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Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation �, 7(2): 239-307 Issue Date 2008-07 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/15901 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title ステイト・アクション法理の理論構造

Author(s) 宮下, 紘

Citation 一橋法学, 7(2): 239-307

Issue Date 2008-07

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/15901

Right

Page 2: ステイト・アクション法理の理論構造 URL Right · 巻3号(2006)961頁,同6巻1号(2007)157頁において,ステイト・アクション法理 における公私区分に関する歴史的変遷についての分析を行っている。

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ステイト・アクション法理の理論構造

宮  下    紘※

Ⅰ.序文Ⅱ.ステイト・アクション法理の判例分析Ⅲ.ステイト・アクション法理の理論分析Ⅳ.ステイト・アクション法理の再構成論Ⅴ.結語

Ⅰ.序文合衆国最高裁判所は,ステイト・アクション法理の問題に直面した際に,「不

可能な任務(impossible task)」1),「容易い回答の不在(no easy answer)」2),あるいは「難解な領域(difficult terrain)」3)と述べ,無力感を露呈させた。なぜ最高裁の9人の裁判官の英知をもってしても,このような言葉が発せられたのか。

ステイト・アクション法理は,合衆国憲法典に書かれざる事柄であり,裁判所によって創られた法理である。では,ステイト・アクション法理は何のために創られ,そしてその法理がもたらした帰結は何であったのか。本稿は,このような疑問を解明するために,合衆国最高裁によって積み重ねられたステイト・アクション法理の判例と同法理に関する議論を分析及び検討し,そして同法理の理論

 『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第7巻第2号2008年7月 ISSN 1347-0388※ 駿河台大学法学部専任講師1) Burton v. Wilmington Parking Authority, 365 U.S. 715, 722 (1961). ステイト・アクショ

ン法理の問題に関係している「平等条項の下で,州の責任を認識するための正確な公式を形成し,かつそれを適用することは『不可能な任務であり』,当裁判所はこれまで一度も試みたことがない」。

2) Moose Lodge No.107 v. Irvis, 407 U.S. 163, 172 (1972). 「原理を容易に述べることができても,特定の差別行為が,一方では私的であるか,あるいは,他方ではステイト・アクションに値するかどうかという問題には,しばしば容易い回答が存在しないことを認める」。

3) Lebron v. National Railroad Passenger Corp., 513, U.S. 374, 378 (1995). 「本件においてあえて難解な領域を横断する必要はない」。他方で,反対意見を執筆したオコーナー裁判官は,鉄道会社アムトラックが私人であるという前提を受け入れるならば,「私は,『難解な領域』を横断しなければならない」と述べている。Id. at 408 (O’Connor, J., dissenting).

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構造を解明することを目的とする。このような問題意識の下,日本におけるステイト・アクション法理に関する先行業績について概観した後,本稿の視座について更に具体的な説明を行うこととする。

1.日本における伝統的なステイト・アクション法理の理解

ステイト・アクション法理は,日本の憲法学において,私人間効力論の場面において参照されてきた4)。日本において,ステイト・アクション法理の有用性について,いち早く主張したのは,鵜飼信成教授であった5)。鵜飼教授は,法の下

4) ステイト・アクション法理の判例について,判例をある程度網羅的に紹介,分析をしているものとしては,管見の限りでは,特に,木下智史『人権総論の再検討』(日本評論社・2007)第2章,榎透『憲法の現代的意義』(花書院・2008)においては,ステイト・アクション法理を包括的に分析及び検討を行っており有益である。また,安部圭介「州憲法の現代的意義㈣・㈤」法学協会雑誌121巻8号(2004)1071頁,11号(2004)1831頁,榎透「ステイト・アクション法理と人権の対公権力性」比較社会文化9巻1号(2003)1頁,君塚正臣「アメリカにおけるステイト・アクション理論の現在」関大法学論集51巻5号(2001)1頁,榎透「ステイト・アクションの法理にみる『自由』」比較社会文化5巻1号(1999)1頁,木下智史「私人間における人権保障と裁判所」神戸学院法学18巻1・2号(1987)80頁,鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣・1984)183頁,芦部信喜『憲法訴訟の現代的展開』(有斐閣・1981)361頁,同『現代人権論』(有斐閣・1974)3頁参照。

 なお,拙稿「ステイト・アクション法理における公私区分⑴~(2・完)」一橋法学5巻3号(2006)961頁,同6巻1号(2007)157頁において,ステイト・アクション法理における公私区分に関する歴史的変遷についての分析を行っている。そこでは,Shelley判決を手掛かりとし,特にウォーレン・コート期におけるステイト・アクション法理における公私区分の変遷について分析及び検討を行った。これに対し,本稿は,歴史的変遷に関する分析とは異なり,公私区分を含むステイト・アクション法理の理論的な諸問題について焦点を当てている。また,ステイト・アクション法理と社会福祉のあり方の関係については,拙稿「ステイト・アクション法理と社会権」千葉法学論集23巻3号(2008・近刊予定),公私協働社会における民営化諸政策に関するステイト・アクション法理の諸問題については,拙稿「民営化時代における憲法の射程」一橋法学3巻3号(2004)1317頁をそれぞれ参照。

 その他に,個別の判例評釈からステイト・アクション法理の分析を行ったものとしては,藤井樹也「非営利法人の権利侵害行為とステイト・アクション法理」国際政策研究7巻2号(2003)15頁,木下智史「Brentwood Academy v. Tennessee Secondary School Athletic Association, 531 U.S. 288 (2001)」アメリカ法2002‒1(2002)151頁,安部圭介

「ステイト・アクションの法理の現在」ジュリスト1207号(2001)156頁,君塚正臣「労災審査手続とステイト・アクション」ジュリスト1191号(2000年)66頁,遠藤比呂道「陪審選定手続における人種問題」芦部信喜編『アメリカ憲法判例』(有斐閣・1998)228頁,寺尾美子「Shelley v. Kraemer」『英米判例百選〔第三版〕』(有斐閣・1996)60頁,芦

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月56

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の平等を定める憲法14条の解釈において,「本条による国の義務は,ひとり立法権,行政権についてのみでなく,司法権にも及ぶことはいうまでもないから,私人が,…差別的な措置として裁判上請求していることを,裁判所が認めるならば,国家が,不平等な取扱いをしたことになり,憲法十四条に違反するにたることは否定できない」6)と述べ,ステイト・アクション法理について言及している。また,宮沢俊義教授もステイト・アクション法理についての理解を示していた。すなわち,合衆国最高裁は,「私人の行動であっても,それが公権力によって,裏書されるかぎり,そこに国家行動(state action)の要素が含まれると見るべきであり,そうした行動によって人権の侵害がある場合は,国家権力による侵害がある場合と同じに扱うべきである,という考え方を,しだいに育てつつあるようである」と述べ,宮沢教授は,この考え方が「非常に参考になる」と評価していた7)。

部信喜『人権と議会政』(有斐閣・1996)582頁,紙谷雅子「Georgia v. McCollum, 112 S. Ct. 2348 (1992)」アメリカ法1993‒2(1993)30頁,同「民事陪審における絶対的忌避」北大法学論集43巻5号(1993)1244頁,同「Edmonson v. Leesville Concrete Co., Inc. 111 S. Ct. 2077 (1991)」アメリカ法1992‒2(1992)323頁,藤田浩「判例紹介Edmonson v. Leesville, 111 S. Ct. 2077 (1991)」広島経済大学研究論集15巻3号(1992)105頁,橋本裕蔵「Georgia v. McCollum 60 U. S. L. W. 4574」比較法雑誌26巻3号(1992)48頁,木下智史「合衆国法典42編1983条に基づく訴訟とステイト・アクション論」判例タイムズ508号(1983)25頁,長岡徹「ショッピングセンターにおけるビラまき行為を認める州法と連邦憲法」判例タイムズ451号(1981)19頁,畑博行「Jackson v. Metropolitan Edison Co., 419 U.S. 345」アメリカ法1976 ‒ 2(1976)255頁,田中英夫「Reitman v. Mulkey, 387 U.S. 369 (1967)」アメリカ法1968‒2(1968)298頁などがある。

5) 鵜飼信成『憲法』(岩波書店・1956)。6) 鵜飼・前掲注5)82頁脚注8。また,鵜飼教授は,ステイト・アクション法理が,「現代

の最大問題である貧乏の問題,経済的不平等の問題」にとって有効な手段となりうることを主張している。つまり,「憲法が直接には私的関係に適用されないという立場から出発しながら,究極的には国家行為の範囲を妥当な限り広く解釈することによって,現代の当面する最も大きな課題,経済的不平等の問題の解決策をも模索することが,今日の急務ではないか」と述べて,鵜飼教授はステイト・アクション法理の意義を説いた。鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣・1984)214頁参照。

7) 宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣・1971)118頁。もっとも,宮沢教授が依拠するステイト・アクション法理は,Shelley v. Kraemerである。Shelley判決は,本稿において指摘するが,多くの批判を浴び,すでに先例としての意義を有しているかも疑いの残る判決であることに注意を要する。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 57

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2.日本国憲法解釈論への応用

その後,ステイト・アクション法理の導入の可能性を本格的に拓いたのは,芦部信喜教授であった。芦部教授は,民法の一般条項を介して憲法の価値を取り込む間接効力説では,純然たる事実行為による人権侵害を真正面から憲法問題として争うことができないと考え,そのような場合には,ステイト・アクション法理が参考になると言う8)。芦部教授によれば,ステイト・アクション法理は,「人権の歴史は,疑いもなく,国家の恣意からの自由の歴史」という建前を維持した上で,「間接適用説では救うことのできない私人または私的団体による人権侵害に対して,ある程度人権規定の効力を拡張できる可能性を示唆する意味で重要である」9)。そして,芦部教授は,ステイト・アクション法理について,「人権規定が公権力と国民との関係を規律するものであることを前提としつつ,ⅰ公権力が,私人の私的行為にきわめて重要な程度

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にまでかかわり合いになった場合,または,ⅱ私人が,国の行為に準ずるような高度に公的な機能

4 4 4 4 4 4 4 4

を行使している場合に,当該私的行為を国家行為と同視して,憲法を直接適用するという理論である」10)と説明した。そして,伝統的な間接効力説では,「純然たる事実行為に基づく私的な人権侵害行為が憲法による抑制の範囲外におかれてしまう」ため,このような場合にはステイト・アクション法理が「参照に値する」と芦部教授は考えていた11)。芦部教授の精力的な紹介により,日本の憲法学においてもステイト・アクション法理に対する理解がしだいに広まっていった。

もっとも,芦部教授は,「憲法論として争えるいろいろのルートを残しておきたいという思いがあり」12),私人間効力論をステイト・アクション法理に一本化するのではなく,ドイツの第三者効力論の枠組みを維持しつつ「直接適用か間接適用かを二者択一で割り切ってはならない」13)という立場を採りながら,純然た

8) 芦部教授は,国有財産の理論,国家援助の理論,特権付与の理論,司法的執行の理論,統治機能の理論の5類型に分けて,ステイト・アクション法理をまとめている(芦部信喜『憲法学Ⅱ人権総論』(有斐閣・1994)314頁)。

9) 芦部・前掲注4)『現代人権論』9頁。10) 芦部信喜・高橋和之補訂『憲法〔第四版〕』(岩波書店・2007)114頁。11) 芦部・前掲注8)314頁。12) 芦部信喜『宗教・人権・憲法学』(有斐閣・1999)226頁。13) 芦部・前掲注8)110頁。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月58

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る事実行為による人権侵害に対してはステイト・アクション法理を用いる,という複合的な枠組みを提示した14)。また,芦部教授は,「私が純然たる事実侵害による人権侵害の救済に参考になるのではないかと考えたステイト・アクションの判例は,主として1960年代までの判例」15)と述べているとおり,ステイト・アクション法理が縮小していった1970年代以降の同法理に関連する判例についての言及は限られている。

その後,木下智史教授が,バーガー・コート期におけるステイト・アクション法理の判例や学説を整理し,同法理の「後退」と「混迷」についての分析を行った16)。そして,比較的最近では,「日本国憲法を『政府』の基本法と捉えた場合」,

「憲法の権利章典は,あくまで政府及び州の行為にしか適用されない」という前提に立ち,「私人による行為であっても,どこまでが政府もしくは州の行為といえるのかという形で議論」を組み立てる方が適切である,という指摘がなされている17)。このように述べる松井茂記教授は,私人間における憲法上の権利侵害の問題をステイト・アクション法理に一本化させることをすすめており,首尾一貫した立場として注目に値する。松井教授は,「憲法は政府の行為を拘束し,私人の行為を拘束しない以上,私人間適用を論じる余地はない」18)と断言する。そし

14) 芦部教授は,「直接効力か間接効力かの二者択一で割り切らないで」,ステイト・アクション法理も用いる,という立場を採った。つまり,「ドイツの間接効力説もアメリカのステイト・アクションの法理も,ともに,それぞれの法の伝統,憲法の規定の枠内で,憲法の私人間効力一般的に問題にする議論であり,いずれも伝統的な人権は第一次的には国家権力に対するものと考えながらも,人権は全法秩序の基本原則であり,できる限り広く私人間の人権侵害を規律する効力を認めなければならないとしている点では,同じ方向を目指すものだと私は考えますので,二つの法理を統合できないとは思わなかった」(芦部・前掲注12)226頁)という一節が示すとおり,芦部教授は,ステイト・アクション法理を人権侵害から救済するための手段として捉えていた。

15) 芦部・前掲注12)227頁参照。16) 木下・前掲注4)「私人間における人権保障と裁判所」115頁参照。17) 松井教授は,ステイト・アクション法理の問題枠組みを次のように論述している。  「もし『憲法』を政治社会における『政府』の権限を制約するものだと理解すれば,『憲

法』の射程の問題は,先ず第一に『政府』の行為は総て『憲法』に拘束されると解されよう。その活動が私経済的であろうが国庫的であろうが,『政府』の役割として,或いはその手段乃至補助として行われている以上,『憲法』からの自由を認めることは妥当ではあるまい。とすれば,問題は,何処までが『政府』の行為かであろう」。松井茂記「憲法と新しいリバータリアニズム」ジュリスト884号(1987)53頁。

18) 松井茂記『日本国憲法〔第2版〕』(有斐閣・2002)57頁。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 59

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て,「日本国憲法を『政府』の基本法と捉えた場合,議論の組み立て方はこのアメリカの方が適切であるように思われる。したがって,憲法が適用されるのは,

『政府』の行為に限られると考えるべきである。憲法上の権利の私人間適用ないし第三者効力といった枠組み自体を放棄すべきである」19)と主張する。

また,君塚正臣教授は,最新のステイト・アクション法理の判例分析を行った上で,「ステイト・アクション理論が憲法上の権利をあくまでも対国家的と捉えていることは,仮にステイト・アクション理論そのものに賛同しないとしても,憲法上の権利は対国家的なものと考える多くの論者にとっては理論構築上の参考になろう」20)と述べている。榎透准教授もまたステイト・アクション法理が「国家からの自由」を中心とする人権論を構築するにあたり,同法理における「自由観」について検討を行っている21)。このような流れを概観する限りでは,ステイト・アクション法理は日本の憲法学においても一定の理解を得ることに成功してきたように思われる。

3.ステイト・アクション法理の考察の注意点

しかしながら,ステイト・アクション法理に対しては,そもそも導入する実益があるか,あるいは合衆国憲法の下での特有な法理であって,日本国憲法の下ではそのような法理を展開するのは困難である,といった批判が出されてきた。

前者の批判については,人権侵害を根拠に不法行為を理由とする差止めあるいは損害賠償が問題となる場合には,日本では民法90条や709条などの解釈を通じた間接適用の手法を通じて同様の結論を導くことが可能であるという指摘がある22)。この点,事実行為による人権侵害についてステイト・アクション法理の積極的な導入を試みるべきであるというような書き方は「ミスリーディング」23)であることを芦部教授自身が認めている。しかし,「同様の結論を導くことが可能である」からといって,ステイト・アクション法理の意義がなくなるわけではな

19) 松井・前掲注18)325頁。20) 君塚・前掲注4)37頁。21) 榎・前掲注4)「ステイト・アクションの法理にみる『自由』」。22) 長谷部恭男『憲法〔第4版〕』(新世社・2008)141頁。23) 芦部・前掲注12)227頁。

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く,間接適用の手法をとるか,ステイト・アクション法理の手法をとるかは選択の問題であり,「憲法解釈としてのステイト・アクションの法理を無用として排除する必要はない」24)と思われる。また,不法行為が問題となる場面においても,純然たる私人と私人の場合には,ステイト・アクション法理が機能する「場」さえない,という批判がある25)。しかし,後に論じるとおり純然たる私人と私人の場合にステイト・アクション法理をあえて機能させない理由があれば,むしろそのような「場」を提供しない同法理にはそれなりに意味があるのではないだろうか。もっとも,ステイト・アクション法理を日本において具体的な形で展開しようとする場合には,これらの批判や指摘により深いレベルで向き合わなければならないが,本稿の目的は,ステイト・アクション法理の実際の訴訟論よりも原理論に力点を置いている。これらの批判や指摘があるからといって,ただちにステイト・アクション法理の原理論としての研究の価値が損なわれるわけではないと考えている。

また,日本国憲法の下ではステイト・アクション法理を展開するのが困難であるという批判については,次の3点が挙げられる。第1に,ステイト・アクション法理が,合衆国における人種差別の問題を解消するために発展してきた,という指摘がある26)。この指摘は,確かに正しい。もっとも,本稿において確認するとおり,ステイト・アクション法理が人種問題の場面のみにおいて認められてきたわけではない。また,近年の同法理に関する議論が,民営化やインターネットの文脈において登場してきていることにかんがみれば,同じように民営化が進展し,インターネットが普及する日本においても,ステイト・アクション法理を参照する価値は損なわれないものと考えられる。

第2に,社会権規定を有する日本国憲法の解釈として,福祉問題に関するステイト・アクション法理は,合衆国における判決と同様の帰結を導き出しうるだろうか,という疑問も生じるであろう27)。しかし,この点についても本稿において

24) 芦部・前掲注12)227頁。25) 青柳幸一『人権・社会・国家』(尚学社・2002)40頁。26) 君塚正臣「伝統的第三者効力論・再考(二・完)」関西法学論集49巻5号(1999)49頁。27) 君塚正臣「アメリカにおけるステイト・アクション理論の現在」関西法学論集51巻5号

(2001)36‒7頁。

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確認するとおり,ステイト・アクション法理は,社会福祉の権利と密接に関係していることがすでに認識されて,社会福祉の権利を拡充させていくための法理として捉える議論も存在している。憲法典に社会権規定が記載されているか否かという一事をもって,ただちにステイト・アクション法理が参照に値しないということにはならないと思われる。

第3に,ステイト・アクション法理が,本稿において指摘するとおり,連邦主義の発想と深く関わっていることは確かである28)。しかし,芦部教授が述べているとおり,「アメリカの判例理論をその背景ないし意義を究めることなしに『直輸入すること』が正当でないことは,いうまでもない」が,「今日におけるstate action理論は,Civil Rights Cases時代の連邦主義との関連でもっぱらその基礎が形成されているのではないことにも,注目しなければならない」。そして,「state actionは一般にgovernment actionと同義に用いられ,それに関する理論は,いかなる特別の事実状態にある私的行為に連邦憲法を適用するかを決定するために,私的行為と公権力行為とを区別するラインを引くことを主たる目的として,判例上発展したものだといってよい。その意味では,state actionの観念は,州の領域への連邦の介入を制約するということよりも,広く一般的に,憲法の拘束を受ける公権力行為の意味を定めることによって,公権力が私人に対して義務を課することを制約する機能を営むものだということもできる。そうだとすれば,とくに間接適用説によってカバーできない純然たる事実行為による人権侵害を憲法で規制する解釈技術として,state action理論を参考にすることは,連邦制度をとらないわが国でも決して『場ちがい』ではない,といわなければならない」29)。

いずれにしても,ステイト・アクション法理を日本の私人間効力論をめぐる議論と結びつける際には,「どれを特殊アメリカ的要素と捉え,どれを普遍的問題,すなわち私人間における人権保障のありかたの問題として捉えるべきかという点」30)を考慮しつつ,日本国憲法にも妥当するステイト・アクション法理の基本的思考を抽出することが重要であるように思われる31)。

28) 尾吹善人『憲法』(東出版・1970)188‒9頁。29) 芦部・前掲注4)『現代人権論』365‒6頁。30) 木下・前掲注4)「私人間における人権保障と裁判所」148‒9頁参照。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月62

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以下では,ステイト・アクション法理の理論的構造について,まず,主要な判例を分析し,その上で,ステイト・アクション法理が,関係性理論,公的機能理論,執行理論の3つに分類できることを示す。そして,いずれの理論も,公私区分,連邦制,権力分立制という憲法の基本原理と関係していることを論証し,それぞれの原理についてステイト・アクション法理との関係で分析と検討を深めることとする。

Ⅱ.ステイト・アクション法理の判例分析ステイト・アクション法理とは,①私人の行為が政府の援助と恩恵に依存して

いる場合,②私人の行為が伝統的な政府の機能を果たしている場合,あるいは③私人による侵害行為が政府の権威によって更に重いものとされている場合には,裁判所が私人の行為を憲法によって規律する法理である32)。

31) なお,私人間効力論のリーディング・ケースである三菱樹脂判決において,最高裁は,「何となれば,…事実上の支配関係なるものは,その支配力の態様,程度,規模等においてさまざまであり,どのような場合にこれを国または公共団体の支配と同視すべきかの判定が困難である」(最大判昭和48年12月12日民集27巻11号1544頁)と述べ,ステイト・アクション法理の援用を避けていると考えられる。

 もっとも,日本におけるいわゆる自衛官合祀事件(最大判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁参照)ではステイト・アクション法理を用いて説明する方が妥当であるという指摘もあり,これまでの日本の判例を考察する上でも同法理を応用する可能性は排除されていないと思われる。芦部・前掲注12)228頁参照。

32) Edmonson v. Leesville Concrete Co., 500 U.S. 614, 621-2 (1991).  なお,本稿で論じているステイト・アクション法理については,あらかじめ次の3点

を付け加えておく。第1に,ステイト・アクション法理を,「州の行為」法理と訳すことはミスリーディングである。確かに,Civil Rights Casesにおいては,文字どおり「州の行為(State action)」の内容が争点になっていたが,ステイト・アクション(state action)法理における,stateとは,連邦,州,地方のあらゆる公的機関及びこれらの公的機関に属している公務員を指していることには注意を要する。See LAURENCE H. TRIBE, AMERICAN CONSTITUTIONAL LAW 1961 (2d ed. 1998).

 第2に,Civil Rights Casesにおいて示されたとおり,ステイト・アクションの要件は,修正13条(奴隷的拘束の禁止)には当てはまらないと考えられている。つまり,権利章典の各規定は,政府に向けられていると解されてきたが,修正13条のみは,私人の行為も拘束するものとして考えられているためである。See Glenn Abernathy, Expansion of the State Action Concept under the Fourteenth Amendment, 43 CORNELL L. Q. 375, 375 (1958).

 第3に,ステイト・アクション法理そのものではないが,ステイト・アクションという要件は,公務員の不法行為責任を規定する合衆国法典42編1983条訴訟における,州法の「名の下に」という概念と同一視されている。つまり,1983条訴訟においては,州法

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 63

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それぞれの要件について見ると,①の要件は,関係性(nexus又はentangle-ment)理論と呼ばれるものである。関係性理論は,ステイト・アクション法理として,比較的遅くに登場した。しかし,その後は,多くの事案において,正面から州と私人の行為の間の関係性が問われるようになり,ステイト・アクション法理の重要な理論として機能してきた。もっとも,関係性理論は,同種の事案であっても個別具体的な事実によって最高裁の判断が分かれるため,他の理論以上に不明確な部分が多い。

②の要件は,公的機能(public function)理論と呼ばれるものである。公的機能理論は,ステイト・アクション法理としては最も早く形成された。1883年Civil Rights Casesのハーラン裁判官の反対意見33)に,公的機能理論の手掛かりが見つけることができたためである。しかし,バーガー・コートからレンキスト・コートの前半にかけては,レンキスト裁判官(後に首席裁判官となる。)が提示した厳格な要件の下,公的機能理論は著しく衰退し,現在ではかろうじて残っている。

③の要件は,執行(enforcement)理論と呼ばれるものである。執行理論は,3つの理論の中で,最も論争を誘発してきた理論である。初期の判例以来,批判され続けた理論であるため,その後は,この理論を真正面から再肯定した判例は存在していない。にもかかわらず,執行理論は,後に検討するステイト・アクション遍在の議論と関係するため,一定の重要な論点を抱えている点で見逃すことができない。なお,論者によっては,執行理論と関係性理論とを区別せず,執行理論を関係性理論の中に含めることもある34)。

ステイト・アクション法理の変遷は,大きく分けて次のように分析することが可能であろう。ステイト・アクション法理は,1940年代に生誕し,ウォーレン・コートの時期に開花した。そして,同法理の射程は,バーガー・コート及び

の「名の下に」なされた行為が,ステイト・アクションとみなされることになる。以下で考察する判例のいくつかのものは,州法の名の下に行動しているかどうかという要件が問われることによって,ステイト・アクション法理が問題となっている事案もあるため,1983条訴訟も関連する範囲で検討を行っていく。See United States v. Price, 383 U.S. 787, 794 n. 7 (1966).

33) See id. 40-2 (Harlan, J., dissenting).34) See ERWIN CHEMERINSKY, CONSTITUTIONAL LAW 517 (3d ed. 2006).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月64

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1980年代までのレンキスト・コートにおいて著しく縮小していった35)。1990年以降,ステイト・アクション法理は,1980年代までの縮小化の流れに歯止めがかかり,先に示した3つの理論に形式化された。全体として,最高裁は,各事案の事実に照らした上で,ステイト・アクション法理に関する問題を判断する傾向にあると思われる。

以下では,ここで区分した①関係性理論,②公的機能理論,③執行理論の3つに分けて,それぞれの主要な判例の分析を行っていくことにする。

1.関係性理論

⑴ 概観関係性理論とは,政府の行為と私人の行為が密接な関係にあるときに,私人の

行為を憲法によって規律する,という理論である。この理論は,政府の行為と私人の行為との結びつきに注目するものである。この理論の下では,政府の行為と私人の行為との結びつきの深さがどの程度ならば,又はその結びつきがどのような種類のものであるならば,ステイト・アクションとして認められるかが問題となる。この関係性ないし結びつきは,公的機関の認可や承認などによる関与があるかどうかによって,判断される36)。仮に私人と政府が関係している行為が,違憲なステイト・アクションであると判断されれば,政府は,その私人との関係を絶つか,さもなければ,その私人の行為は憲法の審査に服することになる。

関係性理論の手掛かりは,Civil Rights Casesにおけるハーラン裁判官の反対

35) See KATHLEEN M. SULLIVAN ET. AL. CONSTITUTIONAL LAW 892 (15th ed. 2004). See also Martin A. Schwartz & Erwin Chemerinsky, Dialogue on State Action, 16 TOURO L. REV. 775, 780-1 (2000). 日本における法理の紹介も,論文公刊当時までの法理が縮小期にあると指摘している。木下・前掲注4)「私人間における人権保障と裁判所」80頁,榎・前掲注4)「ステイト・アクションの法理にみる『自由』」1頁を参照。君塚・前掲注4)「アメリカにおけるステイト・アクション理論の現在」30頁は,「ステイト・アクション理論の限りない衰退には歯止めがかかり,現在何とか限定的に生き残ったと言える」という評価を下している。

36) 政府と私人との関係性などに着目をする要件は,政府と宗教との関連性の観点から政教分離違反を判断する際の要件とも似ているため,ステイト・アクション法理と政教分離の法理は,類似しているという指摘もある。See Michael W. McConnell, State Action and the Supreme Court’s Emerging Consensus on the Line Between Establishment and Private Religious Expression, 28 PEPP. L. REV. 681 (2001).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 65

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意見の中にすでに隠されていた。つまり,ハーラン裁判官は,「法が宿の経営者に特権を付与し,その経営者が公衆に対して一定の義務と責任を負っている」37)

場合,又は宿が「法による直接的な認可をもって造られ,維持されている」38)場合,その私人の行為がステイト・アクションと認定できることを示していた。ハーラン裁判官のこの反対意見を手掛かりにして,関係性理論は,3つの理論の中で最も遅れて登場したが,1960年代以降,しだいに確かなものになり,関係性理論を理由としてステイト・アクションが認定された事案は,他の理論の事例よりも多い。また,最近の判例には関係性理論がステイト・アクション法理の根幹をなしているとも思える「関わり合い(entwinement)」のテストを提示する判決も現れており,以下,詳しく検討する。

⑵ 判例分析1961年Burton v. Wilmington Parking Authority 39)において,「関係性」を根拠

としたステイト・アクションの存在が初めて肯定された。本件では,デラウェア州ウィルミントン市駐車当局が運営している駐車場敷地内において,レストランを経営している私人が,そのレストラン内で黒人に対するサービスの提供を拒んだ行為は,平等保護条項に反するかどうかが争われた。最高裁は,Civil Rights Casesにおける「個人の諸権利に対する個人による侵害は,修正14条の主題ではない」という部分を引用した上で,原則として,修正14条の平等条項が,私人間の差別行為に適用されることがないことを確認した40)。ところが,本件については,政府が土地と駐車場を所有していること,本件レストランは,政府と物理的にも財政的にも統合されていること,両者が相互恩恵の関係にあること,そして政府が黒人差別という不正義を実質的なものにしていることを理由に,レストランの行為が,「修正14条の保障範囲の外にある純粋に私的な行為と考えること

37) Civil Rights Cases, 109 U.S. at 41 (Harlan, J., dissenting).38) Id.39) 365 U.S. 715 (1961). Burton判決以前にも,下級審において関係性理論がすでに用いられ

ている判決があった。See, e.g., Kerr v. Enoch Pratt Free Library, 149 F. 2d 212, 216-9 (4th Cir.1945). 下級審のステイト・アクション法理についての研究については,See Jody Young Jakosa, Parsing Public from Private: The Failure of Differential State Action Analysis, 19 HARV. C. R. - C. L. L. REV. 193 (1984).

40) Burton, 365 U.S. at 722.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月66

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ができなくなった」41),と最高裁は判断する。つまり,「州は,[レストラン]と相互依存関係へと入り込んでしまったために,人種による差別行為の共同関係者

(a joint participant)としてみなされなければならないのである」42)。このように,私人と州が「共同関係者」とみなされた場合に,ステイト・アクションの存在が認められる,という関係性理論が登場した。

Burton判決のこの趣旨は,Evans v. Newton 43)においても「関わり合い(entwined)」44)という言い回しを用いて,肯定された。このように,Civil Rights Casesにおける原則論に配慮しながらも,人種差別問題を解消する目的で,関係性理論としてのステイト・アクション法理は生誕した。

その後も,Lugar v. Edmondson Oil Co. 45)において,最高裁は,控訴審における共同関係の認定の誤りを指摘した上で,「上訴人は,ステイト・アクションを通じて財産を剥奪されたのであり,それゆえ州法の名の下に,被上訴人は,その剥奪に関与していた」46),と判断した。

本件において,最高裁は,「『ステイト・アクション』の要件に忠実に従うことは,連邦法と連邦司法の権限の射程を制限することを通して,個人の自由の領域を維持する(preserve)ことを意味する。さらに,その要件によって,州,州の機関又は州の公務員は,本来責任を負うべきでない行為に対する帰責性を回避することができるのである」47)とステイト・アクションの要件の意義について述べている。

また,1991年Edmonson v. Leesville Concrete Co. 48)において,最高裁は,関係性理論によるステイト・アクションの存在を肯定し,民事裁判における陪審員の選定過程において,被告による人種に基づく陪審員の排除行為は,平等保護条

41) Id. at 725.42) Id. 法廷意見に対して,ハーラン裁判官は反対意見において,本件が,連邦裁判所では

なく,州裁判所において判断されるべき問題であると述べている。Id. at 729 (Harlan, J., dissenting).

43) 382 U.S. 296 (1966).44) Id. at 299.45) 457 U.S. 922 (1982).46) Id. at 942.47) Id. at 936.48) 500 U.S. 614 (1991).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 67

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項に反することを宣言した。本件において,ケネディ裁判官は,Edmonson判決における法廷意見で,ステイト・アクション法理がどのようなものであるかを検証している。まず,ケネディ裁判官は,Lugar判決を引用しつつ,ステイト・アクション法理が個人の自由の領域を維持し,かつ州に対して課されるべき責任を明確化している,と指摘した。その上で,ステイト・アクション法理の問題とは,

「政府の領域がどこで止まり,そして私的領域がどこから始まるか」49)という問題である,と述べている。さらに,同裁判官は,次のように続けている。「私人間の行為は,多くの場合,憲法の射程を越えたところに存在するが,私

人が政府の権威と共に行動していると考えられなければならない程に政府の権威がその私人の行為を支配していれば,結果として,その私人の行為は,憲法の拘束に服することになる。これこそが,ステイト・アクション法理である。すなわち,ステイト・アクション法理は,私的領域と,憲法上の義務を常に伴う公的領域との間の『本質的区分』を探求するものである」50)。

また,ステイト・アクション法理の分析には次の基準が先例によって確立されていることを確認した。「われわれの先例によれば,特定の行為ないしは行為の過程が性質上政府のも

のであるかどうかを決定する際に,次の点を吟味することが妥当である。すなわち,行為者が政府の援助と恩恵に依存している程度,行為者が伝統的に政府の機能を果たしているかどうか,そして,政府の権威がもたらした方法のみによって侵害が重いものとなったかどうか,ということである」51)。

つまり,Edmonson判決において,最高裁は,Burton判決等の先例を引用しつつ,関係性理論が,「行為者が政府の援助と恩恵に依存している程度」を問う理論であることを明らかにした。

さらに,2001年,Brentwood Academy v. Tennessee Secondary School Athletic Association 52)において,最高裁は,「関わり合い(entwinement)」によって,ステイト・アクションの存在が認定されると判断した。すなわち,「関わり合いが

49) Id. at 620.50) Id.51) Id. at 621-2.52) 531 U.S. 288 (2001).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月68

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あることによって,表面的には私的組織と見えるものも,公的性格を帯びることになり,その組織は,憲法の基準によって審査される,という結論が支持されることになる」53)。そして,本件「事実は,関わり合いという基準の下で,ステイト・アクションであるとの結論を正当化する」54)と結論づけた55)。

⑶ 検討「ステイト・アクション法理は,私的領域と,憲法上の義務を常に伴う公的領

域との間の『本質的区分』を探求するものである」56)が,その区分は,判例を分

53) Id. at 302.54) Id. at 302. 「関わり合い」という文言が,ステイト・アクションの存在を認めるための

基準となりうるか,という疑問に対して,Brentwood判決の反対意見はこの点を見逃さなかった。トマス裁判官は,「われわれは,単に『関わり合い』に基づいてステイト・アクションを認定したことはない」(Id. at 305 (Thomas, J., dissenting)),と切り出して,

「Evans判決のみがいやしくも関わり合いについて言及しているだけであって」,「その範囲は不明確である」(Id. at 314 (Thomas, J., dissenting))と述べている。仮に「関わり合い」という基準が,Brentwood判決によって,ステイト・アクション法理の新たな理論として認められたのであれば,今後の法理の発展に大きく寄与する可能性があると思われる。

55) 本件の事案は,関係性理論によるステイト・アクションの存在を認めなかったNACC v. Tarkanian, 488 U.S. 179 (1988). の事案と酷似している。Brentwood事件の概要は次のとおりである。加盟している全高校のうち84%が公立学校からなるテネシー州の高校体育連盟は,ある私立高校が連盟の規則に反する行動をしたため,罰金などの処分を課した。そのため,1983条訴訟に基づき,この連盟の行為が修正1条及び修正14条に反するかが,争われた。Tarkanianの事案は,すべての州において運営されている全米大学体育協会の行為が問題とされたのに対して,本件は,テネシー州のみにおいて運営されている高校体育協会の行為が問題とされた。スーター裁判官は両者の違いについて次のように述べている。「全米大学体育協会の政策は,ネバダ大学のみによって形成されてはおらず,何百もの組織から形成されている。その多くは,ネバダ州との関係はなく,またネバダ州法の名の下にあると見いだすこともできない。全米大学体育協会を,集団構成員としてではなく,ある州の代理としてみなすことが困難であることを理由として,われわれは,ネバダと協会との関係が,あまりにも実質的ではないため,ステイト・アクションの主張を根拠とすることができない,と論決した」。Id. at 305.

 しかし,果たしてこの理由付けに基づいて,Tarkanian判決とBrentwood判決との区別がどれだけ可能なのか,という点については多くの疑問が投げかけられている。See, e.g., Josia N. Drew, The Sixth Circuit Dropped the Ball: An Analysis of Brentwood Academy v. Tennessee Secondary School Athletic Ass’n in Light of the Supreme Court’s Recent Trends in State Action Jurisprudence, 2001 B. Y. U. L. REV. 1313, 1324; Michael A. Culpepper, Casenote: A Matter of Normative Judgment: Brentwood and the Emergence of the “Pervasive Entwinement” Test, 35 U. RICH. L. REV. 1163, 1174 (2002).

56) Edmonson, 500 U.S. at 620.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 69

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析する限り,各事案における事実の重視によってもたらされた。すなわち,「事実の精選及び状況の考察によってのみ」,政府の行為と私人の行為との関係性が明らかになるのである57)。そのため,関係性理論に関する判例において,最高裁は明確な基準を維持してきたとは言いがたい。Burton判決では「共同関係者」,Evans判決とBrentwood判決では「関わり合い」,Lugar判決では「公務員の終始重大な関与」,そしてEdmonson判決では「行為者が政府の援助と恩恵に依存している程度」といった要件が提示されてきた。さらに,「政府によって造られ,そして政府に支配されている会社は,政府の一部である」ことを示した判決もある58)。また,別の判決では,ある者が「公的資格で行動した場合,あるいは州法に基づく責任を全うする場合」には,その者の行為がステイト・アクションであるとされた59)。このように,関係性理論としてのステイト・アクション法理は,いくつかの要件を基礎に構築されてきたと評価することができる。

関係性理論の判例は不安定で,一貫性を欠いているように思われるが,理論的側面からは次のような指摘をすることができる。第1に,関係性理論は,Burton判決をはじめとして,人種差別問題に対しては,大きな影響力をもっていた60)。Burton判決のほかにも,人種差別を根拠とした陪審員忌避に関わるEdmonson判決については,裁判所自身が忌避手続に関係しており,特にこのように司法に関係する場面においては,ステイト・アクションの存在が認められやすいように

57) Burton, 365 U.S. at 724. 関係性理論では,究極的には「程度(degree)」が問題となってくる。本節では,事案の性質は同じようなものでも,異なる帰結が導かれたいくつかの判例を指摘した(たとえば,Lugar判決とFlagg Brothers判決,Tarkanian判決とBrentwood判決)。また,法廷意見と反対意見の間にも,どの事実を重視するかによって,結論が割れてくることを確認してきた(たとえば,Tarkanian判決,Lugar判決,Brentwood判決)。Burton判決においては,「共生関係」を基準として,関係性理論としてのステイト・アクションの存在を認定してきた。もっとも,「共生関係」という規範に対しては,明確な基準が与えられなかったために,各事案の事実によって結論が左右されてきた。関係性理論の縮小化に歯止めをかけたEdmonson判決においては,「行為者が政府の援助と恩恵に依存している程度」が関係性理論の基準として言い渡された。しかし,この基準もまたこれまでと同様かなり曖昧な基準であることには違いない。そのため,裁判官がどの事実を重くみるかによって判断が異なってきてしまう。関係性理論は,総じて,各事案の「状況」や「事実」に依存して,結論を導く傾向が強い。See, e.g., Brentwood, 531 U.S. at 295-6.

58) See Lebron v. National Railroad Passenger Corp., 513 U.S. 374, 397 (1995).59) See West v. Atkins, 487 U.S. 42, 50 (1988).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月70

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も思われる。第2に,関係性理論に特有の問題であるが,ステイト・アクション法理には,

私的主体の行為が,政府からの財政援助を受けることによって,その私人の不当な行為が促進される事例が存在している。ここでの問題は,政府から財政援助を受けていることを理由に,私的主体の行為が,ステイト・アクションであると判定され,憲法上の拘束を受けるかどうか,ということである。この点については,政府からの補助金を受けている私的主体の行為と,課税を優遇されている私的主体の行為とを区別して論じる必要がある。前者の例としては,Burton判決があげられる。Burton判決においては,税金によって運営されている駐車場敷地内のレストランを経営する私人の人種差別行為が問題とされていたが,私人のこの行為は,政府の給付による税金を利用した行為であるために,州との「共生関係」にあったと見ることもできる61)。この問題は,補助金などの政府の給付が,中立性の観点から正当かどうかという問題にもかかわり,いわゆる違憲の条件の法理

(unconstitutional condition doctrine)にも応用しうる62)。他方で,課税を優遇されている私的主体の行為が問題とされた後者の例としては,人種差別を行ってい

60) See, e.g., David A. Strauss, State Action After the Civil Rights Era, 10 CONST. COMMENT. 409, 410 (1993); Michael J. Phillips, The Inevitable Incoherence of Modern State Action Doctrine, 28 ST. LOUIS U. L. J. 683, 732-34 (1984); Ronna Greff Schneider, State Action-Making Sense Out of Chaos, 37 FLA. L. REV. 737, 739 (1985); Reva Siegel, Why Equal Protection No Longer Protects, 49 STAN. L. REV. 1111 (1997); Sarah Rudolph Cole, Arbitration and State Action, 2005 BYU L. REV. 1,8.

61) この他に,ステイト・アクション法理を正面から論じてはいないものの,関係する事案として,Norwood v. Harrison, 413 U.S. 455 (1973)が有名である。Norwood判決において,最高裁は,人種差別を行っている私立学校に無料で教科書を貸与する州の政策を違憲と判断した。州のプログラムは,公立私立を問わず,教科書を無償で貸与するものであったが,人種差別を行っている私立学校に教科書を貸与することは,「州の援助による差別」を認めてしまうことになるため,許容されないと判断した。Norwood判決は,財政援助によって,違憲なステイト・アクションが構成されることを禁止した判決とも読むことが可能である。

62) GEOFFREY R. STONE, ET. AL. CONSTITUTIONAL LAW 1638 (5th ed. 2005).  違憲の条件の法理とは,政府が行う給付について,政府は,受給者に対して憲法上の

権利の放棄を条件に付することができない,という法理である。違憲の条件の法理の邦語の紹介としては,中林暁生「違憲な条件の法理」法学65巻1号(2001)33頁を参照。See Peter M. Shane, The Rust That Corrodes: State Action, Free Speech, and Responsibility, 52 LA. L. REV. 1585 (1992).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 71

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る組織への税制優遇は,違憲なステイト・アクションとして許されないと判断したものもある63)。このように,関係性理論としてのステイト・アクション法理は,財政援助の観点から論じることも可能であり,どのような財政援助を行った場合に,「ステイト・アクション」が認められるか,という問題がここでは問われている64)。

以上の考察に加えて,本稿の目的からすると,関係性理論については,次の点が特に重要である。すなわち,Burton判決やEvans判決をはじめ,関係性理論の当初の目的は,公私区分を前提としつつ,伝統的に私的空間であると考えられてきた空間を尊重しつつ,特に人種差別問題の解消に向けられていた。また,Lugar判決において示されたとおり,ステイト・アクション法理は,「連邦司法の権限の射程を制限することを通して,個人の自由の領域を維持する」65)ことを目的としている。つまり,同法理は,「個人の自由の領域」のみならず,「連邦司法の権限」を制限することによる州の自律と「連邦司法の権限」を制限することによる連邦の議会の権限を維持している。「連邦司法の権限」を制限することによる州の権限の維持は,州,州の機関あるいは州の公務員に対し,無用な責任の負担を回避させる機能を果たしている66)。他方で,「連邦司法の権限」を制限することによる議会の権限の維持は,連邦司法が直接私人間の権利侵害の救済に乗り出す方途とは別に,連邦あるいは州の立法によって私人間の権利侵害を救済することを意味している67)。このように,ステイト・アクション法理は,連邦司法の権限を制限することによって,州と議会の権限を維持し,連邦制と権力分立制の原理と結びついているのである。つまり,ステイト・アクション法理は,個人

63) McGlotten v. Connally, 338 F. Supp. 448 (D.D.C. 1972). この判決の紹介については,See Boris I. Bittker & Kenneth M. Kaufman, Taxes and Civil Rights :“Constitutionalizing” the Internal Revenue Code, 82 YALE L. J. 51 (1972).

64) 関係性理論としてのステイト・アクション法理を,財政援助の観点から論じたものとして,See Thomas R. McCoy, Current State Action Theories, the Jackson Nexus Requirement, and Employee Discharges by Semi-Public and State-Aided Institutions, 31 VAND. L. REV. 785, 802 (1978); Robert C. Brown, State Action Analysis of Tax Expenditures, 11 HARV. C. R. - C. L. L. REV. 97 (1976); Comment, Tax Incentives as State Action, 122 U. PA. L. REV. 414 (1973); Note, State Action and the United States Junior Chamber of Commerce, 43 GEO. WASH. L. REV. 1407 (1975).

65) Lugar, 457 U.S. at 936.66) Id.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月72

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の権利のみならず,連邦制と権力分立制という「政治秩序の根本的な事実」68)をも直視した法理であると解される。言い換えれば,ステイト・アクション法理の本質的課題は,合衆国憲法の下で何が政治秩序を形成するステイト・アクションをconstituteしているのか,という問いに行き着く。

2.公的機能理論

⑴ 概観公的機能理論は,私人の行為が伝統的な政府の機能を果たしていると考えられ

るときに,私人のその行為を憲法によって規律する,という理論である。この理論は,私人の行為が果たしている機能に注目するものである。

公的機能理論の歴史的淵源は,Civil Rights Casesにおけるハーラン裁判官の反対意見において明示されている。つまり,公的あるいは準公的機能を営む会社や個人による差別行為は,修正14条に反する「州の行為」であると評価しうるのである。すなわち,「鉄道会社,宿泊経営者,公的娯楽施設の経営者は,州の代理ないしは手段(instrumentalities)である。なぜなら,これらは公衆に対する責任を負っており,かつこれらの責任と機能の観点から政府の規制の影響を受けやすいためである」69)。したがって,私人が人種を理由として,これらの私人が経営する施設へのアクセスを拒むことは,「修正14条が言うところの州による拒否」70)とみなされるのである。ハーラン裁判官のこの意見は,最高裁がステイト・アクション法理の公的機能理論を展開する際に度々引用されており,同法理の重要な起源であると言うことができる。

そして,ステイト・アクション法理が最高裁の法廷意見で初めて認められた

67) これに対して,Flagg Brothers判決のついての評価としては,ステイト・アクション法理を認めなかったという見方のほかに,司法ではなく既存の立法の適用によって解決を図ることを意図した判決であるとも読める。Flagg Brothers, 436 U.S. at 160は,ステイト・アクションの存在を肯定せず,司法による救済を認めなかったが,法廷意見には,州法に従って,損害賠償訴訟や動産占有回復訴訟(replevin)を提起する方途が残されていることを明記されている。

68) Lugar, 457 U.S. at 937.69) Civil Rights Cases, 109 U.S. at 58-9.70) Id. at 59.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 73

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1946年Marsh判決から1960年代までの間,公的機能理論は同法理の拡大に大きく寄与してきた。ところが,1970年代に公的機能理論の要件が厳格化し,急に公的機能理論は衰退していった。しかし,1990年代に入り,再び公的機能理論が,他の理論と共に部分的に回復していった。

⑵ 判例分析1946年Marsh v. Alabama 71)では,私人が営むビジネス活動地域における表現

の自由と信教の自由が問題とされた。アラバマ州モービルの郊外にあるチカソーという町は,いわゆる会社町(company town)であり,ある民間造船会社によって所有されていたが,その点を除けばその他の町と同じ特徴を備えていた。エホバの証人Marshは,「ここは私有地」などと記載された会社町内部において,退去の警告を無視して宗教文書を配布したために,郡保安官代理(deputy sheriff)に逮捕された72)。そこで,彼女はこの逮捕が表現の自由を保障する修正1条及びデュー・プロセスなくして自由の剥奪を禁止した修正14条に反する旨主張した。合衆国最高裁は,5対3 73)でMarshの主張を受け入れた。法廷意見では,次の論理に基づき,本件の会社町は公的機能を演じているため,会社町がステイト・アクターであると認められた。「経営者が,自らの利益のために,公衆一般に財産の使用を広く認めるほど,

その経営者の権利は,その財産を利用する人の…憲法上の権利によってますます制限されることになる」74)。本件の会社町については,「これらの施設[私的に維持されている橋,フェリー,有料道路,及び鉄道]は,根源的には公衆の恩恵のために建設,運営されているのであり,その機能は本質的に公的機能であるため,州の規制を受けることになる」75)。そして,「報道の自由及び信教の自由を享受する人々に対抗する経営者の財産権という憲法上の権利を衡量すると,…われわれは,報道の自由及び信教の自由がより優越的地位を占めるという事実に配

71) 326 U.S. 501 (1944).72) アラバマ州法は,「禁止の旨警告をした後に土地に侵入,または残留することを犯罪と

する」(Title 14 §426 of the 1940 Alabama Code)と規定していた。73) ジャクソン裁判官は本件の判断に加わらなかった。74) Marsh, 326 U.S. at 506.75) Id.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月74

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慮することになる」76)。このように, Marsh判決における法廷意見は,当事者双方の憲法上の自由に配

慮しているが,当事者が互いに主張している憲法上の権利を「衡量」している点には注目すべきであろう。つまり,ステイト・アクション法理が,結局のところ権利の「衡量」に帰着する,個人の権利保障を目的としていることをMarsh判決は明らかにした77)。その後も,ステイト・アクション法理が権利保障を目的としているという発想は,ショッピングモールにおける表現活動に関する事案でも明白に現れていた78)。

ところが,1974年Jackson v. Metropolitan Edison Co. 79)と1978年Flagg Bros. Inc. v. Brooks 80)は,最高裁が,極めて厳格な公的機能の要件を提示した点で非常に重要な判決である。レンキスト裁判官が言い渡した両判決は,「伝統的に州に留保されている排他的な権限(powers traditionally exclusively reserved to the State)」81)を有している場合にのみ,私人の行為が公的機能を果たすステイト・アクションであるという要件を確立した。そして,これらの判決によって,1970 ─ 80年代における公的機能理論としてのステイト・アクション法理は決定的に縮小していった。

その後,1991年のEdmonson v. Leesville Concrete Co. 82)において,最高裁は,Marsh判決等を引用しつつ,公的機能理論を「行為者が伝統的に政府の機能を果たしているかどうか」83)を判断基準として定式化した。そして,民事裁判におけ

76) Id. at 509.77) 法廷意見の「衡量」に対しては,経営者の財産権よりも不法侵入者の利益が上回ることは

ないという,リード裁判官の反対意見がある。See Marsh, 326 U.S at 516 (Reed, J., dissenting).  この点,財産権よりも表現の自由に価値があると主張するものとして,See Erwin

Chemerinsky, More Speech is Better, 45 UCLA L. REV. 1635 (1998).78) See e.g., Amalgamated Food Employees Union Local 590 v. Logan Valley Plaza, 391 U.S.

308 (1968); Lloyd Corp. v. Tanner, 407 U.S. 551 (1972); Hudgens v. National Labor Relations Board, 424 U.S. 507 (1976); PrunYard Shopping Center v. Robins, 447 U.S. 74 (1980).

79) 419 U.S. 345 (1974).80) 436 U.S. 149 (1978).81) Jackson, 419 U.S. at 353; Flagg Brothers, 436 U.S. at 158.82) 500 U.S. 614 (1991).83) Id. at 621-2.

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る人種差別に基づく陪審員忌避が争われた本件において最高裁は,「政府の伝統的な機能がここには明白に存在している」84),という結論を導いた。なぜなら,陪審制は,政府によって創設され,訴訟当事者の権利を保障するという決定的な政府の諸機能(critical governmental function)を果たし,また陪審員の評決が原則として最終的なものだからである。最高裁は,「陪審員の選定手続の目的とは,政府の機関の関係者を決定することである」85)と述べ,本件忌避手続にはステイト・アクションが存在していることを認めた。

Edmonson判決における公的機能理論は,次の2つの点で重要である。第1に,公的機能理論が,「行為者が伝統的に政府の機能を果たしているかどうか」を問うものであり,またJackson判決で提示された「排他性」という文言を削除したことである86)。最高裁が,Flagg Brothers判決等においては,「排他性」という文言を重視して,結論を導き出していたことにかんがみれば,Edmonson判決において「排他性」の要件が削除されたことには大きな意味があるといえる。第2に,ステイト・アクション法理は,公的機能理論を3つの判断基準としての理論のうちの1つとして認めていることを明らかにした点である87)。1970年代以降,公的機能理論が実質的に機能していなかったために,公的機能理論は本当に生き残っているのかどうか疑問であった。しかし,Edmonson判決において最高裁が公的機能理論をステイト・アクション法理の要件として認知したことにより,公的機能理論が生き延びていることがはっきりした。そして,1991年Edmonson判決以降,その翌年の刑事裁判における人種差別的な陪審忌避が問われたGeorgia v. McCollum 88)においてもステイト・アクション法理を肯定し,同判決含め,公的

84) Id. at 624.85) Id. at 626. 法廷意見において,裁判所内部での人種差別は,民主政治の理想の妨げになる,

とも述べられている。Id. at 628.86) G. Sindney Buchanan, A Conceptual History of the State Action Doctrine, 34 HOU. L. REV. 333,

338 (1997).87) Id. at 38888) 刑事裁判における人種に基づく陪審員の忌避手続に関する事案が,Edmonson判決の翌

年Georgia v. McCollum, 505 U.S. 42 (1992)において審理され,裁判所は次のように述べて,ステイト・アクションの存在を再び肯定した。「[Edmonson判決と]同じ結論は,刑事事件の訴訟においてはよりいっそう当てはまる。なぜなら,刑事事件における陪審員の選定が,特有かつ憲法上強制された政府の機能を果たしているからである」。Id. at 52.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月76

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機能理論については,「部分的な回復」89)が見られる。⑶ 検討公的機能理論は,「公」と「私」との区分を前提とした上で,「公」的な機能を

帯びている「私」人の行為とは何か,ということに着目をしてきた。公的機能理論の要件とは,「伝統的に州に留保されている排他的な権限」を私人が行使しているといえるかどうか,という基準であった。この要件が機能する限り,Marsh判決のような例外的な事例と白人予備選挙のような事例においてしか,公的機能理論は認められないであろう90)。「排他的」かつ「伝統的」という要件は,公的機能理論というよりもむしろ「主権機能理論」として呼ぶのが相応しいくらいである。この要件を提示したレンキスト裁判官の発想には,公と私との「本質的区分」がある。しかし,排他性テストが前提としてきた「本質的区分」に対しては,あまりに「形式的」91)であり,「公」の概念が「あまりに狭すぎる」92)という批判がある。もっとも,Edmonson判決で示されたとおり,現在では「行為者が伝統

89) Buchanan, supra note 86, at 385.90) Steven Siegel, The Constitution and Private Government: Toward the Recognition of Constitutional

Rights in Private Residential Communities Fifty Years After Marsh v. Alabama, 6 WM. & MARY BILL RTS. J. 461, 475 (1998).

 選挙については,純粋な政府の機能であると言えるが,公的機能理論において問題となった他の事例については,何らかの形で私人の活動と関わるものとならざるを得ないため,「排他性」や「伝統性」という要件を満たすことは困難である。See Thomas P. Lewis, The Meaning of State Action, 60 COLUM. L. REV. 1083, 1094 (1960).

91) See Henry H. Perritt, Jr., Towards a Hybrid Regulatory Scheme for the Internet, 2001 U. CHI. LEGAL. F. 215, 274 (2001); Frank I. Michelman, W(h)ither the Constitution?, 21 CARDOZO L. REV. 1063, 1080 (2000); Strauss, supra note 60, at 410; Kenneth M. Casebeer, Toward a Critical Jurisprudence; A First Step by Way of the Public-Private Distinction in Constitutional Law, 37 U. MIAMI L. REV. 379, 382 (1983); Nat Stern, State Action, Establishment Clause, and Defamation, 57 U. CIN. L. REV. 1175, 1202 (1989).

 この「本質的区分」には,「容易い回答はない」のであり,Flagg Brothers判決におけるスティーブンズ裁判官の反対意見は,州の行為と私人の行為の「本質的な区分」に対して次のように攻撃した。

 「最後に,われわれの社会における圧倒的に大多数の紛争が,私的領域において解決されていることは明らかに正しい。しかし,私的行為と公的行為の間に引かれた明確な線を信じることは,仮に以前は可能であったとしても,もはや可能なことではない」Flagg Brothers, 436 U.S. at 178 (Stevens, J., dissenting).

92) See Jackson, 419 U.S. at 371 (Marshall, J., dissenting). See also Schwartz & Chemerinsky, supra note 35, at 806.

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的に政府の機能を果たしているかどうか」ということが公的機能理論の要件となっている。

公的機能理論の理論的側面として,公私区分,連邦制,そして権力分立制から次のことを指摘することができる。まず公私区分についてであるが,公的機能理論としてのステイト・アクション法理は,当初,私有財産と表現活動の対立が問題とされたMarsh判決に見られるとおり,私人間の権利の衝突を衡量することによって解決するための道具とされてきた。また,表現活動に関わる公的機能理論においては,パブリック・フォーラム論とのアナロジーが成立するのであり,このことは,表現の自由論にとって重要な示唆を提供してきた93)。つまり,会社町やショッピングセンターは,政府の機能を有していることを理由に,パブリック・フォーラムとして認められるか,という立論を提起しうるのである。しかし,初期のステイト・アクション法理は,このような立論を採らず,関係性理論と同じく,私人間の権利衝突の矛盾を調整することによって,権利の保障を目的としていたとみることができる。とくにMarsh判決においては,何が公的機能を果たしているステイト・アクションか,という問いには直接答えていなかった94)。

ところが,Jackson判決とFlagg Brothers判決で確立した「伝統的に州に留保されている排他的な権限」という排他性テストの登場によって,ステイト・アクション法理が,もっぱら私人間の権利衝突を調整するための道具として用いられることはなくなった。つまり,ステイト・アクション法理が認められるためには,「伝統的に州に留保されている排他的な権限」とは何か,という問題を考えなければならなくなったのである。したがって,ステイト・アクション法理の焦点は,私人間の権利衝突の衡量問題から,何が伝統的で排他的な政府の行為を構成しているのか,という正統な「ステイト・アクション」の存在へと移っていっ

93) See Frederick F. Schauer, Hudgens v. NLRB and the Problem of State Action in First Amendment Adjudication, 61 MINN. L. REV. 433, 460 (1977); J. M. Balkin, Some Realism about Pluralism: Legal Realist Approaches to the First Amendment, 1990 DUKE L. J. 375, 398; Richard J. Anderson, Jr., Drawing Lines in the Shifting Sand: Should the Establishment Wall Stand? Recent Developments in Establishment Clause Theory: Accommodation, State Action, the Public Forum, and Private Religious Speech, 8 TEMP. POL. & CIV. RTS. L. REV. 1, 23 (1998); John Fee, The Formal State Action Doctrine, 83 N. C. L. REV. 569, 603 (2005).

94) Dilan A. Esper, Some Thoughts on the Puzzle of State Action, 68 S. CAL. L. REV. 663, 692 (1995).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月78

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たと言える。第2に,正統な「ステイト・アクション」と私的行為を区別するために,ステ

イト・アクション法理は連邦制とも関係している。Logan Valley判決─ Lloyd判決─ Hudgens判決─ PruneYard判決についての一連の判決の流れから連邦制という原理がステイト・アクション法理の拡大・縮小に関係していることが理解できる。いずれの事案においても,ショッピングモールにおける表現の自由が問題とされていた。Hudgens判決において,ショッピングセンター内における表現行為を認めたLogan Valley判決とLloyd判決との矛盾を解消するために,最高裁は,Logan Valley判決を覆した上で,ショッピングモールにおける労働組合のピケ活動の制約を認めた。ところが,PruneYard判決においては,ショッピングモールでの表現活動が州憲法で保障されていることを理由に,その表現活動を認めた。両者はなぜ異なる結論へと至ったのか。ここで,事案の性質が同種であるLloyd判決(反戦ビラの配布)とPruneYard判決(シオン主義に反対する国連決議に抗議するビラ配布と署名活動)の帰結の違いを考えてみると,人権保障というレンズからは,両者の区別の合理性を看取することはできない。しかし,Lloyd判決とPruneYard判決との結論における違いは,まず連邦主義の観点から説明することが可能である。前者は,連邦憲法の下での判断であったのに対して,後者は,州憲法の下での判断である。PruneYard判決において,最高裁は,州憲法の問題とされた条項95)が,連邦憲法に反していない限りは,連邦憲法によって,直接私人間の行為を規律できないと判断した96)。つまり,ショッピングモールにおける表現活動が問題となった私人間の紛争は,連邦と州との間でそれぞれ判断しうる問題であることを示した。ここに,ステイト・アクション法理が,連

95) カリフォルニア州憲法第1条2節「いかなる者も,この権利の濫用に対する責任を負うかぎり,すべての話題に関する意見(sentiments)を自由に話し,書き,また公表することができる。法は,言論やプレスの自由を制約し,あるいは剥奪してはならない」。

 同第1条3節「〔人びとは,〕…不正を是正するために,政府に請願する権利を有している」。

96) 「被上訴人が州によって保障された4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

表現の自由を行使する権利と上訴人の財産に対して請願する権利を認めたカリフォルニア州裁判所の決定によって,上訴人の連邦上認めら

4 4 4 4 4 4

れた4 4

財産権と修正1条の権利は,侵害されたものとはいえない,とわれわれは結論づける」。PruneYard, 447 U.S. at 88.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 79

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邦制の要素を内在していると指摘できる。もっとも,オリンピック委員会の行為が連邦政府の行為とみなすことができるかどうかが争点となったSan Francisco Arts & Athletics判決 97)もあり,連邦制の要素が全く存在しない場合も,ステイト・アクション法理の判例には存在する。したがって,ステイト・アクション法理が,連邦制と密接に関係している,という指摘では不十分であり,どのような連邦主義が同法理に影響しているか,という点を検討しなければならない。

第3に,Lloyd判決とPruneYard判決は,司法と立法との間の権力分立制からも説明をすることができる。つまり,前者は,司法による解決であるのに対して,後者は,立法による解決を図ったと言うことができる。Lloyd判決においては,最高裁による表現の自由と財産権との比較衡量が重要な役割を果たしたが,PruneYard判決において,最高裁は,ショッピングモールにおける表現の自由と財産権との対立問題を政治過程による解決に委ねたと考えることが可能である98)。

以上のとおり,公的機能理論におけるステイト・アクション法理の判例においても,公私区分,連邦制,そして権力分立制が多分に関わっていることが明らかにされた。

3.執行理論

⑴ 概観執行理論とは,私人の侵害行為が,政府の承認(authorization)によって更に

重いものとされているときに,私人のその行為を憲法によって規律する,という理論である。この理論は,私人の侵害行為に関する政府の承認の有無に注目をするものである。

政府が公然と私人の人権侵害を承認することは,合衆国における人種差別の歴史において,決して少なくはなかった。そのため,執行理論のほとんどは,人種

97) 483 U.S. 522 (1987).98) See Mark C. Alexander, Attention, Shoppers: The First Amendment in the Modern Shopping Mall,

41 ARIZ. L. REV. 1, 32 (1999); Julian N. Eule & Jonathan D. Varat, Transporting First Amendment Norms to the Private Sector, 45 UCLA L. REV. 1537, 1562-4 (1998).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月80

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問題に関係している。もっとも,執行理論が認められて以降,人種差別を禁止するCivil Rights Actなどの立法の制定に伴い,執行理論を問う事案の多くは,ムート(moot)となり,訴訟件数も急激に減少していった。そのため,本当に執行理論が先例として残っているのかどうか疑いがあった。しかし,1990年代に入り,最高裁は,執行理論をステイト・アクション法理の3つの理論の中の1つとして認めた。

執行理論は,ステイト・アクション法理の中で最も論争を提起してきた理論である。なぜなら,執行理論が,終局的には裁判所の役割を明らかにするものだからである。以下では,その執行理論に関する判例を考察することにしたい。

⑵ 判例分析執行理論が初めて認識されたのは,1948年のShelley v. Kraemer 99)においてで

ある。Shelley判決とは,州裁判所が人種差別の合意協定を執行することは修正14条に反すると合衆国最高裁によって判断された判決である。本件は,ある白人が,白人専用居住区域にある土地を黒人に売却したため,その区域に住む白人が,その区域において黒人には土地を売却しない合意があったことを根拠に,黒人によるその土地の占有無効を求めて提訴したことが発端であった。そして,州裁判所は,この人種に基づく制限的な合意が修正14条には反しないことを認めた。合衆国最高裁は,サーシオレーライによって,本件の審理を行った。最高裁は,まず一般論として,Civil Rights Casesを引用して次のとおり述べる。「修正14条1節によって抑止されている行為とは,州の行為であると公正に評

価しうる行為のみである。この原理は,Civil Rights Casesにおける当裁判所の決定以来,われわれの憲法において確実に埋め込まれている。同条項は,たとえどれほど差別的であろうとも,あるいはどれほど不当なものであっても,純粋な私的行為のみに対しては何の保障も創設していない」100)。

しかし,最高裁は,州裁判所が制限的合意を執行した点に注目した上で,「州裁判所と公的資格における司法公務員の行為が,修正14条の意味における州の

99) 334 U.S. 1 (1948). なお,Shelley判決の検討については,拙稿・前掲注4)「ステイト・アクション法理における公私区分⑴~(2・完)」を参照。

100) Id. at 13.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 81

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行為であるとみなすことができる」101)と述べた。そのため,本件においては,人種に基づく制限的合意を司法が執行することにより,州が被告の権利を侵害したために,もはや「州裁判所の行為は受忍することができない」102),と最高裁は結論を出した。

Shelley判決の後は,人種別学を違憲と判断したBrown v. Board of Education103)

やCivil Rights運動と共に,執行理論は人種差別の解消に貢献した。たとえば,Pennsylvania v. Board of Directors of Trustsでは,ある私人の遺言に基づき,白人男性の孤児の入学を優遇する大学が市によって運営されていたが,この大学に黒人の入学を拒否することは,「州による差別」であることが認められた104)。また,1960年代に入り一連の座り込み事件─民間レストランにおいて,白人店員がサービスを提供しないため,黒人が座り続け,不法侵入で逮捕された事件─について,最高裁は,執行理論によって人種差別の解消へと導いた105)。

もっとも,これらの座り込み事件において,最高裁は,Shelley判決を援用しなかった。また,1967年Reitman v. Mulkeyにおいて,州憲法が不動産売買に関して実質的に人種差別を容認する条項を設けたことが「違憲なステイト・アクションに匹敵する」と判断したが,ここにおいてもShelley判決は引用されなかった106)。

人種差別を度々是正してきた執行理論は,人種差別に関する事案である

101) Id. at 14.102) Id. at 20. 近年,Shelley判決について,ステイト・アクション法理を展開せず,私人間

にも直接適用される修正13条(奴隷的拘束の禁止条項)から再考することができるという指摘がある。See Mark D. Rosen, Was Shelley v. Kraemer Incorrectly Decided?, 95 CAL. L. REV. 451 (2007).

103) 347 U.S. 483 (1954); 349 U.S. 294 (1955).104) 353 U.S. 230 (1957).105) See e.g., Garner v. Louisiana, 368 U.S. 157 (1961); Peterson c. City of Greenville, 373 U.S.

244 (1963); Lombard v. Louisiana, 373 U.S. 267 (1963); Bell v. Maryland, 378 U.S. 226 (1964). 一連の座り込み事件は,Brown判決後の人種差別是正に対して最高裁がどのような姿勢を見せるかという点,またステイト・アクション法理について最高裁の見解を提示する点からして,「極めて象徴的な重要性」をもつ事案であったと考えられている。See Michael J. Klarman, An Interpretive History of Modern Equal Protection, 90 MICH. L. REV. 213, 273 (1991).

106) 387 U.S. 369 (1967). Shelley判決を引用したのは,補足意見を述べたダグラス裁判官のみであった。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月82

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Edmonson v. Leesville Concrete Co.107)において,姿を変えて再び登場した。すでに関係性理論と公的機能理論のところで紹介したとおり,Edmonson判決は,民事裁判における人種に基づく陪審員忌避が,ステイト・アクションの存在によってデュー・プロセス条項に反すると判断された判決である。Edmonson判決において,執行理論に関するステイト・アクションの存在の認定には,「政府の権威がもたらした方法のみによって侵害が重いものとなったかどうか」108)という要件を掲げた。そして,最高裁は,この要件の先例としてShelley判決をあげている。

もっとも,Edmonson判決において,「政府の権威がもたらした方法のみによって侵害が重いものとなったかどうか」という要件に関して,事案の当てはめについては次のように述べているに止まっている。人種を理由とする陪審員忌避が問題とされた本件においては,「政府が裁判所自体の中で差別を行うことを許容しているために,その差別による侵害が更に耐え難い(severe)ものとなっている」109)。つまり,Edmonson判決では,裁判所の行為そのものがステイト・アクションと成り得るかどうか,という問題設定をしていない。Shelley判決においては,裁判所の行為そのものがステイト・アクションと認定されたが,Edmonson判決においては,裁判所の行為が私人による侵害行為を「更に耐え難いもの」としているかどうか,ということが問われているのである。ここに,Edmonson判決における執行理論は,Shelley判決において認められたその理論からの微妙な逸脱があると言える110)。

⑶ 検討Shelley判決において示されたとおり,原則として,たとえどれほど差別的で

あろうとも,あるいはどれほど不当なものであっても,純粋な私的行為に対して

107) 500 U.S. 614 (1991).108) Id. at 621-2.109) Id. at 628.110) オコーナー裁判官の反対意見に示されるとおり,Shelley判決における執行理論は,陪

審員忌避の手続の執行についても当てはまるとは思われない。「Shelley判決における州裁判所は,差別することを望まない当事者に対して合意遵守の強制力を用いている。他方で,忌避の『執行』は,誰に対しても差別を強要するものではない。つまり,差別は全くの私的選択の事柄である。」Id. at 635 (O’Connor, J., dissenting).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 83

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は,憲法は何の保障も創設していないのである。しかし,例外として,執行理論は,公的機関の「執行」に着目をして,ステイト・アクションの存在を認定しようとしてきた。そのため,「政府の権威がもたらした方法のみによって侵害が重いものとなったかどうか」という要件は,執行理論として提示されたEdmonson判決からすれば,政府との関係に注目する関係性理論と同視しても不当ではないように思われる111)。

そして,Shelley判決は,ステイト・アクション法理の理論的側面からも重要なことを指摘できる。つまり,Shelley判決が,連邦司法の権限を維持している点で重要である。Shelley判決は,本来は州裁判所が担当するコモン・ロー上の問題を連邦裁判所が扱った点において,州に対する連邦司法の権限を拡張したと言える112)。さらに,Reitman判決が示しているとおり,たとえ州憲法で認められた事柄であっても,その州憲法の条項自体が「違憲なステイト・アクション」であると判断され,判決は,州に対する連邦司法の権限を優越させた。他方で,Abney判決は,信託法の運営を州に委ねたことによって,州に対する連邦司法の権限を限定した判決であると考えることができる。

さらに,Shelley判決は,連邦の立法に対する連邦司法の権限を維持している点でも重要である。つまり,Shelley判決は,立法ではなく,司法の手によって,土地や住宅の売買に関する権利を認めた。Shelley判決は,1968年連邦公正住宅法が制定されるよりも20年も先に,司法によって,実質的にこの立法の一部を判決として打ち出していたことになる。これに対し,信託法の運営を州の立法過程に任せているから,連邦司法を制限することによって,州の立法の権限を優越させた判決もあった113)。同じように,事案の性格上,公的機能理論のところで

111) たとえば,「絡み合い(entanglement)」という言葉で,関係性理論と執行理論を区別しないで論じることも可能であろう。See CHEMERINSKY, supra note 34, at 517.

112) この点を踏まえて,Note, State Action: Theories for Applying Constitutional Restrictions to Private Activity, 74 COLUM. L. REV. 656, 665-6 (1974)は,ステイト・アクション法理に関する事例の適切なスタート・ポイントは,当事者が根拠とする修正条項の下で,コモン・ロー上の権利がその条項に編入されているかどうかという考察に置かれるべきであると論じている。See also Harold W. Horowitz & Kenneth L. Karst, The California Supreme Court and State Action Under the Fourteenth Amendment, 21 UCLA L. REV. 1421 (1974).

113) See Evans v. Abeny, 396 U.S. 435 (1970).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月84

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紹介したが,州憲法の執行が問題となったPruneYard判決では,最高裁が,ショッピングモールにおける表現の自由と財産権との対立関係の解決を,司法が自らの手で行うのではなく,政治過程に委ねたとみることができる。

以上のとおり,Shelley判決は,歴史的にも理論的も重要な論点を抱えており,たとえ執行理論それ自体が,今日衰退していると考えてもなお,ステイト・アクション法理の考察にとっては見逃すことのできない判決である。

4.小括

ステイト・アクション法理に関する判例は,総じて「どうしようもないほど混乱(hopelessly confusing)」114)している。そして,ステイト・アクション法理は,もはや「概念が崩壊した法領域(conceptual disaster area)」115)であるという手厳しい批判に晒されてきた。その結果,「不確定な情勢」がつくりだされてしまい,判例の蓄積による予測可能性に基づいて各人が自由な選択よって生きていく

「ご都合主義による原理が崩壊してしまった」のである116)。このように評価されるステイト・アクション法理の判例の分析を通じて問われるべき事柄は,なぜステイト・アクション法理の判例は,一貫しておらず,そして「どうしようもないほど混乱」しているのか,という点である。 そして,そのような混乱が見られるステイト・アクション法理は,何を目的としてこれまで半世紀以上もの間,維持されてきたのか。以下では,これらの疑問に答えるための検討に備えて,これまでの判例分析から理解できる事柄を,ステイト・アクション法理の理論的側面から指摘する。

第1に,ステイト・アクション法理は,公私区分に関係している。ステイト・

114) Craig Bradley, Untying the State Action Knot, 7 J. CONTEMP. LEGAL ISSUES 223, 225 (1996). もっとも,ローレンス・トライブ教授によれば,ステイト・アクション法理は一貫しているが,訴訟の提起の仕方に問題があったために,ステイト・アクションの主張が裁判所に受け入れられない事例があったと評価している。See LAURENCE H. TRIBE, CONSTITUTIONAL CHOICES 248 (1985).

115) Charles L. Black, Jr., Foreword: “State Action”, Equal Protection, and California’s Proposition 14, 81 HARV. L. REV. 69, 95 (1967).

116) William W. Van Alstyne & Kennethe L, Karst, State Action, 14 STAN. L. REV. 3, 6-7, 58 (1961). 日本における私人間効力論が「予測可能性の保障」が一定の役割を果たしていると指摘するものとして,長谷部・前掲注22)136‒7頁参照。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 85

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アクション法理を発展させた初期の判決─関係性理論においてはBurton判決,公的機能理論においてはMarsh判決,そして執行理論においてはShelley判決─から1990年代のEdmonson判決やMcCollum判決に至るまでの間,同法理は特に人種差別解消の「頼みの綱」117)であり続けた。人種差別問題については,ステイト・アクションの存在が認められやすく,公私区分の観点からは,裁判所が「私的」な人種問題を「公的」に解決してきた,と評価することが可能である。これまでの判例を総合的にみれば,最高裁は,ステイト・アクション法理を用いることで,一方では,私的空間における個人の自律を保障し,他方では,人種差別等の私人間の問題を公的空間において解決し,個人の権利を保障してきたのである。このように,最高裁は,ステイト・アクション法理によって,公私区分のラインを設定することで,私的自治と権利保障のバランスを図ってきた。

第2に,ステイト・アクション法理の縮小期には,改めて,政府権力の配分の視点から同法理が持つ原理について言及されるようになってきた。つまり,ステイト・アクション法理が,連邦法と連邦司法の権限を制限する役割があることが明らかにされてきた118)。この連邦司法の権限は,1つには,州の自律性に対する連邦司法の権限を意味しており,いま1つは,連邦の立法府に対する連邦司法の権限を意味している。このように,ステイト・アクション法理は,「政府の連邦制度における権限配分」119)の役割を果たしている点を見逃してはならない。

以上のとおり,ステイト・アクション法理は,公私区分,連邦制,そして権力分立制を基礎として発展してきたということができる120)。もっとも,これらの原理がどのようにステイト・アクション法理に影響を及ぼしてきたか,ということについてはより立ち入った検討が必要である。

Ⅲ.ステイト・アクション法理の理論分析ステイト・アクション法理についての歴史的考察から理解できるとおり,ステ

117) Black, supra note 115, at 95. See also Siegel, supra note 90, at 461.118) Lugar, 547 U.S. 936.119) Jesse H. Choper, Thoughts on State Action, 1979 WASH. U. L. Q. 757, 757-8 (1979).120) See TRIBE, supra note 33, at 1691; DANIEL A. FARBER ET AL., CONSTITUTIONAL LAW 183-4

(1993); Kelvin Cole, Federal and State “State Action”, 24 GA. L. REV. 327, 345 (1990).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月86

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イト・アクション法理は公私区分と密接に関係している。しかし,その公私区分がニュー・ディール以降しだいにあいまいになっていき,公的概念が拡張する一方で,プライヴァシー権や結社の自由といった新たに私的空間を保障する原理が確立する中,裁判所はどのように公私区分を設定すればよいかという難問に直面した。しかし,具体的な公私区分のベースラインを見出せないまま,そして公私区分に対する批判があるままステイト・アクション法理は今日に至ったということができる。

本章では,ステイト・アクション法理を支えている重要な原理をステイト・アクション法理の理論構造から導き出したいと考えている。そして,ステイト・アクション法理に関する判例を分析する限り,ステイト・アクションという要件は,公私区分のみならず,連邦制,及び司法と立法との権限配分という立憲主義の基幹を成している3つの重要な原理を備えていることを指摘することができる121)。本来であれば,これらの3つの原理について,ステイト・アクション法理を理解するためにはそれぞれの論点について深い考察が必要とされるが,本稿の目的からして,ここではステイト・アクション法理において関係する限りで3つの原理について,1.公私区分,2.連邦制,3.権力分立制の順で,検討を行っていく。

その上で,ステイト・アクション法理に関する近年の議論も含めた再構成論について考察を加えていく。そこでは,ステイト・アクション法理と社会福祉の権利との関係や比較法的考察について分析を行っていく予定である。

1.公私区分

⑴ 個人の自律の保障に基づく公私区分「ステイト・アクション法理は,私的領域と,憲法上の義務を常に伴う公的領

121) この他にも,ステイト・アクション法理が,憲法と通常の法律とを区分けする機能を果たしていると,リチャード・ケイ教授は指摘する。ケイ教授は,ステイト・アクション法理の公私区分がなければ,いかなる法律問題も憲法問題となってしまい,通常の法律の果たす役割がなくなってしまう,と述べている。See Richard S. Kay, The State Action Doctrine, the Public-Private Distinction, and the Independence of Constitutional Law, 10 CONST. COMMENT. 329 (1993).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 87

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域との間の『本質的区分』を探求するものである」122)。たとえステイト・アクションという要件が崩壊しても,プライヴァシー権や結社の自由といった私的空間が保障される限り,公私区分の問題に向きあわなければならない。つまり,公私区分を前提とするステイト・アクション法理は,憲法の射程に限界を設けることで

「個人の自由の領域を維持する」123)のである。そこで,まず,ステイト・アクション法理の基礎にある私的空間の保障,すなわち,憲法による拘束が及ばないところで各人の自由な生活を追求することができる個人の自律の保障という理論構造を考慮に入れる必要がある。

この点について,アーウィン・チェメリンスキー教授は,ステイト・アクション法理が,個人の権利の保障と私的空間の維持とは無関係であり,場合によってはこれらの価値の擁護や維持に「逆効果」である,と指摘する124)。そして,チェメリンスキー教授は,同法理の前提であるステイト・アクションという要件それ自体を廃止することによって,個人の自由が手厚く保障されると主張する125)。つまり,ステイト・アクション法理のもとでは,被侵害者が本来であれば救われるべき事案においても,ステイト・アクションという要件のせいで,私人間における権利侵害が放置されてしまうことがある。しかし,ステイト・アクションの要件が排除されれば,裁判所は侵害されている権利に直接注目することが可能となり,本来護られるべき個人の自由を保護することができる。もっとも,ステイト・アクションの要件を廃止することは,公私区分を廃止することまでを意味するものではなく,プライヴァシー権や結社の自由は私的空間の砦として維持されることになる。このように,チェメリンスキー教授によれば,プライヴァシー権や結社の自由の私的空間が保障された上で,その他の権利については,裁判所がその権利の価値を明らかにして,私人間の紛争における対立する権利の比較衡量をすれば,問題は解決されるはずであり,ステイト・アクションの要件がなくて

122) Edmonson, 500 U.S. at 620.123) Lugar, 457 U.S. at 936. ポール・ブレスト教授は,ステイト・アクション法理が「一方で

は権力濫用の防止,他方では,個人の自律と連邦的な価値の保障」をしていると述べている。See Paul Brest, State Action and Liberal Theory, 130 U. PA. L. REV. 1296, 1330 (1982).

124) See Erwin Chemerinsky, Rethinking State Action Doctrine, 80 NW. U. L. REV. 503, 539 (1985).125) Id. at 536-42.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月88

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も個人の自由は保障されることになる126)。⑵ 多様性の尊重と公私区分の意義しかし,私人間の行為を憲法によってダイレクトに規律することによって,個

人の自律の領域が本当に手厚く保障されるかどうかという点については,多様性という事実について検討しなければならない。そこで,実証主義や自然権に依拠せず,多様性という事実に注目して個人の自律の領域の保障を提唱する立場が登場した。とくに近年,多様性という事実を無視しえなくなったことを考慮すれば,多様性を反映した私的領域の維持という観点から,ステイト・アクション法理が個人の自律を保障している,というテーゼを論証することができるように思われる。仮にステイト・アクションの要件をなくしてしまえば,私人間の衝突する権利の「衡量」が直接問題となり,本来自由なはずの私人の活動も常に憲法の価値によって拘束されることになる。

たとえば,Marsh判決においては,一方では,表現の自由及び信教の自由,他方では財産権が,それぞれの私人にとっての利益であり,これらの利益の「衡量」によって結論が導かれた。確かに,Marsh判決で示された「衡量」アプローチへの支持は,少なくない。もっとも,憲法上の権利を衡量するための「共通の規準を欠いている以上,そのような衡量は,まったくいい加減に(unconstrained)行われることになってしまう」可能性もある127)。実際に,Marsh判決では,法廷意見と反対意見との間で,対立する権利の比較衡量の結果,逆の帰結が導かれた128)。仮に私人間の権利について精巧な「衡量」が行われうるとしても,Marsh判決では,会社町の自治が,憲法の価値によって精査され,また拘束されることになってしまった。それに対して,たとえばRendell-Baker v. Kohnにおいては,

126) Id. ここで紹介したとおり,チェメリンスキー教授は,ステイト・アクション法理が,個人の自律の価値を維持するものではないと考えている。しかし,チェメリンスキー教授は,ステイト・アクションの要件を削除すること自体が,公私区分までをも放棄することを意味しないと注意を促している。仮にも公私区分が,完全になくなってしまえば,政府によってあらゆる事柄が支配されてしまう可能性が生じる。従来までのステイト・アクション法理に問題があったとすれば,それは,公私区分の境界が余りに恣意的であったことである。Id. at 538-9.

 この他に,同法理が,個人の自由の保障にかえって有害であると考えるものとして,See Erwin Chemerinsky, More is Not Less, 80 NW. U. L. REV. 571 (1985).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 89

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全治療費のうち90%以上を州政府からの援助を受け,州の認可を受けている私的養護施設の行為はステイト・アクションであるとは判断されず,当該施設における患者の憲法上の主張はしりぞけられた129)。しかし,この私的養護施設の行為が憲法の価値に拘束されなかったために,その施設の専門的判断と私的自治が尊重されることになったのである。仮にステイト・アクションの要件がなくなり,私人のあらゆる活動が裁判所によって精査される可能性が開かれれば,「修正14条が私生活に侵入する」130),または「私生活を国営化する(nationalize)」131)ことを意味するようになる。政府が活動できる領域と政府が立ち入ることのできない領域が区分されることによって,各人はそれぞれの人格を涵養することができるのである132)。この政府が立ち入ることのできない領域を「プライヴァシーの圏域(a zone of privacy)」や「結社の権利(the associational rights)」と呼ぶにせよ,このような領域において各人は自らが望む生を全うし,また他者と自由な関わり合いをもつことができる133)。そのため,このような区分を維持しているステイト・アクションの要件は,あらゆる問題に対する憲法上の自由の衡量による

127) See Gillian E. Metzger, Privatization as Delegation, 103 COLUM. L. REV. 1367, 1378 (2003). この指摘を受け入れながらも,そもそもステイト・アクション法理は,「通約不能(incom-mensurable)」な憲法上の価値における衝突を和解させようとする難題を抱えている,という主張もある。See Michael L. Well, Identifying State Actors in Constitutional Litigation: Reviving the Role of Substantive Context, 26 CARDOZO L. REV. 99, 124-5 (2004).

 日本においても,憲法の規定がどのように私人間に適用されるかで,結論が異なってくることが指摘されている。つまり,どの人権規定を「適用」するのか,という選択によって,正反対の結論がもたらされることがある。たとえば,企業が,思想や性別によって従業員を差別する場合,平等原則や精神的自由に関する規定を「適用」するのであれば,従業員に,経済的自由に関する規定を「適用」するのであれば,企業に,それぞれ有利な結論が導かれるであろう。戸波江二・松井茂記・安念潤司・長谷部恭男『憲法⑵』

(有斐閣・1992)54頁〔安念潤司執筆〕。128) See Marsh, 326 U.S at 506 (majority opinion); Id. at 516 (Reed, J., dissenting).129) 457 U.S. 991 (1982).130) Black, supra note 115, at 100.131) JOHN H. GARVEY, WHAT ARE FREEDOMS FOR? 251 (1996). ステイト・アクションの要件を

なくせば,一定の「道徳的な模範」によって,常に私人の行為は規律されることになる,という指摘がある。See Christopher D. Stone, Corporate Vices and Corporate Virtues: Do Public/Private Distinction Matter?, 130 U. PA. L. REV. 1441, 1492-506 (1982).

132) See Louis Michael Seidman, Public Principle and Private Choice: The Uneasy Case for a Boundary Maintenance Theory of Constitutional Law, 96 YALE L. J. 1006, 1007-08 (1987).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月90

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解決を避け,多様な価値観を追求するための個人の自律の領域を保障しているのである。

この点,マイモン・シュワルツチャイルド教授によれば,「[多元主義(pluralism)]は,伝統的なステイト・アクション法理そのものを正当化している」134)。ここで,多元主義とは,アイザイア・バーリン教授が示すとおり,人間の価値観は多様で,必ずしも調和できないとの立場を意味している135)。価値観が多様であるという事実を認めると,私的領域において,各人は,自らが追求する価値観に基づいて行動をすることができ,また価値観の共通する者たちと組織や結社を形成することによって,合理的に活動を行うことができる。多様な価値観が共存する社会においては,憲法が擁護する価値が,唯一の絶対的な価値となりえる保証はない。このような社会では,憲法が明示する公的価値によって,政府という公的機関が拘束されるにすぎないのである。もしも私的領域が廃止されれば,私人の多様な価値観は妨げられ,公的に採用された価値観のみが各人の生を支配することになる。さもなければ,各人の和解しがたい多様な価値観の衝突によって,社会は分断化し,価値の対立と紛争が生じてしまうおそれがある。このように,多元主義の立場からは,多様な価値観を追求する多様な人びとに対し

133) Moose Lodge, 407 U.S. at 179-80 (Douglas, J., dissenting).  ダグラス裁判官は,次のように述べている。  「修正1条と権利章典の関連する保障規定に関する私の見解によれば,これらの規定は,

政府が,私的クラブと集団に干渉することを除外したプライヴァシーの圏域を創りだしている。…結社の権利によって,白人だけのクラブ,黒人だけのクラブ…を造ることが認められている。…政府は,ある者が誰と付き合わなければならないかということを指図することが許されない。各人が好きなように付き合いの選択をすることができる」。

 もっとも,このようなプライヴァシーの圏域ないしは結社の権利として保障された領域は,言い方を換えれば,「個人が憲法規範から自由になることのできる私的行動の領域」でもある。See KATHELEEN M. SULLIVAN et. al., CONSTITUTIONAL LAW 893 (15th ed. 2004).

134) See Maimon Schwarzschild, Value Pluralism and the Constitution, 1988 SUP. CT. REV. 129, 136.135) 「いかにして人びとの多様な目的が調和して実現されるか,ということに関して単一の

公式を原理として見つけることができる,という信念は論証として誤っているように思える。

 多元主義は,…規律された権威主義的な構造を模索する人びとの目標よりも,真実に近く,人間の理想に近いように思える。人間の目的がたくさんあり,必ずしもすべてが通約可能(commensurable)ではないこと,つまり互いに永続的に衝突しあうという事実を認める方が,少なくとも真実に近い。」ISAIAH BERLIN, FOUR ESSAYS ON LIBERTY 169, 171 (1969).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 91

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て,憲法という画一の公的基準を強要すべきではないから,個人の自律の領域が確保されるのである。

シュワルツチャイルド教授は,このような一般論が具体的なステイト・アクション法理の帰結にも妥当するとして,いくつかの例を挙げている136)。たとえば,Moose Lodge判決においては,私的社交クラブにおいて人種を根拠にサービスの提供を行わなかったが,州の認可がステイト・アクションとして認められなかった。多元主義の立場からは,Moose Lodge判決は正しい。町にいくつもあるクラブのような私的企業は,それぞれの価値観に基づいて営業を行うことができるし,また消費者も自らの好みでクラブの選択を行うことができる。しかし,町に唯一の電力会社が,デュー・プロセスなくして電力供給を停止させたJackson判決の事案においては,この電力会社が独占状態にあり,また電力供給及び需要の多様性が存在しないため,Moose Lodge判決とは逆の結論が導かれるべきである。つまり,電力会社が独占状態にあり,また電力供給及び需要の多様性が存在しないところでは,電力会社は,多様性を根拠に個人の自律の領域を主張することができないため,憲法によってこの会社の行為を支配することは不当ではない137)。

以上のことを踏まえれば,ステイト・アクション法理は,一方では,憲法が宣言する公的価値によって政府の権力を創造し,その権力を拘束することを意味している。他方では,ステイト・アクション法理の本質は,私的空間における多様性を憲法の拘束から除外しておくことにある138)。要するに,ステイト・アクション法理は,「公的空間における立憲主義,そして私的空間における多元主義」139)

というテーゼの上に成り立っている。このように,ステイト・アクション法理は,

136) シュワルツチャイルド教授は,ここで挙げた例の他に,Shelley判決についても言及している。Shelley判決は,道徳的には正しかったが,多元主義の立場からすれば,人種問題も私的な空間に委ねておくことで,望ましい民族の結束を促進させることもあるため,誤りである。多元主義の立場からは,ステイト・アクション法理を人種差別解消のために用いること自体が誤りである。See Schwarzschild, supra note 134, at 152.

137) ある私的組織が独占状態に置かれているか否かの具体的な判断要素としては,「退出(exit)」─所属する集団から脱退する─の選択肢が欠如していること,消費者が非自発的状況に追い込まれていること,そして供給者あるいは経営者の裁量の大きさ,などがある。See Jody Freeman, Extending Public Law Norms Through Privatization, 116 HARV. L. REV. 1285, 1350 (2003).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月92

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憲法の価値によって拘束されない多様な価値観,すなわち「多元主義と多様性の価値」140)を保障している。そして,ステイト・アクション法理は,自らが選んだ生き方に対して,自らが責任をとることを想定しており,自らの失敗を公的機関に責任を負わせないことまでを意味している141)。仮に私人のいかなる行為も憲法の基準によって審査されることになれば,各人の価値観それ自体も憲法の価値によって拘束されることになる。ステイト・アクション法理は,そのような拘束を防ぐための安全弁として機能している。結局のところ,ステイト・アクション法理は,多元主義の観点から「政府が尊重しなければならない私的な自律の領域を確立」142)し,公私区分を前提としていると考えられるのである。

2.連邦制

⑴ 連邦と州の役割分担ステイト・アクションという要件の趣旨は,「連邦法と連邦司法の権限の射程

を制限することを通して」,個人の自由の領域を維持することにある。そして,ステイト・アクション法理を連邦と州の関係から見ると,州の自律性に対する

「連邦司法の権限の制限」とは,州の責任を明確化させるとともに,州に対し,本来帰責性のない行為に対する負担を課さないようにしている143)。そこで,第2に,ステイト・アクションという要件の趣旨は,連邦法と連邦司法の権限の制限にもある144)。ここで連邦法と連邦司法の権限の制限とは,州の自律性に対する連邦法と連邦司法の権限の制限を意味する,いわゆる連邦と州の関係についての

138) Schwarzschild, supra note 134, at 145. また,私人間効力論における「私的自治 v. 憲法価値」という二項対立についての考察は,樋口陽一『国法学』(有斐閣・2004)115頁,榎透「人権規定を私人間に直接適用しないことの意味」比較社会文化研究7号(2000)1頁を参照。

139) Id. at 152.140) Jackson, 419 U.S. at 372 (Marshall, J., dissenting). マーシャル裁判官は,町に唯一の私的

な電気会社しかない場合には,多元主義と多様性の価値は問題にならないと述べている。141) Shane, supra note 62, at 1592.142) PruneYard, 447 U.S. at 93.143) Lugar, 457 U.S. at 936.144) See id.「ステイト・アクション法理は,州が支配することのできない行為に対して責任

を課すことを避けるために,連邦主義という重要な価値も促進している」。See Brentwood, 531 U.S. at 306 (Thomas, J., dissenting).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 93

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連邦制に関するものである。つまり,ステイト・アクション法理の本質は公私区分にあるが,その区分の設定権限が連邦にあるか,それとも州にあるのか,という問題である。

そもそも,ステイト・アクション法理は,その生い立ちからして連邦と州の管轄問題として捉えられてきた。1883年Civil Rights Casesにおいて,Civil Rights Actが修正14条の文言とは矛盾し,連邦議会の権限を逸脱していると考えられるため,人権擁護のための立法を各州の判断に委ねた145)。そして,ニュー・ディール後の連邦主義の変化に伴い,連邦の権限は拡大していった。つまり,連邦裁判所が,連邦憲法上の権利侵害を理由として,一定の私人の行為を含むステイト・アクションを拘束する,という視点に立ってステイト・アクション法理は発達していったのである146)。たとえば,Shelley判決やReitman判決の事例にみられたように,土地の売買契約に関する取り決めは,本来各州が管理すべき事柄であるにもかかわらず,連邦司法の権限の拡大に伴い,これらの事案においても,連邦裁判所が措置を講じることが容易になったのである。このように,ステイト・アクション法理の発展は,私人間の権利侵害について「画一的な国の基準」147)を普及させることを意味していた。

他方で,ステイト・アクション法理は,バーガー・コート期以降,連邦法と連邦司法の権限を縮小化させてきた。たとえば,PruneYard判決は,同じような事案であったLloyd判決とは逆の結論に至った。両判決の帰結の違いは,連邦主義の理解の仕方によるものである。つまり,Lloyd判決では,連邦司法が,その権限の下,ショッピングモールにおける表現活動の制約を認めたのに対して,

145) Civil Rights Cases, 109 U.S. at 10-14. この時期の連邦主義が,ステイト・アクションという要件の生成に大きな影響を及ぼしていると考えるものとして,See Alan R. Madry, Private Accountability and the Fourteenth Amendment: State Action, Federalism, and Congress, 59 MO. L. REV. 499 (1994).

146) ステイト・アクション法理は,「州の行為」のみを問題としているのではなく,連邦,州,地方のあらゆる政府の行為を法理の対象としていることには注意が必要である。つまり,連邦主義という要素が存在しないからといって,ステイト・アクション法理の問題が成立し得ないわけではない。たとえば,San Francisco Arts & Athletics, Inc.判決においては,合衆国オリンピック委員会の行為が,政府の行為(Government action)を構成するか否かが問われ,本件には,連邦主義の要素は介在していなかった。

147) Alstyne & Karst, supra note 116, at 3.

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PruneYard判決では,州憲法で保障されている表現活動を連邦司法が尊重したとみることができる。

このように考えれば,ステイト・アクション法理は,私人間の権利侵害の問題において,どのような場合であれば,連邦が州に対して介入をすることができ,またできないのか,ということを示してきたのである。この点,ジェシー・チョーパー教授は,ステイト・アクション法理の目的について次のように述べている。

「修正14条のデュー・プロセス条項におけるステイト・アクションの要件の主要な目的は,個人の自律を護ることではない。つまり,その要件は,個人がすべての政府の規制から免除されることを保障するものではない。むしろ,ステイト・アクションの要件は,連邦制度における権限の配分のために役立っている。つまり,その要件によって,州に相対して連邦政府の権限が制約されているのである」148)。このように,ステイト・アクション法理は,一方では,連邦司法が介入できる

領域を創り,他方では,州のみが規制できる領域を創り,連邦と州の「二重の主権(dual sovereignty)」149)を創り出してきた。そして,ステイト・アクション法理を支える連邦制は,垂直方向の権限配分の問題として立憲主義のかたちを左右する重要な問題である150)。

⑵ 連邦主義の新展開もっとも,連邦制がどのようなものであり,どの程度ステイト・アクション法

理に影響を及ぼすか,という点については慎重な検討が必要である。ステイト・アクション法理と直接関連する連邦制の根拠条文は,修正14条5節である。同条1節では,適正な手続なくして,生命,自由,もしくは財産を州から剥奪されな

148) Choper, supra note 119, at 757-8.149) Chemerinsky, supra note 124, at 543.150) 連邦主義には,いくつかの重要な価値があると考えられている。第1に,合衆国のよう

な広範な土地と多様な人民から成り立っている国においては,連邦主義を採用することにより効率性(efficiency)が担保される。第2に,異なる権力が異なる目的のために構成されることにより,各人の選好が保障される。第3に,州や地方の政府が直接政治参与する機会を提供することによって,民主主義を促進させることになる。第4に,権限を州にも与えることによって,連邦政府の独善性を阻止することができる。第5に,それぞれの州が,独自の政策を試みる実験(experimentation)が可能となる。連邦主義の価値についての説明については,See DAVID L. SHAPIRO, FEDERALISM: A DIALOGUE (1995).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 95

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いことを保障しており,また権利章典に掲げられた諸権利もこの条文を通して州に編入されている。そして,修正14条5節には,連邦議会が,適当な法律によって,この条文に掲げられた権利を保障するための権限を有していることが明記されている。

この点,修正14条5節に関しては,2つの立場が考えられる151)。1つは,ナショナリスト的見解(nationalist perspective)である。ナショナリスト的見解とは,連邦議会が修正14条5節を根拠に権利の範囲を拡大できる権限を有しているという立場である。ここで用いているナショナリストという言葉は,連邦政府の概念であり,民族主義や国家主義という意味とは全く異なるものである。いま1つは,フェデラリスト的見解(federalist perspective)である。フェデラリスト的見解によれば,連邦議会は修正14条5節によって新たな権利を創設すること及び権利の範囲を拡大させることができない。つまり,連邦議会にできることは,既存の権利侵害の防止と救済にすぎないと考えられる152)。合衆国における司法の連邦主義に関する判例の流れを概観すると,建国から間もなくは,最高裁は,合衆国憲法1条8節の通商条項(The Commerce Clause)などの解釈に際して,限定的なナショナリスト的見解を採っていたが153),修正14条が制定されてからは,Civil Rights Casesから1937年までの間,フェデラリスト的見解へと変わっていった。しかし,ニュー・ディール以降は,ナショナリスト的見解を堅持し,1937

151) この2つの見解の区分については,See ERWIN CHEMERINSKY, ENHANCING GOVERNMENT: FEDERALISM FOR THE 21ST CENTURY 145 (2008).

152) 両者の違いは,テキスト解釈からも生じている。ナショナリスト的見解によれば,修正14条5節で規定されている「執行する」権限とは,裁判所によって拡充された権利を,議会が「執行」する権限であると考えられる。一方,フェデラリスト的見解からすれば,憲法典に記載されている権利のみを議会が保障し,新たな権利の創設は「執行」にならない。さらに,両者の違いは,議会と裁判所の関係からも生じている。ナショナリスト的見解からすれば,憲法の下の権利を保障する権威を裁判所のみならず,議会もまた有しているということになる。これに対して,フェデラリスト的見解は,憲法の下で保護された権利について判断を下すのが裁判所の役割であり,議会は権利侵害を防ぎ,また侵害に対する救済を与える権限を有しているに過ぎない。最後に,連邦と州の関係の観点からも2つの見解の違いが生じている。ナショナリスト的見解は,憲法上の権利や自由を保護するための連邦の権限の創造を擁護している。しかし,フェデラリスト的見解は,連邦の権限を制限し,州政府の権限を維持し,連邦が州や地方の行為を規制できる場面を縮小させている。See CHEMERINSKY, supra note 34, at 211-2.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月96

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年から1992年までの間,最高裁が連邦主義を理由として違憲と判断した事案は一つとして存在していない。

修正14条ができてから間もなくCivil Rights Casesにおいて,最高裁は「禁止されているのは特有の州の行為(State action)である。個人の諸権利に対する個人による侵害は修正14条の主題ではない」154)と述べ,連邦議会が私人間の侵害行為に対する立法権限を有していないことを明らかにした。つまり,私人間の行為に関する規制は,連邦議会の管轄する事項ではなく,それぞれの「地方の法体系(local jurisprudence)の領域」155),すなわち州の管轄に属する事柄である,と考えられていた。そして,私人間の権利侵害に対する連邦議会の立法を限定させたフェデラリスト的見解は,政府の経済規制に敵対的であった1937年まで続いた156)。この時期の連邦主義は,連邦政府と州政府がそれぞれ主権を有しているとみなしている点において,「二重の主権」を維持していたと解される。

しかし,「二重の主権」を基礎とする連邦主義は,1937年の憲法革命と同時に終わり157),最高裁は,1937年から1997年までの間,修正14条5節に基づく連邦

153) Gibbons v. Ogden, 22 U.S. (9 Wheat.) 1, 189 (1824)において,最高裁は,「通商とは,疑いなく,交易(traffic)のことである。しかし,それ以上のことも含んでいる。つまり,通商は,交渉(intercourse)である。あらゆる機関における,国家間及び国家の一部の間の通商的交渉を意味している」と述べ,通商の概念を柔軟に解し,通商条項に基づく議会の役割に対する制約を限定させた。

154) Civil Rights Cases, 109 U.S. at 11.155) Id. at 13-4.156) たとえば,1935年,連邦議会が制定した瀝青石炭保全法(The Bituminous Coal

Conservation Act)が定める労働賃金と労働時間の規制を,最高裁は通商条項に定められた議会の権限を逸脱したものと解して,違憲と判断した(Carter v. Carter Coal Co., 289 U.S. 238 (1936))。もっとも,この時期は,経済規制を意図した連邦法のみならず,そのような州法にも敵対的であったともいえる。

157) 最高裁のこの変化は,一連の判例によって確立した。団体交渉権を規定した鉄道雇用関係法(The National Labor Relations Act)の合憲性を支持したNLRB v. Jones & Laughlin Steel Corp., 301 U.S. 1 (1937),最低賃金に関する規定を定めていた公正な労働基準法(The Fair Labor Standard Act)を必要かつ適切な議会の権限として肯定したUnited States v. Darby, 312 U.S. 100 (1941),さらに,農業調整法(The Agricultural Adjustment Act)は,小麦の価格を一定に設定するための政府による規制を認めていたが,最高裁は,連邦議会の権限を逸脱するものではないと判断したWickard v. Filburn, 317 U.S. 111 (1942),のそれぞれの判決において最高裁は,1937年以前の連邦主義と決別したと評価することができる。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 97

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主義を根拠として,違憲判決を一件たりとも下したことがなかった。ステイト・アクション法理との関係では,特に人種差別是正を目的とした1964年Civil Rights Actが,修正14条5節に定められた連邦議会の権限を逸脱しているかどうかが問題となった。最高裁は,Heart of Atlanta Motel Inc. v. United States 158)において,公的施設における差別を禁じていた1964年Civil Rights Act第二編の合憲性を支持し,また,Katzenbach v. McClung 159)では,家族が経営するレストランにおけるこのActの適用が認められた。もっとも,最高裁は,Civil Rights Casesにおいて1875年Civil Rights Actを修正14条5節に反すると判断していたため,これらの判決においては,通商条項によってCivil Rights Actそのものとその適用を首肯した160)。そして,読み書きテストの成績に関わらず選挙権を与えることを認めた選挙法(Voting Rights Act)が問題とされたKatzenbach v. Morganにおいて,最高裁は,同法が「修正14条5節によって議会に与えられた権限の適正な行使」161)であることを明言し,ナショナリスト的見解を採った。

ここで,重要なことは,1937年から1997年までの間,修正14条5節に関して,最高裁の立場は一貫してナショナリスト的見解を採っていたことである。つまり,この期間,最高裁は,私人間の権利侵害について,その解決を州に委ねるのではなく,連邦議会が制定した連邦法によって解決する方途を公認した。同時に,そのことは,連邦裁判所によって,私人間の権利侵害の解決を図ることが認められてきたことも意味する。連邦主義の観点からすれば,Civil Rights Casesの連邦主義(フェデラリスト的見解)ではなく,それとは異なる連邦主義(ナショナリスト的見解)を採ってきたために,連邦裁判所においてステイト・アクション法理が展開されたのである。

この点とも関連して,チェメリンスキー教授は,現在のステイト・アクション法理が連邦制の維持に必ずしも貢献していない,と論じている162)。チェメリン

158) 379 U.S. 241 (1964).159) 379 U.S. 294 (1964).160) もっとも,ダグラス裁判官とゴールドバーグ裁判官は,それぞれの同意意見において,

修正14条5節によって,Civil Rights Actを正当化できるとも述べている。See Morgan, 379 U.S. at 280 (Douglas, J., concurring); id. at 293 (Goldberg, J., concurring).

161) 384 U.S. 641, 646-7 (1966).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月98

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スキー教授は,1937年以降のナショナリスト的見解に立つ連邦主義の流れを指摘した上で,ステイト・アクション法理が,州の主権を保障するための手段と考えることは,もはや誤った前提に立っていると言う。仮に州の主権の領域があるとしても,連邦憲法で保障された個人の権利よりも,州の主権を重要であるとして擁護する理由はない,と主張する。そして,もしステイト・アクションの要件それ自体が廃止されたとしても,州は権利を保障するための手段を選択する自由を有しているし,権利保障が一度確立されれば,連邦の監督はもはや不要になってくるため,州の主権を高める結果にもなる,とチェメリンスキー教授は言う。いずれにしろ,チェメリンスキー教授は,連邦憲法で保障された権利を侵害するための口実として,州の主権論を用いることはできない,と指摘している。

チェメリンスキー教授が論じているとおり,ステイト・アクション法理における連邦主義をCivil Rights Casesにおけるそれと同視して,同法理と連邦主義の関係性を過剰に主張することは的確ではない。さらに,San Francisco Arts & Athletics判決においては,連邦制という要素が一切介在せず,オリンピック委員会の行為が,連邦政府の行為(governmental action)となりうるか,という形で争われていたことは確認したとおりである。このように,ナショナリスト的見解に立つ連邦主義を採る期間においては,ステイト・アクション法理は,必ずしも連邦主義に基礎を置いているとは言い切れないのである163)。

以上を総合すれば,ステイト・アクション法理は,ナショナリスト的見解に基づく連邦主義と共に発展を遂げてきた164)。仮に,フェデラリスト的見解にたった連邦主義が浸透すれば,ステイト・アクション法理は連邦主義の影響を強く受け,同法理そのものは縮小化することになろう。いずれにしろ,重要なことは,ステイト・アクション法理の発達は,連邦政府と州政府の間の権力の垂直方向を

162) Chemerinsky, supra note 124, at 542-7. もちろんステイト・アクションの要件を廃止すれば,連邦憲法上の権利侵害に関する訴訟の数が,連邦裁判所において急増することが予想される。しかし,チェメリンスキー教授は,このような危惧は,短期的な現象を想定しているにすぎないと言う。つまり,連邦の裁判所が,権利の内容を明確化していくにつれて,行為の適切な基準が形成されていくこととなり,事案の数の増加には歯止めがかかることになるであろうし,また,憲法上の権利に関する判例の蓄積によって,裁判所も効率的に事案を裁くことができるようになるのである。Id. at 549.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 99

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規律する連邦主義と不可分の関係にあったという点である。ステイト・アクション法理は,立憲主義のかたちを左右する連邦制の価値を内包している165)。

3.権力分立制

⑴ 議会と裁判所の役割分担「連邦法と連邦司法の権限の射程」を制限することは,「州」に対する連邦司法

の権限のみならず,連邦の「立法権」に対する連邦司法の権限を制限することをも意味している166)。第3の問題として,ステイト・アクション法理は,司法と立法府の権限配分の問題と深く関係している。つまり,ステイト・アクション法理の本質が公私区分にあるが,その区分の設定を裁判所が行うのか,それとも立法府が行うのか,という問題が存在する。

そして,最高裁はこの点について次のように述べていた。「ステイト・アク

163) See Note, State Action and the Burger Court, 60 VA. L. REV. 840, 842 (1975). もっとも,後期レンキスト・コートの特徴は,連邦主義革命(federalism revolution)にある。ステイト・アクション法理の観点からは,2000年に下されたUnited States v. Morrison, 529 U.S. 598 (2000)が重要である。本件は,性被害者が,加害者に対して民事上の損害賠償請求を求めた事案である。Morrison判決において,最高裁は,5対4で,性別に基づく暴力の被害者に対する連邦民事救済法を,修正14条5節で認められた連邦議会の権限を超えたものであるとして,違憲であると判断した。修正14条1節で定められた諸権利は,私人の行為に対してではなく,州の行為に対して向けられているため,私人の行為に対する救済規定を含む本件立法には,連邦議会の権限が及ばない。Id. at 621. したがって,「われわれの連邦制の下では,本件救済が,合衆国ではなく,ヴァージニア・コモンウェルスによって提供されなければならないのである」。Id. at 627. Morrison判決は,結局のところ,度々引用されている「Civil Rights Casesと同様の結論に至った」。Id. at 621. Morrison判決で法廷意見を述べたレンキスト主席裁判官は,ステイト・アクション法理に関する先例を引用しており,修正14条5節に基づく連邦主義がステイト・アクション法理と密接に関係していることを示している。

164) 仮に連邦憲法上の権利を衡量アプローチによって解決しようとすれば,連邦主義が犠牲になってしまう。See Esper, supra note 94, at 682.

165) 安部・前掲注4)「州憲法の現代的意義㈤」1884‒7頁によれば,連邦と州の基本的な性格の違いは,それぞれの憲法の下での人権保障の射程の広狭に次の3つの点で影響している。つまり,第1に,相手当事者の自由を制約する根拠となるポリス・パワーは州のみが持っており,連邦政府には同様の権限がないということがある。第2に,州裁判所が権力分立についての考慮から比較的自由であるため,州憲法の人権保障の射程を私人間に押し広げるに当たって,ほぼ相手方当事者の自由の問題にのみ注意を払えば済むということが挙げられる。最後に,州裁判所においては,連邦主義の制約が働かない。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月100

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ションの要件の忠実な適用によって,私人のビジネスの規制という特権を,裁判所ではなく,州と代表機関(representative branch)に委ねることが保証されているのである」167)。このことは,ステイト・アクション法理の縮小期においては,私人間の権利侵害問題に対して,司法が直接介入するのではなく,司法が第一次的な判断を立法府に委ねた「代表補強」168)機能を果たしたことを意味している。すでに指摘したが,たとえば,Hudgens判決において,最高裁は,先例を覆して,ステイト・アクションの存在を否定し,私的なショッピングセンターにおけるピケッティングとしての表現活動を認めなかった。しかし,PruneYard判決において,表現活動を目的としてショッピングセンターにアクセスする権利を認めた州法に対して,最高裁は異論を唱えなかった。Hudgens判決とPruneYard判決とを比較することによって,ステイト・アクション法理が司法による解決と立法による解決を区別していることが理解できる。つまり,両者は,矛盾した結論を導いているように思えるが,司法によって私人間の問題を直接解決するのではなく,立法にその解決を委ねたという点において,ステイト・アクション法理を「代表補強」の機能を有するものとして扱ったことを意味している169)。したがって,

「ステイト・アクション法理によって導かれる基本的な原理とは,『個人の自由』

166) 日本における私人間効力論においても,権力分立制の論点が指摘される。たとえば,間接適用説は,第一次的適用権者は,立法者のみで,裁判官は法律に根拠を有する場合にのみ,私人間で人権規定を第二次的に適用しうるにとどまる,と考えられている。棟居快行『人権論の新構成』(信山社・1992)63頁を参照。この点は,裁判官主導の社会秩序形成を常時許す結果につながる直接適用説とは決定的に異なると考えられる。樋口陽一編『ホーンブック憲法〔改訂版〕』(北樹出版・2000)170頁〔石川健治執筆〕。他方で,間接適用説が依拠する民法の一般条項は,極めて抽象的な規定であり,具体的な事案の解決には結局憲法規範が適用されていること,また,この説は,「立法権の優位」及びその裏腹の「司法権の抑制」に立脚しており,日本国憲法81条の下では超克されるべきである,という指摘も傾聴に値する。奥平康弘『憲法Ⅲ憲法が保障する権利』(有斐閣・1993)81‒6頁を参照。

167) Sullivan, 526 U.S. at 52.168) See JOHN HART ELY, DEMOCRACY AND DISTRUST (1981). 司法よりも立法府の方が,ステイ

ト・アクションと私人の行為との間の線引きを行うのに適しているという指摘としては,See Herbert Wechsler, Toward Neutral Principles of Constitutional Law, 71 HARV. L. REV. 1, 31 (1959).

 また,芦部・前掲注4)『現代人権論』92頁では,「私的権力からの人権の保護は,…なかんずく議会の力によるところがきわめて大きいことを忘れてはならない」とも述べられている。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 101

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ではなく,むしろ『民主的選択』なのである」170)。これに対し,ステイト・アクション法理を用いて,司法が権利の保障を行うこ

とは,「議会を迂回すること(bypassing)」,言い換えれば「議会が立法を制定する前に,[連邦裁判所が]人権保障の立法の領域に立ち入ることと機能的に等しい」171)。たとえば,白人予備選挙の事例であるTerry v. Adamsは,政党の予備選挙における人種差別を是正するため,議会が平等選挙法の制定に取り組む10年以上も前に,最高裁によって公的な決着が図られた172)。また,Shelley判決とReitman判決では,私人相互間の人種差別的な不動産売買に関する問題について,政治過程で解決するのではなく,裁判所が直接介入してこの問題の結論を導き出した。つまり,Shelley判決は,議会が平等な土地売買に関する連邦法を制定する20年も前に,最高裁の手によって,問題解決が先取りされたのである。このように,ステイト・アクション法理の発展は,連邦議会の立法権に対する連邦司法の権限の拡大を示唆しているのである。このように,具体的な立法による解決を待たずして,私人間の権利侵害に裁判所が介入することは,司法権が実質的には「立法機能」173)を果たしていると言うことができる。

⑵ プロセス理論からの説明この点,権力分立制の観点から,ステイト・アクション法理が誕生した理由に

ついて,デヴィッド・ストラウス教授は次のように述べている。裁判所が,議会を迂回して立法府の領域に介入することは,「ステイト・アクション」の領域を拡張させるための単なる結論志向的な戦略ではない。むしろ,適正な政治過程を

169) このことは,州の不作為が問題とされた,いわゆるステイト・インアクション(state inaction)の事例において,最高裁は,司法と立法の権限配分の問題を強く意識していることが理解できる。最高裁は,ステイト・インアクションに対しては,憲法による救済を受けないことを明確に示した上で,州の不作為による児童虐待について「同情」するのであれば,適切な立法や行政サービスによってその問題を解決すべきであることを述べている。See DeShaney, 489 U.S. at 203.

170) Wilson R. Huhn, The State Action Doctrine and the Principle of Democratic Choice, 34 HOFSTRA L. REV. 1379, 1458 (2006).

171) Strauss, supra note 60, at 413.172) 345 U.S. 461 (1953).173) William M. Burke & David J. Reber, State Action, Congressional Power and Creditor’s Rights,

46 S. CAL. L. REV. 1003, 1017 (1973).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月102

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維持することは,立法府よりも裁判所の方が適しているのであり,正統な「ステイト・アクション」の存在を提示することが,裁判所の役割であると考えられている。すなわち,「Carolene Products判決が,Brown判決などの人種差別を解消する判決を正当化したことは,立法府よりも裁判所の方が人種差別問題に対して立ち向かうには適した立場にあったことを明確にしている。…Carolene Products判決のアプローチは,[裁判所による]本質的な憲法上の権利保障を拡張させた基礎としてみなされている。そのアプローチが,ステイト・アクション法理の解釈にも影響を与えなかったはずがない。黒人差別(Jim Crow)で問題となった公的領域と私的領域の相補関係のみならず,人種差別問題も処理することのできる裁判所の卓越した能力によって,裁判所は,何がステイト・アクションを構成しているか,という広大な考察を行うことが保証(十分に保証)されている」174)。

ここで再三引用されているCarolene Products判決とは,その判決の脚注4において,宗教,国籍,あるいは人種の少数者に対する偏見は,政治的プロセス作用を著しく制約する傾向を持っているため,そのような偏見に基づく立法に対しては,厳格な司法審査が妥当することを明らかにしたものである175)。Carolene Products判決脚注4が,いわゆる二重の基準論を確立し,また,この脚注の解釈からジョン・ハート・イーリー教授の「参加志向代表補強的司法審査」アプローチ(プロセス理論とも呼ばれる)が登場した。日本においても,このアプローチの紹介がなされている176)。このアプローチが提唱していることは,「切り離され孤立した」少数者に対する偏見のゆえに,プリュラリズムの交渉と協力のプロセスから排除されてしまう可能性がある場合,裁判所は政治プロセスのメカニズム

174) Strauss, supra note 60, at 413.175) 304 U.S. 144, 152 n4 (1938).176) ELY, supra note168, DEMOCRACY AND DISTRUST. また,イリィ教授のプロセス理論の観点

からのステイト・アクション法理の検討については,See Charles R. Lawrence, Forbidden Conversation: On Race, Privacy, and Community, 114 YALE L. J. 1353 (2005). イリィ教授のプロセス理論の紹介については,松井茂記『二準の基準論』(有斐閣・1994),同『司法審査と民主主義』(有斐閣・1991)などを参照。なお,日本の私人間効力論において,プロセス理論がどのように機能しうるか,という考察については,棟居・前掲注166)65頁を参照。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 103

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を是正するために介入することができるが,他方で政治プロセスのメカニズムがきちんと作動している場合には,非民主的な機関である裁判所は議会の立法を原則として尊重する,という司法審査理論である。

したがって,Carolene Products判決脚注4にしたがえば,人種的少数者に対する偏見は,議会による立法ではなく,司法の厳格審査によって対処されるべきであり,ストラウス教授によれば,ステイト・アクション法理は,この脚注4を反映した結果であると考えることができる。確かに,例として挙げられている,Shelley判決,Smith判決,そしてBurton判決は,いずれも人種的少数者に対する偏見が存在している事例であり,Carolene Products判決脚注4に基づくステイト・アクション法理によって開拓された憲法の領域であると評価できる。他方で,Carolene Products判決脚注4にしたがえば,人種的少数者に対する偏見が存在しない場合においては,選出されていない非民主的な裁判官が,民主的代表者が結集する議会の制定法を待つことなく,私人間の問題を解決することが,司法審査の民主的正統性の観点からは正当化しにくい。そのような場合は,「民主的プロセスが強力である限り,人民は強力な私的利益を規制する能力を有しており,最高裁判所に憲法解釈によって全てのことを片付けてもらうことは不要である。私的権力の乱用の統制は民主的プロセスを通じた人民の行動しだいである。…最高裁は,ステイト・アクション法理の解釈を通じて民主的選択のこの領域を維持することが適当である」177)。このように,人種的少数者に対する偏見が存在しない場合においては,ステイト・アクション法理は,政治的多数派によって決定しうる領域,すなわち政治過程によって決定される領域を設定しているとも考えることができる178)。そのため,「ステイト・アクション法理の射程は,民主的原理によって制限されるべきである。…この制限は,『代表補強』のイーリーの理論に合致するものである」179)。このように,政治過程に対する敬譲によってステイト・アクション法理を正当化する方が,個人の自律や連邦制による正当化よ

177) Huhn, supra note 170, at 1397.178) See Mark Tushnet, Shelley v. Kraemer and Theories of Equality, 103 N. Y. L. SCH. L. REV.

383, 397 (1988).179) Huhn, supra note 170, at 1457.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月104

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りもより「賢明」であるという指摘もある180)。すなわち,ステイト・アクション法理の根底には,立法府と司法との間の権力分立制のあり方,そして民主主義の観点からの司法審査のあり方が存在しているのである。

以上を総合すると,ステイト・アクションの問題は,司法審査理論と直接関係しており,裁判官が主導となって私人間の憲法上の権利に関する紛争の解決を認めるか,立法に紛争の解決を委ねるか,という司法と立法の権限配分問題でもある。民主社会における司法と立法府の権限配分の問題は,司法審査の民主主義的正統性を問いただす問題が内在されており,ステイト・アクション法理が,その重要な問題を抱えていることには注意が必要であろう。

Ⅳ.ステイト・アクション法理の再構成論1.ステイト・アクションの要件の廃止論

ステイト・アクション法理が縮小化をたどる1980年代において,ステイト・アクション法理について最も注目を集めたのがアーウィン・チェメリンスキー教授のステイト・アクションの要件の廃止論である。すでにチェメリンスキー教授のステイト・アクションの要件の廃止論については触れたとおりであるが,次の2つの主張からなる。第1に,ステイト・アクションという要件は,私的自治の領域の維持に「逆効果」である181)。つまり,ステイト・アクションの要件は,被害者の権利を蝕むものであり,私人間における恣意的な侵害を容認することになってしまう。そのため,ステイト・アクションの要件を廃止して,対立する自由を比較考量し,憲法による救済をすることで個人の自由は最大化されるのである。第2に,ステイト・アクションという要件が州の主権の維持に寄与していると言う考えは,「誤った前提」に立っている182)。つまり,連邦憲法で保障されている個人の権利よりも州の権利の方が重要であるという前提に立っており,この

180) DANIEL A. FARBER ET AL., CONSTITUTIONAL LAW 184 (1993). 他方で,ステイト・アクション法理は,裁判所が憲法上の権利侵害に関する事案を取り扱うための司法審査の障害となってきた,という指摘もある。See Thomas G. Quinn, State Action: A Pathology and Proposed Cure, 64 CAL. L. REV. 146, 152 (1976).

181) Chemerinsky, supra note 124, at 536-42.182) Id. at 542-7.

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前提は南北戦争後一貫して拒否され続けている。そのため,私人間における権利侵害の救済については排他的に州に委ねられているわけではなく,また州の主権を理由に連邦憲法で保障された自由がないがしろにされるべきではない。このような2つの主張を基としてチェメリンスキー教授はステイト・アクションの要件の廃止を訴えている。

もっとも,このようなステイト・アクションの要件の廃止論については,それぞれの根拠について批判が想定される。個人の自律の論点については,そもそも憲法上の権利の比較衡量自体に無理があるが,仮にそのような衡量が可能であっても,個人のあらゆる活動が憲法の基準によって規律されてしまうことになる183)。しかし,チェメリンスキー教授によれば,自由と平等という基本的価値は,公的行為であろうと私的行為であろうと尊重されなければならないと応えている184)。同様の応答としては,チャールズ・ブラック教授が次のように述べて,平等保護の価値保障を指摘している。つまり,「アメリカ法が注意を払わなければならない最も重要な唯一の任務とは,人種差別の根絶という任務である」185)。このように,ステイト・アクションという要件を廃止する議論の前提には,憲法上の権利や自由は絶対的な価値として認められなければならないと考えられているのである。また,後に憲法の最高法規性の箇所でも指摘するが,「私法を憲法に組み込んでしまえば,私法を凍り付かせてしまうことになる」186)という批判もステイト・アクション法理の廃止論に対しては想定されうるが,この批判には私法を憲法の司法審査から解放してしまうという欠点がある。

また州の主権の論点については,連邦裁判所が私人間の権利侵害に係る訴訟に次々と介入することによって,訴訟件数は飛躍的に増加し,連邦裁判所の負担が増大することになるおそれがある187)。しかし,チェメリンスキー教授は,確かにこのような批判が短期的には妥当するかもしれないが,長期的見れば連邦裁判

183) William P. Marshall, Diluting Constitutional Rights: Rethinking “Rethinking State Action”, 80 NW. U. L. REV. 558, 561-7 (1985).

184) Chemerinsky, supra note 126, at 576.185) Black, supra note 115, at 69.186) Marshall, supra note 183, at 556.187) Id. at 576-9.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月106

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所の負担はそれほど多くはならないと考えている。つまり,私人間における権利侵害に係る訴訟の判例が積み重ねられることにより,憲法上の権利や自由の内容が確定しいくことにより,同種の事案は新たな理由がない限り却下されることになるためである188)。このような,チェメリンスキー教授の議論は,ステイト・アクション法理が実体論を展開するための憲法訴訟における間口あるいは訴訟要件としての機能を果たしていることにかんがみて,あくまで憲法訴訟実務の活性化という狙いがあって,このような主張をしているものと評価することができる。

2.リアリズムによるステイト・アクション法理の再構成論

⑴ リアリズムの主張ステイト・アクションの要件の廃止論は,リーガル・リアリズムに基礎を置く

議論からも導き出すことができる。古典的なリアリズムの議論を発展させた現代的な論者として,ルイス・サイドマン教授とマーク・タシュネット教授は,ニュー・ディールの憲法革命によって公私区分が崩壊していったと考えている189)。そして,その崩壊を特徴付けているものは,作為と不作為の区別の消滅であると彼らは主張する。そして,リーガル・リアリズム思想の淵源は,ニュー・ディール以前の1928年Miller v. Schoene 190)において,すでに見られると彼らは指摘する。Miller判決において,最高裁は,リンゴ産業に広く悪影響を与えるため,リンゴ果樹園に隣接しているヒマラヤスギの伐採を認めたヴァージニア州法が,正当な補償なくして私有財産の公用収用しているかどうかの問題に直面した。最高裁は次のように述べて,この州法が正当な補償なくして私有財産の公用収用を禁止した修正5条の下合憲であると判断した。

「州は,ある類型の財産の維持と,別の財産の維持との間のどちらかの選択を迫られている。…現在の州法を制定する代わりに,たとえ,州が何の行為も

4 4 4 4 4 4 4

おこさないこと4 4 4 4 4 4 4

によって,…リンゴ果樹園に対する深刻な被害を黙認していたとしても,にもかかわらず

4 4 4 4 4 4 4

,それは4 4 4

14

つの選択4 4 4 4

であっただろう。」191)

188) Chemerinsky, supra note 124, at 547-50.189) See LOUIS MICHAEL SEIDMAN & MARK V. TUSHNET, REMNANTS OF BELIEF 66 (1995).190) 276 U.S. 272 (1928).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 107

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本件においては,リンゴ果樹園を保護するためにヒマラヤスギを伐採するか,あるいはヒマラヤスギを保護して,リンゴ果樹園の被害を黙認するか,という選択を最高裁は迫られていた。どちらを選択しようとも,ヒマラヤスギかリンゴ果樹園の財産権は損なわれる。最高裁は,たとえ後者の選択,すなわち「州が何の行為もしないこと」も,州の選択ではないように思えるが,「にもかかわらず,それは1つの選択であっただろう」,と述べている。すなわち,Miller判決において最高裁は,「不作為」を「作為」とみなしているのである。ここにおいては,作為も不作為も決して自然なものではなく,また作為であろうと不作為であろうと政府は一定の立場に立っているのであり,ステイト・アクションは存在していることが示されていると読むことができる192)。

そして,サイドマン教授とタシュネット教授は,「公と私」の区分と同様に,「作為と不作為」の区分が成立しえなくなった現代において,「ステイト・アクションという要件は,信念の面影として生き残っている」193)にすぎないと言う。

また,ニュー・ディールを自らの憲法理論の中心にすえて同様の指摘を行っているのが,キャス・サンスティン教授である。サンスティン教授は,これまでの合衆国の立憲主義に関する議論,特にロックナー期における立憲主義の議論が,現状中立性に支えられてきた点に問題があると論じる。言論の自由,公金支出,財産権,平等などの問題において重要な役割を果している「中立性(neutrality)」という要件は,財産,収入,法的権利,富,資産,選好の既存の配分という,現在人びとが手にしている現状にベースラインの設定がおかれている。そのため,現在の所有権は,法の産物であるとはみなされていない。そして,憲法においても,われわれは,中立性を法的には何の論争もないものであると考え,すでに普及した観念としてとらえており,既存の配分そのものを尊重し,その配分を疑う

191) Id. at 279.192) See Gary Peller & Mark Tushnet, State Action and a New Birth of Freedom, 92 GEO. L. J. 779,

805 (2004). なお,サイドマン教授とタシュネット教授の議論についての分析として,阪口正二郎「アメリカ憲法学とニューディール再考」樋口陽一ほか編『国家と自由』(日本評論社・2004)が参考になる。

 これに対して,作為と不作為の区別は,刑事法や不法行為法においてなされているという反論については,See Kay, supra note 121, at 348-60.

193) SEIDMAN & TUSHNET, supra note 189, at 68.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月108

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ことをしてこなかった。サンスティン教授は,このような既存の資源配分を「現状中立性(status quo neutrality)」と呼び,現状中立性という考え方はそもそも誤りであると言う194)。

要するに,法がなければ,いかなるものも自らの所有権を正当に主張し,それを執行してもらうことができないのである。たとえば,土地や車を所有することも,法の創造(creations of law)である。つまり,財産に関する法がなければ,所有権を主張することはできず,既存の資源の配分も語りえない。このことは,ベンサムの次のフレーズが言い当てている。「財産と法は,同時に生まれて,同時に死ぬ。法の存在以前には,財産は存在していなかった,法を取り上げれば,財産もなくなってしまう」。つまり,現状─現在人びとが手にしているもの─そのものも,実は,法の産物に他ならない。したがって,現状中立性という考え方は,「誤り」である。もちろん,Shelley判決においても,裁判所は,中立的に制限的な契約を執行したわけではないのである。Shelley判決においては,裁判所が,人種に基づく制限的な契約を執行することにより黒人が手にする財産を剥奪することを「選択」したと言うことができる。

このように考えれば,現状とは,政府の存在が常に前提とされ,政府の造った法律とそれを執行する政府の機関によって支えられている。たとえば,不法侵入から財産を保護するためには,不法侵入を禁止する法律が必要であり,またそれを執行する政府の機関が必要である。同様に,契約についても,契約に関する法律とそれを執行する政府の機関がない限りは,契約は意味をもたない。そして,市場は,このような契約や財産制度によって支えられているのであり,市場の存在を「自然」であるとみなすことは,誤った現状中立性の観念の上に成り立った考えである。したがって,ロックナー期には中立であるとみなされてきた,市場における既成の賃金や労働時間に関するルールは,自然なものでもなければ,所与のベースラインでもない。すなわち,レッセ・フェールという思想は,神話に過ぎないのである。結論として,憲法を語るときに,権利が「自然」に生じたものであると考えることは誤りであって,権利も自由も,政府によって創設された

194) CASS SUNSTEIN, THE PARTIAL CONSTITUTION 3-7 (1993).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 109

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法の産物である195)。そして,既存の資源配分による中立性の観念が誤りである以上,資源の再配分と再調整を行うための新たな法的ルールが必要になり,サンスティン教授によれば,その新たな法的ルールは,討議民主政によって達成される196)。

サンスティン教授の議論は,ロックナー期後期に隆盛したリーガル・リアリズムの影響を受けており,このような立場からは,ステイト・アクション法理について,「ステイト・アクションは,常に存在している」という帰結を導き出すことができる197)。ステイト・アクションが存在していることは,サンスティン教授の立場から説明がつく。

このように,リーガル・リアリズムの立場を貫徹すれば,想定しうるあらゆる私人の行為にステイト・アクションの存在を認めることができる。このように考えると,サンスティン教授の立場からは,ニュー・ディール後の立憲主義(post-New Deal Constitutionalism)の下では,これまでの判例において,ステイト・アクションが存在していなかった事案を見つけることは困難になる。

サンスティン教授の議論はここで止まるものでもない。サンスティン教授は,スティーブン・ホームズ教授と共著で,権利の執行には公的機関が関与するコストがかかることを指摘する198)。サンスティン教授とホームズ教授によれば,たとえ私人間の契約や不法行為に関する問題であっても,権利の執行には,公的機関─多くの場合は裁判所─がその立場を引き受けている。また,権利の執行それ自体も公務員がいなければ執行し得ないのであり,権利そのものは積極的な政府の応答なのである。したがって,権利とは,公共財に他ならない。なぜなら,たとえ私人間の契約であっても,権利の実現には,政府の存在と政府による執行

195) Id. at 3-7. サンスティン教授は,このような考え方は,合衆国法においては決して「新奇な(novel)」ではないと言う。リーガル・リアリストの名前も挙げつつ,ニュー・ディールを実施した者たちは,中立を法の産物であって,不公正な(unjust)ものであると考えていた。 See also David A. Strauss, Due Process, Government Inaction, and Private Wrongs, 1989 SUP. CT. REV. 53, 74.

196) サンスティン教授は,討議民主主義を促進させる背景には,司法審査の役割を狭く解する司法ミニマリズム(judicial minimalism)という概念措定がある。See CASS R. SUNSTEIN, ONE CASE AT A TIME 24 (1999).

197) Cass Sunstein, State Action is Always Present, 3 CHI. J. INT’L L. 465 (2002).198) STEPHEN HOLMES & CASS R. SUNSTEIN, THE COST OF RIGHTS (1999).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月110

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が不可欠であるためである。一般に,政府からの干渉を受けない権利と呼ばれるものも,結局のところ,政府によって実現される権利であり,権利それ自体は,公的機関の質(quality)と税金(tax)に依拠せざるを得ない。すなわち,「個人の権利と自由は,活発なステイト・アクションに本質的に依拠している」199)。

サンスティン教授とホームズ教授の議論は,ステイト・アクション法理についても直接的な影響を与える。たとえば,児童虐待が起こっていることを知りながら,州の社会保障局職員がその虐待防止の策を怠ったことが,デュー・プロセス条項に反するかどうかが問われた DeShaney v. Winnebago County Dept. of Social Service 200)におけるステイト・インアクション(state inaction)法理の是非については,権力分立制の観点からは,次の指摘ができる。州が適切な処置を怠ったことにより児童虐待が生じてしまったという原告の主張は,コストのかかる権利の執行をするために,財源を配分する能力を十分に備えていない裁判所の立場を無視するものである。つまり,DeShaney事件は,合衆国政府が合衆国市民を保護する義務を負っていないという衝撃的な判決ではない。DeShaney判決は,権利にはコストがかかるというしらふの(sober)認識を示した判決に過ぎないのである。そのため,政府の財源の欠乏は,どれほど痛ましい権利侵害であっても,裁判所が権利を保障しえない正当な理由になる。ゆえに,DeShaney判決は,権力分立制の下,裁判所による政策決定の適切な範囲を設定したことになるとも考えられるのである201)。

以上のことからすれば,サンスティン教授とホームズ教授にとって,契約や不法行為に関する法,財産制度そのものも,税金によって成り立っているステイト・アクションによる創造であり,ステイト・アクションは常にこれらの権利を執行する際に登場する202)。究極的には,「ステイト・アクションは,常に存在してい

199) Id. at 14.200) 489 U.S. 189 (1989).201) HOLMES & SUNSTEIN, supra note 198, at 95-7. DeShaney判決の控訴審で判決を下した第7

巡回連邦控訴裁判所のリチャード・ポズナー判事(教授)もまた,「政府の予算が厳しい状況では,各人が受ける便益は削減されてしまう」と述べている。See RICHARD A. POSNER, OVERCOMING LAW 209 (1995).

202) HOLMES & SUNSTEIN, id. at 66.

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る」203)のである204)。⑵ ステイト・アクションの遍在

「ステイト・アクションは,常に存在している」と主張するリーガル・リアリズムの代表論者であるサンスティン教授は,ステイト・アクション法理を次のように再構成する。

203) Sunstein, supra note 197, at 465.  ステイト・アクション法理における同様の指摘は,多くの論者によって行われている。

典型的なものとして,Harold W. Horowitz, The Misleading Search for “State Action” Under the Fourteenth Amendment, 30 S. CAL. L. REV. 208 (1957)は,タイトルが示しているとおり,ステイト・アクションは遍在している以上,ステイト・アクションの存在の是非を論じる無意味さを明らかにしている。その他に,Harold W. Horowitz & Kenneth L. Karst, The Proposition Fourteen Cases: Justice in Search of a Justification, 14 UCLA L. REV. 37, 41 (1966)は,「何らかのステイト・アクションは常に存在しているのであり」,「州法という形態のステイト・アクションは,あらゆる私人間の法的関係において存在している」と,Ira Nerken, A New Deal for the Protection of Fourteenth Amendment Rights, 12 HARV. C.R.-C.L. L. REV. 297, 298 (1977)は,「論理的には,修正14条によって禁止されたステイト・アクションは,常に存在している」と,HENRY J. FRIENDLY, THE DARTMOUTH COLLEGE CASE AND THE PUBLIC-PRIVATE PENUMBRA 17 (1968)は,「すべての物事がステイト・アクションである」と,Jerre S. Williams, The Twilight of State Action, 41 TEX. L. REV. 347, 367 (1963)は,

「ステイト・アクションの存在しない状況を想像しがたい」と,SEIDMAN & TUSHNET, supra note 189, at 55は,「ステイト・インアクションであるように見えるものでも,常にステイト・アクションの網目の中に埋め込まれている」と,それぞれ述べている。

204) もっとも,サンスティン教授は公私区分論について,次のように法的な区分論と政治的な区分論を区別して議論している点には注意が必要である。

 「[私有財産制度と法の役割のいずれも]市民が公の介入を恐れることなく行動することのできる私的自治の領域を創り出している。この領域は公的領域それ自体にも不可欠である。国家からの安全の地位を享受した者のみが,恐れることなく独立して民主的討議に参与することができるのである。この意味において,厳格な法的に創り出された私と公との区分は公的領域に十分貢献することになる。伝統的な考え方に反して,公私区分は公的領域の何ら妨げとなる必要もない。

 より根本的なこととして,私と公との間の区分が形而上学的な区分として扱われるならば,擁護しがたいし,理解さえしがたいものとなる。しかし,わたしたちがその区分を,公的な意味で正当化された政治的な区分として捉えるならば,その区分は理解しえるものであると共に必ず必要となってくる。国家によって企図された私的領域の(法的)創造は,市民社会と市場秩序の創造過程の重要な要素である。もしこれらが正当化されるならば,私的領域そのものが少なくとも抽象的な意味において問題のないものとなる。もちろんその特定の内容は常に批判されうるし,またしばしば民主的な形で再定義されることになる」。

 See Cass R. Sunstein, On Property and Constitutionalism 390-91 (MICHAEL ROSENFELD ed. CONSTITUTIONALISM, IDENTITY, DIFFERENCE, AND LEGITIMACY, 1994).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月112

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「われわれの憲法の下では,私人の行為ではなく,政府の行為のみが憲法の拘束を受けることになる。まさにこの一節によって,憲法(非自発的苦役を禁止する修正13条という例外を除いて)は,政府に対して向けられている。現状中立に対する批判からの教訓は,公と私の行為の間に境界がない,ということでもなければ,私的行為が憲法によって制約される,ということでも全くない。その教訓とは,契約,不法行為,財産に関する法は,まさに法である,ということである。他の法が評価されているのと同じように,この法もまた法として評価されるべきである。」205)

続けて,次のようにステイト・アクション法理の問題を置き換える。「もしもこのことが正しければ,ステイト・アクション法理は,関連する事

案において問題となっているステイト・アクションが,憲法の直接関係する規定に違反しているかどうか,という問いを喚起するものである。ステイトが何を行ったかということを認識すること,そして原告が提起する憲法上の規定のもとでその行為を評価することが常に必要である。繰り返すと,憲法は,私人の行為を統治することはしない。しかし,あるステイトが人種制限契約を執行したとき,もちろん,そのステイトは行動をしている。不法侵入の法が,ある者を私有地から追い払うために用いられているとき,ステイトは,関与しているのである。」206)

「同じように,契約の執行や契約法の援用もまた,ステイト・アクションである。もっとも,契約法は,たいていの場合,憲法に背理するものではない。合意に至った私人の決定は,全くステイト・アクションではない。ステイト・アクションであるものは,ステイト・アクションのみである。このようにして,私は,分析を置き換えるよう提案したのである。」207)。サンスティン教授にとって,ステイト・アクションが存在しているかどうかと

いうことは重要ではない。なぜなら,政府が創設した財産や契約に関する法が私人の行為に及ぶ限り,その法に従う私人の行為にはステイト・アクションは常に存在していることになるためである。すなわち,私人が契約を締結し,そして契

205) SUNSTEIN, supra note 194, at 159.206) Id. at 159-60.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 113

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約を執行することにも,法を通じて行うことからステイト・アクションは常に存在している。したがって,サンスティン教授にとって,Shelley判決は,ステイト・アクションの問題にとって「容易な事案(easy case)」であったが,平等保護の意味の視点からは「難解な事案(hard case)」208)であったと言える。

サンスティン教授のステイト・アクション法理に応答する形で,ラリー・アレクサンダー教授もまた,ステイト・アクションは,常に存在する,と主張する論者の一人である。アレクサンダー教授は,ステイト・アクション法理そのものを擁護しているが,ステイト・アクションと私的な行為を区別することはそもそも不可能であると述べている。

アレクサンダー教授によれば,ステイト・アクション法理は,公私区分に対する批判の「居場所(locus)」であり続けてきた。そして,たとえ公私区分の法的ルールによって私的領域が保障されていても,その区分自体が公的事柄であることを認識しなければならない。したがって,私的領域は,法によって定義され,支えられており,よって一種の公的制度である。すべての私的行為は,法を背景にして行われるものであり,よってこれらの法の下,法的地位を有している。すなわち,私的行為は,法的に禁止され,法的に要求され,または法的に許容されているのである。結局,いかなる私人の行為も,契約,財産,不法行為等の私人相互の権利義務関係を構成する法的な背景ルール(background rule)によって,実際に義務と免除が与えられている。そのため,私的行為は,「模範的な」ステイト・アクションであると言うことができ,すなわち,すべての私人の行為は,ステイト・アクションを当然含んでいる209)。要するに,「いかなるものも,ステイト・アクションを超越し,それ以前に存在することはない。すべてが法の産物

207) Id. at 161. このようにサンスティン教授の立場は,ステイト・アクションは常に存在していることから憲法の妥当範囲を広く捉える立場として評価でき,あえて日本における私人間効力論の分類に当てはめるとすれば,直接効力説(あるいは見方によっては,間接効力説)であると評価することができる。もっとも,サンスティン教授の議論の別の側面を取り出して,「被差別者の二級市民性が構造的に再生産されることから,それを阻止するために,市民的地位の平等を基底的原理とする,他ならぬ憲法を直接適用しなければならない」として,「最小限直接適用説」を展開する立場もある。安西文雄ほか『憲法学の現代的論点』(有斐閣・2006)252頁〔巻美矢紀執筆〕を参照。

208) See David A. Strauss, Discriminatory Intent and the Taming of Brown, 56 U. CHI. L. REV. 935 (1989).

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月114

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であり,それゆえステイト・アクションの産物である」210)。ここから,アレクサンダー教授の立場からは,「私的権力は憲法上の審査を受

けることになる」211)という結論が導かれる。アレクサンダー教授によれば,私的権力を問題としているステイト・アクション法理については,次の3点を考慮することが必要である212)。第1に,私的権力は,契約や財産に関する背景ルールを通して行使される。そのため,私人間の権利が直接問題とされるのではなく,私的な権力の行使に対するいかなる憲法上の訴訟も,契約,財産,不法行為等の背景ルールに対する憲法上の訴訟として位置づけられなければならない。第2に,私的権力の行使が,憲法の価値に一致した公的効果を生み出すものとして捉えられなければならない。第3に,これらの議論からすると,政府の行為を規律する憲法と私人の行為を規律する背景ルールの方向性に転換が生じることになる。すなわち,憲法と背景ルールとはそれぞれ相互補完的な関係になり,その結果として私的権力を制限することが,憲法と背景ルール,そして公的領域と私的領域のどちらにも影響を及ぼすことになる213)。

このようなリーガル・リアリズムの最大の功績が,現実に,Shelley判決として現れたのである。Shelley判決は,すでに紹介したとおり,ステイト・アクショ

209) Larry Alexander, The Public / Private Distinction and Constitutional Limits on Private Power, 10 CONST. COMMENT. 361, 362-3 (1993).

210) Id. at 367.211) Id. at 377.212) Id. at 371-2.213) もっとも,ステイト・アクション法理の実際の運営の観点からは,第1に,ステイト・

アクションが常に存在しているとしても,原告そのものが憲法上の義務を負うステイト・アクターであることを意味しないことには注意が必要である。問題となるべきなのは,ある私人がとったステイト・アクションではなく,その私人の行為が準拠した法律である。なぜなら,その法律そのものも背景ルールとして,ステイト・アクションだからである。したがって,ステイト・アクション法理についての主張があったとき,裁判所は,問題となった法律が違憲なステイト・アクションであるかどうか,ということと,正統な原告がその法律の違憲性を主張しているかどうか,という問題を峻別しなければならない。第2に,ステイト・アクションが遍在しているといっても,州裁判所か,あるいは連邦裁判所のどちらが事案を審理するかという点を,無視することはできない。第3に,ステイト・アクションの遍在は,憲法の権利や義務の内容そのものには影響を与えない。Id. at 364-5. See also LARRY ALEXANDER & PAUL HORTON, WHOM DOES THE CONSTITUTION COMMAND? 73 (1988).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 115

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ン法理の判例の中で,最も論争を誘発した判決の1つであるが,最高裁が,人種制限的な契約を執行した州裁判所の判決そのものをステイト・アクションと認定し,ステイト・アクションの遍在性を証明した判決であった。すなわち,居住に関するルール,そして契約の執行は,ステイト・アクションそのものであるため,Shelley判決は,「この上なく正しい(irresistibly correct)」214)と評価されるのである。このようなリアリズムの指摘を踏まえて重要なことは,公私区分という手法そのものが批判されているのではなく,「リーガル・リアリストは,なぜ政府が私的領域における帰結に対して責任を負っていたのか,そしてなぜ政府が『私的』取引を規制することが正統であるのか,ということに関する記述に貢献した」215),ということである。言い換えれば,公私区分のベースラインについて,実は私的領域と考えられてきたものが,ステイト・アクションが存在している公的領域であったということを,リーガル・リアリストたちは気づかせたのである。

もっとも,このようなリーガル・リアリズムのステイト・アクション法理の再構成論に対して,フレドリック・シャウアー教授は,プラグマティックな観点から批判を行っている。シャウアー教授は,背景ルールをステイト・アクションであると扱うことによって,複雑な法体系からなる背景ルールを大規模に現状変更させることの危険性を説いている。つまり,シャウアー教授は,憲法の構造からすると,大規模な財の再分配の実現は困難であり,せいぜい憲法にできることは微視的な憲法上の構造の変革に過ぎない,と次のように言う。

「市場が政府の創造物であることは,そのとおりである。また,現存する配分制度の存在は,政府の行為に負っていることも,そのとおりである。しかし,裁判所も憲法上の構造も,一般的には,卵をかき混ぜるような大規模な構造の帰結を再調整,しかも初めて制度を創設することよりも困難にも思えるような再調整をするには十分適しているわけではない。それゆえ,憲法上の議論と司

214) Alstyne & Karst, supra note 116, at 44. See also Harold W. Horowitz & Kenneth L. Karst, The California Supreme Court and State Action Under the Fourteenth Amendment, 21 UCLA L. REV. 1421 (1974).

215) SEIDMAN & TUSHNET, supra note 189, at 69.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月116

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法審査は,インクリメンタルで周辺的な欠陥を処理するには適合しているという程度のものであろう」216)。このように述べて,司法審査の能力,または憲法のオリジナルな役割の観点か

らは,大規模な構造の改革は現実的には困難であることが指摘される。また,大規模な憲法上の議論は,契約や財産に関する抽象的な背景ルールを制定するのみで実現されるものでもない。すなわち,リアリズムは,契約や財産に関する法の制定と執行をステイト・アクションであるというが,裁判所が契約や財産に関する個別の案件を処理するには,それらが抽象的なルールでは意味をなさず,具体的かつ詳細な立法が必要となる217)。そして,その具体的な立法の射程は,公私区分によって決定されることになるように思われる。さらに,多様な価値観をもっている人々から構成される社会においてリアリズムの議論がどれほど通用力を有しているかは疑問も残る。結局のところ,リアリズムの議論は,ステイト・アクションの遍在を指摘することによって,批判の多いShelley判決における司法執行理論を単に焼き直したに過ぎないとも思われる218)。そして,プライヴァシー権や結社の自由という私的空間を保障しようとする限りは,ステイト・アクションの遍在性を論証しても,ステイト・ アクション法理における公私区分問題を避けて通ることはできないのである。このように,ステイト・アクション法理において,「公私区分はもはや死んでいるが,墓場からわれわれを支配しようとしているのである」219)。

3.憲法の最高法規性によるステイト・アクション法理の再構成論

ステイト・アクション法理の再構成理論は,リーガル・リアリズムの議論を追認する形でさらに別の角度からも主要されている。スティーブン・ガードバウム

216) Fredrick Schauer, Acts, Omissions, and Constitutionalism, 105 ETHICS 916, 925 (1995).217) See Matthew D. Bunker, Constitutional Baselines; First Amendment Theory, State Action and the

“New Realism”, 5 COMM. L. & POL’Y 1, 28 (2000).218) See Stephen Gardbaum, The “Horizontal Effect” of Constitutional Rights, 102 MICH. L. REV. 387,

416 (2003).219) Duncan Kennedy, The States of the Decline of the Public/Private Distinction, 130 U. PA. L. REV.

1349, 1353 (1982).

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 117

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教授は,サンスティン教授のステイト・アクション法理の再構成論に賛同しつつも,あえてリアリズムの議論に乗らなくても同様の結論が導き出せると考え,憲法の射程論を憲法の最高法規性の観点から論じている220)。ガードバウム教授は,合衆国憲法6条に規定されている最高法規性の条項221)に着目して,憲法の最高法規性の性格を次のようにまとめて,ステイト・アクション法理が憲法と法律との区分とは無関係にあることを論証している。第1に,最高法規性条項は,憲法が「国の最高法規性」であることを宣言している。第2に,最高法規性によって,憲法は州裁判所を明確に拘束している。第3に,最高法規性条項は,合衆国憲法が州の憲法や諸法律を支配し,また拘束しうることを明らかにしている。以上のことから,合衆国憲法は,連邦及び州の裁判所,そして州のコモン・ローや私法を拘束していると言うことができる。したがって,ガードバウム教授によれば,合衆国憲法は,ある意味では,「間接的水平方向の効果(indirect horizontal effect)の強力なヴァージョン」222)を採用しているのである。すなわち,州のコモン・ローや私法に基づく私人の行為は,そのコモン・ローないしは私法が合衆国憲法の拘束を受けているため,間接的に憲法によって拘束を受けている,というのである223)。

もっとも,ガードバウム教授が認めているとおり,このような憲法の最高法規性に基づく「間接的水平方向の効果」の立場からも,いかなる法律にも依拠しない私人の行為(いわゆる事実行為),または,訴因を有していない私人の行為については,憲法上の審査に付することができない。このような場合には,一般の

220) Id.221) 憲法及びそれに従って制定された合衆国の諸法律,合衆国の権威のもとで,締結され又

は,締結することのできる条約は,国の最高法規(the supreme Law of the Land)である。US Const. Ⅵ§2.

222) Gardbaum, supra note 218, at 421. ガードバウム教授は,イスラエル憲法の下での,直接効力説を例に出して,合衆国憲法は,州裁判所や州の憲法や諸法律を拘束することを認めているに過ぎず,合衆国憲法が,私人の行為を直接拘束しうる,直接効力説とは異なることを説明している。

223) 日本における同種の議論として,君塚正臣「いわゆる憲法の第三者効力論再考」文明研究所紀要17号(1997)18頁を参照。憲法が,全法秩序の最高法規であるという主張から私人間効力論について言及するものとしては,市川正人「憲法論のあり方についての覚え書き」立命館法学3・4号上巻(2000)677頁を参照。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月118

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法律の射程の問題と同様に,どのような私人の行為が憲法によって拘束されるのか,という公私区分の問題に直面せざるを得ないのである。

この点に関連して,リチャード・ケイ教授が述べているように,ステイト・アクション法理によってもたらされた憲法と法律との区分は,純粋な私人間の権利侵害を含むあらゆる問題を憲法問題としてしまうことを避ける,という意味では説得力がある224)。つまり,私人間における財産問題を憲法典に記載された「財産」に係る問題として扱い,財産法の出番がなくなってしまうという事態をステイト・アクション法理は避けているのである。ケイ教授のこの主張は,「私法の独自性」をどう捉えるか,ということとも関わってくる。仮に,最高法規性を理由にあらゆる私人の活動について,憲法が直接的に拘束しうると考えるのであれば,私法の存在意義が問われることとなろう225)。しかしながら,一度,憲法の最高法規性という規範を受け入れるならば,憲法と法律を区分し,あたかも前者は後者から独立している,という誤解を招く恐れがあり,このような区分の効力には限界がある。同様の批判は,「法律による人権保障」論についても当てはまると思われる。つまり,「私法の独自性を強調して,私法は憲法の拘束を受けないと言うのは明らかな誤りである」226)。そして,憲法と法律との区分ではなく,むしろ問われるべき事柄は,憲法の下の公私区分の観点から,どこまで法律が伝統的な私的空間へと介入することができるか,ということであろう。したがって,憲法の射程論における,憲法と法律とを区分するという命題や憲法論なき「法律による人権保障」は,確かに一定の説得力を持つものの,憲法の最高法規性の観点からは,欠点を有しているといわざるを得ない。

Ⅴ.結語本稿では,ステイト・アクション法理に関する理論構造を分析してきた。まず,

ステイト・アクションという要件には公私区分,連邦制,権力分立制という重要

224) See Kay, supra note 121.225) See Aharon Barak, Constitutional Human Rights and Private Law, in HUMAN RIGHTS IN

PRIVATE LAW 33-5 (Daniel Friedmann & Daphne Barak-Erez eds., 2001).226) 山本敬三「憲法と民法の関係─ドイツ法の視点」法学教室171号(1994)49頁。

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 119

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な原理の上に成り立っており,ステイト・アクション法理の拡大と縮小はこれらの原理をどのように捉えるかという問題と関係してくることが理解できた。

そして,ステイト・アクション法理をめぐっては,いくつかの再構成理論が提唱されてきた。これらの再構成理論については,ステイト・アクション法理を拡大させる方向へと導いているという点で共通している。しかし,公私区分の観点から,仮にステイト・アクション法理を拡大させるのであれば,プライヴァシー権や結社の自由を基盤とする私的空間をどのように保障するべきか,という問いには確答していない。たとえば,チェメリンスキー教授は,ステイト・アクションの要件の完全な廃止を主張しながらも,公私区分の必要性を説いている。すなわち,「やがて公私区分がますますあいまいなものとなり批判されるようになれば,何がその区分の基礎となるべきであり,またそれぞれの空間の中身がどんなものになるべきかということを考える必要性がある。私は,ステイト・アクションの要件を廃止することによって,そのような分析が大きく改善されていくと信じている」227)と述べて,論文を締めくくっている。また,ステイト・アクション法理を考えるにあたっては,公私区分のみならず,連邦制と権力分立制についても様々な論点があることが示された。ステイト・アクション法理については,単に人権保障を目的としているのではなく,公私区分,連邦制,権力分立制の問題を総合的に捉える必要がある。「ステイト・アクション法理のまさに本質は,司法の権限─とくに連邦司法

の権限─の行使に対する制限として仕えている。したがって,同法理は,個人の自律と,司法の介入からの立法の,そして連邦の介入からの州の自律を保障するものとして考えられてきた」228)。このように,ステイト・アクション法理は,理論的な問題として,公私区分,連邦制,そして司法と立法の権限配分の3つの原理を抱えており,いずれの原理も立憲主義のかたちと深く結びついている。すなわち,ステイト・アクション法理は,私的空間を保障するために個人の自律の原理,また公的空間を創造するために連邦制と権力分立制との上に成り立っている。ここのように,ステイト・アクション法理が,政府の権力を制限し,単に個

227) Chemerinsky, supra note 124, at 557.228) Brest, supra note 123, at 1324.

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人の自律を目的とした人権保障の装置として,機能してきたわけではないように思われる。ステイト・アクション法理は,「憲法が創造している政府の構造である連邦制と権力分立制」229)を支えている。つまり,ステイト・アクション法理の目的には,政府権力の垂直方向の配分という連邦制の問題と,政府権力の水平方向の配分という司法と立法の間の権限配分問題も重要な位置を占めている。そして,連邦制と司法と立法の権限配分の問題からは,権力を制限するという発想と同時に,正統な権力を創造する「構成的な側面(constructive side)」230)が重視されなければならない231)。その意味において,ステイト・アクション法理は,単に個人の自律と個人の権利を護るだけではなく,公的空間をどのように創造するか,という問題が含まれている。つまり,ステイト・アクション法理は,当事者の権利侵害に対する主張を考慮することのみを目的としているのではなく,むしろ憲法全体のシステムが「健全(healthy)」であるかどうか,ということに配慮しなければならない232)。

そして,本稿において確認してきたことであるが,合衆国におけるステイト・アクション法理の最大の魅力は,公私区分という基本原理に基づき,憲法が政府の行為を拘束し,憲法の目的が公権力の統制にある,という大前提を維持しうることである。このことは,今後更に詳細な検討すべき課題ではあるが,社会的権力を背景として登場した日本の私人間効力論,国家の介入を前提とするドイツの第三者効力論や保護義務論233),さらに法律による人権保障を謳うフランスの議論234)とは決定的に異なっている点であると考えられる。この点について,芦部

229) TRIBE, supra note 32, at 1961.230) Shane, supra note 62, at 1590.231) もちろん,ステイト・アクション法理は,権力制限を軽視していたわけではない。たと

えば,ジェームズ・E・ハーゲット著/渡辺賢訳「アメリカ憲法におけるstate action法理の展開」北大法学論集35巻6号(1985)748頁は,「state actionという要件は民主主義に基づく制限政府(limited democratic government)というシステムのコロラリーなのである」と述べているとおり,権力制限の役割も果たしている。しかし,本稿が注目したのは,何が「ステイト・アクション」か,ということを探る最高裁の姿勢から,

「ステイト・アクション」の存在を可視化させ,また適正な形で,連邦制と権力分立制を機能させている点において,権力創造の側面を指摘した。権力の制限は,権力が創造されない限り語ることができない。

232) Strauss, supra note 60, at 419.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 121

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教授は,私人間効力論における自由観の転換について特に注意すべきことを記していた。

「…人権が第一次的には対国家権力的なもの(国家からの自由)であったという事実と,現代においても,そこに人権の本質的な指標があることの意義が,あいまいにされてはならない。私人(私的団体)による人権侵害の危険性が増大しているとはいえ,人権にとって最も恐るべき侵害者はなお国家権力だからである。とくに,価値観が多元化した現代国家においては,政権の座にある多数者の恣意から少数者の権利・自由を擁護するため,人権の対国家権力性(防御権)の本質的意味はその重要性を増したと言うことができる」235)。このような指摘に応えるべく,ステイト・アクション法理は,ドイツの第三者

効力論(いわゆる間接適用説)や保護義務論のように自由のベクトルの向きを転換することなく,フランスにおける「擁護者」としての「国家」という前提をとることなく,あくまで憲法が政府を構成して(constitute)いる以上,その政府のみを憲法が拘束しているという素直な論理を貫徹できるのである。これらの比較法の中におけるステイト・アクション法理の魅力については,別途論証が必要となり,今後の検討すべき課題である。

日本における私人間効力論が社会的権力から個人の権利を保障するという趣旨で議論されてきたために,このような視点が,日本ではそれほど意識されてこなかったように思われる。しかし,憲法の本来の目的を政府権力の創造と制限を考えるのであれば,ステイト・アクション法理を支えている諸原理は重要な意義を有していると考えられる。このように,ステイト・アクション法理は,憲法によっ

233) 保護義務論については,小山剛『基本権保護の法理』(成文堂・1998)1頁,戸波江二「国の基本権保護義務と自己決定のはざまで」法律時報68巻6号(1996)127頁,松原光宏「私人間効力論再考(二・完)」法学新報106巻11‒12号(2000)95頁,山本敬三『公序良俗論の再構成』(有斐閣・2000)199頁を参照。また,保護義務論を用いることなく,私人間効力論を展開しうる場面があると指摘するものとして,渡辺康行「私人間における信教の自由」樋口陽一先生古希記念『憲法論集』(創文社・2004)117頁を参照。

234) 高橋和之「『憲法上の人権』の効力は私人間に及ばない」ジュリスト1245号(2003)146頁,同「現代人権論の基本構造」ジュリスト1288号(2005)110頁,只野雅人『憲法の基本原理から考える』(日本評論社・2006)174頁,上村貞美『現代フランス人権論』

(成文堂・2005)35‒6頁を参照。235) 芦部・前掲注8)289頁。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月122

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て拘束される「ステイト・アクション」とは何か,という問いをもって,現実には不可視化した統治構造の存在を理論的に可視化させている。この作業の過程において,公私区分,連邦制,そして権力分立制という立憲主義を構成する重要な原理に注目しなければならないのである。すなわち,ステイト・アクション法理は,合衆国立憲主義の礎石(cornerstone)をなしているのである236)。

236) SUNSTEIN, supra note 194, at 71.

( )宮下紘/ステイト・アクション法理の理論構造 123