国語教科書 - Nihon...

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廿1 姿1 国語教科書防人歌

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  • まで〉という記述もそのまま踏襲されている。選ばれる歌は変

    わっても、その基本となる万葉観は何も変わっていない。それ

    は「伝え合う力」の育成を求める学習指導要領の趣旨にもそぐ

    わない。今こそ、そうした刷り込みを払拭するための新たな教

    材の開発が求められる。

    昭和の戦時体制における『万葉集』を象徴するものが『愛國

    百人一首』(昭和十七年十一月廿一日情報局発表。以下、『愛國』

    と称する)である。それは日本文學報國會が、情報局・大政翼

    賛會の後援、毎日新聞社の協力によって選定したものである

    (日本文學報國會編『定本愛國百人一首觧説』毎日新聞社・

    一九四三)。「忠君の純情、國体の禮讃、敬神と崇祖の根本精神、

    かやうに眞に日本的なるもの」(川田順「選定方針の要綱」『愛

    國百人一首評釋』朝日新聞社・一九四三)のアンソロジーとし

    て、〈臣民〉を訓導することを目的としていた)1(

    キーワード:万葉集・防人歌・愛國百人一首・醜の御楯・

    国語総合

    要 旨

    『万葉集』には、昭和の戦時体制の中で戦意高揚に利用され

    た過去がある。日本文學報國會は、『万葉集』は古代の人たち

    の純粋な心の所産であるとする伝統的な万葉観に、明治の国家

    によって創り出された〈天皇から庶民まで〉といった万葉観を

    重ねて、忠君愛国の歌集としての『万葉集』を創作し、喧伝した。

    その典型が『愛國百人一首』である。そこではとりわけ、「醜の

    御楯」などの勇ましい防人歌が利用された。

    戦後は、その反省もあってか、戦意高揚に利用された防人歌

    は概ね姿を消し、夫婦・家族間の悲別の情をうたったものが取

    り上げられるようになった。しかし、高等学校「国語総合」の

    教科書は、相変わらず伝統的万葉観に基づく。〈天皇から庶民

    国語教科書の中の防人歌

    ―享受史から見える危うさ―

    1 国語教科書の中の防人歌

  • 8旅人の宿せむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群

    遣唐使使人母(巻九・一七九一)

    9

    わが背子はものな思ほし事しあらば火にも水にも吾なけ

    なくに

    安倍女郎(巻四・五○六)

    10

    み民吾生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく思へ

    海犬養岡麿(巻六・九九六)

    11大君の命かしこみ大船の行きのまにまに宿りするかも

    雪宅麻呂(巻十五・三六四四)

    12

    あをによし奈良の京は咲く花のにほふがごとく今さかり

    なり

    小野老(巻三・三二八)

    13降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

     

    橘諸兄(巻十七・三九二二)

    14天の下すでに覆ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか

     

    紀淸人(巻十七・三九二三)

    15

    新しき年のはじめに豐の年しるすとならし雪のふれるは

     

    葛井諸會(巻十七・三九二五)

    16

    唐國に往き足らはして歸り來むますら武雄に御酒たてま

    つる

    多治比鷹主(巻十九・四二六二)

    17

    すめろぎの御代榮えむと東なるみちのく山にくがね花咲

    大伴家持(巻十八・四○九七)

    18大君の命かしこみ磯に觸り海原渡る父母をおきて

    丈部人麻呂(巻二十・四三二八)

    19眞木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面變りせず

    坂田部麻呂(巻二十・四三四二)

    20霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に吾は來にしを

    その選定には、佐佐木信綱・齋藤茂吉・太田水穂・尾上柴舟・

    窪田空穂・折口信夫・吉植庄亮・川田順・齋藤瀏・土屋文明・

    村松栄一といった当時を代表する歌人たちがあたった。また、

    顧問として情報局・文部省・陸軍省・海軍省などの幹部、放送

    協會關事業局長の德富蘇峰、東京帝國大學教授久松潜一なども

    参加している(『定本愛國百人一首觧説』)。

    『万葉集』からも二三首が選ばれているが、まずはそれを、

    便宜的に番号を付して提示することにしよう。なお、それぞれ

    の歌の訓みや表記に関しては、説の分かれるものもあるが、原

    則として『定本愛國百人一首觧説』に従った。また、巻と歌番

    号を補ったが、ルビは省略した。

    1大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも

    柿本人麻呂(巻三・二三五)

    2

    大宮の内まで聞ゆ網引きすと網子ととのふる海人の呼び

    聲 

    長奥麻呂(巻三・二三八)

    3やすみししわが大君の食國は大和も此處も同じとぞ念ふ

    大伴旅人(巻六・九五六)

    4千萬の軍なりとも言擧せず取りて來ぬべき男とぞ思ふ

    高橋蟲麻呂(巻六・九七二)

    5

    をのこやも空しかるべき萬代に語りつぐべき名は立てず

    して

    山上憶良(巻六・九七八)

    6

    ますらをの弓上振り起し射つる矢を後見む人は語りつぐ

    がね

    笠金村(巻三・三六四)

    7

    あしひきの山にも野にもみ獵人さつ矢手挾みみだれたり

    見ゆ

    山部赤人(巻六・九二七)

    2

  • ものとする理解も成り立つ(水島義治『萬葉集防人歌全注釈』

    笠間書院・二○○三)。

    しかし、そのような揺れを認めたとしても、天皇・大御代を

    讃美する歌と、天皇に対する奉仕・忠誠をうたったものが大半

    を占めていることには違いがない。確かにそれは忠君愛国の

    『万葉集』であり、〈臣民〉の『万葉集』であると言ってよい。

    『愛國』は「時代別に大観する」形であるとされる(川田順「選

    定方針の要綱」先掲)。しかし、各時代の歌が満遍なく選ばれ

    ているわけではない。たとえば、『古今和歌集』から選ばれた

    歌は一首もない。それに対して、『万葉集』から二三首も選ば

    れていることは、やはり特筆に値しよう。それは「萬葉時代と

    吉野時代と幕末時代」が「愛國歌資料の最も多き時代」(川田順

    「愛國百人一首の特質」『愛國百人一首評釋』)だとする歴史認

    識に基づく)2(

    。また、「尊皇の詠歌者」が半数以上を占めるとす

    る指摘もある(今川仁視「『愛国百人一首』における選歌と編集

    の方針について」『東海近現代史研究』一九号・一九九七)。

    『小倉百人一首』の場合、万葉時代の作者は阿倍仲麻呂

    (六九八〜七七○)までの七人である。しかも、『愛國』が幕末

    の橘曙覧(一八一二〜一八六八)までの歌から選んでいるのに

    対して、『小倉百人一首』は順徳院(一一九七〜一二四二)を最

    後とする。見かけの数字以上に、『愛國』の方が『万葉集』の割

    合が高い。

    『愛國』のもう一つの顕著な特色は、防人歌の割合が高いこ

    とである)3(

    。『定本愛國百人一首觧説』の表紙も、安田靭彦筆の

    剣と楯を持ち、鎧を着た武人の絵で飾られているが、戦時体制

    大舎人部千文(巻二十・四三七○)

    21

    今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ

    吾は

     今奉部與曾布(巻二十・四三七三)

    22天地の神を祈りてさつ矢ぬき筑紫の島をさして行く吾は

    大田部荒耳(巻二十・四三七四)

    23ちはやぶる神の御坂に幣奉り齋ふいのちは父母がため

    神人部子忍男(巻二十・四四○二)

    一読して、その色合いは明らかだが、この二三首は、その主

    題に基づき、凡そ次のように分類することができる。

    天皇を讃美する

          

    1

    大御代を讃美する

         

    2・10・12・14・15・17

    天皇への奉仕をうたう

       

    7・16

    天皇への忠誠心をうたう

      

    3・11・13・18・20・21・22

    士丈夫としての志を述べる

     4・5・6

    親を敬慕する

           

    19・23

    母が子を思う       

    8

    献身的な愛をうたう

        

    9

    もちろん、右の分類には意見の分かれるものもあろう。また、

    中にはそのテーマを截然と区別することが難しいものもある。

    たとえば、4は西海道節度使としての歌なので、天皇に対する

    忠誠心をうたったものだと見ることもできる。また、20の結句

    の「を」は、「感動の辭」(『定本愛國百人一首觧説』)。「なんで

    逡巡するものか、しつかりお勤めを果たすぞ、の決意が籠めら

    れている」(川田順「評釋本文」『愛國百人一首評釋』)とされる

    が、それを逆接の助詞と見て、言外に家族への思いをうたった

    3 国語教科書の中の防人歌

  • 歡びに雀躍」する姿と重ねている。

    『愛國』に先立ち、その年の四月に刊行された佐佐木信綱・

    今井福治郎『萬葉集防人歌の鑑賞』(有精堂・一九四二)は、こ

    の時期の防人歌を象徴するような本である)4(

    。佐佐木信綱の序に

    は、

    皇國守護の大任を完遂せんがために、陸に、海に、空に、

    その全精根を傾倒して奮戦しつつある我が皇軍の精神は、

    これを遠く天平勝寶の古へ、選ばれて西邊守備に出で征き

    し東國防人の情意に比するに、相通うてをる。

    とされ、その最初の章「大君の命かしこみ」の冒頭には、21の

    「醜の御楯」の歌が紹介されている。また、「支那事變防人の歌」

    として、従軍した「昭和の防人」たちの歌が、「皇道精神」を具

    現したものとして一五○首載せられているのも、この本の特徴

    である。

    森本治吉の『萬葉のうた』(大日本雄辯會講談社・一九四三)

    も、『愛國』の翌年に刊行されている。これは「少国民」向けの

    ものだが、彼らが健全な〈臣民〉となるための『万葉集』の解説

    書である。その最初に「萬葉集はなぜ尊いか」という文章が掲

    げられているが、そこでは21の歌を引きつつ、『万葉集』は「日

    本国民としてのまごころ、天皇に仕へまつる臣民としてのまご

    ころ」が現れているからこそ、尊いのだと説明される。そして、

    その具体例として、七一首の万葉歌が取り上げられている。

    『萬葉のうた』は『愛國』の「国民教育に協力する」(「萬葉集

    はなぜ尊いか」)ものとされ、それと重なる歌も多い。その万

    葉版と言ってもよいものだが、そこでも「皇國の歌(御製・御

    の中での愛国は武人に象徴されるということであろう。

    『万葉集』中の防人歌は全部で九八首。全体の二・二パーセン

    ト弱に過ぎない。しかし、ここでは二三首中の六首で、二六パー

    セントほどを占めている。しかも、家族への思いをうたった歌

    は父母に限定(18・19・23)されており、「妹」や「妻」をうたっ

    たものはない。『万葉集』は約四五○○首の半数ほどを恋歌が

    占めているが、恋歌のような軟弱なものは時局柄ふさわしくな

    いと見られ、排除されたからであろう。その編集には教育勅語

    が意識されていたと見られる(今川仁視「『愛国百人一首』にお

    ける選歌と編集の方針について」先掲)が、〈臣民〉にとって、

    忠君とともに称揚されるべきは孝である、ということに違いあ

    るまい。

    さらには、「皇御軍」「しこの御楯」「幸矢貫き」といった武勇

    を示す語の目立つ点も、『愛國』の防人歌の顕著な特色だと見

    なければならない。日本文學報國會の短歌部會會長だった佐佐

    木信綱は、東国の防人の勇猛さについて、

    當時、關東出身の野人を以て成る兵團は、武力も衆に勝れ、

    「額には箭は立つとも、背には矢は負はじ」と誇る剛毅果

    敢の者どもであつた。

    (「

    日本精神史の寶庫たる萬葉集より」『萬葉淸話』靖文社・

    一九四二)

    と述べている。称徳天皇の詔(『続日本紀』神護景雲三年十月条)

    を引用したものだが、実際の姿と言うよりは、王権にとって、

    そうあらねばならない東国の民衆の姿と見るべきであろう。信

    綱はそれを、出征する「應招兵」たちが「皇國の御民と生れた

    4

  • た数多くの出版物が見られる

    )8(

    しかし、あくまでも個人的な著作である森本の『萬葉のうた』

    などとは異なり、『愛國』が国家の事業として作られたという

    点は、やはり特筆すべき事実であろう。それは「國民精神作興」

    (川田順「選定方針の要綱」先掲)という目的のため、東京日日

    新聞・大阪毎日新聞の紙上を通じても、全国民への普及が図ら

    れた。また昭和十七年十二月には、山内任天堂からその絵入カ

    ルタも刊行されている。『万葉集』が国家権力によって、露骨

    な形で戦争遂行に利用されたという事実がここにある。

    一方、文芸誌・研究誌などには、消極的な抵抗と見られる論

    調が意外と多かったとする指摘もある(品田悦一「東歌・防人

    歌論」先掲)。確かに、その通りであろう。しかし、選定委員

    の中には、『愛國』の「百首を貫いて聞えるものは、日本人の高

    らかなる進軍の聲だ」(川田順「愛國百人一首の特質」先掲)と、

    国民を鼓舞する勇ましい論調もあった。また、家持の17につい

    て、「大東亞戦争を祝福する意味」があるとする発言(齋藤茂吉

    「愛國百人一首に関聯して」『小歌論』第一書房・一九四三)す

    ら見られる。消極的な抵抗はさして力にならず、戦争遂行に積

    極的に協力する声の方が大きかったことは否定できない。

    戦後七十年を過ぎた今日、『万葉集』の享受史の中に、こう

    した歴史があったという事実を、教育現場でどう伝えて行くべ

    きなのか。『語文』を通して、学生会員に発信して行くことも

    その一つの手段であろうが、『万葉集』の研究が、今日の社会

    の中でどのような役割を果たさなければならないのかという問

    題を考えるためにも、それは避けて通れない問題であろう。

    歌))5(

    」「皇國の歌(讃美の歌))6

    」に続く「防人の歌」に、多くの

    頁が割かれている。「國境を守る」「まごころ」「父母をおもふ」

    「孝心」「故郷の山川」「神に祈る」「しこの御楯」という見出しの

    下、一二首の防人歌)7(

    が、古来変わらぬ日本人の美質を伝えるも

    のとして称揚されている。歌数で言えば、全体の一七パーセン

    トほど。これも戦時下の『万葉集』の特色を色濃く示す書物で

    ある。

    『尋常科用

     小學國語讀本

     巻十二』(文部省・一九三八)の

    存在も、忘れてはならない。六年生用の教科書だが、この時の

    改訂で「萬葉集」という単元が新設されたからである。佐佐木

    信綱の執筆になるもの(佐佐木信綱「小學讀本と萬葉集」『萬葉

    淸話』靖文社・一九四二)だが、「今日よりはかへりみなくて」

    という21の防人歌から説き起こされ、「海行かば水づくかばね

    /山行かば草むすかばね/大君の邊にこそ死なめ」という歌な

    ども教材とされている。

    この時期の忠君愛国的な『万葉集』関係の著作は、もちろん

    これにとどまるものではない。その典型は、武田祐吉『萬葉集

    と忠君愛國』(教學局・一九四○)である。文部省教學局編纂の

    「日本精神叢書」の一冊で、内閣印刷局で印刷されたもの。わ

    ずか九五頁の文庫本だが、防人歌に一五頁も割いており、『愛

    國』の防人歌の六首のうち五首が一致している。「忠君愛国と

    いえば万葉集、万葉集といえば防人歌、防人歌といえば「醜の

    御楯」――組織的大キャンペーン」(品田悦一「東歌・防人歌論」

    神野志隆光ほか編『セミナー万葉の歌人と作品 第十一巻』和

    泉書院・二○○五)が繰り広げられた。そうした時局を反映し

    5 国語教科書の中の防人歌

  • 我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かなくあやにかも寝

    といった武蔵国の防人の妻の歌(巻二十・四四二二)が一首取ら

    れている。愛する夫が筑紫に派遣され、離れ離れになってし

    まった悲しみをうたったものである。この第四句の原文は「於

    妣波等可奈ゝ」という形であり、「なな」は「東国特有の打消助

    動詞「なふ」の特別な連用形」(水島義治『萬葉集防人歌全注

    釈』)であろう。しかし、それを「解かなく」と、当時の中央語

    に直した形で載せている。

    仙覚は防人歌について、

    防人等が歌の詞、みなこれ夷詞とも也。或は又鬼語なとも

    あひまじはりて、かたくななる詞どもなれば、すゑの世に

    やまとことの葉もてあそばん人のまなぶべきにもあらず。

    (『萬葉集註釋』巻第二十)

    と述べている。東国出身の仙覚でさえ「夷詞」は学ぶべきもの

    ではないと言うのだから、都の貴族階層の俊成に、防人歌が「姿

    も高く聞」(『古来風躰抄』)こえなかったのは、当然のことで

    あろう。

    とは言え、昭和の戦時体制の中で防人歌が声高に称揚された

    遠因は、ここにもあろう。「人の心」の「素直」さこそ「上古の歌」

    の特質とした点である。このように、日本の古代を理想化し、

    『万葉集』を古代人の素朴な歌声とする見方は、和歌の伝統の

    中で脈々と受け継がれて行く。

    江戸時代の例としては、賀茂真淵の『萬葉集大考』を挙げて

    おこう。そこにも、

    教科書の万葉観は、総じて古い。教材とされた歌々も、今日

    の研究水準に基づいた選定と言うよりも、平安朝以後の秀歌選

    のパッチワークのような形であると言った方がよい(拙稿「古

    過ぎる教科書の万葉観」梶川信行編『おかしいぞ!

    国語教科書

     万葉集と古事記から〈上代文学会研究叢書〉』笠間書院・二○

    一六)。したがって、その問題を考えるためには、研究史では

    なく、今日に至るまでの防人歌の享受史を概観してみる必要が

    ある。

    周知のように、『古今和歌集』の仮名序には、和歌の歴史が

    記されているが、「ならの御時」の和歌は柿本人麻呂・山部赤

    人の活躍に象徴されるとしている。以後、人麻呂・赤人を並び

    称する言説は、それこそ枚挙に暇がないが、辺境の民衆の素朴

    で稚拙な歌と見做された防人歌が顧みられることは、ほとんど

    なかった。『拾遺和歌集』以後の勅撰集には人麻呂の歌が数多

    く取られ、赤人・家持などの歌も採録されているが、防人歌が

    取られることはなかった。

    典型的なのは、藤原俊成の『古来風躰抄』である。それは必

    ずしも俊成独自の歴史観ではないが、

    上古の歌は、わざと姿を飾り、詞を磨かんとせざれども、

    人の心も素直にして、ただ、詞にまかせて言ひ出だせれど

    も、心深く、姿も高く聞ゆるなるべし。

    といった見方に基づき、一八九首の万葉歌が選ばれている。

    そこには、

    6

  • 誌『アララギ』の歌人たちの間で『万葉集』が称揚されたが、近

    代における『万葉集』の普及にとって、アララギ派の人たちの

    果たした役割は大きい。そこで、近代の秀歌選の代表としては、

    その中心的メンバーであった島木赤彦の『萬葉集の鑑賞及び其

    批評(前編)』(岩波書店・一九二五)を見ておくことにしよう。

    これには「各期の歌風を言ふに恰例と思ふものを擇ん」だも

    のであって、「純粋に鑑賞的態度を以て萬葉集の短歌を見やう

    としたものである」(「はしがき」)とされている。そして、「最

    も力を致したのは人麿と赤人である。續いて家持・憶良・旅人、

    續いて東歌・防人歌等である」とも述べているが、この構成は

    高等学校「国語総合」の教科書の『万葉集』に関する単元を彷彿

    とさせる(拙稿「古過ぎる教科書の万葉観」先掲)。近世以前と

    は様相を異にし、二六五首のうち東歌が一九首、防人歌が一八

    首)9(

    と、東国の民衆の歌々が大きな割合を占めている。

    明治の国家は、国民国家を建設するために国民全一性の象徴

    としての古典を求めたが、そうした中で〈天皇から庶民まで〉

    といった『万葉集』を発明したのだとされる(品田悦一「天皇か

    ら庶民まで」『万葉集の発明』新曜社・二○○一)。『万葉集』の

    注釈や評釈が続々と刊行されるようになるのは、二十世紀に

    入ってからのことである。そうした中で『万葉集』が国民歌集

    となり、東歌・防人歌が〈庶民〉の歌の代表となるのだが、赤

    彦の『万葉集』もその延長線上にあるものと見てよいだろう)10(

    赤彦の万葉観は、

    萬葉人の歌ひ方が、常に眞實な心の集中からなされ、現れ

    る所は緊張の聲調、高古の風格となつて、吾々をして常に

    いにしへの世の哥は人の眞ごゝろ也、後のよのうたは人の

    しわざ也。

    といった発言が見られる。これは『古来風躰抄』と同様、和歌

    史の常識であると言ってよい。ところが、なぜか防人歌はそれ

    に該当しないらしい。真淵は『萬葉新採百首解』で、

    難波門を

     漕ぎ出て見れば

     神さぶる

     生駒高嶺に

     雲ぞ

    たなびく

    (巻二十・四三八○)

    という一首しか選んでいない(漢字のみの本文を、便宜的に漢

    字仮名交じりの形で提示した)。しかも、これは風景描写の歌

    であって、単なる旅中詠にしか見えない。防人歌としてではな

    く、たとえば「摂津作」とされた羇旅の歌々の中の、

    難波潟

     潮干に立ちて

     見渡せば

     淡路の嶋に

     鶴渡る見

    (巻七・一一六○)

    という一首とともにあったとしても、まったく違和感を覚えな

    い。『愛國』に見られる忠君愛国の防人歌との違いは明らかだ

    が、少なくとも〈防人歌〉というカテゴリーで選ばれていない

    ことは確実であろう。

    周知のように、平安時代以後、『万葉集』はさまざまな形で

    享受されて来た。『万葉集』を対象とした歌学書や注釈書は、

    かなりの数にのぼる。しかし、近世以前、防人歌は総じて等閑

    に付されて来た。とりわけ、『愛國』のごとき防人歌は、注目

    されるべくもなかったと言ってよいだろう。

    それでは、近代はどうだったか。これも周知のことだが、正

    岡子規は「再び歌よみに與ふる書」(「日本」一八九八・二・一四)

    の中で、紀貫之と『古今和歌集』の批判をしている。以後、歌

    7 国語教科書の中の防人歌

  • から衣すそにとりつき泣く子らをおきてぞ来ぬや母なしに

    して

    (巻二十・四四○一)

    蘆垣の隈所に立ちて吾妹子が袖もしほほに泣きしぞもはゆ

    (巻二十・四三五七)

    草枕たびのまろねの紐たえばあが子とつけろこれのはるも

    (巻二十・四四二○)

    右の四首(表記等は久松に従う)が紹介されているが、四首

    とも『愛國』には見られない歌である。妻子を偲び、夫を思う

    ものだが、「原野生活を營むもの」の「感情の純粋さ」「粗朴」さ

    の現れたものだといった、ごく短い説明が見られるに過ぎない)11(

    防人歌を標題とした単行本としては、松岡靜雄『民族學より

    見たる東歌と防人歌』(大岡山書店・一九二八)が早いものであ

    る。「遠江國の歌」「駿河國の歌」などといった国ごとの章立て

    を基本とし、東歌と防人歌を一括して説明したものだが、全釈

    なので、『愛國』で選ばれた防人歌はすべて取り上げられてい

    る。しかし、「皇軍」などといった言葉は見られるものの、現

    代語訳と語釈が中心であって、忠君愛国的な内容ではない。

    一般への『万葉集』の普及といった点では、斎藤茂吉の『万

    葉秀歌 下』(岩波書店・一九三八)も見ておくべきであろう。

    防人歌は一○首)12(

    取られており、『愛國』と重なる歌も二首(18・

    20)見られるが、それらは「平凡」「作歌修練が足りない」「真率

    にうたっている」「声調も順当」「感動の表出が活発」「素朴直截」

    「哀韻さえこもっている」などといった評言で覆われている。

    稚拙だが、真率な歌といった見方である。茂吉はその後、『愛國』

    の選定メンバーの一人となったが、そこに忠君愛国的な臭いは

    頭をその前に垂れしめる。

    (『萬葉集の鑑賞及び其批評(前編)』)

    といった発言からも窺うことができる。個々の歌の評言の中に

    見える「静肅感」「単純」「素朴」「直接」「新鮮」「簡浄」「眞實感」

    「朴訥」「大らか」「眞の力」「無邪気」「率直」「眞情」「純直」といっ

    た語彙も、『古来風躰抄』や『萬葉集大考』を典型とする伝統的

    な万葉観を引き継ぐものであろう。

    『愛國』の防人歌とは18・21の二首が一致している。とりわ

    け21は戦中の防人歌のシンボル的存在と言ってもよいものだ

    が、むしろ夫婦間の情愛をうたった後ろ向きの歌の方が多い。

    また、後述する現行の高等学校「国語総合」で教材とされてい

    る防人歌四首も、すべて含まれている。全体に、必ずしも忠君

    愛国的な論調で説明されているわけではない。

    学者たちも、伝統的な万葉観の普及を支えて来た。たとえば

    久松潜一(当時東京帝國大學助教授)の『萬葉集の新研究』(至

    文堂・一九三四)である。そこにも、防人歌は東国の民衆の素

    朴で稚拙な歌々であるとする説明が見られる。

    これは、東京帝國大學國語國文學研究室編の國文學研究叢書

    の一冊である。本書の巻頭には、藤村作(当時東京帝國大學教

    授)によって「我が國家の本性を究め、我が國民性の特質に自

    覺を持ち、我が國民思想の傳統を知ろう」とするものだと記さ

    れている。本書は『万葉集』全体を俯瞰した上で、その研究史

    にも筆が及ぶが、防人歌への言及はごく少ない。

    大君のみことかしこみうつくしけまこが手離れ島づたひゆ

    (巻二十・四四一四)

    8

  • 著作の中に『愛國』に取られた歌々があまり見られなくなった

    ことである。山本健吉・池田彌三郎『萬葉百歌』(中央公論社・

    一九六三)は、8の遣唐使の母の歌を一首取るに過ぎない。ま

    た、古橋信孝・森朝男『万葉集百歌』(青灯社・二○○八)のよ

    うに、その二三首がまったく取られていないものさえ見られ

    る。と

    りわけ防人歌については、『愛國』と同じ歌を取る秀歌選

    は少ない。たとえば、久曽神昇『萬葉秀歌鑑賞』(高須書房・

    一九四九)である。二四六首の「秀歌」の中に一○首の防人歌

    を選んでいる)14(

    が、『愛國』と重なる歌は一首もない。逆に、現

    行の高等学校「国語総合」の教科書で教材とされる歌(後述)は、

    すべて選ばれている。妻や家族への思いをうたった歌が多いの

    だが、敗戦後四年にして、すでに戦後の防人歌になり得ている

    と言ってよい。

    一方、岡野弘彦『万葉秀歌探訪』(日本放送出版協会・

    一九九八)は20を取っているが、

    筑波嶺のさ百合の花の

     夜床にも愛しけ妹ぞ。昼もかなし

    (巻二十・四三六九)

    という同じ作者の恋歌も一緒に載せられている(空白・句点は

    岡野に従う)。やや長い引用になるが、それについて岡野は、

    妻が見せる夜の愛情のこまやかなあわれさをいとしむ心

    も、天皇の軍にいさぎよくいで立つ覚悟も、同じ一人の男

    の胸の中の思いである。戦争中、われわれ若者を激励する

    訓話に、後の歌(20―梶川注)ばかりが引用されたことを

    思い出す。後年、この二首が同一の作者の歌であることを

    ほとんどない。戦後も長く版を重ねることができたのは、それ

    ゆえではないかと思われる。

    こうして見ると、防人歌のイメージはわずかの間に激変した

    ことになる。愛国歌が世に流布するようになった転換点とし

    て、紀元二千六百年の奉祝行事の年の『キング』(大日本雄辯會

    講談社発行、月刊の大衆娯楽雑誌)誌上に掲載された、川田順

    撰「愛國百人一首」の果たした役割の大きさを指摘する向きも

    ある(伊藤嘉夫「百人一首と佐佐木信綱・愛国百人一首前後」

    『跡見学園女子大学紀要』四号・一九七一)。確かにそれも一因

    であろうが、『愛國』はもちろんのこと、文部省教學局による「日

    本精神叢書」の刊行)13(

    など、国策に基づく教化活動の存在を軽視

    するわけにはいかない。いずれにせよ、その時期、戦時体制の

    強化とともに、〈臣民〉の防人歌となって行ったことは確かで

    あろうと思われる。

    ところが、この「眞実感」「純粋」「素朴」という見方は、戦時

    体制の中でも都合よく踏襲されて行った。『万葉集』は「人の眞

    ごゝろ」(『萬葉集大考』)になるものだと言われて来たが、防

    人歌に見られる忠君愛国の精神はまさに「人の心のまこと」(川

    田順「評釋本文」先掲)であって、「臣民としてのまごころ」(森

    本治吉「萬葉集はなぜ尊いか」先掲)の現れだとされたのであ

    る。

    敗戦によって、『万葉集』の享受のあり方は、また大きく変

    わって行った。そのもっとも顕著な変化は、戦後の秀歌選的な

    9 国語教科書の中の防人歌

  • 多田一臣編『万葉集ハンドブック』三省堂・一九九九

    神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉集の歌人と作品

    第十二巻

     万葉秀歌抄』和泉書院・二○○五

    古橋信孝・森朝男『万葉集百歌』青灯社・二○○八

    神野志隆光編『万葉集鑑賞事典』講談社・二○一○

    A〜Jに取られている防人歌は、以下の三三首である。ただ

    し、説明の中で参考として取り上げられた歌はカウントしな

    い。また、それぞれ表記などには違いが見られるが、便宜的に、

    その本文は水島義治『萬葉集防人歌全注釈』(笠間書院・二○○

    三)に従った。

    畏きや

     命被り

     明日ゆりや

     草が共寝む

     妹無しにし

    て(巻二十・四三二一) 

     A・G

    我が妻は

     いたく恋ひらし

     飲む水に

     影さへ見えて

     

    世に忘られず(巻二十・四三二二) 

     D・F・H・J

    時々の

     花は咲けども

     何すれぞ

     母とふ花の

     咲き出

    来ずけむ(巻二十・四三二三)  C・H

    父母も

     花にもがもや

     草枕

     旅は行くとも

     捧ごて行

    かむ(巻二十・四三二五) 

     F・I

    我が妻も 絵に描き取らむ 暇もが 旅行く吾は 見つ

    つ偲はむ(巻二十・四三二七)  A・C・E・H

    大君の 命畏み 磯に触り 海原渡る 父母を置きて

    (巻二十・四三二八)  A

    キ 水鳥の 発ちの急ぎに 父母に 物言ず来にて 今ぞ悔

    しき(巻二十・四三三七)  B・F・H

    我ろ旅は 旅と思ほど 家にして 子持ち痩すらむ 我

    知った時は、ほっと心が明るくなり、万葉びとの持つ人間

    性の自然さに深いよろこびを感じることができた。

    と述べ、20の歌の裏側に「人間性の自然さ」を読み取っている。

    すなわち、作者は必ずしも武勇一辺倒の男ではなかったという

    ことに気づき、そこに戦意高揚に利用されていた若い日とは異

    なる防人歌の一面を見出した。だからこそ、この歌を選んだと

    いうことになろう。つまり、これは例外的なものであり、戦中

    の刷り込み教育からの覚醒を語っているのであろう。

    試みに、戦後の各時期の主な秀歌選がどのような防人歌を選

    んでいるか、それを概観してみることにしよう。取り上げるの

    は、以下の一○種類の秀歌選だが、防人歌をまったく取り上げ

    ていないものはない。分母が区々なので、単純に実数で比較す

    ることはできないが、決して少なくない割合で取られている。

    近世以前とは異なり、いずれも『万葉集』には防人歌が欠かせ

    ないといった位置づけだと見做すことができよう。

    高木市之助・田邊幸雄編『〈日本古典鑑賞講座〉萬葉集』

    角川書店・一九五八

    山本健吉・池田彌三郎『萬葉百歌』中央公論社・

    一九六三

    井村哲夫・阪下圭八・橋本達雄・渡瀬昌忠『注釈万葉集

    《選》』有斐閣・一九七八

    中西進『万葉の秀歌 下』講談社・一九八四

    稲岡耕二編『〈別冊国文学〉万葉集事典』学燈社・

    一九九三

    岡野弘彦『万葉秀歌探訪』日本放送出版協会・一九九八

    10

  • 暁の

     かはたれ時に

     島陰を

     漕ぎにし船の

     たづき知

    らずも(巻二十・四三八四) 

     F

    旅と云ど

     真旅になりぬ

     家の妹が

     着せし衣に

     垢付

    きにかり(巻二十・四三八八) 

     I

    群玉の

     枢に釘刺し

     固めとし

     妹が心は

     揺くなめか

    も(巻二十・四三九○) 

     F

    天地の

     いづれの神を

     祈らばか

     愛し母に

     また言問

    はむ(巻二十・四三九二) 

     F

    韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母

    無しにして(巻二十・四四○一) 

     G・H・J

    ちはやぶる

     神の御坂に

     幣帛奉り

     斎ふ命は

     母父が

    為(巻二十・四四○二) 

     F

    我が妹子が

     偲ひにせよと

     付けし紐

     糸になるとも

     

    我は解かじとよ(巻二十・四四○五) 

     F

    草枕

     旅行く背なが

     丸寝せば

     家なる我は

     紐解かず

    寝む(巻二十・四四一六)  F

    赤駒を

     山野に放し

     捕りかにて

     多摩の横山

     徒歩ゆ

    か遣らむ(巻二十・四四一七) 

     A・B・F・G

    家ろには 葦火焚けども 住み良けを 筑紫に到りて 

    恋しけ思はも(巻二十・四四一九)  D・H・J

    草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 吾が手と付けろ 此の針

    持し(巻二十・四四二○)  F

    ミ 色深く 背なが衣は 染めましを 御坂賜らば ま清か

    に見む (巻二十・四四二四)  D

    防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物

    が妻かなしも(巻二十・四三四三) 

     F・G・I

    忘らむて

     野行き山行き

     我来れど

     我が父母は

     忘れ

    為のかも(巻二十・四三四四) 

     B・D・F

    コ 父母が

     頭かき撫で

     幸く在れて

     言ひし言葉ぜ

     忘れ

    かねつる(巻二十・四三四六) 

     A・H

    道の辺の

     茨の末に

     這ほ豆の

     からまる君を

     別れか

    行かむ(巻二十・四三五二)  B・F

    我が母の

     袖持ち撫でて

     我が故に

     泣きし心を

     忘ら

    えのかも(巻二十・四三五六) 

     F

    葦垣の

     隈処に立ちて

     我妹子が

     袖もしほほに

     泣き

    しぞ思はゆ(巻二十・四三五七) 

     E・F

    筑紫方に

     舳向かる船の

     何時しかも

     仕へ奉りて

     国

    に舳向かも(巻二十・四三五九) 

     A

    防人に

     発たむ騒きに

     家の妹が

     業るべき事を

     言は

    ず来ぬかも(巻二十・四三六四) 

     C・F

    筑波嶺の 小百合の花の 夜床にも 愛しけ妹ぞ 昼も

    愛しけ(巻二十・四三六九) 

     E・F・H

    霰降り

     鹿島の神を

     祈りつつ

     皇御軍に

     我は来にし

    を(巻二十・四三七○)  F

    今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立

    つ我は(巻二十・四三七三) 

     F

    松の木の 並みたる見れば 家人の 我を見送ると 立

    たりしもころ(巻二十・四三七五)  D・E・F

    布多富我美 悪しけ人なり あたゆまひ 我がする時に

    防人に差す(巻二十・四三八二)  C・D・G・H

    11 国語教科書の中の防人歌

  • れている。ところが、そこには伝統的な秀歌観に基づく歌々と

    ともに、東歌六首と防人歌四首も含まれている。〈天皇から庶

    民まで〉といった万葉観から完全に自由であったとは言えない

    ように思われる。

    平成と元号が変わってから刊行された秀歌選を見ても、Eは

    一〇○首中五首(全体の五%)、Gは一七三首中六首(同三・

    五%)、Hは三六九首中一〇首(同二・七%)、Jは一六五首中

    三首(同一・八%)の防人歌を収録している。『万葉集』全体の

    中の二・二パーセントほどの防人歌としては、いずれも決して

    少ない割合ではない。少なくとも、必ず取り上げなければなら

    ないもの、といった扱いだと見ることができよう。

    もう一つの顕著な特色は、「いも」(五首)「つま」(二首)「み」

    (一首)「きみ」(一首)「わぎもこ」(一首)「わがいもこ」(一首)

    という語によって、妻をうたったものが三分の一を占める点で

    ある)16(

    。『愛國』には一首もなかったが、そこも大きな違いである。

    また『愛國』では、女性の歌は例外的な扱いであった。「我が

    國の女性の持つ母性愛、又、たやすく献身的となり得る夫婦愛」

    も、あえて「愛國の範囲に加へる」(『定本愛國百人一首觧説』)

    としているが、女性歌はわずか四首に過ぎない。それに対して

    戦後の秀歌選では、防人の妻の歌九首のうち、六首(ト・フ・ヘ・

    マ・ミ・ム)も取られている。それによって、妻の歌を含めれば、

    『愛國』では排除された夫婦間の情愛をうたったものが、半数

    を超える。

    さらに、「はは」(三首)「ちちはは」(五首)「おもちち」(一首)

    「いはびと」(一首)を含めると、家族に対する思いをうたった

    思ひもせず(巻二十・四四二五)

    A・C・E・F・G・H

    これを見ると、岡野弘彦のFが二二首と、圧倒的に多くの防

    人歌を選んでいるばかりでなく、そのうちの一一首が独自の選

    歌であることが際立っている。しかも、『愛國』と同じ歌を三

    首も選んでいるのは岡野だけである。岡野は『愛國』の選定に

    あたった歌人の一人、折口信夫を師と仰ぐ歌人である。折口の

    影響か否かは不明だが、近年の秀歌選の中では異例の存在であ

    る。F

    以外は概ね研究者たちの著作だが、古い世代のAを除く

    と、戦後に研究活動を始めた人たちは誰一人として、『愛國』

    に取られた防人歌を選んでいない。したがって、AとFが単独

    で選んでいる一二首を除くと、「大君」「皇御軍」「醜の御楯」な

    どという語が消え、悲別・望郷の歌々が残る。防人歌の「大部

    分は羇旅発思の相聞歌・悲別歌なのである」(水島義治「防人歌

    の詩と真実」『萬葉集防人歌の研究』笠間書院・二○○九)と言

    う通りである。より直截的に言えば、それらは権力によって引

    き裂かれた東国の衆庶の悲しみの歌々にほかならない。戦意高

    揚に利用された『万葉集』の負の歴史が、個々の編者の意識の

    中にあった結果ではないかと想像される。

    とは言え、近世以前とは違って、必ず防人歌を選んでいると

    いう事実にも、注目しなければなるまい。『愛國』と同じ歌を

    一首も取らないIも、四首の防人歌を収録している)15(

    。自身の研

    究を踏まえて、「文学の発生や起源に結んで考えることに努め

    た」(「はじめに」)とされ、概ねそうした方向での説明がなさ

    12

  • 立つ防人を見送る様子をこれほど鮮やかに描いたものはこれを

    除いてない」(分担執筆は高野正美)としている。多くの研究者

    が鑑賞的な態度に基づき、〈秀歌〉と認定しているのだ。

    中でも、水島義治の労作『萬葉集防人歌全注釈』は、「巻二十

    収載の防人歌全九三首の中から一○首を選ぶとすれば、私はい

    ささかのためらいもなく、この歌を選ぶであろう」と述べ、と

    りわけそれを高く評価している。水島は防人歌全般について、

    防人たちが歌に託した思いは、防人としての強い決意や使

    命感ではなく、父母・妻子との別離の深い悲しみであり、

    父母・妻子への激しい思慕の情を歌ったものが大半である

    ことを決して見落としてはならない。

    (『萬葉集防人歌全注釈』)

    と述べているが、この評は、防人歌を特定の個人の一回的な創

    作歌と捉えたものである。その点は、注意をしておく必要があ

    ろう。

    しかし、東国で作られたはずの防人の妻のつぶやきのような

    歌が、なぜ大伴家持の手に入ったのか。また、きちんとした短

    歌定型なのは、なぜなのか。まったく訛音がない点も不思議で

    ある。個人的な創作歌と見るには、素朴な疑問をいくつも解決

    しなければならないが、ムを〈秀歌〉と評価する注はいずれも、

    東国の名もない一人の女性の抒情詩として捉えているように見

    える)18(

    。そうしたムに次いで多いのが、四冊に取られているイ・オ・

    ト・ヘである。いずれも夫婦間の情愛をうたったものだが、と

    りわけトは、自分の夫を防人として徴発する「布多においでの

    ものが八割以上にもなる)17(

    。〈臣民〉が〈国民〉となり、個人が、

    とりわけ女性が尊重されるようになった戦後、秀歌選が防人歌

    に何を求めたのか、ここにはっきり現れているように思われ

    る。ま

    た、ムを除いて、過半数の支持を受けた歌がなく、評価の

    分かれている点も、顕著な特徴の一つであろう。反対に、一つ

    の秀歌選にしか選ばれていない歌が一四首(四二・四%)もあ

    る、という点も見逃せない事実である。〈秀歌〉とは所詮主観

    的なものに過ぎない、ということを示していよう。つまり、絶

    対的で客観的な基準がないからこそ、負の歴史を背負う歌を避

    け、戦後の防人歌を構築することも可能だった、ということで

    はないかと思われる。

    それでは、防人の妻の歌ムは、なぜ選ばれたのか。つとに、

    佐佐木信綱が『新撰婦人百人一首』(一九一六)の中でそれを選

    び(伊藤嘉夫「百人一首と佐佐木信綱・愛国百人一首前後」)、

    「千古に光を放つ佳作」(佐佐木信綱『評釋萬葉集七』六興出版

    社・一九四九)とも評している。「防人歌の中でも白眉」(遠藤

    宏「防人――その歌の場――」久松潜一監修『萬葉集講座

     第

    六巻』有精堂・一九七二)、「会話を自然な形で歌い込んでいか

    にも素直で整った詠風は、これが一防人の妻の歌かと驚かされ

    る」(曾倉岑・阿蘇瑞枝・小野寛『万葉集三〈日本の文学 古典

    編〉』ほるぷ出版・一九八七)などと、高く評価する注が多い。

    同様に、Eは「口頭語の問いかけの会話文によって発想され

    ている(中略)。この表現は、きわめて具体的、迫真性に富み、

    臨場感に溢れている」(分担執筆は森淳司)とし、Gは「村を旅

    13 国語教科書の中の防人歌

  • 翼を担うようになった近代、忠君愛国の歌の象徴として戦意高

    揚に利用された戦中、名もない東国の民衆の情愛を詠んだ貴重

    な抒情詩として位置づけられた戦後と、時代ごとに扱い方が大

    きく異なっていたことが見て取れる。秀歌選の防人歌は概ね近

    代の産物だと見るべきだが、現在の評価と位置づけも、今後変

    わって行く可能性がある。社会が右に振れれば右に、左に振れ

    れば左に、ということになろう。

    しかし、その一方に、一貫して受け継がれて来たもののある

    ことも、見逃してはならない。それを肯定的に評価するか否定

    的に評価するかは別として、防人歌が東国の民衆の純粋な心を

    反映した素朴な歌だとする見方である。私たちは、そうした享

    受史の中から何を読み取るべきなのか。とりわけ、すべての高

    校生が学習する「国語総合」の教科書の『万葉集』の背後には、

    何があるのか。その点をきちんと確認しておかなければならな

    い。「国

    語総合」の教科書の『万葉集』を学ぶ単元では、戦前に提

    唱された四期区分説(澤瀉久孝・森本治吉『作者類別年代順

     

    萬葉集』新潮社・一九三二)に基づき、各時期の著名歌人たち

    の歌々に、東歌・防人歌を一首ずつ加え、八首から一二首で構

    成されることが多い(梶川信行ほか「教科書にはこんな問題が

    ある」梶川信行編『おかしいぞ!

    国語教科書 万葉集と古事記

    から〈上代文学会研究叢書〉』)。文学史的な知識の獲得を中心

    に『万葉集』を学ぶ形である。

    そして、『万葉集』については、以下のように解説される)19(

    短歌・長歌・旋頭歌などの歌体を含み、作者は、天皇・貴

    お上」(水島義治『萬葉集防人歌全注釈』)を、「悪しけ人なり」

    と直截的な言葉で詰っている。戦時体制の中ならば非国民とい

    うレッテルを貼られかねないものだが、個人的な感情が直截的

    にうたわれているからこそ、選ばれたのであろう。

    三冊に取りあげられているのは、キ・ク・ケ・タ・テ・ノ・

    ホの七首である。キとケは「父母」を慕い、テは「家人」を思い

    出し、ノは残された幼い「子」を気遣っている。また、クは「妻」

    を心配し、タは「愛しけ妹」をうたう。そして、ホは故郷の家

    を懐かしむ歌だから、すべて「羇旅発思の相聞歌・悲別歌」(水

    島義治「防人歌の詩と真実」先掲)であると言ってよい。

    こうした戦後の防人歌については、軍国主義の中のそれの裏

    返しであり、近代の生んだ虚構にほかならないとする批判もあ

    る(品田悦一「東歌・防人歌論」先掲)。確かに、その通りであ

    ろう。しかし、要はそれが自覚されているか否かである。本稿

    は、それを自覚するための享受史の確認なのだが、戦後、個人

    が尊重され、男女平等の時代になったこともあって、秀歌選等

    の防人歌は忠君愛国の呪縛から解き放たれ、男女間の個人的な

    悲別と望郷を中心としたものになって行ったことが確認でき

    る。

    こうして防人歌の享受史を概観してみると、以下のように要

    約することができる。

    「夷詞」「鬼語」としてほとんど等閑に付されて来た近世以前、

    素朴で純粋な民衆の歌の典型として、国民歌集『万葉集』の一

    14

  • 族から、防人ら庶民層に及ぶ。

    (東京書籍301、302、304)

    編集の中心は、大伴家持と考えられており、歌人は天皇か

    ら庶民まで幅広い階層にわたる。

    (三省堂306、307、308)

    皇族や貴族の作品ばかりでなく、無名の民衆の作である東

    歌や防人の歌も収録されており、歌風の特色は、実感に即

    した感動を率直に表現した、生命感にあふれた力強さにあ

    る。

    (教育出版309)

    上代人の素朴で純粋な生活感情が歌いあげられている。

    (大修館書店312、313)

    雄大、素朴な歌風が特徴とされる。

    (数研出版316、317)

    作者は貴族だけでなく、広く当時の諸階層に及んでいる。

    (筑摩書房323、324)

    貴族から農民までさまざまな階層の人々の歌が集められて

    いる。歌風は清新、素朴で、枕詞、序詞、対句、反復など

    の技巧が用いられている。

    (第一学習社325、326)

    素朴で雄大な詠みぶりに特色があるが、次第に繊細なもの

    へと移行している。

    (桐原書店330、331)

    総じて、〈天皇から庶民まで〉の歌が収められており、「素朴」

    「率直」「純粋」な歌風だとする説明である。〈天皇から庶民まで〉

    は明治の国家が創ったものだとされるが、平安朝以来の和歌の

    伝統の中で継承されて来た万葉観も、そのまま引き継がれてい

    るのだ。

    そうした中で防人歌は、東歌とともに一首ずつ教材化されて

    いるが、現在は次の四首が選ばれている。

    我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 

    世に忘られず

    父母が

     頭かき撫で

     幸く在れて

     言ひし言葉ぜ

     忘れ

    かねつる

    韓衣

     裾に取り付き

     泣く子らを

     置きてぞ来ぬや

     母

    無しにして

    防人に

     行くは誰が背と

     問ふ人を

     見るが羨しさ

     物

    思ひもせず

    教育出版309の教科書にイ。東京書籍302・304、教育出版310、筑

    摩書房322・323の三社五種類にコ。三省堂306・307・308、大修館書

    店312・313、第一学習社325・326の三社七種類にノ。数研出版316・

    317、桐原書店330・331の二社四種類にムが取られている。

    まず注意すべき点は、この四首はいずれも『愛國』には取ら

    れていないが、島木赤彦の『萬葉集の鑑賞及び其批評(前編)』

    には取られているということである。「国語総合」の教科書は

    現在、九社から二三種類刊行されているが、そこで教材とされ

    た万葉歌は、長歌を除くと四三首。斎藤茂吉の『万葉秀歌』とは、

    八割ほどにあたる三四首が一致する。また、『万葉秀歌』は長

    歌を取らないが、教材とされた長歌四首のうち、三首の反歌が

    独立の短歌として〈秀歌〉とされている。つまり、「国語総合」

    の万葉歌は、全体にアララギ的な色合いが強いということであ

    る。その点でも、教科書の『万葉集』は近代の『万葉集』にほか

    ならない。

    また、その四首はいずれも、A〜Jの複数の秀歌選にも取ら

    れているということ。その点からすれば、近代になってから〈秀

    歌〉とされた防人歌が、戦中を例外として、概ね戦後にも引き

    15 国語教科書の中の防人歌

  • 集の中でもやはり、近代における防人歌の享受史の中で形成さ

    れた常識的な評価ばかりでなく、戦時体制におけるその負の歴

    史も意識された結果ではないかと思われる。

    もちろん、高校生がそうした『万葉集』の享受史を詳しく学

    習する必要はない。しかし、指導する側は、国語の教科書の中

    で教材とされた防人歌も、このような享受史を経た上で、現在

    のような位置が与えられたという事実を、きちんと認識してお

    くべきであろう。少なくとも、『万葉集』は昭和の戦時体制の

    中で戦意高揚に利用されたという事実は、知っておかなければ

    ならない。

    防人歌は、どの歌を選ぶかによって、戦意高揚の教材になる

    ばかりでなく、反戦教材ともなり得る。もちろん、そこまで極

    端な形で利用されることは、もうないと信じたい。しかし、戦

    中の防人歌に比べれば、個人が尊重される世の中を反映した形

    で教材化されているとは言え、東国の民衆の素朴で純粋な歌と

    いう位置づけも、裏を返せば、天皇を頂点とした華やかで洗練

    された都の文化の対極に位置する野卑な世界ということにほか

    ならない。

    たとえば、『万葉集』巻二十に収録されている天平勝宝七歳

    の防人歌には、「拙劣歌」として捨てられた歌が八二首あった

    ことが記されている。何がどう「拙劣」だったのかということ

    に関する記述がないので、それついてはさまざまな憶説があっ

    たが、かつてその中に方言の使用を根拠とした説もあった)22(

    。ま

    た、そもそも「拙劣」と判断したのが、中央の貴族層に属する

    大伴家持であったということは疑いようがない。すなわち、そ

    継がれたということが見て取れる。すなわち、戦後の研究成果

    に基づいて教材としての適切性が考慮された上で選ばれた防人

    歌ではなく、その万葉観とともに、秀歌鑑賞の定番となってい

    た歌が踏襲されているということである。

    しかし、戦後、度重なる学習指導要領の改訂によって、国語

    の学習目標は徐々に変わって来た。現在は「伝え合う力」の育

    成が求められている)20(

    。課題解決型の学習への転換も叫ばれてい

    るが、それでもまだ、伝統的な万葉観に基づき、秀歌鑑賞の形

    で受け継がれて来た防人歌を、あたかも文学史的な事実である

    かのように、知識として学ばせる必要はあるのか。

    もちろん、和歌というジャンルに親しむことを目的として、

    生徒たちの自由な鑑賞に任せるならば、現行の教科書の防人歌

    でもそれほど不都合はあるまい。しかし、すべての高校生が学

    ぶ「国語総合」ではまず、和歌というスタイルに親しむことを

    優先すべきではないか。知識の教授以前に、定型の心地よさや、

    言葉の持つ不思議さ、豊かさを体感させることだが、防人歌は

    必ずしもそれにふさわしい教材ではあるまい)21(

    現行の教科書に取られている四首を教材とする場合、どう扱

    うかということについては別稿(拙稿「教科書の中の『万葉集』

    ――防人歌を読む――」『語文』一五六輯・二○一六予定)に譲

    るが、イは一途に「妻」を思う歌である。また、コは「父母」を

    思慕する歌であり、ノは母のいない「泣く子」を残して来たこ

    とを悲しむ歌である。そしてムには、防人の妻の嘆きがうたわ

    れている。当然だが、『愛國』に見られた「大君」の姿はなく、

    いずれも愛する家族への思いをうたったものである。教科書編

    16

  • と同じ構図になってしまうことを恐れる。

    筆者は、赤人の「不尽山」の歌を〈日本の善美の象徴〉として

    の「富士山」の歌として教材化することの危険性を論じたこと

    がある(拙稿「国語教科書の中の富士山――高等学校「国語総

    合」の危うさ――」『富士学研究(富士学会)』一二巻一号・二

    ○一四)。同様に、防人歌を古代人の純粋な心の所産とする刷

    り込みも、偏狭な民族主義的教育の温床となる危険性を孕んで

    いる。私たちは、そうした刷り込みが、消極的な抵抗をも飲み

    込んでしまった過去を忘れてはならない。享受史を確認するこ

    とから見えて来る防人歌の最大の問題点は、そこにあろう。

    ところが、少子化によって教科書の発行部数が減る中、学習

    指導要領が改訂されても、経費削減のためか、古典分野の単元

    の見直しを行なっていない教科書が目立つ。『万葉集』に関し

    ては、中身は昭和のままといった教科書が多い。また、かつて

    は『国文学』を標題とする月刊誌が二誌刊行され、研究と教育

    を繋ぐ役割を果たしていたが、いずれも廃刊となって久しい。

    多忙を極める中学校・高等学校の先生が、国語の教科書に載る

    広範な教材のすべてに精通することは、より一層困難になって

    いる。だからこそ、私たち専門の研究者が、中学校・高等学校

    の古典教育に対してもっと関心を持ち、情報発信をして行かな

    ければならない。とりわけ、新たな教材観に基づく万葉教材の

    開発が求められる。本稿は、そのための確認作業の一つである。

    注(1)

    その選定の経緯については、今川仁視「『愛国百人一首』に

    おける選歌と編集の方針について」(『東海近現代史研究』一九

    れは所詮中央貴族の眼差しによって掬い取られた辺境の民の

    歌々である、ということなのだ。

    ところが、指導書には「方言が使われ、生々しい作者の感情

    が率直に表現されている」(『指導書

    精選国語総合

    古文編』東京

    書籍)、「技巧のない素朴なもの言いが、防人の不安と悲しみを

    しみじみと伝えている」(『精選国語総合

     学習指導の研究』筑

    摩書房)などとされている。コの「父母が」の歌に関する解説

    だが、防人歌は民衆の素朴な歌であり、その純粋な心の所産で

    あるゆえに優れているとする捉え方に見える。伝統的な万葉観

    に基づくステレオタイプの解説だが、それは戦時体制の中でも

    都合よく利用された部分である、ということを忘れてはならな

    い。素

    朴なのはむしろ、そうした解説の方ではないか。そこには、

    「拙劣」というレッテルを貼られて捨てられた歌々の存在が視

    野に入っているようには見えない。選別の基準はあくまでも、

    天皇を頂点と戴く律令官人家持の目を通したあるべき辺境の姿

    だったはずである。つまり、それは色眼鏡を通した映像を無色

    透明なものだと信じ込んだ上での説明であろう。

    これは、場合によっては、とても危険ではないか。一つには、

    時代によって大きく変化して来た防人歌のイメージを、奈良時

    代の実態と信じたものだからである。また、戦後の防人歌は所

    詮、戦時体制の防人歌の裏返しでしかないとする批判もあった

    が、取る歌は違っても、万葉観そのものが何も変わらないので

    は、確かに裏返しでしかない。刷り込みを無自覚に踏襲してい

    ることになるが、そうやって屋上屋を重ねることで、戦時体制

    17 国語教科書の中の防人歌

  • 号・一九九七)が詳しい。

    (2)

    万葉時代・吉野朝時代・幕末時代に愛国歌が集団的に現れ

    たとする発言は、川田順『愛國百人一首』(大日本雄辯會講談

    社・一九四一)の「概説」にも見られる。

    (3) 中村烏堂『萬葉百首選』(月明會出版部・一九四一)は、防

    人歌を一三首選んでいて、やはりその比率が高い。17と21は

    当然選ばれている。

    (4)

    防人歌に関するものとしては、ほかに吉野裕『防人歌の基

    礎構造』(伊藤書店・一九四三)、相磯貞三『防人文學の研究』

    (厚生閣・一九四三)がある。とりわけ相磯の著作は、まさに

    皇国史観に基づく忠君愛国的なもの。研究篇・鑑賞篇・原文

    篇によって構成されているが、「盡忠の歌」「敬神の歌」などと

    される鑑賞篇は、特にその傾向が強い。また、岩波書店の『文

    学』も、昭和十七年八月号で「防人の歌」の特集を組んでいる。

    高木市之助「防人歌と國家的精神」をはじめ、藤森朋夫「巻

    十四の防人歌」、久松潜一「遠江国防人歌」などの論が並ぶ。

    その中で高木は、「國家的精神」とは編集者に与えられたタイ

    トルであって、防人に「國家」という意識はなかったとするが、

    天皇に対する「完全な奉仕」の精神はあったと述べている。

    (5)

    まずは「御いつくしみ」として、聖武天皇が節度使に酒を賜

    わった歌(九七三〜九七四)が載せられる。続いて「うまし國」

    として、舒明天皇の望国歌(二)、「おほきみのみいのち」とし

    て、倭太后の歌(一四七)、「神よまもりたまへ」として、藤原

    太后が入唐大使藤原清河に贈った歌(四二四○)が載せられ

    る。

    (6)

    ここは、「天皇は神」(三九)、「日本の領土」(九五六)、「言

    靈のたすくる國」(三二五四)、「榮ゆく時代」(三二八、四○

    九七)、「御民われ」(三九二二、三六九、九九六)、「海行かば」(四

    ○九四)という構成である。

    (7)

    歌番号で示すと、四三二五、四三三七、四三四四、四三四六、

    四三四二、四四○二、四三六八、四三七一、四三七○、四三七四、

    四三七三、四三二八。以上、掲出順。

    (8)

    『愛國百人一首』を書名に戴くものだけでも、以下のように

    多くの出版物があった。そこにはカルタや書道の手本も含ま

    れている。

    川田順『愛國百人一首』大日本雄辯會講談社・一九四一

    牧野靖史『愛國百人一首』國進社出版部・一九四二

    西川禎則編『愛國百人一首早わかり』建軍精神普及會・

    一九四二

    日本文學報國會編『定本愛國百人一首觧説』毎日新聞社・

    一九四三

    日本文學報國會編『愛國百人一首』山内任天堂・一九四二

    日本文學報國會編『愛國百人一首』長樂會出版部・一九四三

    日本文學報國會編『評釋愛國百人一首』満州日日新聞社・

    一九四三

    川田順『愛國百人一首評釋』朝日新聞社・一九四三

    山口白陽『肥後愛國百人一首解説』熊本縣教育會・一九四三

    松村栄一『愛國百人一首物語』天佑書房・一九四三

    岸本綾夫編『愛國百人一首』東京市役所・一九四三

    三島源次郎製作『愛國百人一首』白水社・一九四三

    水野治久『愛國百人一首詳解』大衆書房・一九四三

    仲田幹一『愛國百人一首学習帖』泰東書道院出版部・

    一九四三

    坂口利夫『愛國百人一首通釋』五車書房・一九四三

    18

  • という章があり、21の防人歌や「海行かば」などが紹介されて

    いて、『萬葉集の新研究』とはやや論調が異なる。

    (12)

    四三二七、四三二八、四三四九、四三五七、四三五八、四三六九、

    四三七○、四四○七、四四二五、四四三一。以上、掲出順。

    (13)

    文部省教學局による叢書である。「昭和十四年三月」の日付

    で、「本叢書は、主として我國古來の典籍中より精神教育上適

    切なものを選擇してその要點を解説し、廣く國民をして日本

    精神の心解と體得とに資せしめることを以て目的とするもの

    である」としている。河野省三『歴代の詔勅』、植木直一郎『古

    事記と肇國の精神』、花山信勝『聖徳太子と日本文化』、志田

    延義『神楽・神歌』など、六〇冊以上が企画された。武田祐吉

    の『萬葉集と忠君愛國』も、その一冊である。また、やはり教

    學局編纂の出版物『臣民の道』(一九四一)も、忘れてはなら

    ない。

    (14)

    四三二二、四三二七、四三四六、四三五三、四三五七、四三六六、

    四三七二、四三八四、四四○一、四四二五。以上、掲出順。同じ

    年に刊行された斎藤茂吉の『新選秀歌百首』(白玉書房・

    一九四九)には、『万葉集』から四五首が取られているが、防

    人歌は「妹が恋しく」(四四○七)という一首のみである。また、

    『愛國』と重複する歌は、10の一首のみ。

    (15)

    四三二五、四三四三、四三八八、四四二九。以上、掲出順。

    (16)

    水島義治「防人歌の相聞歌的性格」(『萬葉集防人歌の研究』

    笠間書院・二○○九)の「防人等の歌における悲別・思慕の対

    象」という一覧表によれば、妻に対する思慕の歌と認定され

    たものは三三首。巻二十の防人歌九三首の約三分の一だから、

    一○冊の秀歌選に取られた防人歌は、全体的傾向とほぼ一致

    していることになろう。また、AとFを除くと、二○首中の

    馬場圭之『愛國百人一首略解』文章社・一九四三

    大澤竹胎『愛國百人一首帖』荻原星文舘・一九四三

    仲谷幸次郎『愛國百人一首のこゝろ』南方圏社・一九四三

    源元公子書『手習愛國百人一首』駸々堂書店・一九四三

    平尾花笠『愛國百人一首手習帖』泰東書道院出版部・

    一九四三

    窪田空穂『愛國百人一首』開発社・一九四三

    内山雨海『書道愛國百人一首』大新社・一九四三

    西澤笛畝画『愛國百人一首』日本玩具統制協會・一九四三

    日本文學報國會編『愛國百人一首年表』協栄出版社・

    一九四四

    比田井小琴『愛國百人一首』書學院・一九四四

    (9)

    四四二五、四四二六、四四三一、四四三六、四三五八、四三五九、

    四三三七、四三二二、四三三○、四四○一、四三八二、四四一六、

    四三四四、四三五二、四三二七、四三四六、四三七三、四三二八。

    以上、掲出順。『愛國百人一首』の防人歌と二首一致し、後に

    触れる戦後の秀歌選一○冊に取られた防人歌とは一二首が一

    致する。

    (10)

    武田祐吉『上代國文學の研究』(博文舘・一九二一)は、全

    四五○頁のうち「東歌を疑ふ」には四○頁も割くが、防人歌に

    関する言及はほとんどない。

    (11)

    ただし、別の部分で21の「今日よりは」の歌を紹介し、「忠

    君の精神」としている。しかし、「上代人には抒情的な戀愛生

    活があつたと同時に、剛健な國家精神がある」としており、「抒

    情的な戀愛生活」の方が優先されている。久松にはその三年

    後に、『萬葉集に現れたる日本精神』(至文堂・一九三七)とい

    う著作がある。その六章のうちの一章に「萬葉集と忠君愛國」

    19 国語教科書の中の防人歌

  • 間書院・二○一六)で、「国語総合」では「音読する『万葉集』」、

    「古典B」では「東アジアの中の『万葉集』」という教材を提案

    した。

    (22)

    武田祐吉「東歌を疑ふ」(『上代國文學の研究』)。また、つ

    とに吉野裕「「拙劣歌」の定位」(『防人歌の基礎構造』)には、

    それに対する反対意見も見られる。

    (かじかわ

     のぶゆき、本学教授)

    九首(四五%)という高率となる。

    (17)

    水島義治「防人歌の相聞歌的性格」(先掲)は、「防人歌は相

    聞歌なのである」と言い切る。確かに、『万葉集』の「相聞」の

    部に収録しても違和感のない歌が多いのだが、「相聞歌なので

    ある」と断ずることには躊躇いを覚える。なお、「相聞」の定

    義について、拙稿「《初期万葉》の「相聞」」(『研究紀要(日本

    大学文理学部人文科学研究所)』六七号・二○○四)で論じた。

    (18)

    万葉歌を抒情詩として扱うことの問題については、拙稿「歴

    史認識としての《初期万葉》││「抒情詩」誕生の問題││」

    (『國語と國文學』八四巻一一号・二○○七)、同「万葉歌は抒

    情詩か――高等学校「国語総合」の『万葉集』――」(『國語と

    國文學』九二巻一一号・二○一五)で論じた。

    (19)

    教科書名はどれも似通っていて、区別がつきにくい。そこ

    で以下、出版社名と教科書番号で提示する。いずれも記号は

    「国総」だが、それは省略する。以下同じ。

    (20)

    昭和三十一年施行の高等学校学習指導要領には、「国語科の

    目標」の第一に、「読解力」「鑑賞力」「批判力」が挙げられてい

    る。同三十五年ではそれが「思考力」と「批判力」に変わり、

    四十五年では「表現する能力」に変わっている。「伝え合う力」

    が第一に挙げられるようになったのは、平成十一年からであ

    る。また文法に関しても、昭和五十三年の指導要領には、「文

    語のきまり、訓読のきまりについては、文章の読解に即して

    行なう程度とすること」とされている。全体として、読解中

    心の国語からコミュニケーション重視の国語に徐々に変化し

    て来たことが窺える。

    (21)

    拙稿「こう教えたい『万葉集』」(梶川信行編『おかしいぞ!

    国語教科書 万葉集と古事記から〈上代文学会研究叢書〉』笠

    20