c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web...

57
台台台台台台台 ~~ 台台 2011/03/102011/03/14 台台台台台台台台 台台 1

Transcript of c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web...

Page 1: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾合宿報告書~私たちが伝えるべき台湾の歴史と台湾の今~

日程 2011/03/10~2011/03/14

中央大学経済学部

中川洋一郎ゼミ1

Page 2: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

私たちの台湾についての知識は、ほとんどがゼミでの学習した一年間のものだけです。出発前は、その知識不足からくる不安、台湾に行き、実際には何を学びとることができるのだろうと感じていました。しかし、一人一人がテーマを持ち、台湾の人々に聞きたかったこと、台湾に対する知識の曖昧な部分など、各自、解消して日本に帰ってくることができました。また同時に、台湾のたくさんの気持ちをもちかえってきました。これからのわたしたちには、その気持ちをどのように受け止め、どのように伝え、どのように行動していくのかが大切です。台湾への興味・疑問は、尽きることはありません。一生、勉強です。

台湾合宿の感想としてゼミのみんなが口をそろえて言うことは、「もう一度、台湾に行きたい」でしょう。

台湾には、僕らの行った台北市以外にもたくさんの町や村があります。ぜひ訪れてみたいです。なぜ、また台湾に行きたいのかという一番の理由は、やっぱり私たちを歓迎してくれたことです。私たちは、台湾を学びに来た生徒という立場であるのにもかかわらず、ほんとに台湾を満喫させてもらいました。台湾で出会った人々はみな、「日本人が大好き」といってくれます。ありがとうございます。この言葉は、私たちが国際社会の中で生きるための勇気をくれました。日本人としての誇りを持って、発言・行動ができます。

だから、私たちも言いたいです。「台湾人が大好きです。」

この合宿でお世話になった方々、本当にありがとうございました!また、お会いできる日を、心より楽しみにしております。

2

Page 3: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

目次友愛グループの方々との交流会・・・・・・・・・p.408B2127009K伊東 佑実09B3131006C佐々木 奈美09B3137012D中嶋 理英子09B4145004B小川 由貴09B4146010E関 美香子09B1101021J柴野 真行09B1107014D飛騨 新馬09B1112028E小川 賢一09B2121032E田中 俊09B3131019J手島 歩09B3134023C荒井 孝介09B3135018F佐野 裕人09B3138005K冨澤 健人09B4141013L古賀 大道09B4143032D佐藤 健悟09B4145009C菊池 匠

各自の研究テーマの報告・・・・・・・・・・p.39

3

Page 4: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

友愛グループの方々との交流会

4

Page 5: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

伊東 佑実08B2127009K

Ⅰ.友愛グループ(You and I group)とは友愛グループとは、“美しくて正しい日本語を台湾に残す”ための文化運動をおこなっている団体であり、現在、その会員は百人を超える。活動形態は、毎月第三土曜日に勉強会を開催し、日本語によるスピーチ発表会や日本語の歌を合唱するといった活動がおこなわれている。

Ⅱ.インタビューした人物私がインタビューした方は、呂 張 淑娥(ロ・チョウ・シュクガ)さんという、非常に上品な女性で、昭和8年(西暦1933年)に生まれ、公学校卒業後(6年間)は、高等女学校(4年間)に入学。現在でも日本食を愛し、日本料理店には頻繁に足を運んでいる。交流会当日に昼食で頂いたお弁当は、彼女の御用達のお店で購入したものだった。ちなみに、70歳を過ぎても健康な体を維持する秘訣は趣味のゴルフであり、一人でも身体を動かせることから、40年以上続けているとのこと。

Ⅲ.インタビュー内容a. 日本統治時代の教育形態日本人と台湾人の通う学校は別々であり、日本人には小学校や中学校を設け、台湾人には公学校の1つだけだった。しかし、台湾人でも極僅かな人数の児童が小学校に入学できたが、そのためにはコネが必要であった。公学校では、1年生から日本語を習い始め、カタカナ、ひらがな、漢字の順で習得していく。勿論、共通言語は全て日本語のため、台湾語の使用は禁じられていた。また、教科書に関しては、日本人の物と内容が違い、歴史に関しては、日本や天皇の贔屓が強く出ていた。毎日、10分程度の朝礼もあり、国家斉唱や国旗掲揚をし、教員の訓示等が行われ、日本人としての自覚を持たせる内容だった。公学校の教員は、ほとんどが日本から派遣された日本人教師であり、日本語しか話せない。これに対し、台湾人教師は全体の1~2割程度だが、台湾語と日本語の両方を理解できるため、日本語未習得の児童の対応ができる利点があった。公学校卒業した女子児童の進学先は、4年制の高等女学校があるが、進学できる割合は3人に1人程度だったという。その後は、就職か結婚をする学生がほとんどでああった。男子児童の場合は、公学校卒業後、4年制の高等中学校へ進学し、さらに優秀な学生は台湾大学へ進学する。男性には台湾に大学があるが、女性が大学へ進学するためには、本島へ行かなければならなかった。b. 台湾人に与えられた職業

5

Page 6: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾人の就職状況に関しては、医者、商業、農業の職に就く者が多く、その背景としては、これらの職業であれば、台湾人が政治介入することができないためだという。他にも、学校や銀行に勤める人も多く、特に教師はなりやすい上に、戦争に徴収されることもなかったため、人気職だった。c.日本統治時代のメリット、デメリットメリットは、修身の授業の存在だったという。修身とは、日本の道徳やマナーを学ぶ授業であり、公学校1年生から習い始める。教科書は使わず、教材は教師自身であり、内容は教師によって異なるが、現在でも心に残る言葉がいくつもあると話していた。中でも、特に印象深いものは、“お金はある時に貯めなさい”という言葉だった。当時の台湾の初任給は、35円という時代で、生活するには少々厳しい額であるため、少しでも蓄えられる時は、使わず貯めていたという。日本統治でなくなっても、この言葉を大切にしていた呂さんは、子供にも同じように教えたと話していた。現在の台湾の教育カリキュラムに修身はないが、この修身こそ、現代の若者に必要だと呂さんは感じているという。デメリットは、台湾が日本の植民地となったため、台湾人としての生活が失われ、文化や言語が抑制・禁止されてしまったことだった。

※メリットと比べて、デメリットが極端に少ないのは、時間の関係で詳しく聞くことができなかったためであり、デメリットがほとんどなかった訳ではない。d.戦後の台湾戦後、日本が台湾から撤退したことにより、ようやく台湾人としての生活ができると考えていた矢先、外省人が侵入してくる。これまで日本語を共通言語に強制されてきた台湾人は、今度は中国語を強制されることとなったが、日本統治時代の頃のような、学習形態はなかったという。また、外省人の侵入により、治安は乱れ、公衆衛生も酷くなる一方だった。日本統治時代は、刑罰が非常に厳しく、犯罪率もかなり低かったため、鍵を掛けて出掛けることが少なかったと話す。e.感想過去に起こったことを、その場にいた人々は何を感じたのか、ということを知る術は、大半が間接的な情報に頼るしかない。授業や教科書を通して、日本統治時代が台湾人にとって、どのような物だったかをある程度想像することはできても、当時を生きた人間の心情を把握することは不可能である。だからこそ、今回、体験者と直接言葉を交わし、過去の事象を直接聞けることは、本当の意味で、知ったことになり、これは大変貴重な経験だったと思う。また、日本統治時代に対して、メリットだけでなく、数多くのデメリットを感じていながらも、日本という国を尊敬し、愛してくれていることが、日本人としてとても嬉しかった。しかし同時に、彼女らの心に残る日本人像を否定するような日本人であってはならいな、とも感じた。それは、時代ごとに多少の

6

Page 7: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

変化はあっても、“日本人らしさ”は存在し、その本質を知っているのは、現代の日本人(若者)よりも、日本統治時代で生まれ育った台湾人の方かもしれない、と思ったからだ。日本は、海外から愛国心の薄い国と言われているため、もっと一人ひとりが日本人として自信を持っても良いのではないかと思った。

7

Page 8: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

佐々木 奈美09B3131006C

私は張さんとお話をさせていただきました。張さんは現在友愛会の中でも若い方だそうです。それでも73歳とおっしゃっていました。張さんは台湾の高等裁判所で裁判官をなさっていました。70歳で定年退職をなさって今は大学で法律の講義をしてます。日本でも定年退職後に大学で講師として講義をする人は多いですがそれは台湾でも同じだそうです。張さんは他の友愛会のメンバーとは違って幼いころに日本で日本語を学んだわけではないそうです。というのは張さんは戦中日本の小学校に4月、1年生として入学しましたがその約5ヶ月後の8月に終戦を迎えます。そのため日本の小学校にいたのはたったの4カ月間でした。そのためあまり記憶にないそうです。わたしも小学校1年生のときの記憶は全くないので無理はないな、と思いました。その上張さんが入学したころは戦争真っ只中です。そのためろくに学校も行けなかったそうです。このような状態でしたから日本語は全く習得せずに戦後、台湾へ帰国しました。しかし、私が張さんとお話をしたとき、張さんはとても上手な日本語を話していらっしゃいました。なぜかと言うと張さんは大学で第二外国語として日本語を学んでいたからだそうです。第二外国語で日本語を話せるようになるなんてすごいと思いました。そして張さんは大学では法学を専攻していたのですが大学をでてから裁判官になりました。裁判官になってから張さんは日本の一橋大学に派遣されます。そこでさらに日本語を習得されたそうです。張さんは今でも国立のきれいなイチョウ並木を思い出すと語ってくださいました。わたしも国立出身なのでとても親近感がわきました。次に張さんには台湾についていろいろ教えていただきました。まず日本統治下の台湾とその後の影響についてです。日本統治下の時代、鉄道、港、ダムなどが建設され台湾国内が大変整備されたそうです。この建設には東京大学の土木工学科の学生が携わっていたそうです。このダム建設によって台湾では農業ができるようになり、それが今現在の台湾につながっていると言われています。そして日本統治下時代に建てられた様々な建造物は今でも多く残っています。そして終戦を迎え100万人を越える外省人が台湾にやってきます。外省人とは戦後台湾に来た中国人のことを言います。それに対して元々台湾にいた人を本省人と呼びます。それから日本語、台湾語が禁止され、中国語が強要されるようになります。日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主主義を達成できているのはせいぜい20年だと言われています。そのため台湾人に比べて日本人は幸せだ、と張さんは語っています。このように日本は日本統治下でいいことをしているのだから自信

8

Page 9: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

を持つべきだと言ってくださいました。今の世界史は中国側の立場から教えてしまっています。そのため間違っています。統治されていた台湾側の立場から教えなくてはなりません。日本がしたことはいいことばかりなのです。その言葉を聞いて私は日本人であるということに誇りをもっと持とうと思いました。そして現代の台湾についてです。現在台湾人の中には先ほど書いた外省人が13%、本省人が87%いると張さんは教えてくださいました。外省人はもちろん親日的ではありません。そのため台湾は完全なる親日国家ではないといいます。ただ、日本人が過ごしやすいことは間違いありません。台湾では「現状維持」「独立」「中国統一」3つの意見に国内で分かれていると言われています。その中でも一番多いのは意外にも「現状維持」という意見を持った人だそうです。私は独立派が圧倒的に多いと思っていましたのでとても意外でした。それとともに今、台湾はいい国なのだと実感しました。そして張さんは最後に日本は愛国心が薄いと指摘されました。たとえば国歌斉唱を歌わない人をよく見ます。それは間違っているとおっしゃいました。日本人はもっと日本を愛し、そして誇りを持つべきだということが張さんが一番言いたかったことのようでした。

9

Page 10: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

中嶋 理英子09B3137012D

私は友愛グループの陳秀鳳さんにお話を伺いました。5つの項目に分けて詳しく話してくださいました。以下は陳秀鳳さんから聞いた話です。 一つ目は、日本時代について実際の有様はどのようであったか?についてです。陳さんは15歳まで日本教育を受けました。日本の先生のおかげで知識や教養を身に付け立派な大人になれたのでとても感謝しています。日本の統治時代の良かった面は社会が安定し、治安もよく、皆まじめに働いていました。戦時中だったので貧しかったのですが、町は整備され貧しくても心が豊かだったので、「貧しきよき時代」でした。悪かった面はあまりありませんでした。NHKのジャパンデビューについては、やはり不愉快でした。今でも NHKに謝ってもらいたい気持ちであるし、これを見た日本人に内容をまるのみにしてほしくありません。ここで強く言いたいのは、台湾は世界一の親日家であるということです。日本教育を受けた人々の多くは知日で懐日で親日で愛日なので反日派はいません。 二つ目は、戦後の国民党についてです。日本の統治が終わり、戦争が終わったし楽になると天真爛漫に喜びました。しかし中国から国民党が入ってきてがっかりしました。日本兵に比べて中国兵は格好が汚く、横柄でした。そして中国人は台湾人を日本人のように敵視し、独裁政治をして台湾人を圧迫しました。この時代は腐敗し汚職や横領が多く、日本教育時代に「正直であれ」と習ったのに全く正直とはほど遠いものでありました。住民の不満はどんどん高まり、二二八事件につながりました。日本時代の安定した貨幣とは違い四万円が一円の価値しかなくなるというような激しいインフレでした。戒厳令は夜外に出たら殺されるといったようなひどいものでした。 三つ目は、中国人に対して思うこと、経験したことについてです。中国人は嘘つきです。何回でも平気で嘘をつきます。不衛生です。教養もありません。例えば、TPOをわきまえず大きな声で話すし、列には並ばないし、バスの中にはそこら中にゴミを捨てます。裏切りなども平気でするし金があっても中身は空っぽなのです。中国人のことを漢詩で「江山易改、本性難移」本性は変わらないとあらわしているように、信用してはいけないのです。 四つ目は、戦後の台湾経済の発展についてです。台湾は世界一の親日国であり、地理的にも一番近い隣国であり、兄弟みたいな間柄なので共存共栄したいのです。これまで日本が台湾に技術提供をし、台湾は日本に労力を提供しお互いに助け合って経済復興してきたようにこれからも運命共同体として生きていきたいです。 五つ目は、若い日本人はこれから東アジアの中でどのように生きていくべきなのか?についてです。日本人にはもっと台湾を認識し理解してもらいたいです。これからの時代を生きる日本の若い人には、もっと台湾のことを勉強し両国の平和と発

10

Page 11: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

展のために貢献してもらいたいです。 将来台湾が独立するなら、日本の琉球と一緒になりたいというのが陳さんの願望です。また陳さんは中国をたおして日本人になりたいとおっしゃっていました。 また、陳さんとの会話の中で印象深かったのが「色々な言葉を学びなさい。言葉はひとつできるごとにどんどん道が開けていくのだから。それに友達も言葉と同じで一人友達が増えるごとに新たな道が開けてくるから多ければ多いほどよいのです。」という言葉です。その通りだろうと思ったし、陳さんのように何カ国も旅をして私の何倍も人生を長く経験した方のおっしゃることだから説得力がありました。「色々な国に旅をしなさい。たくさんの人と出会えるし、どの国にも長所や短所があり、他国の欠点を見て自国のことを考え学ぶことができるのだから。」という言葉もなるほどと思いました。 私は陳さんとの会話の中で、台湾人の日本教育を受けた人々が日本をどれほど愛してくれているのかを強く感じました。また、なぜ日本人のことをそんなに愛してくれているかも生の声で聞きとても心に残りました。私たち日本人はこれほど台湾人に愛されているのに、その現状を知らない人が多く、また知ろうともしていないのはとても失礼なことだと思いました。日本で少しは勉強して行きましたが、台湾の方との交流でますます知識が深められたし、もっと日本の若者は台湾のことを勉強し、知り、理解しなければならないと感じました。このように感じるようになったのは台湾の方たちと会話して、今の私たち日本人の台湾に対する知識の薄さを自覚することができたからだと思います。

11

Page 12: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

小川 由貴09B4145004B

黄秀英さん「教師の使命は生徒の良いところを早く見つけて伸ばし、成功させること」

平成 23年 3月 12日、中川ゼミ台湾研修のプログラムの一つとして、台湾の元日本人の方々で構成される友愛グループとの交流会が行われた。交流会では、学生一人と友愛グループの方一人ずつが組になり、交流が行われた。

私は 黄秀英 先生とお話をすることができた。黄先生は台湾の大学生に日本語を教えており、数え年で 85歳になった現在でも交通大学で教鞭を執る。学生たちは黄先生を「ばあちゃん先生」と呼び、「黄先生」とはあまり呼ばないそうだ。黄先生の印象は、「かつての日本の良き先生」そのもので、私にも厳しく、優しく接してくださった。

黄先生は、台湾の歴史とご自身の体験を話してくださった。レジュメまで用意してくださり、わかりやすく教えていただいた。おばあちゃんの話を聞く、というよりは授業を受けるという印象だ。東呉大学の学生も何人か一緒に聞くことになり、私は身が引き締まった。

黄先生は、公学校(台湾人の学校)で学び、自身の先生とともに暮らしていた。そのとき、先生と将来は教師になるという約束をしたそうで、それが教師になった理由だそうだ。黄先生はその約束を守り、60年以上も教師を続けている。当時の学校のことで私が驚いたのは、女学校の試験には体力試験もあったこと、学校の先生も日本刀を持っていたことである。黄先生は私の手を見てこんな手じゃ学校の試験も受からないとおっしゃった。確かにそのとおりだ。

黄先生は終戦前の 2年間は小学校の教師をしており、戦時中は空襲のときには生徒を連れ、防空壕へ避難したこともあったり、アメリカ兵の機関銃掃射を受けたこともあったそうだ。

終戦後も教師を続け、日本教育で受けた良いところを学生に教え、若い世代に伝えている。日本教育について、私は以前からずっと気になっていた修身の授業について伺ったところ、黄先生は「教育勅語」そのままの教育だとおっしゃった。国に忠、親孝行、兄弟愛など、良いことも多かったが、日本の教育の中でも軍国主義だけは絶対

12

Page 13: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

に良くないとおっしゃった。

日本統治時代の台湾の歴史については、まず日本が統治を始めた頃の台湾の実情を教えていただいた。当時の台湾はまだ文化が進んでおらず、わずかな人だけが教育を受けているのにすぎなかった。山地に住む先住民は人の首を狩り先祖を祭る習慣が残っていたり、衛生状態が悪く伝染病が蔓延したりするなど、環境の整備がほとんどされていない状態だった。そこで日本は真っ先に環境衛生にとりかかった。伝染病をなくし、清からもたらされた阿片、纏足などの悪い習慣を取り締まるなど、環境の整備をしてから政治や教育に少しずつとりかかった。

教育についてはまず、元々台湾で使われていた広東語や福建語、先住民の言葉の辞書をつくり、台湾人の言葉を理解してから教育にとりかかったのである。この日本人がつくった辞書は、その後、テキサスで見つかったそうだ。日本はまず現地のことを理解し、それにあった教育、統治をしたようだ。そんな日本の教育に対して、中国国民党は強引にやってきて、直ちに北京語を強制した。台湾人は北京語を話せないので上役にはなれなかったし、学校で台湾語を話したら罰金があった。黄先生も北京語を習いに行き、その次の日には生徒に教えなければならないという状況だったそうだ。日本の教育が「人間的に歩け、歩け」に対し、中国の教育は「大きい犬が吠えて、小さい犬がとぶ」というもので、黄先生もよくわからなかったそうだ。

治安については、黄先生が女学生だった当時、台湾は農業社会で貧乏していた。隣三軒の鶏を盗むこそ泥が捕まったとき、正直に罪を認めれば 28日牢屋に入れられるが、正直に認めない場合は警察にひどい目にあわされるという話を聞いたそうだ。だがこうしたことで、治安は良くなり、戸を閉めただけで安心して眠れる社会になったそうだ。

また日本は台湾を「内地の政策を台湾へ延長」するとした。百数十年前に建てられた総督府、官庁、鉄道、道路などは今でも使用されている。さらに、台湾のスコール対策として建物の前に屋根のついた廊下を設けた。これは台湾だけのもので、日本国内にはない。

中国国民党の実態はといえば、黄先生によると「平氏にあらずんば、人に非ず」の言葉が当てはまるそうだ。日本人のように「人のために尽くす」という良さが見つからないという。中国国民党は日本が残した資産、財産を自分のものにした。それに二二八事件が起こったり、白色テロが 38年間も続いたという。二二八事件では年配の知識人が、白色テロでは三十前後の若い知識人が多く被害を受けたそうだ。

13

Page 14: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

黄先生は、台湾に経済成長をもたらしたのは日本であると感謝しておられた。戦後に日本語世代の先輩が日本から機会、部品、技術を輸入し、日大合弁会社が林立した。そして両国の生活用品の貿易などから共に経済発展ができたと思うという。地理的にも日本と台湾は豊臣秀吉の時代から「一衣帯水」と表現され、台湾は知られていた。

日本と台湾の経済発展は進んでいるが、現在の中国には各国の企業が進出している。中国は経済だけではなく、軍事力も世界の大国に追いつこうとしている。その中国は日本や台湾にとっては脅威である。この中国にどう対処するのか、真剣に考えていかねばならない。

黄先生は最後にこうおっしゃった。地球は一つだけ、なのに 100年来人間が享受のために自然を破壊している。火山噴火、洪水、大雪、巨大地震のような自然災害には人間は勝てない。アジアだけではなく世界の皆が手を取り合って自然災害がないように家族が元気で働ける、そして戦争がない平和な暮らしができるように祈らなければならないと。

黄先生は、テストのときに地球の環境を守るためにはどうすればいいか、という問題を生徒に必ず出しているという。

今回の交流では日本統治時代を実際に体験した方の生の声を聞くことができ、とても有意義だった。現在の日本の人々で、台湾の歴史を知っている人はそう多くない。しかしこの歴史が忘れ去られることなど絶対にあってはならない。私たちは、実際に体験した方々が話してくださった事実、歴史の真実を後世に伝えていかなければならない。もちろん私も台湾について、できるだけ多くの人と話をしていきたいと思っている。

今回の交流会を開催してくださった友愛グループの皆様、お話を聞かせてくださった黄先生、ありがとうございました。

14

Page 15: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

関 美香子09B4146010E

過渡期~教育の喪失~

 友愛グループとの交流会で呉 慧慧さんにお話を伺った。お年を聞いたら驚いてしまうほど若くて気さくな方で時間がたつのが早く感じられ、もっとお話しを聞きたいと思った。慧慧さんは主に自分の経験から過去の台湾について語ってくださり、文献だけでは知ることのできない生の体験として聞くことで理解の深まる貴重な体験になった。そして今まで以上に台湾を知りたいと思うきっかけとなったのは慧慧さんの人柄の影響が大きい。

 慧慧さんは教育について熱心に話してくださった。当時、日本人の小学校に行くか、台湾人の国民学校に行くかの選択肢があったそうだ。小学校に行くためには幼稚園からの推薦と面接が必要で慧慧さんもその面接を体験したそうだが、日本の文化に基づいたもので私は驚いてしまった。それは神棚への祈りの仕方で、正直なところ私にはどうすればいいのかわからなかった。文化や生活、精神的なものまで共有していたのかと驚くものである。ただの植民地ではここまでしないだろう。日本人は本当に台湾を自分の国のように扱っていたとうかがえる。だが、まったくの平等ではない。たとえば小学校では今でいう学級委員に台湾人はなれなかった。社会の入り口のようなところでそうなのだから、大人の世界はどうなのかと想像できる。

また、日本語を話せるということは、戦中の配給にも影響したそうだ。まず日本人、台湾人の区分がある。それから日本の姓に変更している台湾人、日本語が話せる台湾人、日本語を話せない台湾人と分けられた。前の二つは優遇された。ちなみに改姓名は次のようにして日本人のような名前に置き換えられたそうだ。何→川上、林→林、小林、大林、淑貞→貞子、慧慧さんも「慧(けい)ちゃん」と呼ばれていた。いまでもあだ名のように呼び合っているそうで 100%悪いことのように記載される教科書の歴史観とはちがうなぁと感じた。

慧慧さん小学校ではなく国民学校に行ったそうだが、それから教育現場は過渡期へと移り代わっていった。終戦は今まであった教育制度をがらりと変えるものだった。「他の人はこの交流会で教育についてあまり語らないかもしれないけれど私は大事だと思う」と話された。

15

Page 16: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

終戦後日本人が引き揚げると、日本語はおろか台湾語まで禁止された。中国語インテリなことばで台湾語は方言という認識が広がる。慣れない中国語はなまりが強くて聞き取りづらい。教科書は廃棄され学生が教壇に立つ。これから新しい国を作り上げていくため必要な教育の機会が十分でなかったのは想像以上に厳しいことだったのかもしれない。また、白色テロや二・二八事件で大人たちは有能な指導者たちを失った。台湾語は今でこそ学校で教えられているそうだが、話せない人も多いと聞く。慧慧さんのお孫さんは中国語を中心に話すそうなので、たまに会話がかみ合わなくなることがあるそうだ。家族で話す言葉が違うというのは不便だろう。そしてさみしいものだとも感じた。日本は方言もドラマで使って大切にしている。それはいいことだと言って下さったが、若い人はどんどん標準語を話すようになっている。私は地方出身なので東京ではこっちの言葉で話すが地元に帰ったらあっちの言葉で話す。何とも言えない安心感は素晴らしい。台湾人にとっての台湾語はそういうものなのではないだろうか

日本はサンフランシスコ平和条約で戦争が終わったかのような態度を示してしまった。台湾の今後の展開を黙視したことはすくなからず現代の台湾にも影響を与えてしまったと感じてしまう。たとえば中国人の退役軍人の問題。彼らは中国に帰ったあとも退職金を台湾に保障してもらう。そして銀行の金利も一般の台湾人と違うそうだ。

こんなにも親日的な国があることを知らない人は多いのではないだろうか。恥ずかしながら大学生になるまで私はほとんど知識がなかった。東北、関東大震災での多額の義援金は新聞やテレビでニュースになっている。信じられないような金額だ。交流会では東北出身ということで多くの方に心配された。まずは友人や家族から台湾について話していきたいと思った。そして興味をもつきっかけになりたい。次はもっともっと、わくわくしてこの国を訪れるだろう。

16

Page 17: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

柴野 真行09B1101021J

柴野友愛グループ(張さん)との対談     2

2011年3月12日0

張さん 1931年生まれ 

・農業学校の教師を1年、県の農協で7年働いていた→農村の普及のため全力を尽くした

・中学2年まで日本教育を受ける(日本教育を受けていたのは8年間)→日本教育について・中学2年時、空襲がひどく学校に行けなくなる→学徒兵として木材などの資材を運ぶ・当時の台湾における中学合格率18/500(台湾人は)

・最も印象にあること(学生時代)中学の寮では上級生が下級生を水筒で殴る→殴られることが1年生の仕事(それを見た張さんは寮にはいることを辞める)下校中、バスを待つときでも上級生が来たら順番を譲る

・学生時代に感じた理不尽な差別、区別の有無日本人の先生にずっと教育を受けたいたがその中で受けた差別、区別はない→日本人先生は厳しく規律がしっかりしていたが、日本人学生と台湾人学生を差別しなかった

しかし、生徒間での差別はあった→詳しくは聞くことができなかったが、大変な思いをされてきたのだと感じたしかし、それもまた中学 2年生のときまでの話であり、学徒動員で学徒兵として労働に従事している時は、日本人、台湾人関係なく協力して仕事を行った→もし、その仕事が終わらなかったら食事が出なかったから→そして終戦になり、また勉強をはじめる

17

Page 18: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

・中央農協で理事を務められ、室課長としてご活躍された張さんの仕事

バナナ、玉ねぎを日本に対して輸出すること(アメリカから種を輸入して、品種を改良し日本人好みに)→当時の台湾の経済状況外貨不足→バナナ、玉ねぎで外貨を獲得→ドルを獲得

ここでは玉ねぎに焦点を当てて話していただいた…

・玉ねぎの栽培・玉ねぎの栽培は台湾の南の地域で行われた→山を越えた風は乾燥していて、そのような風は玉ねぎに虫がつかなかったり、品質を上げる一助になるから

・玉ねぎ輸出のねらい・日本では北海道では年中玉ねぎがとれる→しかし、日本は4月から新玉ねぎが出る→その新玉ねぎがまだ出てこない3月、4月に集中して輸出・2/23~3/7の間で船積み(50~60万ケース)→1つの船で3万ケースを運べる(1ケースは20キロ)・昔は玉ねぎの詰めるのに木箱が使われていたが、今ではネット使われていて輸送の効率化が図られている

また、戦略として12/31~1/4の5日間日本では市場が閉まる。そこで日本の玉ねぎの在庫を調べる、合わせて牛肉の値段や気温も調べる→日本でよく食べられているカレーライスなどに牛肉、玉ねぎが使われるから→様々な情報から、かけひきをしている→結果として台湾の農村が豊になった

その後1975年…

18

Page 19: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

・事業の出立→西陣織の帯の刺繍、羽織の刺繍→始めた理由は業者からの依頼

・配色、柄が難しい→1つの色でも10色ぐらいある・社員のレベルを上げるのも課題であった→社員にレベル別の課題を与えて、社員のレベルの底上げを図る(普通のレベルになるまで4カ月はかかる)

19

Page 20: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

飛騨 新馬09B1107014D

台湾合宿三日目、3月13日。私たちは独自に日本語を学習している台湾の団体、友愛グルプとの交流という貴重な機会を得ることができた。

彼らとの交流は台湾から見た中国と台湾から見た日本、という今までにない全く新たな視点での考えを得られると共に、日本にいた時には得られなかった新たな発見と多くの驚きを与えられた。

まず、自分は友愛グループの方々の言葉づかいに驚かされた。前日に中央大学の植樹祭で聞いた現地の通訳は正直、発音や敬語が所々おかしく、思わず笑ってしまうような場面も多々あった。しかし、友愛グループの方々の言葉は発音もきれいで、敬語も下手をすれば自分よりもずっと使いこなせていたのは驚愕だった。

また、植民地時代の台湾の歴史観についての認識も違いがあった事に驚いた。これは現地学生達との交流時にも感じた事だが、日本の植民地時代に対しての考え方が180度真逆なのだ。

例えば、日本で台湾の植民地時代のイメージを聞けば、大半は創氏改名や皇民教育に代表されるネガティブかつ、禁忌的なものだ。だが、実際にその時代を見た友愛グループの方々は日本人のように強く全否定をしないどころか、感謝しているとまで言っている。それどころか、教育勅語を胸を張って諳んじて見せた。

もちろん、今回の証言だけでかつての日本の植民地時代を肯定できるわけでは決してない。しかし、NHKのジャパンデビュー問題に代表されるように、日本国内での台湾教育はマイナスなイメージがあまりにも強調され過ぎているのではないか、と考える一つの材料にはなった。

また、友愛グループの方との個別の交流会も非常に収穫のあるものだった。

自分と対談した黄氏は裕福な家庭に生まれ、両親も文化人であった影響で生粋の台湾人でありながらも高いレベルの教養を持ち、士官学校の兵科をトップで卒業した。その後、本人曰く、台湾人では唯一の陸軍総司令部へ進み、そこで国民党に所属し

20

Page 21: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

ている幹部候補と切磋琢磨していった。

当時、国民党に所属していない者は職を追われてしまうので皆しかたなく国民党に入る中、黄氏は頑なにそれを拒否していたという。しかし、総司令部内では国民党所属の幹部達との軋轢は意外と少なかったばかりか、徐々にその頭角を現し、最終的には士官学校の教官にまでになった。

この要因を黄氏は「自分に自信があったからだ」という。変に気負いせず、常に胸をはっているからこそ相手もなめてかからず対等に接し、正当な評価を下してくれたのだという。自分もその強気な姿勢は是非見習いたいと思った。

しかし、全てが順調だったわけでなく、過去には牢に入れられ拷問にあったり、暗殺未遂で顔面がつぶれて大規模な手術を行ったりと苦難も多くあったという。だが、黄氏は自分の人生を振り返ってみて幸せなものだったと語る。その時の言葉を以ってこのレポートを終えたいと思う。

「手塩にかけて育てた二人の娘は二人とも立派な弁護士になったばかりか、世界のどこだろうと俺と再会すれば嬉し涙を流して抱きしめてくれる。これだけで俺の人生がいかに成功しているかわかるだろ?」

21

Page 22: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

小川 賢一09B1112028E

今回私たちは友愛グループとの会合も実現しました。友愛グループとは台湾において正しい日本語を伝えていくことを目的としたグループです。今回私はそのメンバーの一人の李英茂さんとお話しすることが出来ました。 李さんは 17歳まで日本統治下の台湾に居て、終戦後は国民党統治下の台湾で 41年間小学校の教員を務めた人です。現在は宜蘭縣史館のボランティアをなさっています。そこで、今回は事前学習のテーマが戦前・戦中の台湾経済出会ったことも踏まえて、まずは日本統治下の台湾はどうだったのかを尋ねてみました。李さんは日本の統治はいい事もあったし悪いこともあった、しかしいい事の方が多かったと言ってくれました。例をあげれば、インフラ整備、治安維持などです。当然差別をしたり偉ぶったりする日本人はいたそうですが、やはりいい影響の方が大きかったと言うことです。ただ、多くの日本人はこの事を知りません。興味を持った人すら少ないというのが現状です。また、私自身も初めて聞いた話ですが、終戦直後の日本は空前絶後の食糧難に陥っていました。そのような中台湾から与那国島を通じて米などの食料を輸出していたのです。もちろんこれは密輸ですが、日本と台湾が助け合いながら復興してきたことを印象付けられました。 国民党統治下の台湾についてのお話も聞くことが出来ました。私達も日本を発つ前に勉強はしてきましたが、やはりその時代を生きてきた当人からの言葉は重い物がありました。中国人官吏の汚職のことや、2・28事件の話。中でも印象に残ったのは、ノーベル賞についての話です。現在台湾のノーベル賞受賞者は李遠哲さんただ一人です。この事を李さんは、2・28事件で台湾のインテリの人たちが虐殺されていなければもっと多くの人を輩出していた、と悔しそうにおっしゃっていました。 今回はとても貴重なお話を聞くことが出来、とても感謝しています。また、日本統治下の台湾の状況も知ることが出来ました。しかし、先述の通り多くの日本人はこの事を知りません。それどころか「ジャパンデビュー」に象徴されるように、多くの日本人が周辺諸国に対して「悪い事をした」「申し訳ない」といった思いを持っています。そして、李さん達のように日本の良い面・悪い面両方を言う人たちの声には耳をふさいでしまいます。今後私たちは、今回お聞きしたことをちゃんと日本の人たちにも伝えていかねばならないと強く感じました。

22

Page 23: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

田中 俊09B2121032E

2011年3月12日、私たち中川洋一郎ゼミのメンバーは友愛グループの皆様との交流会を行いました。友愛グループの方々は台湾の日本統治時代に日本語教育を受けていた方が大半で、毎月第三土曜日に月例会を開催しており、「美しく正しい日本語を台湾に残そう」をモットーに、詩の読み合わせや俳句を詠むなど、日本語の研鑽を楽しんでいます。

皆様方が今でも日本人の精神を持っているということは聞いてきましたが、私がそれを実感したのは、3月11日に起きた東日本大震災のことを我が身のように心配してくださった時です。地震が起きたのはつい前日のことであったのでまだあまり情報も入っていなく、日本人である私でさえ、多少心配ではありましたが、軽視していました。それを台湾に住んでいる方が自分の国のことのように心を痛めている様子を見て、今まで人から聞いたり文献で読んだりして納得したつもりになっていた、台湾人は親日である、とか自分を日本人だと思っている、という言葉の意味が心の底から理解できた気がしました。

 簡単な自己紹介を済ませた後に友愛グループの会員とゼミ生それぞれ一対一の対話が始まりました。私は許林雪霞さんにお話を聞くことが出来ました。はじめに名刺を頂いて、「日本人の皆さんはよく許林さんと呼ぶけれど、許さんでいいのよ」と言いました。それはどういうことかと聞いたら、台湾では結婚した女性は相手の名字を自分の名字の前につけるんだと教えてもらい、それはわかりやすいな、と思いました。また日本人は真似しないほうがいいとも思いました。

 また今日の恋愛の仕方についてのご意見も頂きました。現在アメリカに孫が住んでいるそうで、たまに顔を見に訪問するそうですが、別に婚約者ではない女性と同棲していることに大変驚いたそうです。そして結婚する気があるのか、と聞くと、「特に考えていない」と言うそうです。このことに許さんは結構なショックを受けたらしく、私に「日本でもこうなのか」と聞いてきました。私は言いづらかったのですが、正直に「そこまで珍しいことではありません」と答えました。許さんは少し悲んでいました。

 私はこんなに年が上の方に恋の話をされたことがなかったのでとても新鮮でした。そしてなぜそんなに恋愛の仕方にこだわるのかが気になりました。その答えは許さんの学生時代にありました。許さんは当時の第三高等女学校に通っていて、世間では当たり前のように男女の交際が厳しく制限されていたそうです。男女で映画を観

23

Page 24: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

にいくことも買い物に行くことも禁止されました。ある兵隊が、女学生による怪我の手当てを受け、その後女学生から手紙が届きましたが、それだけで除隊になったという話も聞き、私はとても驚きました。許さんは当時村に住んでいましたが、結婚はもちろん紹介だったそうです。

 許さんはこれらのことや長い統治時代の生活から辛抱強さを学んだと言います。そのため台湾人には我慢をするという精神が根付いているそうです。その精神は家庭にもあります。仮に中くらいのおもちゃと大きなおもちゃがあって、台湾人の親は中くらいのおもちゃを子供に与えるそうです。それはなぜかというと、子供には夢を見させるために満足させてはならないからです。私は子育てについては無知であまり考えたこともありませんが、この言葉にはなるほど、と思いました。将来子供が出来たときにはこの言葉を思い出すでしょう。

 また私は事前にNHKの「JAPANデビュー」について調べていたので、それについての話も伺いました。まずこの番組のどの部分が問題であったのか、とたずねると、やはり一番印象の強いのが造語問題だと言います。「人間動物園」はかなり印象の悪い言葉に見えるし、「日台戦争」について私が調べたことはこの言葉が何を指しているのかがわからない、定義がない、ということでしたが、許さんはきっぱりと「日台戦争」なんてものは無い、と断言しました。そして一番不快に感じたのは、番組内の柯徳三氏へのインタビューで、本人は日本統治の良い点、悪い点を1:1で述べているにもかかわらず、編集により悪い点しか放送しなかったことです。この番組を鵜呑みにすれば、きっと台湾人は日本のことを嫌っているんだろうと思い込んでしまうでしょう。それほどまでにNHKやそれ以外のマスメディアは日本の人々に浸透しています。そのためマスメディアは誤解の起こらぬように、ありのままを公正に報道しなければならないと強く感じました。

少しの時間お話をさせていただいて思ったのは、こんなに日本と深くかかわっていて、多くの親日の方々がいるこの台湾という国について私は非常に無知でした。そして悲しいことに多くの日本人が同じように無知であると思います。これは日本人としてとても恥ずかしいし、申し訳ないことだと思います。友愛グループの皆様とお話をさせていただいたことで知識以外にもたくさんのことを学ぶことが出来ました。このような機会を持てることはめったになく、だからこそ私たちはここで得たものを日本に持って帰り、さらに深く勉強するとともに、たくさんの人々に伝えていくことが重要だと思います。約一時間という短い時間でしたが、会話が途切れることは無く、まだまだ教えてほしいことがたくさんありますが、それらについてはまた台湾を訪問した際にぜひ聞かせてほしいです。

今回の台湾合宿の中で、この友愛グループとの交流会はとても有意義な時間に

24

Page 25: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

なったと思います。これを糧に、日々努力を重ねて生きたいと思います。貴重な時間を私たちのために割いてくださった友愛グループの皆様にはとても感謝しております。本当にありがとうございました。

25

Page 26: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

手島 歩09B3131019J

私に貴重なお話を聞かせて下さったのは陳清波さんという方だった。陳さんから、台湾へ行く前に私がずっと知りたいと思っていた、日本統治下や国民党が乗り込んできてからの台湾について詳しく聞くことができた。私の拙い質問にも詳しく親切に答えて下さったことをこの場を借りてお礼をしたい。 話してもらったことは主に、1、日本統治下の台湾について。2、国民党政府統治の台湾について。の2つだ。この2つのテーマについては日本で本を読んだり発表をしたりもしたが、まだ知らなかったことを聞けたのは自分にとって良い経験となった。

1、 日本統治下の台湾 陳さんは 1931年の日本統治下の台湾に生まれで、生まれは台湾なのに日本国籍であることに強い疑問を感じていた。太平洋戦争時に陳さんは 16歳で、やはり差別はあったという。例えば、戦時下の台湾では食料は配給制だったのだが、やはり台湾人よりも日本人の方が多くの食料を配給されていたという。また、日本語が話せる台湾人は他の台湾人よりも少し多く配給を貰えたらしい。日本の統治時代にどのような感情をもって生活していたかと聞くと、「威張っている人もいたが、良い人もいた。日本人の恩師もいる。嫌なことだけではなかったよ」とこたえてくれた。

2、 国民党統治下の台湾日本が戦争に負け台湾から去った後、国民党政府はやってきた。毛沢東に破れ中国大陸を追われたために台湾へ逃げ込んできたのだ。いわば国民党政府は亡命政府なのだ、と陳さんは言う。それなのに国民党政府は通貨価値を4 万分の 1にして土地や建物を買い占めてやりたい放題だった、と。

犬去りて豚来るという言葉の意味も聞いてみると、「日本人は偉そうにすることはあっても軍人や警官は汚職などしないし、規律も守っていた。しかし国民党の軍人は規律も守らず、不衛生だし悪いことはする」そう語る陳さんの口調は少し荒かった。

 この他にも「日本が台湾から撤退した時に主権を認めてくれていたら、台湾は国際孤児にならずにすんだ」「中国では法律で台湾の主権を主張していて、脅しのようにミサイルを台湾へ向けて設置までしている」など、考えさせられる話を聞かせてもらった。

最後に、「日本についてどのように思っていますか?」という質問に対し

26

Page 27: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

ての陳さんの回答でこのレポートを締めくくりたいと思う。「日本についてどのように思っていますか?」「私の心の故郷は日本です」

27

Page 28: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

荒井 孝介09B3134023C

友愛グループ・洪夏宝さん・陳敏さんのお話

中川ゼミに入るまで私は台湾については名前を耳にしたことがある程度で全くの無知でした。さらにこれまで一度も海外に行ったことのなかった私にとって、今回の台湾研修ではとても貴重な経験を数多く経験することが出来ました。その中で最も感銘を受けたのは友愛グループの方々との交流会で様々なお話を聞くことが出来たことでした。私は幸いにも洪夏宝さんと陳敏さんのお二方のお話を聞くことが出来ました。

(1)洪さんのお話日本統治当時の台湾では教育の機会は決して平等とは言い難く、ある程度の収入のある台湾人の子供でないと日本人と同じ小学校には入ることが出来ず、小学校に入ることのできなった子供は公学校という日本統治時代に設置された台湾人の子供たちを対象とした義務教育機関へ通わなくてはならなかったようです。また、小学校に通えても日本人の子供に「チャンコロ」とからかわれる事もあったそうです。先生の中にも理由もなく女生徒のスカートを捲くり上げて太股などを鞭で打ったりする人もいたそうで、良い先生もいたけれどこの先生のことの印象がとても強かったそうです。私は、ゼミの勉強で読んだ本で日本人の教師は皆誠実で教育熱心な素晴らしい人間ばかりであったと学んでいたので日本人教師の中にもこの先生のように台湾人に対して差別意識をもった人もいたということを知ってショックを受けました。食料の面でも差別はあったようで、洪さんのお父様は銀行の銀行員という台湾人のなかでも裕福な家庭だったのですが、食料はあまり豊富とは言えず配給される米が脱穀していなかったり、肉を手に入れるために酪農家と物々交換で手に入れるため、食卓に肉が上がると衣服が減ったことがわかったり、豆腐を貰うにも日本人の銀行の支店長の名刺を貰って支店長のお使いということにしてやっと貰うことが出来たなどとても厳しい状況だったそうです。そして第二次世界大戦が始まると、出征する兵士の見送りや防空頭巾や防空壕の制作、灯火管制や金属類の徴収が台湾でもあったようで、それらのことに参加するときは台湾人ではなく日本人としての意識が強かったとおっしゃっていました。戦後、国民党が進駐してからはお父様が当時台湾では数少ない台湾人の銀行の支店長でいらっしゃったので地元では貴賓として招待を受ける事があったそうです。私は本省人の方は皆大変な思いをしていたと思っていたのですが洪さんはあまり生

28

Page 29: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

活に変化はなかったそうです。(2)陳さんのお話 陳さんは、日本が不況のために台湾のことより日本のことを優先するのは仕方がないことだと理解できるが、日本人はもっと台湾について学んで台湾に対して支援をしてほしいとおっしゃっていましたが私もこの考えに賛成です。私もそうであるように今の日本人は台湾に対してあまりに無知で無関心だと感じます。台湾は世界で最も親日的な国なのでもっと台湾との交流を活発にすべきだし、日本人はもっと台湾について学ばなくてはならないと感じました。また、戦後日本が台湾の領有権を放棄した後またすぐに領有権を主張して欲しかったともおっしゃっていました。そもそも、日本は台湾の領有権を放棄しましたがそれを中華民国に委任したというわけではないので国民党の台湾支配は国際法的にも正式なものではないし、日本が領有権を主張していれば二・二八事件やその後の本省人の長い弾圧の日々がなかったのかもしれないと思うと当時の政権はなぜ台湾の領有権を主張しなかったのかと憤りを感じます。 陳さんは日本の教育に対してはとても良かったと評価していました。日本人の先生は素晴らしかったと好印象を持っていらしたし、教育勅語もよい教育目標だったと感じ今でも暗記していらっしゃいました。私も教育勅語の理念は素晴らしいもので、今の日本人に欠けているものこそ教育勅語だと考えています。このような素晴らしいものが軍国的なものとして戦後に廃止されてしまったのはとても残念なことだと思います。

(3)感想 今回お二方のお話を聞いて、確かに日本人と台湾人は平等ではなかったが日本が台湾に対して行ってきたことは悪いことではなく、むしろ台湾の人々から大いに喜ばれ感謝されていたことなのだということをもっと自信を持つべきだし、そうしないことは却って台湾の人たちに対して失礼なことだと感じました。また、もっと台湾についての理解を深めるべきであると何度も思い知らされましたし、己の勉強不足や理解不足によりもっと詳しいお話や質問が出来なかったことが悔やまれました。しかし、台湾に実際に行って、ただ遊ぶのではなく友愛グループの方と交流出来るという貴重な経験が出来たことはとても有り難いことであるし、このような経験が出来た身としてはただ経験しただけでなくより一層台湾について学び、自分の中だけで完結させずに自分の周りの人々にも少しでも台湾に興味を持って台湾について学んでくれるように働きかけなければならないと感じました。

29

Page 30: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

佐野 裕人09B3135018F

今回の中川ゼミの合宿において、友愛グループの方々から貴重なお話を聞かせていただいたのでそれについてレポートしたいと思います。私が特に話した方は、陳さんといい、台北 228 記念館の解説員をしている方で、日本についてとても詳しい方でした。

「日本の台湾支配について」陳さんの話を聞いていた中で、日本についてはとても好意的な印象を持っていると感じました。日本はとにかくとても良い政府で、日本は台湾の親であるとも言っていただけました。特に明治天皇の時代に出来た、教育勅語というものは素晴らしく、台湾の教育に大いに貢献したと言っていました。

教育勅語また現在の建物は当時の日本の影響を受けたものが多く、私自身も、台湾の街を歩いていて、日本に居るような錯覚を受けました。

30

Page 31: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

「中国の台湾支配について」

日本の支配の後、国民党の台湾支配がはじまりました。国民党が来た時は台湾の方々は歓迎しましたが、そのときだけでした。陳さんの話では、本当にその時代はひどかったと言っていまいした。国民党の軍隊は、略奪、強盗を繰り返し。台湾の物価も 1年で米の値段が 400 倍、2年で 2 万倍となってしまい、お金というものが全く機能しなくなりました。そして台湾の方は自殺をするか強盗するしかなくなり治安は最悪となってしまったようです。なぜ国民党はそんなことをしたのかと陳さんに聞いてみると、当時の台湾人は日本の支配を受けていたため日本人のようでした。それが国民党には気に入らなかったためこのような支配に及んだと言っていました。

「現代の台湾」

現代の台湾では言論の自由は認められ、言いたいことは言える社会となっています。国民党統治の時代はそぐわない事を言ってしまうと命の危険があったため、ある程度まともになってきているようです。ただ、やはりまだ完全とは言えず、外省人による賄賂などは今もあるようです。また、現在の若い方たちも反日教育を受けてきた中で育っていたにも関わらず、日本に好意的なようです。台湾の独立についてですが、国民党とつながりがある人は独立を望まないためまだまだ難しいのが現状といったところです。

「まとめ」私が今回お話を聞いた中で感じたことは、現在でも台湾はやはり複雑な状況にあり、未だに国民党とつながりのある人と、そうでない人との対立があるようです。友愛グループの方々は当時の国民党のしたこと、現在していることを私たちに詳しく教えてくださいました。この対談で学んだことを、今度は私たちが他の人に伝えていくことで、いつかは現在の問題も解決するのではないかと思いました。最後になりましたが、陳さんはじめ、友愛グループの方々、貴重なお話大変ありがとうございました。

31

Page 32: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

冨澤 健人09B3138005K

今回の合宿でガイド役を務めてくださった、鐘紹雄さんがお勤めになっている新亜旅行社の一室にて今回の中川ゼミと友愛グループの方々との交流会は行われた。ゼミ生各自が席に着くとき、お菓子と飲み物を頂いた。これは、新亜旅行社の社長さんのご好意のようだった。

私にお話を聞かせてくださったのは陳 敏さんという女性だった。陳さんは 80歳を超え、現在の友愛グループの中でも最高齢に近いそうだ。隣に座って初めてお会いしたときは、歳の割にと言ったら失礼かもしれないがとても若々しく上品なご婦人だという印象を受けた。私が緊張していると陳さんは「地震、大変そうですね」とおっしゃった。交流会が行われたのは 2011年 3月 12日で、関東東北大震災が発生した翌日のことだった。陳さんは「ご家族はご無事でしたか?」と不安そうに続けた。私は無事を伝えると陳さんは我がことのように安心してくださった。それからお互いに自己紹介を行った。陳さんは国民学校を卒業されたあと、裁縫や服飾デザインのお仕事に就いた。そして仕事の中で日本の兵庫に来てそこの日本の会社の人にずいぶんよくしてもらったとのことだそうだ。その後また仕事でアメリカにも行き 15年間をそこで過ごされたが現役を退かれた現在は台湾に戻られている。そして何と驚くべきことに、80歳を超えた現在であるが大学に通われているそうだ。趣味の勉強を中心にされていて学位の取得を目標に現在も頑張っておられるそうだ。また、現在でも日本に年は三回は行くという大親日家、日本通であった。

そして陳さんは国民学校での思い出を語ってくださった。「体罰を受けたことはありますか?」と陳さんは冗談交じりに私に質問をした。私が「いえ、ありません」と返すと、「私は日本人の先生から体罰を受けたことがあります。同じクラスの誰かが物を盗んだ時などはクラスメイトが横一列に並べられて犯人がわかるまで順番に先生に手を叩かれました。でも私はこれを体罰だと感じていませんし、それで先生を恨むことはありませんでした」と述べられた。悪事をはたらいた者を野放しにせず連帯責任という形をとってまで犯人を探すというのは私が受けてきた現代の日本の教育からは大きく離れていた。まず体罰という言葉自体、あまりに非日常的に感じる言葉なのだ。だが陳さんの話によると当たり前のことではあるのだが、当時の日本人教師による行いは悪意などはひとかけらもなく、あくまで子どもたちの教育のためのものだったのだ。現代の日本で同じことを行ったらどうなってしまうだろうか?保護者やマスコミから叩かれることが必至だろう。そのようなことを陳さんに話したところ陳さんは現在の日本の教育についても意見が多くあるようだった。

32

Page 33: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

「私は今でも教育勅語を覚えていて空で言えます」と言い、「朕思うに 」とス・・・ラスラと途中まで言いあげた。

教育勅語とは 1890年に明治天皇の名で発表された勅語である。その趣旨は、第二次世界大戦前の日本では修身 道徳教育の根本規範として考えられた。そして台湾・でも教育全般の規範とされていた。内容としては歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、また父母への孝行や夫婦の和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事があれば国のために尽くすことなどの道徳が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民と共に明治天皇自らこれを守るために努力したと誓って締めくくる。

陳さんは教育勅語を国民学校での式典の際に読み上げるのをきっかけに覚えたそうだった。ただやみくもに暗唱するだけでなく、勅語に込められたメッセージをしっかりと噛み砕くように意識されていたようだ。また陳さんは現在の日本の教育で天皇を敬うということが形骸化していることを憂いていた。世界的に見ても他に類を見ない、素晴らしい文化だというのに当の日本人が天皇に対しての意識が薄くなってしまっている、とのことだった。たしかに私自身も天皇という存在を日常的に意識することは正直なところあまりない。教科書やテレビの中の存在というと問題があるかもしれないがそう感じていたのが事実だった。印象的だったのは「国民みんなで思う共通の対象がないから、国民の意識がバラバラになってしまう」という旨の言葉だった。前述のとおり、陳さんは年に三回は日本に行くという方で日本の近況にも当然詳しい。そして外国の方からも見て日本人はバラバラになってしまっているという印象を与えてしまっているのだ。陳さんは、小さい頃はまず学校から帰って、宿題をやって、誰かと遊びにいくというのが日課だったそうだ。「今の日本では公園でもいつも子どもが全然遊んでいませんよね?」と陳さんは少し悲しそうに私におっしゃった。

人と人との関係が希薄、疎遠になってしまっていて他者、外部に興味を持たないことが今の日本の問題点だと陳さんはおっしゃった。それは安定しない政治や低迷する経済で日本全体が不安になってしまっていることが原因なのでしょう、と続けられた。自分が大好きだった日本人が今のような状態になってしまっていて正直なところ悲しい、辛い、ともおっしゃっていた。自虐的にならずにもっと胸を張って生きてほしい、と。手元にあった中国の記事を読んで「日本は中国に対してももっと強気になってほしい」とも。そこで私が言った「友好的なことと弱腰なことは違い

33

Page 34: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

ますよね」という言葉を強く評価してくださって嬉しかった。

今回、このような形で友愛グループの方との交流を持つことができて、非常に有意義だった。事前の学習で学んでいたよりもあの方たちは日本のことを愛してくださっていた。それは友愛グループの方だけに限らず、合宿中に出会った多くの台湾の方のことでもある。陳さんもおっしゃっていたが彼らが一様に望んでいるのは「もっと台湾に興味を持ってほしい」ということだ。外に興味をあまり持たなくなってしまっている現在の日本であるが、中国と台湾の関係には日本も当然切っても切れない関係なのである。こんなに日本のことを愛してくれている隣国なのに大半の日本人は知らないことが多すぎるのが現状である。合宿中起きた日本の大地震に対しても台湾は多額の義援金や支援物資を送ってくれている。これも一つのきっかけとして多くの日本人が台湾に興味をもつことが台湾の未来に強く関わってくるのだと感じた。

34

Page 35: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

古賀 大道09B4141013L

今回、中川ゼミのゼミ合宿において、友愛グループの方々と対談させていただき、様々な貴重なお話を聞くことができたので、レポートとしてまとめさせていただきます。 私は林さんのお話を聞かせていただきました。林さんは1927年生まれで、日本で生活していたこともある方です。林さんから話を聞いていて、日本と中国に対する大きな想いの格差を感じ取ることができました。 ≪林さんの日本への思い≫ 林さんは学生時代、台湾の公学校に通っていたそうです。そこでは日本精神を教えられたそうです。日本精神を教えるものの中の一つが教育勅語だったそうです。林さんにとって、教育勅語はすばらしい教えであり、暗記していたほどだったそうです。

教育勅語また、林さんは日本に住んでいた時のことを話してくれましたが、その当時はとても治安が良く、戸締りをしなくても平気だったそうです。また、戦争中でも満足な食事をすることができたそうです。そんな経験をしている林さんはとても日本を愛してくれているのだなと、お話をしてくれているときの表情を見ていて感じ取れました。 一方で、中国に対する想いはまったく違うようでした。日本の敗戦後、中国人が台湾に入ってきて、台湾は悲惨な環境になっていったといいます。

35

Page 36: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

≪中国人の台湾での行い≫ 先ほど述べたように、日本で暮らしていた時は戸締りをしなくてもよかったのに対し、中国人が入ってきた台湾では中国兵による窃盗が後を絶たず、実際、林さんの家も被害にあったそうです。中国兵による犯罪は略奪や暴行、強姦など、とにかくひどい行いが頻繁に起こっていたそうです。また、台湾の米や砂糖が大量に中国に持っていかれてしまったせいで急激なインフレが起こったそうです。そのインフレは異常なもので、例えば朝10円だったものが夕方には50円になっているほどだったそうです。 また、当時の中国人の信じられない行動の一例も話してくれました。林さんが大学で学んでいた時の教授の話です。その教授が講義をしている最中、窓際に近づいていったので、林さんは「窓の外でも眺めるのかな」と思って見ていると、窓を開け、そこから恥ずかし気もなく汚らしい音をたてながらタンを吐いたそうです。日本の先生とはあまりにかけ離れた行動に驚いたそうです。 このように、日本に対してはいい印象を話してくれた林さんですが、中国の話になると「こんなところがよかった」というような話は一つも出てきませんでした。とにかく中国人の行いの悪さしか印象に残っていないようで、話を聞いている私にも当時の中国人の『汚さ』が伝わってきました。 ≪台湾の成長を支えた日本の企業≫ そんな中国の話をしてくれたあと、高雄の加工輸出区について話してくれました。加工輸出区の高雄では、物の輸出入が無税なので、世界各国の企業が工場を建てていったそうです。その中で一番に入ってきたのが日本の日立だったそうです。日立をはじめとする日本の企業の進出によって、台湾に素晴らしい技術も流入し、そのおかげで台湾は飛躍し、大きく輸出を伸ばすことができたそうです。もちろん、日本の企業にとっても台湾のほうが物も人件費も安いので利益があり、高雄への日本企業の進出は日本と台湾相互の利益になったそうです。加工輸出区の存在は話を聞いて初めて知り、「日本のおかげで」という話に私も嬉しい気分になりました。 ≪まとめ≫ 今回、林さんのお話を聞いて、林さんの日本に対する暖かい気持ちを感じ取ることができてとても嬉しい気持ちになりました。また、戦前の日本と戦後の中国のそれぞれの行いを聞いて、ためになったと同時に、自分が日本人であることを誇りに思えるようになりました。日本と台湾、中国の歴史を教科書ではなく、生の声を聞くことで学べたことは私にとって大きな財産になったと思います。今回お話をして下さった林さんをはじめとする友愛グループの皆さんに感謝しました。

36

Page 37: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

佐藤 健悟09B4143032D

陳豁然さんとお話しさせていただきました。陳豁然さんは、HONDAの流通の仕事をしていて、若いころは、ほんとに朝から晩まで休む暇なく働いたそうです。18才のときまでは、日本人でした。日本の敗戦後、日本人ではなくなりましたが、日本人になれるのであれば日本人になりたいとおっしゃっていました。これは、とても光栄なことであり、そんな日本を作り上げた先人たちを深く尊敬するとともに、私も日本人になりたいとまでいわれた我が国を守り、発展させていかなければならないと感じました。

陳豁然さんは、10か月の兵役の後、たくさんの国へ旅行に行ったそうです。アメリカからアジア欧州までいろんな国の名前が出てきました。世界中の国を回ることは、僕の将来の夢でもあるので、マネさせていただこうと思います。でも、台湾の居心地の良さを一番初めに感じてしまったので、他の国へ行ったときには味気なく感じるかもしれません。陳豁然さんと話していてもそうなのですが、台湾の人は、「日本が大好き。」といってくれます。「日本のどのようなところが好きですか。」と質問をしました。「あっさりして、正直。嘘を言わない。心が晴れていて、気持ちがよい。」と答えてくれました。嘘を言わないというのは、そのとおりだと思います。日本人は嘘をつくと、たいていの人が表情に罪悪感を浮かべます。心が晴れているかどうかは、どうでしょう。今の日本には、利己的な考えを持つ人が多い気がします。でも、そんな中でも、秩序はしっかりと守るので、そういうことでしょうか。日本の道徳教育は、とても優れていると僕も思います。友達を思い、家族を思い、恋人を思い、先生を思い、日本人はほんとに優しいです。まだ私が他の国の文化に触れるといった経験がないので、比較はできませんが、そう思います。 私が「日本統治時代の思い出は何ですか。」と尋ねると、「学校の先生が日本人であり、その先生に大変よくしてもらった。」という答えをいただきました。私も先生は大好きです。中学時代までは、先生は何でも知っていてまるで神様のようだと思っていました。

陳豁然さんは、先生との思い出を語ってくれました。高校は夜間高校に通っていて、年齢の様々な人々と一緒に勉強していたそうです。なぜ、夜間高校であるかというと、昼間は仕事をしなければならなかったからです。戦時中の国は貧しく、つらそうだなと感じました。そして、その学生時代の先生との思い出ですが、まず、補習を無料でやってくれたということです。今となっては、当たり前のことだと思いますが、中国では、補習の時にお金を払わなければならず、そうしないと単位がもらえなかったそうです。先生も生活が厳しかったと思います。しかし、お金は取らなかった。優しく指導してくれた。素晴らしい先生だと思います。もうひとつは、食糧を分けてくれたそうです。陳豁然さんも、お返しに先生の家にいろんなものを

37

Page 38: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

持って行ったそうです。「そんな苦労があって今の成功がある。」陳豁然さんは最後に私に教えてくださいました。陳豁然さんは、今、HONDAの名誉会長をしています。私もこの肩書には、素直にあこがれます。陳さんは、「若いうちに苦労しておけ。」と言います。「成功の 4要素は、努力と健康、財力、信用、そしてチャンスである。」と教えてくれました。私の将来の夢は、いろんな国へいくことなので、仕事で成功してたくさんのお金を得たいです。まず、今は苦労。たくさんのことにチャレンジして、自分を高めていこうと思います。大学生活も、時間が過ぎるのが早いもので、もう折り返し地点です。これからの二年間でどんな苦労が経験できるのか、自分なりに頑張ってみます。友愛グループとの交流会、ほんとに貴重な体験をさせていただきました。ありがとうございます。また機会があれば、いろんな話を聞かせてください。よろしくお願いします。

38

Page 39: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

菊池 匠09B4145009C

私が対談させていただいた戴陳月桂さんは北台道徳研修会の理事長です。月桂さんは台南のご出身で日本統治時代から日本人に良い印象があったとおっしゃっていましたが、中国国民党支配が始まるとそれがより一層強く感じられたそうです。外省人は横柄な態度をとり、時には暴力もふるったりしていましたが、日本人は善良でうそはつかないし、間違ったことをすれば謝ってくれたそうです。特に南部の人々の尊敬を集めているのは八田興一です。八田興一はダムを整備し荒れた土地を再生させました。台湾は雨が降る時期と降らない時期がはっきりしていて、時々洪水や干ばつが起こっていましたが、ダムが完成したことでそれらの問題が解消され、さとうきびなど農業が発達しました。南部では八田興一を知らない人は台湾人ではないとさえ月桂さんは言いました。月桂さんは毎年八田興一の命日にダムの近くにある八田興一の銅像に花をたむけるそうです。月桂さんに写真を見せていただくと、八田興一の銅像の周りにたくさんの花がたむけられていて、多くの台湾人が今でも国に貢献した人を敬っていることを実感したとともに、その律義さは日本人ととても似かよっていると感じました。しかし、台湾ではそんな律義さや礼儀正しさが最近失われつつあると月桂さんは感じているようです。政府含めて国民全体が利益を追求するあまり思いやりや同情の念を忘れていると月桂さんは言います。たしかに昔よりは自由を享受し住みやすい世の中になっているが、選挙では不正が当たり前でますます拝金主義が広がることを月桂さんは危惧していました。 月桂さんは祖国は台湾だが母国は日本であるとおっしゃっていました。礼儀やマナーは日本統治時代から多く学び、現在でも日本から学ぶことがたくさんあるといいます。日本人が知らない日本の良さを対談の中で知ることができました。悲観的になりやすい日本人は自分自身含めもっと日本の良さを認識すべきだと感じました。そして、日本のことを深く愛している人がたくさんいることを心の中に留めておかなければならないと思いました。

39

Page 40: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

各自の研究テーマの報告

         

40

Page 41: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

東呉大学との交流会08B2127009K  伊東 佑実

Ⅰ.東呉大学とは台湾台北市にある私立大学であり、日本語文学科は日本語教師育成で有名。台湾の各大学の日本語教員や日系企業に多くの人材を送り出している。

Ⅱ.交流会の内容(キャンパス内から夜市まで)交流会の会場には、東呉大学のキャンパスを使い、お互いの大学紹介映像を見ながら、自己紹介や両国の文化について意見を交換したり、台湾から見た日本のイメージや日本語習得までの課程について等、様々な話しをした。共通の趣味を有する学生もおり、非常に和やかな雰囲気の交流会だった。台湾人と話すと言うより、台湾をよく知る台湾在住の日本人と話していると感じる程、皆日本語が流暢で、日本文化にも詳しかった様に思う。

夜市では、様々な種類の食べ物を豊富に揃えた屋台が数多くあり、比較的リーズナブルな値段で、沢山の屋台を回ることができる。屋台を含め、ホテルや飲食店で食べた台湾料理の見た目は、日本で食べる中華料理と変わらず、味も日本人には比較的食べやすいものが多い。また、飲食店の他にも、ファッションやドラッグストア、ジュエリーショップなどもあったが、どの商品も日本のものに近く、親近感を抱いた。東呉大学の学生は、お店一つひとつを丁寧に説明してくれたため、時間を有効に使えたと思う。

Ⅲ.東呉大学学生から見た日本人像非常に気を使う人種であり、謙虚さやマナーに厳しいという印象を抱いていた。また、台湾人の女性から見ると、日本人の女性は特に身だしなみに気を使うため、少し外に出る度に、化粧をすることに驚いたという、面白い意見もあった。

Ⅳ.日本に興味を持ったきっかけ台湾では、日常的に日本文化に触れる機会が多いため、日本に興味を持つ若者は多いという。また、日本統治時代に生まれ育った祖父や祖母、親戚の影響を受けた、という人も中にはいた。

Ⅴ.+α台湾は懲役制のため、成人を迎えた男性は1年の兵役が義務づけられている。今回交流した学生の中にも、兵役を控えている人もおり、台湾の兵役事情を聞くこと

41

Page 42: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

もできた。兵役は、義務ではあるが、就学中であったり、もしくは健康状態によっては免除されるケースも存在し、例を上げると、極度の肥満や命に関わる持病を有する物は免除されている。

Ⅵ.感想交流会を通じて、日本という国を違った角度から見るきっかけにもなり、自国への理解が深まったと思う。また、日本人に対し、とても丁寧で謙虚さを持っているという印象を抱いている人が多かったが、交流した東呉大学の学生自身も、日本人が持つものと同じ物を持っているのではないかと感じた。他にも、同年代の学生と交流することで、様々な刺激を受けることが多々あり、新たな価値観や発想も得られたと思う。

42

Page 43: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

士林夜市09B3131006C  佐々木 奈美

士林夜市について報告書をまとめます。私は、日本の似ている部分をあげながら夜市について

まとめたいと思います。夜市とは夕方から夜中に営業する屋台、露店などのことで日用品や飲

食を提供するためにお店が集まって自然とできたものを言います。なぜ夜に行うのかというと、

台湾は亜熱帯地域で昼間が暑いため、気温の快適な夜に外出をするからだと言われています。

日本語ではナイトマーケットなどと呼ばれており、主に駅、神社、大学周辺で栄えています。

また、伝統的なものが多いと思われていますが流行にそったものも数多く見受けられます。夜

市は台湾国内にたくさんあり、台北だけでも、士林夜市、華西街夜市、楽華夜市、興南夜市、

三和夜市、公館夜市などがあります。毎晩大変にぎわっており、まるで日本の通勤電車のよう

にぎゅうぎゅうの状況になるそうです。私が行った夜市は士林夜市でした。あまり広くない道

幅の両脇に露店がずらりとならんでおり、またその道の真ん中にも露店があります。私たちが

行った時は雨がふっていたため道の真ん中には露店はなく比較的に歩きやすい状況だったそう

です。歩きやすいと言っても、人はとてもたくさんいてとてものんびり歩けるような状態では

ありませんでした。まるで日本の休日の原宿竹下通りを思わせる混雑ぶりでした。そんな状況

でも歩きやすい方だと言っている台湾の方はすごいです。晴れた日の休日にいったらどうなる

か想像もできません。露店は様々なものがありました。まず、士林夜市について思ったことは、

日本の夏祭りみたいだ…ということです。もちろん、日本の夏祭りのようなたこ焼きやわたあ

め、金魚すくいなんかはありませんがたくさんの屋台が並んでおり、人はにぎわい、少し懐か

しいような気持ちになり、また親近感を覚えました。夜市でまず目にとまったものは果物です。

屋台に果物がずらっと並んでいます。中には日本でも見たことのある果物もあります。いちご、

マンゴー、パイナップル、ライチなどです。台湾は南国の国なので果物が名産です。しかし、

見たことのないものもたくさんあります。たとえばグァバ。緑色をしていてビタミンCが豊富

な果物です。匂いが結構きつく、私の口には合いませんでしたが台湾の方はみんなおいしいと

言っています。このグァバ、東京ではめったに見かけませんが沖縄にはたくさんあります。や

はり暖かい地域で育つ果物なのでしょう。この果物屋台、同じような光景を下町の浅草で見た

覚えがあります。やはり台湾と日本は似ていると感じました。そして食べ物で強い印象がある

のは臭豆腐です。その名の通り臭いです。臭豆腐のお店の前を通っただけで強烈なにおいを感

じ思わず鼻をつまんでしまいました。この臭豆腐歴史のある食べ物だそうですが日本人には

少々きついかもしれません。台湾の方が言うには、台湾版の納豆だそうです。ですが、実は臭

豆腐も沖縄ではよく食べられています。士林夜市は私は当初食べ物しかないのかと思っていま

したが、他のもたくさんのものが売っていました。たとえば靴や服、化粧品などの日用品です。

おそらく夜市で手に入らないものはないのではないかと思うぐらいたくさんのものが売られて

います。これらは日本では考えられないような安い値段で売られています。台湾名物パイナッ

プルケーキもとても安く売っています。普通のお土産屋さんで買うのと半額以上違いました。

43

Page 44: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾の方々はみんな明るく、とても楽しい夜市探索ができました。この士林夜市に行って私が

思ったことは、日本、特に沖縄に似ている部分が多いということです。私の母が沖縄出身なの

で話を聞きましたが、東京にはなく、沖縄と台湾にはあるものがたくさんあるのです。先ほど

書きましたが、グァバや臭豆腐などです。台湾と日本の共通点をたくさん見つけることができ、

とてもうれしく思いました。

以上で士林夜市の報告を終わります。

44

Page 45: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

東呉大学との交流会(士林夜市)

09B3137012D  中嶋 理英子

 東呉大学との交流会は、東呉大学の日本語を学んでいる学生とお互いの国のことや文化のこ

とを話したり士林夜市に案内してもらったりしました。

 私が最初に話したのは林緯哲さんで、あまりの日本語のうまさに驚きました。きっと小さい

ころからずっと勉強してきたのだろうなと思っていたら、高校から習い始めたのだと聞いてま

た驚きました。

 林さんとは音楽の話や日本のテレビ番組の話や趣味の話などをしました。私がゆっくりと簡

単な日本語でしゃべらなくても普通の速さでしゃべっても聞き取ってくれました。彼は士林夜

市でお勧めの店や台湾のおいしい食べ物のことも教えてくれました。彼は日本ブランドの服が

大好きだと言っていて、彼の口から UNIQLOの名前が出たときにはさすが UNIQLO!と思いました。彼は北海道から沖縄まで各地を旅していて、日本が大好きと言っていたのでなんだか日

本に生まれたことが誇らしくなりました。

 士林夜市は日本で言うとお祭りの屋台みたいで、雨が少し降っていたにもかかわらずかなり

にぎわっていました。東呉大学の学生がおすすめのお店に連れて行ってくれました。士林夜市

を歩いていてびっくりしたのが、人がたくさん歩いている歩行者天国みたいな所なのにバイク

が普通に通っていることです。東呉大学のダニエルさんは前にバイクにひかれたことがあると

言っていたし、結構ひかれるのだと言うことを聞いて日本ではあり得ないことだと思ったし、

これが文化の違いなのだろうと思いました。また、彼らに台湾の人たちはどこにデートに行く

のか聞いてみると、士林夜市だと答えていたのも印象的でした。士林夜市では道行く人の中に

日本語をしゃべっている人が大勢いたので、日本からの観光客が多く訪れる場所なのだろうと

思いました。それに台湾人と日本人の顔や服装はけっこう似ているなと思いました。

士林夜市の食べ物はなかなか癖のある味で私はどれもあまり好きではありませんでした。台

湾に行って思ったのが食べ物の多くにシナモンのような独特なにおいと味があってこれが日本

で言う醤油みたいな物なのかなと思いました。あと、臭豆腐のにおいは想像を超える強烈な臭

さでした。臭豆腐を売っている店の前を通るだけでもくさすぎて吐き気がしました。でも、台

湾の人たちが普段どのような物を食べているのかを知れたし、日本の食べ物と台湾の食べ物の

違いを知ることができました。東呉大学の学生はとてもよくしてくれて、とても楽しい時間が

過ごせました。

 東呉大学の学生と交流して一番印象的だったのが、日本語のうまさです。彼らは日本語の勉

強を始めたのは高校生ぐらいからなのに、私たちが中学校からずっと勉強してきている英語よ

り何倍も上手くてなんだか恥ずかしくなりました。「一生懸命勉強している」と言っていまし

たが、私だって中学校からずっと英語は一生懸命やってきたつもりだったのに何が違うのだろ

うと思いました。私でも毎日毎日一生懸命英語の勉強をすれば彼らのように普通にしゃべって

45

Page 46: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

聞き取れるようになるのかもしれないと思い、彼らと話しているとやる気がでてきました。

もっと彼らと早く出会っていれば今の私の英語力はもっと高くなっていたかもしれませんが、

今までのことをくよくよ悩んでも仕方ないので、今後台湾の学生達と交流して感じたことを忘

れず勉強しようと思います。

 また、台湾に行って改めて思ったのが、日本食ってなんておいしいのだろうということです。

台湾で生まれて育ったら台湾の食べ物はおいしいと感じるのでしょうが、私が台湾でもし生ま

れ育ったとしても、日本食を食べたら日本食の方がおいしい!という風に思うと思います。

46

Page 47: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

「国民党は断固反対!」09B4145004B  小川 由貴

台湾 228事件の犠牲者の中には、我が中央大学で学んだ方もいる。今回の交流会ではそのご遺族の方々から貴重なお話を聞くことができた。司会をしてくださった方は李榮昌氏、ご遺族の方のうちの一人だ。李榮昌氏は国民党には絶対反対の立場だ。しかし反対だとはいっても、2000 万人の台湾人の中にも蒋介石に感謝する人たちがいるのが問題であるという。このような人たちは、蒋介石の土地改革の恩恵にあずかった人たちで、現在の台湾のお金持ちに多い。「中央」と名のつくもの、「中央銀行」などは蒋介石の配下にあるものである。こんな話もしてくださった。日本へ行こうと、台湾のパスポートを見せたら香港人より料金が高かった。台湾から逃げたいというふうに思われた。それはつまり難民扱いだったのである。この経験からでも、台湾は独立しなければならないと考えた。現在の台湾は国籍がないが、政府も軍隊もある。台湾の人々は一日も早い独立を願っている。そのための国際舞台では、日本の協力が必要である。

林蓮宗氏(当時42歳)お話:長女 林信貞氏

台中一中、中央大学法学部卒業、台中県で弁護士会長を務める優秀な弁護士だった。

林信貞氏は子どもの頃、父である林氏より毎日新聞を読むように言われたそうだ。228事件当時、林氏は暴動を鎮めるため上北した。しかし帰るときに交通が止まってしまい、知り合いの家に泊まったそうだ。そのときに中国兵が来て林氏を連れて行った。そのまま行方不明になってしまい、家族はパニックになり、悲しみの毎日だった。母親はどんな情報が入っても相手にしなかった。林信貞氏は父親が連れて行かれたときのことを目に涙を浮かべながら話してくださった。

李瑞漢氏(当時41歳)お話:長女 李月美氏(今回の司会、李榮昌氏の妹さん)

47

Page 48: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台北市の弁護士会長で、優しい父親だったそうだ。

李さんの家族は、国民党の武力弾圧で外出できない状態だった。3月 10日の夕方、隣人のおばさんがスルメイカを 3匹譲ってくれた。そのとき李氏の家には 4人の弁護士がいたそうだ。もらったスルメをおかゆにして食べようとすると、中国兵がやって来て父を連行しき、そのまま行方不明となった。父は青山教会で洗礼を受けたため、李氏の家庭では毎年 3月 10日に礼拝をして、聖書を読んでから夕食にスルメイカのおかゆを食べるそうだ。

張旭昇氏お話:ご子息 張良沢氏

台南にて弁護士を開業した方で、ご子息の張良沢氏は 1970年~1992年までアメリカで過ごし、その後反政府運動のために台湾に帰ってきたそうだ。

蒋介石政権は中国人の政府であって、台湾人には合わない。国民党の政権はもういらないし、大陸の政権もだめである。国際社会では、台湾には日本の協力が必要である。

228事件について

日本が戦争に負けた後、日本ではマッカーサーによる統治が行われた。蒋介石はソ連などによる日本の分割統治を阻んだ。そのため、日本の人で蒋介石を慕う人もいるのだろうが…。

アメリカが蒋介石の中国入りを阻んだので国民党は台湾に来た。しかも日本は台湾の主権を放棄しただけなのに、中国国民党は台湾の人民の意向を聞かずに強引に入ってきた。彼らは戦勝国の立場でやってきたので台湾人は呆れた。台湾の人たちはそれでも我慢しなければいけないと考えたのだが…。

228事件は中国兵が闇市でたばこを売りながら生活していた女性を乱暴したことから始まる。暴動が起き、台湾大の生徒が放送局を占拠、そのためか犠牲者は台湾大の生徒が多かったそうだ。国民党の援軍が基隆に上陸する前、海から 18 万発の砲撃があったことも教えてくださった。国民党が台湾の政権を牛耳っている頃の教科書には、228事件は日本兵が台湾人を殺した事件だという、嘘の歴史が書かれているそうだ。町には蒋介石の銅像があちこちにあったという。しかし現在は撤去されつつあり、蒋介石の存在はだんだん

48

Page 49: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

と薄められている。ご遺族の皆さんは、228事件について真相を知りたいし、それを書くべきだと述べた。ただ、戒厳令下でそれを言うと逮捕されてしまうので、話したくても口に出すことができなかったのだという。

最後に

話したくても話せない、自分の子どもに真実を伝えることができないというのはすごく悲しいことだと思った。次の世代に 228事件について、自分達が実際にどんなことを経験したのかを伝えていくことができないのはもちろん、教育によって親と認識が違ってきたりする。最近になってようやく話すことができるようになり、本当によかったと思う。私も、今回聞くことができた貴重なお話を家族や友人に話して、考えていきたいと思う。そして、次の世代へ伝えていきたい。お話をしてくださったご遺族の方々、このような機会をくださった先生、交流に関わった全ての方々に感謝したい。

49

Page 50: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

ノスタルジックな街、台北 

09B4146010E  関 美香子

松山空港をでて台湾の地にひとつ足を踏み入れただけでドキドキしてしまった。あいにくその日は雨だったが、日本のそれと色彩がまるで違うのだ。台湾で感じた「味」について私なりにまとめてみたい。

  台湾の建築物は古いものが多かった。それは歴史を積み重ねることでますます魅力的になっているようだ。コンクリートのくすんだ色、いろんな形の窓の格子、鮮やかな漢字表記の看板、たくさんのバイク、日本でもおなじみのコンビニ・・・。対称に、日本の中心は新しいものが多い。経済の発展を象徴するものではあるのだろうが、

なぜか無機質さに物悲しい気持ちになる。台湾の町を見て懐かしく感じるのは昔の日本を思わせるからという人もいるが、残念ながら私はわからない。ただ直感でこころがひかれてしまう何かがある。

 

 町の通りも南国を思わせ、日本とは少し異なる。日本でいうアーケードのような屋根がある。そしてその下に店が連なるのだが、アーケードとは別に歩道がある。そして多くの店(特に飲食店)には壁がなくオープンになっている。なぜだろうか。それは温暖な気候を生かして、テラスのように店先を開放するからだろう。食事時にはおいしそうなにおいがただよってきそうだ。

50

Page 51: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

 ここで代表的な建築様式をまとめてみたい。・ミーナン式→中国福建省移民たちの居住様式 平屋が主で、レンガ造りに瓦屋根が特徴的。雨の多い台湾に合わせて屋根が傾斜し、ひさしが付いている。・バロック式→豪商たちが好んだリッチな様式17世紀ヨーロッパで流行した、豪華絢爛な建築様式がバロック様式。台湾では 19世紀に流行し、豪商たちが競って建てた。立体的な彫刻や曲線のデザインなど、他の様式にはない派手さがある。・洋樓式→ヨーロッパと台湾の融合スタイル

1860年代~1900年初頭までの長い間、流行し続けた洋樓式。主に二階建てで、アーチ型の立体感のある柱などヨーロッパの影響がある。屋号や縁起のいい動物彫刻を飾るなど台湾的要素もある。・現代主義式→第二次産業革命以降に登場した建築様式直線的でシンプルなデザインが特徴。日本統治時代とリンクするため、竹をイメージした窓枠を付けるなど日本の影響をうけた建築も多い。

 建物だけでなく、道路の幅やバイクの多さ、生い茂った街路樹はここが日本ではないと視覚に印象付ける。顔も服装も大差ないのに雰囲気ががらりと変わる。新しい物にも魅力があり、きれいでよいかもしれない。また、耐久性を考えればそれは仕方ないことである。しかし私がさみしく感じてしまったのはそのもの自体ではなく、新しくてきれいで丈夫なものをすぐに求めてしまう心だったのかもしれない。台北に旅行の際は観光地だけではなく雰囲気まで味わえるまちだと感じた。

51

Page 52: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾学生との交流会

(東呉大学、交通大学)

09B1101021J  柴野 真行

当初、台湾学生に対して抱いていたこと→中国による反日教育で日本には良い印象を抱いてない→日本の文化(スポーツ選手や芸能人)などは知らない→日本に興味がない

やはり、授業で学んだ通り年配(戦時中の日本教育を受けて育った人たち)の方々は親日が多いと予想していたが、その後の大陸からの教育、支配を通じて今の中年~若い世代においては親日は少ないと予想される

実際に交流してみて→好きな芸能人を聞いたとき、当然台湾で活躍されている人を言ってくれると思っていたが…→実際は日本の芸能人を迷いなく即答された時はとても驚いた→なぜか聞いてみると…台湾では日本のドラマが多く放送されていて、それで好きになったそうだ台湾の芸能人に対して聞いてみると、興味がないとあっさり言われ、とても驚いた・考えてみると、台湾の街を歩いてみてもセブンイレブンや吉野家など日本でみられるお店も多くみられた→そういう点からも台湾に日本文化が根付きつつあるのではないかと感じる・またその他にも日本の漫画なども多く読まれていて、外国人と交流しているのを忘れる時も多くあった

しかし、興味深い意見も聞くことができた交流している時、日本に対してどう思っているか質問したところ、若い世代は日本に対して正のイメージは持っているが、戦争を経験した年配の方々は日本に対して負のイメージを持っていると答えてくれた→これは今まで僕たちが学んできたことと全く逆の事実だったため、とても驚いた

52

Page 53: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

・総合的に考えると、僕たちが今回の合宿で交流した台湾人だけで台湾人がどうだこうだと言うことは安易であると感じた・十人十色という言葉がある通り一つの事実に対しても感じる思いは人それぞれなので、歴史を一つにまとめることはできないと感じた

同時に僕が思ったことは、過去の事実はどんなに悔やんでも、戻らないということ。それよりも、これからつくれるまだ見ぬ未来をより輝かしいものにしていくという姿勢が大切であるということ。です。

そのためには、台湾で今叫ばれている中国からの独立に僕たちも力をかし

てあげること。そして、僕たち日本人が台湾のことをはじめ、もっと海外に興味を持ち、積極的に外に出て自分で感じることが大切だと思いました。今回僕はこのゼミ合宿を通じて、初めて海外の学生と交流する機会がもてました。そこで、学ぶということは机の前で教科書を開いているだけではないと思いました。多くのことを感じ、得られたものをこれからの自分に還元していきたいなと思いました。

53

Page 54: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

228事件について09B1107014D  飛騨 新馬

1.  228事件とは?1947年 2月 28日、台湾台北市での抗議デモをきっかけに台湾全土に広がった本省人と本土から来た外省人との間に起きた抗争。約40年間続き、別名『台湾大虐殺』と呼ばれる。

2. 発端1947年 2月 27日夕方、6人の台湾省専売局台北局の局員が、闇タバコを販売していた林江邁を取り締まる。その際、土下座して哀願した林江邁を銃剣で殴打、所持金及び商品を没収。それを見て憤慨した民衆に囲まれた取締官が発砲、無関係の通行人が射殺された。

3. 背景当時の台湾ではタバコが専売制だったが、中国本土では自由販売が許されていたので多くの本省人は不満に思っていた。また日本統治の終了から祖国復帰を期待したにも関わらず国民党政府の腐敗政治と、中国人官僚による台湾資材の接収・横領によるインフラが進み、国民感情は最悪だった。

4. 経過・その1発砲の翌日、怒りに沸いた市民が台北市専売局へ向けて大規模デモ行進を行う。これに対して国民党政府は国民に向けて機関銃を乱射、その後は台北市外にも暴動が広がり、大量虐殺が行われる。

54

Page 55: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

経過その2本省人側はこれに対し、ラジオ局を占拠して日本語で「台湾人よ立ち上がれ」と呼びかけた他、軍艦マーチを流す等、抗議活動を拡大。また、日本語、台湾語を話せない、君が代を歌えない者を暴行、排除しながらのデモ行進などの反抗手段をとった。

経過その3激化する戦況の中、徐々に劣勢になっていった国民党は一度対話を検討するも、台湾行政長官兼警備総司令の陳儀はこれを拒否。密かに本土の蒋介石に救援を要請、約 1 万 3000人の兵を投入。検閲所を設けて逆に北京語を話せない者を暴行、殺害した。

経過その4一方で国民党は 1948年5月 10日に事実上の戒厳令である動員戡乱時期臨時条款(どういんかんらんじきりんじじょうかん)を施行し、弾圧を強化。その後は1987年まで多くの台湾人が処刑された。

5. 結末事件発生から台湾籍の旧日本軍兵や学生等を中心に善戦した本省人だったが、最終的には政府軍により制圧され、台湾全土が支配下におかれる。その後、1987年に戒厳令が解かれると共に政府からの正式な謝罪により終結したと言われる。しかし、その後も言論の自由は制限され、李登輝が刑法を改正する 1992年まで続いた。

6. 影響被害者総数は約 28000人ともいわれるが、戒厳令により事件の調査は長年タブー

55

Page 56: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

とされ、実態は明らかになっていない。事件後は多くの関係者が処刑あるいは国外逃亡した。また、後の総統となる李登輝もこの事件中に取り調べを受けたことがきっかけで恐怖政治から台湾人を救うことを決意したと司馬遼太郎語っている。

7. 感想歴史的な大事件である 228事件を知る日本人が少ない事に(とある調べでは1割程度)驚いた。また 228事件の資料も少なく、数字が出ない事からもいかに国民政府が情報秘匿を行ったかが窺える。でも、台湾では遺族は勿論、学生までもが台湾で最も大きな事件として捉えているのを見て、ようやく人々は事件を知るようになったのだと感銘を受けると同時に、今でもその首謀者たる国民党が与党な事に驚きを受けた。

56

Page 57: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

日台友好の懸け橋として09B1112028E  小川 賢一

3月 11日、私たち中川ゼミ一行は台湾の国立中央大学で行われる学員日華友好会の桜の植樹祭に出席しました。国立中央大学は台湾の桃園県にある大学です。その日はたまたま道が空いていたので早く着き、ついでだからと国立中央大学の案内をしてもらいました。台湾でもトップクラスの大学だけあって設備が充実していて、中でも図書館が 2つもあるのには驚きました。さて、今回桜の植樹を行う学員日華友好会とは、中央大学の学員によって結成された日台の友好団体です。この組織が生まれるきっかけとなったのは 1999年の「特別卒業証書授与式」でした。これは戦時下に学徒動員によって出征し学業を続けることが出来なくなり、戦後も複学が出来なかった中央大学の学生に対して台北で「特別卒業証書」を授与したことです。その式に感動した数名の有志が集まり、日本の学員を中心として学員日華友好会は誕生し台湾との交流を続けています。その活動としては、2009年の台湾における台風 9号の被害に対して義援金を送り、また日台友好のシンボルとして中世記念堂などに約 900本もの桜を植えてきました。 そこで今回の植樹祭、本来はこの時期ですと割と温暖であるはずの台湾ですが、その日は雨がちらつきとても寒い中での式典となりました。今回植樹されるのは河津桜・大寒桜・大漁桜をあわせて 50本もの桜です。さらに、今回の式は日本から海部俊樹元首相が参加し、直筆による「友好の桜」の石碑の除幕式も行われました。式典の途中では国立中央大学の近隣にある幼稚園の園児との写真撮影もあり、日台の友好が進展している事を印象付けられました。近い将来 50本もの桜が一斉に咲く光景は台湾の学生たちにも平和・友好を実感させてくれることでしょう。空気は寒くとも、とても心温まる式典でした。 最後に、学員日華友好会の長田繁会長の言葉を借りれば、このたび嫁入りした「娘」たちが今後の中央大学と国立中央大学の交流のシンボルに、さらには日台友好の懸け橋となることを祈ります。

57

Page 58: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾の料理について09B2121032E  田中 俊

 私は今回の台湾合宿でとても楽しみにしていたことの一つが台湾での食事です。だからといって特定のものを食べようと決めていたわけではありませんでした。普通海外に行くなら、イタリアならピザ、韓国ならキムチ、などとその土地の名物を食べようと決めて行きますが、今回はそれを決めることが出来ませんでした。なぜなら台湾料理というものが具体的に想像できなかったからです。中国ならば中華料理ですが、中華料理といっても地方によって様々です。だから私は実際現地にいってからおいしい料理を見つけることを楽しみにして、日本を発ちました。

 [1]言葉の問題

 今回の合宿での食事の多くはご招待や夕食会だったので、ホテルでの食事が多かったのですが特にメニューを見るということは無く、だんだんと料理が運ばれてくる、というかたちのものが大半でした。しかし士林夜市に行ったときは言語の違いというものを体感させられました。夜市は食べ物を売っている屋台がかなりたくさんありますが、たいていは看板に大きく漢字が書かれているだけで、それがどんな食べ物を意味しているかもわかりません。わかったのは「臭豆腐」ぐらいです。実際に近くで見ればどんなものを売っているのかはわかりますが、注文がまた難しいのです。一個ずつ売っている大きなチキンなどはどうにかなりますが、夜市の屋台はトッピング制のものがとても多く、システムもどこかに書いてあるのでしょうがよくわからず、そもそもトッピングの材料が一体なんのなのかもよくわからず、人気のある店は結構列ができてたりもするので、これは1人で買うのは厳しいな、と感じました。しかしそのときは東呉大学の日本語学科の学生と一緒だったため、彼らのすばらしい日本語力のおかげでいろんなものを食べることが出来ました。彼らにはずっと頼りっきりだったのでとても感謝しています。けれども中にはメニューに日本語表記がある店や、お店の人が少し日本語を話せたりするなど日本人にとってやさしい屋台もありました。しかし日本語が少し間違っていることも多いので注意が必要です。食事マナーなどについては特に日本との違いは感じなかったです。

 [2]味

 日本に住んでいると自然に味噌やしょうゆの味に慣れてしまいます。海外の料理を食べればその国や地域独特の味付けというものがたいていあります(韓国の辛さ

58

Page 59: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

やインドのスパイスなど)。そのため海外の料理に抵抗を感じることがあることはしょうがないと思いますが、なるべく抵抗は感じずにいたいと思っていました。台湾料理は、特に特徴的な味付けを感じることもなく、すんなりと受け入れることが出来ました。しかし白米がなかったので少し味が濃く感じました。あと少し気になったのは、肉料理に骨つきがかなり多かったことで、食べにくく感じました。中にはとても辛いスープや味付けもあり、バリエーション豊富でした。全体的には美味しかったです。

 [3]量

 量は全体的に多いです。ホテルの食事は多めに作られているのかもしれませんが、特に量の多さを感じたのは士林夜市ででした。私はこの夜市では日本の商店街と同じようにいろんな店でいろんな物を買って食べ歩きをしようと思っていました。しかしその計画は早くも壊れてしまいました。なぜならどこの店でも最小の単位の食べ物が日本人にとって多すぎたからです。炒め物の詰め合わせは一番小さくても昼食のおかずになりそうなほどつまっているし、人気のチキンは日本のコンビニで売っているチキンの三倍ほどもありました。一つ食べるのにかなり時間がかかり、お腹は膨れるし、どこかに座ってゆっくり食べたいと思うほどでした。しかし私はいろんなものを食べたかったので全て食べきらずに次の店に行き、食べきれない量でも気にせず買うことにしました。いつのまにか両手はふさがってしまい、せっかく買ったものは冷めてしまっていて、損した気分になりました。東呉大学の学生に「もっと小さいほうが良くないですか?」と聞いたところ、「台湾の人たちは小さくて安いものよりも大きいもののほうが好き」と言っていました。

 [4]値段

 台湾は物価が安いので日本人にとっては台湾の商品はだいたいが安く感じます。夜市や他の店をまわっていて高く感じたことはありませんでした。台湾は世界一コンビニが多い国のようで、100メートル先に同じ日本のコンビニがあったりします。またファーストフードも日本と同じようにあり、吉野家やモスバーガー、マクドナルドなどをよく見かけました。しかしこれらの店は夜市ほど安くは感じず、むしろ台湾の人にとっては少し高いもののようです。マクドナルドを高く感じているというのは意外でした。

 [5]印象に残ったこと

 他に印象に残った台湾の料理について述べます。まず「臭豆腐」です。これはどんな食べ物かというと漢字の意味そのままです。東呉大学の学生に案内されたので

59

Page 60: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

すが、店の前に来ただけでものすごいにおいがしてきました。例えるなら動物園の子牛が入っているゲージがあるゾーンのにおいです。店の中にはいくつかテーブルと椅子が置いてあり、満席でした。私は好き嫌いは少ないほうなので臭いけれどぜひ一度食べてみようと思いました。ここで働いている店員はにおいが付くのが気にならないのかと思いましたが、東呉大学の学生が言うには、台湾の人はこのにおいがあまり気にならないそうで、よくおやつ感覚で食べにくるそうです。日本でいう納豆のような感じだと納得することにしました。席について小さな鍋が運ばれてきて、中には普通の豆腐が入っていました。食べてみると意外と臭みは無く、だんだん慣れてきておいしく感じることが出来ました。しかしこれもやはり量が多かったです。 あと印象に残ったのは台湾での食事に毎回たくさんのフルーツが出てくることでした。この時期はスイカやバナナが旬のようですが、バナナは今値段が高いようで毎回スイカが出てきました。また柑橘系の果物も多かったです。甘さは日本のほうが安定しているように感じました。台湾人はフルーツを多く食べることが一般的だそうで、健康的だと思いました。

 台湾の料理は、例えば本格的な中華料理やホテルでの食事もあれば、一般の食堂や屋台での食事もでき、とにかくバラエティーに富んでいるという印象を受けました。これだ、という名産は特にはありませんが、旅行者それぞれが自分の好みにあった食事を選ぶことができるという点で、台湾料理は素晴らしいと思います。まだまだ出会っていない料理が台湾にはあるので、ぜひまた新しい料理を発見しに行きたいと思いました。

60

Page 61: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾の食事09B3131019J  手島 歩

 坦々麺坦々麺は台南市の発祥で、誕生は 17世紀にまで遡るという。台南では漁業で生活する人が多くいたが、夏場は台風が多く、その間は船が出せないため生活が苦しかった。その人々がその時期に作って生計を維持したのが坦々麺である。現在台南の名物として知られているが、台北など他の場所でも広く食べられている。実際にふらっと立ち寄った店でも坦々麺を食べることができた。

 臭豆腐植物の汁と石灰等を混合し、納豆菌と酪酸菌によって発酵させた漬け汁に豆腐を一晩程度つけ込んだ物である。豆腐自体の発酵はほとんどしていないが、豆腐表面の植物性タンパク質が、漬け汁の作用で一部アミノ酸に変化し、独特の風味と強烈な匂いを発するようになるらしい。調べてみてあの独特の匂いはこのためだったのかと納得することができた。10メートル先からもわかるあの匂いは生涯忘れることができないだろう

紹興酒 台湾のお酒と言えば紹興酒とビールである、と現地の方が教えてくれた。紹興酒にはアミノ酸が日本酒の数倍入っており、2日酔いを防いでくれるという。味の方は養命酒のような味で、薬味の味が強かった。しかしライムを入れると味がまろやかになり、まさに何杯でもいける味となった。その日はたくさんお酒を飲んだにもかかわらず、次の日すっきりと目覚めることができたのは紹興酒のおかげだと思う。

61

Page 62: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

蒋介石と中正紀念堂09B3134023C  荒井 孝介

今回の台湾研修で、最初に私達は中正紀念堂へ行きました。中正紀念堂は蒋介石を顕彰し 1980年に竣工された施設です。まず始めに、蒋介石について触れようと思います。蒋介石とは中国国民党の軍人・政治家で、中華民国の初代総統であった人物です。1908年に蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学し、そこでの経験が政治・軍事に対する考え方の形成に大きく影響を与えることとなり、蒋介石にとっても日本はとても縁の深い国となりました。1924年には黄埔軍官学校という国民党直属の士官学校の初代校長となり、卒業生が国民党の党内や国民革命軍の中核となると党内における蒋介石の影響力は高まっていきました。その後、中山艦事件や上海クーデターを経て国民党内で実権を握ると、1928年には国民政府主席に就任しました。また、1926年から 1928年にかけて行われた 2度の北伐によって各地の軍閥と共産党勢力を弾圧しました。北伐後も共産党勢力に激しく攻撃をしていましたが、1936年に西安事件によって共産勢力への対応の見直しを迫られ、翌 1937年の盧溝橋事件を契機に日本との間で日中戦争が勃発したために蒋介石は共産勢力を国民党が吸収する形で第二次国共合作が成立しました。日中戦争終結後に国共内戦は再開され、当初はアメリカの支援を受けた国民党が優勢でしたが、国民党の兵士の略奪行為などによって民衆の支持が低下し、冷戦の開始によってアメリカからの支援が先細りとなると次第に形勢が逆転していき、淮海戦役での敗北などにより北京・上海を始めとする主要都市を次々と失い 1949年に国民党はついに中国大陸から台湾へ撤退せざるをえなくなりました。台湾は第二次大戦後に日本軍の武装解除を理由に国民党が進駐しました。進駐当初は台湾の国民は国民党を歓迎していましたが、国民党の汚職や腐敗を目の当たりにして「犬去りて、豚来たる」と失望しました。さらに 1947年には民衆の暴動を発端とする二・二八事件によって本省人の知識人層を大勢虐殺したことにより本省人と外省人との間に決定的な対立を生み、本省人にとって蒋介石は憎むべき存在となりました。しかし台湾では蒋介石と共に台湾に渡って来た外省人が権力の中枢に未だに多くいるので蒋介石は中華民国の偉大な指導者として尊敬の対象になっています。そのため、偉大な指導者である蒋介石を記念して建てられたのが中正紀念堂です。中正紀念堂は蒋介石を追悼するためのものであると同時に、中華民国の精神やイデオロギーを示すものであったので建物の各部は様々なテーマに基づいて作られています。例えば、八角形の屋根は「忠・孝・仁・愛・信・義・和・平」の八徳を象徴し、階段の段数の合計が蒋介石の享年である 89と同じであり、外装は青い瓦屋根と大理石による白い壁により中華民国の国章である「青天白日」を表しているなどが挙げられます。また、蒋介石が生前使用していた公用車や着用した衣服や写真など蒋介石にまつわる数多くの

62

Page 63: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

品々が展示され、蒋介石の執務室を再現した部屋もあります。これらの展示を見てとても心に残ったのは、十代のころの蒋介石の写真の目つきがとても鋭くて野心に満ちているように感じたことと、蒋介石を讃える文章で描かれた肖像画があったことでした。私はこの肖像画を見てこのような肖像画を描いてまで蒋介石を讃えようとする行為が行われたという事実と、そういう行為を行おうと思わせるほどの当時の蒋介石の存在の大きさに驚きと同時に不気味さを覚えました。さらに、メインフロアには巨大な蒋介石の銅像があり、その両脇には儀仗隊が警備していて、1時間毎に行われる儀仗隊の交代儀式は台湾の観光名物となっています。兵士の動きはとても整然としていて実際に目にすることが出来てとても見応えのある儀式であると感じました。今回は学員日華友好会の方達とご一緒していたので本来であれば入れないところに入って写真を撮ることが出来るなど個人で旅行であれば決して体験出来ない様なことを体験することが出来てとても良い経験をしました。また、展示物や建物の荘厳さや敷地の広さなどから現在でも台湾における蒋介石の影響力や存在の大きさは非常に大きいものなのだということを強く感じました。

63

Page 64: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾の学生との交流会

09B3135018F  佐野 裕人

私は、中川ゼミの台湾合宿で学んだことの中で台湾の学生との交流が特に印象深かったのでこれについてレポートします。

「今回の交流した学生の大学について」今回の合宿で交流した大学は二つです一つは、東呉大学で、もうひとつは交通大学の方です。

交通大学              東呉大学

これは両方の大学で言えることなのですが、日本語がとてもうまく、たどたどしい感じもなく割とくだけた日本語も知っていました。なので、私が普段会話するような感じでコミュニケーションが取れました。今回交流した方においてですが、とても真面目に日本語を勉強している印象を受けました。

64

Page 65: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

「台湾の学生について」

今回の合宿で私が主に話した台湾の学生は 3人でした。その 3人とも寮生活の方だったのですが、台湾の学生の方は寮に入る人がかなり多いようです。日本でももちろん一人暮らしや寮に入る人はいますが、台湾ではその数が日本よりも多いようです。また、先ほど述べたとおりまじめな学生が多く、勉学に励む生徒が多いようです。今回交流した 3人の中の 2人は、学校での勉強が忙しくアルバイトをする時間がないようです。1人はアルバイトをしていましたが、週に 2回でそれも短時間しかしていませんでした。なぜそんなに少ないのか聞いてみると、やはり大学での勉強が忙しいことが主な理由でした。

「台湾の学生から見た日本」

この 3人の中で日本に来たことがあるという方が居たので、どれくらい日本の現代の文化を知っているのか尋ねてみると、驚くほど知っていました。日本のドラマ、日本の音楽、などなど、私も知らないようなものまで知っていることに大変驚きました。その方は特に日本のアイドルグループである「嵐」が好きで、コンサートを見に行くために日本まで訪れることが何回かあったようです。その際に東京の色々な街に出かけるようで、かなり日本について詳しい印象を受けました。

「まとめ」

私は今回の合宿で台湾の学生との交流が非常に有意義な時間に感じました。年齢も近く、日本の事をとても好意的に思っていてくれて、話も合い、いつまでも話していたい気分になれました。日本の学生と台湾の学生は、もちろん国の違いもあるため、お互いに驚くことが多かったのですが、共通点も多く、やはり学生らしい考えを持っていて、国は違っても自分たちと同じような事を思っていて楽しかったです。また、今回のレポートとは少し逸れますが、学生以外の方との交流も非常に有意義でした。是非また台湾に行って、もっと台湾を知りたいと感じました。

65

Page 66: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾 國立中央大学植樹祭09B3138005K  冨澤 健人

2005年、日本の中央大学学員日華友好会から台湾の中正紀念堂に対して贈呈された「友好の桜」がきっかけとなりそれからも同会から台湾に「友好の桜」を送ったり、中正紀念堂の桜が台湾の各所に苗分けされたりなどされ、桜の輪が広がっている。今では新竹県桃山小学校、國立金門技術学院、世新大学などにその桜が植えられている。

そして今回 2011年 3月 11日、台湾 國立中央大学にて「友好の桜」の植樹祭が行・われた。私たち中川ゼミの一行は式典開始の予定時刻より少々早く到着したためあちらの中央大学の学生の方に大学のキャンパス内の案内をしていただいた。敷地はとても広い。遠くに行きたい時は各所に設置されている自転車を自由に使ってもよいというほどだ。また著名な建築家がデザインしたという立派な図書館があったり、ノーベル賞受賞者の名前が刻印されているベンチが各所にあるなど素晴らしい、面白い点も学生の方に紹介して頂いた。たくさんの自然に囲まれたキャンパスということで私たちの通う中央大学 (多摩キャンパス)にも近いものを感じ、このような環境で勉強をしているということで親近感を抱いた。

そして時間も過ぎていき、私たちは式典会場に向かった。その日はあいにくの雨で式典会場も屋外ということでとても寒かったが、ありがたいことに大学の方が温かいお茶をお出ししてくださったため暖を取ることが出来た。

中央大学学員日華友好会の方々、少し遅れて海部元首相が到着して式典が始まった。台湾の中央大学の方、日華友好会の長田氏、日本の中央大学の学長である永井氏、そして海部元首相それぞれから式辞が述べられた。内容としては「台湾中央大学、中央大学は同じ中央という名を冠するが元々は何の関係もなかった。偶然同じ名前になっただけだった。だが、これも何かの縁として姉妹校の協定を結ばせていただいた。そして今回、友好会から桜の木を贈呈ということとなった。そしてこのことをきっかけに更に、日台の結びつきが深くなっていくとよい」ということだった。

式辞終了後、会場横にて桜の木の植樹が行われた。悪天候であったが海部元首相も自らスコップを持ち参加なさっていた。そして「友好の桜」の石碑の周りで記念撮

66

Page 67: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

影を行い式典は終了となった。

今回の植樹祭に参加させていただき、私は台湾と日本の関係は形式的なものではなく、心からの友愛に溢れた関係なのだということを強く感じた。元々中央大学という名前が同じになったのは偶然だとしてもこうして一つになったのも縁だとやはり思えた。友好会により「友好の桜」が台湾で少しずつではあるが確実に増えてきているように、私たちのような日本の若い世代にも台湾と日本との友好的な関係が浸透していってほしいように思うし、そのために今回直接、植樹祭に参加したゼミ生たる私たちが浸透のために一役買って行きたいと思っている。

67

Page 68: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

台湾の交通事情09B4141013L  古賀 大道

今回、中川ゼミのゼミ合宿において学んだことをレポートにする上で、私は台湾の交通事情についてレポートしていきます。

≪台湾の道路≫ 台湾の道路は日本と違って車は右側通行です。また、日本以上に多くのバイクが走っており、交差点には信号待ちのバイク用の待機エリアがあり、台湾独特だといえます。

台湾の道路

信号待ちのバイク

68

Page 69: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

≪台湾のバス≫

そんな台湾の道路を縦横無尽に走っているのがバスです。台湾ではバスが街中を走り回っており、どこへ行くにも使えます。また、一つのバス停に複数の路線のバスが停まるので、ある程度路線図をわかっていないと違うバスに間違って乗ってしまうかもしれませんので、注意して乗ったほうがいいかもしれません。また、日本のバス停は歩道に面したところにあるのに対し、

台湾のバス

台湾のバス停は道の真ん中(右車線と左車線の間)にあったりします。なので、バスを利用するときは横断歩道を半分だけ渡るので、これまた日本とは違った風景が見られます。

≪台湾の地下鉄≫

バスと同じようによく使われる公共の乗り物が地下鉄です。台湾の地下鉄は日本の電車とよく似ています。日本同様、優先席もあります。ただ、日本と違い、車内や駅構内での飲食は禁止されており、破った場合は罰金を科せられます。

台湾の地下鉄

69

Page 70: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

また、切符も日本とは違い、日本のように紙の切符ではなく、チップ型です。重さは硬貨よりもだいぶ軽くできています。チップ型ですが、改札を入るときは、日本のSUICAやPASUMOのように改札にかざして使います。出るときは日本の切符同様入れると開きます。また、日本と違い改札横に駅員がいないところもあるので、紛失すると面倒です。

台湾の地下鉄の切符

≪まとめ≫

上で述べてきたように、台湾の交通はバスが多く走っていたり地下鉄があったりと、似ている部分があると同時に、車が右側通行や、バス停の位置だったりと、大きく違う部分もあります。 また、道路に関しては日本人には不慣れな右側通行ということだけでなく、バイクが非常に多いことや運転の荒い人が多いことから、事故が多いようです。 日本の交通に慣れているわたしたち日本人は、台湾に行ったときは日本にいるとき以上に事故に気をつけたほうがいいようです。

今回台湾の交通事情について調べてみて、交通にも台湾の独自の文化があることを知りました。また、実際に現地に行ってみて、バイクの多さに驚き、また、日本以上に道を渡るときに気をつけなければと感じました。

70

Page 71: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

228事件

09B4143031D  佐藤健悟

1945年 8月 15日に台湾は祖国復帰し、これを中国の古くからの言葉で「光復」という。当時台湾の人々は中国語をあまり知らなかったので降伏と間違った人もいたという。

日本統治の影響良かった事は、インフラの整備とある程度の水準を持った道徳教育と社会の安定であろう。しかし、悪影響ももちろんあるわけで、それは、すべてが違うわけでなく一部だけ違う民族意識・歴史感覚をもった中国人が誕生したことである。すべてが新しい民族であれば、新たな国としての独立も認められるであろう。だが、台湾の場合はそうはいかなかったのである。

台湾では、公民化運動・戦争動員の8年

中国では、抗戦の8年お互いに違った歴史感覚を持っていて、持っている意見も違う。普通ならば、正式な議会で話し合いが続けられるべきである。

新政府のトップに立ったのは、国民党政府の陳儀(台湾行政長官として)であった。一党制ではなかったのだが、実際には一党独裁政治を展開していった。

当時の台湾人は、国民党政府や大陸の軍人たちに大きな期待と熱情を抱いた。しかし、役所では、汚職や腐敗がはびこり、軍隊には規律がなく、勝手放題に何でも取りたて民間を煩わすばかりであったし、更に、経済の破綻、不条理な貨幣制度、物価の高騰などにより、台湾人の不満は膨らんでいった。日本敗戦まで台湾では、台湾銀行券が通貨として安定した価値を維持していた。国民政府の統治開始後、中華民国の通貨「法幣」が法定貨幣となったが、大陸のすさまじいインフレーションが台湾に持ち込まれることとなった。

中国当局に対してしばしば意見をする人もいたが、聞き入れてもらえず、事件後は

71

Page 72: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

弾圧を受けた。

228事件とは、林江邁と警官との偶発的な事件といえる。

1947年 2月 27日の夕方 7時ごろ、専売局台北分局の取締官、傅学通ら六名と台湾警察隊の警官 4名が、闇煙草を取り締まるために太平町(今は延平北路)に赴いた。そこで闇煙草を密売していた林江邁の煙草と売上金を没収した。林江邁は 40歳の寡婦で、10年前に夫が亡くなったとき、二人の息子と、おなかには娘がいた。そのため生活は苦しく、闇煙草を売ることで何とか生活をしていた。林江邁が没収品を返してほしいと涙ながらに訴え、小競り合いになるうちに、官憲の一人が銃の柄で林江邁の頭を殴り、林江邁の頭を殴り、林江邁の頭から血が流れた。周りにいた人々がこれを見て憤激し、専売局のトラックを破壊するなどして反撃した。この混乱の中で傅学通は民衆から逃れるために威嚇射撃を行ったのだが、その弾がたまたま歩いていた陳文渓に誤って命中した。取締官は警察局に逃げ込んだので、群衆は警察局を包囲して殺人を犯した人物の引き渡しを要求したが認められず、群衆の怒りはますます高まったのである。

翌朝午前9時、民衆は路上でドラを鳴らし、商店休業を訴え、デモ行進を挙行、まず太平町 2丁目の派出所を破壊し、12時になると民衆は専売局台北分局に群れ集まり、犯人の厳罰を要求したが拒否されると、更に行き先を行政長官公署 [かつての台湾総督府、現在の台湾総統府]に変更し、陳儀に陳情しようとした。午後一時過ぎ、デモ隊は約 4500人にまで膨れ上がり、ドラをたたき、道々でスローガンを声高らかに叫び、勢いを増していった。この時、公署の広場前には、既に派遣されてきた兵士たちが警備していたが、突然銃声が鳴り響き、兵士たちは民衆に向けて一斉掃射を開始し、多数の死傷者を出した。これが事件の成り行きが収拾不能となってしまった原因なのである。

午後 2時を回ったころ、民衆は台北公園[俗称は新公園、現在は 228和平記念公園]に集い、台湾放送局[現在の 228 記念館]に押し入り、全省へ向け放送を開始、台湾人は暴政にこうして決起するよう呼びかけた。こうして台北市での衝突は瞬く間に全島各地に広まり、各県・市もこぞって立ち上がり、全党挙げての政治抗争へと展開してゆくこととなった。

3月 8日午前、大陸政府の派遣した軍隊が基隆港に上流するやいなや、午後二時から直ちに街路掃討・密集射撃を開始し島内全域での血なまぐさい鎮圧がはじめられた。よく知られている 228大虐殺は、この時から開始されるのである

2月 28日から 3月 8日までの 9日間は、「全島蜂起」(先住民部落を含む)のために、72

Page 73: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

駐屯する軍隊・憲兵・警察がこれを鎮圧できず、民衆・軍警それぞれに死傷者を出し、台湾に居合わせた外省人たちが、ときには路上での報復の対象となっていた。

解決に動いた人々その九日間にも 228事件処理委員会が各地で成立し、事態を解決しようとした。この委員会から陳儀に交渉が行われた。

だが、陳儀は蒋介石に密かに打電し、軍の派遣を上申して鎮圧を要請していた。そして 3月 8日に手のひらを返し、処理委員会を反乱行動に従事していた集団として、関係のあった人々を処罰した。

台湾合宿や 228事件のご遺族との交流会に参加して

私には、228事件ほどの民衆の不満の爆発が、本で読んだだけでは信じられませんでした。私ならどんなことをされても、国家に立てつこうとは思いません。しかし、ほんとにほんとに、つらく、毎日不満がたまっていく一方だと、実際にこの耳で聞きました。まだ私には想像できるものではありませんが、事実として、苦しんでいる人がたくさんいた。このことは、中国政府、そして、台湾政府は深く反省すべきだと思います。政府は、過去のこととして処理しているというお話も聞きましたが、もってのほかです。何がいけなかったのか、最大限国民のことを思って、行動した結果なのか、もっともっと話し合うべきです。今は、学校の教育で 228事件や日本統治については、しっかりと学習するそうです。若い世代に真実の歴史を教えるためには、戒厳令の解除はほんとにギリギリのタイミングだったのではないでしょうか。日本人も隣の国がそんなことになっていたとは、恥ずかしながら、まったく知らない人がほとんどでした。このような機会が生まれることもなかったでしょう。戒厳令解除へ向けて、弾圧を受けながらも活動なさってくれた人々に深く感謝いたします。 

また、228事件前後のことも詳しく聞かせていただいたので、レポートに追加しておきたいと思います。 

まず、本来、日本と同じようにGHQの支配を受けるはずだった台湾が蒋介石によって支配され、それを一部の国民が認めていたのはなぜなのか。一つ目は秘密警察の存在。大きな秘密警察が組織されていて、反対の意見を大きな声で言えません

73

Page 74: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

でした。二つ目は土地改革を行ったこと。今まで、少ない収入で生活してきた小作農に新たに自分の土地を与えることで、政府の信用を買いました。 

228事件後の弾圧は突然起きたそうです。いきなり、家に政府の役人が押し入り、それが晩御飯中でも関係なく、無理やり連れ去られました。そのあと、政府に行方を聞いても何も答えてくれませんでした。残された家族は、どうしていいのか分からず、混乱しました。他にも、弾圧を受けた人はたくさんいましたが、秘密警察がいたので、お互いに話もできませんでした。じっと耐え、仕事をして、生活を続けていました。

 ご遺族の皆さんが互いに連絡が取れるようになったのは、戒厳令が解除された後でした。また、228事件の関係者は、結婚なども躊躇されるそうです。それを乗り越えてこその愛だということも教わりました。

小学校などの教育も変わりつつあり、昔は「蒋総統」の言葉を聞くと、起立、気をつけ、が常識でしたが、そのような習慣は今はなく、たくさんあった蒋介石の銅像も今はなくなっているそうです。

 日本統治時代の良かった点は、台湾でたくさん褒めてもらいましたのでここには書きません。でも、ありがとうございます。そして、悪かった点の中で、読んだ本には出てこなかったものがいくつかありましたので、追加しておきます。

 台湾人は、さとうの生産を強いられていました。さらに、ひどい搾取を受け、収入はとても少なかったそうです。また、小学校も、日本人と台湾人で違う学校にいかされ、教育は受けたものの、一緒に学ぶことはあまりなかったそうです。また、中学校に進学できるのも日本人だけでした。このように、敗戦国だから、という理由で片付けてよいのか、悩むものもありました。

 最後に、台湾は国家であるのか、というお話について書きます。台湾では、今はほとんどの人が様子を見ている状態であるそうです。大陸と一緒になるか、独立をするか、すごく大きな問題だと思います。貿易では、中国との取引が盛んで、友好関係は崩したくないでしょう。しかし、国民党は嫌いであって。日本人も、日本の政治の様子を見ている人が多いです。でも、日本の場合は、様子を見るというよりも無関心という言葉の方がしっくりきてしまいます。だから、今の台湾の元気さはうらやましいです。台湾の今後に期待しています。

 台湾合宿でほんとに貴重な体験がたくさんできました。私の中の知識も充実しました。でも、まだまだ、知りたいことがあります。また機会があれば、お話聞かせ

74

Page 75: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

てください。お世話になりました。ありがとうございました。

75

Page 76: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

228事件ご遺族との交流会レポート09B4145009C  菊池 匠

2011年3月13日、中央大学出身で228事件犠牲者のご遺族から当時のことを振り返ってお話していただきました。 林信貞さんの父親の連宗さんは台湾一中から中央大学法学部に進学し弁護士となりました。太平洋戦争終戦後、台湾省に勤め参議院議員になるなど台湾のために尽力しました。連宗さんは外省人の乱暴を咎め、台湾の憲法起草に貢献しました。228事件発生時も外省人と民衆との間を取り持ち和解に努めました。 しかし、228事件発生後の2月10日、信貞さんと連宗さんは台中に帰る予定でしたが、交通が止められていたため、弁護士の李さんの家に泊めてもらうことになりました。夕方頃、ジープが李さんの家の前に止まり男が数人入ってきて理由もなく李さんや連宗さんを連れて行きました。この知らせを聞いた連宗さんの奥さんは友人と連絡をとったり、夫を探してほしいという申請書を出しますが返事もなく、当時は誰がやったかもわからなかったので天国から地獄に突き落とされたような日々を過ごすことになりました。 李月美さんの父の瑞漢さんも228事件の被害者です。月美さんが11歳の時、瑞漢さんら弁護士4人は麻雀をしていて食べるものがないので、するめいかのおかゆを食べていた時に憲兵に連行されました。それ以来、李さん一家は連行された3月10日に毎年するめいかのおかゆを食べています。 張良沢さんの父の旭昇さんは22年間米国に滞在していましたが、台湾で反政府運動があるというので帰国し参加しましたが、国民党の謀略の被害者となってしまいました。 228事件のご遺族がこのような話ができるようになったのは李登輝政権以降のことでそれまでは戒厳令下にあって228事件のことはタブーとされてきました。当時は被害者同士の連絡ができず情報の共有ができませんでした。現在、ご遺族が知りたいことは事件の真相です。事件から50年以上たった今でもなぜ殺されなければならなかったのかという理由や経緯は明らかにされていません。事件の解決には台湾政府が歴史に対して真摯に対応することが大切ですが、なによりもっと多くの人々、特に若い世代の人々に事件のことを知ってもらうことが解決への一番の近道であるとあると感じました。

 

76

Page 77: c-faculty.chuo-u.ac.jpc-faculty.chuo-u.ac.jp/~nakagawa/H22-Seikeishi/第6回... · Web view日本統治時代、台湾語は使っても問題はなかったそうです。しかし戦後、台湾語を使うと罰金や体罰といった罰を受けるようになりました。それから戒厳令がしかれ、言論の自由、国会、選挙のない時代が約40年も続きます。台湾が民主

おわりに75ページというなかなかの量の報告書が出来上がりました。

中川ゼミに入り、このような貴重な経験ができたことを大変うれしく思います。

あと二年、私たちのゼミ生活は続くわけですが、一つの大きな行事がおわり、

だらけてしまうのではないかという不安もあります。

台湾合宿で、中央大学のOB・OGの方々にもお会いすることができました。

「学生時代を無駄にするな。学生は何でもチャレンジしていきなさい。」

と尻をたたかれました。

あと二年の学生生活、悔いの残らないように頑張ります。

このメンバーでまた台湾へ行けたらいいなと思います。

編集中川洋一郎ゼミ ゼミ長佐藤 健悟

77