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5 01 特集 永井祐ロングインタビュー インタビュアー  綾門優季 山階基 2013年1月26日 品川プリンスホテルフードコート 品川キッチン

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    01 特集

    永井祐ロングインタビュー

    インタビュアー  綾門優季 山階基

    2013年 1月 26日品川プリンスホテルフードコート 品川キッチン

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    「いざという時」は週に一回くらい来る

    綾門 

    インタビュアーの綾門優季です。本日はよろしくお願いいたします。

    山階 

    同じく、山階です。よろしくお願いします。

    綾門 

    永井さんは二〇一二年五月に、第一歌集『日本の中でたのしく暮ら

    す』〔註1〕を出版され、十二月には中野サンプラザで同歌集の批評会が催さ

    れました。今回は、その第一歌集についての話題を中心にインタビューを進

    めていこうと思います。まず、最初の質問です。『日本の中でたのしく暮ら

    す』というタイトルに象徴的なように、社会に抵抗する気迫がゼロじゃない

    ですか。全く抵抗してないわけではないですけど。

    永井 (笑)

    綾門 

    上の世代からは、ただ呑気なだけだと思われてしまうこともあると思

    います。間違っても原発デモの先頭は歩まない、江戸時代にワープしても一

    揆とかには参加しないだろう、というイメージでしょうか。そういうスタン

    スに至った経緯をお伺いしたいです。

    永井 

    はい。最初からぐいぐい来ますね。確かにデモとか行かないです。私

    の性格に起因する部分って結構あると思うんですけど、そういう社会参加み

    たいなことって、個人的には、それぞれがそれぞれに出来る形ですればいい

    のかな、って思ってて。そんなこと言ってられないって言われるかもしれな

    いですけど。参加しないことまで糾弾されてしまうとさすがにちょっと抵抗

    があります。これも個人的なことですけど、私の中の「善いこと」のイメー

    ジって、親とか身近な人に対してなるべく優しい口調で話すとか、そういう

    ことなんですね。補聴器つけてるおばあちゃんが、何回も何回も訊き返して

    きても、いらっとしたところを見せないとか。私の「善いこと」のイメー

    ジってそんな形を取るんです。環境に恵まれているから、そういう余裕があ

    るだけ、っていう部分はあると思うんですけど。これは、歌集のスタンスの

    話とは全然違うのかもしれないですけど、いざという時にはきちんと行動し

    ないとだめ、っていう考えも一応持ってて、大切に思うこととか、大事に思

    う人のためだと、きちんと行動できるっていう自信があります。事の大小を

    別にすれば、「ここは自分が動かないといけないな」っていう場面ってやっ

    ぱり巡ってくるので。その場面を分かっていれば、いいんじゃないでしょう

    か。二割のアリの理論って知ってますか。

    山階 

    サボるアリが出るやつですね。

    永井 

    働きアリの集団には、母体の大きさに関わらず必ずサボるアリが出

    るっていうやつですね。で、一揆の先頭に立ってる人と、参加しない「わた

    し」は、実は共犯関係というか相捕的なもので、その人が頑張れば頑張るほ

    ど、私は動かなくなるっていう関係にあるんじゃないかと。そういう意味で、

    我々はソーシャル・アニマルなんじゃないかと思っています。

    綾門 

    それは、「怠惰さ」を肯定するということですか。

    永井 「怠惰さ」を肯定……やっぱり、怠惰ですかね(笑)。

    綾門 

    いざという時には動く、とおっしゃいましたけど、いざという時って、

    そんなに頻繁にはありませんよね。

    永井 

    あ、そうですか。

    綾門 

    長い期間のなかでたまには来るかもしれませんが。

    永井 

    いざという時って、私、一週間にいっぺんぐらい巡ってくるんですよ。

    綾門 

    意外と頻繁に来ますね。

    永井 

    ええ、結構頻繁に。だから、優しい口調とかっていう話がありました

    けど、ある場面ではちょっと、攻撃的になるとかね。そういった細かい出し

    入れのね、大事な局面ってすごくたくさん来てるって、むしろ私は思うかな。

    だからひょっとしたらデモする時も来るのかもしれない。でも「いつがいざ

    という時か」を決めるのはすべて私になるので、わかんないですけどね。人

    から見ると完全に怠惰な人だと思われるかもしれない。受け入れますけど。

    しょうがないっす。別に聖書とかあんまり読まないんですけどね、イエス

    が「真の善行は人目につかない」みたいなことを言ってるんですよね。この

    言葉って、ほとんどの人が「本当に善いことは心ある人にしかわからなくて、

    心ない人や平凡な人の目にはつかない」っていう意味で取ってると思うんで

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    すけど、私これって、「すごく心のある、洞察力のある、ものの分かる、す

    ごく素敵な人にも分からない」っていう意味なのかなと思って。だから、善

    いことは本当に誰の目にもつかないというそのままの意味。頑張ってる人に

    水を差すようなことになってしまうので、あんまり声を大にしては言えない

    んですけど、個人的にはけっこう信じてます。

    〔註1〕永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(二〇一二・BookPark

    情報化社会と短歌

    永井 

    社会との関わりみたいなことで言うと、やっぱり、いわゆる社会じゃ

    ないところに、社会を見出したいみたいなのがありますね。最近だとスマホ

    の普及とか。スマホの普及が一定量に達すると、大地震が起きたよりも大き

    く社会が変わっちゃうんじゃないか、みたいな。ある意味でね。そういった

    社会性にむしろ興味がある。ひとりひとつスマホを持つようになると、社会

    の在り方って変わるんじゃないか。私は情報技術とか、ぜんぜん強くないし、

    いわゆる情弱(情報機器関連に弱い)文系ですけど、歌会なんかで、わから

    ない言葉が出てくると、検索して、映像を出して、みんなで回したりしてる

    んですよね。例えば、山階くんが歌会中に「きょうの服部(真里子)さんの

    服かわいい」みたいなツイートをタイムラインに流したりしていると、それ

    はもう歌会を越えた何かなんですよ。歌会2.0ですね。「2.0」ってちょっと古

    いんですけど、僕はこの言い方けっこう好きで(笑)。

    綾門 (笑)

    永井 

    短歌の在り方もね、コミュニケーション技術の発展とかで、言葉と人

    間の関わり方って違ってくると思う。これもある意味で社会の話か、ってい

    うふうに思うかな。で、そういうことに対しては、結構興味があるほうですね。

    山階 

    最近、tw

    itter

    に短歌がたくさん流れてますよね。それも社会の変化の

    一つだと思うんですけど、どういったことが起きますかね、これから。

    永井 

    twitter

    と短歌ですか。難しいですね……。tw

    itter

    が、新しい歌の表現

    の場だ、というふうにもそんなに思ってないかなー。ガチ新作は結局、同人

    誌とか、総合誌とかの場にあるやつを、真剣に読んでしまうので。自分でも

    あんまりできないんですよ、日常的に人の歌でちょっといいよねっていうの

    を、するっとtw

    itter

    に流したりタイムラインで見たやつを、バンバン、お

    気に入りに登録するとかリツイートするとか、あんまり私、そういう作法が

    できなくて。そんなに単純ではないってことなのかな。そのtw

    itter

    が変え

    るものっていうのは。新しいメディアだからここに流そう、っていうふうに

    そう簡単にはならないかな、っていう気がする。

    綾門 

    服部真里子さんの第二十四回歌壇賞受賞の発表があったとき、「服部

    真里子祭り」ってありましたよね。みんなで服部さんの好きな歌をツイート

    してお祝いして。あれはtw

    itter

    ならではの新しい動きですよね。

    永井 

    まさにそうです。

    綾門 

    そんな動きが広がって、短歌に全く興味のない不特定多数の人にも短

    歌に触れる機会を提供していることに関しては、結構僕は肯定的なんですけ

    ど。永井さんはどう思われているのでしょうか。

    永井 

    twitter

    で祭りやるのは楽しいですよね。「内山晶太祭り」とか。

    山階 「内山晶太祭り」が最初ですかね。他には、宇都宮敦さんの誕生日に

    「宇都宮fes

    」ってありましたね。

    永井 

    参加しました、私も。

    山階 

    僕も参加しました。

    永井 「内山晶太祭り」も参加しました。楽しいですね。楽しい、楽しいで

    すよ。いいことだとは思うんだけど、どうかな、あれって結局、短歌作って

    る人のコミュニティを、より濃くさせる、ってものですよね。

    山階 

    盛大な内輪ネタ。

    永井 

    そうそうそう。だから、私も中にいるのでそれ自体はすごく楽しいけ

    ど、それがね、外にドラスティックな変化をもたらすのかなっていうと、難

    しいですね。短歌のコミュニティって昔からそうなんですよ、そこの中の文

    脈を濃くしていく、コミュニケーションを密にしていくっていうのは、みん

    な得意なんですけどね。そのためにtw

    itter

    で、っていうのはもちろん有効

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    だし、いいと思うんですよね。で、中にいると楽しいしね。ただ、根本的な

    変化とかがあんのかな、っていうとね、そうでもないような気がする。

    山階 

    単に手段が変わっただけといいますか。tw

    itter

    は便利だから、歌壇っ

    ていうコミュニティの結束とか、同じ短歌を共有する楽しさみたいなものは、

    確かにどんどん濃くなると思います。

    綾門 

    結局、結社性を強めるだけというか。結社の中で盛り上がってるもの

    が外に届いても、届いただけで終わってしまうっていう無力感があるといい

    ますか。

    永井 

    そうですね。w

    eb

    で作品を発表する場合って私は割とあるんですけど、

    やっぱり総合誌に出した場合とは届く層が違うんですよね。

    綾門 「ハリボー」〔註2〕とかですか。

    永井 

    うん。あれはw

    eb

    見ない人には届かないし、かといって、例えば『短

    歌往来』に作品を出すと、『短歌往来』を一切読まない人っていっぱいいま

    すよね。いろいろ、コミュニティが違うのでね。tw

    itter

    が盛り上がっても、

    届かないところにはずっと届かないよーみたいな、そういうのもあるかな。

    綾門 

    twitter

    以外のコミュニティってどう思いますか。Facebook

    であるとか、

    最近はLIN

    E

    であるとかいろいろありますけど、

    永井 

    Facebook

    はやってないですね。中学時代の友達に、特に再会したくな

    いっていう(笑)。

    山階 「この人知り合いですよね」ってまくしたてられたり。

    綾門 

    友達になった覚えのないひとたちがずらずらと。

    永井 

    そうそうそう、メールが来ましてね。誰誰さんと一緒の中学ですよね、

    みたいな。確かにそうなんだけどさ(笑)。一緒なんだけど、でもなあ。っ

    ていう。でもFacebook

    やってる人多いですよね。だから、あんまりコメン

    トできないかな。やってないからね。LIN

    E

    は楽しそうだなって思いますけ

    どね。だいぶ話は脱線しましたが。

    綾門 

    あ、「ムシキング」の話をしなかったですけど、大丈夫ですか。確か

    そんな話が(メモに)ありましたけど。

    永井 

    じゃあ、しようか。これは果たして社会の話なのか分からないで

    すけど。近所の子供たちが、ムシキングをやってると、ちょっとなんか、

    「わっ!」て思うんですよね。結構前ですけどね。五年以上前なのかな。

    山階 

    そうですね、その頃に流行ってました。

    永井 

    で、うちの近所には虫とかあんまいないんですよ、カブトムシとれる

    とことかないから。で、彼らはカードを持って虫を召喚して、ゲームセン

    ターのアーケード機で遊ぶんですけど、それの映像がすごいんですよね。カ

    ブトムシがクワガタのお腹に角を入れてグワーッてひっくり返すんですけど、

    アングルとか映像とかがすごすぎて。『マトリックス』みたいな(笑)。

    山階 

    かなり凝ったCGですよね。

    永井 「あーこれはすごい」と。こんな世界で遊んでると面白いだろうな、

    みたいな。逆にたくましいなとか、頼もしいなって思う。そういうところに

    社会の変化を感じたい。

    綾門 

    子供のころにこれがあるのとないのではだいぶ違うんじゃないかって

    ことですか。

    永井 

    もちろん自分の子供のころと違う、っていうふうにも思いますよね。

    ただまあ、新しいものにそんなに違和感がない方なので、結構対応できちゃ

    うかも。

    綾門 

    適応力が高いという感じでしょうか。

    永井 

    分かんないですね(笑)。抵抗感は薄いですね。

    綾門 

    拒絶感とかは抱いたりしないですか。

    永井 

    あんまりないですね。LIN

    E

    はやってないから分かんないですけど。

    クローズドな感じが苦手でm

    ixi

    もやらなかったんです。

    綾門 

    twitter

    みたいに、不特定多数の人に広がっていくもののほうが好まし

    いというか。

    永井 

    twitter

    って一応オープンじゃないですか。そっちの方がやりやすい。

    山階 

    さて、話がどんどん脱線しました(笑)。

    永井 

    情報技術の話になりましたね(笑)。

    〔註2〕詩歌梁山泊

    三詩型交流企画 

    公式サイト「詩客 SH

    IKAK

    U

    」に二〇一二年九月

    に掲載。(http://shiika.sakura.ne.jp/w

    orks/tanka/2012-09-21-10804.html

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    永井祐作品と小劇場演劇

    綾門 

    現代詩手帖二〇一二年十二月号「倫理の時代」における山田航さんの

    評に「(永井さんの作風は)むき出しの都市生活描写が小劇場演劇の空気感

    を思わせる」とありますが、これがかなり意外で。演劇とかは見ないひとだ

    ろうなっていう印象を勝手に抱いてたところがあるんですが。

    永井 

    基本的に見ないですね。「チェルフィッチュ」だけは一回見ました。

    あの、東大周辺に劇場ってありませんでした?

    綾門 

    こまばアゴラ劇場ですか。

    永井 

    あー、それですね。

    綾門 『目的地』ですか。

    永井 

    あ、『目的地』ですね。それだけ見ました。でも基本的にあんまり。

    舞台とか興味はあるんですけど、在宅派だから。DVD、テレビ、ネット動

    画の三点セットで。近所にTSUTAYAが二軒と、ゲオが一店舗あるので

    ……。そこを主に使っていますね。ゲオが旧作八十円を打ち出してきたあた

    りからゲオ派に。小劇場の世界って逆に聞いてみたいくらいなんですけどね。

    よく吉田恭大さんとか、斉藤斎藤さんとかが、飲み会で、演劇のことをね、

    熱く語ってるんですよ。そういうのを横目で見て、「あ、面白いのかな。」っ

    て思ってるぐらいですね。枡野浩一さんもよく言ってますよね。演劇見るっ

    て。

    綾門 

    枡野さんは演劇に出演もしてますからね。「五反田団」とか、

    「FUK

    AIPROD

    UC

    E

    羽衣」とか。

    永井 

    ゼロ年代に、演劇出身の人が小説を書いたり、小劇場的なものと文学

    のクロスオーバーみたいなものってよくありましたよね。僕の作品に関して

    言えば、そういうところとの共振っていうのはあるのかも知れません、って

    いうぐらいですね。逆に、小劇場のいまって、どんな感じなんですか。

    綾門 

    いわゆる「昔の演劇」って、社会批判的なものだと、一揆のリーダー

    格みたいに前を進んでいく人たちがメインにある雰囲気だったんですけど、

    いまの小劇場演劇は、だらだらしたものとか、やる気のないものとか、むし

    ろ社会には興味がない、社会に対して抵抗する気力すらない、というような

    見せ方があらわれてくる流れには確実になってきています。そのような部分

    で永井さんの作風とリンクしてるところがあると思います。

    永井 

    わかりました。

    綾門 

    そのような演劇は「チェルフィッチュ以降」という言いかたでひとく

    くりにされていたりするんですけど。

    永井 

    そうなんだ。

    綾門 

    はい。「チェルフィッチュ」が出てきてから、そのような演劇が急に

    増えたんですね。あえて永井さんの作品と小劇場演劇と関連付けしようとす

    るならば、「チェルフィッチュ」の社会に対して諦観的な姿勢を貫くという

    スタンスに似ていなくもないと思います。でもそれは演劇うんぬんとか短歌

    うんぬんとかの問題ではなくて、むしろ世代的なもので、世代全体がもって

    いる社会に対する無力感みたいなものだろう、とも思います。

    受容のされかた

    綾門 

    永井さんの短歌は、世代的なくくりとして若者の代表格のように受容

    されがちだと思うんですが、永井さんとしては、そういう受容のされかたに

    違和感を覚えたりしますか。

    永井 

    世代っていってもいろんな人がいるから、あんまり言わない方がいい

    んじゃないかとは、個人的には思います。受容のされかたの話ですけど、一

    応、こういう受容をしてほしい、みたいな発言とかステートメントとかは出

    さないっていう方針なんです。個人的にその読みはうれしいっていうことは

    もちろんありますけどね。短歌の合評会なんかやってると、よく、「こうい

    う読みが出たけど、私はそんなつもりで書いていなかった、こういう意図

    だった」、というのを後で言う人がいますけど、私からすると、その「つも

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    り」ってなんなんだよって、思いますよね。

    綾門 (笑)

    永井 

    作者の「つもり」をあんまり重視するのって豊かなことじゃないん

    じゃないのかなって、個人的には思う。それだと書いてる時のはじめの想定

    の範囲を越えることがないわけですしね。作家のつもりを解読するのが読み

    ではない、って思うかな。自分の歌たちに関しては、いろんな方向にこう、

    カオス的にうごめいている世の中に、勇気を持って飛び出していってほしい

    なって、思います。

    山階 

    短歌の読みに関する話ですけど、いまおっしゃっていたことは、「読

    者がいちばん強い」っていう考え方に近いですよね。

    永井 

    うん。

    山階 「読者が権力を持つ」みたいな言い方をすることもあります。読者の

    数だけ短歌の意味、短歌の世界が生まれるということだと思うんですが、永

    井さんとしては、そういうありかたが望ましいと思いますか。

    永井 

    うーんとね、そこまで言っちゃうと、ちょっとまた違うかなあ。結局

    バランスの問題になっちゃうんですけど、ひとりひとりの読者だけ、読みが

    あるとまでは思わないかな。誤読とかも存在すると思いますしね、普通に。

    山階 

    作者の意図に沿った読みが絶対的な読みというわけではないけれども、

    受容する読者の数だけ読みが存在するわけでもない、ということですね。

    永井 

    さすがにそこまでは言えないですね。

    モチーフと作中主体

    綾門 

    永井さんの作品に出てくるモチーフについてなんですが、永井さんの

    プロフィールを全く知らずに永井さんの作品に触れたとしても、あ、この人

    は勤め人なんだな、っていうことが一目で読み取れるモチーフを組み込んだ

    作風だとおもうんです。多くの歌人は短歌だけでは暮らせなくて、職業を

    持っているわけですけど、それを、少なくとも短歌の中では無視するか隠す

    かしてしまう人がわりあい多いなかで、永井さんは勤め人ですよアピール全

    開っていうか、作風に露骨に反映しているなっていう印象を受けます。例え

    ば会社についてとか、勤めるっていうこととかに、拒否反応とか、違和感と

    か、持たれないんですか。

    永井 

    歌に出てくる人と、実際のわたしはまたいろいろな関係というか、即、

    本人、ではないんですけど。そのうえで言えば、まあ勤め人ですけど、契約

    社員なんで、企業人みたいな感じ……「島耕作」的なストーリーを歩んでい

    るわけではないんですね。

    綾門 (笑)

    永井 

    でも、会社に拒否感って、基本的にはないですね。真の人間性を破壊

    する、とか思わないし。やっぱり、職場の仲間とか、取引先の人とかとの関

    係とか、制約があるから豊か、みたいな環境は結構好きかも、っていう感じ

    ですね。上司の物まねをして遊ぶとか(笑)。そういうことですよね。なぜ

    か楽しいですよね、そういうときって。だから、素朴に言って会社とかに拒

    否感がない、っていうのはあるかなあ。

    綾門 

    作品からは契約社員感がするなあとは思っていたんですよね。

    永井 

    あ、そうなんだ(笑)。

    綾門 

    むしろ「1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろの

    カーディガン」とかも、明らかにバリバリエリートって感じではなくて、中

    の下あたりというか、そんな稼いでないだろうな、っていう感じはするんで

    す。だって、バリバリエリートだったらバリバリ稼いでるわけだから、ああ

    いう作品にならないじゃない気がして。そんなお金持ちじゃないだろうなっ

    て感じが底に漂ってますよね。

    永井 

    ありますかね。

    綾門 

    はい、醸し出されてるなって。

    永井 

    逆に言うと、そういうことを書くことはむしろ社会性かな、と。やっ

    ぱりおのずから出てきますからね。まあ、もろに契約社員ですからね。

    綾門 

    なるほど。

    山階 

    批評会の時にも挙げられていましたけど、永井さんの作品には、家族

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    や兄弟があらわれる家族詠がないという特徴があると思います。永井さんは、

    敢えて家族詠をしないという選択をしているんですか。

    永井 

    いや、敢えて、というわけではないですね。なぜか……作らないです

    ね。確かに、父親も母親も出てきませんし。兄弟はまあ元々いないんですけ

    ど。

    山階 

    架空の兄弟、みたいなモチーフも出てきませんよね。

    永井 

    そうですね。

    綾門 

    自分の家族だけではなくて、他の家族を見て思ったことを詠む、みた

    いなこともないですよね。家族的なモチーフがまったくあらわれないという

    か。

    永井 

    そうですね。歌を作るスタンスのなかに、家族という関係がはいって

    こないんでしょうね。

    山階 

    先ほど、作中の主体、即、永井さんというわけではない、とおっ

    しゃっていましたが、短歌における作者と作中主体との距離の取り方につい

    ては、どんな風にお考えですか。

    永井 

    作者ごとに全然違うって思いますね、基本的には。で、私はやっぱり

    そのまま即自分っていう風には思えないかなあ。そこには、壁というか、膜

    というか、ジャンプがありますよね、明らかに。実際見聞きしたことがネタ

    になることはよくあるんですけどね。でも他人が見聞きしたこともたくさん

    ネタにしてるんで。やっぱり、即ではないですし。私の短歌のイメージと本

    人のイメージとはそんなにずれないみたいなので、そういう風に考える人も

    結構いますけど、でもそれをそれ違いますから、っていちいち正していくっ

    ていうのもまた違うかなっていう気がする。作者と作品を切り離して考えな

    い文芸リテラシーのないパンピーは困るよねみたいな態度は趣味じゃないと

    いうか。それは好きにしてくださいって。面倒ですしね。でもすごく、作中

    主体と本人は絶対違うものだってことにこだわる人はいますよね。歌に書い

    たエピソードを本当のことだと取られるとすごく困るっていう人。でも、そ

    こまで厳密に、声を大にして言いたいとはあんまり思わないかな。何事にお

    いても、です。

    綾門 

    何事においても、ですか。あまり声を大にはしなさそうだな、って思

    いますけど。

    永井 

    あ、でもやっぱりいざという時はね、一週間に一回くらい巡ってくる

    んですよ、実はね。そういう時は、出します。

    綾門 

    出しますか。

    永井 

    そこはやっぱりね、きめておかないとだめですね。

    あの青い電車と自家用車

    綾門 「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」

    は、一時期すごく倫理的な物議を醸していて、まあ今も醸し続けている歌だ

    と思うんですけど、それは置いておいて、永井さんの歌には通勤中とか、電

    車に乗っているとかっていう風に、移動中だなっていうことを思わせる作品

    が多いと思うんです。そういう歌は、家にいて黙々と短歌を詠んでいても自

    然と出てきちゃうのか、それとも本当に移動中に思いつくからそういう歌が

    多いのか、ということをお伺いしたくて。

    永井 

    いつ歌を作っているのかっていうのは結構難しい質問で、いつでも、

    常に作っているとも言えるし、逆に歌を作っている時間とはっきり呼べるよ

    うな時間はほとんどなかったりします。もちろん思いついたことを心にメモ

    したり携帯にメモしたり、それが通勤中だってことはわりとしょっちゅうあ

    りますけど、家でも思いつくしね。だから、通勤中に作るかっていわれると

    作んないけど、通勤中に思いついたこととか、家で通勤中のことを思い出し

    て、通勤中に心にメモったことを想起するとかね、そういうのは結構多いか

    なあ。電車の歌が多いってよく言われるんですけど、それは都内の生活感

    覚っていうのが反映してるのかなあって。だって、今日のこの場所にも電車

    で来て、電車で帰りますからね。東京は圧倒的に電車に依存している都市

    だっていう話をどこかで読んだことがあるんですけど、その通りだなって思

    いますね。地方の友達で、車をみんなが持っていて、車ないと生活できない

  • 12

    という人もけっこういますけど。

    綾門 

    僕もそうですね。実家が富山県で、電車は通学のときぐらいしか乗ら

    なかったです。

    永井 

    実家帰ると同級生とか、みんな車を持ってますよね。

    綾門 

    あ、はい、みんな車で移動してました。

    永井 

    そうだよね。だからそういった生活感覚の反映はあると思いますね。

    電車のモチーフが多いっていうのは。で、地方の人の車の、それぞれの車の

    中っていうのが、その人個人の部屋みたいになってて、そこに入ると個人性

    の重力をすごい感じる、っていうことを言ってた友達がいて。個室みたいな

    感じになってる。

    綾門 

    他人の車って、入るとにおいがまず違ったりしてて。

    永井 

    うんうんうん、違います。

    綾門 

    友達の家に遊びに行ったときに、玄関のにおいって全部違うじゃない

    ですか。それと一緒のことが車の中で起こるんですよね。

    永井 

    うんうんうん、わかる。

    綾門 

    そういうことを感じる機会が都会だとないんですよね。

    永井 

    そういう個室に定期的に入りたいなー、っていう微妙なあこがれがあ

    りますね。車や車を使う人に対して。枠にふちどられてる感じ。ガンダム

    乗ってるみたいな、暗い宇宙に一人きりみたいな感じ。車に乗ってる時に考

    え事する人とかって結構いるらしいですけど、話によると。それに微妙に憧

    れるっていうのがあったりする。電車ってやっぱ全然そういうものじゃない

    よね、まったく。で、電車だと位置取りなんですけど、とりあえず人があっ

    ちに位置取ったら自分はこっちに位置取ったみたいな、はじめの位置取り感

    が、私は電車だなあって凄く思うんですけど。そういうのって嫌いじゃない

    ですね、好きなのかもよくわからないけど。

    時間のゆがみと定型

    綾門 

    永井さんの特徴に、時間意識の奇妙さっていうものがあると思います。

    歌集の批評会で大辻隆弘さんがおっしゃっていたように、一首の中でたびた

    びワープするみたいなところがあるんですね。時間の定点がずれて多元化し

    ていくとか、逆にばらばらのはずの時間が同じ点として現れてくるとか。短

    歌って一瞬を五七五七七の三十一音に畳み込むっていうのが多いじゃないで

    すか。でも永井さんの短歌だと二つも三つも一瞬がはさみこまれている。例

    えば「アスファルトの感じがよくて撮ってみる 

    もう一度  

    つま先を入れ

    てみる」とか、これは明らかに同じ一瞬じゃないですね。

    永井 

    うん。

    綾門 「自動販売機のボタンを押すホットミルクティーが落ちるまで目をつ

    むってすごす」これも、ボタンを押した時と目をつむってすごした時とは、

    ずれてますよね。こんな風に、いくつもの一瞬が詠み込まれていることが特

    徴的だと思うんですけど、これは意図的なものなんですか。それとも、自分

    の中に馴染んだ感覚から短歌を構成していくと、自然とそのようにアウト

    プットされるんでしょうか。

    永井 

    自然な部分が大きい、のかもしれませんね。定型がうながしてくる部

    分っていうのが。短歌って、句ごとに切れ目があるじゃないですか。あとリ

    フレインするじゃないですか。五が二回と七が三回あるじゃないですか。な

    んかね、それは句またがりとか句割れとかのテクで、解除したりすることも

    できるんだけれども、その切れ目とかリフレインとかとこう、言葉がもつれ

    あってくうちに、時間が飛んだりとか、繰り返したりとか、っていうことが

    起こるんじゃないかなあ、って思う。

    山階 

    時間の順序や相関関係の変容は、永井さん自身の作為によるものもあ

    れば、短歌の定型から現れることもあると。

    永井 

    そうですね。やっぱり短歌を作るなら、定型に対してアプローチした

  • 13

    時にね、こっち側にも変容があって言葉にも変容があるっていうんじゃない

    と、短歌である意味があまりないような気がするんですよね。すごく面白い

    発想であっても、定型ともつれ合って出てきた成分がちょっとでもないと、

    短歌にする意味みたいなものがいまいちなくなってくるっていうのかな。そ

    ういう意味で、句切れとかリフレインを意識して短歌を作ることで時間がお

    かしくなって、できた歌を見てちょっと変かも、でもちょっと面白いかも、

    みたいな結果になればそれはなるべく広げるようにしてるかな。

    山階 

    当たり前の語順とか時間の順序が、定型に流し込んでいく過程でおか

    しくなっていくという面もありますか。

    永井 

    多々あると思います、はい。やっぱり、句またがりの位置とか句の切

    れ目とかすっごい大事なんですよね。それらひとつひとつによって空間構成

    も時間構成もどんどん変わっていくわけで、そこはやっぱ作るなら意識すべ

    きというか、短歌の面白いところの一つだと思いますね。もちろん私本人

    がごく天然にぷつぷつ切れる意識を持ってる部分もあると思うんですけど

    (笑)。

    一字空け、二字空け……

    綾門 

    永井さんの作品においては、字空けに凄く作為性を感じます。「春の

    星 

    ふとんの下に本があると思った 

    ま 

    ま 

    日曜日」の下の句には一字空

    けが三つも入っていますし、「アスファルトの感じがよくて撮ってみる 

    う一度  

    つま先を入れてみる」では、一字どころか二字空けがあります。

    こういった字空けは、最初に詠んだ段階でそうなってしまうんでしょうか。

    あとからやっぱりこことここに入れようっていう風に調整するんでしょうか。

    永井 

    うーん、あとから調整するのもあるし、始めから空いてることも

    あるかなあ。えっと、そうですねえ、「月を見つけて月いいよねと君が言

    う  

    ぼくはこっちだからじゃあまたね」の歌は、何かはじめから二字空け

    の状態でフレーズがきましたね。

    綾門 

    ああもう、最初から。

    永井 

    うん。例えば名詞とか動詞とか助詞とかを選んでるのとおんなじこと

    ですね、字空けっていうのは。それひとつでだいぶ大きく意味が変わるので。

    それとおんなじように、その辺は、もちろん考えています。

    山階 

    字空けをそういった修辞と同じレベルで多用する歌人は、永井さん以

    外には見たことがない気がするんですけど、「字空けの一人者」になってい

    る、というような自覚とかはありますか。

    永井 

    いやいやないですよ。でも、なるべく人のやってないことをやりたい

    という考えはあるよね、実作者として。フロンティア精神みたいな。「こん

    な字空けの使い方面白くない?」 

    みたいな提案は当然したいですよね。一

    字空けって、私が学生の頃とかすっごいはやってましたよ。上の句と下の句

    の間で空くパターンと、二句目と三句目の間で空くパターンがすごく多かっ

    た。短歌を真っ二つにして互いに衝突させるという方法は、穂村弘さん、加

    藤治郎さんとかに多いですよね。

    山階 

    そうですね。

    綾門 

    永井さんの場合、ここを空けるのか、みたいな部分が空いてることも

    多いですよね。

    山階 

    上下の衝突をさせてないことも結構ありますよね。

    永井 

    衝突させない字空けみたいなものを考えてるかな。不思議なもので短

    歌の力学というか、真ん中を空けるとこうなる(□↓↑□)んですよ。だか

    ら、そうじゃなくてなるべくベクトルがこうなる(□↓↓□)ようにしよう

    と思って空けるとか。

    綾門 

    例えとして適切かどうかわからないんですけど、永井さんの字空けの

    特徴の一つとして、日本庭園とかにある飛び石を向こう岸に向かってポーン

    ポーンと飛んで行って戻らない、みたいな感じの空け方をしてるなあと思い

    ます。

    永井 

    そうですね、上と下を衝突させるタイプの歌って、多分あんまり作ら

    ないと思います。それで、二字空けっていうのは基本的に一字空けの考え方

    を延長したものっていうのかなあ。一字空けについての認識をどんどんどん

  • 14

    どん深めていくとじゃあ二字だったらこのぐらいなんじゃないか、みたいな

    ことを演算できる、そういう感じかなあ。

    山階 

    一字空けの延長として二字空けっていうものもあるし、あってもいい。

    永井 

    そうすね、一字空けを追求していって、していくと二字空けになった

    とかなんかそういうのは好きですね面白いし。二字空けがこうだとしたら三

    字空けの場合はここにどんな措辞が来るのかとかね。

    山階 

    なるほど。

    永井 

    そういう不思議な話。まあでも、これ結構マニアの話なんですけど。

    山階 

    字空けマニア(笑)。

    永井 

    マニアなので(笑)。二字空けを認識してくれない読者もいっぱいい

    ますからね。

    山階 

    引用されるときにミスがあったりしますね。

    永井 

    もうすごいたくさんあって。二字空けが一字空けにしてあるんですけ

    ど。でもまあそれはそれでいいんです、ほんとは二字空けて欲しいけど。で

    も、一字空けにして引用した人って、最初はきちんと二字空けとしてイン

    プットしてるんじゃないかって思うんですよね。で、アウトプットするとき

    に、一字空けというものが当たり前すぎて自然とそうしてしまう。だから、

    一字空けとして引用した人が全員誤読してるとはあんまり思わないですね。

    綾門 

    習慣として一字空けが根付いてるから、アウトプットするときに一字

    空けになっちゃう。

    山階 

    そもそも、一字空けしか存在してなかったわけだしね。

    幻視と水原紫苑について

    綾門 

    永井さんの歌においては、歌を作る動機の中に幻視することへの欲望

    が希薄というか、ほとんど含まれていないことが印象的だと思います。例え

    ば水原紫苑さんは「幻視の女王」とも呼ばれますよね。早大在学中は水原さ

    んの短歌実作の授業に参加していたと伺っていますが、永井さんはそういっ

    た幻視の歌についてはどう捉えて、どう受け止めていらっしゃるんでしょう

    か。

    永井 

    確かに、手法的にはほとんど使ってないですね。これは体質みたいな

    ものなんですけど、特に私が短歌を始めた頃とかはリアリズムで書くほうが

    クリティカルだったという部分もあったし、今ここに無いものを持ってくる

    より今ここの解釈を読み替えるっていう方が「上がる」っていう個人的な資

    質みたいなものもあるかもしれない。これは仮説なんですけど……塚本邦雄

    の「短歌考幻学」って知ってますか。まさに幻視のマニフェストですけど、

    それを読んでいると、少なくとも塚本における幻視って、反体制みたいなも

    のとすごく結びついてるんですよね。要するに表にある強大で強いものを覆

    すために幻視って武器を使うっていうか。少なくとも塚本の語り方はすごく

    そうで。だから、なんていうのかな、私はやっぱ反体制みたいなノリがあま

    りないんだと思うんですよ。まあ今まで指摘もありましたけど。そういうこ

    とと手法的なことって結構くっついてるのかもって思う。

    山階 

    永井さんにとっては、幻視の手法が体制に対抗するための武器として

    写ってる部分が大きい、と。

    永井 

    いや、あくまで後付けの仮説として、ね。

    山階 

    なるほど。

    永井 

    そんなアティチュードも手法に影響してるのかなって気がした。でも、

    幻視と一言に言っても色々ありますから。この方法はつまんないとかそんな

    風には全然思わないですね、はじめた頃は前衛とかすごい読みましたし。む

    しろ、短歌を読む側としては難解な喩に感応できる力ってすごく大事かなっ

    て。ただ適当な喩と血の通った喩を見分けるというか。盛田志保子さんと

    かは、なんていうのか、喩に力があって躍動してるんですよね。そんな喩

    と、一応前衛に影響は受けたけどふんわり雰囲気で作りましたみたいな喩を、

    やっぱり見分けられないとまずいですね。紫苑さんについては、まあちょっ

    と人の話から入っちゃいますけど、実作の授業を受けてて、やっぱ紫苑さん

    てすごい人だなあって思って。歌を見る目をすごい信用してるし、私に対し

    てはなんかすごい注目してくれましたね。北溟短歌賞の次席の時に推薦して

  • 15

    くれたのも紫苑さんの方だ

    ていいますね。で、紫苑さん

    てごく普通に考

    えると石川(美南)さんとか盛田(志保子)さんとか五島(諭)くんとかの

    がき

    と生理的に

    ていうか、好きだ

    たんじ

    ないかなと思うんですけど。

    紫苑さん、霊感みたいな雰囲気もあるんですけど、クリテ

    カルなものに反

    応するという部分もすごくあ

    て。個人の方向性とか生理的な部分を超え

    て、この歌はなんか意味があるみたいに感覚するというのかな。や

    ぱそう

    いうもの

    て短歌読み慣れていくと出てきますよね。文字以前のオ

    ラを読

    む、みたいな。私も別に自分と似たようなのじ

    なくてももちろん興味はあ

    りますからね。水原先生の名言で、短歌は自分で口に出して百回言えるもの

    ないとダメだ

    ていうのがあ

    て。私、割とそれは信じてます。要する

    に、弱いと途中で詰ま

    うんですね。なんか言えなくな

    う。

    階山 

    いろんな理由がありそうですね。これや

    ぱりカ

    コ悪いじ

    ん、と

    か。恥ずかしくな

    てくるみたいな。

    井永 

    そう、そういう弱さがね。なんか、百回言えるものこそほんとに強

    ていう。

    階山 

    枡野浩一も、自分の短歌は全部暗記するくらいじ

    ないといけない

    て言

    てましたね確か。『かんたん短歌の作り方』であ

    たよね。

    門綾 

    たあ

    た。覚えていられないくらいなら、その歌は弱いものだ

    ていう。

    階山 

    暗唱できるくらいにしとけよ

    て。ベクトルは違うかもしれないけど、

    これも短歌の強度に対するストイ

    クさですよね。

    井永 

    うん。確かに。ん

    と、ごく近々で紫苑さんについて思い出したこと

    はね、Pixiv

    てわかりますか。

    門綾 

    はい。

    井永 

    イラストとかの投稿サイトですよね。私は『イナズマイレブン』の

    ンなので、たまに見るんですよ。で、なんか見てると微妙に紫苑さん

    ぽいな

    ていうものが、あ

    たりして。例えば、君が二人に分裂する、みた

    いな歌、紫苑さんにい

    ぱいありますよね。「ゆふぐれに君二人ゐる恋ほし

    さや紅き馬にて身ぬちをめぐる」「夢のきみとうつつのきみが愛しあふはつ

    なつまひるわれは虹の輪」とか。こんな感じのモチ

    フのイラスト

    てたく

    さんあるんですよね。

    階山 

    ありますね。 

    門綾 

    ありますね

    階山 

    同じキ

    ラの二面性を別人格として描くとか。

    井永 

    そう。キ

    ラクタ

    を愛する方法として、一人を二人にして愛し合わ

    せたりとか並ばせたりとか

    ていう手法があ

    て。水原作品にみられるそう

    いう発想

    て、女性歌人の奇想みたいに思われてるけど、Pixiv

    を見て、そ

    て割とオタク的な発想なんだな

    て思

    て、結構腑に落ちるものがあ

    たんですよね。なんか水原さん理解が一つ深ま

    た。水原先生

    て先駆的な

    腐女子だ

    たんだ、みたいな。そんな話です。

    階山 

    水原さんの発想とオタク的な発想の根幹に似たものがあるんじ

    ない

    か、と。

    井永 

    はい。まあわかる人にはすぐわかることなんでし

    うね。

    壌土の歌短・養教と歌短

    門綾 

    短歌研究二〇一〇年の四月号の作品季評で永井さんは、李賀を知らな

    いんです

    て発言していますけど、永井さんの歌にはそうい

    た教養みたい

    なものがほとんど反映されていないように思います。しかも無教養であるこ

    とを恥じているわけでもないというか……まあこの質問がどうなんだ

    て話

    なんですけど。

    井永 

    まあまあまあ、まあいいですよ。李賀とか読みますか。

    門綾 

    存在を知

    てはいました。

    井永 

    岩波文庫もほぼ絶版なんですよね、李賀

    て。だから結構ハ

    ドル高

    いよね

    ていうのはち

    と言いたいんですけど、まあ言いたいことはわか

    ります。教養

    ぽくなるということは今のところはプランにはないですね。

    教養

    てや

    ぱり今時だと何が教養か

    ていうのがち

    とわからないとい

  • 16

    うか。カラマーゾフの兄弟は三回読んでるんですけど能は生で見たことない

    んですよ。

    綾門 

    ああ。

    永井 

    ジーザス&メリーチェインって知ってる?

    綾門 

    知らないです。

    永井 

    イギリスのロックバンドで、ロック史的には超重要な固有名詞なんで

    す。で、例えば能を見てる人はジーザス&メリーチェインがなんのことだか

    わからなかったりするわけです。

    綾門 

    僕、能を見てる人なんですよ。

    永井 

    じゃあまさにこの例にあてはまってるわけですね。

    綾門 

    まさに。

    永井 

    そういう感じじゃないすか。今時さ。

    綾門 

    ああなるほど。

    永井 

    普通に狭くなっちゃうっていうのがあるのと、あるのでね、やっぱあ

    んまり教養の方に行くことはないと思う多分。

    綾門 

    能の話が出ましたが、例えば水原紫苑さんの『世阿弥の墓』〔註3〕に

    関しては、能の明らかなワンシーンみたいなものが含まれていて、それを

    知っているか知らないかで、読み方が変わってきたりするわけじゃないです

    か。『武悪のひとへ』〔註4〕もそうですよね、あれも能のモチーフが頻出す

    る。そういう教養が求められるような作品を、能を全く見ないままで享受し

    ている時に、どういう風に解釈しているのかなということをお伺いしたくて。

    永井 

    実際、評することになる場合は勉強してから読みます。教養の求めら

    れる読み筋なんてまったく気にせずに、好きなように読めばいいじゃん、と

    までは言わないです。

    綾門 

    例えば永井さんの歌を評するにあたって、資料ってかなり少ないと思

    うんですけど、水原紫苑さんを、本格的に評するとなると、凄く教養が迫ら

    れるところってあるじゃないですか、そういう教養を迫られる感じってどう

    いう風に受けとめていますか。

    永井 

    うーん、水原さんに実際に聞いたら、能とか見てなくてももちろん読

    んでほしいし、裸の魂で感じてほしいって言うんじゃないかなと思います。

    推測ですけど。

    山階 

    それを教養と呼ぶか呼ばないかに関わらず、何かしらの知識を前提と

    して読んだら、ガラッと印象の変わる短歌ってありますよね。永井さんの作

    品には極端に少ないというかほぼ皆無なんじゃないかと思うんですが、そう

    いう短歌について、どう思われますか。

    永井 

    そういうのもありだと思いますね。能とか教養とかと歌のテキストが

    絡んで、複雑さをどんどん増してゆく、そういう喜びや面白さってもちろん

    あると思います。

    山階 

    ある種の教養的なものをかなり読み込んでいる歌人というと、例えば

    藤原龍一郎さん、黒瀬珂瀾さん、生沼義朗さん、といった方々がいます。黒

    瀬さんの「今日もまた渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来る春である」という歌

    は、『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメシリーズの「渚カヲル」って

    いうキャラクターを知らないとよく分からないだろうな、とか。こういう

    歌って、知識のない読者に対してやさしくないですよね。そのやさしくない

    感じについてどう思いますか。

    永井 

    なんていえばいいのかな。私はそういう風には作らないから。短歌自

    体がさ、ある種の二次創作みたいなものなのかな。Pixiv

    のイラストみたい

    なことなのかな。

    山階 

    いま挙げたような短歌が、ですか。

    永井 

    そう。今思いついただけですけど、Pixiv

    のサイトにイラストを投稿す

    る時って元ネタがあるじゃないですか。そんなこと、いちいち気にしない

    じゃないですか。見る人が知らないかもなんて思わないでしょ? 

    いじる対

    象とか二次創作の原作とか、そういう元ネタがはっきりある歌って、そんな

    二次創作みたいな感覚として作ってるのかな、って思うところはある。

    山階 

    すっきりする答えがでましたね。

    綾門 

    凄く腑に落ちました。

    永井 

    あ、ほんと。よかった。まあオタクだしね、黒瀬さんとか。

    山階 

    自分とおなじ地盤を共有しているひとたちに対する短歌っていう性質

  • 17

    が結構あるんでしょうね。

    永井 

    やっぱり、そういうのを書いてるときに、血沸き肉躍るんじゃないか

    な。言葉が走るんじゃない?

    山階 

    永井さんの歌集の話からどんどん離れていく感じがしますけど。

    永井 

    まあ、いいんじゃない。

    綾門 

    話自体はおもしろいし。

    山階 

    そうね。たぶん、誰もあまり話してこなかった話をしてると思う。

    綾門 

    もうちょっと突っ込んでいいですか。黒瀬さんの歌の「渚カヲル」は、

    『新世紀エヴァンゲリオン』をある世代の人間はあたりまえに見ているとい

    う前提で詠み込まれていると思うので、正確には教養的な知識じゃないです

    よね。若い人しか知らないアニメのようなそういったモチーフを短歌に持ち

    込むことは今後増えて行くと思っています。例えば、百合〔註5〕をモチー

    フにした百合短歌ってあるじゃないですか。あれは百合の同人誌みたいな文

    化がここまで発達してなかったら、成立しなかったものですよね。でも、百

    合について五十代や六十代の歌人のかたに一から説明するのって、とんでも

    なく大変。

    山階 

    土壌ってキーワードがあるんじゃないかと思います。九十年代アニメ

    を知っているひとの土壌とか、百合短歌については百合を知っていて、かつ

    短歌をやっているひとの土壌。水原紫苑さんの能に関する意識にもおそらく

    ある種の土壌がある。それを共有する人に向けて作られたものっていうのは、

    その土壌にいる人に対しては強いと思います。

    綾門 

    永井さんの作品は、若者特有の短歌と呼ばれる割に、若い人は知って

    いて当たり前だよね、というような強要の仕方をしませんよね。むしろその

    ようなひとつの土壌をもとにすることから離れようとしているというか。た

    ぶんこれからも特定の土壌を作らないだろうなっていう印象を持ってます。

    永井 

    だから、いろんな土壌を串刺しにしないといけないんですよ、たくさ

    ん。九十年代アニメ界とかさ、百合界とかさ、いろんな界があるんですけど、

    そこから全部読者を貫いて、持ってこないとある程度の数にならない。数の

    勝負してるわけじゃないですけどね。

    山階 

    永井さんは誰にでも読まれる短歌を作りたいですか。

    永井 

    結構そう思ってますね。

    山階 

    そういう意味では、土壌を限定することは、マイナスに。

    永井 

    うん。マイナスになる。

    〔註3〕水原紫苑『世阿弥の墓』(二〇〇三・河出書房新社)

    〔註4〕水原紫苑『武悪のひとへ』(二〇一一・本阿弥書店)

    〔註5〕ここでは、女性の同性愛またはそれに近い友愛を題材とした各種作品のこと。

    作歌のルーツ

    綾門 

    このあいだの永井さんの批評会で、枡野穂村問題って出ましたよね。

    永井 

    あの、血縁関係ですね。

    山階 「永井さんは枡野浩一の隠し子だったけど、穂村弘が養子として貰い

    受けたところ、穂村弘には似ていないからいじめられている」。

    綾門 

    参議院と衆議院で法が通ったり通らなかったりする、ねじれ国会みた

    いな状況に突入しつつある。

    山階 

    瀬戸夏子さんの言い回しでしたけど、そういうことが実際起きている

    なとは思います。

    永井 

    DNA鑑定してみないとわからないですけど(笑)。一応、穂村さん

    の歌を読んで短歌を始めたんですよ。子供って自分では思わないけど、活

    動してたベースは穂村さんの周辺ですね。「かんたん短歌」に投稿したこと

    はないんですよ。まあでもやっぱり、お二人の影響はありますよね。私が

    はじめて半年以内に、『短歌という爆弾』〔註6〕と『かんたん短歌の作り方』

    〔註7〕が出てるわけですよ。

    山階 

    やっぱり両方手に取られたんですか。

    永井 

    うん。両方買った。そういえば佐々木あららさんが、斉藤さんがやっ

    てたユースト〔註8〕で、「星野しずる」〔註9〕を作った動機みたいな話をし

    てて。星野しずるを作る時に、あららさんはわりとアイロニカルな意識が

  • 18

    あったっていう話。で、当時あららさんの目についてたのが、穂村さんの影

    響を受けてるんだけど、キラキラした言葉の順列組合せみたいなもので、ぽ

    んぽん短歌を作っていると。で、そういう歌ってどうなの? 

    っていうこと

    をわりと仲間内で笑ったりなんかしていたと。そういう流れがあって、星野

    しずるが生まれたらしいんです。

    山階 

    そういうキラキラしたものの順列組合せなら機械にも作れるぞ、と。

    永井 

    そういう意味もあるらしい。それだけではない。ただの嫌がらせって

    わけじゃないと思うんで。でも、そういう意識ってあったんだって。こうい

    う話を聞くと、私もその光景は見覚えがあるなって思うんですよね。幼少期

    の記憶ですよね、血縁関係的に言うと。それで私もあららさんも順列組合

    せっぽくない短歌の方に向かっていったと思うんですよ。

    綾門 

    そういうの嫌だな、ってなんとなく察して。

    永井 

    幼少期の記憶の話をしていると、かんたん短歌と棒立ちの歌っていう

    のは兄弟なんだなって思った。

    綾門 

    穂村さんと衝突しているわけじゃないと。

    永井 

    ないですね。

    綾門 

    意識的に枡野さんに寄ったわけでもない。

    永井 

    枡野さんに寄ってないしね、たぶん。あ、文体が似てるのか、枡野さ

    んに。文体か。難しいな。

    綾門 

    あと、さっき言ってた、誰にでも読めるものにするっていうところとか。

    永井 

    ああ、そこですね。

    綾門 

    教養を絶対迫らない、みたいな。

    永井 

    誰にでも読めるって、私は目的ではなくて手段で、誰でも読めるって

    いうのがゴールじゃないんですよ。誰でも読めるような歌じゃないと、本当

    には強くないっていうこと。分かりますか、その違い。

    山階 

    分かります。誰にでも読めることを前提として、そこから勃発するも

    のというか。

    永井 

    うん。だから歌の強さとか歌の良さを追求した結果、誰にでも読める、

    いろんな土壌を串刺しにするスタンスになっていったって思う。だから、目

    的ではないんだよね、誰にでも読めるっていうのは。

    綾門 

    今のその話を聞くと、そんなに枡野直系の子供とかでは全然なさそう

    ですね。

    永井 

    瀬戸さんの理論は分かんない。もっと聞かないとわかんない。

    山階 

    そうそう。あの話はもうちょっと聞きたかったです。

    永井 

    瀬戸さんって、なんでも血縁関係で理解するんですよね。比喩として

    の縁戚関係の話を延々としてるから、ああ、この人ってなんでも父娘・父子

    関係で考えるのかな、みたいな、不思議な感受性があって。

    山階 

    全然わかんないですよね。

    永井 

    瀬戸さんは面白いですよね、本当に。で、私はその、仮説としてはか

    んたん短歌と棒立ちの歌はおそらく兄弟だと。これはどうも間違いないよう

    な気がするな。

    山階 

    永井さん的にはどっちに親しいですか?

    永井 

    棒立ちの歌の方かなと思う。そういう文脈で引用されましたし。今と

    なっては出身はどこでもいいとも思うけど。

    山階 

    ということは、枡野さんの子供として、兄弟というか、光と影みたい

    な感じで、離反する形で棒立ちの歌があらわれたんですかね。

    永井 

    まあ、加藤千恵さんとか入ってるからね、棒立ちの歌に。分からない。

    その辺の複雑な縁戚関係はやはりDNA鑑定を待たないと、ということで。

    〔註6〕穂村弘『短歌という爆弾』(二〇〇〇・小学館)

    〔註7〕枡野浩一『かんたん短歌の作り方』(二〇〇〇・筑摩書房)

    〔註8〕U

    st

    短歌シンポ「からんとかろん」(http://w

    ww.ustream

    .tv/channel/namakaron

    )※配

    信のアーカイブ

    〔註9〕佐々木あららが二〇〇八年に作成した「短歌自動生成スクリプト犬猿〈いぬざ

    る〉」(http://w

    ww

    17.atpages.jp/sasakiarara/sizzle/

    )の愛称。スクリプトにより生成された短歌

    の「作者」という設定。

  • 19

    世代について

    綾門 

    批評会でも、やっぱり若者世代の寵児っていう評され方をしていまし

    たが、永井さんご自身は、例えば上の世代、もしくは下の世代との切れ目と

    か、同世代と共有している傾向とか、世代というものに対してはどういう風

    にとらえているんでしょうか。

    永井 

    これはちょっと、様々に錯綜してまして、なかなかね、一概には言え

    ないですね。ひとつここに断絶があるとか言いだすと、もう上にも横にも下

    にも色々あるんです。すっごく色々あって。で、ファクターも多いんですよ。

    もちろん、年齢も世代もあるし、歌柄や流派の違いもあるし、トータルの佇

    まいとかもありますしね。あと、デビュー時期って大きいですよね。短歌っ

    て。

    山階 

    デビューっていうのは歌集を出すという意味でのデビューですか。

    永井 

    いや、歌集を出すより、もっと早いですね。名前が出始める時期。

    綾門 

    第一歌集が待たれる時期っていうか。

    永井 

    うん。はじめの五年くらいの時期が大きい。

    綾門 

    その時に同時に出た人たち。

    永井 

    その時に出た人たちとか、実年齢以上の意味を持っていることが短歌

    では多いと思います。そういう具合で、それぞれに共感があったり、断絶が

    あったりしまして。「電脳短歌イエローページ」〔註9〕って知ってますか?

    山階 

    いや、名前しか知らないです。内容は全然。

    綾門 

    僕も、存在だけ知ってるくらいって感じで。

    永井 

    そこにみんな行ってたんですよ。とりあえず行ってたんです。で、今

    だってウェブでも盛り上がっていると思うんだけど、2000年代の前半は

    ですね、ずいぶんと盛り上がってまして、ネット短歌とか言われてたんです

    よ。

    山階 「歌葉」〔註10〕もあの時期ですか?

    永井 

    そうですね。「歌葉」がその一環というか。そのひとつとして新人賞

    が立ち上がったっていう。で、「歌葉」の時期とか、それ以降っぽいとか、

    細かく違う。で、上の世代との短歌観の違いみたいなことになると、いろい

    ろあるけど、最終的にはやっぱり作品を作るってところに現れるものが一番

    大事かなっていう。あんまりマクロな視点から、ここからはっきり違うとか、

    そういうことはなかなか言えないですね、少なくとも今の所は。個人的に同

    世代感を感じるのは、ごく素朴に考えると、花山周子さんとか、中田有里さ

    んあたりですね。年齢が一緒なんで。スタンス的にも共感することが多い。

    綾門 

    ちなみに自分より下の世代に思うことはありますか。服部真里子さん

    とか、平岡直子さんとか。

    永井 

    もちろん、その辺が下の世代だと思ってます。そうですねえ、面白く

    読んでます。やっぱ今すごい、いいよね。あのお二人とか、花開いてますよ

    ね。なんか、素朴に思うのは、学生の時からやってると、やっぱりね、二十

    代後半くらいなのかなあって。開花するのって。

    山階 

    なるほど。

    永井 

    わりと近くで見てるので、ちょっとそんなことを思ったりする。で、

    まあ歌の違いっていうとなんだろうな、下の人の方があれですよね、詩的な

    ものというか、ポエジーを重視する傾向が強いような気がする。私とか、も

    しくは斉藤斎藤さんとかと比べてみれば。それ自体は私はすごく興味深く読

    んでますね、彼らの歌がなんなのかっていうのはまだやっぱりわからないと

    は思うけど、うん。

    〔註10〕「電脳短歌イエローページ」(http://w

    ww.sw

    eetswan.com

    /yp/

    )一九九八年に加藤

    治郎、穂村弘、荻原裕幸により結成された歌人ユニット「SS-PRO

    JECT

    (エスツー・プロ

    ジェクト)」の活動の一環として作られた短歌関連のインターネットリンク集。

    〔註11〕「歌葉」(http://w

    ww.bookpark.ne.jp/utanoha/

    )「SS-PROJEC

    T

    」により発足したイ

    ンターネット出版のWEBサイト。

  • 20

    これからのこと

    綾門 

    確かなことはたぶん言えないとは思うんですけれども、現時点では今

    後どのように変容していこうっていう気持ちなのかなっていうことをお伺い

    したいです。例えば第二歌集を数年後に出版するとして、文体ががらりと変

    わるみたいな変わり方はおそらくしないと思うんですが、じゃあどういうふ

    うに第一歌集と違わせるのかみたいなことを聞かせていただければと思いま

    す。

    永井 

    そうですねえ、第二歌集のことって今のところは全然考えてないんで

    すけど、変化についていうと、一応この『日本の中でたのしく暮らす』って

    いう歌集はいわゆる編年体で、ほぼ、作った順に並んでるんですね。で、あ

    んまり指摘されてないから、わからないのかもしれないけど、私からすると

    そのなかで結構変化してるんですよね。歌が。それは私自身の変化であって、

    また短歌の状況の変化でもあり、かつ社会の状況の変化でもあると。そうい

    う様々な状況ってどんどん変わっていくので、その影響はなるべく受けてい

    きたいなって思いますね。第一歌集を作ってる間もずっと、外の変化をなる

    べく深いレベルで作品に反映させようとしてたので。それを続けていこうっ

    てことですね。で、その過程で大きな態度変更に見えるようなことも、ある

    いは起こるかもしれない。ただその変化は、何かががらりと変わるとか、意

    識的にここからはこう変わろうっていう決意をするとか、そういうことって

    まずないと思うんです。なんか、全く変わるとしたら、何かに押し流される

    みたいにして変わるという感じ。何らかの流れにうまく押し流されたいみた

    いなのがありまして。文体的なイノベーションとかって、例えば短歌史を意

    識して理論的に考えるのではあんまりうまくいかないと思うんですよね。で、

    社会からでも自分の中でもその、押し流されてる流れみたいなものを文体に

    反映させる、それもすごく深いレベルで反映させる。そうすると、自然に変

    わっていけるのかなって、思いますね。そんな感じです。

    社会のダイナミズム

    綾門 

    今のお話を聞いてると、やっぱり、なんか自分から意識的に変わろう

    みたいな意欲ってやっぱりないじゃないですか。

    永井 (笑)

    綾門 

    なにかを受けてさあどうしよう、っていう感じがすごい。永井さんの

    どの話にも共通するなって思うんですけど。基本的にキャッチャーみたいな

    感じで。

    永井 

    ああ、そうだね、うん。たぶん、意識的にこうしようっていう力をあ

    んまり信じてないんですよね。文体が変わるときでもね、なんかもっとすご

    い大きなものに押し流されるとかじゃないとなんか、力にならないような気

    がしてね。

    綾門 

    意識的に変えようとしてもそれは一時的なもので、そういう力だと

    やっぱ負ける、って言い方もなんか変ですけど、弱いんでしょうか。

    永井 

    なんかそんな気がするね、うん、やっぱなんかドラスティックな変化

    とか、本質的な変化っていうのは、何かを感じて、それをうまいこと受信し

    て流すとか、そんなイメージでとらえますね。「明日から腕立てやろう」と

    か、そういうのじゃないね。「結果として次の日から腕立てやってた」って

    いうことはあるんですけどね。

    綾門 

    あー、なるほど。

    永井 

    それも原因、なんかこう、手段と目的の問題って言うんですかね、う

    ん、うーん、そんなイメージですね。

    綾門 

    今腕立てのたとえすごい分かりやすかったですね。

    永井 

    あ、そうですか、よかった。

    山階 

    永井さんの作品について、社会的なことを見つめていないようなスタ

    ンスが見てとれるっていう評が多くありましたけど、永井さん自身の作歌意

    識としては、変化していく社会とか、自分の周りの世界、流れて行くものに

  • 21

    ついて、しっかり見つめているんですね。

    永井 

    はい。一応見つめてるつもりですね。そっから力を吸い上げないこと

    には、やっぱ歌が弱いと思う。

    山階 

    短歌が力を持つためにはそういう大きな流れっていうものを源にする

    ことが必要になってくる。

    永井 

    うん。社会のダイナミズムとかってやっぱり凄い大きいと思うんです

    ね。

    綾門 

    その社会のダイナミズムに、乗っかっていくってことと、ダイナミズ

    ムとある程度の距離をとりながらいくっていうことはまた違うと思うんです

    よ。

    永井 

    うんうん。社会のダイナミズムが、個人に被害を及ぼすことってあり

    ますよね。そうなったら最悪だから、いい感じの距離をとりたいですよね。

    でも歌にする場合だったら、あの、なるべくこう、歌ってさ、やっぱ力、な

    んかカオティックな力がね、渦巻いてないといけないっていうかな。やっぱ

    パワーがいるので、なのでこう社会の力を持ってくるかな、うん。そういう

    時に召喚するんですよ。うん。そんな感じかな。

    山階 

    召喚なんですね。

    永井 

    うん。

    山階 

    はあん、なるほど。

    永井 

    意味分かるかな(笑)。

    綾門 

    うんうんうん。

    山階 

    これもさっきの、作中主体と作者はイコールではないっていう話に結

    び付くと思うんですけど。

    永井 

    そうですね。

    山階 

    作者としての自分が社会のダイナミズムに思いっきり飛び込むことは

    ないけれど、短歌の力としてダイナミズムの力を召喚するときには、まあ、

    やっぱり触れてはいるんですよね。

    永井 

    そうですね。もう、そうですね。それでなんか善悪に関わりないパ

    ワーみたいなものを抽出したいって思う、割と。うん。

    山階 

    それに自分自身が触れて影響を受けるかどうかは別の話として。

    永井 

    うん。うん。うん。何しろカオスだから、実際に乗っかってたら、も

    う大変ですよ。死んじゃいますね(笑)。

    綾門 

    だから死なない程度に、召喚して、で、返す。

    永井 

    そうですね。そこは上手くやらないと、実生活で乗っかってたらめ

    ちゃくちゃになりますから、うん。

    おわりに

    綾門 

    今回、たくさん社会の話をしたと思います。社会っていうものをどう

    とらえるかっていうスタンスって、作歌のかなり大きな要素の一つだなと

    思ってて、それを永井さんがどのように考えてるかっていうことをすごく深

    いところまで掘り下げられたんじゃないかなって。それはすごい意義深いこ

    とだったなと思います。

    永井 

    うん。

    綾門 

    永井さんがトイレ行ってる間に二人で話してたんですけど、僕とか山

    階さんがこれからどういうスタンスを取っていくかということについて考え

    てることにかなり関わってくるというか。

    山階 

    共感できるところも多いにありますし。

    永井 

    うん。

    綾門 

    例えば、このロングインタビューを読んで、そんなことあるかバカヤ

    ロー、って怒るような人は今のわせたんにはまずいないんじゃないかと思い

    ます。今の学生歌人の多くは永井さんの考えに近いものを抱いているんじゃ

    ないかって。そんな話をしてたんです。そういう意味では、永井さんと僕た

    ちにも共有の土壌があるんじゃないかなと思いました。

    永井 

    うん。

    山階 

    特に、僕たちも考えていくべきだなって思ったのは、現実との距離の

    取り方についてのことだと思うんです。

  • 22

    永井 

    うん。

    山階 

    現実の世界、生活、社会の情勢、とか。僕たちはまだ学生だけど、こ

    の先は自分の生き方、暮らし方が大きく変わるときがかならず来るわけで、

    その時にどうしていくかとか。そういうことですね。

    永井 

    うん。

    綾門 

    だからその意味で、召喚っていう考え方はすごく納得がいくものだっ

    たなと思いました。

    山階 

    そうね。新鮮だった。あ、こっちから寄って行くんじゃないんだ、っ

    て。

    永井 

    そうですね。あと、やっぱなんか卒業すると社会に直面せざるを得な

    いから(笑)。うん。頑張ってくださいね。

    山階 

    はい。

    永井 

    でもやっぱりね、真ん中に行くとね、竜巻、トルネードで飛ばされる

    から(笑)。

    山階 

    ニンテンドー64のマリオみたいな(笑)。

    永井 

    うん、そうそうそう(笑)。何回か飛ばされてもいいと思うんですけ

    ど、やっぱそれなりに、慎重に動く方がいいと思うな。

    綾門 

    あまりに飛ばされる頻度が高いと……。

    永井 

    いや死んじゃうからさ。ほんとに。

    綾門 (笑)

    永井 

    その辺は距離を、取った方がいいと思うし、うん。

    山階 

    では、こんなところでしょうか。まとまった感じになったし。

    綾門 

    では。本日はどうもありがとうございました。

    山階 

    ありがとうございました。お疲れさまでした。

    永井 

    ありがとうございました。

    永井祐氏 

    略歴

    一九八一年、東京都生まれ。

    一八歳ぐらいのころ作歌をはじめる。

    大学時代は早稲田短歌会に所属、水原紫苑の短歌実作の授業に参加。

    二〇〇二年、北溟短歌賞次席。

    二〇〇四年、歌葉新人賞最終候補。

    ガルマン歌会などのフリー参加の歌会、批評会に参加しつつホーム

    ページを持ちインターネット上でも活動。

    二〇〇七年、「セクシャル・イーティング」に参加。

    二〇〇八年、「風通し」に参加。

    二〇一二年、第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』刊行。