ヒュームと帰納的懐疑主義 - Toyo University4444444444 という原理は、一般...

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国際哲学研究 3 号 2014 23 1 .導入 この論文は、ヒューム哲学における懐疑主義の役割について、デカルト哲学における懐疑主義が果たす役割との 明確な対比点を指摘し解明しながら、簡潔な説明を与えることを目標としている。 ヒュームは、デカルトとは異なり、しばしば自身を「懐疑主義的」(sceptical)哲学者として描く。ヒュームの 企てを解釈する一つの方法として、この自己描写は、明らかに適切なものである。というのも、ヒュームは、デカ ルトとは異なり、外的世界──その因果構造──についての我々の信念にも、外的世界のまさに存在そのものにつ いての我々の信念にも、それらがその上に据えられるべき堅牢な基礎を見出していないからである。従って、ヒュー ムは、デカルトとは違い、ある仕方で懐疑主義に陥っているのである。 ヒュームの立場についてのこのような考え方には、いくらかの正しさがある。しかしながら、それは、ヒューム の見解の精妙さと複雑さを見落としている。ヒュームは、デカルトとは異なり、懐疑主義的疑いが(スティーヴ・ バックルの表現を用いるならば)「生存可能」(livable)かどうか、という問いと向き合わなければならない(Buckle  2001, 310-11を見よ)。それは、我々が周りの世界に効果的に関わることを可能にするような信念そのものを留保し たままで、我々は真剣に生活を生きられるのかどうか、という問いである。最終的に、懐疑主義的挑戦に対するヒュー ムの応答に基礎を与えるのは、懐疑主義的疑いに「生存可能性」が欠けているということである。信念をひとから げに留保することは、心理学的に不可能であるばかりではない。たとえ、そのような留保が可能であった 444 としても、 それは──穏やかに述べるならば──我々をひどく無能力にすることだろう。最悪の場合、我々は、全く生き延び ることができないことだろう。そして、ヒュームは、我々の生活を生きる能力に、そのような有害な結果をもたら すであろう態度を容認することは、哲学的に妥当ではあり得ないと考えるのである。 すると、ある意味では、懐疑主義に対するヒュームのアプローチを理解する鍵は、疑い 4 4 (doubt)という概念に あることになる。デカルトは、当然のことながら、懐疑主義を疑いという言葉で言い表す。つまり、彼が第一省察 において我々に要求するのは、まさに、疑いを許容するすべての主張への信念を留保することなのである。しかし、 デカルトにとって、疑いは単なる手段である。つまり、信念の留保は、我々が経ると想定されている知性の訓練で あり、それは、一見すると疑い得る諸信念(のほとんど)に対して、堅固でそれらを正当化する基礎を明らかにす る道行きの一段階である。ヒュームは、対照的に、いかなるそのような堅固な基礎も見出さない。この限りでは、 もしかすると彼の立場は「懐疑主義的」かもしれない。しかし、ヒュームは、懐疑主義の本当の 444 脅威は、ピュロン 主義的懐疑主義者の──そのような正当化を欠いている場合──疑い得る諸信念は現実に 444 疑われるべきであるとい う主張にあると見なしている。そして、ヒュームが否定するのは、この主張である。従って、別の意味──そして、 私がヒュームにとってより重要と考える意味──では、彼は全く懐疑主義者ではない。 この論文では、私は、帰納的 444 懐疑主義に対するヒュームの態度のみを考察し、外的世界についての懐疑主義に対 する彼のはるかに複雑で難解なアプローチについては脇におくことにする。しかしながら、私は、両方の場合にお いて、ヒュームの基本的態度は、多かれ少なかれ同じであると考えている。§2で、エドワード・クレイグが「神 の似姿」(Image of God)原則と呼ぶものと、それに反対するヒュームの立場について簡潔に言及した後、§3で、 帰納的推論についてのヒュームの議論への私の解釈を概説しよう。§4では、懐疑主義の問題へと向かい、§5で、 ヒュームと帰納的懐疑主義 ヘレン・ビービー 翻訳:森岡 智文 WEB国際会議「経験論者と合理論者による方法についての対話」

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国際哲学研究 3 号 2014  23

1 .導入

 この論文は、ヒューム哲学における懐疑主義の役割について、デカルト哲学における懐疑主義が果たす役割との明確な対比点を指摘し解明しながら、簡潔な説明を与えることを目標としている。 ヒュームは、デカルトとは異なり、しばしば自身を「懐疑主義的」(sceptical)哲学者として描く。ヒュームの企てを解釈する一つの方法として、この自己描写は、明らかに適切なものである。というのも、ヒュームは、デカルトとは異なり、外的世界──その因果構造──についての我々の信念にも、外的世界のまさに存在そのものについての我々の信念にも、それらがその上に据えられるべき堅牢な基礎を見出していないからである。従って、ヒュームは、デカルトとは違い、ある仕方で懐疑主義に陥っているのである。 ヒュームの立場についてのこのような考え方には、いくらかの正しさがある。しかしながら、それは、ヒュームの見解の精妙さと複雑さを見落としている。ヒュームは、デカルトとは異なり、懐疑主義的疑いが(スティーヴ・バックルの表現を用いるならば)「生存可能」(livable)かどうか、という問いと向き合わなければならない(Buckle 2001, 310-11を見よ)。それは、我々が周りの世界に効果的に関わることを可能にするような信念そのものを留保したままで、我々は真剣に生活を生きられるのかどうか、という問いである。最終的に、懐疑主義的挑戦に対するヒュームの応答に基礎を与えるのは、懐疑主義的疑いに「生存可能性」が欠けているということである。信念をひとからげに留保することは、心理学的に不可能であるばかりではない。たとえ、そのような留保が可能であった

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としても、それは──穏やかに述べるならば──我々をひどく無能力にすることだろう。最悪の場合、我々は、全く生き延びることができないことだろう。そして、ヒュームは、我々の生活を生きる能力に、そのような有害な結果をもたらすであろう態度を容認することは、哲学的に妥当ではあり得ないと考えるのである。 すると、ある意味では、懐疑主義に対するヒュームのアプローチを理解する鍵は、疑い

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(doubt)という概念にあることになる。デカルトは、当然のことながら、懐疑主義を疑いという言葉で言い表す。つまり、彼が第一省察において我々に要求するのは、まさに、疑いを許容するすべての主張への信念を留保することなのである。しかし、デカルトにとって、疑いは単なる手段である。つまり、信念の留保は、我々が経ると想定されている知性の訓練であり、それは、一見すると疑い得る諸信念(のほとんど)に対して、堅固でそれらを正当化する基礎を明らかにする道行きの一段階である。ヒュームは、対照的に、いかなるそのような堅固な基礎も見出さない。この限りでは、もしかすると彼の立場は「懐疑主義的」かもしれない。しかし、ヒュームは、懐疑主義の本当の

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脅威は、ピュロン主義的懐疑主義者の──そのような正当化を欠いている場合──疑い得る諸信念は現実に

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疑われるべきであるという主張にあると見なしている。そして、ヒュームが否定するのは、この主張である。従って、別の意味──そして、私がヒュームにとってより重要と考える意味──では、彼は全く懐疑主義者ではない。 この論文では、私は、帰納的

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懐疑主義に対するヒュームの態度のみを考察し、外的世界についての懐疑主義に対する彼のはるかに複雑で難解なアプローチについては脇におくことにする。しかしながら、私は、両方の場合において、ヒュームの基本的態度は、多かれ少なかれ同じであると考えている。§2で、エドワード・クレイグが「神の似姿」(Image of God)原則と呼ぶものと、それに反対するヒュームの立場について簡潔に言及した後、§3で、帰納的推論についてのヒュームの議論への私の解釈を概説しよう。§4では、懐疑主義の問題へと向かい、§5で、

ヒュームと帰納的懐疑主義

ヘレン・ビービー翻訳:森岡 智文

WEB国際会議「経験論者と合理論者による方法についての対話」

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ヒューム哲学における懐疑主義の方法論的役割について、簡潔に考察する。

2 .人間の学と神の似姿

 ヒュームは、周知のように、経験主義者であった。彼の目標は、彼の『人間本性論』(Treatise of Human Na-ture)(1739-40) の序論に述べられているように、「人間の学」(science of man)を開始することである。そして、その適切な方法は「実験的哲学」(experimental philosophy)であると、ヒュームは考える。つまり、「この学に我々が与え得る唯一の堅固な基礎は、(中略) 経験と観察の上に置かれなければならない」。よって、ヒュームの人間の学とは、「実験的哲学の精神的諸主題への適用」ということになる(T xx)。 それゆえ、経験主義的伝統における分析哲学創設の父というヒュームの現在の位置づけには、しかるべき慎重さをもってアプローチする必要がある。実際、私が論じることになるが、帰納の問題という特定の場合において、ヒュームの興味は、認識論的というよりも心理学的なものである。ヒュームの懐疑主義への態度もまた、現実的疑いの問題よりも正当化の問題に大きな注目をよせる現代的な懐疑主義についての諸議論とは、別のものとされる必要がある。 ヒュームの著作の文脈における一つの重要な特徴は、彼が、エドワード・クレイグ(1987)が「神の似姿」原則と呼ぶものに反対していることである。その原則によれば、人間は神の不完全バージョンということになる。神の似姿原則は、実質的な認識論的コミットメントを伴っており、ヒュームの目標の少なくとも一部は、それらのコミットメントが偽りであることを示すことである。例えば、神の似姿原則は、世界の本性へのアプリオリな

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アクセスが原理的に可能であるとする見解を推し進める。そのような見解は、論理的含意と類比的な世界の因果構造という概念へと自ずから通じ、その結果、因果過程における諸段階は、数学的証明の諸段階と似たものとなる。つまり、もし我々が、原因の本性を完全に把握できたならば、我々は、その過程における次の段階が何であるのかを、アプ

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リオリに4 4 4 4

推理することができるということである。それゆえ、例えば、無からは何も生じない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

という原理は、一般的にアプリオリに

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知られ得る概念的真理とされ、それは、原因はその結果と少なくとも同じ程度の実在性を含まなければならないという原理─デカルトが、『省察』(Meditations)で神の存在についての「トレードマーク論証」

(Trademark Argument)において用いたことで有名な原理─と関連していた。 ヒュームは、この神の似姿原則の帰結に反対して、次のように主張する。「もし我々が、アプリオリに

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推論するならば、どんなものであれどんなものも産み出すことができるように思われる。小石の落下は、よく分からないが、太陽を消し去るかもしれない。あるいは、人間の願いが、惑星をその軌道において制御するかもしれない」(『人間知性研究』(Enquiry concerning Human Understanding)(1748)─以下ではEと略─164)。帰納的推理についての彼の議論は、少なくとも部分的には、原因から結果への推理はアプリオリで

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はあり得ない、というこの主張を確立することを目標としている。現代的観点からは、これはほとんど正当化を必要としない主張である。しかし、もちろん、神の似姿原則の受け入れがたさがこのように認知されていることは、我々がヒュームに負っている哲学的恩恵の一部なのである。

3 .帰納的推理(あるいは因果推論)

 しばしばヒュームは、「帰納の問題」(Problem of Induction, PI)を創案し、その解決が不可能であることを示したと評価される。PIとは、観察されていない事柄が観察された事柄に似ているという信念の、正当化の問題である。例えば、あらゆる以前の機会において、私が車のブレーキをかけると車が減速したとする。すると、今回私がブレーキをかける際に、私は車が同じようになると予測する。しかし、もしそれがあるとすればだが、何がこの信念を正当化するのだろうか? 過去に車が減速したことは、それが今回もそうなるだろうということを含意

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しない。すると、なぜ我々は、過去の減速という自分の経験が今回も減速するだろうという信念を正当化する

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、と考えるべきなのだろうか? あるいは、別の言い方をすれば、何が、「すべての以前のブレーキかけには減速が続いた」から「このブレーキかけには減速が続くだろう」への推理

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を正当化するのだろうか? この問いへの充分な答えはPIへの解

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決となるだろうが、残念ながら、そのような答えを見つけ出すのは極めて難しい(そして、いく人かの哲学者たちによれば、不可能である)ことが分かっている。 我々は見ることになろうが、PIの主要な要素が、ヒュームの議論に確かに現われている一方で、彼が、ともかくも帰納の問題──観察されていない事柄についての信念の正当化

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に関する問題──に本当に関心を持っているのかということは、全く明らかとは言えない。実際には、彼の関心は、むしろ観察されていない事柄への信念がいかに

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生じるかという心理学的問いにあった、と私は主張したい。

帰納的推理と因果関係

 標準的に理解されたPIとヒュームの議論の間の一つの重要な相違点は、ヒュームにとっての「帰納的」推理は、原因から結果への推論であるという点である(彼は、「帰納的」や「帰納」という用語をまったく使用しない。彼は、

『研究』(E 36)において、我々が結果を「予測するよう導かれる」(induced to expect)ことについて述べているのみである)。実際、私が因果推論と呼ぶもの─原因から結果への推理─についての彼の議論は、因果関係の「観念」(idea)の吟味という、より大きなプロジェクトの本質的な一部分である(我々は、ヒュームの「観念」をおおよそ概念のことと考えてよい)。我々は見ることになろうが、因果推論についてのヒューム自身の見解は、その推理は単なる習慣あるいは習癖の問題である、というものである。十分に数多く、CにEが続くのを観察した後では、Cを観察すると、我々は自動的に

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Eが続くことを予測するようになる─「論証や推論」(E 39)の何らかの過程の結果としてではなく、連合的な仕組みの結果として。それは、犬において、その引き紐が留め金から外された時に散歩を予測するように導くのと同じ心理学的仕組みである。そして、必然的結合の観念についてのヒュームの有名な議論(『本性論』第 1 巻 3 部14節─T 155-73─および『研究』第 7 節 E 60-79)において、この観念への印象の源泉を提供するのは、この仕組みの作用─「一つの対象からそれにいつも伴っていた対象へと移行するよう心を決定すること」(T 165)─であることが明らかになる(ヒュームは経験主義者なので、すべての妥当な観念は、経験の要素すなわち「印象」(impression)の内にその源泉を持たなければならない)。 従って、ヒュームにとって、(a)ある出来事が別の出来事の原因であると判断することと、(b)後者の出来事の存在を、類似した出来事が「恒常的に連接して」(constantly conjoined)いたという過去の経験を基にして推理するということは、極めて密接に結びついている。「ある種類の出来事が、常に、すべての事例において、別の種類の出来事に連接していたとき、我々は、一方の出来事が出現するや他方を予言することに、もはや何のためらいもない。また、それのみが我々に事実の問題や存在についての確信を与えることができる、あの推論[つまり習慣あるいは習癖]を用いることにも、もはや何のためらいもない。そして、我々は、一方の対象を「原因

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」、他方の対象を「結果

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」と呼ぶ」(E 75)。ここでのヒュームの重点は、帰納的推理によって、「二種類の出来事」が恒常的に連接していることを確立した後に、我々は第一のものを第二のものの原因であると推理する

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、ということではない。むしろ彼の重点は、我々が第二の出来事を推理することと、我々が第二の出来事を第一の出来事の結果と考えるということは、同じコインの二つの面であって、この推理が、我々が因果判断をする基礎となる必然的結合の印象を与える、ということにある。このアプローチは、PIについての現代的議論のほとんどと明確な対比をなしている。現代的議論は、観察された事柄から観察されていない事柄への推理に対して、関連する出来事間や対象間の因果的結合について我々がたまたま形成するかも知れない諸判断からは区別した仕方で、注目する傾向があるのである(例えば、Howson 2000を見よ)。

論証

 ヒューム自身は、しばしば、原因から結果への推理に対する「基礎」の探究について語っている。しかしながら、それには、認識論的読み方も心理学的読み方も可能であることに注意して欲しい。つまり、その推理に対する「基礎」は、推理に正当化を与えるものであるかもしれないし、でなければ、いかに

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推理が生じるかを説明するものであるかもしれないのである。当面、私はこの曖昧さをそのままにして、論証を描きだすことにだけ焦点を合わせる

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ことにしよう。後に、私は、我々がヒュームの興味を心理学的なものと考えるべきなのか認識論的なものと考えるべきなのか、という問いに戻ってくることになるだろう。従って、ここで述べるのは、因果推論─原因から結果への推理─に関するヒュームの論証がいかに進められているかである。(私は、全体にわたる論証である『本性論』版に従うことにする。) 第一に、ヒュームは、「我々が原因から結果へと行う推理は、これら個別の諸対象を一覧することからのみ由来するのではなく、また、一方の対象の他方の対象への依存を明らかにするようなそれらの本質への洞察から由来するのでもない」(T 86)ということを確立する。言い換えれば、我々は、一つの対象や出来事を吟味するだけでは、その結果が何であるかを予測することはできない、ということである。我々がこのことを確信できるのは、「そのような推理は知識になってしまい、異なる事物を想念することの絶対的な矛盾と不可能を含意することになるであろう」(T 86-7)からである。その一方で、結果が生じないかもしれないというのは、明らかに常に想念可能なことである

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。もしあなたが、非常に高いところからワイングラスを石の床に落としたならば、そのワイングラスが砕けるだろうというのは、確立された事実であるかもしれない。しかし、我々は、それが砕け損なうことも完全にうまく想像する

4 4 4 4

ことができる(一方、例えば、ソクラテスは人間であり、すべての人間はやがて死ぬ、しかし、ソクラテスは死なない、ということは、我々は同じようには想像することができない)。ヒュームの「想念可能性原理

(Conceivability Principle)」と時に呼ばれるものに従うならば、その否定が想念可能ないかなるものもアプリオリ4 4 4 4 4

に4

は知られ得ないので、eがcの結果の内の一つになるだろうということは、アプリオリに4 4 4 4 4 4

は知られ得ないし、cの観察や吟味のみに基づいても知られ得ない。ヒュームは、ここから、「我々が、ある対象の存在から別の対象の存在を推理し得るのは、「経験」のみによる」(T 87)と結論づけている。言い換えれば、我々が、あるCを観察して、あるEが続くだろうと推理することができるのは、我々が、CがEに続くのをいくつか経験したことがあるときのみなのである。 原因から結果への推理は、恒常的連接の過去における観察に基いて進むということを確立した後に、ヒュームは、

「経験は、[結果の]観念を、知性によって産み出すのだろうか、それとも想像力によって産み出すのだろうか、つまり、我々が移行するように決定されているのは、理性によってだろうか、それとも諸知覚の特定の連合と関係によってだろうか」(T 88-9)と問う。ヒュームは、正しい説明は後者であると最終的に結論することになる。従って、彼には、原因から結果への推理が推論や論証の何らか過程に基づいており、それゆえ知性の産物である、という可能性を排除する必要があるのである。そして、ヒュームは、知性がそれをなし得るとすれば、可能な方法は一つだけであると考える。「もし理性が我々を決定するのだとすれば、それは次の原理をもとにして進むであろう。それは、我々

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が経験を有さなかった諸事例は4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、 4

我々が経験を有した諸事例に類似しているはずであり4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、 4

また4 4

、 4

自然の経過は4 4 4 4 4 4

、 4

常4

に斉一的に同じであり続ける4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

という原理である」(T 89)。この原理は、しばしば「自然の斉一性原理」(Principle of  the Uniformity of Nature, PUN)として知られている。従って、ヒュームが考察している提案は、原因から結果への推理が、次のように進むとするものである。

(P1) 私の経験において、Cには常にEが続いていた(P2) たった今、あるCが生じた(P3) 私が観察しなかった諸事例は、私が観察した諸事例に類似する(PUN) それゆえ

(C) Eが生じるだろう

 続いて、ヒュームは、(P3)が何に基礎づけられているのかを問う。「このような命題[PUN]がそこにきそづけられると想定されるかも知れない、すべての論証を考察してみよう。すると、それらは、知識

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(knowledge)か蓋然性4 4 4

(probability)のどちらかから引き出されるはずなので、我々の目をこれらの明証性の程度のそれぞれに向け、それらが、この性質の何らかの正しい結論を与えるかどうかを見てみよう」(T 89)。ヒュームは、「知識」によってアプリオリな

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知識を意味し、また、「蓋然性」によって経験から由来する信念を意味している。彼の計画は、PUNは、(a)アプリオリに

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は知られ得ないし、また、(b)非循環論的には経験からの推論に基礎づけられ得ない、という

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ことを示すことである。  論証の最初の部分である(a)は容易であり、単に、想念可能性原理に再度訴える必要があるだけである。我々は、自然の経過における変化を容易に想像できるので、PUNが誤りであることは可能であり、従って、それはアプリ

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オリに4 4 4

は知られ得ない。 (b)については、ヒュームは次のように述べる。

我々は、存在に関する全ての論証は、原因と結果の関係に基礎を置いていること、その関係についての我々の知識は、全

くのところ経験に由来すること、さらにまた、我々のすべての実験的結論(experimental conclusions)は、未来は過去

に合致するだろうという想定の上に進められること、を述べた。それゆえ、この最後の想定の証明を、蓋然的論証あるい

は存在に関する論証によって果たそうとすることは、明らかに循環せざるを得ない(E 35-6)。

言い換えれば、我々のすべての4 4 4 4

「実験的結論」(つまり、経験あるいは「蓋然的論証」からの推論に基礎を置いている信念)は、PUNを前提しているのである。それゆえ、PUNがそれ自体

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、経験からの推論に基礎を置くことはできない。というのも、そのような経験からの推論が、まさにPUNを前提しているからである。(しかしながら、私は以下で、ここでのヒュームの申し立ては、(P1-3)から(C)への論証が、信念を正当化する可能的方法というよりも、信念を形成する可能的方法として解釈された場合に、より意味が通るということを主張しよう。) ヒュームは、原因から結果への推論は、原因の内に現われていて結果の生起を保証するような、未知の「産出力」に訴えることで進められる、という主張に対しても、同様な論証を提示している(T 90-92 および E 36-8)。議論のために、CとEの恒常的連接という過去の経験が、過去に

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おける現われたCにはEを産み出す「力」があったと信じる根拠を我々に与える、ということを認めてみてみよう。たとえそれを認めても、PUNを前提することなしには、要求されている「今のCがEを産み出す力を持つ」への推理には基礎がなく、従って、結果の生起への推理にも基礎がない。 これで、ヒュームの論証は完成である──その後、ヒュームは、議論してきた問題に対して、彼が「懐疑主義的解決」

(sceptical solution)と呼ぶものを与えることへと進む。それは、因果推論が、実際には、単に「習慣あるいは習癖」(E 43)あるいは「連合原理」(T 93)の問題として生じるという、彼の良く知られた主張である。

正当化 vs 信念の生成

 因果推論についてのヒュームの議論の標準的解釈は、彼が本当に帰納の問題、つまり、観察されていない事柄についての我々の信念の正当化

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の問題を、提起し─そして、解決不可能と表明し─ているというものである。それゆえに、彼の「解決」は、単に「懐疑主義的解決」である。つまり、その「解決」は、帰納的懐疑主義を弱めるものとは想定されておらず、我々の心理学的仕組みがそうなので我々自身ではどうしようもない、という口実によって、帰納への我々の信頼に逃げ道を与えるものと想定されているだけ、ということになる。しかしながら、この解釈は、しだいに問題の多いものと見なされてきている。いく人かの解釈者は、因果推論についてのヒュームの議論における意図は、単に、因果推論がアプリオリな

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推論ではないことを示すことにある、と論じた(例えば、Flew 1961およびStove 1965を見よ)─それは、ヒュームに因果推論を正当化されていないものと見なすことを要請しない。また他の解釈者は、彼の目標は、観察されていない事柄への信念が、事実として

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、因果推論についての4 4 4 4 4

何らかの論証の過程の問題としては生じていないことを示すことにある、と論じた(例えば、Garrett 1997およびNoonan 1999を見よ)。 私自身の見解は、この後者の解釈が、ヒュームが関心を持っていた論点を、認識論的論点というより心理学的論点であると適切に解釈している点で、より的を射たものと見なすものである。ヒュームの明言されているプロジェクトが、『本性論』の序論で描かれているように、「人間の学」(T xvi)であるという事実は、帰納的懐疑主義が彼の指針にはないと見なすことに、一つの根拠を与える。というのも、帰納的懐疑主義者に従うならば、「人間の学」は完全に正当性を欠く結論をもたらし得るのみだからである。ヒュームの「懐疑主義的解決」への伝統的解釈─「懐

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疑主義的解決」は、因果推論が心理学的に強制的なものであることを示すことで、何らかの意味で、因果推論への我々の信頼に逃げ道を与えているという解釈─は、ここでは役に立たない。なぜなら、ヒュームが人間の学の内で遂行している種類の「実験的哲学」に従事することは、それ自体は心理学的に強制的なものではないからである。ヒュームは、実験的方法を是認し、さらに、実験的方法の遂行を、明確に自らが選択した大胆な試みと見なしているように思われる。 私は、因果推論の議論におけるヒュームの主たる興味は、信念の起源

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にあると信じている。私が、例えば、ブレーキペダルを押し下げるという印象を持つ時、どのような過程あるいは仕組みによって、私は車が減速するだろうと信じるようになるのだろうか? 信念が形成され得る一つの仕方は、アプリオリな

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推論によるものである。例えば、もし私が、ジェーンが三つのリンゴを持っていて、ジューンが二つのリンゴを持っているという信念から始めるならば、私は、ジェーンがジューンより多くのリンゴを持っていることを、アプリオリに

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推理できる─そして、それゆえ、信じるようになる。しかし、ヒュームが原因から結果への推論はアプリオリな

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推論ではないことを示しているので、結果への信念は、原因の印象が与えられたとしても、そのような仕方では生じ得ない。では、結果への信念は、いかに生じる

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のか? 極めて重要なことは、ここでの問いが、一般的な問いであることである。つまり、「この個別の信念は、いかにして生じたのか?」ではなく、「信念一般

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は、いかにして生じるのか?」という問いである。我々は、諸感官に現われない事実の問題について、いかなる信念も抱かずに生まれるが、結局は、そのような信念をたくさん持つことになる。このことは、いかに生じるのか? ヒュームが答えたいと考える問いをこのように解釈すると、PUNに訴える論証に伴う問題点は、それが正当化の意味で循環していることではなく、説明の

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意味で循環していることになる。つまり、(P1-3)から(C)への論証は、(C)への信念を正当化しようとして与えられるかも知れない論証として失敗しているのではなく、信念一般の形成に対してモデルを与えようとする試みとして失敗しているのである。ヒュームは、「観念の関係」(relations of ideas)(T 69-73)に関する推論の説明を通じて、アプリオリな

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知識の源をすでに説明したと考えている。従って、もしPUNがアプリオリに

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知られ得るとするならば、結果への信念は、(P1)(記憶の内容)、(P2)(印象)、(P3)(知識の内容)からのアプリオリな

4 4 4 4 4 4

推理の結果として生じ得ることになる。つまり、信念を生成する仕組みは、その入力として、すでにうまくその源を説明したとヒューム自身が見なしている心的諸内容のみをもつことになる。しかし、PUNは、アプリオリに

4 4 4 4 4 4

は知られ得ないので、その身分は信念4 4

であるはずである。しかし、その場合に、PUNに訴えることは、いかにして信念一般

4 4

が生じるかの説明においては役に立たない。というのも、信念生成の仕組みとされているもの─(P1-3)から(C)への推理─自体が、信念を入力の一部としているからである。従って、それは、以前に我々がすでに他の

4 4

諸信念を得ている場合に、いかに我々は何らかの個別の4 4 4

信念を持つようになり得るのか、を説明できるにすぎない。 因果推論の議論からヒュームが引き出そうと意図する唯一の否定的な認識論的帰結は、この解釈によると、因果推論は、アプリオリに

4 4 4 4 4 4

あるいは直接の感覚的経験に基いて知られる諸前提からのアプリオリな推理によっては、正当化され得ない(なぜなら、因果推論は、アプリオリな

4 4 4 4 4 4

推理の結果ではあり得ないから)ということである。従って、彼は、その因果推論の議論において、因果推論が経験的に正当化され得るかどうかという問題を提起することは、全く意図していない。実際、彼は、それが可能であることを単純に当然と考えているようであり、しばしば、因果推論を推論の「正しい」(just)形式として言及する。 実際に、私は、ヒュームが以下のように言う時、彼は帰納の信頼性主義的正当化を与えていると考えている(さらなる議論については、Beebee 2006を見よ)。

もしある対象の現前が、通常それに連接している諸対象の観念をただちに喚起しなかったとすれば、我々のすべての知識

は、我々の記憶と諸感官という狭い領域に制限されていたに違いない。そして、我々は、善の産出または悪の回避のために、

手段を目的に適合させること、あるいは、我々の自然な力を使用することが決してできなかったであろう。(中略) 自然は、

我々に自分たちの手足の使い方を教えたが、手足を動かす筋肉や神経についての知識は与えなかった。それと同じく、自

然は、我々の内に一つの本能を植え付けたのであり、この本能が、自然が外的諸対象の内に確立した経過に対応するよう

に思考を運んでいくのである(E 55)。

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国際哲学研究 3 号 2014  29

しかし、明白に(そして、これはヒューム自身にとって明白となったであろうことだが)、いかなる信頼性主義的正当化も、懐疑主義者の要求を満たさないだろう。というのも、当然のことながら、信頼性主義的正当化は、帰納的推理への過去の信頼性が、それが信頼可能であり続けるだろうと考える基盤を与えるという主張─ちょうどヒュームが、我々が信頼するためのいかなるアプリオリな

4 4 4 4 4 4

基盤も持たないとした推理の形式─に依存しているからである。 ここまでの要点は、次のようになる。ヒュームの因果推論の議論は、(ヒューム以来)伝統的な懐疑主義的な帰納の問題を提出することを、意図

4 4

すらしていない。ヒュームは、そこにおいて、観察されていない事柄への信念を我々が形成する仕組みについての心理学的説明を与えた。そして、彼は、この仕組みの構造を全く妥当なものと考えている。それは、彼の正当化の理論が、真なる信念を伝えるというこの仕組みの能力を信頼し続けることに対して、アプリオリな

4 4 4 4 4 4

基盤を与えることに明らかに失敗している、という事実にも関わらずである。

4 .帰納的懐疑主義者に対するヒュームの応答

 いまだ我々には、正確に言って4 4 4 4 4 4

、何が帰納的懐疑主義に対するヒュームの態度なのか、という問いが残されている。ヒュームは、帰納的懐疑主義者の、帰納的推理に対して非循環論的な正当化を与えよという挑戦には応じられないと考え、しかも

4 4 4

、それに応じる必要もない─懐疑主義者の不満は、推理の妥当な形式としての因果推論の身分に異議を唱えるものではない─とも考えているように思われる。しかし、ここには、明らかに間隙が存在する。なぜ4 4

、懐疑主義者の挑戦には応じる必要がないのだろうか? なぜ、因果推論の非循環的な正当化を与えることが不可能であることが、因果推論の妥当さに異議を唱えるものではないのだろうか? 私は、ヒュームの応答のうちに、三つの別々の要素を見出すことができると考える。第一のもの──彼が明示的に述べているというよりは、彼の全体的な立場の内に暗示されているもの─は、ちょうど次のようなものである。我々が、神の似姿原則にとらわれず、動物としての人間という考えから出発することを想定してほしい。つまり、人間は、高度に認知的に洗練されてはいるが、それでも、神や天使よりは犬や猿の側に分類されるべき動物であるということである。この出発点を与えられたならば、我々の世界への認識的アクセスは、神が利用できるアクセスのより洗練されていない

4 4 4

バージョンではなく、犬が利用できるアクセスのより洗練されたバージョンであることを期待すべきである。それゆえ、我々は、世界の因果構造へのアプリオリな

4 4 4 4 4 4

アクセス─神にはおそらく成し遂げられるが、犬には確実に不可能なもの─を達成できるとは、単に最初から期待すべきでなかったのである。従って、実際、我々が世界の因果構造へのアプリオリな

4 4 4 4 4 4

アクセスを達成できないことの論証は、本当には驚くべきものではない。つまり、それは、我々が以前に成し遂げることを希望していたかもしれない認識的な理想の実現の失敗として、我々に衝撃を与えるべきことではない。いかなるそのような希望も、我々の基本的本性を動物的というより擬神的であるとする見解と共に、消滅するのである。 この考えの道筋は、私が思うに、正当化を要請する際の懐疑主義者の極めて高い基準が、単に不適切な基準であるとする考えと、方向を同じくしている。つまり、我々がそれらの基準を満たすことは、そもそも現実的に期待できることでは全くないので、我々は、それらを満たすことができないがために、自分たちをひどい認知的欠陥品と見なすべきではないのである。もし我々が、自分たちの視線を下げるならば─もし我々が、自分たちの動物的本性を所与のものとし、そして

4 4 4

、信念形成のより良い方法やより悪い方法があるかどうかを問うならば、我々は、最終的に、現実に矯正的な目的を有する、正当化された信念と正当化されていない信念の間の区別を得ることになるだろう。つまり、我々は、正当化されていない信念を放棄し、それを正当化された信念に置き換えようと、賢明にも試みることができるのである。 彼の応答における第二と第三の要素は、『研究』の次の節ではたらいていることが見て取れる。

というのも、ここに、過激な4 4 4

懐疑主義に対する主要で最も破滅に追いやる力のある反論があるからである。それは、懐疑

主義がその完全な力と勢いを保持している間でも、いかなる持続的な善もそこから決して結果し得ない、というものであ

る。我々は、そのような懐疑主義者に、次のように尋ねさえすればよい。あなたの意味するものは何なのか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

?4

 そして 4 4 4

、4

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30  WEB国際会議「経験論者と合理論者による方法についての対話」

あなたは4 4 4 4

、4

それら全ての物好きな研究によって4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、4

何を提案しているのか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

?4

彼は、すぐに途方に暮れ、何と答えるかべ

きか分からないだろう。(中略)ピュロン主義者は、自分の哲学が、心に何らかの恒常的影響を及ぼすだろうと期待する

ことができない。あるいは、たとえ恒常的影響を及ぼしたとしても、それが社会に有益であろうと期待することはできな

い。それどころか、彼は、もし何かを承認するとすれば、次のことを承認しなければならない。それは、彼の諸原理が普

遍的かつ堅固に広まるならば、全ての人間生活が消滅しなければならない、ということである(E 159-60)。

ここでのヒュームの応答における一つの要素は、疑い得るあらゆる事柄を現実に疑うことを積極的に推奨する種類の懐疑主義に関わっている。この種類の懐疑主義へのヒュームの応答は、二つの部分からなっている。一つ目は、経験的事実の問題として、懐疑主義者の推奨に従うことは不可能である、つまり、それが、「心に何らかの恒常的影響を及ぼす」ことはないであろう、ということである。我々は、自分たちの研究に没頭している間は、外的世界への信念や原因と結果の安定した関係への信念を、なんとか留保することができるかも知れない。しかし、我々が、研究を離れて周りの世界と関わり合うやいなや、そのような疑いは、保持することが全く不可能になる。次に起ころうとしていることについての積極的な予測を何も形成することなく、商店へ行っていくらか牛乳を購入することを試みて欲しい。あなたは、失敗するだろう。あなたが行う数多くのあらゆる事柄は、予測に訴えることによってのみ、解明可能なのである。なぜあなたは、靴屋ではなくスーパーマーケットへ向かったのか? なぜなら、そこが、牛乳が売られているとあなたが予測する場所だからである。なぜあなたは、お金を持って来たのか? なぜなら、あなたは、それが途中で人参に変身しないと予測し、また現金との交換によってのみ牛乳を入手できると予測するからである。なぜあなたは、自分の左足を、自分の右足の後ろではなく前に置いたのか? なぜあなたは、バスの前に踏み出さず、道路を横断するために待機したのか? などなど。 二つ目として、信念をひとからげに留保することが、可能である

4 4

と想定してみてほしい。ヒュームは、もし我々が現実にそうしたとしたら

4 4 4 4 4 4

、我々は確実にすぐに消滅してしまうだろう、と考える。もし我々が、正真正銘いかなる予測も抱かないとすれば、我々は、全く何事も

4 4 4

しなくなるだろう。我々は、食べることすらないだろう。というのも、もしあなたが、作ったばかりのサンドイッチが自分に栄養を与えるだろうという予測を抱かないとすれば、なぜあなたは、それを食べないのではなく─あるいは、それを言うなら、家具を食べるのではなく─それを食べるのか? すると、いずれにしても、ひとからげに疑うということは、選択可能なものではまったくない。我々はそれをなし得ないか、あるいは、なし得るにしても、そうすることは我々にとって途方もなく悪いということになる。 懐疑主義へのヒュームの応答における第三のそして最後の要素は、信念留保へのピュロン主義的な推奨の失敗と結びついている。懐疑主義者が、ここでのヒュームの指摘を受け容れ、それにも関わらず、我々が形成する予測が─心理学的にあるいはもしかすると単に実践的には、必然的かも知れないが─正当化を欠いていると主張しようとする、と想定してみてほしい。我々がすでに見たように、私は、ヒュームはこの主張に反対すると考えている。しかし、それを脇におくとしても、彼は、別の応答を隠し持っている。それは、次のようなものである。もし我々に信念の留保を推奨するのでないのならば、正確に言って、何が我々の信念が正当化されていないと言い張る際の論点4 4

なのか? 我々は、この種の懐疑主義を、単純に知的立場の一種─実践的行為のための何らかの派生的結果をもつことを想定されない立場─と見なし得る。しかし、ヒュームは、それは単なる知的に気取った態度だと考える。我々が、どの哲学的原理に従うべきかを考慮するとき、ヒュームの本においては、我々はいかに自分たちの生活を生きるべきかを問うているのであり、単に哲学の教室や自分たちが書いている本の内で、我々がどの原理を主張することができるかを問うているのではない。 私は思うに、これが、ヒュームが懐疑主義者に対して、「あなたの意味するものは何なのか

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

?4

 そして 4 4 4

、4

あなた4 4 4

は4

、4

それら全ての物好きな研究によって4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、4

何を提案しているのか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

?4

」と問う際の、この問いに対する暗黙の残された選択肢であろう。要するに、いわば理論的には懐疑主義者だが実践的にはそうでない者は、何も

4 4

提案してはいないのである。この種の懐疑主義者に対しては、いかなる答えもないかもしれないが、そのような者の推論は、我々がいかに生きるべきかについて何らの推奨もなさないので、真剣に考えるに全く値しないのである。この種の懐疑主義の失敗は、誤った前提や当てにならない推論を展開していることにあるのではない。むしろ、「我々は、何を

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国際哲学研究 3 号 2014  31

信じるべきか?」という問いに対して、何らかの積極的で、生存可能な答えを与えることに失敗していることにある(というのも、「何も信じるべきでない」という答えは、明らかに生存可能でないからである)。従って、懐疑主義者の間違いは、哲学的仕事を終える前に、その道具を下においてしまったことである。

5 .結論:ヒュームにおける懐疑主義の方法論的役割

 ヒューム哲学は、多くの点においてデカルトに真っ向から対立する。私が、やや間接的に確立しようとしたことの一つは、懐疑主義的な事柄が方法論的に中心的な役割を担っていないことが、そのような対立点の一つである、ということである。デカルトにとって、懐疑主義は中心的な役割を果たしている。つまり、懐疑主義は、コギトに向かう出発点と、それに続く、外的世界についての我々の信念および我々自身の推論する力までもを正当化する説明を提供する、邪悪な悪魔の亡霊なのである。もし我々が、因果推論についてのヒュームの議論を、懐疑主義的な帰納の問題を提起するものとして読んだならば、我々は、ヒュームのプロジェクトにとっても、懐疑主義が中心的なものであると結論するかもしれない。そのように理解されるならば、結局のところ、事実の問題に関するすべての我々の推論の基礎が単に「習慣あるいは習癖」にあることを明らかにするのが、帰納の問題へのヒュームの「懐疑主義的解決」ということになる。 それとは対照的に、私は、因果推論についてのヒュームの議論において、懐疑主義は、彼の指針では全くないと論じた。ヒュームは、懐疑主義に興味をもっているが、彼がそれに明示的に言及するのは、『本性論』第 1 巻と『研究』両方の最末尾においてであることに、注目すべきである。従って、彼の全体としての認識論的立場は、懐疑主義的帰結を有する。しかし、懐疑主義への考察は、そこから彼の認識論的立場が動機づけられ展開するような出発点─デカルトにとってはそうであるように─ではない。 それにも関わらず、懐疑主義に対するヒュームの立場は、複雑で難解であり、私がここで与えたよりもはるかに注目に値するばかりでなく、彼の哲学的立場─とりわけ、神の似姿原則に反対する彼の立場─の中心的側面のいくつかを強調するのにも役立つ。さらに重要なことには、それは、どのような哲学にその成就を期待すべきかについての、彼の見解を解明するのにも役立つ。よく知られているように、ヒュームは、『研究』のまさに最終行において、神学と形而上学についてのほとんどの本は、炎にくべられてしまうべきだ、「というのも、それらは詭弁と幻想以外の何ものも含まないのだから」─つまり、それらは深刻な欠点のある推論に依存しているから─と述べている。懐疑主義者は、ヒュームが考えるに、深刻な欠点のある推論に依存してはいない

4 4 4

。それにも関わらず、私は、懐疑主義を擁護する著作にふさわしい場所についての彼の態度は、神学と形而上学についてのほとんどの本に対するものとほとんど同じだと考える。彼が、それらの著作からいかなる善も得ることはできないと考えているのは確かである。しかし、私は思うのだが、彼は、それよりも悪いとも考えている(そして、これは、少なくともいくつかの国々において、同時代的な共鳴を著しく有する点である)。つまり、懐疑主義を擁護する著作は、いかなる実践的適用もできない哲学的原理を助長し、そしてそれゆえに、哲学自体を、いかに我々が自分たちの生活を生きるべきかについていかなる重要性も持たない学問と見なしている点で、積極的に有害なものである、と考えている。従って、私は、彼の見解は、懐疑主義を擁護する著作もまた炎にくべられるべき、というものであろうと考えるのである。

参考文献

Beebee, H. (2006) Hume on Causation. Abingdon: Routledge.Buckle, S. (2001) Hume’s Enlightenment Tract, Oxford: Oxford University Press.Craig, E. (1987) The Mind of God and the Works of Man, Oxford: Clarendon Press.Flew, A. (1961) Hume’s Philosophy of Belief. London: Routledge & Kegan Paul.Garrett, D. (1997) Cognition and Commitment in Hume’s Philosophy, Oxford: Oxford University Press.Howson, C. (2000) Hume’s Problem: Induction and the Justification of Belief, Oxford: Clarendon.Hume, D. (1739-40) (T), A Treatise of Human Nature, ed. L.A. Selby-Bigge, 2nd edition, revised and ed. P.H. Nidditch, Ox-

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32  WEB国際会議「経験論者と合理論者による方法についての対話」

ford: Clarendon Press (1978).-- (1748) (E), Enquiry concerning Human Understanding, in D. Hume, Enquiries concerning Human Understanding and concerning the Principles of Morals (1748/51), ed. L.A. Selby-Bigge, 3rd edition, revised and ed. P.H. Nidditch, Ox-ford: Clarendon Press (1975).

Noonan, H. (1999) Hume on Knowledge. London: Routledge.Stove, D. C. (1965) ‘Hume, Probability, and Induction’, Philosophical Review 74, 160-77.

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執筆者一覧(五十音順)

一ノ瀬 正樹       東京大学大学院教授井上 克人        関西大学文学部教授大西 克智        東京藝術大学非常勤講師呉 光輝         厦門大学外文学院副教授小坂 国継        日本大学名誉教授後藤 敏文        東北大学名誉教授斎藤 明         東京大学大学院教授白井 雅人        東洋大学国際哲学研究センター研究助手関 陽子(山村 陽子)  東洋大学国際哲学研究センター研究支援者竹中 久留美       東洋大学大学院文学研究科哲学専攻 博士後期課程永井 晋         東洋大学文学研究科教授堀内 俊郎        東洋大学国際哲学研究センター研究助手三澤 祐嗣        東洋大学大学院文学研究科仏教学専攻 博士後期課程村上 勝三        東洋大学文学研究科教授渡部 清         上智大学名誉教授

アジャ・リンポチェ        チベット・モンゴル仏教文化センター所長 ギャワーヒー,アブドッラヒーム  世界宗教研究センター所長ザキプール,バフマン       東洋大学大学院文学研究科哲学専攻 博士後期課程ビービー,ヘレン         マンチェスター大学教授マラルド,ジョン・C       北フロリダ大学名誉教授メール,エドゥアール       ストラスブール大学教授

国際哲学研究  3号

2014年 3 月31日発行

編 集 東洋大学国際哲学研究センター編集委員会

    (菊地章太(編集委員長)、伊吹敦、大野岳史)

発行者 東洋大学国際哲学研究センター(代表 センター長 村上勝三)

    〒112-8606 東京都文京区白山5-28-20 東洋大学  6 号館 4 階60466室

    電話・FAX:03-3945-4209

    E-mail:[email protected]

    URL:http://www.toyo.ac.jp/rc/ircp/

印刷所 共立印刷株式会社

*本書は、私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の一環として刊行されました。