史論J.58ページ)。これは,当時に限らず,

戦後の左翼運動に多く見られた問題である。その意味でも, 1970年代以降,

ソ速などにおける社会主義国内での反体制運動が,党内反対派や他の革命党派

としてではなく. i人権運動」として,普遍性を強調した意義は大きい。

(75) 前掲『日本赤色救援舎史J.56ページ。

(76) 同上, 57ページ。

(77) Iその志向には,社会民主主義者をメンシェピイキと図式づけ,ことごとく

敵としてかえりみない狭隆な誤りなどはなかったろうか。高まる人民の闘争を

ただちに革命の前夜と独断して,素朴な大衆の人間的欲求を無視するばかりか,

理不尽な公式の抑しつけ明け暮れたことはなかったろうか。省みて,いまも胸

に痛い悔恨は避けられないJ(浮田左武郎「プロレタリア演劇の青春像』未来

社. 1974年. 46ページO

(78) 拙稿 iCSCEと人権JW明治大学社会科学研究所紀要』第 33巻第2号,明治

大学社会科学研究所. 1995年3月, 255-256ページ。

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