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- 14 - 3. 先行研究(Previous studies) 本節で取りあげる先行研究は、平江方言全体に関する直接的な先行研究と考えられるも ののみである。その他の先行研究は、それぞれを参照する節で適宜取りあげる。 平江方言については、音韻、文法、語彙に関して様々な研究がなされているが、体系的 な研究は行われていない。それぞれ音韻のみ、または語彙のみの記述になっている。最も 早い言語学的な研究は楊時逢による方言調査報告(1974 年)である。その後さまざまな研究 が重ねられ、近年では口語に関する研究も増えてきている。詳しい状況は以下に示す。 先行研究には、地域的に分けると、平江城関方言に関するもの、東北郷方言に関するも のがある。領域で分けると、音韻、語彙、文法、方言帰属について研究されたものがある。 以下にそれぞれ述べるが、筆者以外の研究者による研究を先に紹介してから、筆者自身に よる研究も概観する。 3.1.音韻(Previous studies of phonetics) 以下は音韻についての詳しい先行研究を概観するが、音韻に関する詳しい内容は音韻論 の章 5.1 で述べる。 3.1.1.楊時逢(1974)(Yang Shifeng) これまで発表わされている限りで、言語学的に行われた最も古い研究は楊時逢(1974)であ る。実際の調査時期は 1935 年であるが、戦争の影響で、出版が遅れたようである。調査か ら出版まで約 40 年の時間差があったのである。調査時に記述したのは董同龢氏であるが、 調査データを整理して出版したのは楊時逢氏である。巻頭に調査方法、手順、分析方法など を明記している。 調査は平江県内ではなく、湖南省の長沙で行われた。冒頭では平江(三墩)と書いてあるが、 発音協力者は二人で、平江城関方言地域の三墩と平江城関方言地域の江出身の二人である。 二人とも湖南第一師範学校の学生で、調査当時は 18 歳である。二人とも平江城関方言地域 出身であるため、楊時逢(1974)は平江城関方言についての研究であると言える。 楊時逢(1974)の内容はまず音韻体系を、声母、韻母、声調別にあげ、それぞれ説明を加え ている。平江城関方言の音韻論研究はある程度網羅的に行われている。他に中古音との対照、 同音字などについても詳しく調べられている。中古音との対照では、声母と声調はそれぞれ 1 つの表で、韻母は開口、合口別で 2 つの表にまとめられている。同音字表は 9 頁にわたり、 更に 2 頁にわたって、音韻特徴を説明している。最後に、会話文について 2 頁、約 200 字の 記述が見られる。発音と方言の漢字のみ書かれており、意味の説明は記述されていない。巻 頭の説明によると、文法例文を用いた調査も行ったが、例文ごとの提示は見られない。巻末 の総合報告では文語音の調査結果、二種類の資料を方言音で読んだものが列挙されている。 語彙対照では、調査した文法例文より抽出した語彙(65)が地点別に列挙されている。 現在の観点から見ると、そこに記述された会話は特に語彙の面から文語体のように見え る。現在の城関の人はこのように話さないという点が多く見られるが、現在とあまり変わ らない音韻と文法特徴もいくつか見られる。例えば次にあげるような諸特徴である。 · 口蓋化が見られる [] 東京外国語大学 博士学位論文 Doctoral thesis (Tokyo University of Foreign Studies)

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3. 先行研究(Previous studies) 本節で取りあげる先行研究は、平江方言全体に関する直接的な先行研究と考えられるも

ののみである。その他の先行研究は、それぞれを参照する節で適宜取りあげる。 平江方言については、音韻、文法、語彙に関して様々な研究がなされているが、体系的

な研究は行われていない。それぞれ音韻のみ、または語彙のみの記述になっている。 も

早い言語学的な研究は楊時逢による方言調査報告(1974 年)である。その後さまざまな研究

が重ねられ、近年では口語に関する研究も増えてきている。詳しい状況は以下に示す。 先行研究には、地域的に分けると、平江城関方言に関するもの、東北郷方言に関するも

のがある。領域で分けると、音韻、語彙、文法、方言帰属について研究されたものがある。

以下にそれぞれ述べるが、筆者以外の研究者による研究を先に紹介してから、筆者自身に

よる研究も概観する。 3.1.音韻(Previous studies of phonetics)

以下は音韻についての詳しい先行研究を概観するが、音韻に関する詳しい内容は音韻論

の章 5.1 で述べる。 3.1.1.楊時逢(1974)(Yang Shifeng) これまで発表わされている限りで、言語学的に行われた も古い研究は楊時逢(1974)であ

る。実際の調査時期は 1935 年であるが、戦争の影響で、出版が遅れたようである。調査か

ら出版まで約 40 年の時間差があったのである。調査時に記述したのは董同龢氏であるが、

調査データを整理して出版したのは楊時逢氏である。巻頭に調査方法、手順、分析方法など

を明記している。 調査は平江県内ではなく、湖南省の長沙で行われた。冒頭では平江(三墩)と書いてあるが、

発音協力者は二人で、平江城関方言地域の三墩と平江城関方言地域の瓮江出身の二人である。

二人とも湖南第一師範学校の学生で、調査当時は 18 歳である。二人とも平江城関方言地域

出身であるため、楊時逢(1974)は平江城関方言についての研究であると言える。 楊時逢(1974)の内容はまず音韻体系を、声母、韻母、声調別にあげ、それぞれ説明を加え

ている。平江城関方言の音韻論研究はある程度網羅的に行われている。他に中古音との対照、

同音字などについても詳しく調べられている。中古音との対照では、声母と声調はそれぞれ

1 つの表で、韻母は開口、合口別で 2 つの表にまとめられている。同音字表は 9 頁にわたり、

更に 2 頁にわたって、音韻特徴を説明している。 後に、会話文について 2 頁、約 200 字の

記述が見られる。発音と方言の漢字のみ書かれており、意味の説明は記述されていない。巻

頭の説明によると、文法例文を用いた調査も行ったが、例文ごとの提示は見られない。巻末

の総合報告では文語音の調査結果、二種類の資料を方言音で読んだものが列挙されている。

語彙対照では、調査した文法例文より抽出した語彙(65)が地点別に列挙されている。 現在の観点から見ると、そこに記述された会話は特に語彙の面から文語体のように見え

る。現在の城関の人はこのように話さないという点が多く見られるが、現在とあまり変わ

らない音韻と文法特徴もいくつか見られる。例えば次にあげるような諸特徴である。 · 口蓋化が見られる 今[]

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· 推測に“怕”[]を用いる · 応答詞が“哈”[]である · 「たくさん」を表わす語は“蛮多”[]である

· 否定は“冒”[]を用いる · 完了アスペクトは“哒”[]を用いる

· 文末助詞に“呢、啊、吧、啰”が見られる

楊時逢(1974)は、音韻の面での 11 個の特徴により、湖南方言の区分を行った。平江城関

方言の帰属は長沙と同じく、第一区(典型的な湘語)に入っている。以下はその特徴である。

1.“節、結”尖團大部分分,靠北部地區則不分;

“節、結”のような尖音と団音はほとんどの地域では区別できるが、北部の地域では区別できない。

2. “書、虛” 大都相混(只有慈利, 澧縣, 臨醴三處不混);

“書、虚”はほとんど混同する(慈利、澧縣、臨醴三ヶ所は例外)

3. “南、藍”洪混, “年、連” 細分(只有長沙、桃源、慈利、臨醴、漢壽、瀏陽、會同七處泥來洪細都混);

洪音“南、藍”で混同するが、細音“年、連”は区別できる(長沙、 桃源、 慈利、 臨醴、 漢壽、

瀏陽、 會同の 7 ヶ所は全部混同する)。

4. “飛、灰” 大都不分;(“飛、灰”はほとんど区別できない)

5. 全濁平聲在中部一帶都不送氣, 但靠近江西邊界的平江、瀏陽、醴陵、綏寧四處及北部靠湖北各縣

仍讀送氣;

全濁平声は中部では無気であるが、江西に近い平江、瀏陽、醴陵、綏寧の 4 ヶ所及び湖北に近い

北部では有気である;

6. 宕通兩攝大都收尾(靠長沙一帶幾縣宕攝收鼻化尾, 通則收尾);

宕摂、通摂はほとんど韻尾である(長沙に近いいくつかの県では、宕摂は鼻音化韻尾であるが、

通摂は韻尾である);

7. 入聲尾全失落(只有平江還保存喉塞及 t 尾);

入声韻尾は全部落ちる(平江のみ声門閉鎖音と t 韻尾を保つ);

8. “杜、助” 均讀之類;

“杜、助”は 類の発音である;

9. “對、罪、短、亂、算” 都讀開口;

“對, 罪, 短, 亂, 算”は開口韻である;

10. “代、倍、灰、稅、例、世” , i, 各韻分配情形大致跟北平相同;

“代、 倍、 灰、 稅、 例、 世” , i, の各韻の割り振り状況はおおよそ北京と同じである;

11. “保、巧、趙、奏、休、周” 各韻分配大致跟北平相當;

“保、 巧、 趙、 奏、 休、 周”の各韻の割り振りはおおよそ北京と同じである。

12. 調類分陰平、陽平、上、陰去、陽去、入六聲.

調類は陰平、陽平、上、陰去、陽去、入声の 6 声である。

楊時逢(1974: 1442) 抜粋 楊時逢(1974)には湖南各地点の音韻及び語彙の特徴をまとめた地図が 52 枚ある。その詳

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細は、声母図(1-9)、開合図(10-12)、韻母及び韻尾図(13-28)、特別な漢字の地図(36-38)、声調図(30-35)、品詞(39-52)である。これらの地図から見ても、平江方言は湖南

の端に位置しているが、長沙や岳陽方言などの湖南方言と共通した特徴を持っていること

がわかる。 3.1.2.中嶋幹起(1987)(Nakajima Motoki)

日本人による平江城関方言の研究は中嶋幹起(1987)のみである。中嶋幹起(1987)も楊時

逢(1974)と同じく、平江で調査したのではなく、長沙で調査したものである。楊時逢(1974)と異なるのは、中嶋幹起(1987)は平江からコンサルタントを招聘して、調査した。コンサ

ルタントは平江城関地域の出身で、調査は当時 43 歳であった。中嶋幹起(1987)では 8 頁に

わたって、平江城関方言の音韻体系及びその特徴を紹介している。子音が調音点、調音法

別にまとめられ、音韻体系はある程度まとまっており、同音字表は 25 頁にもわたる。中嶋

幹起(1987)では湘方言調査報告に平江城関方言を入れているので、平江城関方言を湘語と

考えていると考えられる。 3.2.語彙(Previous studies of lexicon)

平江城関方言の語彙についての記述は张胜男(1985)のみである。张胜男(1985)は平江城

関方言の基礎語彙に関する初めての記述である。中国の伝統的な手法で、語彙を天文、地

理、時間、工業、農業、交通、など 24 のジャンルに分け、平江城関方言の語彙について記

述している。全部で 7 頁であり、約 400 語収録している。著者张胜男氏は平江県城郊外の

出身であり、本論文の筆者の立場から見てもこれらの語彙の記述は正確な記述であると判

断される。以下に张胜男(1985)における語彙を表に例示する。説明の欄については筆者が

語例に基づき、付け加えたものである。空欄は少ない用例から、説明できないと考えたも

のである。

表 8 張勝男(1985)における語彙詳細(平江城関方言)

順番 内容 説明 数 語例

1 天文 自然現象 10 太陽、月、氷、雷

2 地理 9 家、石、埃、泉

3 季節、時 時間表現など 12 昼、一生、夕暮れ、一日中

4 農業、交通 農業に関するもの 17 裁縫、牛飼い、鋤、自転車、

5 動物 家畜など 15 雄牛、蜘蛛、トラ、蝶々

6 植物 植物や野菜 12 とうもろこし、サツマイモ、唐辛子、かぼちゃ

7 建物 建物としての家関係 22 敷居、窓、なべ、釜

8 着る物 着る物及び関連のもの 14 綿入れ、ポケット、麦藁帽子、マフラー

9 飲食 家庭飲食関係 21 おかゆ、厚揚げ、残飯、重湯

10 交際 9 話す、感謝、プレゼントする、けんかする

11 結婚等 冠婚葬祭 11 新婦、結婚する、死ぬ、棺おけ

12 迷信 6 占い、神様、お参り、死人の家

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順番 内容 説明 数 語例

13 人体 身体部位 11 頭、耳、鼻、鬚

14 病気 病気関係 13 気持ち悪い、病弱、喘息、馬鹿

15 人格 職業も含む 25 いたずら、童貞、娘、冗談を言う

16 親族呼称 親戚の言い方など 15 父親、母親、伯母、叔父

17 文化 文化、スポーツなど 8 なぞなぞを解く、数字、影劇、入学する

18 動作 あらゆる動作 72 片付ける、抱える、干す、噛む

19 位置 場所と位置 8 前、後ろ、表、中

20 一般名詞 7 性格、色、方法、場合

21 代名詞 人称詞、疑問詞など 11 あなたたち、何、私たち(包括形)、どこ

22 性状 修飾用の形容詞が多い 36 丈夫、きれい、静か、早い

23 副詞、

前置詞 15

みんな、どうせ、

と、~で

24 類別詞 数量詞と類別詞 14 枚、本、回、握り

合計 393

3.3.文法(Previous studies of grammar) 文法に関して詳しい記述を行ったものは汪平他(1988)のみである。汪平他(1988)は東北

郷方言地域の方言である長寿方言の音韻と文法について記述している。 文法面では指示代名詞と人称代名詞に関する記述しかないが、指示代名詞には日本語の

コ・ソ・アにほぼ対応するような 3 系列の指示代名詞[]があるという。これらの記

述は興味深い。人称代名詞は 1 人称複数代名詞に除外と包括の対立があり、3 人称代名詞

は二セットあると述べている。これによると、長寿方言の 3 人称代名詞は近くにいる場合

は[k'e6]であるが、遠くにいる場合は[la/]が使われるという。長寿方言と平江城関

方言との違いについては人称詞と指示詞の節(6.2.2 と 6.2.3) で詳しく述べる。 『平江县志』には平江城関方言では巻舌音[、、]で発音する音が、東北郷方言では

それぞれ歯茎音[、]と舌先音[]で発音すると書かれている。汪平他(1988)には東北郷方

言の巻舌音の[、、]についての記述がある。汪平他(1988)では、舌尖母音[]と結合す

る以外は[、、]と発音する傾向はあるが、舌尖母音の前では意味の弁別的特徴になって

いると述べられている。例えば、事[si]と是[i] は違う音である。 3.4.総合的な研究(General research in previous studies) 3.4.1.『県志』(Xianzhi) 『县志』とは湖南省平江县志编纂委員会編(1994)『平江县志』(以下『县志』と呼ぶ)で

ある。『县志』における平江方言研究は巻 6 の第二十三篇の五章~八章である。その内容は

下記のとおりである。 第五章の「方言帰属及び方言内部差異」には各地域の方言区分とそれぞれの方言の音韻

的な差異についての記述がある。六章の「平江音系」は平江方言の音韻論であり、子音や

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母音や声調、更に文白異読などについても詳しく記述されている。音韻特徴についての記

述では、声門閉鎖音についての記述が興味深い。

平江话入声字正处于由喉塞音韵尾过渡到促音韵尾阶段,慢读,一般呈促音状况,快读,一般呈

喉塞音。志载入声字均以喉塞音促音韵尾纪录。

平江方言の入声は声門閉鎖音から、促音韻尾の段階に変わる段階にある。ゆっくり発音される場

合、促音であるが、早く発音される場合は、声門閉鎖音である。入声字は声門閉鎖音促音韻尾で記

録する。

平江方言基本上没有连都变调和儿化现象。轻声也不明显,多读本调。但文白异读却十分明显,

普遍。所谓文白异读,是指同一字既有读书音,又有说话音。这两种音不能互换,也不能混读。

平江方言においては基本的に連読変調とアール化現象はみられない。軽声もはっきりしない。ほ

とんど本来の声調で発音される。しかし、文白異読ははっきりしている。文白異読とは読書音と会

話音を同時に持つ漢字のことである。この二種類の音は交替できないし、混同もしてはいけない。

『县志』: 655-656 更に一部の変調のものを下記のように記述している。

· 複合語においては一部変調するものが見られる。

梯 単独では使えない 楼梯 階段 弟 弟 老弟 義理の弟

· 名詞は時には発音が異なるものがあるが、北方方言の連読変調とは異なる。

姐姐 婆婆 抱肚 亲家

文語音

白話音

意味 姉 祖母 前掛け 婿或いは嫁の親

· 幼児語または親族呼称では後ろの字を陰去 55 に変調させることがある。帽 帽 叔 叔 公 公

帽子 叔父さん お爺さん

七章の「地方語彙」では平江方言特有の名詞、動詞、形容詞、副詞、前置詞、代名詞、

類別詞、方位詞の語彙をそれぞれ挙げている。詳細は下記のとおりである。

一.名词(名詞) (表 58 を参照)

天文地理(天文地理) 14 個 衣食起居(衣食住居) 16 個

人体疾病(人体病気) 16 個

红白喜事(結婚葬祭) 8 個

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生物类(生物類) 28 個

社交称谓(社交呼称) 24 個

文体(文化スポーツ) 6 個

二.动词(動詞) 35 個 例: 打つ、食べる

三.形容词(形容詞) 47 個 例: ばか、汚い 副詞 9 個 例: みんな、どうせ 四.副词及介词

(副詞及び前置詞) 前置詞 3 個 例: と、で、 五.代词(代名詞) 6 個 例: 私、あなた 六.量词(類別詞) 9 個 例: 匹、枚

七.方位词(方位詞) 6 個 例: 前、後ろ

ことわざに関する記述は 4 頁見られる。全部方言の漢字のみであり、意味の説明も見ら

れない。 八章の「地方文法」では形態論、統語論などについての記述があるが、内容は 2 頁しか

ない。詳しい内容をまとめると、下記のようなものである。 品詞面 “咯”は所有と語気を表わす アスペクトを表わすものには“起、嗒,啊哒”がある “啧”は北京官話の“小、儿、哩”に相当する

その他の語気助詞は“啊、啦、呢、嘞”が見られる

形態面 接頭辞には“老、好”がある 接尾辞には“子”がある 語順が特殊である 例: 北京官話の“客人”に対して、人客(客)という

その他のもの · A 啊格 A、A 哩 AB、A 起 B、A 斯巴人、AB 八 B、AABB、好 A 不 A、A 哒格 B · 指示詞が 3 つである(咿、咯、恩)

· 人称詞

· 複数接辞は“俚”、包括接辞は“伙”を用いる

統語論

離合詞の可能表現

後置される副詞修飾語は補語とみなせる

二重目的語文において、間接目的語は直接目的語の前におく

これは筆者の記述による平江城関方言の姿に比較的近いものであり、また少ないながら

も文法について書いてある点で重要な資料である。

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3.4.2.『方言志』(Fangyanzhi)

新の平江城関方言研究は湖南省地方志编纂委員会(2001)(以下『方言志』と呼ぶ)であ

る。調査者・執筆者は 3.1.1.3.の张胜男氏で、調査地点は城関鎮である。概説、音韻、常

用語彙、文法例文、音声表記例の別に記述がまとめられている。 一の概説では平江の地理、歴史、内部方言区分、音韻、語彙、文法特徴について述べて

いる。その方言区分は前述の『县志』における区分とそれほどの差異は見られない。音韻

特徴は 4 つあげられている。語彙特徴では「形容詞が AA のように重複できる」と指摘し

ている。文法特徴では動詞重複“V 啊格 V”、接尾辞の“啧”とテンスを表わす“哒と啊哒” などについての記述が見られる。 二の「音韻」部分では全部で 37 頁の記述があり、声(声母)、韻(韻母)、調(声調)

別にまとめられている。同音字表が 21 頁もある。文白異読についても詳しい記述が見ら

れるが、前述の『县志』とほとんど同じである。平江城関方言を北京官話や中古音との対

照も行われている。 表 9 の通り、三の「常用語彙」は 349 個の語彙があり、全部で 17 のカテゴリーに分け

ているのみで、それぞれのカテゴリーについては言及されていない。なおここであげてい

るカテゴリー名は筆者が語彙の例から判断してつけたものである。

表 9 『方言志』における語彙記述(平江城関方言)

順番 数 カテゴリ 用例

一 15 天文 太陽、月

二 6 地理 埃、泥

三 12 建物 家、窓

四 13 人間 男性、女性

五 33 親族呼称 父親、母親

六 16 身体部位 頭、顔

七 13 病気 下痢、マラリア

八 22 きるもの 服、タオル

九 11 飲食 朝食、お酢

一〇 34 動物 雄牛、雄犬

一一 13 野菜 白菜、キャベツ

一二 11 自然 音、味

一三 26 代名詞 私、あなた

一四 11 数量詞 1 つ、一枚

一五 17 時間 今年、今月

一六 13 場所 上、下

一七 83 動詞 食事する、しゃっくりする

合計 349

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『方言志』の記述は、筆者の調査によって明らかになった平江城関方言の姿に も近い。

特に初めて口語資料を多く記述した点は注目に値する。その内容には中国科学院語言研究

所(1955)の文法の項に挙げられた例文から取った例が 53 文、歌謡が 1 つ、ことわざが 1つ、なぞなぞが 2 つ、早口言葉が 1 つ、物語が 1 つ見られる。平江城関方言話者の視点か

らみても、自然な口語資料であると判断できる。ただし、文法調査で得られた例文以外は

音声表記と平江城関方言の漢字表記のみであり、北京官話の訳もついていない。

3.4.3.李如龍・張双慶(1992)(Li Ru-Long & Chang Song-Hing)

表 10 李如龍・張双慶(1992)における語彙詳細(南江方言)

内容 説明 数 語例

1 自然 自然現象 56 太陽、月、星、雷

2 季節 時間表現など 26 去年、明日、午前、毎日

3 農業 農業に関するもの 24 田植え、稲刈り、脱穀する、鋤

4 植物 植物や野菜 36 稲、ソラマメ、紅芋、糸瓜

5 動物 家畜など 73 雄豚、雄犬、蝙蝠、蛙

6 建物 建物としての家関係 22 家、家を建てる、厨房、窓

7 器具 家具など 50 いす、机、引き出し、布団

8 着る物 着る物及び関連のもの 26 上着、短パン、スカーフ、アイロン

9 飲食 家庭飲食関係 38 米、おかゆ、ご飯を食べる、肉を買う

10 結婚等 冠婚葬祭 28 結婚する、嫁ぐ、新婦、親

11 人体 身体部位 59 頭、髪の毛、顔、眉毛

12 病気 病気関係 40 下痢をする、熱射病、ハンセン病、咳をする

13 人格 職業も含む 30 男、女、老人、コック

14 親族呼称 親戚の言い方など 61 父親、母親、兄弟、親戚

15 文化 分化、スポーツなど 22 学校、たこを揚げる、マジック、鉛筆

16 動作 あらゆる動作 125 嗅ぐ、キスする、吸う、上る

17 事務 日常的なことが多い 103 おく、修理する、拭く、休む

18 知覚 知覚関係の動詞 31 知っている、心配する、怒る、怖がる

19 性状 修飾用の形容詞が多い 40 にぎやか、きれい、汚い、面倒くさい

20 数量 数量詞と類別詞 53 百、斤、牛一頭、タバコ一本

21 方位 方位関係 14 前、後ろ、真ん中、向かい側

22 代名詞 人称詞、疑問詞など 35 私、みんな、誰の、どこ

23 副詞 副詞 41 一緒に、とても、おそらく、 初

24 前置詞 前置詞 10 される、から、にそって、代わりに

25 フレーズ テンス、アスペクト、

可能など 42

ご飯をたべた、壊れた、座って食べる、

ゆっくり歩く

合計 1085

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李如龙・张双庆(1992)は客家、贛語地域、それぞれ 17 地点の方言の漢字の発音、語彙や

短文などについて詳しく対照し、音韻及び語彙や文法の観点を総合して、贛語と客家語の

区分を議論している。漢字は方言調査字表より選んだ 1320 字の発音が列挙されており、語

彙も伝統的な漢語方言の手法で 25 のグループに分け、計 1085 の語彙が記述されている。

詳しいグループ分けは表 10 の通りである。 平江南江方言は贛語の代表点として記述が見られる。調査時期は 1989 年である。贛語の

他地域との比較対照から、平江南江方言が贛語に近いことを示した。この中でもそり舌音

の存在について以下のように明記している点が注目される。即ち、「知紙、 歯恥、

是樹」との記述であるが、これは『县志』の東北郷方言についての記述と異なっている。

李如龙・张双庆(1992)によると、南江方言においては、一部の非常用字では[、、、、などの濁音声母は濁音の特徴がはっきりしない時があるという。李如龙・张双庆(1992)は唯一平江方言の語彙、文法関係を詳しくかつ統括的に調べてあ

る先行研究で、平江方言のデータとして多くの研究者に引用されている。しかし、これは

便利であるが同時に危険なものでもある。平江方言全体の現象として存在するものは引用

されても問題ないが、しかし、南江方言に見られないもので、平江城関方言に見られる一

連の特徴がある。例えば、声調では上声が陰陽に分かれること、子音ではそり舌音が一般

的に存在すること、指示詞は三系列に分かれることなどがそうである。これらは南江方言

では一般的ではないので、引用する研究者は平江方言にも見られないとしてしまうことが

多い。

3.4.4.朱道明(2009)(Zhu Daoming) 朱道明(2009)1は平江方言に関する も詳しい研究であるといえる。同書での研究対象は

平江城関方言地域の西江方言であるが、本論文の研究対象白箬方言とは異なる点も多く見

られる。以下に朱道明(2009)の内容を紹介する。朱道明(2009)は全部で 227 ページあり、7

章に分けて平江方言の記述をしている。第一章は概説で、平江の地理位置、人口、平江方

言の帰属と内部分布、使用される IPA 記号などについて述べている。第二章は音韻で、平

江方言の音韻体系、音韻特徴、声母と韻母の組み合わせルール及びその特徴、発音変化に

ついて述べている。文白異読と同音字表も挙げてある。第三章では声母、韻母、声調別に

平江方言と北京語の音声について比較対照をしている。第四章は語彙で、平江方言の語彙

特徴について述べており、前述した天文、地理などのように分けている分類語彙表が見ら

れる。第五章は文法で、平江方言の文法特徴について、助詞、副詞、前置詞、語順、接辞

の面から述べている。その内容は全部で 18 ページである。さらに文法調査で得られた 55の例文のデータもある。第六章は口語資料で、IPA 付きのことわざ、童謡、なぞなぞ、笑

い話などが列挙されている。第七章は平江方言の音韻体系から音声の発展を見るもの、平

江方言の一部の歴史的音韻変化について簡単に述べている。

1 本博士論文の執筆段階ではこの本はまだ未出版である。筆者が修正の段階でこの本を入手したのである。

そのため、ここでは各章での比較対照の追加はしないが、概要のみを紹介する。

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3.5.平江方言の下位分類(The subcatecorization in the Pingjiang dialects) 平江県内の方言を更に下位分類をしているものは喻深根(1983)と『县志』である。ほか

に、方言の帰属に言及しているものに、方平权(1999)がある。

3.5.1.喩深根(1983)(Yu Shengen) 喻深根(1983)では平江方言の下位分類について述べてから、代表として平江城関方言の

音韻論を記述している。更に平江城関方言の帰属問題について贛語の中で平江方言の位置

づけを行っている。平江方言の下位方言としては城関、長寿、南江、栗山の 4 つの方言地

域が立てられている。図 10 は筆者が喻深根(1983)の下記の記述に基づき作成したもので

ある。

平江方言大致可以分为城关,长寿,南江,栗山等四个小方言点。其中城关方言点包括城关镇,三

阳区,安定区,加义区,钟洞区,谈岑区的谈胥公社,张市公社,瓮江区的瓮江公社,河东公社,双江

公社,约占全县人口的百分之五十,是平江方言的代表区。长寿方言点包括长寿镇,长寿区,金龙区,

虹桥区,约占全县总人口的百分之二十。南江方言点主要是南江镇和南江区,梅仙,谈岑两区靠岳阳县

一带的语音也与南江话相似。栗山方言包括栗山区,瓮江区的浯口公社,三联公社,谈岑区的岑川公社,

西江公社,约占全县总人口的百分之十五。

平江方言は大まかに城関、長寿、南江、栗山の 4 つの方言地域に分けることができる。そのうち、

城関方言地域は城関鎮、三陽区2、安定区、加義区、鐘洞区、談岑区の談胥公社、瓮江区の瓮江公社、

河東公社、双江公社からなり、全人口の 50%を占め、平江方言の代表地域である。長寿方言地域は

长寿鎮、长寿区、金龍区、虹橋区、全人口 20%を占めている。南江方言地域は主に南江鎮と南江区、

梅仙、談岑両区で、岳陽県に近い所は発音が南江方言に似ている。栗山方言は栗山区、瓮江区の浯口

公社、三聯公社、談岑区的岑川公社、西江公社を含み、全人口の 15%を占めている。

喻深根(1983: 123)

2 “撤区并乡”(区を無くし、郷を合併させる)措置を実施することによって、これらの区は現在すべて郷

になった.

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図 10 喩深根(1983)による方言区分

この区分に関しては、筆者は適切ではないと考えている。筆者の調査によれば岑川と栗

山の音韻特徴は大きく異なっており、同じ方言地域に分類するのは適切ではない。その上、

長寿と南江の音韻、語彙や文法の各面から見られる相違は岑川と栗山の相違より小さい。

故に、この研究のように栗山と岑川を同じ方言地域に分類するなら、南江と長寿を分ける

必要はまったくない。これは各地の方言を詳しく調査しないとわからないもので、喻深根

氏は平江諸方言の実情を十分に把握していないことが伺える。

3.5.2.『県志』(Xianzhi) 以下は『县志』で述べられている平江諸方言について紹介する。『县志』によると、平江

方言の複雑さは中国国内の人口移動に起因するという。

从唐代开始随着中国五次人口大迁移,从江西,广东等地迁入县境的有 100 多个氏族,其中从江

西迁入的有 66 个,构成了平江方言的复杂性,又同湖南省标准语言差异较大。县境中部,东北部及岑

川地区纯系土语,若按文朗诵,多含唐宋音韵,而口语俗谈,偶有上古音痕跡,其语音词汇,语法系

统都与赣方言接近,但又有自身的特点,属赣方言的次方言区。

平江は唐代から、中国国内の 5 回の人口移動により、江西、広東などから 100 余の氏族が入って

きた。その中、江西から 66 個の氏族が入ったため、平江方言の複雑性を構成し、湖南省の標準方言

との差を大きく拡大した。県境の中部、東北部及び岑川地域では純粋な土語であり、読書音は唐や

宋の音韻を多く含み、話し言葉ではいくらかの上古音の痕跡が残っている。音韻、語彙、文法系統

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とも独自の特徴も持っているが、赣方言に近く、赣語の下位方言地域に属している。

『县志』(p651 下線は筆者による)

平江方言は総称であり、城関方言地域、東北郷方言地域、西郷方言地域、岑川方言地域

の 4 つの方言地域に分けられる。各地域の方言がそれぞれ違っている。中にはお互いに通

じないものもある。それは平江の地理的な位置とも深く関わっていると考えられる。各方

言地域の範囲は下記のように分けられる。

平江是丘陵区,古时交通十分不便。虽然自成统一的局部方言体系,但各地差异比较明显。大体可

以划分四个方言区。

平江は丘陵地帯であるため、昔から交通がとても不便である。自ら統一的な局部方言をなしている

が、各地の間の差異が明らかである。平江方言は大体 4 つの方言地域に分けることができる。

城关方言区:以县城为中心包括城关,三阳,安定,钟洞,梅仙,嘉义区及谈岑区的谈胥,张市,

西江乡和瓮江区的河东,双江,瓮江乡。其面积和人口约占全县 50%强,是平江方言的代表区。

城関方言地域: 県城を中心に城関鎮、三陽、安定、鐘洞、梅仙、嘉义の各地域及び谈岑地域的谈胥、

张市、西江郷と瓮江地域の河東、双江、瓮江郷を含む。その面積と人口は県の半分以上であり、平

江方言の代表地域である。

东北乡方言区:以长寿,南江两镇为中心,包括长寿,金龙,虹桥,南江 4 个区。其面积和人口约

占全县的 30%左右。这个方言区又可分为两个小点,即长寿和金龙为一小点,南江和虹桥为一小点。

東北郷方言地域: 長寿、南江鎮の両鎮を中心に、長寿、金龍、南江、虹橋の 4 つの地域を含む。そ

の面積と人口は平江県の 30%くらいである。この方言地域はまた 2 つの地域に分けられる。長寿と

金竜が 1 つで、南江と虹橋がもう 1 つである。

西乡方言区:以栗山区为主加上瓮江区的浯口镇,三联乡,其面积和人口约占全县 15%左右,因与

长沙交界,受新湘方言的影响较为明显。

西郷方言地域: 栗山地域が主で瓮江地域的浯口镇、三联郷を加える。面積と人口は平江県の 15%

であり、長沙に接しているため、新湘語の影響が大きい。

岑川方言区:岑川一乡的范围,其面积和人口占全县 5%弱。南面与县城有高山之隔,北面同岳阳无

屏障,其语言受巴陵话影响较大。

岑川方言地域: 岑川 1 つの郷の範囲で、面積と人口は平江県の 5%弱である。南は県城と高い山が

隔てているが、北は岳阳と障壁がなく、その方言も岳陽方言の影響を大きく受けている。

『县志』(p651 下線は筆者による)

以上の方言区分に基づき、筆者がおおよその地図を作成した。

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図 11 『県志』による方言区分

筆者はこの『县志』の区分にほぼ賛同する。本研究で問題とされる平江城関方言は上述

の城関方言地域の方言を指す。即ち図 11 の中央あたりの広い地域である。

3.5.3.方平権(1999)(Fang Pingquan) 方平权(1999)は主に岳陽方言を研究しているが、平江との対照も行っており、平江方言

の記述もいくらか見られる。まず岳陽方言の概説では平江方言に関して以下のように言及

している。平江方言の複雑性は移民によるものであるとしている点は『县志』と一致する。

根据岳阳辖区内方言的内部差异,可以将其分为四区。(中略)第三区包括平江县大部分地区和汨

罗市东北部,这一区属汨罗江流域,为大面积山区。由于其东南北三面为赣区环绕,又据平江的清代

县志,谱牒和民国曾继吾《湖南各县调查笔记》称: 居民中的大型盛族,多自唐宋以来从江西迁入。因

此这一区明显具有赣语的特征。另外,由于境内历史上交通闭塞,有些深山老洞开发较晚,清代尚有

不少客家人迁入,形成聚居的村落,这些村落很长时间保持双语制,对内用客家话,对外则接受和采

用平江话,给这一区的方言增加了复杂性。

岳陽地域内の方言差異により、その方言を 4 つの下位方言に分けることができる。(中略)第三の

地域は、平江のほとんどの地域と汨羅市東北部である。この地域は汨羅川地域であり、山地の面積

が広い。その東南北三面とも贛語地域に囲まれており、平江の清代の県誌、谱牒と民国曾继吾の『湖

南各県調査筆記』によると、住民の中の豪族は唐宋以来江西より移民されてきたものであるという。

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そのため、この地域の方言は贛語の特徴がはっきりしている。その上、この地域は歴史上交通が不

便であるため、一部の山の開発が遅れており、清代になってもまだ客家の移民が入ってきており、

集落を形成している。これらの集落は長い間、バイリンガル制度を採っており、うちの人に対して

は客家語、外の人に対しては、平江方言を受け入れている。そのため、この地域の方言に複雑性を

もたらした。

方平权(1999:3-4)

3.6.帰属に関する議論(Discussion of the affiliation) 平江城関方言の帰属に関する詳しい議論は第十章で述べるが、ここでは簡単な紹介をし

ておく。湖南省の方言区分について議論している研究はいくつか見られる。順番に、楊時

逢(1974)、辻伸久(1979)、周振鹤・游汝杰(1985)、鲍厚星(1985)、鲍厚星・颜森(1986)、李蓝(1994)である。以下に表で示す。平江城関方言を贛語に帰属させる先行研究が多い。

表 11 湖南方言の区分における平江方言の帰属

基準 データ由来 平江方言の帰属 著者自身の評価

楊時逢(1974)

ある地方の方言 も重

要な特徴、声調の類別、音

韻特徴、開口、合口などの

区別を条件とする

楊時逢(1974) 湘語 満足できる分類で

はないと考える

辻伸久(1979) 中古全濁声母の発音 楊時逢(1974) 江西型方言 特に触れていない

周振鹤・游汝杰

(1985)

声母 9

開口、合口 3

韻母及び韻尾 16

声調 7

特殊の字 3

品詞 14 (計 52)

楊時逢(1974) 贛語の特徴が もは

っきりしている

贛・客家語地域の代表

地点

各下位方言の個性

に符合し、湖南の

人の感覚にも一致

すると考える

鲍厚星・颜森

(1986)

示されていない 楊時逢(1974) 贛語 特に触れていない

李蓝(1994) 声母 7 条

韻母 7 条

声調 7 条 (計 21)

総合

楊時逢(1974)

+個別方言の

記述

声母 湘語、

韻母 贛語

声調 独立

総合 湘+贛 混合型

言語事実によく符

合していると考え

鲍厚星(1985) 無 用總結的分區 贛語 特に触れていない

以上は他の研究者による平江方言についての先行研究を概観した。これよりは筆者自身

による研究を紹介する。

3.7.筆者自身による研究(The study of the author) 以下では筆者が今まで行った平江方言についての研究について述べる。これらの内容は

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すべて本論文に含まれるものであるが、その後の調査により、新たに明らかになったもの

や修正された点もある。本論文の記述と一致しない点がある場合は、本論文の記述を基準

とされたい。 張盛開(2004)では音韻論・文法論別に平江城関方言を記述した。音韻論では、先行研究

の不足している点と優れた点を指摘し、自分の考察した方言のデータに基づき、平江城関

方言の音韻論を立てた。文法論では平江城関方言の文法現象を品詞論、統語論から詳しく

述べた。これは初めての平江城関方言の概説であり、平江城関方言の多くの文法や音韻現

象を簡単に紹介した。 張盛開(2005)では初めての平江城関方言口語コーパスを作り、更にはコーパスから、音

韻や文法の特徴を検討した。その結果、張盛開(2004)であげた音韻や文法の特徴を多く検

証できた。また、今まで指摘されなかった平江城関方言の音韻や文法の特徴もいくつか発

見した。 张盛开(2006a)では平江城関方言の類別詞について詳しく考察した。同時にその他の漢語

方言との比較・対照も試みた。その結果、平江城関方言の類別詞の独特な機能も多く発見

した。 张盛开(2006b)は張盛開(2006c)の基礎語彙表を基に、平江各地の方言の音声・語彙的な

特徴を分析したものである。平江県内の客家語についても調査し、平江方言と客家語の代

表である梅県客家語との対照を行った。その結果、400 年前から広東省を離れ、200 年間

江西省に住んでから平江に来た人々の話すこの客家語は、平江方言の影響を大きく受けて

はいるものの、現在もなお客家語であり続けていることを明らかにした。詳細は 4.2.2.3 で

述べる。

張盛開(2006c)は筆者が 2 回にわたり、実地調査をし、その調査結果をまとめた「湖南平

江各地方言の基礎語彙」表である。これは初めての平江各地の方言(8 地点)の基礎語彙(173語)の対照である。詳細は 4.2.3 で述べる。

張盛開(2006d)では平江とその周辺の方言を中心に、1 人称複数代名詞の除外と包括の対 立を考察した。その結果、平江とその周辺の方言における除外と包括の対立は贛・客家語

にも共通するものと考えることができることがわかった。詳細は 6.2.3.1 で述べる。

張盛開(2006e)は筆者が作成した平江城関方言の口語コーパスを用いた研究である。平江 城関方言に多く見られる「虚義動詞」のうち、特に常用的なものをいくつか。紹介し、コ

ーパスからの用例でその用法を確認した。

张盛开(2006f)は主に平江城関方言の場所表現について紹介したものである。これもコー

パスの用例を通して、場所表現における使い分けを確認できた。詳細は 6.6.1.2 で述べる。 張盛開(2007)は平江城関方言の 2 つの 3 人称の使い分けについて、コーパスを用いて検

証を行った。張盛開(2008b)は 3 系列の指示詞の使い分けを詳しく調べ、更にコーパスを通

して検証を行った。詳細は 6.2.3.3 と 6.2.2 で述べる。 張盛開(2008a)は助詞“哒”の機能をコーパスで調べ確認した。その結果、“哒”はアス

ペクト助詞として、完了、持続、変化などの意味を表わすことがわかった。更に、場所詞

と一緒に用いられることが判明した。その用法は長沙方言と共通している点も見られるが、

違うところも多くあった。詳細は 6.7.1 で述べる。

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3.8.先行研究のまとめ及び問題点(The summary and the issues in previous studies) 以上先行研究を概観したが、まず音韻体系に関しては、中古音との対照、ならびに同音

字表は網羅的に記述されているが、音韻体系の記述は漢語方言の伝統的な手法によるもの

で、声母、韻母別に記述されている。言語学的に意味の対立にかかわるもののみ音素とし

て立てることとは異なり、現れた音をすべて示しているもので、音韻体系が複雑になって

いる。どの先行研究に見られる韻母の数も 47 を超えている。その上、現在の平江城関方言

のデータと合わない記述もいくらか見られる。以下はそれを列挙する。なお、筆者自身の

立てる音韻体系に関しては、5 章の音韻論でその詳細について述べる。 3.8.1.音韻(Phonetics)

まず、楊時逢(1974)の示しているデータと、筆者が調査し確認した平江城関方言のデー

タとの相違点を表に整理すると以下のようになる。

表 12 楊時逢(1974)と平江城関方言との対照

字 平江城関方言(音) 楊時逢(1974)(音) ① 女

② 横(白話音)

③ 泥(白話音)

割 ④ 各

八 ⑤ 百

筆者の調査データと照らし合わせると、“女”を[]と発音するのは平江城関方言話者

ではないと考えられる。楊時逢(1974)には瓮江の話者が一人いたので、その方の発音だと

考えられる。実際に筆者の調査でも瓮江出身の人でこのような発音をしていた人がいた。

②と③は白話音にしか出てこないので、字を読む時にはこのような発音が出てこない。

コンサルタントが白話音の発音を忘れたのかそれとも知らなかったのかは定かではない。

調査が文語音のみにとどまり、白話音については調査が行われていないという可能性も考

えられる。④、⑤の違いはミニマルペアを調査すれば分かることであるが、当時の調査に

おいてこのような確認調査が行われたかどうかは不明である。 楊時逢(1974)に関する問題点について、曾献飞(2006)では下記のように指摘している。

第一, 这次调查的材料大都没有区分文读和白读两个层次。

この調査の資料はほとんど文語音と白話音の層を区別していない。

第二, 《报告》在记音方面也有纰漏。

『報告』での発音の記録においても漏れが見られる。

曾献飞(2006)

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中嶋幹起(1987)には筆者の考えている平江城関方言と不一致が見られる。筆者は同論文

のコンサルタントに電話で確認した。その結果、同コンサルタントの発音は筆者調査によ

って得られた発音のデータと一致していることが分かった。例えば、音韻特徴(5)には「歯

音の-(-)は、端組字以外に、知組字と章組字にも出る」という記述がある。実際の平江

城関方言は知組字と章組字の字は[、]と発音する。中嶋幹起(1987)における平江方言の

同音字表の中でも[、]と[t、t]や[]と[]が混同されている箇所が散見される。

表 13 中嶋(1987)と平江城関方言との相違

遮 車 着 兆 傘 散 陝閃善

平江城関方言(筆

者調査による)

劉建国3

中嶋幹起(1987)

中嶋幹起(1987)は楊時逢(1974)を批判しているが、しかし下記の表 14 に示したように

楊時逢(1974)のほうが平江城関方言の実情を正確に捉えていることがわかる。調査の実態

に詳しい方の話によれば、中嶋幹起(1987)の調査も実は楊時逢(1974)と同じく、長沙で行

われている。当時は、まだ外国人が平江県内に入れる状態ではなかったためか、コンサル

タントを長沙のホテルに招き、調査を行ったそうである。

表 14 中嶋(1987)、楊時逢(1974)と平江城関方言との対照

以下では喻深根(1983)の記述と現在の平江城関方言の実情との差異について紹介する。ま

ずは、平江城関方言にはそり舌音がないという記述について検討する。

没有卷舌音。古知照系字分化为三组声母: 知彻澄和章昌船书诸母字在开口韵前发舌叶音

知彻澄和章昌船书诸母字在撮口韵母前发舌叶音。庄初崇生诸母字一律发舌尖前音

そり舌音はない。中古知照系の字の声母が三通りに分かれている: 知彻澄と章昌船書諸母の字は

3中嶋幹起(1987)でのコンサルタントであるが、ここでは筆者が電話で確認した劉建国氏の発音である。

珠・猪 吹・区 書・輸 脚・酌 却

平江城関方言

楊時逢(1974) 酌

中嶋幹起(1987) 脚

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開口韻の前で舌面音、、と発音する。知彻澄と章昌船書諸母の字は撮口韻母前で、、と発音する。庄初崇生諸母の字は一律舌尖音の、、と発音する。

喻深根(1983: 124 例を省く)

喻深根(1983)に挙げられている用例から見ると、前の二種類(知彻澄と章昌船書諸母と

知彻澄と章昌船書諸母)の字については、現在の平江城関方言における実際の発音では、

ほぼそり舌音[、、]である。筆者の調査での経験から言うと、現在の平江城関方言

話者のそり舌音は普通話のそり舌音とは、舌のそる程度は同じではないが、舌がそらない

とできない発音である。平江方言における声母の発音が 20 年の間に舌面音からそり舌に

変わったという事実は喻深根氏の指摘どおりであるが、それが普通話の影響であるとは考

えにくい。喻深根(1983)は文末において、平江城関方言と南昌方言の相違は、「声母にお

いて、主に舌上音があり、そり舌音に発展していく傾向が見られる。これはおそらく近年

普通話が普及してきた結果であろう」と述べている。普通話の影響云々という指摘は適切

ではないと筆者は考えている。平江での生活においてはほとんど普通話を話さなくても問

題ない。故に、平江で暮らしている人たち、特に 40 歳以上の人には普通話を話せる人が

少ない。筆者からみると、普通話の影響でそり舌音ができたということは考えにくい。筆

者の出身地である白箬村についていえば、筆者の知っている周りの 40~80 歳の人で、普

通話はほとんど話せないが、彼らの話している平江方言には、明確なそり舌音が存在する。

また、喻深根氏は舌面音として、、]などを立てているが、実際に今の平江方言で

若い人の発音では前舌高母音の前の口蓋音は口蓋化している例も見られるものの、全体と

してはまだ少なく、その他の母音の前の口蓋音とは相補分布をなしている。年配者の発音

ではあまり口蓋化が見られないことも併せて考えると、[、、]を単独で立てることは

不適切と考えられる。

また、濁音上声字が陽去に転じるとする記述も現在の実情とは異なる。なお下記の記述

では全濁と次濁の例字が逆転されている。

2.古次浊上声字,在平江话中转入了阳去调。例如: “近”念、 “柱”念、“是”念

ɿ22、“坐”念。只有古全浊上声字才念阳上调,例如: “五”念11、“武” 念、“有”念

中古次濁上声字は平江方言において、陽去調に転じた。例えば、“近”は、“柱”は、

“是”はɿ22、“坐”はと発音する。全濁上声字のみ陽上と発音する。例えば、“五”は11、“武”

は、“有”はと発音する。

喻深根(1983: 126)

現在の平江城関方言では、上述の“近、柱、是、坐、五、武、有”などの字は同じ声調

で、すべて濁上調の 21 である。20 年の間に、平江城関方言の発音が変わったとも考えら

れるが、筆者が小学校に入ったのは 1982 年で、その当時からこれらの字の声調が同じであ

ることは記憶している。では、喻深根(1983: 126)の記述は間違っているのだろうか。事実

としては、喻深根(1983: 126)が記述したのは東北郷の方言ではないかと推察される。東北

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郷の方言の発音であれば、今でもこの記述に適合している。 喻深根(1983)の記述は张胜男(1985)や中嶋幹起(1987)と同じく、そり舌音の[、、]

はなく、舌面音の[、、]しかない。20 年前の 3 つの記述はともにそり舌音を欠いて

おり、それらを鵜呑みにすれば本当に平江方言にはそり舌音はなかったということになっ

てしまうが、しかし、楊時逢(1974)にはそり舌音の記述がある(表 14 を参照)。 そり舌音が 30 年代(楊時逢(1974)の調査年代)にあって、80 年代にいったん舌面音に変

わり、また今のそり舌に戻ったということは考えにくい。 3.8.2.語彙(Lexicon) 語彙に関しては、南江方言は李如龙・张双庆(1992)による 1000 以上の語彙記述が見られ

るが、平江城関方言ではその半分の 500 にも達していない。語彙に関する記述は方言語彙

の漢字、発音とそれに対応する北京官話が載っているのみで、語彙特徴についての言及も

見られない。故に、語彙の記述をする必要性が大きい上に、語彙の特徴などを考察するこ

とも必要である。 3.8.3.会話(Speech) 会話に関する記述は楊時逢(1974)のみであるが、同書における短い会話文については、

本論文の筆者には、不自然と感じられる記述も多くある。60 年前に調査した平江城関方言

が現代までに大きく姿を変えたのか、それとも別の原因があるのかは不明である。ただし、

この調査は長沙で行われており、湖南省第一師範学校での学生二人がコンサルタントであ

った。したがって、学校で学んでいる学生が文語の影響を受けたということも考えられる。

発音のほうも、会話音より、読書音のほうが多く収録されている。調査時のコンサルタン

トはすべて長沙で学ぶ各地の学生であるため、若い学生が長沙方言の影響を受けやすい恐

れがあることは楊時逢(1974)にも記されている。これについてはそれなりの対策も施され

た。コンサルタントを何人か選び、字がすらすら読める人は影響を受けている可能性が低

いというような記述が見られる。しかし、この基準だけでは影響されないコンサルタント

を選ぶことはできないだろう。 例えば、会話に現れた“平江”のことを[]と発音されている。今の平江では、白

話音的に言えば、[]であるが、文語音的に言えば、[]である。両者を混同

することは許されない。楊時逢(1974)の記述での[]は文語音の[]と白話音の

[]が混ざっている。これは平江城関方言が変わったというより、発話者が平江以外の方

言の影響で、文語音と白話音を混ぜてしまったものと考えられる。 以下には現在の平江城関方言と異なるものを示す。全般的に楊時逢(1974)の記述のほう

が文語的な表現が多い。80 年前の話し言葉が今より文語に近かったと言うことは考えにく

い。故に、ここでは若い学生である楊時逢(1974)のコンサルタントが長沙での就学におい

て、官話や平江方言より官話に近い湘語の影響を受けている可能性が大きいと考えられる。

以下、日本語、北京官話、楊時逢(1974)、筆者調査の順に例文を示す。

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①. あなたは今どこに住んでいるの? 你现在住在哪儿呢? 楊時逢(1974) 你如今住在□子啊?

筆者調査 你如今岸哒辇啊?

②. また湖北に行ったんです。 又到那个湖北去了。

楊時逢(1974) 又到這個湖北去哒。

筆者調査 又搭湖北去哒。

③. 今はまだ決めていないんですよ。 现在可还没决定呢。

楊時逢(1974) 现在是冒决定啊。

筆者調査 伊缓时还毛定下来哦。

④. それは難しいでしょうね。 那可是很难哦。

楊時逢(1974) 怕难得很。

筆者調査 箇怕有蛮难啰。

3.8.4.文法(Grammar)

文法の記述が見られるのは長寿方言では指示詞と代名詞のみ、平江城関方言では『县志』

と『方言志』の内容をあわせて 10 頁未満である。それぞれの記述は主に北京官話と対照し

ているのみで、その他の近隣方言を視野に入れていない。外国語との比較対照は更に皆無

である。本論文の文法論は漢語諸方言を見渡し、更に、必要に応じて、日本語やその他の

外国語の記述も参考する形で記述する。

3.8.5.帰属(Affiliation) 方言帰属に関して、ほとんど音韻特徴に基づくものであり、その結論もさまざまである。

平江方言を贛語に帰属させている先行研究が多いが、信頼性が も高い記述は李蓝(1994)での区分である。李蓝(1994)の区分では、平江城関方言は混合的な方言で、声母体系は贛

語、韻母体系は湘語、声調体系は独自の体系であるとしている。本論文では平江城関方言

の音韻及び文法の記述をしてから、その特徴に基づいて、方言の帰属を決めるものである。

これに関しては 10 章で詳しく述べる。

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