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Instructions for use Title ニユーイングランドの清教徒植民者に就て Author(s) 佐藤, 昌彦 Citation 北海道帝國大學法經會法經會論叢, 11, 152-172 Issue Date 1945-02 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/10724 Type bulletin (article) File Information 11_p152-172.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Instructions for use

Title ニユーイングランドの清教徒植民者に就て

Author(s) 佐藤, 昌彦

Citation 北海道帝國大學法經會法經會論叢, 11, 152-172

Issue Date 1945-02

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/10724

Type bulletin (article)

File Information 11_p152-172.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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ニュ

1イシグラシドの清教徒植民者に就て

14ングラ

ンドの清教徒植民者に就て

イ左

}捧

日日

一、序

」一一口

一六

00年代の↓初期に、英岡から北米-一ユ

Iイングランドに渡航した植民者は、

一般に、清教徒

(FE55)

と栴せられる宗教上の立場を保持する人法でるった。アメリカの共後の発展に割し、之等の清教徒が、軍大友役

割を損じた事は周知の如くであるが、私は本稿に於ては、清教徒の宗教的及び政治的思想について、考察-pe加へ

ゃうとするのである。

法一

一般に清教徒の思想は民主的であるとされ、アメリカの民主主義の淵加は共庭に殻して居ると設かれて居るむ

註二

而してかLる民主思想は、カルピンから穫するものと見られて居るのである。然し清教徒と稿せられる集闘は百

はその山中に多数の分汲を含むのであり、若し之を大別するたらば長老波(可湾出ず〕去ユ自由)と分離減ハ

F35号F

}{巴({巾同)品

HML2』同国〉

とに区別する事を得るのである。而も此の二者の思想は、清教徒として概観すべき場合には、或

る共通貼を有するが、若し清教徒を分減車伎に考察すべき場合には、甚だしく相反する主張と賀践と左有するも

イシグラシド

のと見なければならゑいのである。而して此の共通鮪と不一致結とを有するこ集聞は、英闘に於て殻生したも

のであるが、アメリカに於て杭民初期に夫々特有の護展を行って居るのである。蝦にアメリカの思想の特質を、

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その淵加を此の雨者の何れに求むべきかは、夫々の思想塊の精細な検討

なくしては、到底不可能な事と言は-なければならない。本稿は、かLる清教徒の中の二分抵の思想を、その始源

その民主主義、怒る鼎に求めたとしても、

に遡って解明する事を目的とするものでるる。

二、清教徒の成立

v'タラレド

英闘は、特異友経過によって宗毅改革を遂行したの即ちへンリ

l八世がその婚姻に闘する事件を契機として

一五三三年にロ1マ数合との闘係を断絶した時、議舎は之を助けて、宗毅改革的立法を舟久留』次ぎと行ったので

b

る。王を英岡敬舎の唯一最高の首長とする「首長令」

(kpac内白石554)や、王の手初の餅畑から生れた子等

の王位機承時粧を奪って、之をアン・ボレインの子孫に興へる「稽承律」

fkrnHA密戸市町。色。HH)

はその・中の重要なも

のである。斯の如き王と議舎との共同動作によって、英閣の宗毅改革は完成し、英闘関恥似合

(hHZFE岳己与)

が成立するに至ったのである。此の宗教改革の様式は、大陸の夫とは甚だ異怒るものであり、

一見した所は、

J、、

ンリ

1八世の集まぐれから出た行銭の結果でるるかの如くにさへ見える。然し、たとへその行動の動機は王の本

意に求む可きものであるにせよ、必やしも常に王の行動に賛意そ表するものでない議舎が、王に断乎たる問民的

支持をあたへ、その気まぐれの行動に、闘民的殻岡武を付興した事は、注目されなければならない。此の駐に着目

するならば、此の宗数改革は、表面に現はれた所よりも、英一だ探い根擦を有するものと考へ・なければならぬ。即

ち常時の閤民的意識の中に除、王陀針する忠誠の念が探く存在した率、強力な反僧侶的感情が勢力を占めて居た

事、を見・なければたらゑい。かもおる念慮は何れも、王を中心として、ローマから、又蓄教的権威闘家からの干渉

を排除して、英岡山朱の岡民的設展を計らうとの闘望のるらはれに外ならないのである。英同教舎は斯の如き根擦

に立ワて、成立するに至ったものであるから、かh

る宗教改革を成J

枕した人々が、改革後に於ても、恥似合及び園

=ュ1イシグラ

νドの清教徒縞民者に就て・

一五一一一

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ニューイシグラ

yドの清教徒植民者に就て・

一五四

家に於ける絶封主義を堅く遜奉し、王及び併一止の絶封的な味方とたった事は営然で-あった。かLる人々は営時の

英岡人の大多数を市めて居たのであるが、彼等を支配したものは、寅に封建的精一帥であったのである。即ち改革

は未だ個人の魂をゆり動かし、封建的身分を破壊するには歪らや、彼等は、枇合秩序の根幹をなすものは、支配

者に到する臣下の忠誠でるると考へ、之は教舎と岡家との合一によってのみ可能であると信巴て居たのでるつ

た。臣下なる市民は、同時に数合及び闘家心中に生れ、彼等はかくてその宗教的並に現世的主君への忠誠の義務

を負ふのであった。構成は、数舎の夫も岡家の夫も、共に一紳に由来するものでるり、王と情正とは紳にのみ仕へ

るキリストその人であったのであるの

斯の如き立場に立つ人々は、英岡人中白大多数でるったのであるが、時の経過と共に、此の立脚賭の有する弱

駒が明白にされ、之に反する立場が営時の一杭合居の裂開に沿って'次第に形成される事・となった。上速の主張を仔

細KM吟味し、叉岡教合が現賢に採った制度を見れば、共庭には筒、ローマ的なものが多分に残存して居る事が

明かと友るのである。正と併正とを絶釘のものとする事は、法王に始まる階居的倫職者の絶封構成を肯定する事

と品川ど差異はないのである。王Et僧正とのみが、榊にのみ仕へるキリスト共人である・ならば、

は品川」友るルック1の大主張は何底かへ失はれる事2

となり、宗教改革の大精一岬は、地に棄てられる事となるので

「すべての信仰者

ある。若し英岡の宗教改革が主に針する忠誠の念の顕揚をのみ目的として居たならば、夫は営然とも言ぴ得ゃう

が、夫は矢張り一佃の宗教改革でるったのでるるから、プロテスタントの精神が見失はれる事は、宗教的友人々

にとっては耐え難い所であった。かくて岡敬内に存するロ

l

マ的残物を一帰し、宗教改革の「純粋」を保たうと

l、之を百行せんとする人K

が生やるに一生ったのでるる。第一の立場に立つ人々は、岡敬一次

(kp

ロm]仙のき叩)

呼ばれ、第二の立場に立つ人々は、上速の如きその目標からして、清教徒戸刷》戸旦窓口出)と呼ばれる事となったの

である。品川教徒の主張は、右の如く、純粋に改革的なるものL賞徹に-あったのでるるが、同教祇の主張が、現世

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の支配者なる王を精一利回介の支配者たらしめんとし、叉同時に精神田介の支配者なる僧正を現世の支配者たらしめん

と1た離に、一榊盟主政治との奇異友結合があった如く、清教徒に於ても、そのよ主張は一脚墜と政治との混滑となっ

て現はれたのである。即ち彼等は、一柳躍に代ふるに信仰者を以てしゃうとしたのである。清教徒に於ても、王を

精榊凶作、俗界の支配者として認める事は、岡毅誠と同様であったが、俗正の権威に代ふる

K、信仰者のあるもの

を以てしゃう、としたのであった。即ち僧正に代ふるに「選まれたる者の奉仕」の原理を以てしたのでるった。闘

家数合の制度を維持し円JL、数匡の支配を、俗人によって選まれたる巌善長賢の人達、即ち所謂「長老」(吋怒加す

長老波(市『gゲ句丹市氏自由)

同宏司団)を以てしゃうとしたのである。此の故に之等の人々は、

ム」呼ばれる事となうた

のである。此慮で注意を要する事は、

「長老」は必十しも信仰者Dすべてではないと言ふ事である。夫は謹まれ

たるものであって、その選ぶ方法がたとへ信仰者の多数が自身のカによって選ぶにあるにせよ、謹まれたる者は

濯ぶ人々より透か上位にあるのである。即ehv

選ぶ者は同質同等ではなく、信仰者の間には、優れたるものと然ら

ざるものとがあり、長老は此の優れたる人々であると言ふのがそD前提なのでるる。かL

る思想は明かに、後述

する如く、ウイツテンベルグから停-来したものでなく、ジュネーブ的なものに外友らないのである。かL

る主張

の支持者はロンドン市民の犬多数であり、叉地方のジエントルメン(の自己巾BS)の中にも、可成りの信奉者を

註一ニ

持て居たのである。斯の如き長老祇D主張を見れば、夫が清教徒を費生せしめた宗毅改革の賞徹と言ふ主張に充

分に山山買でない事は、明かであらう。夫は船田正に代ふるに長老を以でしたのであり、すべての信仰者は、未だ毅

舎のすべてに参加する事を得ないのである。かくして清教徒中に、その分妖或は正しくは第三の集振が護生する

事となったのである。之等の人K

は、併

E或は長老によって、支配せられる事を欲せや、同等た心の人建と集合

し‘且つ地方的自治の基礎の上に、調立なる数合をつくる事を欲したのであった。之は、ルツグlの主張の終局

的な表現と見る事を得るものであり、叉全清教徒運動の最左翼であって、同時に叉枇合的下民用者

ω新しく目ざめ

ニュ1イングラ

νドの清教徒植民者に就て

一五五

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ニュ1イシグランドの荷数徒植民者に就て

一五六

た気運を表現するものに外ならなかったのである。いはピ彼等は、革命的個人主義者であり、その主張に忠なれ

ばなる桂、同数合と離れ、かくして結局に於ては、王に叛き去る事ともなるのであるの彼等はパウロの命「主い

ひ給ふ、汝等かれ等の中より向で之を離れ被れたるものに蝿るL

なかれ」

(コリント後書第六章十七節)を文字

通りに取ったものであって、此の故

κ彼等は、分離波(①42dHHぽ仲間)或は潤立減

QE42Egg)とm仰せられる事

となったのである。ルツターの主張は、

一設に榊の闘を目指すものであづて、政治的デモクラシイは彼の燭れる

所では・なかったが、精州界と俗図作とを現賓の生活にが、て分離する事の不可能な俗人にあっては、特に営時の欣態

にあっては、ルツタ

lの主張からの論理的結論として、政治的デモクラシイを引き出した事は菟かれ難い所と言

は・なければならぬ。然し分離採の主張は、あくまでも榊思上の松掠に立って居たものであって、伎の民主主義の

夫とは起だ同品目る献を有して居た事は、特に注意を要する鮎でるって、此の事については次に詳論するc

ともかく

斯の如き主張が、革命的性質を有するのいμ勿論であって、此の熱情的主張の中には、後のチャールズ時代にモの

勢力を作た各種の宗振を分つ事を得るのである。今、その例をあげれば、第五王岡祇

QJ即時仲町出S2ロYH

沼市ロ)

持洗祇

(kpEE}悼凶器〉教友波(∞2貯許可色町ユ自会

whvgW25シlカ

1ズ

(agTZ)組合祇

(()Sm湾問停止

CHEUZ)等

が之である。第五王闘況は、キリストの再臨と奈一肺千年

QErEEロ)が近づきつL

ある事を信じたものであり、

討四

一持洗抵は、男女を問はや、部持に小川の流れで、之に改めて洗踏を施したものである。叉教友一淑は、彼等の信仰

クエーカーズ

を肉簡の山政動によって表明したものでるって、此の事から彼等に震勤者の名稽がるたへられたのでるるの更に、

シlカ

1ズは、荷数的急進主義の最も完全な表現であって、宗根と言ふよりは寧ろ、個人の集合と見る可きもの

であり、員の教品開を遥かの光明の中に求めんとする人々であった勺高名のクロムウエルやミルトンも此の抵の人

詑五

々であったのである。以前後に紺合抵は、各数AWの完全な向治と、岡山余からの濁立をキ白抗するものでるって、此の

賄に於ては、ハ恥も現質的・注分離派中の一分抵であり、

一六二

O年にプリマウス

(出口巧同

vqg-EV〉

に渡った、ピ

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ルグリムスプア

iザ

lス(出}雪山自由可巳

Zgゾは此の組合誠に属する人々であったのである。

斯く多数の分祇をその中に含むとは言へ、分離抵の人々は、何れも紳によって認められたユ

1トピヤへの夫々

の特殊な道をあゆむものであって、既存数舎の束縛を無叫し、枇命日的統一の債値を否定した人々に外友らないの

であって、彼等や一偉大な個人主義者と呼ぷ事も可能友のである。而して叉、斯の如き雑多段主張を有する各分派

が、分離抵の名の下に一括されるのは、夫等が草花関数舎からの分離樹立-なる黙に於て一致寸るのみで友く、夫

等が何れも英闘民生活上の確定的原理の探求に於て、問教波及び長老涙と相異怒る道を行くものである結に於て

一致するからであると考へ・なければ友らたい。宗教上の主張は、彼等の身にまとふ色とり

Eりの衣裳友のでるっ

て‘その中按をなすものは、園民生活の確定的原理の探求に劃する熱烈左努力友のであったのでるる。

以上、迷ぺた所から略k

明かとなった如く二五一-一一一生

sκ始まる英関の宗教改革によって生じた宗祇は、岡敬仮

と清教徒とであるが、貫は後者は長老振と分離汲とに分たる可きもの-なのであるn

而して=ュ1イングランドO

航民者は之等後の二汲の人K

であったのであるから、英関に於ける一世舎的背景を失って、かL

為異質的思想塊が

アメリカにが、て如何なる護展をなしたかは、極めて興味ある事柄と言は‘なければならない。その上注意すぺきは

上述した如き、清教徒思想の確定的形態は、

一六回二年の所謂清教徒革命の如き大事件を絞て始めて夫と確言し

一五三三年の宗教改革から清教徒革命に至る百年間は、清教徒思想が地ヂ線下から地上への問

現の過棋であったのである。叉特に初期スチユワ

lト家が一柳樺によって統治した一六

00年代の初期は、園教涯

が厳重に長老派の露頭を抑墜した時代でるったのである。而して長期議舎こ六問。年

l一六回二年)の初期の

作るのであって、

頃は、長老派の勢力が弐第に推積した時代であり、叉清数徒革命常時は分離抵の社民感期時代であったのである。

故に一六

OO年の始めに英同を去った清教徒は、いは官潜在的長老減、府在的分離祇とも一言ふ可きものであって

彼等がアメリカ

K於て示した所は、彼等が英闘にあって行はんとじた立闘の表現

κ外友らないのであり、而もか

ニュ

1イγグランドの清数徒植民者に就て

一五七

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一ユ1イシグランドの清教徒植民者に就て

一五八

Lる意闘が、新らしい環境に於て、その本来目指した融から如何たる費移を示したかは、まととに興味ある事と

一宮口は・なければたらぬ。但し組合汲は、後越する如く此の賭について特別友位置にあったう次意K於ては、かL

こ郡の思想塊の一厨詳制な検討を行ふ事とする。

一-一、敬曾の意義と思想の移植

清教徒は、宗教改革の営然の結果として、出現したものであったから、園民と議舎の大多数の支持を受く可き

ものではあったが、王と之を支持する宮廷人は、営然に岡敬仮であり、ある時は、奮教的色彩をさへ有して居た

のであったから、彼等の辿った経路は決して本まれたものでは・なかった。殊にアメリカへの植民が大いに行はれ

一六

OO年時代の初期は、土壇の如く、その被抑隊一時代であった。その上チャールズ一世二六二五年|一

た、六附九年)の治世に、カンタベリーの大仰

Eとなったロ

1ドハ巧ロ

FBF25は組端な保守主義者であり、教舎

と岡家との結合及び敬儀儀式の厳守を主張したから、園教徒と清教徒との争は公然たるものとなり、而も夫は後

者の不利に民附したのであった。ロードは宗教裁判所、殊に最高法院を後間として、大撃と僧侶の粛正を断行し

叉過度に新敬的な説教を取締ったのでるる。清教徒の私の鵡拝堂は閉鎖され、その集舎は弦止された。此の時代

は、大陸に於ては組問敬諸問の勢力の伸張した時代であったのであるが、英闘に於ても之を反叫し、宜容はかへつ

清 て教 信徒 数の 徒ユの

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墜定説恕ι恨ι ととる 普..,策二三 (/)

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清苦手責科三 ざeJる-'/1'をミ得議Ef主.~I;:;: かいぺ ωつσコ且 た誌 のま で」ある

るてコ 。

ぞかク 2回 二二・

ムベ

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如きが起らうとは未だ夢想し畑町去かったのである。

斯る時代に於て、市武徒の多数が、英闘を去ってアメリカに渡ったのは営然であり、彼等は未だ地ヂ線下にる

る彼等のユートピアを新.犬地で百現しゃうと試みたのであった。即ち一六二

O年にはメイフラワーに乗じてプワ

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之等の人々の成功K刺戟され、

マウスに渡ったピルグリムスフアザ

lスがるった。彼等は上速の如く、分離祇中の組合一棋に屈するものであるロ

一六二七年頃から荷数徒の指導者は、ュュ

lイングランドに植民地を形成すぺく

移民を送り、失第にその数を増し、一六一二

O年にはウインスロップ

Scvロ巧日

Ere-が一千人の開韓を率いて

移住する事となった

P

彼等はボストンを中心として殖民地を形成したのであるが、プリマウスの人々とは異って

長老誠に属する人々でるったのである。

=ュ

lイングランドに於て、此等の二大勢力闘は、如何友る枇AW集圏を

形成しゃうとしたのでるらうか。営然に彼等は、その基く所の宗教上の意見によって、植民地に於ても此の主張

する数舎を樹立せんとした。否樹立したのである。而も此の常時

kbつては、数舎は即ち市民枇舎であった。教

合組織が即ち市民一枇合の組織であり、数合組織法は同時に枇合法であったのである。故に+引に数合組織に閲する

彼等の主張bL、キリスト教の始源に遡って検討する事とする。

元来、キリスト教は数合組織について、如何なる・志向を有し、叉夫は如何なる綿

K沿って展開したものであら

うか。キリスト自身は、今日の聖書を信頼すべきものξするならば、その教への中に於て、教命日なる語を只二回

しか用ひて屈ないのでるる。

一段員の意義の数合即ちメ、ンア的「一脚の選民」なる普遍的意義に用ひた場合でるつ

て、之はマダイ停第十六章十八節に現はれて居る。叉他の一聞は、

ユダヤのシナゴ

lグ

(mw河口位向2mZ昂)

に封昨隠す

るローカルな意義を有する場合であって、之はマタイ停第十八幸十七節に現はれて居る。若し現賓の信仰者の圏

腫について問題にするならば、之に闘してキリストのな闘した所を明かにしなければ友らないが、キリスト自身

は、夫が如何なるものであり、叉如何なるものである可きかにういては、何事も言って居ないのである。然しキ

リスト教の原始時代には、信仰者は彼等自身をユダヤ数派の一と考へて居たと忠はれるのである。

生」ノ

九章二卸)。従うてその集圏は、ユダヤ敬圏の例にならって年長者

F

rrg)によって支配され殴督されたものと

(使徒行停第

考へられるのでるるc

ハルカ停第四章十六師〉。即ち原始キリスト教舎は、

ユダヤ的長老制であったものL

如くで

ニュ1イシグラシドの清教徒植民者に就て

一一九九

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一ユl

イングランドの清教徒植民者に就て

一六O

ある。然るに,次第にキリスト教が、呉邦人の聞に蹟まるに従ひ、数合の組織は、ゃうやくギリシャ的となって行

ったのでるる。此の時、ギリシャの各都市にある特権市民の支配圏瞳ヱクレシア(同rE25)が教舎組織の琵民

註七

に指導的役割をつとめたのであった。夫は単にヱクレシアなる語が、教舎を指して用びられる様になったばかり

でなく、数合の内容も亦エクレシヤに従って形成される事となったのである。而してか』る数合のギリシャ的展

聞は二つの方向に向って行はれた。その一一は、教舎を支配するものは、選まれた人々の闇簡でるる事であった。

歌合が、キリストの一例の精神を共有する同志の人k

の集圏である事は、ギリシャの都市岡家が、白山な市民の

築圏でるる事と同一であると見るのであるが、更に、ギリシャの都市が、王或ひは貴族、或ひは共他の優れたる

人或は人々によって支配されるが如く、数合も亦濯まれた職務権賞者によって支配される事となったのである。

此庖に於てユダヤの長老主義がギリシャ的根掠を有する一帯となったのである。かL

る職務権営者は‘信仰者によ

って謹まれたものであるが、使徒によって任命されるのが原別であり、信仰者の中に於ても一岬の賜物に息まれた

ハピリピ人への書第一章一節、使徒行停第六章三節!

六節、テモテ前書第五章十七節、テトスへの書第一挙七節l九節、使徒行停第六章一節一一節、使徒行停第十一章

二十九節一一

4

十節、使徒行停第二十掌十七節、使徒行停第十同意二十三節、テトスへの誓第一章五節、ベテロ前帯

第五章一節、使徒行停第一章十五節

l二十六節)。

人々でるって、長老、及び執事と呼ばれて居たのである。

+引にギリシャ都市岡家からの類推の第二の方向は、都市相支間の閥係の数合相互間の闘係への準

mk闘するも

のであった。ギリシャの諸都市を統一して、之を支配する唯一の都市が存在し-なかった如く、多数の歌合から成

る一の数命日は存十忙しなかったのである。パウロは各々地方教AWに夫自身の統一をあたへた。即ち各々はキリスト

の睡でるり、一岬の由主所固と考へられたのであり、普遍的教舎は存在せや、叉存在すべきものと考へられ・なかったの

註八

でるる。従って使徒時代、叉それに臨く時代に於ては地方的自治が金数合の組織の根幹をなして居たのでああ。

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以上の論述を要約すれば、原始品駅舎は、

ユダヤ的遺産を仲裁礎として居たが、使徒時代以後は、夫を護民せしめ

ギリシャ都市及びギリシャL」同様の組織を作し、各地ト刀敬合を支配するものは、長老者或は長老者閣であるが、

各地方数合そのものには、自治が認められて居たと言ふ市習になる。然し組織はすべて流動的なものであり、護民

的なものであって、その中に含まれて居る各分子が、夫々の時に鷹じて、願者友愛建危なすものである。教合個別

織も亦、上述した如きものに同定すぺきでは友かった。即ち夫は形式でなく、賓館であったから、夫々の時によ

って護展すぺき性格を有して居たのである。党づ斯る数合組織から時の経過と共に港大なカソリック数合が成伝

する事となったOである。

カソリック歌合は、先づ、各地方教合を支配する長老者聞の中に、専任の職務婚営者即ち併職者と然らざるも

のを生じた事に、その端を護するのである。即ちプレスピタ

lスがビショップとエルダlスとに分たれ、而も此

のビショップが、使徒の承櫨者であるとの思想が・次第に時間まる事となったのである、かくて、併と俗人との聞の

溝が次に燐まり、遂に五、六世紀頃には、俗人は全くの精神的幼年者に堕するに至ったので

bる。又一方に於て

各地方教舎の併職の聞に、・次第に首座ハ司ユE52Z『

HVMqgdが生やる事となった白が、カソリック数合成す.の第

二の要因でるった。之は、第四世紀の頃からの、首都の大監督の力によって生じたものであって、かL

る大段以円

即ち地方首都ゆ第一位の伶は、次第に他の少都市の兄弟の上に、支配構を獲得する事となったのである。換言す

れば、地方自治は漸弐失はれ、各地方救命日の内部に於て、併職考が支配すると共に、会~数合を支配する普遍的教

合即ちカソリック数合が出現したのでるり、而も此の普遍的数合に於ては、序列をたす情聴者が、使徒の侍承の

櫨威と序列の力によって支配する事となったのである。発し、それ迄の教舎が、ギリシャ都市閥円欲的であると一百

ふならば、カソリック教舎は、まさにロ

17ザ閥的であったり而して夫は壊にロ

iマ帝同の組織を、カソリック

教曾が形式的に採用したのみでなく、

ローマ帝閥とカソリック数合とは・まさに一慌のものである事

p-意味するの

ニュ1イングランドの清教徒植民者に就て

一六

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ニュ1イyグラ

yドの清教徒植民44に就て

一六

でるる。

宗教改革者は、かL

る状態に到して挑戦したものでるるが、夫は先づ僧職者の精榊的支配を否定する事から向

裂した。即ちキリストの仲保による岬への不簡の接近が、改革者の最大の目標-なのであった。然し上述した所か

ら明かでるる如く、前職者の支配は、敬合組織と不可分の関係にちったのであるから、情職者の仲保を否定する

事は、同時に、カソリック敬舎の組織を否定する事となり、叉否定しなければなら・なかった。従って営然に信仰

者。新らしい組織が生み出されなければなら・なかったのであるe

然し、ルツターは此の重要な鮎には無関心であ

ったと言っても過言ではない。ルヅターはすべての買の信仰者は一般に併であると言ふ貼に、熱情的に問執し、

借職階級を否定したが、教合の精神的調立と特権とについては、何等の注意を持はなかったのである。彼はかへ

って、官時の現世的樺力の所有者例へば王伎が、宗教上の優越佐有すると言ふ事に単純に満足し、之氏闘する珂

論を展開する事をせや、叉かくの如き事情の

Fに於てとそ彼の改革事業がよく遂行される事を信じて居たものL

如くでるった。此の傾向は、ドイツの宗敬改革者には一般的なものでるったと考へられるのである。

然るに、ドイツ以外の地に於ける改革者は此の鮎に於てルヅターとは呉る道をあゅんだのであった。彼等は攻

書殊に新約を始源的穀理の探求の震のみでなく、叉始源的数合同組織の探求の震に熱心に研究したのであった。侃判

る探求者は、各々遠隔の地に於て、各k

個別的に研究を行ったのであったが、その犬部分は得た所の結論に於て

一致したのであった。此の一致して得た数舎組織は即ち聖書に現はれた、

ヂダヤ的遺志陀がギリシヤ的確認を特た

所の長老闘の組織なのであった。此の長老主義の組織はカルピンハト『Sロ(丘三口忌cca阿部ω)のインスチチユ

lチ

(FaFEC吋町民間判吉岡町内『富山

gpp58)と

J

ジュネーブ数合規約ハ

φESS22乙笠間聞広

G5田宏同L

、品開宮市営の自φ

43

に於て明確に定型化され、

ープの州製校にが、ける訓練を・通じてあまねく欧洲中に宣布されたのであった。之によって験洲の改革点のであって

]訊品同〉

叉カルピンがジュネーブ及びフランスに於て賢践した所、

叉彼のジユネ

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教AMH

組繊の探求に志したものは、強くカルピンの影響を受けるに至り、英同には、カルピン白思想は直接にジュ

ネーブから又同時にカルピン的なるものがスコットランドから入り来ったのである。

カルピンが樹立せんとした数合組織は如何なるものであったであらうか。その中心概念は、教舎の職務携常者

は唯一の仲保者キリストイエスの説教者にすぎ友いと言ふ黙にあるのは、首然であるが、インスチチユ

1チオに

現はれた所からはその組織を次の如くに要約し得るであらう

η

即ち、

一、各教舎の牧師圏は相互に濁立したものであって、かh

る牧師法教舎によって正式に拐かれ日つ任命せられ

たものである事

25?宮

二、年長の監督者が、信仰者の聞から選ばれ、規律の戒告と賀行とを牧師と共に行ふ事ハ

Fg・4

)

市して、かL

る年長の監督者(阿古巾易自己自由)と牧師ハ宮古田宮『由)とが長老であり、此の長老固に各致合

ω支

配は勿論、金敷舎の支配が一任せられるのであるe

夫は一の法廷組織であって‘審級制を友して居るのである。

右の如き組織は長老者圏に、各地方教合、叉全教舎の支田健を附興するものであって、若し彼の理想h

とした所

が全面的に貫行されたたらば、夫はロ

lマ敬舎を完全K破壊する強聞な陸制であり新しい榊政制度貫現となるの

であった。然しカルピンはその金構を撮ったジユネlプに於てさへも、彼の理想とする所を全両的に貫現し得た

註九

のではなかった。二つの力が彼の理想の賓行を妨げたりであった。その一は、人々があまりに宗教的専制に到し

恐怖を抱いて居たと言ふ事である。

ロ17教舎の束縛は極めて強力なものであったのであるから、人々はプロテ

スタントの下に於ても、同様の事が行はれるのを甚だしく倶れて居たのであった。カルピンの説く所は、強同な

一岬政であったのであるから、ローマの将来を倶れる人A

は、精一脚的専制の賓現に到して強い反釘を表示したので

あった。第二の力は、都市権力であった。営時都市は、既に弐第にロ1マ及び封建諸伎の勢力下にありながら、

その力を諮へ、市民の私生活に封しては、相営強力な干渉を行って居たのであった。か』る朕態に於てはカルピ

-ユ1イングラyドの清教徒植民者に就て

一六

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-ユlイyグランドの清教徒植民者に就て

一六回

ンもその理怨の霞現については、或利何度迄都市営局と安協を行はざるを得なかったのである。ジエネlプに於て

は市執政官は信仰宥の行欣に闘して或程度の監督棋を有する事となったのであった。

ω如く市立H

同の牒力が殺人将組織に影響を及ぼしたと雪一口ふ事は、見方を轡へれば、人々の生活原理が{一不敬にの

み依存する時代が、ゃうやく公りつ、あった事を示すものに外ならない。而もカルピンは此の事については、之

を止むを得ざる安協と見、生活の棋本原理は依然として神政の中に存する事を確信して居たものと考へられる。

ω彼の理組が、ジエネlプに於ても、叉フランスに於ても、完全には賓現されなかった事は、カルピン仮の人

々をして、往々その理想の賓現に週逃せしめる事となったのである。彼等はるくまで理想を遁ひ、何底かに於て

之を賓現ぜんと熱望したのである。此の理想。賓現の場合に、その中心概念となったものは、ジユネlプ健制で

はなく、フランスの組織でもなく、インスチチユ!チオに現はされた所であり、尚更に進んで之等の線抵をなす

所のカルピンの忠忽そ心ものであったのである。而して之とそ買に、カルピンの一利政的貴俊主義として要約され

る所のものである。

上越のインスチチユ

l

チオに現はれた所を見れば、長老は、信仰者の問から謹ばれるのであるから、夫はデモ

クラチックな傾向を有するものと見えるのでるる。然しかLる組離がデモクラチックであると言ひ得る得には先

づ、かL

る埋まれた人々の鵡胆仰が支配する事が必要であると、一言はなければならないe

換言すれば、かL

る人々

の合議が支配力を宥して始めて

J

アモクラシズムの第一の僚件が宏たされるのである。カルピ

VAD開制に於ては、

長老は埋まれたる人であるが、か』る人々の合議に封しでは、かLる人々にあたへられて居た樺限の直接行使

ば、決して詐されて居ないのであった。即ち金醐躍の合議は個々の長老よりも徴力たのであった。換言すれば、カ

ルピンは法まれたる人が蓮まれたる所以即ち一仰の賜物を有する人である貼に着目し、その賜物の充分な伸張をぺ仰

の命と考へたのであって、すぺての信仰悼のがかh

る賜物を有する事、叉その

hに会躍の介議が構成せらる可きも

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のであるとは、考へ-なかったのである。即ち彼の思想の中には、夫をデモクラチックと一言ぴ得る話には、一岬月一的

にも最も重要なものが一つ映けて居たのであっ実。その重要な挟けたるものとそ、分離抵の人々が熱心に模索し

たものであり、十八世紀に至って意外にも神を離れて結置したもの-訟のである。而も之はルツタ

1の主張から導

き出す方がカルピンの夫から導くよりも遥かに容易なものであった。夫は即ち、個人の傘貴の根源性に闘する原

理であって、十八世紀の人々によって「円然椛」

2『。宮口芸局長干と名付けられたものなのである。然し、円然

機長」キリスト教思想特にルツターの夫との関係に闘する論越は、後に譲って、ヵルピンの思想について、論究そ

儲ける事とする。

元来、カルピンの一岬皐に於ては、一柳は窓意的且つ絶対的な意志として、表現されて居るのである?帥は威力あ

る玉の主であり、その構成は普遍的民つ非制約的である。市してかL

る一仰の概念に、彼は奮約のへプライ的選応

を附興した白であった。古代ヘプライの思想家は彼等白榊エホパの王的属性を叙述する際に、彼等の知る限り

ω、

叉彼等の陥慢する限りの、現賞、非現賓の東方的君王の形態を借り来った事は明白な事置である。彼等はそのし

ぴたげられた運命の聞に、彼等の周園の巨大な主棋者1l神話的、叉現賓の

1

iの属性を粂ね備へ、市も之等の

上に君臨するものとしてのエホパを創出したのであった。奮約に於て段、エホパはその王座の問固にケルピム

ハの

ZZず百)ハ出エジプト記第六章一節詩篇第十八章十節エゼキエル書第十章エヅラ書第二章五十九節〉やセラピ

(FZ匂Zgdハイザヤ書第六章二節l七節)や共他数多くの榊をしたがへてその王座につく最大の主として捕か

れて居る。之等の神々は、彼等がエジプト、アツシリア、ペルシア等から借り来って、之をエホパに配したもの

かく奮約は君主的且つカスト的思想に飽和して居るのであるが、カルピンは、かL

るヘプライ的

に外ならない。

東方的専制君主の思想に、更に十六世紀の君主主義を混和して、彼の・柿の翻念を構成したのである。即ち彼の中

心翻念は絶封主義的なものであって、個人の曾貴なるデモクラシイの根本原理は、彼に於ては、円程せられるに

一ユ1イγグラ

νドの清教徒植民者に就て

一六五

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-ユ

1イングランドの清教徒植民者に就て

一六六

は歪らなかったのである。奇怪にも彼は、宗教改革がその目標とした所のすべての制度と枇合形態1i夫はロ

1

マ帝岡とロ

1マ数合同を通じて、古代東方の専制主義から停ったものであるーーから逃れる事は出来なかったので

るる。彼はか』る主張を矯正する代りに、夫を新しく理由付け、その振怖を蛾げたのであった。

斯の如き、一川を宇宙を支持するものとする絶封主義から、二つの重要なコロラリイが費生した。一は道徳訟の

絶封性であり、他は一仰の裁断の必要である。此の後者から一柳取的決定論が費出する。彼の橡定説(同Jm岡山注目HH

伊丹ゲロ)

が即ち之である。而して此の決定論と人聞の院落怒る聖書の叙述とが結び付いた所に「選まれたる者」の設が生

やるのでるる。即ち人k

の多数除、愚鈍、肉的、アダムの子等であれν、界に生れ、罪を負ふものであるのである。

かくて濯まれたる人身のみが、救はれる事となるのであって、之はイザヤが既に指摘した如くたのである。

斯の如き一柳

mrによれば、例入は明かに如何なる意義に於ても、自由な魂ではあり件ない惑と友る。此底には、

人間

ω完全性の概念を容れる飴地は存しないのである。宇宙の支配者である榊は、あらゆる人k

の赴く所を深め

定めるのである。而してかくLて救はれるもの、…明に謹まれたる人々は、一神の拍車者に外ならたいのである。彼写

は一岬の敬舎に集ふ。彼等は義の使徒であり、一岬の意志が行はれ且つ義が不正を厭一せんが潟に、地ト.0大場開の銘に

召されたるものに外たらたいのである。

斯る思想を受容するのは、如何なる人k

であるかは、その思想の特質からも明かとなる所である。此の思想の

特質は、その貴族主義なる離に求める事が出来るが、英闘に於ては現置に権力を有する階級厨は、かLる榊棋を

最H

午や必要とはし-なかったのである。思想の受容は、現在の鰹制の訟明の必要の震に行はれ、又将来樹立せんと

する鰐制の義底となす需に行はれる。営時英閣の支配階居にあっては、彼等の支配を説明するものは、岡教抵

ω

理論で充分であって、

カルピンの野心的なプログラムは彼等にはかへって危除でさへあったのである。何故なら

ば、カルピンの思想は、王と併疋と一一日ふ限定された例入の支持を目標ムするものではなく、選まれたる人々の稜

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展の根仙闘を形成するものであったからである。その上カルピンの思想は未だ充分に現資化されては居ゑかった。

放に力を有し、而もその力の具鴨的護現の詮を求めつL

るった人々にとそ、此の思想は受容せらる可き性格を有

仁て居たのである。即ち英国に於て長老主義を奉じた人々は、中間度階級の人々であり、叉マサチューセッツペi

に於て、植民地を構成した長老抵の人k

は、ヂエ

lムズ一世三六

O一一一年1

一兆二五年)時代の、貴族と市民と

の中聞に位する人々であったのでるる。彼等の大部分は官裕であり、叉常時の高名の人物の近松者もるり、更に

叉かLる植民に賛成したもの

L中には後に重要な地位についた議舎人もあったのでるる。彼等の中には若し英同

に憎まって居ても恐らくは大名を注したであらう人物も決して齢くはなかった。即ゆり彼等は力を有し、たさんと

する意力乞し、その理想を賓現すべき舞牽を求め、而も英開花於て段、その理想の資現は望み難い欣態に置かれ

て居た人K

なのであった。

最.一一初のガパナ

1、ウインスロップ

(rzd」里げきちは営時間十二歳、サフォークで大エステートを持つカント

U71ジエント凡マンであり、アシスタントの一人イlbン

(恒三

cRはデンマーク法廷に於ける英閣官吏であっ

たのである。斯の如き地位にある人々が階級枇舎の風に充分に浸潤して居る事は想像に難くない所である。彼等

はすべてジェントルマンと見られる事を熱望し、新世界に於ても、欝吠界に於けるが如く、字封建的な欣態に於

て、家の子郎葉を従へた生活を望んで居たのは営然であった。彼等は階級を貴び、ジエントリーの停統的権利を

要求したのでるる。彼等はジェントルマンが支配し、人民が服従する雰園祭を最上のものとしたので

bった。か

L

る彼等の要求に一紳政的貴族主義が申八7・なく適合したのは常然であったのである。向然し叉一方彼等の中

Kは市

民的気質も大いにあった事は見越す事を得ない。彼等はいはC静在的-資本家であって、土地所有を犬にせんとし

契約

κ鋭く、取引に熱心でるった。彼等は楠民の初期に活漉友商人的生活に入り、四インド貿易の矯の舶舶を建

浩[、-ご一

Iフアウンドランド沿岸の的業に加はった極めて活動的友人々であったのである。宍想的な思想家で

ニュ1イングランドの清教徒植民者に就て

一六七

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ニュ1イγグラ

yドの清教徒植民者に就て

一六八

詮一

O

はなく、優れた行政官であり、熱心た現質的活動家であった。

斯の如き人々が、元来宗教的情熱を有し、自らを義の賀現者と考へしめる榊唱をあたへられたのであるから、

彼等が新天地に於て構成せんとし、叉現貰に構成した枇舎が如何ゑるものであったかは、充分に想像のつく所と

一言は友ければならない。ジュネーブの思想の具瞳的費現とそ彼等の目標であり、

マサチューセッツベイ地方に於

ける植民初期の統治は、之を度外脱しては到底理解する事を梓-ないのである。然し私はその叙述に入る前に、彼

等と相反する立場にあったプリマウスの植民者建について論究しなければ怒らない。

-K越の如く、ルツターは彼の大主張である「すぺての信仰者は僧L

を具開化する数合組織を樹立するには至ら

-なかった。之は、かL

る形態の毅命H

を持つ可き充分友信仰者の闇簡を彼が有し・なかった事Kよるものとも考へら

れるが、又一方には、一円洗波K劃する一般的恐怖が、その賓現を妨げたものとも考へられるのである。河洗慌に

ついては、上に蝿れる所があったが、之は宗教改革運動の最も念進的友分子でるって、停統的形態をすべて離れ

て、原始キリスト教を一件興ぜん去するものであった。然しかL

る品目準的分子が脇陣忌を招いたのは、改革運動の初

矧にあっては常然であるので・あるが、その思想中には、後K重要な役割を演じた部分をARんで属たのであった。

即ちある再抗抵のサークルに於ては、信仰者の生活のすべてを規整する、紳と信仰者との聞の聖一約(のつ425ご

註一一

の思忽、又特に信仰者相互間の夫の原始的思想が、再興されたのであった。此

ω思想は、大陸に於ては永績する

に五ら・なかったのであるが、その遁放宥のコロ=イが英闘に於て始められたのでるった。伺し夫は同様に、公然

ロンドン及びその隣接郡その他の地に於て、十六世初頭以来、秘終合合として存臨し

たる形態を採るに苓一らや、

て肘た

ωであった。此の思想の流れは、徐々にではるるが、・次第に力強くなり、すべてを信仰者の友愛の純化に

捧げる態度に迄進んで来たのである。かくて清教徒が、関数合の内に・止まる可きか否かの問題に直面した時、此

の忠惣

ω械に肘た人々は、かL

る臨時情的態度を、彼等の数合に於けるキリストの首長に到する叛逆と考へ、彼等

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の良心に働く一仰の言葉によって、敢然として同教舎からの分離を決心lたのであった。かL

る分離抵の思想はプ

ラウンハ出。宮ユ切一g当H

H

)

の著書(切cow毛げ山岳谷町三rS巾

]-pgLES550同笹口言寄与ユ邑自由・凶器MW

〉によ

詮二一

って明か托されたのである@而してプラウンは此の分離の根擦を、榊と一仰の人々との聞のコペナントに置いたの

であった。かLるコペナントはキリストの沿きて

κ従って、個人的にも閤際的にもすぺての信仰者の行動を支配

するものと見たのである。かhA

る契約の立場に立てば、あらゆる信仰者は同等の地位を有し、彼等を支配するも

のは、日仰と彼等以外には存在しない事とたるのである。教合校日の彬肢と作務とは、人々から殻するのではなく

紳から向るのであるが、之は教命刊の正営た同意の下に行はれるのであり、叉姉姉毅合間の合議は、同様

κかhh

立場に於て認められるのである。故に教舎は孤立するものでは友いが、何れも自治的存花を有するものなのであ

る。期の如きプラウンの思想が、再洗減から山川たものであるかについては疑問の飴地は充分陀あるが、

コペナント

思想に改革的意義を附したのは再洗一棋に求む可きであり、ブラウンに到するその影響も肯定すべきものと考へら

れるのである。兎も角、プラウンのかLる思想は、後の分離一ほの殻臼肢の重大友義民と・なったのであって、現世の

交問者は、教AWH

について何等の権利を有せや、叉宗較は一仰の前に於ける個人の良心の事項であるとの思想が確ム比

され、すべての組織は之から川護すべきものとなったのであった。かくては教舎の形態は、組合的

(O己宵omえな

253なものに左らざるを得たいのであって、彼等が組合祇と呼ばれるのは、此の黙に護するのである。

プラウ-J

は一五八

O年頃に、か・ミる穀倉の長初のものを樹立し、次第にその数は増加して行ったが、

ス時代の押臨時一によって、その多くは英同を去り、アムステルダムに於て数合をつくり始めたのであったの此のア

ムステルダム

K逃避したもの

LK、スクル

1ピイ(∞32r竺で合合して居たものがあったのであるが、之は一六

エリザベ

。八年・に英同を去ったものであり、

一六

O九年にはアムステルダムから更にライデン

(FqL2むに移ったのであ

-ユ

1イνグ-ア

νドの清教徒植民者に就て

一六九

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一ユ

1イνグラシドの清教徒縞民者に就て

一七

O

託一三

ったr

此のスクル1ピイライデン数合は、

ロJ

ピンソン

ハ-HOEHWCEHきるの指導下にあったのであるが、彼等は

オランダの自由友涼園祭の中で、'反抗的態度を,次第に失ひ、寛容をその特性とする椋

κなったのである。

る川山恕を有するライデン数合員中のエルダ!、プリ且スグ

12ヨEPEH凶55g乙が率いた一闘がメイフラワー

註一四

に乗船した入荷であったのである。彼等の犬部分は貧しい一介の農夫或は間合出の人k

であり、此の賠に於て、

カミ

L

マサチューセッツベイの人々とは大いに異るのでるった。彼等は、大陸に於いて、英岡の出来事と絶縁されて日

を送り、且つ寛察、なロビンソンの指導下に於て、¥原始的た組合抵の敬設と慣行とに於て訓練されて居たのであっ

た。アメリカに沌航する際には、彼等は彼等と共に意識的に、デモクラチックた組合意識を持ち来ったのであっ

たが、之は彼等の単純な要求に合し、且つ日常生活の経験から次第に形を整ふるに至ったもDなのであった,而

して此のデモクラチックた敬合組織は舶上で起草された植民地契約によって補充されたのであるが、此の新関躍

の組織法が、帥と入、叉一川の人k

・の聞の契約に存する事は、上述した所から明かであらう。此虚に於ては、人々

はすぺて榊の人として千等なのである。近代デモクラシイの棋本原理でるる、個人の傘貴性の根廿掠或は自然様の

設は勿論未だ確立されるには至ら・なかったが、人K

が紳との闘係に於て、乎等でるるとの原理が、教品開組織の又

市民組織の根義となるに五一ったのでるる。各人は侵す可からざる地位を有するが故に、教舎を支配するものは、

数合員であり、叉金歌合を支閉するもの段、臨戦合員の構成する合議即ち組合((リCHwm吋英三宮口)に外たら友い事と

なるのでるる。

かL

る思想を根基として、プリマウスに彼等が組織した枇合の内容については、後述するが、長老抵の人語の

枇内との割削川、に於て、特に注目すべき事は、組合棋の人K

の構成せんとした底は、オランダに於て、既に経験を

得たものであった事である。長老祇はその野心的なプログラムを新天地に樹立せんとしたが、組合減は、彼等の

背脱却の時代にその新らしい枇合の粧験を充分に積んで居たのであった。夫は最早プログラムでは友く、構成物で

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あり、そとには熱情はそれ程必要で・なく、中震賓な努力のみが要求されて居たのであった。之は彼等の強みであり

長老汲との抗争に於て充分な働きをなし得ペき特聡であったのでるる。

註註註註註註註

九註一

O

註註二一

註ごニ

註一四

米園憲法の由来及特質

六五回

O頁

ジエシトルマ

νとは

CS可同の階級に属するものを言ふ騎士の乎孫、裕繭な土地所有者建がその中に含まれる。

之については後に英国の士地法を論嫁する際に詳論する。

KM

出品広

]rH28ぽ英閤史水野氏著謬下径一一一一一一良

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F日間宮内ccf】UE高山口

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ロ・〈O}・3

回目2・在日仏-

J

『。ロロ冊子三・

彼等のかL

る現世的活動とカルピエズム主の間の聞係については後に彼等の経痛倒的援展について論究する際詳論す

るが、ウエ

1パ1の高名な研究は勿論之に濁する貴重な示唆である。

。・∞55mpd言。()宮『口FC02SEES-gg-EZELF-&・コペナ

yト思想は聖書に基く所であるが、ヵルピ

ν

の教説主の闘係は後誼する。

。'MWZ円同dwh山PU勺}52zhw句向。同-HG町民GF24切円。司出回》寸・コ・同-MWS同ユ2・3向島・

回g島町Q

円内田・出向mg】

310内町右目。戸円何回

MVFEZ同日ozm凸

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筆者は、植民地時代のアメりカの思想的援畏に臆する考究をなしつLあるものであるが、本稿はその一部であって、アメロ

ヵ思想の淵源kしての英園的背景について叙述したものである。筆者は思想の研究に於ては現賓に現はれた枇曾制度、極端凹組

一ユ

1イシグランドの清教徒植民者に就て

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ニュ

lイシグラ

νドの沼教徒植民者に就て

織を材籾として、新の如き制度、組織は如何なる思想にその淵掘酬を援するものであるかを論究するのがその方法である正考へ

るものである。故に本稿は、ニュ1イシグラシドに於ける各般の制度、組織の殺越の結論主主一一一言ふ可台ものであって、いはピ

俄設を除いた終結或は鐙明とも言ふ可〈叉夫自身

kしても紙数の制限の矯極めて不完全なものをならざるを得なかったもので

ある。然

L一方時間的には之等の思想が制度組織の前提をなすものであり、その上アメリカ思想の特殊な鮪は、夫が英闘で後

生したものであるに拘らず、英閤的基底を倣いた一世曾僚件の下で特異な援護を

Lたものである黙に存するので、此の一一黙から

見て未完成のものであるが敢て端技表する事としたのである。

更に此の様な未完結のものを貴重な研究に富む、上原教授詑念論文集に加へる事は、まことに遠慮すべき事と言ふ可きであ

るが、之は縮民閥単にいささかでも関係ある論究を寄せたい主の筆者の微意に出。つるものとして教授並びに執筆者各位の御許し

を願ひたいのである。

向ほ一つ私情を趨べる富市を許して頂く事とする。本稿を草するにあたって筆者の参考とした文献の多くは、亡交際臓のもの

であり、殊に亡父が青年時代、エユ

1イングラ

νド及びその近傍に於て勉車中に讃んだものが多いのであって、この意味に於

ζ本稿及び之に韻く河き諸論究は筆者には深い感慨をあたへるものなのである。ハ十九、七、二

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