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Title うつほ物語と源氏物語 : 自然の描写を通して Author(s) 本廣, 陽子 Citation 京都大学國文學論叢 (2010), 24: 1-25 Issue Date 2010-09-30 URL https://doi.org/10.14989/137409 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title うつほ物語と源氏物語 : 自然の描写を通して

Author(s) 本廣, 陽子

Citation 京都大学國文學論叢 (2010), 24: 1-25

Issue Date 2010-09-30

URL https://doi.org/10.14989/137409

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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うつほ物語と源氏物語ーー自然の描写を通して||

はじめに

従来うつほ物語の自然描写は注目されることが少なく、

また、注目されたとしても源氏物語と比較されあまり評価

されてこなかった。なぜなら、源氏物語において景情一致

の自然の描写が中心に議論されたために、うつほ物語の自

然描写も主としてその観点から考察され、景情一致の自然

が見られる源氏と見られないと言われるうつほの異質性が

強調されてきたからである。

本稿は、源氏物語の自然描写とは「顕著な異質性」があ

ると言われるうつほ物語の自然描写に注目し、それを再度

考察しなおすことによって、うつほの自然描写に源氏との

共通性を見いだそうとするものである。

うつほ物語の自然描写に対するこれまでの評価

源氏物語の自然描写については、古くから様々に研究さ

れており

2、その評価の高さに異論はない。このような

自然描写は、源氏において突知として登場してきたのでは

なく、そこには文学史的前史が存在する。和歌(特に古今

集)、騎蛤日記が源氏の自然描写に大きな影響を与えたこ

とは定説になっている。他方、同じ物語作品であるうつほ

物語は、まとまった自然描写を持つにもかかわらず、源氏

の自然描写に先行する文学作品三として今日ではほとん

ど注目されていない。

-1 -

ところが、かつては、五十嵐力氏や、小関清明氏によっ

て、うつほ物語の自然描写も高く評価されたことがあった

言。五十嵐氏は、『平安朝文学史(下巻)車』の中で次の

ように述べている。

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「『宇樟保』の作者は、また自然の描写に於いて抜群

の技伺を見せてゐた。同じ時代の物語群が『宇津保』

『落窪』の外全く失はれた後世に於いて、珍しい文学

現象に閲する創新の功名を此の二作のみ帰するのは、

甚だ危険なことではあるが、現存する限りの資料につ

いて見ると、『源氏物語』の自然描写及び情景の取合

はせは、『宇樟保』の達した程度に洗練を加へたに過

ぎぬやうにも考へられる。例えば

前栽も山の木どもも紅葉し、櫨の紅葉今色づく、

なか

さま

htに面白し。風ゃう1{、荒く、山町中より

落つる滝も、静かなる所にて聞き給へば、よろづ

物の音にあひて哀れなり。〔楼の上)

4

雪夜よりいと高う降りて、御前の油、遣水、植木

どもいとおもしろし。(楼の上)

の如き、引き離して見れば、少なくとも調子に於いて

『源氏』の文と恩ふ人もあるであらう。情景の取り合

はせも亦同断で、例へば、

心にしみて琴を弾き給品。月のいと明らかに、空

澄みわたりて静かなるに、山の木陰、水の波、ゃ

ll風涼しく吹き立てたるに、いとおとなft--、

しう弾き合はせ給へるを、大将かんのおと£も、

きん

折も心細くなりゆくに、涙落ちて、琴教へさし給

ひて泣き給ふ気色を、犬宮「まろを宣へど、宮恋

しくおぼえ給ふベかんめり。母宮も泣き給ふか」

と、内侍のかみに聞こえ給ば、皆いとをかしくな

り給ひぬ。

-(中略)・・・此の辺になると、もう『源氏』の塁を摩

すると云って‘もよく、洗錬と妥当と浸透力とに於ける

程度の差を除外すれば、二者殆んど同一と云ってもよ

い位である。」(四七四八頁)

このように、五十嵐氏は、右の引用中に挙げたうつほの

自然描写を、源氏に劣らないと認めている。文章の調子、

情景の取り合わせという点以外、特に具体的な共通点など

は考察されていないものの、うつほの自然描写がすぐれて

いるという指摘そのものは、注目に値すると恩われる。

また、小関氏は、「初期の物語に於ける自然描写に就い

ての一考察室」において、源氏物語にいたるまでの自然

描写の発生発遣を、伊勢物語とうつほ物語を中心に考察し

ている。この論文では、伊勢物語からうつほ物語、そして

源氏物語へと、物語の自然描写の発達過程の中に、和歌や

歌物語の方面から発達してきた径路が存在すると、主に論

じられている。その過程は、次のように要約される。初期

の物語における自然描写は、歌物語における詞書的叙述の

中に萌芽したものであった

5。調書的に和歌に従属した

-2-

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叙景が叙事の全体に融合させられる事により、自然が和歌

の背景から事件の背景へと転化した。その時に、和歌が本

来持っていた景情融合の境地が散文に移された。そして、

最終的に叙景が和歌を離れて自由に至る所で行われるよう

になった、というものである。

小関氏は、伊勢物語には、初期の段階である詞書的叙述

(和歌の説明である自然描写)が多く見られ、うつほ物語

においては、和歌を離れた独立した自然描写が見られると

する。自然描写は伊勢物語からうつほ物語へ発達し、うつ

ほ物語の自然描写は源氏物語の前段階に位置すると論じて

いる。小

関氏の提唱する自然描写の発達過程に関する仮説は興

味深い。それ以上に小関氏の論文において注目したいのは、

うつほの自然描写を源氏の自然描写の前段階に位置づけた

点と、その論文中に多く行われているうつほの自然描写に

ついての細かい考察である。多くの用例に対して行われた

考察からは、うつほの自然描写に対する氏の高い評価がう

かがわれる。

このように、かつては、うつほの自然描写を取り上げ高

く評価した論文が存在した。それにもかかわらず、近来、

なぜ、源氏の先行作品としてうつほの自然描写が顧みられ

なくなったのだろうか。

そのきっかけの一つに、秋山度氏の「源氏物語の思考と

方法自然と人聞についての一視角

5」という論文の

存在があると思われる。秋山氏は、当論文において、うつ

ほと源氏の自然の描写を比較し、次のように述べている。

「宇樟保の場合、その刻明な自然景情の描写は、文字

Eおりの意味でその場面の背景がそうなっているとい

うだけのもの、源氏の場合は、単に背景としての自然

の情景がかたどられているのではなくて「心に恩ふこ

とあるときは、空の気色木草の色も、あはれをもよほ

すくさはひとなるわざなり」という宣長のことばが、

そのままあてはまるのである。自然の情景というかた

ちをとって、ここでは主人公光源氏の情意が客観化さ

れる。いわば自然は人聞の内面のかたちであり、人聞

は自然の景情としてかたどられ、すなわち自然が人聞

と同等に相互穆透しつつ物語の世界の前面にせり出し

てくるという特質がここにある。」(十一頁)

秋山氏は、源氏に描かれた自然が、作中人物の心情を象

徴する自然であることを重視し、景情一致の自然が描かれ

ているか否かという点で、源氏とうつほの自然の描写に一

線を画することを提唱した。

そして、秋山氏は、「人聞の内面が自然のかたちをとり、

自然のかたちが人聞の内面の表象である

E」例として、

-3 -

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源氏物語の若紫の巻の北山における表現を挙げる。例えば

次のような例である。

君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそき、

山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、

音高う聞こゆ。すこしねぷたげなる読経の絶え絶えす

ごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所がらものあは

れなり。(若紫・一|二八九}

光源氏は、昼間かいまみた紫の上への恋慕を押さえること

ができずに、僧都に紫の上の素性を聞く。そして彼女を所

望するが、僧都にすげなく断られる。右の例は、このよう

な場面に続いて、光源氏が一人でまんじりともせず夜を過

ごしているところの文章である。秋山氏はこの文章につい

て、「ひとりで取りのこされた光源氏を囲観する僧房の周

囲の風情は、そのままおさえがたい情感の表象であるとい

ってよい。もはやそれは描写などというものではなく、そ

れを媒介にして主人公の内面をかたどるべくひきすえられ

る自然像なのだといえよう」と説明している。紫の上への

恋慕や、その原因になっている藤壷への思慕など様々な煩

悩に悩まされる光源氏の心境を、右に挙げた自然は表して

いる。このような源氏の自然の描写と「自然なり季節なり

は、いかにこまやかであっても背景であるに尽きるであろ

う。人物の行為や心理がそこに描き語られていく客観的な

場面であり舞台である

E」うつほの自然の描写との聞に、

秋山氏は「顕著な異質性」があると判定したのである。

以来、源氏に景情一致の自然が描かれていることにもっ

ぱら関心が集中し、そのため、景情一致の自然が見られな

いと言われるうつほの自然描写が軽視されてしまった

E。

確かに、源氏物語中には、自然によって人物の心情を読

者に訴えるような描写が多く描かれており、それこそが、

源氏物語の自然描写が達成した点であり、特徴でもある。

筆者もそのこと自体に異論はない。

さて、この二つの物語の自然描写を考える時、そこには

二つの見方がある。一つは、自然に作中人物の心情が反映

されているか否かで、これは、文脈の中で考察され解釈を

伴う問題である。もう一つは、文脈から切り離して、ある

一場面を考えた時に、そこで自然がどのように描写されて

いるかという、表現方法の問題である。この二つは次元の

異なった問題である。言い換えれば、両作品の自然描写を

表現という観点で取り上げたときに、源氏とうつほの描写

がどれほど違うかという問題は、景情一致か否かというこ

ととはまた別の問題なのである。それにもかかわらず、景

情一致の自然ばかりが議論されたために、うつほの自然描

写もその観点からのみ考察され、両作品における自然描写

の異質性だけが強調されてしまった。その結果、うつほと

-4-

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源氏のこの領域における連続性が見えなくなってしまった

のではないだろうか。

源氏は、自然描写以外では、うつほから多くの文学的遺

産を受け取っていると言われている♀元本稿では、ひと

まず景情一致という観点をはずして、両作品の描写を比較

してみたい。自然描写という分野においても、失われたう

つほから源氏へという流れが、再び見えてくるのではない

だろうか。

そこで次章では、具体的に源氏とうつほの自然描写を比

較しながら、ひとまず、景情一致という見方を取り除き、

物語を構成する景物としての自然がどのように描かれてい

るかに焦点をあてて考察していきたい王官

自然と人物の空間的調和

景情一致という観点をはずして、作品に描かれた自然を

見てみると、うつほ物語には、自然がそこに存在している

から書くというのではなく、ある要請があって描かれた自

然が存在するということに気づく。それは、人物を中心と

した場を、物語作者の何らかの意図にそって構成するため

の自然である。このような自然は、人聞と関わって描かれ

ている。では、自然と人聞はいったいどのように位置づけ

られて描かれているのだろうか。

視覚的調和

次の例を見てみよう。固譲下巻において、立太子争いに

決着がつかず、梨壷腹の皇子を推す后の宮と藤壷肢の皇子

を推す正頼側の板挟みにあった仲忠が、涼、藤英、行政な

どを連れて、仲頼が健もっている水尾を訪れる。この例は、

水尾から、京へ帰ろうとする時の情景である。

①山値り、子ども、法師、童ベ御供にて、麓まで御送り

したまふ。君たちは御馬引かせて、徒歩より、大将は

隼の笛、中納言は横笛、中将箪襲、松方、近Eは御前

に立ちて、陵主、落臨時舞ひて、異人々後に立ちて、錦

のごとく散りたる紅葉の上を歩み出でたまふ。山の嵐

は、色々の紅葉雨のごとく降りかくれば、御襖に色々

につきて、麓にて別れを惜しみて、歌詠みて、山値り

は帰りたまひぬ。(国譲下・二一三一二

i三三一一)

右の例の「錦のごとく散りたる紅葉」や「山の嵐は、色

々の紅葉雨のごとく降りかくれば」といった自然は、単に

景物として、そこに存在しているから描かれているのでは

ない。この自然の描写のおかげで、我々読者は、例①から、

赤や黄の紅葉が敷き詰められ、辺り一面が錦のように染ま

-5 -

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った地面、その上を歩みだした美しい公遣が、山風に吹か

れ降りかかる紅葉の下で音楽を演奏し舞を舞っている景色

を二枚の絵のように思い浮かべることができるのである。

人聞を主体とした場面に自然が人聞と深く結びついて描か

れることによって、一つの風景(一つの絵画的空間と言っ

てもよいだろう)が作り出されている。

うつほ物語からもう一例を見てみたい。国譲下巻の最後

に位置する嵯峨の院の花の宴の一場面である。立太子争い

に決着がつき、三月の花盛りに嵯峨の院にて花の宴が聞か

れ、朱雀院と今上帝の行幸がある。そこで、探韻が行われ

る。その講師を仲忠がつとめるのである。

②花誘ふ風ゆるに吹ける夕暮れに、花雪のごとく降れる

に、大将、詩奉りに、胡篠負ひて、冠に花雪のごとく

散りて、「右の近き衛りの府の大将藤原仲忠」と申し

たまふ声、いと高う厳めし。〔国譲下・二一ll三九一,、,

三九二)

夕暮という時刻の限定と春の風。雪のように花びらが降

る中、歩み出る主人公仲忠。冠に花びらが降りかかりなが

ら名乗りをする声の厳めしさ。花を散らすゆるやかな風と、

雪のように舞う花びらの中に、仲忠が描かれる。そこでは、

自然と人闘が溶けあい調和し、そして一つの風景になる。

新編日本古典文学全集の頭注は、この場面を「講師役に

抜摺された仲忠が、武官の束帯姿も麗しく、タ風に舞い散

る花びらの中で美声を披露する場面は、物語の理想的主人

公の面目躍知といった観王己」があると評する。「物語の

理想的主人公」を中心に据えた華やかな場面に、雪のよう

にふりかかる花びらは重要な役割を果たしている。風に吹

かれて舞う花びらは、主人公仲忠を引き立て、その存在を

読者の脳裏に焼き付けるために楢かれていると言える。例

①と同様、例②でも、自然が人聞と調和して楢かれること

によって、自然が場に参与し、場面を印象的なものにする

のに役立っていると考えられる。

うつほの中には、以上のように自然が人聞と調和し、人

闘を引き立て、絵画的空闘を構成する自然の描写を見るこ

とができる。また、右に挙げた例①、例②は、紅葉と楽人

や舞人、桜の花びらと仲忠というように、視覚において関

わりあって描かれているのであるから、人聞と自然の視覚

的調和と呼ぶことができよう平号

このような自然の描写は、現存する作品のみで判断する

のは危険だが、うつほにおいてはじめではっきりとした形

をとって現れたようである。秋山度氏もうつほについて「自

然なり季節なりが、物語の世界の場の造成に参加させられ

ているということは、それ自体として見のがせぬ画期的な

事象であるにちがいない」と認めているように、うつほの

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自然に、例①、例②のように場面を構成する役割の一端を

担い、風景を作る自然が存在することは、物語文学史上注

目すべきことである。

次に、例①と素材が類似している字墓場面を源氏物語か

ら一例引こう。「紅葉賀」巻の朱雀院の行幸で行われた紅

葉の賀宴において、光源氏と頭中将が青海波を舞う場面で

ある。③

木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、いひ知らず吹き立

てたる物の音

rもにあひたる松風、まことの深山おろ

しと聞こえて吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中

より、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしき

まで見ゆ。かざしの紅葉いたう散りすぎて、顔のにほ

ひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、

左大将さしかへたまふ。(紅葉賀・一三八六

1二一八

七)

ここで、場面の持つ意味の深さや文章の優劣字さはさて

おき、自然が場面といかに関わって描かれているかという

観点からこの例を見てみよう。すると紅葉の陰と四十人の

垣代、楽の音と松風、散りかう木の葉と青海波を舞う源氏

と頭中将、というように、自然は、人聞と結びつけられて

描かれていることが分かる。紅葉と人々という視覚的な結

びつきに加えて、楽の音と松風という聴覚的な結びつきも

織り込まれているが、視覚的な結びつきに焦点をあてて見

ると、うつほ物語の例①、例②と同じように、例③におい

ても、自然は人聞と調和して描かれ、それによって、そこ

に風景が作り曲されているのである。

うつほ(例①、例②)と源氏(例③)の自然の描写は、

自然が場の構成に参与し、人間と関わり合いながら風景を

作るという、自然の描き方では、共通している。

人聞と自然の調和によって自然を描く方法は、源氏物語

では最も基本的なこととして用いられていた。関みさを氏

は、「(源氏物語の)自然描写は物語というジャンルの性質

上独立的な描写は殆んどなく、風景及人物事件の背景とし

て取扱われている。それ故に景と人物事件とは緊密な内面

的連繋

zv」があると指摘し、また、森岡常夫氏は、源氏

物語に描かれた自然について、「自然は、人々の容姿、薫

香、或は音楽と深く結びつけられてゐる」と述べ、その結

びつき方について、「即ちそれは人闘が自己を空しうして、

自然に沈潜するのでもなければ、又人聞の世界に自然を喰

ひ取って了ふことでもない。それは、人間相互の深い調和

であり、映発であると恩ふ【

t】」と説明している。

人聞と自然の調和を、関氏や森岡氏は、源氏物語に関し

て指摘するが、今検討したように、少なくとも、視覚的調

和の観点から見た時、このことはすでにうつほにおいて実

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現されていた。

聴覚的調和

ここでは、視覚的調和に加えて、両作品に音に関する自

然描写が見られることについて考えていきたい。

さきにも、源氏の例{例③)では、楽の音と松風が響き

あうという聴覚的な結びつきを見ることができた。また、

森岡氏の論文にも、源氏の自然について「音楽と深く結び

つけられてゐる」とも評されていた。

音の描写に注目して次の例を見てみよう。「若菜下」に

見られる住吉詣である。この住吉詣は表向きはただ光源氏

自身の物語となっているが、実際の目的は明石の入道の長

年にわたる立願の願ほどきにあった。例④は、社頭での舞

の奉納を描いた場面である。

④十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変りて、

松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり。ことご

としき高麗唐土の楽よりも、東遊の耳馴れたるは、な

つかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木

高き松風に吹きたてたる笛の音も、外にて聞く調べに

は変りて身にしみ、琴にうち合はせたる拍子も、鼓を

離れてととのへとりたる方、おどろおどろしからぬも、

なまめかしくすごうおもしろく、所がらはまして聞こ

えけり。(若菜下・四一六三)

第一文で、いくつもの和歌《

fvを引きながら色鮮やかな

視覚的叙述をしたあと、第二文では臆覚的叙述に転じ、東

遊のさまが描かれる。太鼓などを用いる大げさな雅楽より

も、場所がら、親しみゃすく興をそそる東遊は、波音と調

和して美しく響く。また、木高い松を鳴らす風にむかつて

吹きたてた笛の音も、松風と響き合って身にしみて聞こえ

るのである。

ここでは、視覚的な自然を描くだけでなく聴覚的な自然

を加えることによって、描写に立体感を与えている。視覚

的描写は絵画的な二次元的空間を作り出す。そこに、「波

風の声」や「松風」などの音が加わることによって、空間

に奥行きを生じさせ、動きのある三次元的空聞が表出され

るのである。王。

例④では、楽の音という人闘が生み出す音と、波音や松

風の音という自然の音が響きあって捕かれている。これを、

聴覚的調和と呼ぼう。

そして、この聴覚的調和の表現は、楽の音が、自然の音

に引き立てられるという効果を持つ。そのため、そこで演

奏された音楽を、読者はいっそうすばらしい司ものに感じる

ことができるのである。

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そして、この自然と人事の聴覚的調和の例も、物語作品

の中では、実は源氏が初めではなくうつほにも見られるこ

とであった。

次の例は、さきに例①で示したのと同じ水尾訪問の話の

一節である。

⑤夜更くるまでは詩諦じ、暁方になりて、風いとあはれ

に、木の葉雨のごとくに降るほどに、律師、陀躍尼読

みたまふ。大将、いみじく愛でたまひて、等の琴弾き

合はせたまふ。面白きこと限りなし。山のも里町、も、

みな涙落とさぬはなし。しばし遊ばせたまひて、山飽

り、常のことにて陀羅尼を読みたまふ。中納言、やま

もり召して、調めさせたまふ。(国隷下・三|三

O五)

陀羅尼を読む律師とは忠こそである。風がもの哀れに吹き、

木の葉が降りしきる音が響くなかで、忠こそが陀躍尼を読

む。その声に合わせて仲忠が琴を弾くという場面である。

「風いとあはれに、木の葉雨のごとくに降るほどに」と

いう描写は、木の葉が降りしきるという視覚的映像に加え

て、風と共に木の葉が雨のように降る音が描写されている

2E3音の存在は、視覚的な自然によって得られる二次

元的空間に、奥行きを加えている。音の描写は、源氏の例

でも見られたように、場面に三次元的広がりを持たせる効

果がある。

さらに、うつほの作者は、風が吹き木の葉の降る音を、

陀羅尼を読む声と響き合うように、意図的に阻置して描い

ている。水尾訪問以前に、作者は仲忠に忠こそに対して次

のような言葉を言わせている。

「この世の中のこと、とざまかうざまに、みな承り見

たまへつるを、この御陀語尼をのみなむ、音に承れど、

まだ承らぎりつる。げにいと尊くおはしけり。いかで

制淵州引制削剖叫叶利釧剰釧剛引刻刻叶刷制剤剖綱州

きん

引制剛1刈叫酬州割引制叫到吋廿1補同制叫剖寸剥引

にしがな」(国譲中・三一八五)(傍線、筆者。以下

同じ。)

うつほの作者は、尊けと評判な忠こその声を自然の風趣

によって一層引き立てることを意図していた。また、琴も

忠こその声に調和させようと考えていた。例⑤の「風いと

あはれに、木の葉雨のごとくに降るほEに」という描写は、

忠こその声を引き立てるために作者が意識的に用いたと思

われる。陀羅尼を読む声と寧の琴の音に、木の葉が降る音

を重ね合わせ、皆が涙を落とすほどの感動的な場面を作り

出しているのである。

自然が聴覚的に描写され、それが人の声や演奏する楽の

音と調和して描かれるということは、視覚的調和と同様、

すでにうつほ物語において存在していたロ芋二百そして、

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うつほに見られる聴覚的調和の描写でも、源氏と同様、自

然の音が場面に立体感を持たせ、さらに、人聞の音を引き

立てて感動的な場面を作り出していると言えるのである。

本章では、景情一致という観点をはずしてうつほと源氏

の自然の描写を考察してきた。その結果、うつほの自然の

描写の中には、自然と人聞が空間的に関わり合って描かれ、

一つの風景を作り出す例が見られることが分かった。そし

て、このような自然の描き方は、現存資料を見るかぎり、

物語文学史上、うつほ物語においてはじめてはっきりとし

た形で姿をあらわし、源氏物語の自然の描写においては最

も基本的な手法として用いられていた。

自然と人闘が調和して描かれ風景となる描写は、物語な

らではの描き方である。源氏物語で物語手法として定着し

ているこのよう-な自然の描き方を、源氏物語作者は和歌や

日記文学から学び取ることはできないであろう。源氏と同

じ物語文学であるうつほ物語からこそ受けつぐことができ

たと言えるのではないだろうか。

自然と人聞の心情の調和

前章では、うつほ物語において、自然が空間的に人聞と

関わり合って描かれているということ、そして、そのこと

によって揚が一つの風景として描かれていることを説明し

た。そこで、うつほにおいて、以上のような自然と人物が空

間的に関わり合って描かれた自然の描写の例を見渡すと、

同じく、風景として描かれていても、その風景が外側から、

いわば客観的に捉えられたものと、感覚や情意を表す形容

語を用い、いわば主観的に捉えられたものが存在すること

に気づく。

客観的に描かれた自然

うつほ物語の次の例を見てみよう。なお、これは第三章

(三一)で視覚的調和の例として挙げたものであるが、

再び引用しよう。

⑥山能り、子ども、法師、童ベ御供にて、麓まで御送り

したまふ。君たちは御馬引かせて、徒歩より、大将は

隼の笛、中納言は横笛、中将箪葉、松方、近正は御前

に立ちて、陵主、落臨時舞ひて、異人々後に立ちて、錦

のごとく散りたる紅葉の上を歩み出でたまふ。山の嵐

は、色々の紅葉雨のごとく降りかくれば、御襖に色々

につきて、麓にて別れを惜しみて、歌詠みて、山値り

は帰りたまひぬ。(国譲下・一-一ー一-一一二

1一一二三)

-10 -

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これは、起こりゆくことを時間軸にそって順々に述べて

いく描写である。ここでは、眺めるものと眺められるもの

が存在する。本文に即して言えば、描いている者(作者)

と描かれている出来事がある。ここでは、作者と描かれた

出来事は一線を画している。作者は場面をつきはなして外

から眺めながら描いているのである。

主観的に描かれた自然

次の例はどうだろうか。これは「楼の上下」巻で、俊蔭

の娘(尚侍)と仲忠がいぬ宮に琴を伝授する場面である。

「楼の上下」巻は、一年聞の時聞をかけて秘琴伝授をする

ことを描いた巻で、伝授の過程が四季を通じて自然描写を

伴いながら描かれており、この場面もその一つである。京

極邸の自然に包まれながら人々が琴を弾いている情景が捕

かれる。そこでは、月の光に映し出された人々、風がそよ

そよと吹き立てる中、琴を奏でるいぬ宮と、自然と人物が

一体化して表現されている。

⑦月のいと明らかに、空澄みわたりて静かなるに、山の

木陰、水の波、ゃうやう風涼しくうち吹き立てたるに、

いとおとなおとなしう(琴ヲ)弾き合はせ給へるを、

大将、尚侍のおとども、折も心細くなりゆくに、涙落

ちて、ことの心教へたてまつりたまふ。

三五二三)(括弧内、筆者注)

この例では、単に、月明かりの中、空が澄んでいる、風

が吹いている、そして琴が演奏されているという事象だけ

が説明されているにとどまらない。月が「いと明らかに」

照り、空が澄んで「静かなる」夜に、築山の木陰や水の波

を風がしだいに「涼しくうち吹き立て」て、その中でいぬ

宮が琴を「いとおとなおとなしう(たいそう大人びた様子

で)」演奏している。このように、自然の景物がどのよう

な情景を作り出しているか、その中で人物が琴をどのよう

に演奏しているかということが具体的に説明されている。

これらの具体的な説明のうち、特に、夜が静かであると

いうことや、風が涼しいということは、目には見えないも

ので、それは、感覚を通し、いわば直感的に感じ取るもの

である。また、風の吹き方が「うち吹き立つ」ものである

ことも、その音によって聴覚的に感じられるとも言えるが、

風が吹きたてる雰囲気を肌で感じ取って表現しているとも

考えられる。さらに、「いとおとなおとなしう」というい

ぬ宮の形容も、やはり人の直感的判断によるものであるう。

つまり、これらの描写は、人の直感によって認知され、描

写されている。

それでは、この夜を静かに感じ、吹き立てる風を涼しく

(楼の上下・

-11 -

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感じ、いぬ宮の演奏を大人びて落ち着いた様子であると感

じるのは誰だろうか。それは、おそらくは作者であろうロ

否、作者がこの場面の自然をこのように感じられるように

設定し、その感覚を読者に共有させるために描いたのでは

ないだろうか。これら、「静かなるに」「風涼しくうちふき

立てたるに」「おとなおとなしう」は、作者の感覚が反映

している表現なのである。

例⑦では、自然を客観的に捉えっきはなして描写するの

ではなく、物語中の自然を、作者が自らの感覚で規定して

いる。つまり、それだけ作者の主観が入り込んだ文章だと

思われるのである。

それに加えて、次のような読みはできないであろうか。

この自然の描写のあとに、「大将、尚侍のおと

Eも、折も

心細くなりゆくに、涙落ちて」と続くのに注目したい。自

然の描写に続いて大将や尚侍が心を動かされて涙を落とし

たことが描かれている。もちろん、彼らの涙には、いぬ宮

の琴の演奏のすばらしさや時節がらの心細さといったもの

もあるだろうが、「月いと明らかに」から始まるその場の

自然が涙を催させる一つの要因であると解釈してもよいの

ではないか。つまり、ここで描かれる作中人物は、琴の音

を聞いて自然の景色に触発されて涙を流していると考える

ことができるのである。このような点を考慮すると、「静

かなり」や「涼し」といった作者の感覚は即ちその場にい

る作中人物の感覚でもあるのではないか。言い換えれば、

作者や読者だけでなく、作中人物までもが、自然を感覚的

に受け取っているように読み手に恩わせる表現なのではな

いだろうか。ここまで述べると、少し深読みしすぎている

かもしれない。しかし、次の例はEうであろうか。

次の例は例⑦と同じく、楼の上でいぬ宮が琴の伝授を受

けている場面である。

⑧かく心得たまふままに、いとかしこく、いささか苦し

と思したらで、よろづの折々に著う、曲の物弾きたま

ふさま、いと愛し。柑樹削州側刺剖引制制剰矧叶劃樹

刈U叶叫叫叶羽川剖叫引制U1制州制剖珂吋叶酬剖剖

剖ベ刷

1d引寸刻釧州剖叫創剖引制削判制引。此附悔の

殿、むかし恩ひ出でたまふこと多くて、「いづ方ぞや、

木の葉高くてあるに憂し、とのたまひしは」とのたま

ふままに、涙こぼれたまふ。大将、「かの未申の山よ

りこそまかり歩きしか」と聞こえたまひ、御硯引き寄

せて、

山おろしの風もつらくぞ思ほえし木の葉も道をせ

くと見しかば

と書きつけて置きたまふ心地も、ふと悲し。

-12 -

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引き当てて峰だに分けし心には紅葉の闘をことと

やはせし

かたみにあはれに思すこと限りなし。(楼の上下・三

|五二五

1五二六)

傍線部を見てみよう。例⑧の傍線部が例⑦と異なってい

るのは、「荒々し」「静かなる」といった状態を表す形容語

だけでなく、「面白く」「あはれなり」といった、情意が込

められた語が用いられていることである。「前栽も山の木

どもも紅葉ぢ、黄櫨の紅葉、今色づく」様子を「さまざま

に面白く」と判断し、山の中から落ちる滝の音が、すべて

のものの音に重なって聞こえてくる情景を、作者は「あは

れなり」と結ぶのである。この「よろづものの音に合ひて

あはれなり」と表現する背景には、いぬ宮の演奏する琴の

音、荒々しく吹く風の音、そして滝の音、これらすべての

音が響きあっている状況を考えてよいであろう。様々に混

じり合う自然は、「あはれなり」一語に集約されている。

このような「面白し」や、「あはれなり」には、例⑦の

「静かなり」や「涼し」と比較して、よりはっきりと作者

の主観的な態度を見てとることができる。作者のこの場に

対する情感があらわれているのである。

さらに、ここでは、特に、「あはれなり」の語に注目し

たい。「静かなる所にて聞きたまへば、よろづものの音に

合ひてあは判なり」と「聞きたまへば・あはれなり」と

いう形をとっている。山の中より落ちる滝の音を聞いてい

る主体は、この場面に登場している人々である。ゆえに、

滝の音が様々な音と響き合っていると感じているのも作中

人物である。そうだとするならば、「あはれなり」に見ら

れる作者の詠嘆は、即ちその揚にいる作中人物の詠嘆でも

あると解釈できる。この場面の人物は、風情のある自然に

ふれて感慨を催している。つまり眼前の自然に作中人物の

心が動かされるさまが描かれている。傍線部では、自然が

作中人物の心情と関わり合って描かれていると言えるので

はないだろうか。

傍線部の自然が、人々の心を動かすきっかけとして描か

れているということは、傍線部の後の描写からも跡づけら

れる。傍

線部に描かれた自然を「あはれなり」と詠嘆した後に、

「尚侍の殿、むかし恩ひ出でたまふこと多くて、::」と

続く。ここでは、昔、仲忠が尚侍のために食物を求めて出

歩いていた頃(俊蔭巻)を、尚侍が思い出すことが描かれ

ているのである。自然に対して深い情感を抱いた作中人物

は、そのような目の前の自然に触発されて、過去の思い出

をよみがえらせたと考えてよいっ王宮

傍線部の自然は、「あはれなり」という感慨を作中人物

-13 -

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にもたらしたことに加え、昔を思い出させる要因にもなっ

ている。ここでは、はっきりと自然によって、作中人物の

心が動かされる様を見ることができる。

例⑧の自然はそこに風景を描くためだけに存在している

のではない。作中人物の心に共鳴するものとして、そして

作中人物の心を動かすものとして描かれているのである。

このように、例③の自然は、場面において人物と空間的

に関わりあうだけではなく、作中人物の心情と関わりあっ

て描かれていると言えよう。

秋山氏は、うつほの自然描写を、「文字どおりの意味で

その場面の背景がそうなっているというだけのもの」と評

したが、主観的表現に着目することで、人物の心情と結び

ついて掛かれる自然の描写が、うつほにすでに存在するこ

とは明らかである。

四上一一主観的に描かれた自然から景情一致の自然へ

今度は、主観的に掛かれているという点では例⑧と共通

するものの、例⑧とは種類の違う自然の描写を見てみたい。

次の例を見てみよう。これは菊の宴巻にて、源宰相実忠

に捨てられた妻と娘袖君が、志賀の山もとでひっそりと住

んでいる光景である。

⑨かかるに、かの真砂子君の母君、・(中略)志賀の

山もとにぞありける。・:(中略)・:女どち、大人一人、

E

t

童一人、下仕一人して、行ひをして、ある時には琴、琴

かき鳴らして経たまふに、制淵引制引例

qu引制州割

れに、秋風肌寒く、山の滝心すごく、鹿町音はるかに

剛司副寸吋叫剖吋剖引叫創叫割引

1d引凶相叫制引

制剖U刻刻削判制到同、母北の方、袖君、御簾を上げ

」L

て、出居の賀子に御達など居て、北の方琴、袖君琴、

乳母琵琶などかき合はせて、北の方、

秋風の身に寒ければつれもなき

袖君、

見る人もなくて散りぬる山里の

乳母、

ひぐらしの鳴く山里の夕暮れは

などいひつつ、うち泣きて居たまへるに、(菊の宴・

O一1一O二)

傍線部に注目したい。「肌寒く」という感覚を表す語や、

「心すごく」「あはれなるに」と、情意を表す語が見られ

る。これらは、前節の例⑧と同じように、作者の感覚や情

意が反映した語であると思われる。この点に着目すると、

この文も、例⑧同様作者が感覚的、感情的に描いている主

観的な文章と言ってもよいであろう。

-14 -

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しかしながら、この文章が例⑧と違うのは、これとは別

の観点から次のように分析することができるからであるロ

例⑨で注目したいのは、その作者が表した景物と情意が、

実忠に見捨てられて志賀で寂しく暮らす北の方と娘袖君の

心情にふさわしい景物であり、ふさわしい情感であるとい

うことである。北の方や袖君の心境は、彼らが口ずさむ古

歌手γEにはっきりと現れる。これらは、実忠に忘れられ、

一人でいることのつらさ、だれも訪れないことの甲斐のな

さや、寂しさ、悲しさを詠んだものである。これらの歌は、

自の前の自然に触発されて口ずさまれたのであろうか。い

や、そうではない。作中人物の心情は、ここでは引用文の

最初から存在していた。北の方や袖君遣が、志賀町山もと

で暮らしていることを書き始めた時から、彼女らの言いよ

うのない寂しさと孤独感は、当然描かれるものとしてそこ

にあったと恩われる。

ここでは、描かれた自然の方が作中人物の心情によりそ

っている。作者が選択した景物とその景物に対して抱いた

作者の情感は、その後の人々が口ずさむ和歌とあわせて、

作中人物の心と共鳴するように描かれているのである。

この自然は、美しい秋の景物によって、そこに住む母子

を包み込む。風景であるだけでなく、そこに住む人々の悲

しみを人々に代わって映し出す。一種の象徴的効果もある

と恩われる。

ここにきて、自然は、作中人物の心情と関わり合って描

かれているという域を越えて、自然と心情が一致する。秋

山氏の言う「人聞の内面が自然のかたちをとり、自然のか

たちが人聞の内面の表象である」という景情一致の定義が

まさに当てはまる例ではないだろうか。

うつほ物語には、例⑧のように、情感あふれる自然が作

中人物の心を動かす例ばかりでなく、源氏物語に特有で、

それゆえうつほとは著しく異なると言われた景情一致の自

然の描写(例⑨)まで存在するのである

2王

源氏物語に描かれた自然

-15 -

源氏物語の自然の描写において、自然が作中人物の心情

を象徴しているという点に独自性があると言われてきたこ

とは、第二章ですでに述べた。そこで、本章では、源氏物

語より賢木巻の例を取り上げ、そこに見られる景情一致の

自然を確認しておきたい。

次の例は、光源氏が伊勢への下向をひかえた六条御息所

を訪ねるため、野宮へおもむく場面である。

葵上の死後、六条御息所が光源氏の

E妻になることを、

世聞の人々も周囲の人々も期待した。おそらくは御息所本

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人も同じ思いであったであろう。しかし、予想とは反対に

光源氏の態度は冷たく、六条御息所は失意のうちに伊勢行

きを決心する。斎宮となって伊勢に下る娘に同行すること

を決意するのである。

光源氏からは文がたびたび送られてくるものの、野宮に

住む御息所は、もう会つてはならないと思う。「人は心づ

きなLK恩ひおきたまふこともあらむに、我はいますこし

思ひ乱るることのまさるべきを、あいなしと心強く思すな

るべし」(賢木・二|七六)とあるように、会えばまた光

源氏に心が動かされてしまうことを自覚し、苦しく思案に

乱れながらもなんとか執着を断ち切ろうとするのである。

しかし、伊勢出発を今日明日にもひかえた頃、いざ源氏

が訪れるという消息があると、御息所の心は揺り動かされ

る(「いでやとは思しわづらひながら、いとあまり埋れい

たきを、物越しばかりの対面はと、人知れず待ちきこえた

まひけり」(賢木・二七六

1七七))。理性的には光源氏

とはもう会うまいと思いながらも、心の底では再び会いた

いと思う御息所の気持ちがここで明らかにされる。

伊勢下向をひかえた御息所は、「下向を決意させた意志

の力と抑えがたい源氏への執着との葛藤

22u」の中で心

が複雑に揺れ動く、物思う人であった。このような六条御

息所の住む野宮を光源氏は訪れる。

⑩はるけき野辺を矧州刈りたま剥よりいとものあは判な

引叶利叫柑刻刻料計引ぺ寸寸1剖刻洲刷叫州刈利付制

引剖到目寸凶刷司司刷剖剣同剖叶

14例dMMU

聞剖刺州判制刷剖叫叶側側剖剖削細川副剣刻剛司刻刻刻叶

いと艶なり。

陸ましき御前十余人ばかり、御随身ことごとしき姿

ならで、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひ

たまへる御用意、いとめでたく見えたまへば、御供な

るすき者ども、所がらさへ身にしみて思へり。御心に

も、などて今まで立ちならさざりつらむと、血岨きぬる

方悔しう恩さる。ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、

板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居

Eも、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしき

Eづ雪

けしきなるに、神官の者ども、ここかしこにうちし

はぶきて、おのがどちものうち言ひたるけはひなEも、

ほかにはさま変はりて見ゆ。火焼屋かすかに光りて、

人げ少なくしめじめとして、ここにもの恩はしき人の、

月日を隔てたまへらむほどを思しゃるに、いといみじ

うあはれに心苦し。(賢木・二|七七

1七八)

傍線部を見てみよう。晩秋の嵯峨野を、光源氏が御息所

の住む野宮まで歩んでゆく。草花はおとろえ、虫は鳴き痩

らし、松風がすさまじく音を添えている。そのひどくもの

-16 -

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あわれな雰囲気の中で、琴の音と思われる楽の音が、御息

所の住まいの方からたえだえと聞こえてくる

21七百

嵯峨野の晩秋の自然は、物思いにふける御息所の心を象

徴したものでもあると言われている2Too都を離れるこ

との寂しさ、光源氏との恋に対する絶望、それでも断ち切

れない光源氏への執着、そういった六条御息所の様々な心

情が、晩秋のものあわれな風情をたたえる嵯峨野の自然と

なって表れている。

さらに、六条御息所の心情を投影した自然は、儀礼的な

気持ちで訪れた光源氏の心を動かしてゆく。

そもそも、光源氏は六条御息所のもとを訪問することに

あまり乗り気ではなかった。六条御息所が伊勢へ発とうと

する直前にやっと訪れようという気になったむも、「つら

きものに恩ひはてたまひなむもいとほしく、人聞き情なく

や」(賢木・二|七六)という理由からであった。御息所

を気の毒に思う気持ちと外聞をはばかる気持が、光源氏の

重い腰をようやくあげさせたのである。

その光源氏が、野官の御息所邸に向かいながら、情緒あ

ふれる自然にふれて、「などて今まで立ちならさぎりつら

むと、過ぎぬる方悔しう思さる」と気持を変化させていく。

ここでは、自然が光源氏の心に作用し、光源氏の気持ちに

変化を起こさせるように描かれる。自然が契機になって人

聞の感情が触発されていくのである。そして、このような

ものさびしい野宮にひっそりと住んでいる御息所の様を思

いやって、「いといみじうあはれに心苦し」と、ここでは

光源氏の視点から、心情が深い詠嘆を伴って描かれるので

ある。六

条御息所の側から例⑩の傍線部を見ると、御息所の心

情を象徴した自然(景情一致の自然)と読める一方、光源

氏の側から見ると、傍縁部の自然は、光源氏の心を触発し、

気持を変化させていくものとして読むことができる。つま

り、この文章からは二重の読解が可能なのである。

ここで、前章で考察したうつほの自然描写を思い出した

例⑩に描かれた自然を、六条御息所の心情を象徴した景

情一致の例と捉えると、前章のうつほの例である例⑨と相

通じる。一方、光源氏の心を動かす要因としても働いてい

る自然と捉えると、前章のうつほの例⑧で見られた手法に

類似している。つまり、例⑨、例⑧と、うつほでは単独で

用いられていた手法が、例⑮では組み合わされて用いられ

ていたのであった。

うつほの例⑧、例⑨と源氏の例⑮の自然描写との比較に

おいて、文章の優劣についてはここでは論ずまい。例⑧、

例⑨でそれぞれに見られた自然と人物の心情の結びつき

-17 -

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が、例⑩においては、一つの文章で二重に見られるという

点で、例⑩に捕かれた自然は一一層高度に作中人物の心情と

結びついて描かれている。

ノ、

まとめ

従来うつほ物語の自然描写は注目されることが少なく、

また、注目されたとしても源氏物語と比較され低く評価さ

れてきた。なぜなら、源氏物語において景情一致の自然の

描写が中心に議論されたために、うつほ物語の自然描写も

主としてその観点から考察され、景情一致の自然が見られ

る源氏・ど見られないと言われるうつほの異質性が強調され

てきたからである。

本稿は、源氏物語の自然描写とは著しく異なると言われ

るうつほ物語の自然描写に注目し、それを再度考察しなお

すことによって、うつほの自然描写に源氏との共通性を見

いだそうとするものである。

そのため、ひとまず景情一致という観点をはずして、両

作品の描写を比較した。すると、両作品の自然の描写とも、

自然と人聞が空間的に関わり合って描かれ、一つの風景を

作り出すという物語的手法によって描かれている場合があ

るということが明らかになった。

さらに、この手法で描かれたうつほ物語の自然の描写を

再度検討し、その中に主観的に捕かれた例が存在すること

に着目した。そしてそれらを考察した結果、主観的な自然

の描写の中には、自然が作中人物の心情と関わり合って描

かれているものも存在することが明らかになった。加えて、

源氏物語の自然の描写に特有と言われる景情一致の自然ま

でもが、うつほ物語に存在していたのである。

うつほ物語に描かれた自然は、第一に、風景を作るとい

う物語的手法で描かれている例があるという点で、第二に、

作中人物の心情と結びつき、心情を象徴している例も存在

するという点で、源氏物語と共通性が見られる。そして、

源氏物語とその先行作品であるうつほ物語というこ作品の

関係をふまえた上で以上の共通性を考えると、自然の描写

に関して、うつほから源氏への流れが見えてくる。第一の

物語的手法は、和歌や日記文学からではなく、同じ物語作

品であるうつほ物語から源氏物語へ受け継がれたものであ

ると言えよう。第二の自然を心情と結びつけて措く手法に

ついては、従来、古今集や崎蛤日記が源氏物語へ影響を与

えたと言われてきたが、この手法は物語作品においてうつ

ほで実践されていたのである。その上、うつほには景情一

致の自然までもが見られることから、自然の描写に関して

うつほと源氏の距離は近いと言うことができよう。

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うつほ物語の引用は、『新編日本古典文学全集うつほ物

語一

1二一』(中野幸一一夜注)に、源氏物語の引用は、『日本

古典文学全集源氏鞠語了、六』(阿部秋生・秋山度・今井

源衛校注)による。引用した本文の末尾には、巻名、『新編

日本古典文学全集うつほ物語』『日本古典文学全集源氏

物語』の巻数、ページ数を記す。

注で引用した伊勢崎語は『日本古典文辛大高竹取鞠語

伊勢物語大和鞠語』(大樟有一・築島裕枝注)による。

また、和歌の引用は、すべて『新日本古典文学大系』(『古

今和歌集』(小島憲之・新井栄蔵枝注)・『桂撰和歌集』(片

桐洋一抽出注)・『拾遺和歌集』(小町谷照彦校注))による。

(注)

〔一)島樟久基「源氏物語に現れたる自然」『瓦学

号』岩波書庖昭和十年八月

森岡常夫「源氏物語の自然」『源氏物語の研究』弘文堂

昭和二三年など.

(一一)うつほ物語の成立年代については、諸説ある。たとえば、

武田宗俊民は、「宇樟保物語の成立年代並に作者に就いて」

〔『文学』一九五一年七月号岩波書唐)において、天徳よ

第三春第八

り天元にいたる約二十年の聞に成立したと推定し、石川徹

氏は、「うつほ物語の著作年代と作者」(『宇津保物語新論』

古典文庫一九五八年)において、天徳応和の頃に原型俊

蔭巻が作られ、その後様々な過程を経て、最終的には永観

元年までに書かれたとする。また、中野幸一氏は、「うつほ

鞠語の成立時期」(『うつほ鞠語の研究』第三章武蔵野書

院一九人一年)において、うつほ鞠語全巻の成立時期を

円融帝の天元以後一条朝の初期にかけてのほぼ十年間と推

定している。

{一一一)他にうつほ鞠語の自然描写を高く評価したものに、岡崎義

恵「平安時代の文葺における季節」(『古代日本の文葺』弘

瓦堂書房昭和一八年)、野口元大「源氏物語が竹取・宇樟

保から受けたもの」(『国文字解釈と鑑賞第三三春第六号』

至文堂昭和四三年五月)がある。

{四)五十嵐力『日本文学全史巻四平安朝文学史下巻』東京

堂昭和一四年

(五)小関清明「初期の物語に於ける自然描写に就いての一考察」

『高知大学研究報告人瓦科学第三号』昭和二七年三月

(六)例えぽ、調書的な自然描写とは次のような例を指す。

時はやよひのついたち、雨そほふるに遺りける。

起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ

暮らしつ(伊勢鞠語二段一一一一頁)

-19 -

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(七)秋山度「源民鞠語の思考と方法l白然と人聞についての一

視角」『国瓦学解釈と鑑賞第三四巻第六号』至瓦堂昭

和四四年六月

この論文は広く読まれていたようである。内容をほとん

ど変えないまま増補されたものに「源氏物語の自然と人間」

〔『王朝女流瓦学の世界』東京大学出版会昭和四七年)が

ある.

この論文、または増補された論文を、引用したり参考文

献としてあげた論瓦のいくつかを示す。

-篠原昭三「風景の変貌

l自然についての記述党書|」『国

文学解釈と教材の研究第一五巻第六号』辛燈社昭和

四五年五月

・上坂信男「外への興味と内への凝視『宇津保』の世界

と『源氏』の世界」『古代物語の研究

1畏篇性の閣題

l』

笠間書院昭和四六年

・藤持潔「自然と人間」『国文字解釈と教材の研究第二

三者第一号』学燈社昭和五三年一月

・高橋亨「源氏物語の歳時意識|物語の〈詩学〉にむけて

|」『源氏物語研究集成第十巻源氏物語の自然と風土』風

間書房平成十四年

(八)以下、秋山氏の論瓦の引用は、すべて、注七で示した氏の

論文「源氏物語の思考と方法|自然と人閣についての一視

角ll」による。

(九)秋山度前掲論文(注七)一一頁

(十)秋山氏の前掲論文の他に、次の論文などでもうつほ物語の

自然描写は低く評価されている。

-情水好子「場面表現の伝統と展開」『源氏物語の文体と方

法』東京大学出堅苦昭和五五年

・桂藤祥子「源氏鞠需の自然」『源氏鞠語研究集成第十巻

源氏物語の自然と風土』風間書房平成十四年

{十一)古くは、細井貞雄の『玉車』によって両作品の影響関係

が指摘された。片寄正義氏は、細井貞雄の研究をさらに推

し進め、より精密に両作品の事件、場面の影響を考察した

{「宇津保物語と源氏物語の関係」『園畢院雑誌第四七巻

第三号』昭和一六年-一月)。また、野口元大氏は、もっと根

本的に両作品の関係を考えるならぽ、「うつほにおいてはじ

めて鞠語辞短舗の集積から出発して畏舗への途を拓いたこ

とと、それが源氏に至ってみごとな完成をみたことが、ま

ずは取りあげられなければならない」と指摘する(注三の

論文三八頁)。

(十一一)なお、うつほ物語の自然が注目されない理由は、本文で

述べたもの以外に他にも二点考えられる。

第一は、自然描写の量そのものがうつほ物語には少ない

という点である。

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例えば、清水好子氏はうつほ鞠曹の自然描写について、「膨

大な洞物語の量からすれば一パーセントにも満たないであ

ろう」という理由から、「したがって、この物語(筆者注う

つほ鞠畳間)作者の自然にたいする、または自然とのかかわ

り方にたいする関心や注意はほとんど無かったといってよ

いと思う」と述べている(注十の論

IY確かに、うつほの

自然描写は、源氏鞠語に比べれば少ないかも知れない。だ

師、量の少なさから、うつほ物語の作者が「自然とのかか

わり方にたいする関心や注意はほとんど無かった」と判断

するのは早計である。作者の自然に対する意臓は、量で一

概にはかれるものではなく、描かれている描写の質を検討

することによって明確になるようなたぐいの問題なのであ

る〔ただし、清水氏は、この論瓦において質的遣いに触れ

ていないわけではない。源氏物語の自然描写がどのように

質的に優れているかということは、議論されている)。

第三は、うつほ物語全体の記述の性格部特殊なため、う

つほに見られる自然描写のすべてが正しく認識されていな

いのではないかという点である。

うつほ物語の瓦章は全体的に散文的、記録的な傾向にあ

ると一般に言われており、源氏物語などの女流作品とは、

この点が全く異なる。うつほ物語の瓦章の特徴とは、具体

的には、行事の進行、人々の装束、調度品、唱和歌、賜禄

などの列挙、詳述である。

さらに、このような瓦章的特徴を持つうつほ物語では、

自然描写においても、同様に自然の景物を並べて説明する

ようなものが見られる。

かの君の住みたまふ所は、吹上の浜のほとりなり。宮

より東は海なり。その海づらに、岸に治ひて大いなる

松に藤かかりて、一一十町ぽかり並み立ちたり。それに

次ぎて、樺桜一並並み立ちたり。それに沿ひて紅梅並

み立ちたりa

それに沿ひて、勝闘の木ども北に並み立

ちて、春の色を尽くして並みたりa

秋の紅葉、西面、

大いなる何づらに、からのごと波を染め、色を尽くし、

町を定めて植車渡し、北、南、時を分けつつ問巴やう

にしたり。〔吹上上・一一一一八一

1一一一人二)

右は、「吹上上」巻で、松方師、種松の構える吹上の宮の庭

園を説明する部分であるa

この例は、会話瓦なので、地の

ーにおける描写ではないが、うつほに見られる客観的、散

文的な自然描写の代表的な例と言えよう.そして、このよ

うな自然描写がうつほ物語には少なからず存在する.

右に挙げた例のようなうつほの散文的な自然描写を想定

してであろうか、これまでに、うつほの自然の描写と源氏

の自然の描写は次のように言われることもあった.

片寄正義氏は、「一言にして申せぽ、宇樟保の描写は平板

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的列挙的であるのに対して、源氏物語は立体的・深層的

変化的であると言ひ得ると恩ふ」(注十一の論文三五頁)

と述べ、藤岡常夫氏は源氏物語の自然の描写を、「作者は作

中人物と同じゃうな心になって、描写して行くのである。

従って客観的に、具体的に且つ精細に描写し尽くすことで

はない。素より少女の春の四季の庭の如く、山や池の記置、

植込まれた草木町種類その他を詳細に記して、極めて客観

的な例も存するが、これは寧ろ異例に属する。さうして宇

樟保物語にこの種の描写が多数を占める事実に比較する時、

ここに紫式部の見臓が窺はれるのではないであらうか」(注

一の論文一八八頁)と説明している。

近来、うつほの客観的で具体的な描写の方法自体は、一

つのスタイルとして新たに認められてきているものの(中

野幸一「古典への招待男の鞠語・立の物語」『新編日本古

典文学全集うつほ鞠垣間二』小学館平成一二一年、片桐洋

一「『うつほ鞠語の方法(一}|主としてその写実的態度に

ついて」『源氏物語以前』笠間書院平成一一一一年などて

自然描写においては評価されないのが一般的である。

うつほ物語前、全般において、駒事を列挙し詳述するよ

うな、記録的、散文的な瓦章であること、さらに、自然描

写の中にも、このような文章の特性を備えた描写が見られ

ることから、かつて、五十嵐氏が源氏に近いと指摘したよ

うなうつほの自然描写は、この物語の描写の全般的な傾向

の中にうもれてしまったのではないだろうか.そのために、

うつほの自然描写は評価されてこなかったと思われる.

{十二一)中野幸一枝注『新編日本古典文学全集うつほ鞠畳間二一』

小学館平成一四年三九三頁

{十四)うつほ物語に、人事と結合した自然が見られることは、

すでに小関氏の注五の論文によって指摘されている。

(十五)清水好子氏の「場面表現の伝統と展開」(注十一一一人

頁)にも、二例の類似性について指摘がある。

{十六)例③の場面は、事前に行われた試楽を受けて書かれてい

る。試楽での光源氏の舞は一緒に舞っている頭中将を圧倒

するほどすぼらしかったa

光源氏のあまりの美しさに、弘

徽殿女御は「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆ

ゆし」(二一八回頁)と肌い、藤壷は光源氏にすっかり心を奪

われて無心に光源氏の舞を見ることができず、光源氏の和

歌に返歌をしてしまうのであるa

例③は、このような試楽を踏まえて捕かれるために、描

かれた場面の奥には人々の様々な思いがこめられることに

なる。密通に対する藤壷の恐れ、光源氏の藤壷への想い、

さらには、弘徽殿の女御の光源氏への憎悪など、これらを

内包しながら場面は展開する.例③で、光源氏が「いと恐

ろしきまで」美しく描かれるのは、このような事情を包み

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隠しているがゆえであろう。例③は、うつほの例①と比べ

て、場面が指し示す意味ははるかに深い。

また、例③の第一瓦を見てみよう。紅葉の下で輸になっ

て演奏する囚十人の垣代、言いようもな〈すぼらしい楽町

音と響きあう松風、それが、深山おろしかと恩われるほど

吹き乱れる。そして、その風にのって降り散る色鮮やかな

紅葉町中から、青海波を舞う光源氏と覇中将が登場する。

例③では、これだけのことがたった一文で描かれている

のである.そのため、いくつ・もの事柄が密接に結びつき、

先ほどのうつほの例である例①よりも、奥行きのある豊か

な描写になっていると感じることができる。

〔十七)関みさを「源氏物語の自然描写」『国文字解釈と教材の

研究第一巻第一号』学燈社昭和三一年四月三八頁

(十人)森岡常夫注一の論文一七八一七九頁

〔十九)第一瓦の引歌を挙げる.

「神の青垣にはふ葛も色変りて」

・ちはやぶる神のいがきに遣ふ葛も秋にはあへずうつろ

ひにけり(古今集・巻玉・秋歌下・

HaH/神社のあたりをま

かりける時に、青垣の内のもみちを見て、よめる貫之)

「松の下紅葉など」

-下紅葉するをば知らで松の木町上の緑を頼みけるかな

〔捨遺集・巻一二了恋二一"主)

「音にのみ秋を聞か由顔なり」

・もみ百せぬときはの山は吹風のをとにや秋をききわた

る覧(古今集・巻五・秋歌下・忠岡/秋の歌脅しける時に、

よめる・紀淑望)(拾遺集には大中臣憧宣の歌として掲載)

最檀の「もみちせ由

i・e・」の引歌では、「紅葉しない常緑の

山は、ただ風の音に秋を聞いているのだろうか」という歌

意を「音にのみ秋を聞か血」と逆転して用いることにより、

色彩を印象づけている(日本古典文学全集頭注量照)。

{二十)また、ここで自然の音として用いられた「波風」と「松

風」の交響は、住吉という場所がら、すでに和歌に詠まれ

てきたものである。

住の江の松を秋風吹からにこ患うちそふる神つしらな

み{古今集・巻七・賀歌・話。/秋)

例@では、右の歌をふまえて波音に松風の音が加わって

聞こえてくる情景を作りだし、そこに舞楽町音を響きわた

らせている。単に、自然の音が描かれるのみなら

f、その

音が「波風の声」や「松風」であることによって、読者は、

舞楽部行われている住吉神社の社頭だけを思い浮かべるの

ではなく、その先の住吉町浜まで思いを馳せることになる。

古今集の和歌が踏まえられた自然の音を選択することによ

って、ここでの自然の聴覚的表現は、眼前で行われている

舞楽の揚という限定的な空間を越えて、読者にさらに広い

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視野を感じさせるのである(右の和歌がふまえられている

という指摘は、玉上琢弥校注『源氏物語評釈第七巻』や、

日本古典瓦宇全集の頭注に見られる}。

(二十二「木の葉雨のごとくに降るほどに」とは、白居晶の詩

「秋タ」の「葉聾落如雨月色白似霜夜深方濁臥誰晶

掛塵休」(『全唐詩』(春四三三白居晶十}中華書局)や、

「秋の夜に雨と聞こえて降りつるは風に乱る与紅葉なりけ

り」(桂撰集・審七・秋下・邑

J

甚などを踏まえた表現であ

る"フ.

〔二十三)例⑤以外にも、例えば、楼の上下巻では、楽町音と自

然の音が響きあうさまがいくつも掛かれる。

〔-一十一一一)そして、その思い出もやはり自然を伴うものであった。

尚侍は「いづ方ぞや、木の葉高くてあるに憂し、とのたま

ひしは」と言って涙をこぼし、仲忠は、「山おろしの風もつ

らくぞ思ほえし木の葉も道をせくと見しかぱ」と和歌を詠

む.かつてもこの時と同じ山おろしの風が吹いていたので

あろう。そして木の葉を吹き散らしていたのであろう。

(三十四)いずれも古今集の歌である。

秋風の身にさむければつれもなき人をぞ頼む暮る与

夜ごとに(古今集・巻二了恋歌三・出w/素性法師)

.見る人もなくてちりぬる典山のもみちは夜の錦なり

けり(古今集・巻五・秋歌下・出吋/北山に、もみち

折らむとてまかれりける時に、よめる・貫之)

・ひぐらしのなく山ざとの夕暮は風よりほかに肪ふ人

もなし(古今集・巻四・秋歌上・自己

{二十五)例⑨が景情一致の自然の描写を試みた‘ものであるとい

う指摘自体はすでになされている(野口元大枝注『枝注古

典叢書宇樟保物語〔二)』明治書院昭和五三年)固また、

小関氏、も前掲論文にてうつほ鞠語に景情一致の自然の描写

が存在することを指摘している。ただし、本稿とは考察の

方法が異なっている。

{三十六)『日本古典文学全集源氏物語二』(小学館昭和四七

年)頭注。七七頁

{二十七)この瓦章に見られる修辞的工夫を説明しておく。

まf、諸注釈に指摘されるように、掛詞という歌の技巧

が用いられている。「浅茅が原もかれがれなる虫の音に」の

「かれがれ」には、浅茅が原が枯れている〈枯れ枯れ〉と、

血の声の直れているさまを表す〈喧れ喧れ〉の両方の宜が

掛けられているのである。

さらに、同じく諸注釈に指摘されるように「松風すごく

吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、駒の音

ども絶え絶え聞こえたる」は、村上天皇の女御徹子が野宮

で詠んだ歌「翠の音に峰の松風通ふらしいづれのをより調

べそめけん」(捨遺集巻八・雑上・昌乙を連想させる表

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現になっている。徹子は、娘の青宮に付き添って伊勢に下

った実在の人物であり、古注以来、六条御息所前伊勢へ下

ることのモデルと考えられている人である。源氏物語の作

者が、徹子の歌をここで用いることの効呆について、玉上

琢弥氏は、次のように述べる。

「この有名な歌によまれた情景世、いま、この鞠語に

実現したことに、読者は胸をおどらせる。野の宮で、

斎宮前、軍をきく。それ師、そのまま、ここにある。

古歌前生きて、琴のねと松風と、さらに虫のねを添え

て、ここにひびいてくる.そして、これから、男君と

女君閉会うのである。読者の胸はおどる。」(『源氏鞠語

評釈第三春』角川書庖昭和四O年四九六頁)

このように、掛調といった歌の技法を用い、立御徹子の

歌を下敷きにして実際の出来事を読者に思い出させる、凝

った文章になっているのである。

(-一十八)これについて、日本古典文学全集の頭注には、「嵯峨

野町秋色は、もの思う人御息所の心象の風景でもある」(七

人頁)とあり、玉上琢弥氏の『源氏物語評釈』(前掲)では、

「またこの自然の描写は、単なる嵯峨の晩秋の風物を記し

たのではない。自然の姿がそのまま御息所の人柄を、いや

その心さえをも象徴している。象徴とか感情移入とかいう

のが適当でなければ、自然がそのまま御息所の心までつな

がっていると言ってもよい」(第三巻四九六頁)と解説さ

れている。

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(もとひろ

ょうこ・本学非常勤講師)