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先 端 医 療 技 術 ---- 医療技術革新の奔流 --- 政策研究大学院大学

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先 端 医 療 技 術---- 医療技術革新の奔流 ---

藤 正 巖

政策研究大学院大学

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目  次

は じ め に

 第1章 科学と技術とテクノロジー

1.1 科学と技術

1.2 伎芸

1.3 科学的思考法と評価

 第2章 ひとの臓器機能を作る

2.1 生体の機能を機械に置き換える

2.2 医療技術の進歩は驚くほど速い

 第3章 生物の設計図と医療技術

3.1 生物の設計図の発見

3.2 生物機械の設計図

(生物機械論の根源:セントラル・ドグマ)

3.3 細胞内の部品の作られ方

3.4 バイオナノマシンのエネルギー源は ATP

(Adenosin Tri-phosphate)

3.5 動く機械としての動物と医療技術

 第4章 医療技術とは

4.1 人の体を修復・維持する技術の未来

4.2 人はいつまで修復可能か

4.3 人の無故障期間と加齢医学

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4.4 医療とはどんな技術か

4.5 医療技術革新はどのように進むか

第5章 先進医療技術はどこへ

5.1 マイクロ化,ナノ化

5.2 低侵襲化,ロボット化

5.3 設計図の修復と分子標的治療薬

5.4 構造画像と高エネルギー収束治療

5.5 構造画像と脳血管疾患

5.6 神経インターフェイス

5.7 認知科学の進展はいまだ未熟

5.8 バイオインフォマティックス

 お わ り に

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は じ め に

 この講義は,病院の経営管理者に対して,1980 年代後半頃から急速に技

術革新が進み始めている治療技術を中心に,先端医療技術に焦点をあて,そ

の経緯と将来展望を示すのが,第一の目的である.

 一方,1990 年頃から起こった日本の経済成長の停止は,医療に厳しい経

営環境を強いることになった.その原因は,2005 年から日本において,本

格的な人口減少が起こったことにあるが,その原因は日本国民が寿命を延ば

し,人口構造が高齢化ためであり,その結果,医療需要の増加を招いたのも

必然であった.経済成長の停止は,国民医療費の総枠規制をもたらし,それ

にもかかわらず,医療需要は刻一刻と増加するといった,厳しい経営環境の

中に置かれているのが昨今の状況である.病院経営者が,この状況で刻々と

技術進歩をおこす医療に対して,どのように対処してゆくかを示すのも,こ

の講義のもう一つの目的となる.

 私は長年,医用計測機器と人工臓器で先進医療技術の立ち上げに携わり,

その後,日本社会の構造と経済機能を分析するのを研究の主題としてきた.

 ここでは,これまでの研究開発の経験と,医療技術全般に関するサーベイ

とを主体として,日本の医療経済の将来が,医療技術に与える影響を概説し

てみる.

第1章 科学と技術とテクノロジー

1.1 科学と技術

 サイエンスはルネサンスの後期に,「先入観の無い観測から生まれた共通

原理」を探すことにあるという定義からスタートした.還元論とも言われる

この考え方は,Issac Newton (1642-1727) が残した「私は仮説を作らない

1) Philosophiae Naturalis Principia Mathematica:プリンキピア(自然哲学の数学的原理),1687

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(hypotheses non figo)」というプリンキピア 1) の言葉がその定義の起点に

ある.仮説を持たないから,先入観は存在しない.ただ自然をあるがまま

に眺め,それを分析して,その観測から生まれた共通原理が何であるかを

知ることが科学の本質であるというのである.

 一方,この講義で述べる,技術を主流とした科学の側面は,全ての技術

的発見や発明が,仮説からスタートするという傾向を持っている.技術の

発生の過程を眺めると,そこには,誰か仮説を持った注文主が存在し,そ

の価値観を押しつけようとするところからスタートしている.発注者がい

るからには,出来上がったものの価値は評価が可能であり,したがって,

工学や技術は,常に価値という概念がつきまとう.

 これに比べると科学は,その価値はそれに取り組む人間,その自らにあっ

て,自らの興味を中心にして成り立つものである.その価値観は個人に属

している芸術と同じで,自己の感性の命ずるままに,自分のやりたいこと

をやるという領域である.したがって科学には,携わっている本人には評

価の意識が無い.価値観は飽くまでも自らにあるため,その評価は,発見

のあとになって,発見されたことが応用されて初めて価値が生まれる.ノー

ベル賞が科学的発見の対象を事後評価で行っているのは,そのためである.

 現在の多くの研究者は科学を科学技術と呼んでいるが,これは社会的に見

て評価が可能である領域を指している.これは一種の工学的な科学であり,

仮説を基に,新しい反応法や,新しい物の作り方,新しい動作原理を分析

する立場である.多くのこのような工学的な科学は,まず先に工学技術が

経験からでき上がり,その原理を探求して,完成したのちに初めて,それ

に付随する様々な原理が発見されてゆく.医療技術はその代表ともいえる.

 一方,最初から理論があって,その理論に基づいて新しい技術を作ろう

とする立場のことを,発見的工学(Exploratory Engineering)と呼んでいる.

この言葉は,K. Eric. Drexler2) によって初めて定義されたもので,現代のよ

うに,多くの観測・制御技術が出来上がり,新たな物理・化学原理が存在

するときに,その理論に基づいた機械を作ろうという立場に対して用いら

第1章 科学と技術とテクノロジー

2) Drexler,K,E: Engines of Creation. Doubleday, pp.298, 1986

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れる.特に生命科学が急速に進展した 20 世紀末,ゲノムの理論に代表され

るような新しい原理を,技術転用する手法が急拡大した.その応用である医

療技術は,21 世紀が生命科学の世紀であるという言葉を,具現化するよう

に見える.しかし,この科学技術には人の「こころ」は入ってこない.「こ

ころ」が入った技術を伎芸と呼ぶ.伎芸とはラテン語で言う ars であり,こ

の言葉は英語の art の語源でもある.

1.2 伎芸

 伎芸(ars)とは何であろうか.これを説明するにはまず,René Des-

cartes が方法叙説の中で 3)「我思う故に我あり:cogito, ergo sum」と,こ

ころの問題を,科学の問題と別のものとした,二元論の時代にまで時代を遡

らねばならない.

 デカルトとニュートンの二人は科学の創始者である.彼らは「この世の中

には『もの』と『こころ』とがあって,『もの』を分析するのが科学であり,『こ

ころ』はその範疇には入らない」とした.デカルトは,「『こころ』は誰にで

もあり,そして,その『こころ』は誰にもわからない」と考えた(還元論的

考え方).

 しかし,科学技術が登場する前の時代「もの」と「こころ」は,融合して

ひとつの技術を作り上げていた.いわゆる伎芸であり,その代表は医療であ

る.「生命は短く,芸術は長い(vita brevis, ars longa)4)」というのはよく

聞かれる言葉であるが,正確に言えば,これは「生命は短く,伎芸は長し」

である.その伎芸の基となった言葉は,医学者であった Hippocrates5) の「医

術(テクネー:τεχνη =technology)」にある.ギリシャ時代にヒポク

ラテスは,「医術は,それを習得するにはあまりにも時間がかかるが,それ

に対して生命は短い」というような意味のことを言い,それが「生命は短く,

伎芸は長く」の言葉に変わったと言われている.

 この言葉は「もの」と「こころ」は本来ならば一体のものであることを述

3) Les Discours de la Méthode ( 方法叙説),16374) Lucius Annaeus Seneca 4B.C.?~65A.D. ローマの雄弁家5) Hippocrates 469?~375 B.C. 医聖

1.2 伎芸

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べたものである.現在,医学では「こころ」までを科学の対象とし,複雑系

の科学が登場するに及んで,時空間までが次元を持った科学の対象となり,

二元論的な科学の考え方は変わりつつある.この講義では,まさに現代科学

技術の本質を取り扱うと言ってよい.そして,科学の世界で今までとられて

きた,西洋流の二元論のうちの還元論的世界とは異なった,東洋的な一元論

の世界で,科学技術を眺めようというのである.いわばこれは仏典の般若心

経の世界「色即是空,空即是色」の科学技術であるとも言うことができる.

1.3 科学的思考法と評価

 ここでもう一度,科学本来の思考法に,戻ってみる必要がある.何故なら,

科学は,多くの研究者が,自らの発見した新しい原理や方法論を,世の中に

問うことから始まるからである.いくら自己の興味で成り立つからと言って

も,それを職業とするには,何らかの方法で自分の価値を言わなければなら

ない.

 例えば,科学的発見においては,ある発見した現象が,すべての同様な場

で同じように起こることが重要である.これと同様に,それを誰が最初に発

見したのかということも重要である.その際に「この現象の原理はこのよう

に説明できる」と最初に言った人は,科学の発見者としての名声を受けるこ

とができる.誰にとっても,このことは,ごく当然のことのように思われる

のだが,実はその背後に「この現象の原理は,他の方法でも説明ができる」

とした人に対して,その説明の方が正しいことの立証を迫るという本質を併

せ持っている.

 立証も無く,ただ仮説的に「これは他のこういう方法でも,説明すること

ができる」と論文を書いても,投稿した科学雑誌に「これは誰かがすでに説

明している」と言われるばかりで,非科学的な論文として却下されることに

なる.前に立てた説を否定する実証的な結果があって初めて,新しい科学領

域は登場する.

 この意味では,今日のノーベル賞は,新しく発見された原理とそれから創

り出された技術が,どれだけ多くの研究フィールドを生んだかを評価の対象

としていて,多少科学技術の技術の方に重きが置かれていると言えるが,生

第1章 科学と技術とテクノロジー

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物の世界でもっとも有名な賞であるダーウィン賞は,ダーウィンの立てた仮

説を否定して初めてその受賞の対象になり得ると言われるほど,はっきりと

した科学的価値観を持っている.

 例えば日本の研究者でも,木村資生氏 6)(国立遺伝研所長)がダーウィン

賞を獲得しているが,彼の論文の重要な点である中立進化説は,「意味の無

い遺伝子群が変異を起こして,新しい遺伝子となる」と述べたもので,ダー

ウィンの言う「突然変異による優性遺伝子の登場が適者生存によって残る」

という形質の固定による進化の機構を完全に否定し,新たな数理進化論を作

り出したことが価値があると認められたのである.

 

第2章 ひとの臓器機能を作る

2.1 生体の機能を機械に置き換える

 先端医療技術の開発は,シュンペータ 7) の述べた,創造的な破壊による

技術革新,別名イノベーションから始まる.全く異端の領域から本質的な新

技術は発生する. 

 私は,長いあいだ「生物は物理学的原理からその設計,形成の仕組み,動

作を説明でき,当然,その原理を使った機械も新たに作りうる」という立場

をとって研究を続けてきた.

 生体の機能を機械的に理解するなどということは,口で言うのはやさしい

が,機械工学では多くの場合,動物の機械的性能に目が行き,動物はどのよ

うな運動方式を持ち,機械的な能力はどのくらいかの分析的研究に費やされ

る.しかし,われわれが用いた手法はそれとは異なり,生体の機能を持った

ものを何らかの形で作ってみることにあった.いわば,生体の機械的・機能

的シミュレータである.最初に可能だと考えられるのは,臓器の持っている

機能のシミュレーションだろう.

 例えば,動物の持つ循環機能を人間の作った機械で支援する装置を作って

みるという課題が存在していることに気づく.いわゆる人工臓器のうち,人

6) 木村資生 (1924~1994):生物進化を考える.岩波新書,pp.290, 19887) Schmpeter, Joseph Alois, 1883-1950

第2章 人の臓器機能を作る

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工心臓を作ってみればよいということになる.

 循環機能の支援装置を作ろうと考えると,まず,生体の循環機能を調べて

みなければならない.勿論,生理学の教科書に書いてあるのは,生体にはこ

ういった循環機能があるということだけである.当時は,その機能を発揮す

る機械を作ってみることは,治療装置を作るという発想より以前に,神をも

恐れぬ所業であると考える人の方が多かった.

 開発の重要な点は,それが動物の心臓と同じ物質で作られる必要はないと

いうことだ.この考えによれば,一定の圧力に抗して一定流量の血液を生体

の循環系に流し込みさえすればよいのである.したがって,生体と全然関係

がないと思われる技術であっても,機能を具現化できれば良いと考えること

が重要であった,先入観に捕らわれず,工学技術を積極的に取り入れようと

する若者の世界が,この生体機能のシミュレーション研究には適していた.

 ちょうどその時代,1960 年代前半は,少しずつ科学技術の研究の余力が

大学内に出来始めていて,私学の研究センターがあちこちに登場し始めた頃

でもあった.私の関係があった大学の中にも,改組が始まっていた東京女子

医科大学内に,新鋭の心臓血管研究所ができ,実験室には,これもまた各地

から集められた若い心臓外科医たちが多数おり,そこへ自製の人工心臓ポン

プを持ち込むと,何と彼らは,直ちにそれを実験動物に取り付け,データを

取り始めた.この時点で補助心臓は誕生したのである.私の循環機能のシミュ

レータとしての人工心臓研究は,このようにして始まった.

 人工心臓の研究が世界で始まったのが 1959 年とされているから,私もほ

ぼ同じ頃,研究を始めたことになる.それから約 5 年が経った 1965 年に

は「人の作った心臓によって動物は生きられそうだ」という程度までになっ

た.人の作った機械によって,生物機能をシミュレーションできたという結

果は,私だけではなく,科学技術の世界に大きなインパクトを与えた.人の

作った心臓で動物が生きられるという初期の技術成果は,当時は,直ちに大

型研究費の投入へと繋がった.科学技術庁特別調達費の獲得である.日本の

産業も次第に成長し始めていて,独自の技術の創出を目論み始めていた.富

士通や石川島播磨重工といった大企業は,自らのもつ種々の技術を提供し協

力をし始めた.民間のベンチャービジネスに近い医療産業もこれに参加し,

2.1 生体の機能を機械に置き換える

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日本光電工業が人工心臓の駆動装置を作り始めた.科学技術に奨励金を出す

民間の財団も,この技術成功に対して報奨金を出した.人工心臓の研究は,

僅か 3 人の研究チームであったが,海外との激しい開発競争に立ち向かう

ことになった.

 驚くべきことは,1959 年に始まって僅か 5 年程度しか経たない人工心臓

研究のスタート時に,多種の人工心臓が登場したということだった.設計に

何の制限条件もなく,ただ生体循環系の心拍出量と血圧が維持できるだけの

ポンプがあれば,動物は生きることができる,ということがわかった研究者

たちは,争って種々の人工心臓を開発しはじめた.先入観のない技術開発か

らは,驚くほどの多様な発想が生まれる.僅か 5 年のうちに開発された人

工心臓をサーベイした結果があるが,おそらく 40 〜 50 種類の人工心臓が

作られていたであろう.それは恰も,生物が初めて単細胞から,多細胞生物

となり,最初の動物がこの地球に登場した,6 億年前のカンブリア前期の生

物種の様相を,思い起こさせるような光景であった.

 完全人工心臓で,動物の長期生存が確実に得られるようになり,それを補

助人工心臓に使って,患者の心機能の一部分を代行する臨床が,世界に先駆

けて開始されたのは,1981 年のことであった.この時代の人工心臓は,心

臓移植に使われるのを目的としていた.しかし,人工心臓による心機能の永

久的な完全置き換えは容易に進まなかった.

 その隘路は,全く他の科学技術の登場で,新しい突破口が見つかり始めた.

いわゆる,クローニングである.2007 年頃に登場した,心筋梗塞の部位へ

幹細胞(この場合は単核球)を注入したり,筋細胞を多細胞シートに形成し

て,収縮可能な心筋を作る手法である.この場合は心臓移植と同様に,バイ

オ的な物質の相同性が満足されるため,移植患者の管理が容易である利点が

ある.

 いずれにせよ心筋梗塞患者数を考えれば,膨大な医療需要が発生すること

になる.日本のように,臨床治験と製造物認可制度が未整備の国では,海外

期間を巻き込んで治験臨床を行う必要がある. 

 

2.2 医療技術の進歩は驚くほど速い

第2章 人の臓器機能を作る

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 医療技術はどれも重要だと,特に専門家は主張する.しかし,医療技術の

重要さを死亡者数で評価すると,技術の順位は大幅に変わってくる.今でも

死亡の原因の主流は成人病である.

 細胞の形成と分裂過程での障害の「がん」が一位,分裂しなくなった細胞

への血液供給障害である,「心疾患」と「脳血管疾患」が二位と三位,それ

以外では,加齢の過程で生ずる個人的障害である,「肺炎・気管支炎」が四位,

「老衰」(七位),「慢性閉塞性肺疾患」(十位)と,大半の死因は生活習慣病

よりは成人病が占めている.

 それに続いて多いのは,現代社会文明と関わりのある傷害,「不慮の事故」

五位,「自殺」六位で,そのあとに「腎不全」八位,「肝疾患」九位と続き,「糖

尿病」は十一位にすぎない.

 加齢の結果起こる病気のほとんどは,これら主死因となる疾患と相互に関

連があり,その意味では,生活習慣の改善や,メタボリックシンドロームの

防御も重要で,それを防がねば,人は多臓器不全で死亡にいたることになる.

したがって,新しい医療技術開発を行う場合は,その開発の途上で多くの関

連技術が必要となり,それに伴って副産物が登場するのが現状だ.

 最初は,これまで手の付けられていなかった医療分野の医学計測や治療技

術に,他の分野で登場した新技術を取り入れようとした.1960 年代から急

速になった科学技術の革新は,それを医学の領域にも取り入れれば,記述学

の医療を科学的医療へと変身させようとする努力に役立つと思われた.

 幾つかの小さい成果から,医学では,新しい目で生体機能の分析を行うと,

多くの常識が覆ることにがわかった.あるものには,当時最先端技術として

軍事や宇宙開発の技術が転用(spin-off)され,それが医学用になった.今日

それは,Dual-use Technology,つまり二つの使い道のある科学技術という

名前で呼ばれている.

 私は,遠赤外線計測(サーモグラフィ)を新しく始め,治療法としてはレー

ザー医学を始めた.1980 年から日本社会に登場し,急速に性能の高くなっ

ていったパーソナルコンピュータを用い,分析手法としてはコンピュータ診

断や生体制御を始めた.そして,これらの技術はいずれも人工心臓の技術と

密接に関連のあるものだった.

2.2 医療技術の進歩は驚くほど速い

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 予想外であったことは,医学の中から独自の新技術が登場し,それが外部

の新技術と結びついて,一般産業にまで波及し始めたことだ.特にコンピュー

タ処理技術の急発展は,医学に大きな影響を与えた.いわゆるコンピュータ

断層技術である.X 線から始まり,核磁気共鳴吸収(MR),放射性核種によ

る画像装置(PET, SPECT)など,1980 年代以前には臨床に存在しなかった,

生体の断層構造を表示できる画像装置は,日本の臨床市場に急速に導入され

始めた.この技術は断層画像が必要な一般産業にまで普及が始まっている.

 元来,生体組織に近い硬度を持つ高分子材料も,医療用に特化して開発が

進められた.姑息な(保存的という)治療しか方法のなかった心筋梗塞患者

に冠動脈インターベンション(PCI)の手法が使えるようになり,心筋梗塞

患者の延命が可能になったのは,各種 CT 技術と,冠動脈狭窄部位の拡大の

ためのバルーンカテーテル治療技術と,血流維持を図るステントの普及が始

まったからである.この技術は臨床に登場して僅か 10 年ほどで,1990 年

代には循環器病の当たり前の治療技術となった.

 技術はさらに先を目指す.冠不全の患者の延命が可能となると,その延命

中に,冠動脈狭窄の部位をバイパスする技術を適用することが注目を集め始

めた.元来 1950 年代に開発された人工心肺技術は,重篤な心疾患治療のた

めの開心術に使用され,それは冠動脈バイパスの手術にも使われたが,侵襲

が大きく適用は限定的であった.

 一方,1990 年初頭に臨床化が始まった,直達鏡下の遠隔手術を目指す低

侵襲外科は,胆囊摘出術から始まったが,瞬く間に全外科領域に広まって

いった.それはやがて,医用の複合画像機器の支援の下に行われるロボット

外科となって,冠動脈バイパス手術にも適用されるようになった.人工心

肺のポンプを使わずに,開胸をすることもなく,僅かな開口部から行われる

Pump-off 外科は,急速に症例が増えつつある.

 最近の心疾患治療技術はさらに急速である.以前から行われていた冠動

脈血栓の融解のための薬剤投与法は,血栓発生後 12 時間以内の組織プラス

ミノーゲン活性化酵素(t-PA)のカテーテル投与により,治療が可能となっ

たからである.そのことは,同時に,もし救命を本格的に行おうとすれば,

12 時間以内に,治療を開始しなければならないことを意味する.医療シス

第2章 人の臓器機能を作る

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テムの中に超救急医療システムが加わり,医療の体制が変わり始めた.

 このように,心機能の維持を目指す,冠疾患や心筋梗塞の治療法一つを取

り上げても,このわずか,20 年ほどの間に大きくその様相が変わり,医療

のシステム自体を変えてきたことがわかるだろう.

第3章 生物の設計図と医療技術

3.1 生物の設計図の発見

 機械学的な目で生体を眺める科学者はいたが,多くの研究者達はその運動

を機械的に説明したり,動物の持つ巧妙な運動機能を何とかして獲得したい

ものと考えるのが普通であった.

 動物の臓器機能をそれと同じ大きさで実現しようとした私は,動物の持つ

機構そのものが効率の良い機能をもたらしていると考えた.1985 年頃始め

た研究は,動物機械の設計論を解き明かそうという大それたものではあった

が,当時の生物学教科書には何らそれに対する回答が書かれていなかった.

ただそこにあるのは,生物は作られる仕組み,その機能,その力学が説明さ

れているだけであった.

 一方,真に生物を機械として認識したのは,ワトソンとクリックが 1953

年 Nature 誌に投稿した,DNA が遺伝子担体であるとする仮説(セントラル

ドグマ)からであった 8).DNA,すなわちデソキシリボ核酸という純粋な化

学物質の二重螺旋が生物の設計図であり,それはわずか4文字の核酸で記載

されていることが,Nature 誌の僅か 1 頁の論文として書かれているだけで

あったが,それは 20 世紀の最大の発見となった.この半世紀,生物の世界

の理解を深めるために,この設計図を読むことに主力が注がれたといってよ

い.

3.2 生物機械の設計図(生物機械論の根源:セントラル・ドグマ)

 全ての生物は 4 種類の核酸をコーディングの文字として使った設計図を

3.1 生物の設計図の発見

8) Watson,DJ and Crick HC: nature, April 25, 1953.   Scientific American 288(4), 66, 2004 にその医療応用の解説がある.

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持っている.DNA である.そのコーディング文字は adenine(A), guanine(G),

cytosine(C), thymine(T) の 4 種類で,細胞の核の外で DNA を転写して作る

タンパク製造テープであるリボ核酸では,thymine に変えて uracil(U) がコー

ド文字となっている.

 DNA は 生 物 設 計 図 の マ ス タ ー テ ー プ で あ り,adenine と thymine,

cytosine と thymine が対になって作られている二重鎖を持ち,構造強固な

安定した螺旋構造をしていることが,J. Watson と F. Crick の DNA の発見以

来知られていた.

 DNA は設計情報のマスターテープであるため,進化の過程で何回も突然

変異を起こし,その情報をコピーして,染色体に保存してきた.その結果,テー

プの大半部分は,転写された反復配列による塵であると考えられた.真の遺

伝情報部分を読みとる研究はゲノム(Genome)研究と呼ばれ,遺伝子配列

の解析機械,いわゆる自動シークエンサーの開発によって,1980 年頃より

急速に進み,2000 年に人遺伝子の全てが解読された.

 人遺伝子は細胞の核内に染色体としてあり,DNA 螺旋はヒストンと呼ば

れる強固な独楽状の構造タンパク質に巻き取られた紐になり,さらに何回

も螺旋構造を繰り返して染色体を作っている.染色体は 23 対あり,23 番

目は性染色体で,女性は XX,男性は XY の性染色体を持っている.それを

解きほぐすと長さ 2m あり,遺伝子領域は僅か 1.7%,遺伝子数はたったの

22,000 個しかないことが明らかになった.しかも 99.9%は,人では遺伝子

コードが共通で,0.1%の違いで個体差や病気発生に関与しているとされて

きた.

 最近(2006 年)になり,DNA の遺伝情報ではないと考えられてきた

DNA 全体の 50%以上を占める遺伝子の反復配列が,個人や環境によって変

化を起こした細胞の遺伝履歴であることがわかり始めてきた.この反復配列

は数コピーから数百コピーにもおよび,これが設計情報の転写やタンパク

製造の時に,重要な触媒作用などを起こしていることも分かり始めてきて,

DNA のセントラルドグマが改変される事態になっている.

 設計図は転写酵素によってコピーされ,タンパク質製造のための mRNA

(メッセンジャーリボ核酸)となって核の外へと出される.コピーし核外へ

第3章 生物の設計図と医療技術

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12 Chapter

出た遺伝子は,不必要な情報が全部取り去られ,設計情報のみとなるが,こ

こで,コード文字が thymine から uracil に変えられただけで,遺伝子の螺

旋構造はなくなり,単鎖のテープは弱くなり,一種の一時使用のテープと変

化する.これはタンパク質製造指示用のワーキングテープとして,細胞質の

中のリボソームで使われる.タンパク質を合成する際にも,RNA の複合体

が使用され,実際のタンパク製造の制御には,何度も重複されてコピーされ

た情報の屑と思われていた DNA の大半の部分も,転写され RNA となって,

触媒や酵素として重要な役割をはたしていることも明らかになってきた.

 人のタンパク質は 9 万種にも及ぶが,この合成の全てに RNA がかかわっ

ており,そのある部分は,これまでコピーミスのために使われないと思われ

ていた DNA の反復配列も,関与していることが分かり始めている.このた

め RNA(Ribonucleome)研究が,現在ゲノム研究の最先端となっている.

現在の研究の流れを下に示しておこう.

Genome (DNA)

->Transcriptome (RNA polymerase)--mRNA

->Ribonucleome (Ribosome)--non-coding RNA

tRNA, rRNA, snRNA, snoRNA, miRNA, tmRNA, etc.

->Proteome (Protein)

->Physiome (Supramolecule)

->Pathological Genome

3.3 細胞内の部品の作られ方

 生物では,細胞の中にある機構・機能部品は,タンパク複合体である.そ

の製造場所は,RNA とタンパクの複合体の細胞質のリボソームである.

 タンパク質の製造手法は,mRNA の設計図による自動合成(オートアセ

ンブル)である.タンパクの製造工場である細胞内のリボソームでは,3 種

の核酸を 1 単語として,20 種類のアミノ酸を選択し ,1 本の分子鎖(ポリペ

プチド)を合成する.

 ポリペプチドの鎖はある程度の大きさになると,高次構造が自動形成され

3.3 細胞内の部品の作られ方

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13Section

る.いわゆるポリペプチド鎖の自動折り畳みによるタンパク分子の高次構造

の形成である.

 生物の基幹部品であるタンパク質は,このようにして自動合成され,この

仕組みを解き明かすポストゲノム研究が最先端科学技術となっている.ライ

フサイエンス産業では,この過程を細胞内で特化させ,各種の医薬品を作り

出すことが可能となった.

3.4 バイオナノマシンのエネルギー源は ATP (Adenosin Tri-phosphate)

 生物は最初は酸素のない状況で生命を誕生させた.38 億年前のことであ

る(地球の誕生は 46 億年前).生物は自然界に存在した ATP をエネルギー

源として使用した.1分子の ATP から 1 個の高エネルギーリン酸を解離し,

それをエネルギー源として利用し,水素イオンを海水中に放出した.長期間

にわたる水素イオンの解離の結果,ATP は枯渇し,海水は酸性化し,生物

は他のエネルギー源を探さなければならなくなった.

 脂質 2 重膜の中に仕込まれる ATP 合成酵素(プロトンで ATP を作る酵素)

と電子受容体(葉緑体の中にある電子エネルギー変換装置)が出来るには,

長い進化の過程があり,結局光のエネルギーを用いて水素を固定し,酸素を

発生させて ADP から ATP を作る方法をとるに至った.生物はこの ATP を

全ての反応のエネルギー源としている.水を分解し,酸素を放出する過程だ

から,生物の増加とともに,大気中の酸素は次第に増加し,10 億年ほど前

に現在の約 18%程度の酸素濃度になった.

 現在の生物の主流となっている真核細胞生物の大半は,これ以後登場した

ものである.

 もしこの ATP 合成酵素(プロトンで ATP を作る酵素)と電子受容体(葉

緑体の中にある電子エネルギー変換装置)が人工的にできれば,光さえあれ

ば,エネルギー源に ATP を使用することができる.ナノボット (Nanobot)

のエネルギー源はこの形式になるかもしれないと考え研究するチームも出始

めている.

 一方,ATP の分子構造から見ても分かるように,DNA はこの派生物から

できたといわれている.その後,基本的な生物の仕組みは変わらず,生物は

第3章 生物の設計図と医療技術

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14 Chapter

姑息に環境に対処して生き延びてきた.そして基本部品を作りそれを組み上

げて真核細胞を作った.

 

3.5 動く機械としての動物と医療技術

 生命体も機械であるという論が世の中を覆うようになりはじめている.し

かし,判っているのはまだ DNA のレベルでしかなく,後は生物固有の仕組

みがあるように見える.人の「こころ」までを含んだ医療は,そのなお先に

あり,機械論とはほど遠い所にある.では,生命は機械論で説明できるだろ

うか.

 独立した生命単位は細胞である.人では 60 兆個あるといわれている.細

胞に生命現象の根元があるが,細胞はどのような機械であろうか.医療技術

はそこに迫れるだろうか.

 細胞は独立の機能部品で,細胞膜または形質膜で取り囲まれている.細胞

の形質膜構造は脂質 2 重層の膜を折り畳んだ格好になっている.この膜は

外部との物質と情報の交換場所でもある.

 細胞の内部構造は細胞骨格タンパクとモータタンパクで作られ,動物の動

機械のエンジンはこの組み合わせで作られている.最も発達したエンジンは

筋肉で,アクチン(細胞骨格タンパク)でできた分子鎖と,ミオシン(モー

タタンパク)分子の束の複合体である.その化学・機械エネルギー変換の原

理は未だに解明されていない.筋肉の収縮のメカニズムは,未だに古典物理

学にのっとった昔の仮説で説明されている.最近筋肉のモータタンパク1分

子のエネルギー変換挙動は,次第に明らかになってきはじめたが,未だに多

くの説明不可能な現象を含んでいる.

 加齢に伴う病気は,高齢人口が増加するにつれ増え続けている.この中で

生命を直接脅かす病気とはならないが,人の生活に直結する筋肉・骨格系の

加齢による劣化は,大きな医療需要を生じさせつつある.動機械部品として

の筋肉・骨格系への研究アプローチが重要であるが,最近はロボット工学の

方から外骨格系の設計と,医療介護への応用研究が盛んとなり始めた.新し

い未来医療の視点がここにもある.

 生命機械論を支持する研究領域はまだ多数あり,次々に新発見が起こり,

3.5 動く機械としての動物と医療技術

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15Section

それが医療に応用されるようになる.医学の教科書を生物機械の維持と修復

の教科書とするのは,これからの世代の研究者達である.その中には,細胞

の自然死を取り扱ったアポトーシスの機構のような,人間の作った機械には

ない設計思想だと考える科学や,文化的進化の発想により,人の作り出した

知識と道具は,遺伝子とも考えられるという「ミーム遺伝子」の話さえ登場

し始めている.生命機械進化論の時代はようやく熟してきた.今世紀はまさ

に生命科学の時代なのである.

第4章 医療技術とは

4.1 人の体を修復・維持する技術の未来

 先進医療技術全般の話をする前に,医療とは何かを考えておこう.

 今でこそ医療は一つの応用科学と考えられているが,一世紀前まで世界の

大半では医療は呪術や魔術の対象とも考えられてきた.社会学では医療は医

学という科学の社会適用であると定義されている.医学はひとの「こころ」

をも対象とするために,科学と哲学の中間にある伎芸であるとも考えられる.

さらに,医学の周辺にある「健康」と「医療」と「介護」の三種類の言葉は,

今よく話題となるが,それぞれあいまいに定義されて使用されてきた.

 健康は科学的に定義することが難しい言葉である.二十年ほど前から,突

如「生活習慣病」なる言葉が医療に登場し,これを防ぐことが健康であると

いわれるようになってきた.私は健康の概念は文化であると考えている.何

をもって健康というかは,個人や社会が相対的に決めることであり,健康を

定義して,それを維持するために,種々の計測をし,病気の「一次予防」を

することは不可能に近い.

 一方,病気の概念は文明である.文明とは,科学的に定義可能な概念で成

り立っており,病気は,その成因と病態によって,正確に定義が可能である.

従来から「成人病」と呼ばれる病気のそれぞれには,きちんとした定義があ

り,その病気であることを早く発見し,治療を早期に行う行為を「二次予防」

と呼んでいた.つい最近まで,加齢の結果起こる成人病には,殆ど本質的な

治療方法が無く,致命的発症を先延ばしにする対症療法か,自然治癒力にま

第 4 章 医療技術とは

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16 Chapter

かすより方法はなかった.しかし,科学技術の進歩によって,1980 年頃よ

り,これら各種の病気は次々と治療が可能となってきた.いままで医学にお

いては,診断と治療が両輪であったが,治療が可能となった病気が増えた結

果,実際の医療では,計測より治療に重点が置かれるようになった.

 2000 年に入って人口構造の高齢化に伴って,身体の機能が回復不可能と

なった人が増加し始めた.加齢に伴う身体の不全を病気と考えるか,加齢に

よる自然な生命現象と考えるかで,医療の枠組みは大きく変わる.日本は,

世界でただ一国,「介護」が医療から独立して取り扱われるようになった国

である.介護の概念は何であろうか.医学においては介護とは身体に障害が

あるひとに対して,生活を維持し,現状を保つための科学技術で,その視点

は制御に重点が置かれている.現在起こっている加齢による身体機能の低下

をこれ以上悪化させないための,予防を行う技術であるといってもよい.こ

の意味では三次予防を指向する概念である. 

 医療は実生活に直結しているために,経済の面から捕らえることもできる.

医療費とほぼ同じ費用を支出し,その成長率がほぼ同一である生活費の費目

は何かを調べると,ギャンブル費と同一であることがわかる.現在日本の国

民医療費は 31 兆円(2003 年)であるが,これまでほぼ同じ額で推移して

きた総ギャンブル費は,今日 40 兆円近くに達して,その伸び率は大きくな

り始めている.所詮,医療に対する考え方は,個人の価値観によって決まる

ものかもしれない.国民は医療費を,体の維持修理費や健康に対する投資・

保険費用と見なすよりむしろ,「余剰」と見ているのではないかという人も

いる.

4.2 人はいつまで修復可能か

 人間の設計寿命は何年であろうか.実は,生物の寿命にも寸法の科学であ

るアロメトリーが成り立つ.大きな動物ほど寿命が長いのである.一方ひと

の寿命は 120 歳を超えることはまずない.現在の日本の最長寿者は 113 歳

である.150 歳を超えて生きたひとが多数いると称する地域の調査をして

みると,その多くは出生日に関する記録がない地域である.確実に最長寿

者として記録されているのは,鹿児島県の徳之島の男性で,1986 年に 120

4.2 人はいつまで修復可能か

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17Section

歳でなくなられている.したがってひとの設計寿命は 120 年程度,日数に

すればほぼ 4 万日であると見てよいだろう.

 機械には設計寿命が決められている.その多くは最も重要な基幹部品の寿

命で決まっている.例えば自動車ならばエンジンがそれにあたるだろう.し

かし,機械ではエンジンを取り替えさえすれば,寿命を長くすることができ

る.

 では人間ではどうだろうか.何が故障すれば死に至るかは,これまでは基

本的には心臓が止まれば死と判定してきた.しかし,人間をひととして認め

るためには「こころ」が活動しうる必要があり,中枢神経系(大脳のことで

ある)の死(「脳死」)をもって,死と考えてもよいとするのが,現在では主

流である.脳死を起こしたひとから「臓器移植」が可能なのはこのためである.

 その背景には,現在の生命維持技術を使えば,中枢神経系の機能が無く,

心臓が停止していても,なおかつ臓器機能を維持することが可能になったた

めもある.臓器機能を維持したまま,臓器移植や実験に使用することができ

る国はかなりあり,このような国では,この状態の人体を「脳死身体」と呼

んでいる.

 実は哺乳動物の寿命を決めている装置は染色体に存在する.すべての染色

体末端にはキャップまたはテロメアと呼ばれる,細胞分裂の度に減少する

DNA 塩基の切符(いわゆる死神の蝋燭)がある.テロメアがある一定の長

さになると細胞は分裂を止める.分裂できなくなった基幹臓器の細胞が機能

維持をできなくなると,臓器不全で死に至ることになる.

 この基幹臓器のなかには出生時点で、もはや細胞分裂を起こさなくなった

臓器がある,大脳と心臓である.この二種の臓器は,生命の維持のために必

須であり,しかも百年近い年月の間,機能維持をせねばならない.したがっ

て,この臓器は他の臓器より優先的に保護されている.

 現在の医学で,最も興味を集めている技術は,故障した臓器を新しい臓器

で取り替えられないかである.その一つは「人工臓器」や「臓器移植」によ

り臓器を置換する方法であり,もう一つは自らの細胞を新生させる方法を考

える「クローニング」技術である.世界最初に体細胞を使用して哺乳類のク

ローン動物を作ったのは,英国の研究者達であり,羊(ドリーと名付けられ

第 4 章 医療技術とは

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18 Chapter

た雌)であった.最初は遺伝子がコピーされて,完全に新しいクローン羊が

登場したと思われたが,ドリーは急速に老化が進み,その種の寿命より遙か

に短い期間で死亡した.体細胞のテロメアは既に短くなっていたためと考え

られた.

 研究者達はテロメアを操作し,寿命を人為的にコントロール出来ないかを

研究し始めた.われわれは死神の蝋燭を取り替えられるだろうか.現在研究

はまだ始まったばかりだが,テロメアの操作は,寿命の延長を起こすよりむ

しろ,発ガン性の増加や,成長の遅延を起こすことが報告されている.この

ためより慎重な取り扱いが必要である.したがって,研究はテロメアの制御

より,むしろ全ての臓器になりうる,新しい万能細胞を作り出す研究へと方

向が変わった.体細胞を改変して,万能細胞を作り出す,クローニングの手

法である.

 より本質的な治療は,機能不全に陥った組織や臓器を,新しい生体の臓器

で置き換える手法にある.脳死者から取り出された臓器や,死体から摘出さ

れた臓器を使用する手法は,次第に一般的となってきたが,脳死者の数や,

死体から得られる臓器の数には,制限がある.このかわりにクローン技術に

より,全ての組織を作り出しうる万能細胞(幹細胞:ES Cell)を作る手法

の研究が盛んとなった.最初は,このために受精卵子を女性より取り出して

使う方法が考えられたが,おおきな倫理上の問題となった.2007 年頃,体

細胞(皮膚細胞など)から,人工多能性幹細胞(iPS 細胞)の開発が可能で

あることが,日本の山中伸哉,京大教授などの発表で明らかになり,この方

式で人工の組織を形成する可能性が急速に見え始めた.クローニングで新し

い組織を作り出す組織工学(Tissue Engineering)や,再生医療と呼ばれる

医療技術との組み合わせも,話題となり,この技術は,今後 10 年で大きな

バイオ産業になる可能性もある.

 これらの技術が完成した時には,人の寿命は一体何できめられるのだろう

か,医療システムが激変する可能性も見え始めている.

4.3 人の無故障期間と加齢医学

 では無故障の期間はどの程度だろうか.WHO(世界保健機構)の定めた

4.3 人の無故障期間と加齢医学

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健康寿命(0 歳のひとが平均して健康でいられる年齢)は,日本ではほぼ

75 歳に達し,世界で最長である.この数値は機械で言えば,平均無故障期

間にあたる.おそらく動力機械としての設計寿命は,85 歳程度,日数にす

れば約 3 万日となる.

 人間が働ける期間が 85 歳までと考えると,この年齢までの人の病気に対

して,医療で対処すべきであろうか.65 歳以上を老人と決めつけ,その多

くに社会的弱者のレッテルをはり,介護保険法で対処しようとし,なおかつ,

75 歳以上を後期高齢者として,医療の枠組みからできるだけ外すように仕

組んだ日本の医療制度で,国民は満足できるのだろうか.

 日本総人口を 1884 年から 2100 年までのグラフにして眺めると,日本

経済が最も強力だった 1980 年から 85 年頃を境に,25 歳から 54 歳まで

の働き盛りの人口は 5,500 万人強で増加が止まり,2010 年頃から,急速に

減少を始めるのはよく知られている.これに対して,55 歳から 84 歳まで

の人口は 2,000 万人から増加しはじめ,2005 年以前に 4,000 万人を超え,

2025 年頃働き盛りの人口と同数となり,なお増え続けるのはあまり認識さ

れていない。

 経済学の常識では,国内総生産 (GDP) や国民所得 (NI) の成長率は,働き

盛りの 25 歳から 54 歳の人口の成長率と相関が高いといわれている.日本

はまさにこの原則通り,1950 年から 70 年頃までの 20 年間,働き盛りの

人口が年率 2.5%も増加し(人口のボーナスと名付けられている),これが

経済を成長させたと説明されている.国民医療費の公的負担率もこの間に急

速に高くなった.

 1980 年頃から,働き盛りの年齢の人口成長率は負に転じたのと期を同じ

くして,1991 年以降日本経済が失速しはじめた.これから日本経済が縮小

するのは避けられないと,多くの経済学者は言う.国民所得の 8%程度を占

める国民医療費の増加を防ぎ,公費負担率を下げようとする動きは,当然の

ように起こり始めた.

 医学から見て奇異に感ずるのは,この経済を主眼点とした説明だけでは,

これからの日本の社会の機能がどうなるのかが判らないことだ.人口は現在

両グループともほぼ同数になっているにもかかわらず,55 歳から 84 歳ま

第 4 章 医療技術とは

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20 Chapter

での人口は,労働力ではないのかという疑問である.現在 55 歳の人は,85

歳には 5 割以上が生き残るだろうと推測できる.WHO の定めた健康寿命で

測れば、現在の日本では 75 歳までは 5 割の人が健康である.この年齢も今

後さらに延びるであろう.いままで働き盛りと言われた年齢の 30 年間と,

同じ長さの 30 年を,高齢者や老後と称して,基本的に貯蓄の取り崩しと,

公的扶養に頼るのは,社会運営上正当なことなのだろうか.

 この膨大な知識と経験を備えている人たちは,多少生産性は低くなるが,

総合的な生産能力はある.この膨大な人口を,社会運営から除外しておくこ

とはできない.したがって,このような時代に向けて,個人ばかりでなく社

会自体も,新しいライフサイクルの設計と,それに対処する医療システムの

提案が必要だと,私は考えている.

 地域住民を中心に社会を運営してゆくのが,これからの日本の流れだとす

れば,55 歳以上の人が,地域社会の運営と保全の役割を持ち,GDP を支え

る 25 歳から 54 歳までの年齢の人たちと,社会経済システムにおける労働

機能の分担をするのも,一つの方法であろう.そのためには,この第二の生

産年齢の人達のために,生理機能の加齢による低下を補い,社会でこれらの

年齢の人が十分に活躍できるようにする,新しい加齢対策の医療システムが

必要となる.現在の疾病中心の医療システムの枠組みも,設計変更が必要と

なるだろう.高齢者が身体のあちこちに故障をかかえ,それが修復できない

という理由で,医療よりむしろ介護の方に政策的重点を置くだけでは,日本

人は,生活の満足が得られるはずがない.

4.4 医療とはどんな技術か

 病気の治療をするシステムを眺めると,そこには古来から,診察と治療の

二種の医療行為を要素として含んでいた.来院した患者の病態を理解するた

めに,医師は種々の検査を行う.この結果ある論理にしたがって意志決定,

すなわち診断が下される.かっては医療はここまでが主な行為であった.多

くの病気では,本質的に病気を治療することはできず,患者の苦痛を取り除

くという対症療法を行い,自然治癒を待つことによって,直していたからで

ある.

4.4 医療とはどんな技術か

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 多くの病気に本格的な治療方法が発見され始めたのは,1985 年頃からで

ある.この結果,医師は診断の結果から病態を把握すると,その病態を修復

する治療を行うことが出来るようになった.治療から一定の時間遅れをかけ

て,再度計測を行い,病態の変化によって,適当な治療を行うというフィー

ドバックをかける.これが現在の医療である.

 従来医師にとっては,病気がどのように進むかを,病態の時間経過の経験

から知ることが重要だった.このため患者の状態の時間軸を追った経過を重

視し,患者の過去の病歴を知ることが重要だった.しかし検査の精度が上が

り,治療が可能になると,患者が医療機関に到着した時点での,患者の病態

把握と,治療効果の観測の方が重要となり始めた.現在の若い医師達が検査

結果を重視し,治療による結果を出来るだけ早く知りたがるのは,ここに由

来する.

 そのような状況を背景に,医療に統計と確率の技術を持ち込んだ,EBM

(Evidence Based Medicine)は,臨床検査と治療のフィードバックループを,

より効果的に働かすために登場した.ただしそれは,集団の中で,ある個人

の生体情報のずれを対象にして治療法を選択する.EBM が必要であること

を宣言するには,治療行為に無作為比較試験(randomized controlled trial)

を持ち込み,ある病気の治療に,それが統計的に有意であることを立証せね

ばならなかった.治療に一種のお墨付きを与える方法である.この手法を使っ

て,診療の道筋をつける診療のガイドラインは,各臨床の医学会で作られは

じめ,診療実務では EBM を基盤に置いた,クリニカル・パスの確立が,患

者の臨床予後に良い効果をもたらすとされるようになった.

 一方,社会の高齢化が進むと,多くの原因がからみあって,長時間かかっ

て成人病が進行してきた患者や,加齢により機能不全を起こした人が増え

る.この人たちは,長い過去の身体情報の履歴を持ち,個人によってその

経過は大幅に異なる.EBM は個体の時系列情報を取り扱っていないために,

それに固執して治療を行うと,かえって一個人の身体状況が悪くなる場合も

あることがわかり始めた(例えば,糖尿病患者の血糖値を,あまり厳格にコ

ントロールすると,心理的ストレスで,全身の状況が悪くなる人が多い,な

どの例が枚挙にいとまない).臨床判断学(crinical decision making)では,

第4章 医療技術とは

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EBM にない選択も含まれるべきだ,との意見が最近は主流である.

 したがって,これからの医師にとっては,個人の身体状況の時間的経過や,

個人の既往歴にあわせて,患者毎に治療の方法を変える診療戦略が必要にな

り,治療のオーダーメイド化が話題となっている.今後,医療においても,

個人の価値観とプライバシーを重要視せねばならないため,医療のオーダー

メイド化は大きな社会問題となる可能性もある.

4.5 医療技術革新はどのように進むか

 医療技術の水準は,発展段階にしたがい,三種に分けて考えると,その内

容がよくわかるとされている(LewisThomas による分類).非技術・途上的

技術・純粋技術の三段階である.

 従来の医療はその中に多くの非技術が含まれていた.例えば患者の状態を

聞き,現状を説明して患者を安心させるといった心理的手法がこれにあたる.

その多くは自然治癒を促す支援的手法であり,医療費はあまりかからなかっ

た.内容は手工業的で,そのままでは産業とならなかった.いわゆる,サプ

リメント的食品や薬剤,各種の健康法の中には,ただ,人体に害が無いとい

う理由で使われているものも多く,これらもこの範疇であり,介護・福祉の

行為もこの範疇にはいる部分が多い.

 20 世紀後半に入って多くの治療技術が登場した.人工臓器,レーザー治

療,インターベンション治療など,多くの先進医療技術がそれである.しか

し,これらの技術は病気の原因を根本的に取り去り,故障した部分を完全に

修復する技術ではなかった.多くの技術は,開発の途中に登場した技術であ

り,その多くが故障した機能を姑息に修復する技術であった.その結果多く

の技術は対症療法に止まり,極めて高費用のかかる技術が多く,医療費の高

騰を起こした.例えば,腎臓移植と人工透析を比較してみればわかるように,

人工透析は腎臓機能のほんの一部を代行したにすぎないにも拘わらず,年間

数百万円の医療費を,一人の患者がに使用する.一方,腎臓移植を行えば,

僅かな免疫抑制剤の使用で,臓器の維持費は殆どかからない.現在の医療産

業はまだ,この姑息に治療を行う技術の上に成り立っている.

 最終的には純粋技術が登場する.病気を根本的かつ本質的に治療する手法

4.5 医療技術革新はどのように進むか

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である.第二次世界大戦後登場した抗生物質がその良い例である.大量生産

された抗生物質は,多くの国の感染症を安価に治療し,その国の平均寿命を

延長するのに役立った.本質的治療法は,総合的に見れば,低費用となるこ

とがある.現在,遺伝子治療技術,有病者・障害者の本質的支援機器技術,

生活習慣病の予防技術,個人の生活改善技術などの領域で多くの本質的医療

技術の開発が進められている.

第5章 先進医療技術はどこへ

 本質的治療を目指す治療技術はこれからどのように発展してゆくのだろう

か.ここまで述べたことを,先進医療技術という点からまとめ,ここまでに

述べなかった情報を補充しておく.医療技術は計測から治療技術へと開発の

方向を変えた.先進治療技術が現在の研究開発方向である.代表的な変化を

工学的キーワードからとりあげてみよう.

 

5.1 マイクロ化,ナノ化

 医療技術の研究開発方向はマクロの治療技術からマイクロへ,そしてさら

にナノへと進んできた.それは対象治療目標が,病気を持つ全身から臓器へ,

さらに臓器内の特定組織へ,さらには標的細胞へと変わってきたためである.

このために現在はマイクロ化された医療技術が多数登場し,多くの技術が顕

微鏡下で行われ,薬剤も全身投与から,組織内へと変化しつつあり,さらに

それは特定の細胞へと変わりつつある.細胞を対象とすれば,その技術はナ

ノの世界に入る.

5.2 低侵襲化,ロボット化 

 治療のために患者にアプローチする手法も変化しつつある.今まで身体に

大きく傷つけて治療を行うという侵襲的医療行為は,より侵襲の少ない方向

へと変化を起こした.この 20 年で,切開に頼っていた外科的治療が,体に

小さく開けた穴から行う直達鏡下の手術へと変わり,主流となったのはその

一例である.この領域の外科は,人の手が入らない空間で手術操作を行うた

第5章 先進医療技術はどこへ

Page 28: 先 端 医 療 技 術depopulation/homepage_ifuji122/hpifuji...る.「生命は短く,芸術は長い(vita brevis, ars longa)4)」というのはよく 聞かれる言葉であるが,正確に言えば,これは「生命は短く,伎芸は長し」

24 Chapter

め,バーチャルリアリティとロボット外科の手法が必要となり,多くの工学

者が開発に参加している.

 薬剤に頼っていた内科治療は,逆に少し侵襲を加える方向へと変化し始め

ている.この技術は,特定の組織や臓器で治療を行うために,全身に通って

いる血管系を利用することから始まった.各種の画像計測装置を使用しつつ,

体外からカテーテルで治療部品や薬剤送達を行うシステムで,インターベン

ション・テクノロジーと呼ばれている.

 インターベンション技術やロボット外科の技術は遠隔操作が基本となるた

め,今までの手技習得のやりかたと異なった手術システムが必要となった.

例えばロボット外科の代表といわれる daVinci Surgical System は,手術室

の外に外科医がおり,将来は,外科医はロボットの制御技術者が,役目を果

たすことになるだろうと言われている.このため,ロボット外科やインター

ベンションの訓練システムが備わった教育センターが登場している.例えば,

Johns Hopkins 大学では低侵襲手術手技訓練センターが組織され,その出先

はシンガポールにもある.シンガポールや韓国のように,新しい治療技術を

備えた,完全に自費診療の医療センターは,世界中の患者を集めようとして

いる.医療にもいよいよグローバリゼーションの波が押し寄せ始めた.

5.3 設計図の修復と分子標的治療薬

 本質的医療を目指すために,これまで薬を全身に投与してきた手法は,細

胞の遺伝子を変える方向へと,変化が始まっている.過不足のある代謝物質

の補充・除去から,設計図の変更へと治療戦略が変わり,そのための計測手

法に DNA チップやタンパクチップの開発が進んでいる.さらには個人に適

合したタンパクを製造する RNA チップすらも開発されようとしている.従

来の生理学・生化学を基礎として行われてきた計測技術も,次第に単分子・

超分子計測へと変化をし,基礎論としての物理学は古典力学から量子力学へ

と変わってゆく.治療方法も細胞内へ薬剤や DNA を送り込むマイクロ針が

開発され,利用が始まっている.

 この領域では,マクロにみれば,まだ抗原抗体反応によるがん治療が始まっ

たばかりである.現在最も有効なのは抗体医療で,がんの代謝を特定して,

5.3 設計図の修復と分子標的治療薬

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それを押さえる分子標的治療薬を使用する手法である.この薬品の開発が急

速に発展している.がんなどの組織細胞の特定の代謝を押さえるために,完

全ヒト抗体を開発する必要があり,この領域では患者個人の特性に合わせて,

患者個人単位で,薬剤や治療品の製造が行われるシステムが必要となる.オー

ダーメイド治療が現実となる可能性がある.がんの本質に迫りうる治療法と

して根本治療が可能だが,その反面,副作用も大きく,日本では有償治験や

薬剤認可の過程で,問題を多く抱えている.

5.4 構造画像と高エネルギー収束治療

 病気は臓器や組織の病変から起こる.その結果異常な代謝系や生理機能が

存在する.今までは,これを生化学的または生理学的に計測して,病態を確

認してきた.しかし,臓器や組織の異常構造が最初からわかれば,病気の局

在がより正確につかめ,それを頼りにより正確な治療が可能となる.計測方

法の主流が生理機能から,構造画像計測に変わるのは自然な流れで,画像を

見ながら遠隔から治療する手法が登場した.最初は超音波衝撃波による,結

石の破砕からはじまったが,やがて各種の生体断層図(CT: Computer To-

mography)や,核磁気共鳴吸収画像(MRI: Magnetic Resonance Imaging)

を見ながら,遠隔から操作を行う治療法が開発されるようになった.

 特に日本の死亡率の第一位をがんが占めるようになり,がん診療の技術進

歩は著しい.その治療法の最も先鋭的なものは,粒子線治療である.治療方

法はインターベンションのこともあるし,電磁波や超音波の収束による組織

破壊もある.現在ではガンマ線によるガンマナイフがより一般的となり,さ

らに粒子線,重粒子線と,高エネルギー粒子を病巣に収束する粒子線治療が

使われるようになった.これらの治療手法は完全に無侵襲で治癒率も高い反

面,高額の医療費がかかる問題もおこり,日本では,これらの高度先進医療

技術のある部分は保険で使えず,がん病院の地域格差も大きいために,がん

難民の発生が報道されている.

5.5 構造画像と脳血管疾患

 日本人の死亡原因の中で最も大きな割合を占めていた脳血管疾患は,

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1980 年頃,悪性新生物よりも少なくなり,1985 年頃には,心疾患の死亡

率をも下回るようになった.特に,脳内出血による死亡は激減し,それに替

わって,脳梗塞が増えてきた.心筋梗塞と同じような成因を持つ脳梗塞は,

食習慣の欧米化が原因となっている.

 脳梗塞の治療は,心筋梗塞と同じ治療法である,組織プラスミノーゲン活

性化酵素(t-PA)の静注による急性期血栓溶解療法が有用だが,発症 3 時間

以内の投与が必要で,しかも,頭部 CT の画像で脳内出血が無いことを確認

しなければならない.MRI 拡散強調画像による,明瞭な脳梗塞部位の確認

も必須であり,多くの職種のそろった脳卒中ケアユニットを持つ,超救急医

療システムが必要となる.

 一方,脳内出血の診断には頭部 XCT 像と MRI による T2 強調画像で診断

を行い,血腫除去術(開頭による手術法から,CT による定位的除去術や,

内視鏡下の除去術に変わりつつある)が行われるようになり,欧米ではロボッ

ト外科が盛んとなりはじめた.脳内出血を起こす微小動脈瘤に,離脱型コイ

ルで栓塞をおこし,治療する方法は,日本でも 2000 年頃より始まり,内視

鏡メーカが,カテーテルの開発を進めている.

 いずれにせよ,脳血管疾患も,超急性期の治療が行えれば,救命できる時

代となり,救急医療の体制が激変しつつある.

5.6 神経インターフェイス

 純粋に科学的に取り扱える神経系の技術では,神経インターフェイスの開

発が次の次元に入り始めた.現在は,神経刺激と人工知覚の技術がこの範疇

に入り,工学的にみれば,神経と電気回路の間でインターフェイスを作る技

術が主眼となっている.

 すでに50年も前から開発され,しかも確実な治療効果のあるインターフェ

イス技術は心臓ペースメーカーである.心臓のペーシングは徐脈の起こった

心筋へのペーシングから始まり,不整脈,頻脈の治療と確実に開発が進んで

きた.

 神経系は電気信号で,生体内の効果器官とインターフェイスをとっている

ため,心臓ペースメーカーの技術は,ほかの神経系へ転用が可能となった.

5.6 神経インターフェイス

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神経刺激による括約筋の制御や,痛みの知覚神経を押さえるペースメーカ,

さらには脳神経の電気的暴走をとめる,抗てんかんペースメーカなどが開発

中である.

 人工知覚は人工内耳から始まり,現在人工視覚の開発が急速である.これ

らはいずれも,ヒトに独特のシステムが作られており,ヒトで臨床研究を行

わなけれればならない特徴を持っている.このためボランティアによる臨床

研究が行われ,オーストラリアで開発が行われた人工内耳は,すでに健康保

険適用を受けられるようになっている.日本では,このような実験的研究が

社会的に容認されない特色があり,治療機器の大半は輸入品で占められるよ

うになっている.

5.7 認知科学の進展はいまだ未熟

 「こころ」の治療を含む医療は,いままであまり進展してこなかった.こ

れは,認知障害の治療が今の医療で重要課題であるにもかかわらず,その計

測も制御もまだ開発されていない部分が多いからである.

 特に大脳の局在機能を計測するには,従来の MRI より 3 桁感度が高く,

計測に要する時定数も 2 桁高速の,非侵襲技術が必要と見なされており,

全く新しい技術からの spin off が必要と考えられている.

 一方,認知障害の治療薬はまだ存在しない.現在利用されている抗精神薬

剤は,あくまで症状抑制の一時しのぎにすぎないからである.あるいは心理

療法を含む社会システムの開発が必要かもしれない.

 さらに未来的には,脳を電子装置と考えた工学的アプローチがあるかもし

れない.脳科学者や神経回路研究者は,大脳への電磁場による刺激や,機械

的な神経細胞素子の開発さえ考えている.

 さらにその先へ技術動向を見れば,脳の記憶メカニズムの工学的解明はい

つ起こるのだろう.このあたりはまだ脳生理学の研究課題に止まっている.

5.8 バイオインフォマティックス

 これらの技術の背後には,膨大な遺伝子やタンパク質や化合物のデータが

存在し,それらを情報融合する技術が存在せねばならない.Bio-infomatics

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と呼ばれる情報技術は,医療自体とそれを支援する企業に必須となり,個人

に合わせたオーダーメイド治療を目指して,情報システムを構築しようとす

る試みが行われている.

お わ り に

 医学は科学となりはじめた.先進医療技術はその先兵である.しかし,そ

れを取り扱い,病気と対処する相手は人であって機械ではない.

 人の科学をとり扱う医療関係者は,自分の感性を重視しなければならない.

自ら頭が良いと思っている人は単に記憶力が良いにすぎない.実際には,記

憶力の良い人は先入観も強く,患者の身になって考えることを知らず,医療

関係者には向いていない.患者の個体差は大きく、特に感性の差はさらに大

きい.患者と対面し,よく病態を観察するのが医療の基本である.

 医学の知識は年率 30%で古くなるという.先人に教え込まれたことは,

まず全て疑ってかかるべきである.さらに医療関係者は能力の壁を率直に認

めなければならない.しかし人と対面する科学的職業である医療には,何歳

になっても参加できる.人生は長いのである.医療関係者には,何度でも新

しいことに立ち向かう,自由な心が必要である.

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藤正 巖 (ふじまさ いわお)

1937 年生まれ.現在,日野市百草に住み,地域の社会成り立ちとその変化を探るフリーランスの科学者,医師,医学博士.1964 年,東京大学医学部卒,東京大学先端科学技術研究センター教授,同大学医学部教授,埼玉大学政策科学研究科教授を経て,政策研究院教授で定年を迎え,現在同大学アカデミックフェローとして研究を続ける.東京大学および政策研究院名誉教授.専門分野は社会構造の科学,生体医工学,科学技術論など.Post-Max Network Workshop(PMN 工房)を主宰.著書に『科学協奏曲「ファラデー講話会」』

(中山書店),”Micromachines” (Oxford Univ. Press),『ウエルカム・人口減少社会』(共著 文春新書),『人口減少社会の設計』(共著 中公新書),『キャンピングカーで悠々セカンドライフ』(文藝春秋)ほか多数.

先 端 医 療 技 術---- 医療技術革新の奔流 ---

発行日 2010 年 7 月 6 日 第 1 版,第 1 刷著 者 藤正 巖発行所 Art & Science 〒 191-0033 日野市百草 920-136 Tel 042-593-1032 Fax 042-599-7195 Mail [email protected] © Fujimasa Iwao, 2010