乳突洞と乳突蜂巣8 耳科学 mastoid...

8
6 耳科学 も分厚くなっています。 鼓膜に光を当てると(耳鏡で観察すると),きら きら光る光錐 triangular light reflex を認めます。 光錐は鼓膜の張り方の関係で光線が最も反射しや すくなっただけであり,組織構造が変わっている わけではありません。そのため,鼓膜が弛むと, 光錐はとたんに見えなくなります。 なお,鼓膜の部位を表現する場合には,ツチ骨 柄の延長線と臍で直角に交わる線を引いて 4 区画 に分け,図1-5のように,それぞれ前上象限下象限後上象限後下象限と命名します。 3 耳小骨筋 tympanic muscle 耳小骨筋は耳小骨に付着する横紋筋で,鼓膜張 筋とアブミ骨筋の二者があります(耳小骨筋は 2 つ,耳小骨は 3 つなので,耳小骨筋は最も外側の ツチ骨と最も内側のアブミ骨に付着すると,バラ ンスが取れます)(図1-6)。なお,両者とも横紋 筋ですが,不随意筋です。 アブミ骨筋 stapediusmuscle はアブミ骨頭に付 着し,顔面神経の支配を受けます。アブミ骨筋が 収縮すると,アブミ骨は後上方に変位し,音が内 耳に伝わりにくくなります。逆に,アブミ骨筋の 役割はこの点にあると考えられます。つまり,過 大音がそのまま内耳に伝わると,騒音性難聴(音 響外傷)に至る懸念がありますが,アブミ骨筋の 収縮によってこれを避けることができます。した がって,顔面神経麻痺では聴覚過敏を訴える(音 がうるさく聴こえると訴える)ことがあります。 ただし,音圧の減弱はわずかなので,過大音から の内耳保護をアブミ骨筋の生理的機能とする見解 には異論もあります(近年は自声の内耳伝達を軽 し,音を聴きやすくするなどの見解が唱えられ ています)。 他方,鼓膜張筋 tensor tympani muscle はツチ 骨柄上部に付着し,三叉神経第 3 枝の支配を受け ます。鼓膜張筋が収縮すると,鼓膜は内陥します が,その意義はアブミ骨筋以上に不明です(音響 刺激だけでなく,驚愕時にも収縮するからです)。 STEP 3 アブミ骨筋は顔面神経支配 収縮によってアブミ骨を変位させ,過 大音から内耳を守る 4 耳 管 auditory tube,Eustachian tube 耳管は上咽頭と鼓室をつなぐ約 3.5cm の管腔で す。外耳道と同じく耳管にも骨部と軟骨部があり, 側頭骨に囲まれた鼓室に近い1/3が骨部上咽頭 に近い2/3が軟骨部になります。骨部と軟骨部 の境界は峡部 isthmus と呼ばれ,耳管のなかで最 前上象限 前下象限 後上象限 後下象限 図1-5 鼓膜の4区画 鼓膜張筋 アブミ骨筋 図1-6 耳小骨筋

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Page 1: 乳突洞と乳突蜂巣8 耳科学 mastoid antrumと名付けられます。したがって,外界の空気が入るルートは耳管→鼓室→乳突洞口 →乳突洞→乳突蜂巣となります(図1-9)。もとより出生時にこのようなスペースはありま

� 6 耳科学

も分厚くなっています。

鼓膜に光を当てると(耳鏡で観察すると),きら

きら光る光錐triangular� light� reflexを認めます。

光錐は鼓膜の張り方の関係で光線が最も反射しや

すくなっただけであり,組織構造が変わっている

わけではありません。そのため,鼓膜が弛むと,

光錐はとたんに見えなくなります。

なお,鼓膜の部位を表現する場合には,ツチ骨

柄の延長線と臍で直角に交わる線を引いて4区画

に分け,図1-5のように,それぞれ前上象限,前

下象限,後上象限,後下象限と命名します。

3 耳小骨筋tympanic muscle

耳小骨筋は耳小骨に付着する横紋筋で,鼓膜張

筋とアブミ骨筋の二者があります(耳小骨筋は2

つ,耳小骨は3つなので,耳小骨筋は最も外側の

ツチ骨と最も内側のアブミ骨に付着すると,バラ

ンスが取れます)(図1-6)。なお,両者とも横紋

筋ですが,不随意筋です。

アブミ骨筋stapedius�muscleはアブミ骨頭に付

着し,顔面神経の支配を受けます。アブミ骨筋が

収縮すると,アブミ骨は後上方に変位し,音が内

耳に伝わりにくくなります。逆に,アブミ骨筋の

役割はこの点にあると考えられます。つまり,過

大音がそのまま内耳に伝わると,騒音性難聴(音

響外傷)に至る懸念がありますが,アブミ骨筋の

収縮によってこれを避けることができます。した

がって,顔面神経麻痺では聴覚過敏を訴える(音

がうるさく聴こえると訴える)ことがあります。

ただし,音圧の減弱はわずかなので,過大音から

の内耳保護をアブミ骨筋の生理的機能とする見解

には異論もあります(近年は自声の内耳伝達を軽

減し,音を聴きやすくするなどの見解が唱えられ

ています)。

他方,鼓膜張筋tensor� tympani�muscleはツチ

骨柄上部に付着し,三叉神経第3枝の支配を受け

ます。鼓膜張筋が収縮すると,鼓膜は内陥します

が,その意義はアブミ骨筋以上に不明です(音響

刺激だけでなく,驚愕時にも収縮するからです)。

STEP3

アブミ骨筋は顔面神経支配収縮によってアブミ骨を変位させ,過大音から内耳を守る

4 耳 管auditory tube,Eustachian tube

耳管は上咽頭と鼓室をつなぐ約3.5cm の管腔で

す。外耳道と同じく耳管にも骨部と軟骨部があり,

側頭骨に囲まれた鼓室に近い1/3が骨部,上咽頭

に近い2/3が軟骨部になります。骨部と軟骨部

の境界は峡部isthmusと呼ばれ,耳管のなかで最

前上象限

前下象限

後上象限

後下象限

図1-5 鼓膜の4区画

鼓膜張筋

アブミ骨筋

図1-6 耳小骨筋

Page 2: 乳突洞と乳突蜂巣8 耳科学 mastoid antrumと名付けられます。したがって,外界の空気が入るルートは耳管→鼓室→乳突洞口 →乳突洞→乳突蜂巣となります(図1-9)。もとより出生時にこのようなスペースはありま

7 第1章 解 剖

第1章

も狭く,普段は閉鎖されています(図1-7)。

上咽頭の耳管開口部は耳管咽頭口と呼ばれ,そ

の前後と上は耳管軟骨によって隆起が形成されて

います(なお,下方は口蓋帆挙筋による筋性隆起

があり,耳管口蓋ヒダと呼ばれます)。特に,後

方の隆起は最も目立ち,耳管咽頭ヒダと呼ばれま

す。そして,耳管咽頭ヒダのさらに後ろには,相

対的なポケット状の窪みができあがり,発見した

ドイツのローゼンミュラー博士にちなんで,

Rosenmüller窩(または咽頭陥凹)と呼ばれます

(図1-8)。

そして,普段閉じている耳管を開くのは口蓋帆はん

張ちょう

筋です。この筋は三叉神経第3枝の支配を受け,

嚥下運動やあくびに際して,軟口蓋を側方に緊張

させることによって,耳管峡部をこじ開けます。

そんな手間をかけるくらいならば,最初から耳管

峡部を開けておけばよいと思うかもしれません。

しかし,上咽頭は雑菌だらけなので,雑菌の鼓室

への侵入を防ぐには,普段は閉めておいて,必要

なときだけ開けるシステムの方が合理的です(耳

管は感染防御機能を担います)。その「必要なと

き」は換気と排出に際して生じます。

換気の具体例は飛行機の離着陸時やダイビング

の降下浮上時で,鼓室と外界に生まれた気圧差に

よって耳が詰まった感じ(耳閉塞感)を覚えま

す。しかし,嚥下運動やあくびによって口蓋帆張

筋を収縮させると,耳管峡部が開き,空気が出入

りして気圧差が解消されます。なお,ここでも感

染防御との関係で,空気を中耳から上咽頭に押し

出す方が上咽頭から中耳に空気を送り込むよりも

容易です(だから,飛行機の着陸時や潜水の降下

時の方が離陸時や浮上時よりも気圧差解消に苦労

します)。

他方,排出は無意識に行われます。後述のよう

に,耳管には線毛上皮が存在し,鼓室内の異物や

分泌物は線毛運動によって上咽頭に向かって運ば

れます。そこで,ある程度溜まったら,耳管峡部

を開いて上咽頭に押し出さなければなりません。

STEP4

耳管は鼓室と上咽頭を結ぶ◦�耳管峡部で閉じているが,口蓋帆張筋の働きで開く◦感染防御,換気,排出を担う

5 乳突洞と乳突蜂巣mastoid antrum and mastoid air cell

聴器の大部分は側頭骨に「囲まれて」いますが,

実際には側頭骨の奥深くまで「入り込んでいる」

と表現した方が正確です。つまり,上鼓室の後方

に向かって蜂の巣状に側頭骨が削り取られてお

り,これを乳突蜂巣または含気蜂巣pneumatic�cell

と呼びます(乳突蜂巣の入った側頭骨の外耳道下

方に突出した部分は乳様突起mastoid�processと

呼ばれます)。また,蜂の巣の付け根部分は乳突

洞,上鼓室と乳突洞の境界は乳突洞口aditus�to�

耳管口蓋ヒダ耳管口蓋ヒダ

耳管咽頭ヒダ耳管咽頭ヒダ

下鼻甲介下鼻甲介

耳管開口部

Rosenmüller窩

図1-8 耳管咽頭口の解剖

鼓室骨部

軟骨部

峡部

耳管咽頭口

鼓膜鼓膜

図1-7 耳管の解剖

Page 3: 乳突洞と乳突蜂巣8 耳科学 mastoid antrumと名付けられます。したがって,外界の空気が入るルートは耳管→鼓室→乳突洞口 →乳突洞→乳突蜂巣となります(図1-9)。もとより出生時にこのようなスペースはありま

� 8 耳科学

mastoid�antrumと名付けられます。したがって,

外界の空気が入るルートは耳管→鼓室→乳突洞口

→乳突洞→乳突蜂巣となります(図1-9)。

もとより出生時にこのようなスペースはありま

せんが,呼吸によって鼓室に空気が入るようにな

ると,中耳粘膜が伸びて徐々に蜂巣が形成されま

す。蜂巣は6歳ころまでにほぼ完成しますが,逆

にこの時期まで中耳炎を反復していると,乳突蜂

巣の発育は阻害されます。

乳突蜂巣の主たる機能はガス交換で,肺胞と同

じように,薄い一層の扁平上皮の直下に豊富な毛

細血管をもっています。また,蜂の巣のように入

り組んでいるのも,ガス交換に関わる表面積を増

やすためです。そして,蜂巣粘膜では酸素や二酸

化炭素などのガスが分圧勾配に従って拡散してい

くので,必然的にトータルのガス圧を維持(調圧

作用を発揮)できます。ちなみに,飛行機の着陸

時に耳閉塞感が残っても,時間が経つと軽快する

のは乳突蜂巣のガス交換機能のおかげです。する

と,耳管と乳突蜂巣の機能は一部重なりますが,

前者は急激な気圧差が生じた際の筋運動による瞬

時の解消,後者は緩徐かつ持続的な気圧差の解消

という役割分担があります。したがって,嚥下運

動やあくびをしにくい睡眠中などでは,調圧作用

の主役は乳突蜂巣になります。

STEP5

乳突蜂巣の作用はガス交換(緩徐かつ持続的な調圧作用も担う)幼児期の中耳炎反復で,発育が抑制される

D内 耳inner ear

1 前庭窓と蝸牛窓vestibular window and cochlear window

内耳は鼓室の内側に位置し,前庭窓(卵円窓oval�

window)および蝸牛窓(正円窓round�window)で

鼓室と通じています。なお,前庭窓は音の入口,

蝸牛窓は音の出口に相当します。そのため,前庭

窓にはアブミ骨がはまり込み,鼓膜の振動を内耳

に伝えています(p.4,STEP 2参照)。

2 蝸牛・前庭・半規管

a 骨迷路と膜迷路

内耳は蝸牛,前庭,半規管に分かれますが,内

部は互いにつながっています。ただし,その内部

構造は迷路labyrinthと称されるほど複雑です。

内耳は図1-10のように,2〜3mm の比較的厚

い骨に包まれ,これを骨迷路bony� labyrinthと呼

びます(骨に包まれていないと,このような複雑

な形態を保てません)。

骨迷路の内部には膜で作られたもう1つの仕切

があり,これを膜迷路membranous�labyrinthと呼

びます(図1-11)。内部が仕切られているのは内容

液が異なるためで,膜迷路の内部は内リンパ液,

乳突洞口

鼓室

耳管骨部

耳管軟骨部

(上咽頭)耳管開口部

軟骨部外耳道

骨部外耳道

乳突洞乳突蜂巣(含気蜂巣)

耳介

図1-9 耳管・乳突洞・乳突蜂巣

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9 第1章 解 剖

第1章

膜迷路の外側で骨迷路の内側の部分は外リンパ液

で満たされています。そして,外リンパ液は蝸牛

水管cochlear�aqueduct(外リンパ管perilymphatic�

duct)によって髄液と交通しているのに対し,内

リンパ液は閉鎖環境にあります。したがって,内

リンパ液が過剰になる病態(内リンパ水腫)は存

在しますが,外リンパ液は髄液に比べて微量なた

め,その過剰症はありません。また,髄液とつな

がる外リンパ液は細胞外液と同様に高Na+低K+

という組成ですが,内リンパ液は細胞内液と同様

に低Na+高K+となっています。

STEP6

骨迷路の内側には外リンパ液,膜迷路の内側には内リンパ液外リンパ液は蝸牛水管を通じて髄液とつながる

b 蝸 牛cochlea

蝸牛は聴覚受容器を容れた骨迷路で,その形態

が「カタツムリ」に似ているところから命名され

ました(蝸牛は「カタツムリ」を意味します)(図

1-12左)。カタツムリの渦(回転数)は動物に

よって異なりますが,ヒトの場合は2と1/2回転

です。渦を巻いていると内部構造を把握しにくい

ので,無理に引き伸ばすと図1-12右のようにな

ります。

前述のように,蝸牛の内部には内リンパ液を容

れた膜迷路がありますが,これを蝸牛管cochlear�

ductと呼びます。他方,膜迷路の外側は外リンパ

液で満たされていますが,そのうち,前庭窓(卵

円窓)からつながる部分は前庭階scala�vestibuli,

蝸牛窓(正円窓)につながる部分は鼓室階scala�

tympaniと呼ばれます。すると,前庭窓から入っ

た音波は前庭階を進行し,鼓室階に移行して,蝸

前半規管

外側半規管後半規管

膨大部

膨大部

蝸牛窓

前庭窓

蝸牛

図1-10 骨迷路

前半規管

後半規管

外側半規管膨大部

アブミ骨

内リンパ囊

卵形囊

球形囊

鼓室階蝸牛窓

前庭階

蝸牛管

内リンパ管

蝸牛水管

前庭水管

図1-11 膜迷路

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� 54 耳科学

耳鏡所見では鼓膜の発赤,膨隆,水疱,ときに

は穿孔した鼓膜から流出する耳漏を認めます(写

真6-1)。

小児の一部は頻繁に本症に罹患し(過去6か月

以内に3回以上または1年以内に4回以上),中耳

炎反復性otitis�proneと呼ばれます。中耳炎反復性

は2歳未満(特に1歳未満)と集団保育が危険因

子となります。前者は免疫応答の未熟,後者は子

ども同士で移し合うことなどが原因と考えられま

す。

●治 療

①総 論

従来は本症を細菌感染症ととらえていたため,

抗菌薬投与が不可欠と考えられてきました。しか

し,初期の本症はウイルス感染症が多いこと,細

菌感染症の場合でも自然治癒傾向が強いことが明

らかにされ,軽症例に限っては抗菌薬を投与せず

に自然経過を観察することが推奨されるようにな

りました。ただし,症状が緩解しない場合にはい

つでも抗菌薬を投与できる環境を整えておく必要

があります。

他方では,2歳未満の乳幼児は重症化・難治化

しやすいことから,経過観察するとしても,診察

回数を増やすなどの配慮が必要です。

②薬物療法

抗菌薬を投与する際には感受性を考慮しなけれ

ばなりませんが,肺炎球菌とインフルエンザ菌の

半数以上はすでに薬剤耐性株になっています。感

受性試験の結果によって薬剤を選択せざるを得ま

せ ん が, 結 果 が 出 る ま で はアモキシシリン

(AMPC),βラクタマーゼ阻害薬とAMPCの合剤,

第三世代セフェム系薬などがよく用いられます。

なお,標準的な投薬期間は5日間です。

③鼓膜切開��paracentesis

中耳腔の貯留液が顕著なケースでは,鼓膜切開

によって排膿を図ります。これで耳痛は軽快し,

治癒が促進されるはずです(ただし,現時点では

そのようなエビデンスは得られていません)。

STEP31

◦�軽症の急性中耳炎にはすぐに抗菌薬を使わない◦�2歳未満と集団保育は中耳炎反復性の危険因子

B 急性乳様突起炎acute mastoiditis

●概 念

急性中耳炎では炎症の中心が鼓室にあります。

本症はその炎症が乳突洞や乳突蜂巣に及び,粘膜

腫脹や肉芽によって排膿が困難になって膿瘍を形

成する疾患です(図6-2)。本症は急性中耳炎だけ

でなく,中耳真珠腫の急性増悪時にもみられます

(前者はほとんどが乳幼児に生じます)。なお,本

症は側頭骨内合併症であり,頭蓋内合併症ではあ

りません。

●症 状

①全身症状・耳症状

急性中耳炎より炎症が強いため,高熱を呈し,

発赤膿汁による膨隆

写真6-1 急性中耳炎の鼓膜所見(106-I-24)

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55 第6章 中耳疾患

第6章

全身状態は不良です。しばしば鼓膜穿孔部から多

量の拍動性耳漏を認め,耳痛も持続します。ただ

し,全身症状のみで耳症状をほとんど伴わない隠

蔽性乳様突起炎masked�mastoiditisもあり,耳

症状がないという理由で本症を否定できません。

②耳介聳しょう

立りつ

��elevated pinna

乳突蜂巣の先端は耳介後上部の皮膚に近いの

で,ここにも炎症が波及します。すると,耳介後

上部の皮膚は発赤腫脹し,後上部から圧迫された

耳介は前下方に聳立します(聳立は「そそり立つ」

という意味で,耳介がウサギの耳のようにピョン

と立ちます)。なお,耳 でも耳介聳立を呈する

ことがありますが,前上方に向かい,本症とは聳

立の方向が異なります(全身症状を伴わない点も

違います)。

③Bezold膿瘍

ドイツのベツォルト博士が報告した病態で,乳

様突起先端内下方に穿孔が生じ,ここから胸鎖乳

突筋の内面に沿って膿汁が流れていきます(流注

膿瘍)。すると,患者の側頸部は腫脹し,激しい痛

みによって斜頸状態となります。なお,Bezold膿

瘍は急性乳様突起炎の最重症タイプであり,ここ

まで放置しなくなったため,近年はめったにみら

れません。

●検査・治療

最も有用なのは CT で,側頭骨の破壊や耳介後

上部の骨膜下膿瘍を認めます。

治療としては感受性のある抗菌薬を十分に投与

し,鼓膜が破れていなければ切開します。改善傾

向を認めなければ,耳介後部の発赤腫脹部位を骨

膜に至るまで深く切開し,鋭匙鉗子などで拡大し

て排膿を促します。また,頭蓋内合併症への進展

が危惧されるケースでは,骨まで削って(乳様突

起単削さく

開かい

術simple�mastoidectomy),炎症の拡大

を防ぎます。

C錐体尖炎petrositis

●概 念

乳突蜂巣の最内端は錐体尖部ですが,ここまで

炎症が及んだ病態です(p.65,図6-6参照)。この

炎症が骨を破壊すると,錐体付近の限局性髄膜炎

や脳神経障害を引き起こします。脳神経のなかで

は三叉神経と外転神経が侵されやすく,本症に三

叉神経痛と外転神経麻痺を合併すると Gradenigo

症候群と呼ばれます(グラデニーゴ博士はイタリ

アの耳鼻咽喉科医です)。

本症は急性中耳炎だけでなく,中耳真珠腫の合

併症としても生じます。また,本症も側頭骨内合

併症ですが,髄膜炎や脳神経麻痺を来せば頭蓋内

合併症なので,厳密に区別する意義はありません。

なお,本症は戦前に耳性髄膜炎の原因として恐れ

られましたが,近年はめったにみられなくなりま

した。

●検査・治療

CT では錐体尖蜂巣の混濁や骨破壊をとらえら

れます。また,MRI では炎症に起因する異常所見

(原則として T1強調画像で低ないし等信号,T2強

調画像で高信号)を認めます。

治療は感受性のある抗菌薬の十分な投与と鼓膜

切開に加え,乳様突起単削開術を行います。

乳突蜂巣

乳突洞

炎症

鼓室耳

図6-2 急性乳様突起炎の概念

上咽頭

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� 56 耳科学

D 滲出性中耳炎secretory otitis media(SOM)

●概 念

中耳(鼓室)に滲出液が貯留し,難聴や耳閉塞

感を訴える疾患です。本症は3〜6歳に好発し,8

歳を過ぎると有病率は激減します。

本症の直接の原因は急性中耳炎と同様,感染症

ととらえられます。というのは,滲出液は無菌で

はなく,急性中耳炎と同じ細菌(肺炎球菌,イン

フルエンザ菌,モラキセラカタラーリス)がしば

しば検出されるし,本症患者の大半は副鼻腔炎を

合併し,急性中耳炎の既往歴も高率に認められる

からです。なお,動物実験で耳管を完全に閉塞し

ても,これだけでは本症に至らないことから(乳

突蜂巣粘膜で換気されるからです),耳管狭窄は

直接の原因にならないと考えられます。他方で,

急性中耳炎で菌量が減っても,中耳粘膜の免疫応

答はまだ続いているし,鼻汁中の病原体が微量に

侵入してもある程度の免疫応答は生じます。この

ような免疫応答の結果やグラム陰性菌から遊離し

たエンドトキシンによって,さまざまの炎症性サ

イトカインが誘導されます。それらは粘膜上皮細

胞を障害するとともに,分泌細胞を増加させま

す。すると,過剰分泌によって滲出液が貯留する

というストーリーが成り立ちます(加齢に伴う抵

抗力の増加によって本症が激減することも説明で

きます)。そして,耳管は侵入した病原体によって

炎症性に肥厚・狭窄しますが,狭窄した耳管は滲

出液の排出を妨げ,炎症をさらに増悪させること

になります(図6-3)。

また,耳管狭窄だけでなく,耳管開放も本症の

増悪要因となり得ることが明らかにされていま

す。後述のように,耳管開放症では耳閉塞感を軽

減するため頻繁に鼻すすりsniffingをしています。

鼻をすすれば,鼻咽頭に強い陰圧が生じますが,

耳管が閉じにくいと,陰圧はストレートに鼓室に

及びます。すると,耳管はぺちゃんこにつぶれ(こ

れを閉鎖不全耳管floppy�tubeと呼びます),ロッ

クされたかのように拡張しなくなってしまいま

す。この際には鼻咽頭由来の病原体が中耳に送り

込まれるうえ,つぶれた耳管から排出されなくな

るので,滲出性中耳炎の発症には誠に好都合です。

●滲出性中耳炎の発症に影響を及ぼす疾患

①鼻・副鼻腔炎

鼻咽頭が病原体を含んだ鼻汁に曝されているた

め,中耳に侵入する危険性が高くなります。しか

も,鼻閉状態で嚥下運動を行うと,耳管を強く広

げることになるので(鼻をつまんで嚥下すれば,

すぐにわかります),なおさら病原体を中耳に送

り込むことになります。

②アデノイド増殖症

アデノイド(咽頭扁桃)は生理的組織で,6歳

前後で最も大きくなり,肥大すると耳管咽頭口を

ふさぎます。かつてはこの物理的影響によって耳

管が狭窄し,本症に至ると考えられてきました。

しかし,アデノイドを切除しても,切除前と比べ

て耳管の通気性はほとんど改善しません。他方で

鼓室

上咽頭

図6-3 滲出性中耳炎の病態

感染中耳粘膜の免疫応答により炎症性サイトカインを誘導

炎症性に肥厚・狭窄

耳管外耳道 滲出液の貯留

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57 第6章 中耳疾患

第6章

は,アデノイドを切除すると,本症の再発率は有

意に低下します。したがって,アデノイドの肥大

は物理的影響というよりも,むしろ中耳に侵入す

る病原体の足場を提供する点に問題があると考え

られます。

③上咽頭(鼻咽頭)腫瘍

鼻咽頭には癌,悪性リンパ腫,血管線維腫など

の腫瘍が生じ,しばしば滲出性中耳炎を併発しま

す。アデノイド増殖症と同様,中耳に侵入する病

原体の足場を提供する機序もありますが,これら

の場合は物理的影響(耳管狭窄)の方が大きいと

考えられます。

④耳管開放症

前述のように,鼻すすりの影響で耳管がロック

され,本症に至ると考えられます。

⑤口蓋裂��cleft palate

口蓋裂は形成(融合)不全によって口蓋に披裂

を来した先天性疾患ですが,高率に滲出性中耳炎

を合併します。その理由は口蓋帆張筋も低形成

だったり,付着部位も異常だったりするため,耳

管開放機能が妨げられるからです。

⑥Down症候群

Down症候群(21trisomy症候群)は耳管軟骨

の形成不全を伴いやすく,支えを失った耳管はつ

ぶれて高率に滲出性中耳炎を合併します。なお,

Down症候群児は外耳道が狭く,処置にてこずる

ケースもよくあります。

STEP32

滲出性中耳炎◦�耳管狭窄や開放症によって,鼻咽頭の病原体が中耳に送り込まれる◦�鼻・副鼻腔炎,アデノイド増殖症,上咽頭腫瘍に合併しやすい

●症状・検査

中耳伝音系に滲出液が貯留するので,耳閉塞感

を訴え,伝音難聴を来します(貯留は緩徐なので,

急性中耳炎と異なり,耳痛を伴いません)。

耳鏡検査では内陥した鼓膜を認めます。鼓膜が

内陥すると,ツチ骨短突起は突出します(写真

6-2)。また,鼓膜の反射が少なくなって光錐は消

失します。そして,軽症例では貯留した滲出液が

鼓膜に滲出線を作ります。

純音聴力検査では伝音難聴を呈し,ティンパノ

グラムでは B型または C型になります(滲出液

が鼓室の半分以上を占めると B型になります)。

●治 療

①耳管通気法

陰圧鼓室に,耳管経由で空気を送り込む治療法

です。成功すれば鼓膜のコンプライアンスは直ち

に向上し,良く聴こえるようになります。ただし,

ツチ骨短突起

ツチ骨柄

鼓膜緊張部が陥凹し,相対的にツチ骨が浮き出て見える。写真6-2 滲出性中耳炎の鼓膜所見