【第一章】 奥郷庄内谷 - NAN-NAN · 第一章 奥郷庄内谷 7...

初版発行:2008 年 5 月 2 日

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初版発行:2008 年 5 月 2 日

【第一章】

奥郷庄内谷

第一章●奥郷庄内谷 2

●原著案内本デジタルブックは、以下の書籍「草莽の志

士 後藤純平 ─大分県の幕末維新騒乱─」を

デジタル化したものです。

 「草莽の志士 後藤純平  ─大分県の幕末維新騒乱─」

 著者:清原 芳治

 四六版 207 ページ

 発行:大分合同新聞社

 発行日:2006 年 3 月 15 日

 定価:1470 円(税込み)

 購入問合:その他の大分合同新聞社の本につ いては、大分合同新聞文化センターへ 電 097-538-9662「合同新聞の本」Web ページ

 はじめに

  第一章●奥郷庄内谷 

筆者略歴は巻末に掲載しています。筆者のブ

ログ「清原芳治のコラム『風の座標軸』」は、

こちらから → http://oitablog.jp/kiyohara/

 ※

奥付け/デジタルブックについて   (題字=西村

春斎)

・豊後国大分郡上淵村

・大友氏の所領から府内藩領へ

・旱魃常襲地帯

・飢饉と災害

・一揆と騒動

・相次ぐ異国船の来航

目 次   

 

第一章●奥郷庄内谷 3

 

西郷隆盛の西南戦争に加担し、遂には新政府によって断罪された後

藤純平は、由布市庄内の草深い寒村の生まれである。一揆を指導して

牢につながれ、出獄したのちは代言人を生業とした。だが、ほどなく

自由民権を標榜する増田宋太郎の中津隊に加わって自らの義を貫いた

その生き方は、文字通りの志士のそれであった。しかし、増田の名前

は知られても後藤純平の名前は知られていない。それは増田が西郷と

ともに鹿児島の城山で討ち死にしたのに対して、後藤が政府軍に捕

まって斬首され、永く逆賊扱いされてその名前さえ口にすることが憚

られてきたからかもしれない。

 

本書はその後藤純平に焦点を当てながら、幕末から明治初年にかけ

ての大分県の混沌とした社会情勢を題材にした。もとより薩摩や長州

と違って小藩に分かれて維新回天の主役となり得なかった豊前豊後の

各藩は、時代の推移を見極められず、時には周章狼狽し、時には日和

見を決め込んだ。その間、急激な社会の変化による歪みは民衆、とり

わけ農民の上に降りかかり、その憤懣は各地で一揆の形となって噴出

した。本書ではそのすべてを取り上げることはできなかったが、主要

なものについて後藤純平とのかかわりにおいて概略を記した。

 

後藤純平の名は一揆および中津隊に関する資料に散見するが、薩摩

藩家老小松帯刀の縁で京に上り、開明派の公家沢宣嘉の従者として長

崎に下ったという点は、故立川輝信氏の「大分郡庄内が生んだ志士後

藤純平」(『大分県地方史』創刊号所収)に依拠した。立川氏は後藤純

平の縁続きにあり、何らかの資料に基づいて書いたものと思われる。

 

      

 

著 

二〇〇六年三月

はじめに   

 

第一章●奥郷庄内谷 4

第一章 奥郷庄内谷

第一章●奥郷庄内谷 5

 

後藤純平は嘉永三年(一八五〇)三月十六日、豊後国大分郡

上淵村、つまり現在の大分県由布市庄内の上渕地区に生まれた。

父親は亀之助またの名は多一、母はチカと言った。亀之助は伯

楽(獣医)だったと伝えられているが、この当時、多少医術の

心得がある者は牛馬に限らず村人たちの病気の治療もしていた

ことだろう。むしろそちらの方が本業だったかもしれない。チ

カは西庄内の光林寺住職奈須諦円の姉である。

 

後藤純平の生まれた由布市庄内は大分県の中部にあり、湯布

院に源を発して東流し、別府湾に流れ込む大分川の上中流域で

ある。上渕地区つまりかつての上淵村は、この大分川が深く

刻む庄内谷右岸の山肌にへばりつくようにある。背後に標高

八〇四・九メートルの熊群山と九五八・三メートルの時山がそび

えていて平地に乏しく、人々は古くから山麓一帯を開墾して畑

地に変え、あるいは井路を開鑿して棚田に作り変えて農業を営

み続けてきた。今でこそ圃場整備された美しい棚田に稲が豊か

な実りをみせているが、かつては旱魃による飢饉に苦しむ生活

だった。

 

この庄内谷の低地に今は国道二一〇号線が走り、ほぼ平行し

てJR九州の久大線が通じている。後藤純平の生家はこの庄内

谷を見下ろす山肌の中腹に、つい十数年ほど前までその姿を留

めていたのだが、今は取り壊されてしまった。残された写真を

見ると大きな茅葺の入母屋作りの家で、永年の風雪に耐えてき

た農家の佇まいである。しかも背後に茂る巨木の屋敷森が旧家

豊後国大分郡上淵村

第一章●奥郷庄内谷 6

の面影をさらに色濃くしている。いまはその家屋は取り払われ、

よそから移り住んできた人の手によって新しい家が建てられて

いるが、背後の屋敷森はなおいっそう青々と生い茂っている。

  

 

上淵村を初めとする現在の由布市庄内一帯は、律令時代は阿

南郷に属し、荘園時代は豊後一宮由原社つまり現在の柞原八幡

宮の神領だった。そして中世になると大友氏の支配するところ

となった。だが、第二十二代大友吉統が朝鮮出兵中の非違をと

がめられ、文禄二年(一五九三)、豊臣秀吉の怒りにふれて豊

後国を召し上げられると、その支配を離れた。

 

四年あまり太閤蔵入地(秀吉の直轄地)として代官の支配を

受けた後、慶長二年(一五九七)に臼杵の福原直高が府内つま

り今の大分の地に入封すると、上淵村を含む大分郡もその所領

となった。直高は秀吉の家老石田三成の妹婿で、六万石から

十二万石への加増である。直高は秀吉の命により府内の地に築

城を開始し、二年後に完成する。これが今も城跡の残る府内城

で、荷揚城あるいは白雉城とも呼ばれた。

 

だが、直高がこの府内城に在城したのはわずか一カ月に過ぎ

なかった。徳川家康によって没収されたのである。以後、府内

藩の領主は五十年余り短期間で交替する。すなわち直高の後、

慶長四年(一五九九)に木付(杵築)から二万石で入封してき

た早川長敏が関ヶ原の戦いで西軍についたため一年有余で除国

となり、慶長六年(一六〇一)に竹中重利が転封してくる。だ

大友氏の所領から府内藩領へ

第一章●奥郷庄内谷 7

が、この竹中氏も寛永十一年(一六三四)、第二代重義の時に

藩主の座を追われる。その後に入封してきた日根野氏も明暦二

年(一六五六)にお家断絶となった。

 

そして二年後の万治元年(一六五八)、松平忠昭が入封して

からようやく安定する。松平氏の本姓は氏で、いわゆる十八松

平の一族で徳川家に連なる名家である。三河国加茂郡大給(現

由布市庄内町

第一章●奥郷庄内谷 8

愛知県豊田市)地方を領したことから大給氏を名乗るように

なった。この松平氏は以後十代にわたって続き、明治維新を迎

える。

 

ただし後藤の生まれた上淵村と中淵、直野内山、奈良田、瓜

生田、下田向の六村はこの間の延宝四年(一六七六)、松平忠

昭が長子の近陣に家督を譲った際、弟の近鎮に千五百石分とし

て分知した。分知とは嫡子以外の庶子に領地の一部を分け与え

ることである。このうち上淵村だけは相給村、つまり村内が府

内藩領と分知領(采地)とに分かれていた。分知領は各種帳簿

類は本藩領と別だったが、年貢徴収その他の施政は本藩と同様

に行われた。領民たちはこうした二重支配ゆえの過重な負担に

苦しむことが多かった。

 

府内藩の領内の支配方式は一般に「一町三郷制」と言われた。

一町とは府内城下のことで、三郷とは在方つまり農村部のこと

である。三つの農村部は城下に近い方から里郷、中郷、奥郷と

呼ばれ、今の庄内全域は奥郷に属していた。各郷には代官がお

り、その下に手代二人が配され、村組ごとに大庄屋が一人、各

村に庄屋と組頭が任命されて村行政に当たった。

 

奥郷には三十七カ村あり、蛇口組(武宮組)、橋爪組、野畑

組の三組に分かれ、それぞれ大庄屋が置かれて各村庄屋を通じ

て村人を支配していた。分知領との相給村であった上淵村は野

畑組の支配下にあった。

 

もっとも庄内谷は府内領あるいはその分知領だけではなかっ

た。幕府領の長野村や日向延岡領の蓑草村と龍原村、肥後熊本

領の大龍村と五箇瀬村などがあった。ちなみに阿蘇野地区は昭

第一章●奥郷庄内谷 9

和二十五年(

一九五〇)

に大分郡に編入されるまでは直入郡で、

藩政時代は竹田の岡藩の領地だった。

 

こうした幾つもの藩の領地が複雑に入り組んで隣接していた

ことが、後藤の生きた幕末から明治初年にかけての動乱期に、

大きな時代のうねりへの対応に微妙なずれが生じ、村人たちを

混迷の渦に巻き込むのである。そしてそれは何よりも若き後藤

純平の運命を大きく変えることになる。

  

 

庄内谷は中央部を大分川が流れているにもかかわらず、その

谷があまりに深いため直接流水を汲み上げて灌漑に利用するこ

とは難しかった。

 

このため河岸段丘上にできた村々の多くが「日損所」と呼ば

れる旱魃(

かんばつ)

常襲地帯だった。歴代領主は日損所を解

消して石高を増やそうと、古くから大分川の支流の河川を水源

とする井路の開鑿に力を入れてきた。

 

慶安元年(一六四八)、当時の府内藩主日根野吉明は花合野

川を水源として幕府領の速見郡畑村(現在の由布市湯布院)か

ら小平村(同)に至る小平井手を堀り替えて上淵本井手と名づ

け、奥郷まで水を引いた。この井手から灌漑用水をもらう村々

は畑、小平両村に井手料を払っていた。例えば下上淵村の場合、

畑村に毎年二斗二升二合、小平村に一石を払っている。

 

同じ年、日根野は蛇口村東長宝と柿原村に新井手を掘り、そ

れぞれ長宝水、永宝水と命名して五福村などに通水した。長宝

旱魃常襲地帯

第一章●奥郷庄内谷 10

水は小狭間川、永宝水は阿蘇野川を水源としていた。さらに三

年後、大友吉統が天正十一年(一五八三)に築造を始めた由布

川水系の国井手(小狭間井手、初瀬井路)の取水口が小さかっ

たため、木に新たな取水口を設けた。こうした灌漑用水の整備

に力を入れた日根野は農民たちの尊崇を集め、五福神社に祭ら

れるところとなった。

 

こうした灌漑用水の開鑿は府内藩主が次々に交替した後も続

けられた。むしろ水田稲作が社会的生産の根幹となるにつれて

ますます盛んになったと言える。特に元禄年間(一六八八~

一七〇四)には武宮井路(五カ村井路)、海老毛井路、向原新井路、

小狭間新井路など六本の井路が掘られ、宝永年間(一七〇四~

一七一一)や享保年間(一七一六~一七三六)にも何本かの井

路が開発された。

 

こうした井路の開鑿にもかかわらず、稲作が十分にできない

ところが多く、人々の暮らしは相変わらず苦しかった。文化六

年(一八〇九)、上淵村などを支配する野畑組大庄屋らは、府

内藩の井手奉行に取水のための堤の新築を願い出たが、許可が

下りなかった。仕方なく領民たちは密かに工事に着手、藩はや

むを得ずこれを認め、人夫二千人を手当てし、町組、里郷、中

郷、奥郷の四郷割りによる普請事業に乗り出した。

 

だが、こうした永年にわたる灌漑用水開鑿の努力にもかかわ

らず、領民たちは恒常的に米の不作に泣き、一方で過酷な年貢

の取り立てを強いられて悲惨な生活を余儀なくされていた。特

に旱魃や風雨洪水、病虫害などによる不作の年は深刻な飢饉に

襲われた。

第一章●奥郷庄内谷 11

  

 

江戸時代の三大飢饉の一つ享保の大飢饉は西日本一帯に深刻

な打撃を与えた。享保十七年(一七三二)は春先から異常低温

の日々が続き、稲苗が成長期を迎える六、七月ごろからウンカ

が猛威を振るい始めた。府内藩も例外ではなく庄内谷でも予想

をはるかに上回る被害が出そうな雲行きとなった。(『府内藩日

記』に「田方虫気強御座候」との記述がある)だが農薬など科

学的な防除方法を知らなかった当時は、せいぜい寺院に依頼し

て虫払いの祈祷をしてもらうか、笛や太鼓をたたいて「虫追い」

をするぐらいしか方法はなかった。

 

秋の取り入れはまさに壊滅的な状況で、わずかに例年の三分

の一から五分の一の石高しか得られず、藩財政を大きく揺るが

した。冬が近づくと町や村には飢えに苦しむ人々が現れ、藩で

は扶食米と呼ぶ救助用の米を支給した。しかし、それだけでは

到底飢えを凌ぐことはできず、人々は葛根や蕨根をはじめ木の

実や植物などおよそ口に入れられるあらゆるものを食して命を

つなごうとした。

 

年が明けて享保十八年(一七三三)になると事態はますます

深刻になり、一番飢え人から四番飢え人まで出ている。そして

中には命を落とす者もいた。餓死というよりも栄養失調による

体力の衰弱で余病を併発したのである。

 

数年間にわたり断続的に繰り返された天明年間(一七八一~

一七八九)の飢饉は東日本を中心にしたものだったが、被害は

全国に及んだ。府内藩では天明元年(一七八一)に旱魃、翌二

飢饉と災害

第一章●奥郷庄内谷 12

年は逆に二度の大洪水、三年も三回の大洪水に見舞われ、凶作

続きだった。同六年(一七八六)はさらに深刻で、ウンカの大

発生と風雨洪水で約一万五千石の被害、翌七年も風雨洪水と虫

害で約七千石の被害を出したと伝えられている。

 

さらに冷害と多雨、風雨洪水が重なった天保七年(一八三六)

の飢饉は、奥郷つまり現在の由布市庄内一帯で稲の実りが悪く、

人々に深刻な飢えをもたらした。この年の十二月、上淵村は藩

に次のような嘆願書を提出し、借米の支給を願い出た。

 「秋頃から掘根をしたり、木の実や萱の実を取ったりして今

日まで過ごしてきましたが、もはやそうした食物も雪に埋もれ

てなく、田畑の手入れもかないません」

 

しかし、藩は財政難を理由にこれを退け、翌年夏になって二

石あまりの飢飯料を支給しただけだった。

 

こうした特別に深刻な飢饉だけでなく、江戸時代はほぼ恒常

的に飢えが人々を襲い続けた。その多くが台風などによる風雨

洪水や虫害であり、時に旱魃や冷害が襲った。

  

 

山裾の不十分な灌漑用水では水田で満足に米ができず、旱魃

や洪水で飢饉が頻発。その一方で厳しい年貢の取り立てに合い、

農民たちの生活は悲惨この上ないものだった。何らの権力を持

たない無力な農民たちも、時には命がけで支配者側に自分たち

の窮状を訴え、徒党を組んで事態の打開を求めた。その形態は

一揆、強訴、逃散、騒動、出入りとさまざまである。後藤純平

一揆と騒動

第一章●奥郷庄内谷 13

の生まれた上淵村を含む府内藩奥郷でも江戸時代を通じて幾度

となく、そうした苦しみにあえぐ農民たちのやむにやまれぬ為

政者への戦いが起きている。

 

宝永七年(一七一〇)十二月、武宮、橋爪両組の農民約千人

が府内城下の光西寺と来迎寺に泊り込み、藩に対して二十七カ

条の訴状を提出した。後に言う「宝永の強訴」である。そのす

べての内容は不明だが、「府内藩日記」に五カ条だけが記され

ている。それは田畑が不作なので、未進(拝借)米の上納を翌

年暮れまで無利子延期や竹木切り出し公役の助夫への扶持米支

給、薪不足のための松葉の支給、山方支配の復旧、年貢率の引

き下げ、などだった。これに対して藩はことごとく拒否しただ

けでなく、首謀者である橋爪村の文吉を入牢させた。農民たち

の結党の弱さを見透かされたのである。

 

享保十一年(一七二六)十二月には橋爪組宗寿寺村で村方出

入りが発生している。村方出入りとは村内の対立のことである。

宗寿寺村の場合、農民たちが生活困窮しているにもかかわらず、

庄屋の太郎右衛門が数々の難儀を押し付けるのでお役御免にす

るよう、二回にわたって藩に口上書を提出したのである。難儀

の中味は庄屋が自分の山や茶畑を各所にこしらえて農民に牛馬

さえつながせない、とか、旱魃の時に自分の田地にだけ水を引

き、農民を日枯れに苦しませた、井手普請に用銀を取った、自

分の田地に水を引くのに農民の畑地内に井手をつくった、など

だった。藩では庄屋の太郎右衛門と大庄屋の弥五右衛門を呼び

出して返答書を出させ、双方の言い分を吟味したが、結局、農

民たちの言い分は通らなかった。

第一章●奥郷庄内谷 14

 

宝暦二年(一七五二)二月、ほかならぬ上淵村など分知領六

カ村で不穏な動きが起きた。この年、六カ村に御用金の賦課と

無尽(頼母子)の積立てが命じられたが、農民たちはそれでな

くとも困窮しており、このうえ御用金の負担を強いられては分

知領で暮らしていけない、と寄合いを持って相談し、他領に逃

散する覚悟で本藩復帰を願い出ようとする動きを見せたのであ

る。

 

不測の事態を懸念した府内藩は説得工作の一方で、逃散すれ

ば首謀者を打ち首獄門にすると脅し、村役人たちを召還し吟味

した。結局、御用金の賦課は中止となり、上淵、中淵、下田向

の組頭三人は役儀取り上げ、各村庄屋も罵りや追い込みなど比

較的軽い処罰となった。

 

文化八年(一八一一)十一月、岡藩に端を発した農民一揆は

臼杵藩や佐伯藩、幕府領など隣接する諸藩へ燎原の火の如く広

がった。もちろん府内藩も例外でなく、奥郷つまり庄内谷の村々

をも巻き込んだ。世に言う「文化の大一揆」である。

 

一カ月後の十二月、野畑村の農民三十人あまりが府内城下に

出て「困窮にて越年なり難し」として藩に拝借銀を願い出た。

農民たちは庄屋に借用銀の返済繰り延べや利息の割り引き、小

作米の引き下げなどを求めて交渉したが、埒があかないため、

藩に訴え出たのである。だが、これを認めると他に同じような

動きが起きると心配した藩はこれを認めなかった。

 

年を越すと農民たちは不穏な動きを始めた。庄屋の貸し付け

の利息が増えおり、質地の小作米も高いので引き下げないと打

ち壊す、と野山に集まって評定し始めた。知らせを受けた藩は

第一章●奥郷庄内谷 15

役人を派遣して農民をなだめ、一部の運上金の免除を匂わせた。

しかし、それは実行されなかったうえ、首謀者とおぼしき五人

の農民を捕らえたため、農民たちの騒動が再燃し、大挙して城

下に押しかけようとした。だが、このときも藩はその場を取り

繕ってなんらの策を講じなかった。

 

二度もだまされた農民たちの怒りはいよいよ高まり、二月に

入るとあっちこっちに集まって何事か打ち合わせを始めた。こ

れを察知した藩は先手を打つ形で橋爪組と野畑組の大庄屋を罷

免し、村役人の役儀を取り上げたため、農民たちの怒りは鎮静

化した。七月になって、捕らえられていた五人の農民のうち四

人までが釈放されたが、首謀者である野畑村の伴(律)右衛門

だけが処刑された。伴右衛門は首を刎ねられる前、煙草を二服

した後、次のような辞世の句をしたためたという。

 

かみたてるしもにくもりの晴ならで

                

おほつかなきも長の旅立

 

ふみ月のすへの六日そらはれて(とらわれて)

              

こころにさわるうき雲もなし

 

此世こそ千々にさまよう人心  

弥陀の御国に迷う道なし

 

この「文化の大一揆」から八、九年たった文政三年(一八二〇)、

府内藩で「さんない騒動」が起きている。さんないとは「参内」

のことと思われ、農民が年二回田植えと稲刈りの時分に庄屋宅

第一章●奥郷庄内谷 16

の労役奉仕をすることで、一軒二役(年二人役になる)の義務

だった。

 

庄屋たちにとっては「役料同然」の大きな特権となっていた

が、農民たちにとっては逆に過大な負担であった。このため「文

化の大一揆」の時、農民の訴えによって廃止され、相対雇いつ

まり互いの合意に基づいて雇うようになった。

 

特権が失われて不利益をこうむるようになった庄屋たちは、

文政三年になってその復旧を藩に願い出て、十一月に庄屋は年

二回、大庄屋は年一回のさんないが認められた。翌文政四年

(一八二一)、庄屋たちが農民を使役にかり出したことから不穏

な動きが始まった。橋爪組の農民が、使役の方法が「去年仰せ

付けられ」たものと違うとして「大勢申合」て、「御城下へ罷出、

御家中へも入込、越訴同様」の振る舞いをした。

 

藩は五月になって橋爪組の大庄屋と小庄屋を呼んで「さんな

い召仕方」に心得違いがあった、として「押込」(謹慎)処分にし、

今後は貧窮者や独り者は除外すること、田植えと稲刈り以外の

使用に農民を使ってはいけないこと、さんないのかわりに銀札

を取り立ててはならないこと、必要な人数のみを差し障りのな

い者に頼むこと、など厳格な召仕方を申し付けた。

 

庄屋たちの「押込」は一週間で解除となったが、その直後、

藩は城下に訴え出た農民たちの首謀者の処分に乗り出し、宗寿

寺村の礒右衛門ら三人を入牢、二人を縄手鎖押込、六人を押込

にした。そして、「徒党強訴は天下一統の御法度」であるとして、

今後そのようなことをした場合にはたとえそれが理にかなった

ものでも取り上げない、と厳しく申し付けた。

第一章●奥郷庄内谷 17

 

後藤純平が生まれた嘉永三年(一八五〇)という年は、ペリー

が浦賀に来航する三年前である。このペリーの来航は、永年、

鎖国によって太平の世をむさぼっていたわが国を突如として混

乱の渦に巻き込んだ。しかし、わが国の近海には既に何年も前

から異国船が頻繁に姿を見せるようになっていた。イギリス、

フランス、ロシア、そしてアメリカなど欧米列強は、通商と薪

水を求めてアジア諸国と接触。やがて武力を背景に開国を迫り、

植民地化していった。そうした「国際化」の波がついに東の果

ての日本にも迫ってきたのである。

 

わが国近海に異国船がしきりとやってくるようになったのは

十八世紀終わりごろからである。それまでの幕府の方針はいか

なる場合でも異国船は長崎に送る、というものだったが、寛政

四年(一七九二)にロシアの使節ラクスマンが根室に現れると

海防対策を講じ、諸藩に防備を徹底させた。そして三年後の寛

政七年(一七九五)、中国、九州の諸藩にできるだけ穏便に取

り扱うよう触書を出した。文化三年(一八〇六)、薪や水を与

えて穏便に帰すように、との布達(「文化の」)を出した。

 

しかし、文政八年(一八二五)になると方針を変更して「異

国船打払令」「無二念打払令」を出した。それは船籍、船種

の如何を問わず、海岸に近づく異国船は見つけしだい打ち払

え、という厳しい方針だった。それから十二年後の天保八年

(一八三七)、日本人漂流民を乗せて浦賀沖に現れたアメリカの

貿易船モリソン号を実際に砲撃する騒ぎが起きた。

相次ぐ異国船の来航

第一章●奥郷庄内谷 18

 

だが、もはやそうした強

硬姿勢だけでは通じない情

勢であることがわかって

きた幕府は、天保十三年

(一八四二)、再び方針を変

更し、薪や水、食糧などを

与えて穏やかに帰すように

命じた。アヘン戦争で隣の

清国がイギリスに敗北し、

次は日本が目標にされる、

とオランダ船から情報がも

たらされたため緩和策に転

じたのである。

 

その後、異国船の来航は

ますます頻繁になった。弘

化三年(一八四六)にはア

メリカ東インド艦隊が浦賀

にやってきて通商を求め、

その後も北海道など北日本

一帯の沿岸に異国船が現れ

たり、捕鯨船を脱走した乗

組員が上陸する事件がしき

りに起きた。幕府は大砲の

鋳造を研究したり、諸藩に

命じて沿岸の地形を調べて

異国船の来航で、海防強化が求められた

第一章●奥郷庄内谷 19

報告させたり、砲台を築いて防備を固めさせた。

 

豊後の地では臼杵藩が文化五年(一八〇八)に撫恤令を受

けて「異国船領分中漂着はかりがたし」ということから、長

目浦の岬に大砲二十門を据えて警戒を強めた。また嘉永二年

(一八四九)つまり後藤純平が生まれる前年、海岸の水深を測っ

て「

海岸深浅図」を幕府に提出している。この間の文政九年

(一八二六年)、海防上重要な地である豊予海峡に面した佐賀関

には肥後藩によって「郡筒」という銃卒(鉄砲隊)二十人が配

置された。

 

こうした異国船をめぐる動きはペリーの来航前後からますま

す激しくなり、世情が混乱し幕藩体制は大きく揺らぎ始めた。

後藤純平が生まれたのは、まさにわが国が攘夷か開国かをめ

ぐって未曾有の動乱期に突入しようとする時期だった。

第一章●奥郷庄内谷 20

 オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社と学校法

人別府大学が、大分の文化振興の一助となることを願っ

て立ち上げたインターネット活用プロジェクト「NAN-

NAN(なんなん)」の一環です。

 NAN-NAN では、大分の文化と歴史を伝承していくう

えで重要な、さまざまな文書や資料をデジタル化して公

開します。そして、読者からの指摘・追加情報を受けな

がら逐次、改訂して充実発展を図っていきたいと願って

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◇著者略歴◇

清原

芳治(きよはら

よしはる)

 

一九四八年、大分県東国東郡

安岐町生まれ。

 

大分県立杵築高校卒業。大阪

外国語大学外国語部卒業。大分

合同新聞入社。現在大分合同新

聞文化センター出版編集委員。

デジタル版「草莽の志士 後藤純平 ―大分県の幕末維新騒乱―」 第一章●奥郷庄内谷

2008 年5月2日初版発行

著者 清原 芳治

原著 2006 年 3 月 15 日発行/発行:大分合同新聞社/発売:大分合同新聞社文化センター/印刷:インタープリンツ

《デジタル版》編集 大分合同新聞社

制作 別府大学メディア教育・研究センター 地域連携部

発行 NAN-NAN 事務局 (〒 870-8605 大分市府内町 3-9-15 大分合同新聞社 総合企画部内)

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