Title 「セセッション」から「分離派」へ : 日本...

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Title 「セセッション」から「分離派」へ : 日本のWiener Secession受容史における訳語の変遷について Author(s) 浅井, 麻帆 Citation 研究報告 (2008), 22: 59-90 Issue Date 2008-12 URL http://hdl.handle.net/2433/134495 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 「セセッション」から「分離派」へ : 日本のWienerSecession受容史における訳語の変遷について

Author(s) 浅井, 麻帆

Citation 研究報告 (2008), 22: 59-90

Issue Date 2008-12

URL http://hdl.handle.net/2433/134495

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

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「セ セ ッ シ ョ ン」 か ら 「分 離 派 」 へ

― 日本 のWiener Secession受 容 史 に お け る 訳 語 の 変 遷 に つ い て ―

浅 井 麻 帆

は じめに

2001年 か ら2002年 にか けて、 日本 において 「ウィー ン分離派1898・1918」 展 が開催 され 、

宮城県美術館、Bunkainuraザ ・ミュージアム、島根県立i美蒲 館を巡回 した。 ところが、この展

覧会の タイ トル について、楽屋裏 ではひ と悶着起 こつていた。 カタ ログ寄稿者 のひ とり、竹 内次

男(当 時京都 工芸繊 維大学美 術工芸 資料館助 教授)が 原語のWiener Secessionに 訳語 「分 離派」

を あて るこ とに対 して難 色 を示 し、 「この言葉 を展 覧会名 に入れ るな ら私 は寄 稿を控 える」 と主

張 したのであ る。 しか し、展覧会名称 に 「分離派」 は残 り、竹内は仕 方な く折れ なけれ ばな らな

か つた。1

西欧建築史 を研 究 して きた竹 内が 、この訳語 を拒 否す るのには理 由があつた。その理 由は以下

の よ うな もので あ る。彼 に とつての 「分離派」 とはあ くまで、 日本 の大 正時 代、1920年 に結成

された建築家 グルー プ 「分 離派建築 会」を指 している。とい うの も、この グルー プ誕 生以前 には、

Wiener Secessionは 「分離 派」とは呼 ばれていなか ったか らだ、分離派 建築会は、た しか1こWiener

SeoessionのSeoessionが 意 味す る ところの 「分離 」に倣 つて結成 され た。 だが、その内実 は全

く別物、 と竹 内は理 解 してい たのだ 、

結果 と して、竹 内はカ タカナ表記 「ゼツエシオ ン」の後 ろに 「(ウィー ン分離派)」 と入れ るこ

とによ りその論文 を掲載す る こととなった。2こ の よ うに 「分離派」と訳 さず 、Wiener Secession

にカ タカナ を当て ることによつて、日本 とウィー ンのグルー プの名称 の使い分 けを しているのは

竹 内だ けでは ない。1987年 の 『ユ リイ カ』7月 号 「ウィー ンの光 と影 」特 集においても、寄稿

者 の うち、建 築畑 の伊藤 哲夫 と八束 は じめが、訳語 「分離派」 ではな く、カタカナ表 記 「ゼ ツェ

シオー ン」rゼ ツ エ ッシ ョン」 を用い てい る。3数 々の展覧会や書物 を通 じて、訳語 「分離派」

1竹 内次男氏からの聞き書きによる。(2008年10月7日)2『 ウィーン分離派1898―1918』(展覧会カタログ)東 京新聞2001年 、177―178頁、3伊藤哲夫 「ウィーンの美学 と近イ糠 、八束は じめ 「世紀末の古典主義lア ドルフ・ロースを中心に」:『ユ

リイカ』1987年7月 号、222・233及び234-241頁 。

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がかな り一般層にまで浸透 してい るかに思われ るその一 方で 、この言葉 を ウィー ンの本 家本元 に

は使いたが らない上記の ような人々が存在す るので ある。4彼 らの訳 言訓 吏い分 けは、建 築の世

界 にお けるWienerSecession受 容 の長 く深い歴史 を示 してお り、そ の歴 史を紐解 いてみ る と、

それは建築界のみの歴 史ではな く、日本の近代化へ の過 程 に見 る重大 な一預 ―」面であ るこ とに気付

か され る。WienerSecessionは 、1900年 代か ら20年 代 にかけての 日本 においてすで に知 られ

る ところ とな ってい た。早 くも1900年 代 よ りこの名 称 の訳語 が広 まつていた事実がそれ を物 語

る。以下 に、時代 を追 つて訳語の変遷 を紹介 し、 日本 のWienerSecession受 容の一端 を明 らか

にす るこ とで、その名称の変遷の意味 を考察 したい。

その前提 と して、そ もそ もWienerSecessionと は何だ つたのか、確認 してお きたい。本稿 に

お いて まず強調 してお きたい のは、WienerSecessionが 国際的な動 きの中で結成 された とい うこ

とで あ る。 そ もそ も、パ リの 印 象 主義 者 た ちが 「ア ン デパ ン ダ ン(SocietedesArtistes

Independants)」 を結成 してサ ロン(官 展)に 決定的 に決別 を告げた 、1884年 の事件が発端 で

あった。5官 展 に帰 属 しないIndependantsの ドイ ツ語 表記がSezessionで あ り、同様 の背景 を

持 つて、1892年 に ドイ ツ、 ミュンヘ ンで結成 され たのがM�chnerSezessionで ある。ベル リ

ンにお いても、1892年 に 「11人グノレープ(GruppederE]f)」 がア カデ ミーか らの離反 を魚糊 に

し、1899年 にSezessionを 結成 するに到 った。 ウィー ンにお いて も、1897年 にSezessionが 結

成 され た。1899年 にベル リンの グルー プが 自らをSezessionと 名付 けた点で、ベル リンのグル

ープは ウィー ンのそ れよ り後 のもの と言 い うる。 しか し、ベル リンの 「分離」 の内実は1892年

に端を発す る。このことは、WienerSecessionの 活動 を文筆面 か ら支 えたルー トヴィ ヒ ・ヘ ヴエ

シの1897年 の論説 「ウィーンの,,Sezession``(Wiener,,Sezession``)」 に も確 認で きる。そ こでヘ

ヴエシはベル リンの 「11人組」もウ ィーンに先行す るSezessionだ と している。6同 様 の 「分裂、

分離」の動きは、 ドレスデ ンそ してダルムシュタ ツ トな ど主に ドイ ツ語圏の芸術界 にお いて起 こ

っている。

4た とえば、白石博三は、ニコラウス ・ペヴスナーの翻訳に際 して 「ゼツェッシオン」を使用。ニコラウス ・ペヴスナー 『モダンデザインの展開』(白石博三 訳)み すず書房、(1957聯 姻2003年,ま た、太田實

も、ジークフリー ト・ギーディオンを翻訳する際 「ゼツェッシ ョン」としtジ ークフリー ト・ギーディオ

ン 『空間 ・時間 ・建築』(太田實 訳)丸 善(1969年 ネi嚇02000年 、森田慶一は 「ゼツェッシオン」 として

いる。森田慶H『 西洋建築史入門』東海大学 辻版会(1971年 初版)1997年,さ らにゼツヱソションと分離

派が併記される場合もある。石田潤一郎 ・中里理編 『近伏建築史』昭和堂(1998年 初版)2004年 。

LexikonderKunstbegr�detuG.Strau゚.Hrsg.vH.OlbrichetaLM�chen(Dt.Taschenbuch-Uerl)

1996,Bd6,5.627f.6Hevesi ,Ludwig:DieWiener。Sezessio㎡`.In:Ders.:AchtJahreSezession.Wien(C―Konegen)1906

[Khgen㎞(Ritter)1984],S.1―4,hier,Sユ.

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ヘ ヴエシ と同 じくWienerSeoessionの 運動 に参力日した文筆家ヘノレマン ・バールは、1897年 の

グル ーフ誕 生直後、論 説 「我 々のSeoession(UnsereSecessic)n)」 を書 いた。そ こで彼 は、つい

に ウィー ンに もSecessionが 誕生 した、 とグループ誕生 を高 らかにウィー ン市民 に告げ、 「我 々

のSecessionは パ リや ミュ ンヘ ンのSeoessionと は別物 だ」7と 述べ ている。 この表現 の意味す

る ものは、Secessionと い う名 が ウィー ンに独 自のものではない、 とい うこ とである。

ドイツ語表 記で は、本来Sezessic)nとzで 綴 るが、オ0ス トリアではzをcに 代用す る習慣が

あ るた め、 ウィー ンにお けるSezessionはSecessionと 綴 られ る。Sezessionと は、 ラテ ン語の

secessereに 起源 を持 つ 「分 裂、分離 」を意味す る言 葉で あ り、官展 を主催す る保守的 なアカデ

ミーか らの離 説を信 条 と して、 グルー プが掲 げた名称で ある。

ヘ ヴェシがバール の よ うにSecessionと 綴 らず 、。Sezessio㎡`と括 弧付 きで綴 つているのは、ベ

ル リンや ミュンヘ ン、パ リの動 向 をそ の言葉 自体 によって示 し、も とよ り当時の西欧 の造形芸術

に見 る一般的傾 向 とと らえていたか らであ る。8こ の ように、国を超 えた流れに乗ってWiener

Secessionは 結 成 され、 まだ結 成時にすでに 自分た ちは 「遅す ぎた」9と い う意識を抱 えていた

とい うことは興 味深 い。 「我 々 のSecessic)nは 全て を模 倣 した に決 まってい る と人 々は言 う」、

「我 々のSecessionは パ リや ミュンヘ ンのSecessionと 同等 だ と人々は考 えてい る」 ともバール

は書い ている。10ウ ィー ンのSezession運 動がオース トリア のナシ ョナ リズム をしば しば強 く打

ち出 している ことは、WienerSecessionに 関わった文筆家 た ちが残 した数々のテ クス トに読み取

れ る ところであ り、 とりわ け機 関紙 『ヴェル ・サ クル ム』の第4R欠 に数々寄せ られ ているテ ク

ス トにその傾 向が強い。11

バール の前述 の生々 しい感 庸 とは裏 腹に、19世 紀後半か ら20世 紀前半にか けての ヨーロ ッパ

にお ける数 々のSezessionの なかで も、 とりわけてWienerSecessionを 日本は受容 してきた歴

史 を持 つ。

1.『 広辞 苑』にお けるWienerSecession

1,1.ク リム トのWienerSecession

そ の ことは、 日本 の辞 書 ・事 典においてWienerSecessionが どの よ うに記 述されているのか

7Bahr ,Herma皿:UnsereSecessic)nh:Ders.=6㎞ 甑αLWien(WienerVlg.)1900,S.6-10,S.7,8バ ールはWienerSea∋ssionに ついての論説を集めた書を1900年 に出版 してお り、そこではSecessionと綴

つている。もつとも、新間においては、Sezessionと綴つてもいたようだ、西村雅樹 「ヘルマン―バールが分

離派 「日本展」に観たもの」:『人文知の新たな総合に向けて ― 第二回報告書W〔 文学篇1論 文〕』京都大

学文学研 究科21世 紀COEプ ログラム2004年 、145―163頁所収、162真sBahrUnsereSecession ,5.7.10Eb(工

uVerSacrum;ZeitscllriitderITereinigungBildenderK�stlerOsterreichs .Wien,Jg.1.1898.

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を見れば分か る。『広辞 苑』は、第一版か ら最 新の第 六版ま で一 貫 してWienerSecessionを 指 し

示す言 葉 を見 出 し語 と して挙 げてい る。 それ らは版 に よ って異 同 が あ り、そ の異 同が 日本 の

WienerSeoession受 容 を物語 っている。2008年 に出版 され た最新 の第六版 では どの よ うになつ

ているので あろ うか。

ゼ ツェッシ ョン[Sezession(ド イ ツ)](分 離の意)十 九世紀末 か ら、 ドイツ ・オース

トリア各地 で起 こつた反官展 の芸術運動 。古い体 制 を否 定 し、新 しい展覧会組 織を 目

指 して、前衛芸 術への道 を掘 ・た。 各国に波及 、建築や デザイ ンに大きな影響 を与え

た。分離派 、セセ ッシ ョン。12

「反官展」 とい う言i葉に注 目 したい。 「官展」 とは、 「官主催 の美術展 覧会」13で ある。 『広 辞

苑 』で同 じ 「官展」 によ り説明 され る見出 し語は 、ま さしく先 にも触 れた、バールの言 う 「パ リ

のSecession」 、SocietedesArtistesIndependantsで あ る。 『広 辞苑1で は 「ア ンデパ ンダ ン」

とカタカナ表記 され 、「官展の審査 に反対 して印象派 の画家 な どがパ リで独立美術展 を開い」た14

と説明 してい る。 こ こに 「反官展の芸術運動」 とは 「画家」 の運 動で あるこ とが明示 されてい る

よ うに、「宮展」には、建 築 ・工芸 とい うよ りも、絵 画美術 の響 きがあ る。現 代の 日本で は、Wiener

Seoessionと い えば、 クリム ト、シー レな ど絵画芸 術を中心 とした運動 であろ うと考えてい る人

も多いのではないだ ろうカ㌔WienerSecessionの 代表的人物 とは、画家 グスタフ ・ク リム トだ と

い うのが、一般 的なWienerSecessionイ メー ジで あ るよ うに考 えられ る。『広辞i苑』第 六版 か ら

も、 「反官」 とい う言葉 にその ことが読 み取 れ るで あろ う。

しか し、第六版以前の 『広 辞魂』 ではまった く違 つた説 明がな され ていた。第 二版 か ら第五版

まではPql―頃が変 わつた りす るだけでほぼ同 じであ る。

1.2lSezessionかSecessionカ 、

『広辞剋 第 五版における 「ゼ ツェ ッシ ョン」 は以下 の通 りで ある。

ゼ ツエ ッシ ョン[Sezession(ド イ ツ)](分 離の意)一 八 九七年 ウィー ンでオ ッ トー ・

ワグナー(OttoWagner184-1918)を 中心 とす る都 ・芸術家 たちが興 した、機 能 性 ・

合理 性を重 視 して過去の美術様 式か ら分離 しよ うと した建築 上 ・美 術工芸上の運 動,

u『 広舌醐 第六版、岩波書店2008年 、1571頁 、13同上、642頁 。14同上、115頁。

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各 国に普 及、建築 やデザイ ンに大 きな影響を及ぼ した。 分離派、15

zを 使 った ドイ ツ式 の綴 りを添 えてあ るものの、「ウィー ンで」と限定 されてい るので、まぎれ も

な くWienerSecessionを 指 してい る。 中心人物 として名 の挙がつてい るオ ッ トー ・ヴァー グナ

ーは建築家で ある。 先に述べ た よ うに、ク リム トをWienerSecessionの 中心人物 と見る人 は、

この 「オ ッ トー ・ワグナー」 とい う名前 には非常 に驚 か され る に違 いない。 「機能 性 ・合理 性」

を重視 した 「建 築上」の運 動 と して い るところか ら読み とれ るとお り、これ はWienerSecession

を建築 ・工芸運動 と見てい る。

ヴァー グナー とWienerSecessic)nの 関わ りの深 さを重視す る研 究者は多い。16し か し、広 辞

苑 の説明 には明 らかに誤 解を招 きかね ない点 がある。ヴァーグナー はそ もそ もグルー プ設立 メン

バーで はない。上記 の表 現か らす る と、彼 が中心 となつてグル ープ を 「興 した」かのよ うに読 め

る。そ もそ も、彼 がWienerSecessionの 会員 となつたのは設 立よ り二年 後の1899年 のこ とで、

その時彼 は58歳 であ った。58歳 の人 物をはた して 「都 ・芸術家 たち」に含 めるこ とが出来 るだ

ろ うか?「 興 したJの で はな く、彼 はむ しろWienerSecessionの 若者 たちか ら影響 を受 け、グ

ノレープ に加入 した とい う解釈 もあ るほ どなのだ、nWienerSeoessionに 関わつた建築家 は ヴァ

ー グナーだ けでな く、 ヨーゼ フ ・マ リア ・オフレブ リッヒや ヨーゼフ ・ホ フマン といつた人物 もい

た。 この二人は、いず れ も、当時若 かったか ら 「若 い芸術家」 と言 え るだろ うし、いずれ も設立

メ ンバー であるか ら 「興 した」 とい う動詞 もふ さわ しい。 にもかかわ らず、なぜ ヴァー グナー な

のか、とい う点 には後 ほ ど触れ る こと として、さらに、も うひ とつの奇妙 な点について述 べたい。

先 にも言及 した よ うに、 「過 去の美術様式か ら分離」 しよ うとす る行為 は、WienerSθ α器sion

が初 めで はない。パ リや ミュ ンヘ ン、ベル リンにお いてすで に先行 して 同種の運動 があった、と

りわ け、ミュンヘ ンやベル リンの運動 の方 は、綴 りが多少 異なる としても同 じ名前 を戴 いている。

に もかかわ らず 、上記 の引用で は、 ウィー ンの 「ゼ ツェ ッシ ョン」運 動 を祖 として各 国に甑 し

たか のよ うに記 してあ る。

つづ いて 『日本 国語 大辞典』(小 学館)を 見 てみ る。 見出 し語 「ゼツ ェシオ ン」の説 明は以下

の通 りで ある。

15『広辞苑』第五版、岩波書店1998年 、1496頁,16例 えばヴァイセ ンベルガーの次のような言蒐 「ウィー ン分離派はヴァーグナーなしには考えられないし、

ヴァーグナーはウィーン分離派なしには考えられない」。Waissenberger,Robert:DieWienerSecesson.

Wien/M�chen(Jugend-und-Uolk-Uerlagsgesellschaft)1971,5.16.17シ ョースキ―は、ヴァーグナ ーがい脳 こWienerSecessionの 若者tこちから影響を受けたかを繰 り返 し述べ

ている。Schorske,CarlE.:翫 痴 萄蝕 ㎞a∫ 踊 振㏄囲(1(弛1餓LondQn(WeidenfeldandNicoLson)

1980,S.84ff.Schorske:(漁)Wagner.ln:MarmillanEn(獅 雌 曲(ゾ舳 悔c蝕E(lbyAKPIa㈱k

NewYork(F4eePr.)1982,UoL4,5.357-361,5.359.

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ゼ ツェシオ ン[ド イツSezession]19世 紀 末、オース トリアの ウィー ンに興 り、 ドイ

ツ、オー ス トリアの各地 に広 が った芸術革 新運 動。 またその 団儀 過去 の様式 か らの

分離 をめ ざ し、絵画 ・建 築 ・工芸 な どの多方 面にわた つた。分離 派、セセ ッシ ョン。18

こち らで も、zを 使 つた ドイ ツ風Sezessionを 示 しなが ら、WienerSecessionを 指 している こ

とは間違い ない。また、『広辞剋 第五版 と同様 に、 「ウィー ンに興 り」、「ドイツ各地 に広が った」

として、WienerSeoessionに 先行す るミュンヘ ンや ベル リン、パ リの状況 を述べず、ウィー ンを

「分離」運 動の元 祖 としてい る。 ウィー ンの後 に結 成 され たダルム シュタ ッ トや ドレスデ ンにお

けるSezessionは 、 ヨー ロッパ全体 の相互的 な影響 の下 に生 まれ た ものであって、ウィー ンのみ

の影響 を受 けて起 こつたとは本来言い難い。なぜ 、 目本 の辞典 がそ ろって この よ うな間違 いを記

す のであろ う�キ 筆者 の ミス としてお くこ とは容易で あるが、 日本 のSezession受 容 の歴史 を

紐 解 くと、これ が単な る間違 いではないこ とが分 か る。先に述べ た よ うに、 ヨー ロッパ にお ける

複 数のSezessionの 中で、と りわけ ウィー ンのSezessionの み を 日本 は受容 して きた。『広辞琴糊

第六版 ではイ1鉦され 、曖昧に されてい るものの、そ の よ うな 日本 にお けるWienerSecession受

容 をこそこれ らの辞典 の記述 は示 してい るので ある。

『広舌側 第 六版に も、『日本 国語大辞典』 の引用 にも、最 後 に 「セセ ッシ ョン」 とい う言葉

が添え られてい る。1955年(昭 和30年)発 行 の 『広舌側 の第一版 においては、 この見 出 し語

「セセ ッシ ョン」 によってWienerSecessionが 説 明 され ていた。

セセ ッシ ョン[secession](分 離の意)建 築 ・美術 ・工芸上 の一種 の様式,1897年 ウ

ィーンで建 築家 ・画家 ・彫 刻家 ・工芸家が、 旧来 の美術 展覧会 か ら分離 して新 たに起

した革 新運動に基づ く。 その根本精神 は 「芸 術を支配す るものは唯 必要のみ」 の標語

で、形態及び色 彩の単純化 をモ ッ トー と し、矩形 の よ うな簡 単明確 なもの を基調 とし、

煩雑 に陥 るのを避 け、頗 る瀟洒 な感 を与 えた。 「型な き型 」を理想 とす る。分離 派 、19

第五版や 第六版 よ りもい ささか 長い説 明文で ある。使 われ てい る言葉 が全 く異な ってい るこ と

にまず 驚か され る。見 出し語は、第 五版や 第六版 、『日本国語大 辞典』に見 られ るよ うに、 「ゼ ツ

ェッシ ョン」 「ゼ ツ ェシオン」 とい うrセ 」 を濁 らせ たカ タカナ 表記 ではない。 「セセ ッシ ョン」

とい う表記 が、zで はな くcに よるオース トリア風 の綴 りと共 に登場 している。 この 「セセ ツシ

18隔 選版 日本大国語舌側 小学館2006年 、第二巻、969頁 、19『広辞苑』第一版、岩波書店1955年 、1203頁 、

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ヨン」 こそが、1900年 代初 めの 日本 において、WienerSecession結 成 とほぼ同時期に受容 され

たSezessionの 訳語 であった。

2.「 セセ ッシ ョン」 の登場

2.1l言 葉 としての 「セセ ッシ ョン」

とはい え、 「セセ ッシ ョン」 と同時期 に 「アー ル ・ヌー ヴォー」 とい う言葉 も 日本 に紹介 され

てい る。 しか し、言葉 の上で は、 「セセ ッシ ョン」の方が 「アール ・ヌー ヴォー 」 よ りも長 く生

きなが らえ、の ちには戦前 の ドイ ツ表 現主義の影 響 を受けた建築を も包含 する言葉 と して使 用 さ

れた。

1934年(昭 和9年)に 建築家遠藤 於菟が、明治 ・大正の建築を回顧 して述 べた次の よ うな言

葉 は、 「アール ・ヌー ヴォーJと 「セセ ッシ ョン」の登場 を簡潔に示 している。

明溜 寺代 「リネ ツサ ンス」 の飽 き られた時代に 「アルヌ ーボ ド(マ マ)」 が一寸顔を出

し、 〔… 〕次で 「セ セ ッシ ョン」が現 はれ、 これは梢行 はれ得 る様式 とな りま した。⑳

「リネ ツサ ンス」 とは、明治 の 日本 が国 を挙 げて国家機関の建築物 に適用 した歴 史主義建築 を

指 している と思われ る。21「 アル ヌーボ ド」 とは、ArtNouveauに 勘違い して 「ド」の音 を入れ

て しまつたので あろ う。 日本 におけ るアール ・ヌー ヴォーの影 響 とい うテーマ は、今 日ではすで

に詳 細に研究 され てい るが、 これ までのアール ・ヌー ヴォー研 究にお いては、 「セセ ッシ ョンj

も 「アール ・ヌー ヴォー 」の一部 と してみ な され てきた。盟 「セセ ッシ ョン」について、現在の

ところ、歴史 を追 って体系 だてた もの はない。こ うした状況 は 「ア ール ・ヌー ヴォー」を19世 紀

末 の国を超 えた現象 として捉 える便 宜上の名 称 とすれば、当然 の結 果で はある。お 本稿 はこ うい

つた視 点か らの研究 ではない こ とをあ らか じめ断っておかねばな らない。一般的 な用語 として の

広義 な 「アール ・ヌー ヴォー」が存在す るが 、%こ のタームは、先 に述べた よ うに、後 の時代 の

20遠 藤於菟 「大震災前鉄筋コンクリー ト造の経歴1:『日本建築±』1934年11月 号、149―164頁所収、149頁、21古 典主義と言ってもよいが、明治の同時代の西洋の建築事情は歴史主翻 到であつた点を考慮 して、ここ

では歴史主義としてお く。盟 「日本のアール ・ヌーヴォー展」図録や土田眞紀の著書を参照のこと。『日本のアール・ヌーヴォー1900-1923一 工芸 とデザインの新時伏』(展覧会カタログ)東 京国立近f灘 徹2006年 。土田眞紀 『さまよえる工

藝l柳 宗悦と近代』草風1官2007年 、幻広辞苑にも 「アール ・ヌーヴォー」は載っているが、「19世紀末、イギ リス ・ベルギー ・フランスに興 り、

〔… 〕 ドイツ ・オース トリア ・イタリアに波及した」思潮なのである。『広辞苑』第五版、2頁,盟 もともと否定的にとらえられていたアール ・ヌーヴォーが、その対象範囲を拡張することにより肯定的に研

究されるようになったのは、主に1960年 代頃からと言えよう。 この再評価は、当時流行 していたデザイン

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視 点か ら定 義 され た も ので あ り、先 の遠 藤 於菟 の 「アル ヌ ー ボ ド」 と は別 の 次 元 に 属 して い る。

こ こで 取 り扱 い た い の は 、あ くま で 同 時 代 の 一 次 文 献 上 のWienerSecessionを#艪キ 言 葉 の意 味 ・

内 容 で あ る。25

2.2.「 ア ール ・ヌー ヴォー 」

WienerSecession結 成 よ り三 年 後 の1900年 に は 、 す で に ヨー ロ ッパ に お い て 、Wiener

Secessionの 隆 盛 を 目撃 した 人 々 が い た。1900年 とい え ば 、パ リで 万 国 博 覧 会 が 開 催 され た年 で 、

そ の 見物 の た め に 多 数の 日本 人 が渡 欧 して い る の で あ る。そ の 多 くは 官 命 を受 け て渡 欧 した の で

あ り、 西 洋 の 建 築 や、現 在 で い う とこ ろ の デ ザ イ ン、 す な わ ち 、 「図 按 学 」研 究の た め の 渡欧 で

あ った。 彼 らが 見 た 博 覧 会 は 、 「アー ル ・ヌ ー ヴォ ー 博 」 と形 容 され る ほ ど、欧 米 の 各 国 が19世

紀 末 よ り盛 ん で あ っ た い わ ゆ るアー ル ・ヌ ー ヴォ ー 的 な様 式 で も つ て 各 会 場 の 意 匠 を埋 め尽 く し

た もの で あ っ た。26

オ ー ス トリア の 意 匠 を主 に 担 当 した の は 、WienerSecessionの 代 表 人 物 、 ヨー ゼ フ ・マ リア ・

オ ル ブ リッ ヒや ヨー ゼ フ ・ホ フマ ンで あ る。 フ ラ ンス ・ベ ル ギ ー の ア ー ル ・ヌ ー ヴォー の 強 い影

響 を受 け た 、 曲線 的 で装 飾 的 な各 国 の 傾 向 と、彼 ら ウ ィー ン の 芸 術 家 た ち の意 匠 は 、 ま っ た く趣

き を異 に して お り、 簡 素 な も の だ つ た。27WienerSecessionの こ うした 特 性 は 、世 紀 を 超 え る

と直 線 的 な傾 向 を と もな っ て い よい よ そ の特 性 を 強 め 、 ア ー ル ・デ コ の 先 駆 け と して も訓 面され

る。 お

シ ュテ フ ァ ン ・ト ゥデ イ ・マ ドセ ン やmベ ル ト ・シ ュ ム ッツ ラ ー の 定 義 に よ れ ば フ ラ ン ス

の 曲線 的 なア ー ル ・ヌー ヴ ォ ー は 「盛 期 ア ール ・ヌ ー ヴォ ー 」、 一 方 、 ホ フ マ ンの 直 線 的 意 匠 に

や ファッシ ョンス タイル がアー ル ・ヌー ヴォー に影響 を受 けてい た こととも連動 して高 まった,ア ール ・ヌー ヴォーの範囲 を拡張 し

、肯定 的にモ ダニス ム運動の始 ま りとと らえた先 駆者 と してはニ コラ ウス ・ペ ヴス

ナーが挙げ られ る。Pevsner,Nikolaus:Pioneersof、?170dezn.Design(1949;origina皿ypublishedin1936

underthetitlePioneersoftheModernMouement).NewHaven/London(TaleU.P.)2005.25長 谷川尭 も、 日本の 「セ セ ッシ ョン」が ウィー ンのSecession以 上に 「多 くの意味 をふ くんでふ くらみ、後

の大正建築 の象徴語 となった」、あ るいば 「明治末か ら大 正前半期 のアバ ンギャル ドの企 てを総称 す る呼び

名 となつた」 ことを指摘 している。長谷川尭 「大正建築 の史的素描l建 美 にお けるメ ス思 想の開花を中心

に」:『建築染翻1970年1月 号、15-25頁 所収、16頁 、及 び長谷川尭 「ウィー ンと日本 の近f懐=『 ア

ール ・ヌー ヴォー とアー ル ・デ コ』第 五集、読売新 聞社1991年 、74―76頁 所収 、75瓦

おJuliaa ,Phillips:The7rz'umpfofArt/Nouveau.London(Phaidon)1974.rVgl .:Abek,Ludwig:Wiener蹴hler肛be辻auf(lerPariserWeltausstellung.In:DasInterieurI.1900,

S.129-144,5.129

路 ベ ヴィス ・ヒリアー 『アール ・デ コ』(西 濁 言彌 訳)PARCO出 版局1990年 、20頁 。 あるいは、イ ヴォ

ンヌ ・ブ リュナメエル 『1925年 様 式/ア ール ・デ コの世 界』(竹 内次男 訳)岩 崎 美術 社1987年 、40頁 な

どを参照 こ うした直線 的な傾向は、ス コッ トラン ドのチャール ズ ・レニー ・マ ッキン トッシュの 影響 とも

多 くの研究書で指摘 され.てきた。

l66l

Page 10: Title 「セセッション」から「分離派」へ : 日本 …...がかなり一般層にまで浸透しているかに思われるその一方で、この言葉をウィーンの本家本元に

代表 され るオ0ス トリアのSecession風 の直線的 なアール ・ヌー ヴォー は 「後期アール ・ヌー ヴ

ォー」 である。29足 立祐 司に な らつて、本論 で もこの用語 を便宜的に使 うこ とにす る。30パ リ

万国博覧会 を 目の 当た りに した 日本 人た ちは、簡 素なオー ス トリア館 を も見学 したに違 いないの

であ るが、 どち らか とい えば、フラ ンスの盛期アール ・ヌ ー ヴォー の曲線 の装 飾的意 匠に注 目し

た よ うだ0フ ランスで開催 され ていた万 国博覧会 の視察で あるから当然 と言 えば当然 である。ま

た、万国博覧会の見 学のみ な らず 、彼 らはArtNouveauと い う名 の由来 となったジークフ リー

ト ・ビングのアール ・ヌー ヴォー店(L'Art-nouveau-Bing)を 訪れ た りも して いる。 この事 実に

も彼 らのアール ・ヌー ヴォー運動 への積 極性が見 て取れ、 ビングの店 を訪 ねた時の感 想 として浅

井忠の次の よ うな言葉 が残 され てい る。

同氏の仕事 は総 て一の様式 あ りて、線のず るず る延びた るぐりぐ り式 と我等は唱 え候31

これ は、1900年 フ ランス滞在 時に雑i誌 『ほ とiぎ す』 に 「巴里消息」 として掲載 され た もの

の一部で ある。浅 井忠は、また 同時期 の 『明星』 に も 「巴里消息」を執筆 してい る。 そ こで、本

研 究 にあた り1900年 の 『明星』全号 を参照 したが、自肝U号か らす でに、アル フォンス ・ミュシ

ャ風の 図版 を始 め、ま さに盛 期アール ・ヌー ヴォーの影響 を受けた に違 いない図版 があふれ てお

り、当時 の ヨmッ パの アール ・ヌー ヴォーへの 日本 の文化 人たちの関心 とその受容へ の意欲 は

並では なかった と感 じさせ られ た。そ うした状況 に加 えて 、浅 井忠 ら官命 を帯 びて万博を見学 し

た人々 は、帰国後 アール ・ヌー ヴォー を大い に図案 に応用 し、ます ます 「アール ・ヌー ヴォー式 」

を喧伝 したよ うであ る。建築 家武 田五 一がこの様子 を以下 のよ うに記 述 してい る。

明治 三十 二三年頃 には工藝 界に於いて アール ヌボー と云ふ言葉 が流行 して、何 でもか

ん で もアール ヌ ボーでな くては新 ら しい様 な心持 が しなか つた様 であ る。 〔… 〕其 の

流行 の勢 はす さま じい もので何 で も少 し攣 つたものはヌーボー式 であ るな どi云 ふた

もの 〔… 〕。32

凶[蹴hudrMadse璃Stephan=ArtNouveau .NewYork(McGraw―Hill)1967―Schmutzler,Robert:!短

Nouveau/JugondstilStuttgart(Niggli)1977.罰足立裕司 「武田五一とアール ・ヌーヴォー」:『神戸大学工学集報19号 、1981年 、125―144頁所収、125

31浅 井忠 「巴里消息」:『ほと』ぎす』第4巻 第1号 、1900年10月 、29―32頁所取、29頁 。詑武田五一 「アール ・ヌーボーとセセッション」:『建築 ト装食制 第2巻 第6号 、1912年 、19―22頁所収、19

-67一

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流行の時期を、ま さに1899年 、1900年 と限定 して い る点で貴重 な資料で ある。また、パ リ万

国博覧会の二年 後、1902年 の1月4日 付読売新 聞には 「デザイ ン時 代来 らん とす 」 とい う論説

文が見いだ され 、 「例のアール ヌー ヴォー式 ハ佛国流 行の最新模 倣」 と紹介 され ている。 武 田五

一のい う 「工藝 界」のみな らず、この時 点では、一一般的 な人 々であつ ても西洋 に関心を持 ってい

た人な らば、 「アー ル ・ヌー ヴォー」 とい う言葉 を承 知 していた に違 いない。 この ように、欧米

の 「新様 式」の うち、最初 に 日本に受容 され たのは 、フランスの盛 期アール ・ヌー ヴォーで あっ

た。それでは遠藤於 菟の言 う 「セセ ッシ ョンの登揚」 はいつで あろ う。

2.3.武 田五一 とセセ ッシ ョン

万国博覧会 の翌年 、先の引用の武 田五一が 「図按学」33の た め官命 を帯 びて渡 欧す る。謎 当

時 の 日本 ぽ 前述 の読売新聞 の記 事 曰く、 「巴里博 以来意 匠図案 の必 要亦我國 に も唱道 せ られ 、

現 に高等工業学校 にてハ特 に図案科 を設置」35す る状 況であ った。現に武 田五一 は、渡欧後、国

の直轄学校 と して1902年 に開校 した京都 高等工藝 学校 の図案科 教授 に任 命され 、36帰 国後学生

の指導 に当た った。37こ の武 田が、 「大蔵省臨時建築 部に於て 、帝国議 事堂及び諸官1吾健 築調査

のため欧米へ差 遣を命ぜ られ 、当時彼地で流行 して居 た所のセ セ ッシ ョンを研 究せ られ 、我国 に

初 めて この様式 を紹介せ られたJ路 ので ある。 もちろん、 「セセ ッシ ョン」 を 日本 にもた らした

者 は、武 田五一 だけではない であろ う。同時期 に留 学 して いた塚 本靖 らもその移 入 を援 けた と考

え られ る。39

こうして 「アール ・ヌー ヴォー」の到来直後 に、 「セセ ッシ ョン」 が 日本 に登場 した。実際 の

鋸 「デザイン」の訳語 としてまず 「図按」という言葉が当て られ、後に 「図案」となる。この経緯については、

萱野八束 『近代 日本のデザイン文化史1868―1926』フィルムアー ト社1992年 、56頁 以下を参照。鈎武田五一の還暦…を祝つて出版された作品集には、明治34年3月11日 に 「本邦出発」 とある。『武田博士作

品集』武田博士還暦記念事業刊行会1933年 、経歴、1頁 。長谷川uは1901年1月26日 に日本を出発と

している。長谷川尭 『議事堂への系譜』三省堂1981年 、187頁 』土田眞紀は、『武田五一 ・人 と作品』展

図録の年譜から武田が日本を発ったのは1901年2月 だとしている。土田眞紀 『さまよえる工藝1、39頁 。

展覧会カタログ、『武田五一 ・田辺淳吉 ・藤井厚二 一 目本を意匠した近f築 家たち』(展覧会カタログ)

ふくやま美術館2004年 、196頁によれば、1月26日 の渡航予定を延期して、3月11日 に渡欧した という。

35「 デザイン時 代来らんどむ:『読売新聞』1902年1月4日 付b

36正確には渡欧中に任命されている。37同 図案科のもうひとりの教授は浅井忠である。肥 『武田博士作品剣 の 「作品解」より。『武 田博士作品集』経歴、1頁 、39例えば 塚本靖 「蜘 纈 近の装飾に就て」1『建築雑誌1第17巻 第200号 、1903年 、3-9頁所収、3頁以下

を参照℃瀧澤眞弓は、「セセ ッションをはつきり伝え」たのは本野精吾だと述べている。森 田慶一 ・濾 睾眞

弓対談 「分離派建築会前後 ― 恩師 ・先輩 そして友達」:『建築と社会』1958年 、3月号、45―52頁所収、49

頁。石本喜久治も、1924年 に 「本里豫 授に よって」 としる曳 石本喜久治 『建築譜』分離派建築会1924

年、皿 頁、

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ところ、誰 が最初 に 「セセ ッシ ョン」 と呼んだ のか は定かで はない。 上記の よ うに武 田五 一が

WienerSeoession移 入の代表人物 とされ るところか ら、武 田五一が 「セセ ッシ ョン」 と名付けた

とされ てい るが、如 日本 人 に とっては 「ゼ ツエ ッシ ョン」や 「ゼ ツェ ッシオ ン」あるいはオース

トリア風の発 音、 「セ ツ エ ッシオン」41よ りも、「セセ ッシ ョン」の方が発音 しやすいので、その

ことも計算 したのか も しれ ない。

建 築撮 平家長 谷川 尭 は、 「セセ ッシ ョン」 とはルー トヴィヒ ・ヘ ヴェ シの書物AchtJahre

伽 醗が か ら取 った ものではない か と推 測 しているが、招 ヘ ヴエシの書物の出版 は1906年

であ るか ら、私は 、む しろ書物 か らで あれば、1900年 のヘルマ ン ・バ ールの5厩 脇b艀 か ら

想 を得 た もの と考 える。 あ るい は、武 田五+はWienerSecessionの 展覧会 を現地で観 たのであ

る し、その展覧会 ポスター を何枚 か、京都高等 工藝 学校 の教 材用 に持 ち帰 つて いるこ とは竹内次

男 に よって明 らか に され てい るので、妬 そ うした ポスター上 にもSecessionと い う綴 りを 目にし

た ことであろ う。

帰 国後、京都 高等工藝学 校の教 授 として教鞭 を とつた武 田の 「美術 工芸史」講義 の メモには、

「佛 国アール ・ヌー ヴォー 装飾乃美術 工芸 、懊国セセ ッシ ョン装飾及美術工芸」とい った言葉が

見 られ 、弱 生徒た ちに ヨー ロ ッパ の動向を紹介 した ことが想像 され る。1905年(明 治38年)、

武 田五一は福島邸 を完成す る。47こ れ は彼が ウィー ンで見てきた 「セセ ッシ ョン」を帰 国後 に応

用 した建築物 と言 われてい る。弼 同年 、先 に引用 した遠 藤於菟 による 日本 債浜銀 行集会所 も完成

してい る。これ も 「近代建築史 上にお いてアール ・ヌー ヴォー、セセ ッシ ョン といった西欧の新

狙 『武田博士作占蜘 作品解、15頁 、長谷川尭 「ウィーンと日本の近代建劉 、75頁 。「日本の表現派(上)」:

『近伏建築1第22巻 、1968年9月 号、47-72頁 所収、52頁 、41Muhr ,RudoE(ゐ 磁 曲 舳Ausspra(.hew�terbuch/ヨsterreichischeAussprachedatenbank

Funkfurta.M.(P㎞92007,5.397,皿Hevesf舳 孟癌 彪 脇"α1.註6参 照℃娼長谷川尭 「大正建 築の史的素描 一 建築におけるメス思想の開花を中心に」=『建糊1970年1月 号、

15―25魏 、25〕軋

磁Bahr:躁 鯉'an註7参 照℃菊武 田五一並びに浅井忠が教鞭を取っていた京都高等工藝学校では、二人が梅外から持ち帰ったポスターを教

材 として使っていた 京都高等工藝 学校は戦後京都工芸繊維大学とな り、現在それ らのポスターは、同大学

の美術工芸資料館に所収されている。その中に数々のWienerSecession展 覧会のポスターが含まれている。

竹内次男 「吉田から松ヶ埼へ 一 京都高等工藝学校の事跡 で巡 る関西デザイン界の一断面」:『近f灘 融 に

見る生活革命』(展覧会カタログ)宇 都宮難i館2000年 、6-13頁 所収、及び、「武田五一、そしてボスター」=『ウィーン分離派1898―1918』(展覧会カタログ)東 京新聞2001年 、177-178頁 を参照

妬 『日本のアール ・ヌーヴォー1900―1923』、43頁 。47竣 工年は明治38年 説 と40年 説があるが、ここでは近江栄と堀勇良が搬 昌する38年 を取る。近江栄/堀 勇

良 『日本のモダニズム』三省堂1981年 、94頁 、娼 『武田博士作品集』作品解、15頁,

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様 式を最 初期 に反 映 させ た作 品」犯 と して名高い。ま た、それ 以前の1903年 完 成の 日高絆設計

に よる神 本理髪 店 も 「アール ・ヌー ヴォー 、あるい はセ セ ッシ ョンの影響 がそれ な りに咀囑 され

た最初の作品」wだ とい う。 これ らの作品 を始 め として、こ うして 「セセ ッシ ョン式 」と呼ばれ

る建築物が 日本 に建設 され始 めた。

2.4.セ セ ッシ ョンが我 が国で好 まれた理由

WienerSecessionが 日本で受け入れ られ るこ ととなった、 そもそ もの契機 は何 であ ったの カ㌔

パ リ万国博覧会 と同年 の1900年 、WienerSecessionは 第六 回 目の展 覧会を催 す0そ れ は、 日本

の工芸品や絵画が展示 された展覧会 であった。WienerSecessionの 日本展 といえば、 この1900

年 の展覧会を指 し示すほ どに、現代の ジャポニス ム研 究のsか ら非常 に重 要視 され るもので あ

る。

ルー トヴィヒ ・ヘ ヴェシがその展 覧会の始ま る直前 に 「目本 のSezession(DieSezessionin

Japan)」51と い う論説 を書いている。 そ こで彼は、黒 田清輝の 白馬 会 を 日本 のSezessic)nと し

て紹介 してい る。遠 く離 れた 目本 にも同様 の 「分離 」 とい う現象が起 こってい る、我々の運動 は

そ んなに遠 くまで広が つてい る、 と述べ る。

さらにヘ ヴェシは、ジャポニスムが、WienerSecessionを 含む新 しい運動 、いわゆる 「アール ・

ヌー ヴォー」運動 の創造に大い に寄与す るところが あった点 を指 摘 し、「日本人 たちは我々の 『新

しv様 式』 を不 思議 が り、そ して これはそ もそ も私 た ちの 『古い様式 』 なの だ、 と思 う」、今 回

の分離派展 で見 ることができ るのは、 日本人た ちに とってのそ うした 「古L様 式」なので ある、

とヘ ヴェシは締 め くくってい る。52

ここにほの めか されて い るのは、 日本が 参加 して ジ ャポ ニス ムの 流行 の きつか け を作つ た

1867年 のパ リ万国博覧会53以 降のジ ャポニ スムの結 実 と してのSeoessionsstilあ るい はアー

ル ・ヌー ヴォー、とい う見方なので ある。リヒャル ト・ムー ター がかの 『19世 紀 絵画史(Geschichte

derMalereiimXIXJahrhundert)』 第二巻 に 「日本人 たち(DieJapaner)」 とい う章 をも うけ、

1867年 のパ リ万 国博覧会以降 のジャポニ スムの 隆盛に触 托てい るの も、そ うした西洋 にお ける

⑲ 近江/堀 『日本のモダニズム』、107頁 、50森 田―敏 「建築のアルケオロジー、⑨ 日本のセセッション、分離派エ トセ トラ ー 饒舌なる建築家の誕生」=

『SD』1982年7月 号、39頁。この他にも、武田の京都府立記念図書館(1909年)や 斎都商品陳列所(1910

年)、京都商工会議所(1915年)な どにもWienerSeoession色 は濃厚と言えるだろう。『武田博士作品集』、

18頁 、19頁 、21頁 以蕊

51Hevesi:DieSezessic)ninJapan .In=Ders.:AchtJahreSezessi●on,5.216-222,hier,S,216.s2Ebd .,5.222.闘 このときは藩からの参加であつた。国家としてはじめて参加 した1872年 のウィーン万国博覧会においても、

日本の出展作品が大きな人気を博 したことはよく知られている。

-70一

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東洋への注 目を示 してい る。騒

そ して、 この見方 は西洋 か らのみ の見方ではなかった。明治後期か ら大正 にか けて 「セセ ッシ

ョン」を受容 した人 々も、 日本 人で ある自分 たちが今受容 している様式 が、もともとは 日本 が生

み出 した ものか らヒン トを得 て作 り上 げ られ たものだ とい う意識 を強 く持 つていた。例 えば、先

に言及 した、1900年 の1月4日 付 読売新聞 「デザイ ン時代 来 らん とす」の記事 には、「此 く我 古

代の製作 も一 たび 佛人の意 匠に触 るれ バ、忽 ち新 奇の畜風 とな る、當意匠の力な りと謂 は ざるべ

か らず」55と い う一節 が ある。 「古代 の製 作」とは、ヘ ヴェシの 「古い様 式」と似た表現であ る。

同記事 中、さらに、 日本 の 「古 代の製作」はすでに 「光 琳、乾 山、抱 一等 」船 によつて意匠化 さ

れてい るのだが、それ が 「佛 国で成 され 」た のが 「一種新奇 のアール ヌー ヴォー式 と化 けたる も

の なるべ しとの説 眞 に近 きが如 し]と 述べ てあ り、非常に興味 深い。続 いて、浅井忠も1906年

に以下 のよ うに述 べ てい る。

〔明治〕33年 の巴里大 博覧会で、アール ・ヌー ヴォーだの、セsッ シ ョンだのいふ斬

新 な図案 が発表せ られ 、我 国か ら観覧 に出かけた実業家連 が大 に簿 ・たが、我 もまた

非常 に鱒 ・た。 〔… 〕か く西洋人 が支那 、 日本 、朝鮮な どの東洋趣味 を参酌 して、あ

れ ほ どまで研 究 して ゐた とは思ひ もよ らなかつ た。57

こち らでは 「アール ・ヌー ヴォー」 と 「セセ ッシ ョン」は共 にジ ャポニスムの成果 として同列

である。 また、1912年 、伊 藤忠太 が以下の ごとくに述べてい る。

日本 で西洋西洋 と云 ツて居 る問に、西洋では東洋東洋 と叫んだ、 日本 で西洋趣 味の吸

収 に忙が しい 間に、西洋 で は東洋趣 味の研究に熱 中 した 、セセ ッシ ョンは即ちその産

物 の一で 癬IJに 生 れたの は僅 に十年絵の昔であ る、 〔… 〕このセセ ッシ ョンが我 國

に於て漱迎せ らるべ きは當然 である、元来東洋趣味 を撮取 して造 ツた ものだか ら東洋

の本場で嫌 はれ る筈 はない、 〔… 〕勿論彼の軽薄浮華の似 而非セセ ッシ ョンの如きは

余 の極 めて苦 々 しく思ふ 所 であ る、 〔… 〕要す るに西洋 では既往 の建築 様式 の圏外 に

新 天地 を求 めん と欲 し、 日本 では弦に新 日本の新 建築様式 を創建せ ん と欲 して居た虚

54Muther ,RiChard:G?曲bchteder蔵1θrei'im.XZXJahrhimdertMin(ihen(G.Hhth「sK㎜stverla9)1893,

Bd.2,S.583ff.目 次には、章題の下に、「1867年のパ リ万国博覧会がヨーロッパに日本人についての知識を

広めた」とある。Ebd,S.W■.M「 デザイン時代来 らんとす」:『読売新聞』1900年1月4日 位

施 尾形光琳、尾形乾山、酒井抱一のこと。57黒 田天外 「名家歴訪録 浅井忠氏(三)」1『京都 日出新聞』1906年9月9日 イta

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に、東西 に共通 し得べ きセセ ッシ ョンを案 出 し得た のは面 白い ことで ある、東 西意 き

投合 して相 伴ふて新天 地開拓の道に進む こ とが出来 たな らば、 これ程 目出度 い ことは

無 いであ らう。腸

また、セセ ッシ ョンを流行 させ た仕掛 け人 とされ る武 田五一 も、1932年(昭 和7年)、 「欧 洲

を巡 りてjと い う論文にお いて、「所 謂セセ ツシ ョンと稻す る ウイ ンで狐々の聲 を塞 げま した人 々

は 、是亦 日本 の様 式か らヒン トを得 たの で あ ります 」59と 書 い た。ArtNouveauに して も

Sezessionに して も、 もともとは 日本の ものか らヒン トを受けて創 り出 された ものなの だ とい う

ことに対 して当時の人 間は非 常に鱒 ・たのである。 とい うの も、彼 らはその折衷 の巧み さ、デ ザ

イ ンの力には感 嘆 していたか らである。その巧み さか ら西洋 を学 ぼ うとした ときに、自 らの風 土

を省みた結果 、先の武 田五一の建築 作品に も見 られ るよ うに、アール ・ヌー ヴォー よ りもセセ ッ

シ ョンが 目指 すべき方 向 と、選び と られたのであ る。 この点 につい ては3.3.に も詳 しく述べ

ることにする。

3.セ セ ッシ ョンの流行

3、1.「 せせ っ志 よん號 」、セセ ッシ ョン博 、朔 太郎

1912年(明 治45年)、 雑 誌 『建築 ト装 飾』が第2巻 第6号 で 「せ せっ志 よん號 」を出版 した。

前述の武 田五一は じめ、武 田と同時期に洋行 していた塚 本靖、武 田よ り年配者 の、明治 よ り活展

していた建築界の重鎮伊東 忠太、さらに岡 田信一郎や 田辺淳 吉 な ど、主 に建築家 たちが 「セセ ッ

シ ョン」 とは何 かを寄稿 してい る。当時いかに 「セセ ッシ ョン」が求 め られてい たかを うかがい

知 ることの出来 る貴重な資料 である。刊行 の辞 として、

セセ ツシ ヨン式の形式 を學んで能 く其 の精神 を究 め更 に其 の精神 よ り形式 を創 む るこ

とは我國建築様式慌 創 の第一歩 である。60

と宣言 され、巻頭 には、 「代 表的セセ ッシ ョン的建 築圖(へ 一 グ平和宮懸賞第 四當選)」 と題 され

たオ ッ トー ・ヴァー グナーの図面が折 り込まれてい る。 ヴァー グナー につい ては、テ クス ト中に

も何度 もその名 前が登揚 している。

冒頭において、『広辞苑』第五版 にWienerS㏄essionのf煉 はオ ッ トー ・ヴァー グナ ー とされ

ss伊東忠太 「セセツションに就て」1『建築 ト装鰯 第2巻 第6号 、1912年7月 号、1・2頁所収、1頁以下。ss武 田五一 「欧洲を巡 りて」=Ekcsu1932年6月 号、1・10頁所収、4頁 、60『建築 ト装飾1第2巻 第6号 、冒頭、

l72―

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ている点 を指摘 した1910年 頃の 日本においては、確かにそ うみな されていた ことがここに認

め られ る,61こ の}}に は増 襯iナ{が発行 され てお り、その版 にはあらたに本野精 吾(当 時京都 高等

L藝 学校教授)にkる せせ っ志kん 號 に就て」62と い う文章が加 えられた これ は、 「せせ っ

志 よん號」にお いて 、いかにいい加減 ノ亡惰報が書 き散らされていたか をi"]!-E・しそれ を正そ うとし

た もの であろ,増 補をr巨れ た とい テ ド実 だけでな く、本野*'iisiの激 しい口調か ら も、 この雑 誌が

いかに読 まれ 、議論 を巻き起 こ したかを測 ることがで きる,「

・. 、 「せせ っ、巴ミよん號 上の=年 後の1914

藍 灘 ・1・(柾3年)、3月2・ 日か ら7」j曲で

、.31日 にか けて 、東京 大正博 覧会が開恥 ト・ 臨 ㌔

,ウ

ゐ 島 互 レ 聰'燭 催 され た これ は 「セ セ ッシ ョン 博」

一匿勘L一 卜 渉

議'と 称 され る ほ どに 、WlenerSecesLgion

""}.『,の 影響 が 鮮 明 に 現 われ た 勧 業 博 覧 会『、;

「。、,で あ った 勧 業博 覧 会 は 明 治 よ りた び

'・ ∵ ゴ 磯 潔 拶}SlllX{Wliた び そ」わ れ 、'lill細)般 的 な 世相 を 良

レx販 大lL:殉 勧 紺1慨 会 く 表 した もの と 考え られ る ので 、こ こ

に 「セ セ ッシ ョン 」の 人気 は い よ い よ

確 か め られ るで あ/)う

1914年 、 詩 人萩原 朔 ・kJ'll;it、『建 築 ト装 負制 の セ セ ッシ ョン特 集 を 見て 、 前橋 市の 自宅 を 内 装

した ら しいi:1親 交の あ っ た室 生1・ll星が 、そ の 部 屋 の 様r一を 「萩原C・,)部屋 は 何 か ら何 まで セ セ ッ

シ ョン式 でj… ど後 に 回想 して い る とは い え 、箱 際の せ せ―っ,よま ん 號1だ け を以 て して は セ

セ ッ シ ョン式 を どのkう に 遂1「1ゴtば 良 い のか は 具1せ珀{」に はkく わ か らな か った に 違 い な い が 、

朔t植ISが せ せ っ志k/し 號1を 読 ん で い た とい ケ 卸―実 、 並 び に 勧 裳博 覧 会 もセ セ ッシ ョン式 で あ

っ た とい う'1渓 は 、セ セ ッ シ ョン 式が 建築 ・1並 寒界の み な らず 、 文化 人そ して 般 の 人 々に も興

味 を持 た れ て い た こtを 示 してい る 朔 人郎 は 、 「セ セ ッ シ ョン 博1を 犀}IIヒ 連 口見物 した そ う

で あ ろ。(尚

硯 オ ッ トー ・ウ ノ~一クナー-σン噛乏容に')し・ごは 後に も述ぺ る

に 本野清 吾ft1'lt'"志Lん 號に就て1:[1建,羊ヨ謬額帽 第2巻 第61J増 補蔽 、1・6頁川収 この 文章1ま、第71}―

11Iyil'liこも月慈貞きオ1こ『し・る

dls徐載坤 ヘイ―仁=―t'L二しての朔 乏\1'lll『ヒセ ・ノション と・ノ)関わ りを中心 に 、:『1財」見代11}1歌研 究』5号 、2002

年、39・55ド〔崩k.15ピ 〔1・1室'}揮星 詩 人 萩1!}輔取"ll;,:IL新1朝1第590号 、1954年6)];」 』、77-1()3t'btJlll(、78頁

+L3待こ「/、イオ∵=アt【 て〔ノ)面-Wlllj、ltiiL45頁

―73―

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3.2.文 学 テ ク ス トに あ らわ れ る 生活 様 式 と して のセ セ ッシ ョン

セセ ッシ ョンが この よ うに 求 め られ た 背 景 を 考え てみ る と、 当時 、住 宅 を 洋 風 にす る とい う選

択 肢 の 登場 した こ とが 思 い 浮 か ぶ 明 溶1鍬iこ ぱ 自庁 の 様 式 で あ っ た 西洋 の様 式は 、大 正時 代 に

な っ て個 人 に も 劇受で き る もの とな った の で あ る.ヒ 記 の 朔MllSu)セ セ ッ シ ョン式 の 部屋 とい う

の も、 ま さに そ う した 時代 の 産物 とい え よ う,洋 風 とは い え 、 具体酌 に どの よ うに す るか 、 とい

/)た 時 に 、 「セセ ッシ ョン 」 とい う 「操iが しば しば 人 々の 口に トった と 考え られ る 、当時 は情 報

量 も少 な か つた で あ ろ うか ら、 具1・椰 」な像 を持 たず 、な ん とな く 「セ セ ッシ ョン」 風 で 、 とい つ

た ケ ー ス もあ つた に 違 い な い 、こ う した,県で 、セ セ ッ シ ョンが 何 を指 し・」司 ―の か を定 義 す る こ と

が 現在 とな っ ては 困 難 な の で あ る「

i―x出反 朔 短!i;ゾ)―セセ ッシ1ン 」1風橿テt"

(水 旨緑 ヒ。惚)ま ち前橋 文学喰1彬習兵)

kは い え 、[セ セ ッ シ/1ン 」 の ↑静 侵を 図 版'ttも って 媚 共す るl馴 勿もあ っ た 大-il博覧 会 と同 じ

1914年 、『セセ ッシ ョン図 案 集 ― 外 観 ∠1需 とい う本 が 発行 され て い る`"1こ れ は 、世紀 転 換

期 に お け ろ ドイ ツや 一/'一一ス トリア の 塑 矧 勿の 写 真 が収 録 され た もの で あ る、 言 葉iによ る説 明 は ・

切 な く、 へ 一 ジい ・)はい に ―枚 の"∫!l`が 載 せ られ 、そ の ドに 地 名 と建 矧 勿分 鷺1のキ ャ プ シ ョン

が つ い て い る だ けの 帳 本で あ る67'1メ 真は 、fi完 、教 会 や 料 交な ど様 々で あ る が 、'自営 の 大 きな

建 物 は収 録 され ず 、 住 宅 な ビの比 較riく」小 さな建 物 が 中心 で あ るkた 、 同時 期に 『セ セ ッシ ョン

図 案 集 室 内之 部11叡1版 され てお り、 こち らは 写 真 だ け で は な く図 案 も含 む、 建築 の 内装 に

つ い て の 図 案集 であ る こ う した もの こそ 、'li時 の 人 々が 具f村-勺に そ の 様 式 を 自宅 に応 用す る た

め に 出版 され た も(ノゾゴセ 考え られ 、 萩原 朔 増 限,「 ―せ せ ・・,占lkん號1と 併せ て この 留)資 料 を所

EU'高梨由 憩[騙e-!r―lr』ノシ1ン1副 案 集 外鯉.2繊h嬉¥荊1920{}及 び1924年

Ei7f列え1歎 ミュン・、ンF,E(i{臼宅三1!:い ―')1-.うに 前才鳩,悸、29ゼ 〔1924{Pノ)版 『ξは、1司・、一一シは'ft'在 ・5蜀」

と士也名て解まブにく―司名 とな ってし・る

―――74―

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持 してい たに違 いない。本 稿執 筆に当たつて参照 できたのは、『外観 の部』(1920年 の第六版及

び1924年 の第八版)、 『室 内之部1(1922年 の第二版)ssで あ る。双方(と りわ け 『外観の部1)

が多 く版 を重ね てい る点か らみて も、当時 多くの建 築家や 施主の 目に触 れたのであろ うことは想

像 に易い。

また、博覧会 と同年 の1914年1月 、作家 谷崎潤 一郎 は 「捨て られ るまで」 とい う短編 小説 を

『中央公論』に掲 載 した。 ここに 「最近買 つたセゼ ツシヨンの机」69と い う表現 が登場 する。 こ

の 「セゼ ツシ ヨン」 とい うの は、遠 藤於菟 の 「アル ヌーボ ド」の様 に、 「セセ ッシ ョン」 を間違

えて谷崎が書い たのか とい えばそ うではない。1913年 大正2年 の三越 の着物 カタ ログのキャプ

シ ョンに 「三角形 に唐桟 縞 をセ ゼ ッション式に応 用 し」 とあ り、また1914年 大正3年 の 白木屋

のカ タログにも 「セゼ ツシ ョン式柳 と桜」 とある。70「セセ ッシ ョン」以外 に 「セゼ ッシ ョン」

とい う表 記 もあ つたの であ る。 この点 には後で触れ るが 、 「セゼ ッシ ョン」 とは ドイ ツ式表記

Sezessionを ローマ字読 み した ものであろ う。さ らに夏 目漱石 も1912年 よ り13年 にかけて朝 日

新 聞に連載 した 「行 人」の中で、「薔薇 の造 り花 がセ ゼ ッシ ョン式の一輪 花に挿 してあった」71と

い う表現 を残 して いる。 この よ うにセセ ッシ ョンは、当時 の洋風の 日常生活 に密着 した様式で あ

った。

3.3.セ セ ッシ ョン と鉄鋼 コンク リー ト

文学テ クス トに登場 す る 「セセ ッシ ョン」の例 を さらに挙 げ るな らば、芥川 龍之介の作品 にも

セ セ ッシ ョンが登場す る。1927年(昭 和2年)の 『河童』である。 「部屋全体 は勿論 、椅子 やテ

エ ブル も白い上に細 い金の縁 を とつ たセセツ シ ヨン風 の部屋」72と い う表現 が登場 す る。昭和

30年 発行の芥 川龍之介 全集第7巻 巻頭 には、執 筆の前年1926年 大正15年 の芥川の写真が所収

され てい る。73作 家の背 景に映 って いる部屋 の内装 は洋 風で、この よ うな内装 を指 して当時 「セ

銘初板は1917年 、高梨由太郎編 『セセッション圖案集 ― 室内之部』洪洋社1922年 、69谷 崎潤一郎 「捨て られるまで」:『中央公言剣1914年1月 、倉1作、2-116頁所1又、33頁 、.o原 田純子 「大正期の和服におけるセセッション式模様について」1『目本服飾 翔 通号19

、2000年、47-53

頁所収、50頁 以下071夏 目漱 石 「行人」:『東京朝 日新聞』1913年9月30日 付b

η芥川龍之介 「河童 」:『改造1第9巻 第3号(1927年3月 号)創 作、1―34頁所収、13頁 、芥川は 『河剥

にもう一度 「セセツシヨン」を登場させている。 「セセツシヨン風の祈襟湘」(前掲誌26頁)で ある。この

他にも芥川文芸作品 中に登場する 「セセツシヨン」を以下に挙げる。最も早い例は、明治43年 に詠まれた

短歌 「セセツシヨンの書棚買はむと思ひけりへ りおとろぷに小雨降る朝」。『芥川龍之介未定穂剃 岩波書店

1968年 、580頁,大 正9年 の 「秋」の草稿 「晩秋」にも、「セセツシヨン式の/J型の書棚」が、シナ リオ 「浅

草公園」:『文芸春秋』1927年4,月 号にも、「セセツシヨン風に出来上つた病院」とある。羽島徹哉 ・布川純

子(監 圏 『現代のバイブル ー 芥川龍之介 「河童」注角剥 勉誠出版2007年 、171頁 以下参照、聡 『芥川龍之介全集』第7巻 岩波書店1955年 、巻頭,

-75一

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セ ツシヨン風 と言 ったのではないか と感 じられ る。74

前述の芥川の 「白い上 に細 い金の縁 を とつ た」 とい う表 現は 、白い箱 に金 で装 飾 を控 えめに施

したWienerSecessionの 代表的作 品、オル ブ リソヒの展覧会 場 を思 わせ る。 これは近 代建築 史

にお ける最初期の簡素 なコン ク リー トによる作品 で、モ ダニズム建 築の最 も早い時期 に位置 する

とされ 、75そ の特色はそ の簡素 性にあ る一方 で、 ファサ ー ド表 面 に施 された装 飾 もまた 当時 の

人 々の 目を惹 くところで あつた。76こ う した簡 素性 と装飾 性の共 存 を志 向 したのがWiener

Seoessionの 大きな特徴 で あ り、先述 した着物 の柄 等は装 飾的な面 を捉 えた もの とい えよ うが、

そ の地 にある簡素 性が とりわ け 日本のセセ ッシ ョンに とつて不 可欠の要素 であった。セセ ッシ ョ

ンを 日本 にもた らした武 田五一 か らしてこの点 には意識的で あった。先に 「セセ ッシ ョン」の曖

昧 性を述べ たが、移入初 期の段階 で 「セセ ッシ ョン」が どの よ うに捉 え られていたのか は比較 的

明 白である。 当初 のセセ ッシ ョン像が 、 日本 にお け るWienerSeoessic)n受 容の長 い歴 史の根 底

にあつて、その流 行の高 ま りに貢献 している と考え られ るか らで ある。武 田は 『せせ つ志 よλ捌

において以下の ように述べて いる。

其の製作 材料 の特 性をよ く活用す る様 に形を考 案 し色彩 もな るべ く淡泊 に してアー

ル ・ヌーボーの如 く彫刻的 なるL持 を避 けて、つ とめて建築 的力学的 に材料 を使 ひ こ

な し、其の内に形 と色 との調和 を保 つ様に工夫 して居 る。77

武 田自身、明治後半にセセ ッシ ョン と和風 建築の融合 を試 みてい た。 明治45年 に建 設 された

芝川邸 は 「茶室 建築 の精 神を椅子生活 に慮用」 したもので、 「セ セ ッシ ョン風に 日本風 が加味 さ

れてな るもの」78で ある。武 田五一 とはまた 日本 で初 めて茶室 を主題 に論文 を書 いた人間で もあ

った(学 位論文)。79大 正5年 の稲畑邸 は 「セセ ッシ ョン風 の骨 格に 内外著 しく 日本 風 装飾 を施

74長谷川i輻ま、後述する分離派建築会の作品展へ 「文化人 も」足を運んでいたことを強調しているが、その代

表 として芥川龍之介の名を挙げている。長谷川尭 「日本の表現派(中)一 大正建築への―つの視点」:『近

イE`第22巻10月 号、1967年 、53・78頁所収、55頁 。龍 睾眞弓 「分離派建築会 ― その正誤 と自言劃;

『建藻 と社会』1961年3月 号、39―41頁所収、39蔦75Lρng,(Christopher:蹄 脇bη β曲gIn:VanVyn(:kt,Randa皿J.(e�):InteznaiionalDictionaryof∠4油'贈Detrc)it(St.JamesPx:)1993,5.122.

76HevesfDasHausderSezession .In:Ders.=AchtJahreSezessi'on,S.63ff,Bahr:MeisterOlb】dch―In:

Ders.:5伽 鮒.αろS.6αf万武田五一 「アール ・ヌー ヴォーとセセッション」、20頁 、鴇 『武田博士作品集』作品解、16頁,刃足立裕司 「武田五一の建築説とその形成期について」:『日本建築学会言樋 系論文報告集』第354号1985年 、

105―116朗 刊又、107蔦

一76一

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され しもの」80で あ る。これ らの表現 は、武 田の還暦 を祝 う作品集か ら取つた ものであるが、セ

セ ッシ ョンの簡素 性と 日本 的な ものの結合 を非常 に良 く言 い表 してい る。

この よ うに、 「アール ・ヌー ヴォー」 の流 行が建築界において早々 に終焉 した理 由 とは、それ

がセセ ッシ ョン と反 対の装 飾的 な もの として捉 え られ 、従来の 日本式 には沿わない と考え られ た

か らな ので ある。 ただ し、本 場のWienerSecessionが}ま た して非装 飾的な ものばか りであつた

のか どうかは注意 を要す る。

盛期 アール ・ヌー ヴォー の持 つ装飾 性が否定 され た理 由 と しては、明治44年 ごろ鉄 筋 コンク

リー ト(RC:ReinforoedConcrete)の 開発 が進 んだ とい う背景 も考 え られ る。 「民 間での立場

が 「セ 》ツシ ョン」 を大衆 受けのす るスタイル として惹 き よせ 、コンク リー トを塗 り付 けるこ と

によつて表 面を整 序す る鉄 鋼 コンク リー トが 「セyツ シ ョン」の平面 性を技法的に支え」た。81木

村徳国 は、「RC造 多層建築 は様 式主簿 寺代の末期 に位置 する もの、現 象的 にはゼセ ッシオ ン ・表

現主義 等の海 外の衣裳 をか りに ま とってあ らわれ いでた」82も ので あった としている。

1922年 、画 家岸 田劉生 は 「ア メ リカ趣 味 とセセ ツシ ョン趣味を排す 」 とい うエ ッセイを雑誌

『中央 美術』 に寄 稿 して いる。 このエ ッセイの中では、 「セセ ッシ ョン」 といいなが らその言葉

に対 する具体的な形容 がないた め、煩雑なデザイ ンが 「セセ ッシ ョン」 とい う名の下にいかに横

行 していたか を窺 わせ る。 また、劉生 は、 「ア メ リカ趣味」 とい う言葉 もまた広義な言葉 として

使 つてい ることが、 「蘇 ア メ リカ あた りの1獅 がボ カ 撫 や棘 あた り健 て る巨大なまが

い もののルネッサ ンスや ゴチ ックは女[阿ですゐ少 しも心か ら生まれてゐ ません」紹 な どとい う表

現 か らも分か る。おそ らく 「アメ リカ趣味」にせ よ 「セセ ッシ ョン趣 味」にせ よ、排 したい もの

は、洋風へ の極 端な迎 合なので あろ う。 しか し、単なる西洋文化辮Ilと もいえず、同誌上で 「セ

セ ッシ ョン博」 は散 々に こきお ろ されてい る一方 で、明治 の建築は税暢 され ている。艇 劉生は、

大正時代にな つて盛 んに建設 され始 めた コンク リー ト建築の安 つぼ さを嘆いていたのである。

4l訳 語 「分離派 」 の誕 生

4.1.大 正期 のセ セ ッシ ョンの内実

この よ うに、武 田五一が 明治終 りに意識 翁勺に移入 したセセ ッシ ョンの求 めた非装飾 性が ウィー

ンにお けるSezessionの 内実 とは幾分異 なつていたため、 「セセ ッシ ョン」の名 は、 日本におい

80『 武田博士作品集』作品解、15頁 、81近 江/堀 『日本のモダニズム』、103頁 。ew木 村徳国 「VdEH割ざを考える」1『建築雑 渕1970年1月 号、3・8頁所収、4頁 。

as岸 田劉生 「アメリカ趣味とセセ ッション趣味を担剛=『 中央美術皿第8巻 第7号 、1922年 、49―53頁所収、

49頁 。

en同 上、51真

一77一

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て は広義な対 象物 を指 し示 す ことになる。 元々Sezessionと い う言葉 が欧 州全般 に起 こっていた

運動 を指 し示 していた点が、ウィー ンのみ に留ま る様 式では ない とい う意味 付けを付与す る役割

を果た した。こうしてセセ ッシ ョンは、ヨーゼ フ ・ホ フマ ンや オルブ リッヒに代表 され るWiener

Secession的 な もの以外に、 ドイ ツの表現主義的 なもの をも含 むにい たる。 ドイツ、ハ ンブル ク

出身の建築家 で、 ウィーンで も教 鞭を とつていた こと もあ る、AEGの デザ イナー と して有名 な

ペー ター ・ベー レンスの ような、双方 にまたが る存在 が 日本で 注 目を集 めていた ことも大 きか つ

た。%

当時の海 外か らの晴報伝達 の早 さは驚 異的で、求 めれ ばほ ぼ同時期 に海 外の雑 誌な どに 目を通

す ことができた。as先 の 『明星』上の装 丁が1900年 の時 点ですで にアール ・ヌー ヴォー風で あ

つた ことを思 い出 してほ しい。森 鴎外が 『すば る』 に連載 して いた 「椋 鳥通信」等を見て も、い

か に当時の海 外か らの1青報が早 く日本 に紹 介 されてい たかが分か る。従 つて、紹介 され る海外の

動 向に併 せて 日本 の建 築界も変化 していた訳で、1920年 近 くなって、 ヨmッ パで 「表現 主義」

が盛んになる と、即座 に 日本 に も、表現主義的建 築が導入 され るに至 る。そ の中心 は ドイツであ

り、WienerSeoessionと は関係 のない とは言い切 れな いに して も、随分 と遠 い場 所であ る。に も

かかわ らず、日本では ドイツの表現主義 的建築 もセセ ッシ ョン として捉 え られて いた。87す なわ

ち、同 じセセ ッシ ョンとい う言葉 で形容 し、WienerSecessic》nへ 相 も変わ らず敬 意を示 しつつ も、

その内実は変化 していた。

しか し、1920年 になって名前の上 にもあ る変化 が訪れ る。 「セセ ッシ ョン」とい う表記 以外 の

「分離 派」 とい う名前 を使お うとい う傾 向が出て きた のであ る。路

4.2.分 離 派建築会 と平和博 覧会

1920年(大IE9年)、 東京帝国大学の卒業を間近 に控 えた暮 ・建築 家 たち6人(石 本喜久治、

瀧澤真弓、堀 口捨 己、森 田慶 一、矢 田茂、山田守)が 「分離 派建築 会」 とい うグノレープを結成 し

た。彼 らは今 日では 日本の大 正時代 を代表す る重 要な建築家 グルー プ とみな され てい る。一体彼

らは 「分離派」 とい う訳語 を どこか ら引いてきたので あろ うか。メンバーで あつた瀧澤 真弓が戦

85武 田五一 『住宅建築要義』文献書院1926年 、.._.瀧 澤眞弓 「第一會場プランニングの辟l建 築様式

に就いての一考察」:『中央美術』第8巻 第7号 、1922年 、20―29頁所収、24頁 。86岡 田信一郎は1914年 に日本建築学会大会でおこなった講演で、「此頃は独逸喚太利の建築雑誌は、二十日か

三十日あれば日本に来るか ら、その虞1以をするのに一向手数測卦らぬのである」と述べた、岡田信一郎 「建い日 日講演l新 機運の意義」=1建築雑 詣劃 第28巻 第331号 、1914年 、12―17頁画収、17頁 以下

87同時代でありながら、双方にっながりを見ていたという点では注 目に値するともいえる。お実は、WienerSecessionの 訳語として 「分雑派」を最初に使用したのは、武 田五一だと考えられる。1912

年、「世界に於ける建築界の新機運」:『建築世界』1912年4月 号、5-8頁所1又、8頁 において、「セセツシヨ

ニス ト分離派」という言葉を使っているのである。

-78一

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後 に分 離rT建 築会 を回想 した ところに よれ ば、彼 らは伊藤忠太の講i義においてWienerSecession

につ いて聞き知 り、自らの グルー プに もその名 を付 けた とい う。田 メンバーの後輩であった吉田

宏彦 は、 「分離派 とい う名稻 」は 「ウィー ンのゼ ツエッシオンの直 繹ではないか、名稻 の模倣 で

はないか とい う懸 念もあつた」 と回想 している。90

ヨー ロ ッパ の 「新様 丸 が 「セ セツ シ ョン式 と呼ばれて多 くは建築家 自身に よつて無理解 に外

形 が模倣 され るのみで あつた」91当 時の状況の中で 「分離派建築会」は結成 された とい うのが、

メンバ ーが作 り上げた筋 書きで あつた。彼 らは以下の よ うな宣言を行 ない、その登場 は幾分セ ン

セー シ ョナル だった。

宣言 我々 は起 つ。 過 去建築 圏よ り分離 し、総ての建築 を して 眞に意義 あ らしめる

新 建築圏 を創造 せん がために。 我 々は起つ。 過去建築 圏内 に眠 つて居 る総ての も

のを 目費 さん ために溺れつっ あ る総ての もの を救はんがた めに。 我 々は起つ。 我 々

の此理想の實 現のた めに我 々 の総 ての ものを悦 びの 中に献 げ、倒 る ㌧まで、死 にまで

を期 して。 我 々一 同、右 を世 界に向かつて宣言す る。 分離派 建築会92

分離派 建築 会結 成二年後 の1922年 、再び勧業博覧会が東京で催 された。 この博覧会 の建築 は

分離辣 建築会 のメ ンバー が主に担 当 した。 これ らの建築 に関 して、雑 誌 『中央 美術』が 「平和博

覧會記念號 とい う特集 を組 んで いる。分離 派建築会のメ ンバーたちに講 義でWienerSeoession

につい て教 え、先 の 『建 築 ト装 飾』 の 「せせ っ志 よん號 】に も執筆 していた伊東 忠太 が冒頭 に寄

稿 してい る。 彼 は 「顧 問 として之 に参與」 した らしい。 「今 回の各館 の建築 の様式 は菖来 の實例

を模倣 し又 は改窟 した ものでは な く、全 く新 しい濁創的の もの にし度 い と云ふ のが 自分 の最初の

考へ」 であつた と彼 は述べ 、 さらに 「分離 派」 とい う言葉 の出 自を説 明 してい る。

この新様 式 に 自分 は別 に之 に特別 の名 を與へ る必 要 を感 じないが親 しく各館 の意 匠

案 に當 られ た新建 築家 の中堅が 自ら分離派 て う名 を標 榜 して居 らる 墨か ら、之 を假 に

T璃㌫ 式 と名 けて も差 支は無い と思ふ。 〔… 〕分離 派なる文字 は蓋 し嘗 ての猴懊 に勃

興 したセセ ッシオ ン(分離 の意)か ら暗示 を得 たのであ らう。回顧すれ は塒 は1897年 、

田 潴 畢 「分離派建築会 一 その正誤 と自説 、40頁 。長谷川 「日本の表現派(上)」、68頁 。9D吉 田宏彦 「分離派旗挙げの頃」:『建築文化』1952年11月 号、29-31頁所収、29頁191森 田慶一 「構造派に就いて」:『分離派建築会宣言と作品』岩波書店1920年 、38頁 、田 『分離派建築會の作品』岩波書店1920年 。なおこの宣言は、グノレープが出版 したイトの すべての冒頭

に載せ られている。

-79一

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懊 都 ウィー ン府 に於 て、蕾来 の因襲 か ら分離 して新芸 術を創 建せ ん とす る抱負 を以て、

新 進藝術家 の團体が組織 され た、天が所謂セセ ッシオ ンである。これ が数年 の後 に 日

本 に傳来 して忽ちに流行 を來 した。93

伊飛 忠太が述べてい るのは、まさに 「セセ ッシ ョン」式 の流行 の様で ある。同号 の中で分離派

建築 会メンバーであった囎 睾眞弓 も同様にセセ ッシ ョン博 について言及 してい るので、以 下に注

目したい。

一般の人の耳 にセセ ツシ ヨンの語 が響 く様 になつ たのは、今 か ら八年前 の大正博覧会

か らでは なかった らうか。大正博 の主要建 築(主 として第一 会揚 の もの)が 当時 の若

い建築家 た ちの手に よつて、かのセセ ツシヨン建 築を模 して作 られた事 〔… 〕 しか し

〔… 〕かの独 逸懊太利 の所謂 〔… 〕 セセツ シ ヨン式な る ものs模 爲 にす ぎなかつ た

〔… 〕ワグネルが提案 した平和宮殿 の設計図や ウインのセセ ツシ ヨン館な どが盛 に移

植 された り、ペー ター ・べ一 レンスの意匠がそっ くり借 用 され た りした。94

こち らで は8年 前 の 「セセ ツシ ョン博 」が‡蹄 」され ている。 さらに小倉強 も同誌 で、大正3年 の

博 覧会 の第一会場 は 「セセ ッシ ョン式 と名乗 りを上 げ」、第 二会場 は 「オ リエ ンタル式 と名乗 っ

た」と回顧 し、博 覧会以後 「なんでも眞四角 に直線式 でい けばい 男95と セセ ッシ ョン式 が流行

した様 子を述べ る。先 の伊藤 忠太 も同様 に流行の 内実 を、 「その外形 のみ を模倣 し、只堅い直線

許 りで組 織 した形がセセ ツシオ ンで あると合瀦 して無 味乾燥な1物 を作 りたがった現象 と してい

る。 「眞四角」な 喧 線 丸 、「只堅い直線許 りで組織 した形」 とは、ま さしく先 に述 べた よ うに、

新材料RCの 移入 とともに顕著に表れたセセ ツシ ョンの非装飾的特 徴で あるとい えよ う。

4.3.分 離派 建築会 が 「分離」 した もの

ここで 「セセ ッシ ョン博」 が低し位 置 に置かれ てい るのは 、今回 の博 覧会が前回 の 「セセ ッシ

ョン博」とは一線 を画 しているこ とを謳 っているのであ るが、96そ の根底 にはや は りセセ ッシ ョ

ンと同 じくWienerSecessionの 「分 離」 の精 神があ る とい うことを述べ てい る点が興味深iい。

潴 畢は前引用 に続い て以 下の よ うに述べた。

93伊藤忠太 「平和記念東京薄 覧會の建築1=『中央美術』第8巻 第5号 、1922年 、2―9頁所収、5頁 以下。艇瀧澤 「第―會場プランニング(n」 、23頁 以下。95小倉強 「博覧會建築」:『中央美律i』第8巻 第5号 、1922年 、10―19頁所収、10頁 』96岸 田劉生は1922年 のt会 も醜悪だ としている。岸田 「アメリカ趣味とセセッション趣味を排す」、53頁、

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セ セツシ ヨン とは如何 なる もの であっ たら う。守義 を求むれ ば分離 とある。 其意は、

す べての 占き ものか ら、死せ る形骸か ら、 従つ て既 友の.仁削法か ら、先人の作物の模

倣 か ら分離 して、!/,に親1寺代の 建築 を創造 しや うといふ 、之が 本来のセセ ツシヨンの

精神 では なかつたら うか、 〔… 〕斯か る解釈の ドに、私はセセ ツシヨンな る外来語を

捨 てて 「分離1の 語を用い度 し、、そ して分離の語 に対 しては、最 早や私 共の 自由な新

しい解釈が 当然與 \らるべ きである。我 々の創作 はそれ 自身特有な、独 立 した存在で

なければな らない 純粋 に個1生的 でな ければ ならない 分寿佳はこの心か ら出発す る。97

ここでは、セセ ッシ ョンの精神が説かれ ているのであるが、セ セ ッシ ョンは形式ではな く精神

で あるとい うことは、す でに籍誌 『建築 ト装飾』 の 「せせ つ、占,Lん號」で も巻頭の 「刊行の辞」

に宣 言されていた ところであった

吾人の研 究 したいのは實 に此セセ ッシ ョンの形式 の如きは第=で あつてセセ ッシ ョン

式の起 こり 圭した剃機 及び其の精 神にあ ろの であ り蓑す 弼

卜1ろ和博覧會 記念號」 の 巻頭

甦でセセ ッシ ョンを 「分離」 と訳

した伊藤が 、そ もそ も1912イ1の

、 「せ せっ志 よん號 」に執筆 して

いた点 も注 目に値す る 彼はそ

こで も[勿 論彼の軽 薄浮 華の似

而非 セセ ッシ ョンの如 きは余の

極 めて,ll,,=し々く思 ふ と ころ'kl

と、形式の うわべ のみ を模倣 す戯 曾 も・,覇 薦r糎r讐 博 仁;と藪 を ・1」城1馳

る こ とを 戌 め て い た。 同様 の 戒

[文"仮 人こ」Ell{1籾J裳 「11湾包会 δ~)lt、hノ)イ 也(7)iiff高に しけこし

ば 兄 られ る と ころ で あ っ た 、

そ れ に 宅,かか わ らず 、民 間 にLfJさ れ るセ セ ッシ ョンは 依 然 と して軽 薄 な 妄 妄と建築 家 た ちの

`ri`iLi'v「第 一會場―ノニノンニ ン ゲ圃 辞」、罰 頁

警鰍 『建築 ト袋飾 、」第2巻 第6,,―、 巻頭

側 θh耗忠 オ\ 一セ冒ヒツシ1ン;こ,}党―こ}:[[建築}・♪懸ll「司 第2巻 ㌶∫6}∫'、1―2頁戸}llk、2〔{

H1一

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目には感 じられ たのか 、この度は 「セセ ッシ ョンなる外 来語 を捨て」 よ うではないか と瀧 澤が提

案 している ところに注 目した い。同様 に伊藤 も 「親 しく各館 の意匠案 に當 られた新建築家 の中堅

が 自ら分離 派 て う名 を標榜 して居 らる 』」か ら、今 回の博覧会 の様 式 を 「分離派式 と名 けても差

支は無い と思ふ」 と述べてい るのであ る。 このよ うに、 「分 離派」 とい うWienerSecessionの 新

しい訳認 ま、単 なる新 しい訳語の提案 に留 まるものでは なか った。

分離派 建築界 の宣言 を今一度見 よ う。彼 らは何 か ら分離 するつ も りなのかを明 らか に してい る。

それは 「過去の建築」である。従来 これは明治の歴 史主義建築 の ことと考 え られ 、伝統 的なル ネ

ッサ ンス様式 を中心 とす る、明治か ら続 く歴 史主義 教育 を中心 と した東京 帝国大学の教育 を指 し

てい るもの とされてきた。100ア カデ ミーが最新の芸術 にそ つぼを向い ている古 くさい土壌 か ら

新 しい ものが誕 生す る とい う分離 派建築会 の若者 たちの物語 は、ウィーンや ミュンヘ ンにお ける

数々のSezession、 さらにそれ以前の印象派のア ンデパ ンダ ンが踏 んだ行程 と軌 を一 にす る。

前述の伊藤忠太は例外 と して、当時 民間で流行 つていた よ うなセセ ッシ ョン風 の もの は言 うま

で もな く、セセ ッシ ョンが手本 とす る所 の欧米 の様式 建築以後 の新 しい建 築動 向が、東京帝国大

学の よ うな ところで は―切 教 授 され るこ とはなか ったな らば 、彼 らは当時流行 のセセ ッシ ョンに

ついてはあま り知 らなかった ことになる。 しか し、『中央 美術 』 の 「平和博覧會記 念號」 を読 む

限 り、彼 らがセセ ッシ ョンを知 らなかつた とは考 え られ ない。分離 腱 築会 が分離 しよ うと した

ものは、アカデ ミーだ ったので あろ うか。 「平和博 覧會記念 號 を読 む限 り、彼 らが分離 しよ う

とした ものはむ しろ 「セセ ッシ ョン」で はないだ ろ うか。

5.「 ゼツエ ッシ ョン」表記の意義

5.1、 ドイツ語式表記 と しての 「ゼ ツェ ッシ ョン」 あ るい は 「ゼ ツエ ッシオ ン」

先述 してきたよ うに、セセ ッシ ョンの流行 によつてそれ に伴 う軽薄 さが鼻につ き、言葉 自体 が

厭 き られてきた ことと同時に 、分離派建築 会の登 場に よつて、 「セセ ッシ ョン」 とい う言葉 の持

つイ メー ジに否 定的なニュアンスが読み 取 られ る よ うに なった、1926年 初版 の武 田五一 『住 宅

建築要義1(再 版1935年 昭和10年)を 見 ると、セセ ッシ ョンの火付 け役 であ った武 田が、もは

や 「セセ ッシ ョン」のみではな く、 「独懊 に於 ける分 離一派」101と 「分離」 とい う語 を用 いてい

る。 とはい え、 「分離」 と 「セセ ッシ ョン」 を置き換 える とい う行為 自体 は、博 覧会へ の参加 な

どにもよって人気 を博 してい た分離 派建築会 を支持 す るこ とになろ うか ら、当時の建築 界の先 達

10D藤森照信 『日本の近代建築(下)』 岩波新書1993年 、170頁 、藤島亥治郎 『日本の建築』至文堂1958

年、262頁など。メンバーであった漁 睾自身が、アカデミックな歴史主義からの 「分離」であつたと述べた、

瀧澤:「分離派建築会 一 その正誤と自註」、39頁,101武田五一 『住宅建築要義」文献書院1926年 、56頁 。

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と してぽ1真重 だったのか も しれない。武 田は、総 てのWienerSecessionの 訳語を 「分離」 と置

き換 える訳で はな く、 「19世紀末 よ り運動を起 したセセ ッシ ョンの風 は當時を風靡 して盛 大な勢

で各地 に行 はれ るや うにな り」、102と 述べた り、 「独懊の地 に行はれ たセセ ッシ ョン運動に よつ

て代表 され る独填 の機能 主義 の鼻祖 はオ ッ トウ ・ワグナー」103な どと、 「セ セ ッシ ョン」 とい う

言い回 しも同時 に使 つてい る。

同時期 に、岸 田 日出刀 も1927年 の著書 『オ ッ トー ・ワグナー』にお いて、「維也納分 離派運動」

あるい は 係鱗 内分 離派團」、 「ウィーナー ・ゼ ツェ ッシオ ン」 と言 うよ うに、訳語 とカタカナを

双方使 ってい るが、こ こで注 目すべ きは、 「セセ ッシ ョン」 とい う言い回 しが避 け られ、 「ゼツエ

ッシオン」 と ドイ ツ語風 の表記 が使 われてい るこ とであ る。104岸 田は武 田五 一 とは違 つて新進

の若 い建築家 であつたか ら、当時 の 「セセ ッシ ョン」に付 随 した軽 薄なイメー ジを払拭 したかっ

た のであろ う。とはい え 「ウィーナ ー」の方が ドイツ語式に濁 つていない ことは矛盾 してい るが、

この矛盾 に こそ、セセ ッシ ョンの内 実が ドイツの建築 動 向に移行 しつつ ある ことが表れ てい る。

前述 の武 田の著 作 も 「独 填」 とオー ス トリアだけでな く ドイツ を挙 げている。岸 田の 「ウィーナ

ー ・ゼ ツェッシオ ン」 と武 田の 「独 」は同 じ言い 回 しだ と言 える。遡 つて、平和博覧會 と同年

の1922年(大 正11年)に 、長谷川輝 夫が 「近代 建築 思潮 とゼツェ ッション」 と題 された卒業

論文 で 「セセ ッシ ョン」を 「ゼ ツ ェ ッシ ョン」 とい ち早 く ドイ ツ語 表記 にした ことを長谷川 尭 も

指摘 してい る。105ま た、瀟沢真 弓 も伊 東忠太 の授業を回想 し、「先 生は ドイ ツ風にゼ ツェ ッシォ

ン と発 音 され た」 と述べ た。106

1925年 の石本 喜久治の 『建築譜』には、カ タカナで も訳語で もな く、Sezessionと アル フ ァベ

ッ トで綴 られ てい る。

現代 の建 築をほん とうに味 うとす るには少 くとも初Renaissanceま で湖 らなけれ ば

な らない。 それが あま りに史学的 であるな らば何 うしてもSezession及 び その後の大

体 を知 る必 要があ らう。107

この本 は石本 が ヨー ロ ッパ 各地 を旅行 して撮 ってきた写真 を集 めた もので、とりわけ ドイツの

表現 主義 建築 の数 々が紹介 されてお り、Sezessionのzに よって、 ドイツのSe2essionを 指 し示

鯉 同上、95頁,103同上、98真姻 岸田目出刀 『オッ トー ・ヴァーグナー』岩波書店1927年 、105長谷川尭 「日本の表現派(下)」:『近代建築』第22巻11A号 、1968年 、61-81頁所収、64頁,1(聡囎 睾 「分離派建築会lそ の正誤と自註」、40頁,107石本 『建築言剖、I頁。

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してい るかに思われ るが、 これ につづいて 「Sezession」の根源 と して オル ブ リッヒの展 覧会場

に言及 し、それ を 「OlbrichのSezessionhausllo8と 、WienerSecessionの 展覧会場 をzを 使

つて言い表 している ところに、 ドイ ツ式表記 へ強 い こだ わ りが感 じられ るのであ る。

5.2.オ ッ トー ・ヴァー グナー受 容

前述の岸 田 日出刀の著作は、オ ッ トー ・ヴァー グナーの評伝 であ る。 この本が 出版 され た とい

う点だ けで も当時の 日本建 築 界にお けるオ ッ トー ・ヴァー グナーの権 威 を窺 うことができ るが、

冒頭の 『広辞苑』 第五版 にも見えた ように、『住宅建 築要義』 の武 田五 一 もここで 「オ ッ トウ ・

ワグナー」 を 「セセ ッシ ョン運動」 が属 す る 「機 能 主義の鼻 祖」 とみ な してい る。 さらに、『建

築 ト装飾』の 「せせ つ志 よん號」で セセ ッシ ョンの代表 としてオ ッ トー ・ヴァー グナーの図面が

収 められていた ことを考えあわせて も、セセ ッシ ョンの代表はや は り日本で はオ ッ トー ・ヴァー

グナーでなけれ ばな らなかつた よ うであ る。 この よ うに 日本で はオ ッ トー ・ヴァー グナーが特 に

好 まれて きたわ けで、『広 辞苑 』第五版の 「ゼ ツェ ッシ ョン」 の項 目にオ ッ トー ・ヴァー グナー

を登場 させ る意向が ここに明 らかになつてきた と言い うる。 さらに、再 び、1955年(昭 和30年)

の発行の 『広辞剋 の第一版 を再び詳 しく見てみ るこ とにす る。

そ こには 「形態 及び色彩 の単純化 をモ ッ トー と し、矩形 の よ うな簡 単明確な もの を基調 と し、

煩雑 に陥 るの を避 け」109た 点にセセ ッシ ョンの特 色が ある と定義 づけ られてい た。 これは、鉄

筋 コンク リー トの開発が支 えたセセ ッシ ョンの構 造的非 装飾的特色 を捉 えてい る。一方 で、そ こ

に添 え られた 「瀟洒 」とい う言葉が大衆受 け したセセ ッシ ョンの特色 を表 している ことは明 白で

ある。

前述 した よ うに本場のWienerSecessionが 非装 飾的な特 色ばか りで はな く、む しろ、装飾的

とも捉 え られ る点 を鑑みれば、す なわ ち、この項 目は一見 ウィーンでの運 動を指 してい るよ うで、

実 は 日本でのセセ ッシ ョン を説明 してい る。そ して 、ここに 「芸術 を支配す る ものは唯必要 のみ」

とい う標語が唐突 に掲げられ てい るが、これ は、オ ッ トー ・ヴァー グナー が1890年 代に宣言 し、

ヴァー グナー の言剰西の高ま りとともに有名になつた言葉 で ある。uoこ こにオ ッ トー ・ヴァー グ

ナ ーが 目には見 えないなが らも登揚 してい るので ある。1969年(昭 和45年)の 『広辞 苑』第 二

版 とそれ以後の版 において は、この標 語以 下の部分は取 り去 られ、代 わ りに 「オ ッ トー ・ヴァー

108同上、】皿 頁。lo9『広舌辛苑』第一「月反、1203〕轟〔、llo正確には、ヴァー グナーの言葉ではなく、ゴットフリー ト・ゼンパーの言集 この言葉について詳 しくは、

拙論 「一八九〇年代後半のウィーン分離派とゴットフリー ト・ゼンパー」:『オース トリア文学』第23号 、

2007年1―10頁 を参照℃

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グナー」 と一言補われ た ことが わか る。謝 頂が異 なるだけで、冒頭に挙げた第五版 と内容 は大 き

く変 わ らない。第一版 はまだ 日本 にお けるセセ ッシ ョンの姿を表現 してい る点でその誤謬 は救わ

れ る。しか し第 二版か ら第五版 とな ると、Sezessionを ウィー ンで起 こった運動 としている点が、

美術史 的な観 点か ら見た場合 、間違 い となって しま う。一方 、最新 の第六版には知識 として誤謬

はない ものの、 日本 の受容 史 を思 わせ る部分が 「セセ ッシ ョン」 とい う最後の一言のみで片付 け

られ ている点 で、 日本 にお いて建築 の分野 でWienerSeoessionが 受 容 されて きた とい う事実が

覆い隠 され ているので ある。

お わ りに

日本 では、 「分離 派 とい えば ウィー ン」 とい うイメー ジが あるが、上 に述べ てきたよ うに、そ

れ は20世 紀初頭 にWienerSeoessionが 集 中的に受容 され たか らなの である。 そのWiener

Secession受 容 は、当初 もっぱ ら建築 界でお こなわれていた。 やがて、 日常生活に洋風化 が意識

され始 め ると、WienerSecession風 に整え られた住居に暮 らす ことは、―般 人に とって も理想酌

な洋風 生 活の モデ ル のひ とつ とな る。1920年 代 にな る と、表面 的 に流行 しす ぎ たWiener

Seoession(「 セセ ッシ ョン」)像 か ら 「分離」す るべ く、Secessionに 「分 離派」 とい う言葉 が当

て られ 、その名前 を戴いた 建築 グルー プまでも登揚 する。 同時 に 「ゼ ツェ ッシオン」や 「ゼ ツェ

ッシ ョン」 と、 「セ」 を濁 らせた ドイツ風表記が、戦前 の ドイ ツ との関係 の中で誕生す る。戦 後

において、民間のWienerSecession受 容は戦前の記 憶を失 い再 出発 した。戦後 とな ると、生活

の洋 風化 も定着 し、 日常生活 をセセ ッション式にす る云々の問題 は無 くなったのであろ う。

しか し、「ゼ ツエ ッシオ ン」あるいは 「分 離派」とい えば ウィー ンだ とい うイ メージは残 つた。

『広辞苑1第 二版 の頃 よ り、建藝 ・工芸に代わって絵画 とい う分野にお けるWienerSecession

の受容が盛ん とな り出 した。 これが画家 グスタフ ・クリム トを中心 とした受容 である。 このこ と

は、『みつ ゑ』や 『芸術 新 潮』、 『美 術手帖』 といつた美術雑 誌がク リム トや シー レ、あ るいは ウ

ィー ン世紀末の特集 を幾度 とな く組 んでい ること、そ して、そ うい った特 集は大抵展覧会に付随

して行われ るこ とに よ り、 ク リム トに焦点が 当て られ るの も頷 きうる。111

111主なウィーン世紀末特集 は以瓦 「ウィーンの伝統と幻想」;『季刊みつゑ』美術出板社1968年5月 号」 エ

ゴン ・シーレ震える魂の独白」:『季刊みつゑ11969年5月 銭 「グスタフ ・クリム ト愛 と死の円舞曲」:『季

刊みつゑ11971年2月 号b「クリム トとウィーン世紀末」:『芸術生活』1975年2月 賎 「エゴン・シー レ」=

『季刊みつゑ』1977年9月 号b「ウィーン1898-1918一 分離派の都市空間」:『美術手1占』美術出版社1979

年1月 桟 「ク リム トとシーレ ウィーンの愛 と憂愁展 から」;『季刊みつゑ』1984年3月 号、「20世紀を拓

いた百花 僚乱のウィーン」:『芸術新 測 新潮社1985年10月 号る 「シーレとウィーン」:『美術手帖』1986

年3月AY」o「ウィーンの光と影」1『ユリイカ』1987年7月 号 「クリム トきらめく黄金の裏側へ」:『芸術新

潮』2006年10月 号な乱 ウィーン関係の展覧会 としては、主に以下のものが挙げられる。1985年 「クリ

ム トとエゴン ・シーレ」展、1986年 「エゴン ・シーレとウィーン世紀 末」展、1989年 「ウィーン世紀末 ―

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早い時期のク リム ト受容 の例 としては、1912年(明 治45年)の 、雑誌 『白樺 』の ク リム ト特

集があった。112し か しそ こで は、WienerSeoessionの 創設 者の一人 、あるいは初 代総長 とい う

ク リム トではな く、あ くまで画家個人 としての ク リム トの姿が 図版 とともに紹介 され ている。そ

こにWienerSeoessionに 当た る言葉 は―切 見 当た らない。 「セセ ッシ ョン」 とい う言葉は当時の

建築 ・工芸界 では さかんに言 われ ていたであろ うに もかかわ らず 、であ る。

ついでに言 うな ら、『白樺 』は1910年(明 治43年)の 創刊 号の図版 に、マ ックス ・ク リンガ

ー とフランツ ・フォン ・シュ トゥック、アー ノル ト・ベ ック リー ンを取 りあげてい る。113『白樹

創刊号で紹介 されたク リンガーやシュ トゥックは ドイ ツにお けるSezessionを 代 表す る芸術家で

あ り、彼 らに こそSezessionのz、 あ るいは、 「ゼ ツ エ ッシ ョン」や 「ゼツェ ッシオ ン」 といった

ドイツ的表記 がふ さわ しい。 しか し、この3人 の画家 は現在 にお け るク リム トほ ど日本 では知 ら

れ ていないのではないだろ うか。 日本 の 「ゼツェ ッシ ョン」はや は りWienerSeoessionで しか

ないのであ る。

ク リム トの人気に付随 するよ うな形 でWienerSecessic)n全 舟支に対す る興味が再 び戦後に高ま

つているよ うに思 われ る。建築 あるいは絵画 とい つた偏 つた 面か らでな く、総 合的 にWiener

Seoessionを 捉 えよ うとい う動 きが出てきた。 ク リム トを中心 に据 え る傾 向が ある とはいえ、展

覧会 も絵画のみか らWienerSecessionを 紹介 す るものではな く、また、WienerSecessionが 誕

生 した ウィー ンを全体 的に捉 えよ うとす る書物 が何冊 も翻 訳 され 、また 出版 され るよ うになった。

そ して、それ らの書物 にお ける殆 どの表記 は 「ウィー ン分離 派」 とされ る。1141979年 の 『美術

手 閥 「ウィーン1898―1918-分 離 派の都市空間」 とい う特集や 、冒頭 に述べ た、2002年 の巡

回展 「ウィー ン分離派1898・1918」 はタイ トル に訳語 「ウィー ンゲ璃蘇 」を冠 し、その波 及に大

きな影響 を与えたであろ う。そ こに、戦前、WienerSeoessionを 「分 離派」と訳 さなけれ ばな ら

なかつた 日本 の 「分離 派」 の面影 はない。

クリム トシーレとその時代」展、1996年 「クリム トとウィーン印象派」展、1996年 「ホフマンのウィーン

工房」展、1997年 「ウィーン世紀末lク リム トの夢シー レの愛」展、1998年 「ウィー―ンのデザイン」展、

2002年 「ウィーン分離派1898―1918」展、2003年 「クリム トl1900年 ウィーンの美神」展、2003年 「ウ

ィーンの夢と憧れ」展。1況 『白渕 第3巻 第5号 、1910年 、その二年後には、画家大田喜二郎が生前のクリム トのア トリエを訪問し

た とい う事 実 も確 認 され て い る 。Koshi,1〈oichi:Studienz㎜Jalx)nismusderWiener

Jahrhunde】rtwende(1);JapanischesbeiKlimt:『 東)欄 購 宇学培匿糸己要』31―号凡19�I」'1'a113『白樺』第1巻 第1号 、1910年 ち114A・ ジャニク/S・ トゥールミン 『ウィ トゲンシュタインのウィーン』(藤村龍雄 訳)テ ィービーエス ・ブ

リタニカ19780C・E・ ショースキー 『世紀末ウィーン:政 治と文化』(安井琢磨 訳〉岩波書店1983

年、W・M・ ジョンストン 『ウィーン糊 申:ハ ープスブルク帝国の思想 と社会:1848―1938』(井 上修一 【他】

訳)み すず書房1986隼,R・ ヴァイセンベルガL編 『ウィーン1890―1920:芸 術と社会』(池内紀/岡 本

和子 訳)岩 波書店1995年 など』

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このように、かつて日本にもさまざまレベルで 「ウィーン分離派」が受容されていたことが、

その名前の変遷に読み取れるのだが、建築界を一歩離れるとその歴史はすつかり忘れ去られてし

まった。そもそも建築やデザイン、そしてその歴史(建 築史 ・デザイン史)に 対する日本人の意

識の低さがその原因だと考えられる。しかし、建築やデザインこそ、我々が今生きている場所を

構成しているものである。その形成のプロセスにおいて決定酌な役割を果たしたものこそ、建築

界及びデザイン界におけるWienerSeoessionの 受容であつた、

本稿執筆にあたり、昨年度まで京都工=芸繊維大学美術工芸資料館において教鞭をとられました竹

内次男先生、ならびに同館技術補佐員亀野晶子氏よりご教示賜りました。記して調億 を表します。

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Secession – Sezession – Bunri-ha — Sezessionismus in Japan (ca.1900-1930) —

ASAI Maho

Die Wiener Secessionsgruppe hat sich 1897 später als andere avantgardistische

Künstlervereinigungen in Europa gegründet. Eine starke Motivation für den

Zusammenschluss der Gruppe war, Österreich mit der Kunst des Auslands vertraut zu

machen. Gleichzeitig suchten die Mitglieder, einen Weg in Wien etwas Neues

Originelles schaffen zu können. So ist ein Charakteristikum der Gruppe in der

Anfangszeit um 1900 die Verwendung langzügig fließender Linien und floraler

Ornamente, die zugleich typische Merkmale des Art Nouveau-Stils (Jugendstil) waren.

Diese Stilrichtung hatte eine vorwiegend dekorative Tendenz. Bald aber setzte sich

eine andere Konzeption durch, die heute als wichtiges Merkmal des Wiener

Sezessionismus geschätzt wird: die geometrische Form der Flächengestaltung durch

gerade Linien. Dieses Merkmal bezeichnet Einfachheit und Schlichtheit, eine Erscheinung, die besonders prägend für das Ausstellungsgebäude der Wiener

Secession ist.

Schon seit 1900 wurden als eine Folge der mehr und mehr um sich greifenden

Europäisierung Kunstbewegungen Europas in Japan übernommen. Am Anfang

bezeichnete man den Stil mit den fließenden Linien und den floralen Ornamenten aus

Frankreich mit dem Namen • (a- ru nu- vo- : Art Nouveau).

Danach brachte der Architekt Takeda Goichi von seiner in offiziellem Auftrag

unternommenen Europa-Reise (1902) den Sezessionismus aus Wien mit nach Japan.

Dieser Stil erlangte in kürzester Zeit große Popularität. Dies kann man auch aus vielen

Texten, die aus dieser Zeit stammen und in denen sich die Katakana Silbenschrift -l? tz

J^a ^ (sesesshon : Secession) findet, schließen. So finden sich viele solcher Hinweise

in der Literatur beispielsweise bei Beschreibungen von Möbeln (Tanizaki Junichiro,

Akutagawa Ryunosuke, Natsume Soseki usw) oder in Prospekten für Kimonos bei den

—88—

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Namen der gemusterten Stoffe. Die Industrieausstellung in Tokyo im Jahre 1914

(Taisho 3), für die viele Gebäude im sezessionistischen Stil errichtet wurden und die -b

1 l^s ^1 (sesesshon-haku : Secession-Ausstellung) genannt wurde, stellte den

Höhepunkt der Sezessionismusmode dar. Der sezessionistische Stil war dem neuen

japanischen Alltagsleben nahe, das sich am Westen orientierte.

Es ist eine interessante Frage, warum die Wiener Secession in Japan zu einer so

beliebten Stilrichtung wurde. Takeda Goichi und andere Architekten und Designer der

Zeit meinten, dass der Secessionsstil sehr gut zu Japan passe. Sie waren zu der

Erkenntnis gelangt, dass die Sezessionsbewegung in Wien eigentlich unter dem

Einfluss des Japonismus entstanden sei, und sahen in der Wiener Secession die

Merkmale der Einfachheit und Schlichtheit mit wenigen Verzierungen, die elegant

aber nicht pompös waren. Diese Merkmale kamen den Forderungen der Zeit, wie z.B.

der nach der Einführung des RC (Stahlbetons) als architektonisches Baumaterial, in

Japan entgegen.

Um 1920 gründeten einige junge Architekten eine Gruppe, die sich „bunri-ha

kenchiku-kai" (bunri : Abspaltung, ha : Gruppe, kenchiku : Architektur, kai : Gruppe)

nannte. Sie war der erste Zusammenschluss von Architekten zu einer Gruppe in Japan,

und heute hält man sie für eine der wichtigsten Verbindungen dieser Art. Mit ihrer

Namenswahl (einer Übertragung des Begriffs „Secession" ins Japanische) ehrte die

Gruppe die Wiener Secession, aber gleichzeitig bezeichnete der Gebrauch der

Übersetzung auch die Flucht vor der oberflächlichen Mode des japanischen

Sezessionismus der damaligen Zeit. Die Gruppe versuchte, etwas Originelles zu

schaffen, wie es im Wien der Jahrhundertwende die Künstler mit der

Secessions-Gründung unternommen hatten. Gleichzeitig war die „Bunri-ha" Gruppe

vom deutschen Expressionismus, der sich damals über ganz Europa verbreitete, stark

beeinflusst. Im Kontext damit schrieb man den Namen nun der deutschen Aussprache

folgend mit anderen Katakanazeichen als zuvor ` J = , ^ a ^ (zetsesshon) oder -t

y (zetseshio- n) als deutsche Aussprache zu verwenden.

In Bereichen, die nichts mit Architektur zu tun haben, benutzt man heute oft die

Übersetzung „Bunri-ha" für die Wiener Secession, und auch heute noch ist es so, dass,

wie vor der Geburt der „bunri-ha kenchiku-kai" (also wie in der Taisho-Zeit), von den

verschiedenen sezessionistischen Künstlervereinigungen in Europa nur die Wiener

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Page 33: Title 「セセッション」から「分離派」へ : 日本 …...がかなり一般層にまで浸透しているかに思われるその一方で、この言葉をウィーンの本家本元に

Secession in Japan Beachtung findet und viele Japaner die sezessionistische Bewegung

mit der Wiener Secession gleichsetzen.

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