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1 161 - - タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方 一一20 世紀前半におけるべンガノレと日本の文化交流の一班 稲賀繁美 国際日本文化研究センター 問題設定 1901 年から翌年にかけてイ ンドに初の滞在を果たした岡倉覚三は、菱田春草、横山大観を ベンガルに派遣した。 1913 年の岡倉の没後、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞し たラピンドロナート・タゴール(ベンガル音で、はロビンドロナト・タクル、に近いが、以下 慣用に従う)(1 861-194 1)が来日し、原富太郎の三渓園に寄寓する。インドの詩人は下村観 山が謡曲を題材とした《弱法師》に感激し、その複製を所望した。この制作に携わった荒井 寛方(1 878-1945) は、ベンガルに招かれ、ナンダラル・ボース(べンガル音、ノンドラル・ ボシュ、を以下用いる)ほかの現地の喜術家たちと交友を結ぶ。その一方、瀧精一の斡旋を 得た荒井は、津田専太郎ほかとともに、アジヤンター壁画の部分模写に従事する。この事業は、 追って帰国後、荒井晩年の法隆寺金堂壁画の模写に繋がる。 そもそも何故、荒井寛方がインドへの使者として抜擢されたのか。ベンガノレの人々にとっ て《弱法師》とは、いかなる意味を担う作品だ、ったのか。岡倉の衣鉢を継ぐ日本美術院と、 瀧精ーを編集長とする雑誌『園華』とのあいだにあって、荒井はインド派遣隊のなかでいか なる位置を占めたのか。さらに彼の模写事業を支えた仏教の信仰とはし 1 かなる性質のものだ ったのか。その画業はとりわけ戦争期にいたるインドと日本の近代史のなかで、民族主義や 国家主義とどのように関わっていたのか。そしてボ、シュ晩年の東洋哲学への傾倒とかれの日 本体験とは、いかなる結び、つきをもって、その画業に働きかけていたのか。従来、日本なり インドなりの近代美術史研究は、とかく国別の枠組みに縛られてきたが、これらを跨いだ視 点に立つことによって、そうした数多くの疑問に対して、現時点で可能な仮説を提起するこ とが、本稿の目的となる。 1 .スワデシ運動と日本人警術家たちとの関わり 天心こと岡倉覚三が二十世紀初頭のベンガル・ルネサンスに関与していたことは、よく知 られる。最初のインド行は東京美術学校学長辞任に続く時期のことだが、横山大観の《屈原》 は、この時期の岡倉覚三の心境を、中国の著名な詩人のうちに読み込んだ寓意的作品といえ よう。平櫛田中の《酔吟行)(1 915) は天心没後の木彫だが、酔って詩を口ずさむ夫子の姿に、 161 「タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方:20世紀前半におけるベンガルと日本の文化交流の一斑」宇野隆夫編 Changing Perceptions of Japan in South Asia in the New Asian Era: The State of Japanese studies in Indida and Other SAARC Countries 『アジア新時代の南アジアにおける日本像:インド・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性』 国際日本文化研究センター 2011年3月25日 161-194頁 - - タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方 一一20 世紀前半におけるべンガノレと日本の文化交流の一班 稲賀繁美 国際日本文化研究センター 問題設定 1901 年から翌年にかけてイ ンドに初の滞在を果たした岡倉覚三は、菱田春草、横山大観を ベンガルに派遣した。 1913 年の岡倉の没後、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞し たラピンドロナート・タゴール(ベンガル音で、はロビンドロナト・タクル、に近いが、以下 慣用に従う)(1 861-194 1)が来日し、原富太郎の三渓園に寄寓する。インドの詩人は下村観 山が謡曲を題材とした《弱法師》に感激し、その複製を所望した。この制作に携わった荒井 寛方(1 878-1945) は、ベンガルに招かれ、ナンダラル・ボース(べンガル音、ノンドラル・ ボシュ、を以下用いる)ほかの現地の喜術家たちと交友を結ぶ。その一方、瀧精一の斡旋を 得た荒井は、津田専太郎ほかとともに、アジヤンター壁画の部分模写に従事する。この事業は、 追って帰国後、荒井晩年の法隆寺金堂壁画の模写に繋がる。 そもそも何故、荒井寛方がインドへの使者として抜擢されたのか。ベンガノレの人々にとっ て《弱法師》とは、いかなる意味を担う作品だ、ったのか。岡倉の衣鉢を継ぐ日本美術院と、 瀧精ーを編集長とする雑誌『園華』とのあいだにあって、荒井はインド派遣隊のなかでいか なる位置を占めたのか。さらに彼の模写事業を支えた仏教の信仰とはし 1 かなる性質のものだ ったのか。その画業はとりわけ戦争期にいたるインドと日本の近代史のなかで、民族主義や 国家主義とどのように関わっていたのか。そしてボ、シュ晩年の東洋哲学への傾倒とかれの日 本体験とは、いかなる結び、つきをもって、その画業に働きかけていたのか。従来、日本なり インドなりの近代美術史研究は、とかく国別の枠組みに縛られてきたが、これらを跨いだ視 点に立つことによって、そうした数多くの疑問に対して、現時点で可能な仮説を提起するこ とが、本稿の目的となる。 1 .スワデシ運動と日本人警術家たちとの関わり 天心こと岡倉覚三が二十世紀初頭のベンガル・ルネサンスに関与していたことは、よく知 られる。最初のインド行は東京美術学校学長辞任に続く時期のことだが、横山大観の《屈原》 は、この時期の岡倉覚三の心境を、中国の著名な詩人のうちに読み込んだ寓意的作品といえ よう。平櫛田中の《酔吟行)(1 915) は天心没後の木彫だが、酔って詩を口ずさむ夫子の姿に、 161

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タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

一一20 世紀前半におけるべンガルと日本の文化交流の一班

稲賀繁美国際日本文化研究センター

問題設定

1901 年から翌年にかけてインドに初の滞在を果たした岡倉覚三は、菱田春草、横山大観を

ベンガルに派遣した。 1913 年の岡倉の没後、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞し

たラピンドロナート・タゴーノレ(ベンガル音で、はロビンドロナト・タクル、に近いが、以下

慣用に従う) (1 861-1941)が来日し、原富太郎の三渓園に寄寓する。 インドの詩人は下村観

山が謡曲を題材とした《弱法師》 に感激し、その複製を所望した。 この制作に携わった荒井

寛方(1878-1945) は、ベンガルに招かれ、ナンダラル・ボース(ベンガル音、ノンドラル・

ボ、シュ、を以下用いる)ほかの現地の萎術家たちと交友を結ぶ。その一方、瀧精ーの斡旋を

得た荒井は、津田専太郎ほかとともに、アジヤンター壁画の部分模写に従事する。この事業は、

追って帰国後、荒井晩年の法隆寺金堂壁画の模写に繋がる。

そもそも何故、荒井寛方がインドへの使者として抜擢されたのか。 ベンガルの人々にとっ

て《弱法師》とは、いかなる意味を担う作品だ、ったのか。 岡倉の衣鉢を継ぐ日本美術院と、

瀧精ーを編集長とする雑誌『園華』とのあいだ、にあって、荒井はインド派遣隊のなかでいか

なる位置を占めたのか。さらに彼の模写事業を支えた仏教の信仰とはし 1かなる性質のものだ

ったのか。 その画業はとりわけ戦争期にいたるインドと日本の近代史のなかで、民族主義や

国家主義とどのように関わっていたのか。 そしてボ、シュ晩年の東洋哲学への傾倒とかれの日

本体験とは、いかなる結びつきをもって、その画業に働きかけていたのか。 従来、日本なり

インドなりの近代美術史研究は、とかく国別の枠組みに縛られてきたが、これらを跨いだ視

点に立つことによって、そうした数多くの疑問に対して、現時点で可能な仮説を提起するこ

とが、本稿の目的となる。

1 .スワデシ運動と日本人妻術家たちとの関わり

天心こと岡倉覚三が二十世紀初頭のべンガル・ルネサンスに関与していたことは、よく知

られる 。 最初のインド行は東京美術学校学長辞任に続く時期のことだが、横山大観の《屈原》

は、この時期の岡倉覚三の心境を、中国の著名な詩人のうちに読み込んだ寓意的作品といえ

よう 。 平櫛田中の《酔吟行)) (1 915) は天心没後の木彫だが、酔って詩を口ずさむ夫子の姿に、

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タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

一一20世紀前半におけるべンガノレと日本の文化交流の一班

稲賀繁美国際日本文化研究センター

問題設定

1901年から翌年にかけてイ ンドに初の滞在を果たした岡倉覚三は、菱田春草、横山大観を

ベンガルに派遣した。 1913年の岡倉の没後、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞し

たラピンドロナート・タゴール(ベンガル音で、はロビンドロナト・タクル、に近いが、以下

慣用に従う) (1861-1941)が来日し、原富太郎の三渓園に寄寓する。インドの詩人は下村観

山が謡曲を題材とした《弱法師》に感激し、その複製を所望した。この制作に携わった荒井

寛方(1878-1945)は、ベンガルに招かれ、ナンダラル・ボース(べンガル音、ノンドラル・

ボシュ、を以下用いる)ほかの現地の喜術家たちと交友を結ぶ。その一方、瀧精一の斡旋を

得た荒井は、津田専太郎ほかとともに、アジヤンター壁画の部分模写に従事する。この事業は、

追って帰国後、荒井晩年の法隆寺金堂壁画の模写に繋がる。

そもそも何故、荒井寛方がインドへの使者として抜擢されたのか。ベンガノレの人々にとっ

て《弱法師》とは、いかなる意味を担う作品だ、ったのか。岡倉の衣鉢を継ぐ日本美術院と、

瀧精ーを編集長とする雑誌『園華』とのあいだにあって、荒井はインド派遣隊のなかでいか

なる位置を占めたのか。さらに彼の模写事業を支えた仏教の信仰とはし 1かなる性質のものだ

ったのか。その画業はとりわけ戦争期にいたるインドと日本の近代史のなかで、民族主義や

国家主義とどのように関わっていたのか。そしてボ、シュ晩年の東洋哲学への傾倒とかれの日

本体験とは、いかなる結び、つきをもって、その画業に働きかけていたのか。従来、日本なり

インドなりの近代美術史研究は、とかく国別の枠組みに縛られてきたが、これらを跨いだ視

点に立つことによって、そうした数多くの疑問に対して、現時点で可能な仮説を提起するこ

とが、本稿の目的となる。

1 .スワデシ運動と日本人警術家たちとの関わり

天心こと岡倉覚三が二十世紀初頭のベンガル・ルネサンスに関与していたことは、よく知

られる。最初のインド行は東京美術学校学長辞任に続く時期のことだが、横山大観の《屈原》

は、この時期の岡倉覚三の心境を、中国の著名な詩人のうちに読み込んだ寓意的作品といえ

よう。平櫛田中の《酔吟行))(1915)は天心没後の木彫だが、酔って詩を口ずさむ夫子の姿に、

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「タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方:20世紀前半におけるベンガルと日本の文化交流の一斑」宇野隆夫編 Changing Perceptions of Japan in South Asia in the New Asian Era: The State of Japanese studies in Indida and Other SAARC Countries 『アジア新時代の南アジアにおける日本像:インド・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性』 国際日本文化研究センター 2011年3月25日 161-194頁

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タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

一一20世紀前半におけるべンガノレと日本の文化交流の一班

稲賀繁美国際日本文化研究センター

問題設定

1901年から翌年にかけてイ ンドに初の滞在を果たした岡倉覚三は、菱田春草、横山大観を

ベンガルに派遣した。 1913年の岡倉の没後、アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞し

たラピンドロナート・タゴール(ベンガル音で、はロビンドロナト・タクル、に近いが、以下

慣用に従う) (1861-1941)が来日し、原富太郎の三渓園に寄寓する。インドの詩人は下村観

山が謡曲を題材とした《弱法師》に感激し、その複製を所望した。この制作に携わった荒井

寛方(1878-1945)は、ベンガルに招かれ、ナンダラル・ボース(べンガル音、ノンドラル・

ボシュ、を以下用いる)ほかの現地の喜術家たちと交友を結ぶ。その一方、瀧精一の斡旋を

得た荒井は、津田専太郎ほかとともに、アジヤンター壁画の部分模写に従事する。この事業は、

追って帰国後、荒井晩年の法隆寺金堂壁画の模写に繋がる。

そもそも何故、荒井寛方がインドへの使者として抜擢されたのか。ベンガノレの人々にとっ

て《弱法師》とは、いかなる意味を担う作品だ、ったのか。岡倉の衣鉢を継ぐ日本美術院と、

瀧精ーを編集長とする雑誌『園華』とのあいだにあって、荒井はインド派遣隊のなかでいか

なる位置を占めたのか。さらに彼の模写事業を支えた仏教の信仰とはし 1かなる性質のものだ

ったのか。その画業はとりわけ戦争期にいたるインドと日本の近代史のなかで、民族主義や

国家主義とどのように関わっていたのか。そしてボ、シュ晩年の東洋哲学への傾倒とかれの日

本体験とは、いかなる結び、つきをもって、その画業に働きかけていたのか。従来、日本なり

インドなりの近代美術史研究は、とかく国別の枠組みに縛られてきたが、これらを跨いだ視

点に立つことによって、そうした数多くの疑問に対して、現時点で可能な仮説を提起するこ

とが、本稿の目的となる。

1 .スワデシ運動と日本人警術家たちとの関わり

天心こと岡倉覚三が二十世紀初頭のベンガル・ルネサンスに関与していたことは、よく知

られる。最初のインド行は東京美術学校学長辞任に続く時期のことだが、横山大観の《屈原》

は、この時期の岡倉覚三の心境を、中国の著名な詩人のうちに読み込んだ寓意的作品といえ

よう。平櫛田中の《酔吟行))(1915)は天心没後の木彫だが、酔って詩を口ずさむ夫子の姿に、

161

稲賀繁美

天心の面影が投影されている。 1901 年から翌年にかけての最初のインド滞在で、岡倉覚三は

近代ヒンドワの刷新者として著名なヴィヴェカノンダ (1863ー1902 :ヴィヴェカーナンダと読

まれることが多いが、ここで、はベンガノレ音を取る)と交友をもった。ラーマクリシュナの弟

子で、あったヴィヴェカノンダは、 1893 年のシカゴ万国博覧会での万国宗教会議で伝説的な成

功を収め、海外からも帰依者を集めていた。世界のすべての宗教は唯一の理想を目ざす一一

アドヴァイタ即ち不二一元論と呼ばれるこの考えを岡倉は吸収し、これを日本美術史の歴史

的展開へと応用して、インド滞在中に脱稿した最初の英文著作『東洋の理想』の説明原理に

用いている。岡倉が日本を留守にした時期の横山大観の作品に《迷児)) (1 902) が知られる。

ひとりの迷よい子が孔子、老子、仏陀、イエズ、ス・クリストに固まれているが、薄明のなか

に閉ざされた画面からは、啓蒙への道行きはしかとは見えず、かえって幼児は不可思議な老

人たちの諭しを前に途方に暮れている風情である。およそ従来の宗教画の範曙におさまるよ

うな作品とはいえず、その意味も判然とはしない。だがそこに描かれた複数の宗教が混在し

た混鴻の雰囲気には、奇しくも同じ頃ヴィヴェカノンダが理想とした諸宗教融合の思想に通

じるものがある、と言えるかも知れない。ヴィヴェカノンダが本拠としたべンガノレのベルー

ルの地に、彼の没後に完成する僧院もまた、インドやイスラームのみならず西欧のルネサン

ス様式をも取り込んだ、不思議な混靖様式を纏っていたことが思い出される。

岡倉のインド滞在の翌年、菱田春草と横山大観とがベンガルに派遣され、タゴール家の

厄介となる。詩人の甥、アパニンドロノナート(ベンガル音ではオボ、ニンドロナト)・タゴ

ール(1871-1951) は日本の画家たちが見せた技法について証言を残すが、彼自身のワッシユ

wash 技法ー紙面に水彩を置き、それを頻繁に水桶に漬けて洗い流す技法一ーがそこから生

まれたことは疑いあるまい。この滞印期から帰国直後の時期の作品として、春草には《弁財

天》、大観には《インド守護神)) (1903) と称される作品が知られる。そこには従来の伝統的

な仏教図像からは逸脱した表現が顕著であり、当時の日本の公衆にはとりわけ衝撃的に映っ

たはずだ。琵琶のかわりに、その原型となるヴィーナを手にするサラスヴァティーといい、

頭蓋骨を束ねた帯を腰に巻き付け、刀を腕に持って黒髪を振り乱すカーリー女神の姿といい、

ともにインドの地に今も生きるヒンドゥの図像を頼りに、仏教図像を刷新しようとする気概

に満ちた実験作と評価できょう。その直後の時期に制作されたオボニンドロナトの《母なる

インド)) (1904-5) は、スワデシ民族運動を代表する作品として著名だが、佐藤志乃氏も指摘

するとおり、四本の腕は大観のカーリー女神を、蓮の池のうえに件む姿は春草の弁天を想起

させ、これら三つの作品のあいだに強し 1親和性のあることを感じさせる。

当時、ヴィヴェカノンダに帰依してヒンドゥに改宗した、アイルランド出身のマーガレツ

1 Inaga 2001-a, pp. 119-132. 2 ノンドラル・ボシュによる設計とも言われる建築は伊東忠太による築地東本願寺の建築と、折衷様式にお

いて、著しい類似をみせている。岡倉の薦めもあって伊東忠太は陸路アジアを走破しており、 1902 年にベン

ガノレに滞在している。

3 Tagore, A. 1973, Ch.14; 日本語翻訳は、『アジア近代絵画の夜明け展~ 1985. SatδS. 1998, p. 90. 4 SatδD. 1992, pp. 436-52; Sat� S. 1998, p. 90.

162

Fig.l 菱田春草《弁

Hishida Shunsδ, Saran

[Awakening 1985: 87)

Fig.3 アパニンドラナーマ」ダ)) 1905-6、ラヴィニ

Abanindranath Teagore

Rabindra Bharati Socieザ・

稲賀繁美

天心の面影が投影されている。 1901年から翌年にかけての最初のインド滞在で、岡倉覚三は

近代ヒンドワの刷新者として著名なグィヴェカノンダ(1863-1902:ヴィヴェカーナンダと読

まれることが多いが、ここで、はベンガノレ音を取る)と交友をもった。ラーマクリシュナの弟

子で、あったヴィグェカノンダは、 1893年のシカゴ万国博覧会での万国宗教会議で伝説的な成

功を収め、海外からも帰依者を集めていた。世界のすべての宗教は唯一の理想を目ざす一一

アドヴァイタ即ち不二一元論と呼ばれるこの考えを岡倉は吸収し これを日本美術史の歴史

的展開へと応用して、インド滞在中に脱稿した最初の英文著作『東洋の理想』の説明原理に

用いている。岡倉が日本を留守にした時期の横山大観の作品に《迷児))(1902)が知られる。

ひとりの迷よい子が孔子、老子、仏陀、イエズス・クリストに固まれているが、薄明のなか

に閉ざされた画面からは、啓蒙への道行きはしかとは見えず、かえって幼児は不可思議な老

人たちの諭しを前に途方に暮れている風情である。およそ従来の宗教画の範時におさまるよ

うな作品とはいえず、その意味も判然とはしない。だがそこに描かれた複数の宗教が混在し

た混請の雰囲気には、奇しくも同じ頃ヴィヴェカノンダが理想とした諸宗教融合の思想、に通

じるものがある、と言えるかも知れない。ヴィヴェカノンダが本拠としたベンガルのベルー

ルの地に、彼の没後に完成する僧院もまた、インドやイスラームのみならず西欧のルネサン

ス様式をも取り込んだ、不思議な混1肴様式を纏っていたことが思い出される。

岡倉のインド滞在の翌年、菱田春草と横山大観とがベンガルに派遣され、タゴール家の

厄介となる。詩人の甥、アパニンドロノナート(ベンガル音で、はオボ、ニンドロナト)・タゴ

ール(1871-1951)は日本の画家たちが見せた技法について証言を残すが、彼自身のワッシュ

wash技法- 紙面に水彩を置き、それを頻繁に水桶に漬けて洗い流す技法一ーがそとから生

まれたことは疑いあるまい。この滞印期から帰国直後の時期の作品として、春草には《弁財

天》、大観には《インド守護神))(1903)と称される作品が知られる。そこには従来の伝統的

な仏教図像からは逸脱した表現が顕著であり、当時の日本の公衆にはとりわけ衝撃的に映っ

たはずだ。琵琶のかわりに、その原型となるグィーナを手にするサラスヴァティーといい、

頭蓋骨を束ねた帯を腰に巻き付け、刀を腕に持って黒髪を振り乱すカーリー女神の姿といい、

ともにインドの地に今も生きるヒンドワの図像を頼りに、仏教図像を刷新しようとする気概

に満ちた実験作と評価できょう。その直後の時期に制作されたオボ、ニンドロナトの《母なる

インド))(1904-5)は、スワデシ民族運動を代表する作品として著名だが、佐藤志乃氏も指摘

するとおり、四本の腕は大観のカーリ一女神を、蓮の池のうえに件む姿は春草の弁天を想起

させ、これら三つの作品のあいだに強し 1親和性のあることを感じさせる。

当時、ヴィヴェカノンダに帰依してヒンドゥに改宗した、アイルランド出身のマーガレツ

1 Inaga 2001-a, pp. 119-132.

2 ノンドラル ・ボシュによる設計とも言われる建築は伊東忠太による築地東本願寺の建築と、折衷様式にお

いて、著しい類似をみせている。岡倉の薦めもあって伊東忠太は陸路アジアを走破しており、 1902年にベン

ガルに滞在している。

3 Tagore, A. 1973, Ch.14; 日本語翻訳は、『アジア近代絵画の夜明け展~ 1985. SatδS. 1998, p. 90.

4 SatδD. 1992, pp. 436-52; SatδS. 1998, p. 90.

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稲賀繁美

天心の面影が投影されている。 1901年から翌年にかけての最初のインド滞在で、岡倉覚三は

近代ヒンドワの刷新者として著名なグィヴェカノンダ(1863-1902:ヴィヴェカーナンダと読

まれることが多いが、ここで、はベンガノレ音を取る)と交友をもった。ラーマクリシュナの弟

子で、あったヴィグェカノンダは、 1893年のシカゴ万国博覧会での万国宗教会議で伝説的な成

功を収め、海外からも帰依者を集めていた。世界のすべての宗教は唯一の理想を目ざす一一

アドヴァイタ即ち不二一元論と呼ばれるこの考えを岡倉は吸収し これを日本美術史の歴史

的展開へと応用して、インド滞在中に脱稿した最初の英文著作『東洋の理想』の説明原理に

用いている。岡倉が日本を留守にした時期の横山大観の作品に《迷児))(1902)が知られる。

ひとりの迷よい子が孔子、老子、仏陀、イエズス・クリストに固まれているが、薄明のなか

に閉ざされた画面からは、啓蒙への道行きはしかとは見えず、かえって幼児は不可思議な老

人たちの諭しを前に途方に暮れている風情である。およそ従来の宗教画の範時におさまるよ

うな作品とはいえず、その意味も判然とはしない。だがそこに描かれた複数の宗教が混在し

た混請の雰囲気には、奇しくも同じ頃ヴィヴェカノンダが理想とした諸宗教融合の思想、に通

じるものがある、と言えるかも知れない。ヴィヴェカノンダが本拠としたベンガルのベルー

ルの地に、彼の没後に完成する僧院もまた、インドやイスラームのみならず西欧のルネサン

ス様式をも取り込んだ、不思議な混1肴様式を纏っていたことが思い出される。

岡倉のインド滞在の翌年、菱田春草と横山大観とがベンガルに派遣され、タゴール家の

厄介となる。詩人の甥、アパニンドロノナート(ベンガル音で、はオボ、ニンドロナト)・タゴ

ール(1871-1951)は日本の画家たちが見せた技法について証言を残すが、彼自身のワッシュ

wash技法- 紙面に水彩を置き、それを頻繁に水桶に漬けて洗い流す技法一ーがそとから生

まれたことは疑いあるまい。この滞印期から帰国直後の時期の作品として、春草には《弁財

天》、大観には《インド守護神))(1903)と称される作品が知られる。そこには従来の伝統的

な仏教図像からは逸脱した表現が顕著であり、当時の日本の公衆にはとりわけ衝撃的に映っ

たはずだ。琵琶のかわりに、その原型となるグィーナを手にするサラスヴァティーといい、

頭蓋骨を束ねた帯を腰に巻き付け、刀を腕に持って黒髪を振り乱すカーリー女神の姿といい、

ともにインドの地に今も生きるヒンドワの図像を頼りに、仏教図像を刷新しようとする気概

に満ちた実験作と評価できょう。その直後の時期に制作されたオボ、ニンドロナトの《母なる

インド))(1904-5)は、スワデシ民族運動を代表する作品として著名だが、佐藤志乃氏も指摘

するとおり、四本の腕は大観のカーリ一女神を、蓮の池のうえに件む姿は春草の弁天を想起

させ、これら三つの作品のあいだに強し 1親和性のあることを感じさせる。

当時、ヴィヴェカノンダに帰依してヒンドゥに改宗した、アイルランド出身のマーガレツ

1 Inaga 2001-a, pp. 119-132.

2 ノンドラル ・ボシュによる設計とも言われる建築は伊東忠太による築地東本願寺の建築と、折衷様式にお

いて、著しい類似をみせている。岡倉の薦めもあって伊東忠太は陸路アジアを走破しており、 1902年にベン

ガルに滞在している。

3 Tagore, A. 1973, Ch.14; 日本語翻訳は、『アジア近代絵画の夜明け展~ 1985. SatδS. 1998, p. 90.

4 SatδD. 1992, pp. 436-52; SatδS. 1998, p. 90.

162

在で、岡倉覚三は

ェカーナン夕、と読

マクリ、ンュナの弟

会議で伝説的な成

理想、を目ざす一一

日本美術史の歴史

想』の説明原理に

1902) が知られる。

るが、薄明のなか

児は不可思議な老

範曙におさまるよ

数の宗教が混在し

教融合の思想に通

べンガノレのベルー

ず西欧のルネサン

る。

れ、タゴール家の

/ドロナト)・タゴ

彼自身のワッシュ

ーーがそこから生

春草には《弁財

には従来の伝統的

わけ衝撃的に映っ

アァティーといい、

一女神の姿といい、

・しようとする気概

ロナトの《母なる

佐藤志乃氏も指摘

;春草の弁天を想起

、出身のマーガレツ

童築と、折衷様式にお

ごおり、 1902 年にベン

8, p. 90.

Fig.l 菱田春草《弁財天)) 1903、個人蔵

Hishida Shunsδ, Sarasvati 1903, Private Collection. [Awakening 1985: 87J

Fig. 3 アパニンドラナート・タゴール《パーラト・

マーダ)) 1905-6、ラヴインドラ・パラティ協会蔵

Abanindranath Teagore, Bharat Mata 1905・ 6 ,

Rabindra Bharati Society. (Quintanilla 2008: 105)

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

Fig.2 横山大観《インド守護神)) 1903、個人蔵

Yokoyama Taikan, lndian Diviniか 0/Protection

1903, Private Collection. (Awakening 1985: 74)

Fig.4 19 世紀後期カーリ一女神の一般的イメージ

(P. Mitter 1994 より)

Popular Imagery of the Kali Goddess, Calcutta, ca. end of 19th c印刷ry. (P. Mitter 1994: xII)

163

Fig.l 菱田春草《弁財天))1903、個人蔵

回shidaShUDSδ,Sarasvati 1903, Private Collection.

(Awakening 1985: 87)

Fig.3アパニンドラナート・タゴーノレ《パーラト・

マ」ダヲ1)1905-6、ラヴインドラ・パラティ協会蔵

Abanindranath Teagore, Bharat Mata 1905・6,

Rabindra Bharati Society. [Quintanilla 2008: 105)

圃圃圃圃圃

タゴール、ノンド、ラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.2 横山大観《インド守護神))1903、個人蔵

Yokoyama Taikan, lndian Divini砂 01Protection

1903, Private Collection. [Awakening 1985: 74)

Fig.4 19世紀後期カーリ一女神の一般的イメージ

(P.Mi枕er1994より)

Popular Imagery of the Kali Goddess, Calcutta, ca.

end of 19白cen旬ry.[P. Mitter 1994: xrr)

163

Fig.l 菱田春草《弁財天))1903、個人蔵

回shidaShUDSδ,Sarasvati 1903, Private Collection.

(Awakening 1985: 87)

Fig.3アパニンドラナート・タゴーノレ《パーラト・

マ」ダヲ1)1905-6、ラヴインドラ・パラティ協会蔵

Abanindranath Teagore, Bharat Mata 1905・6,

Rabindra Bharati Society. [Quintanilla 2008: 105)

圃圃圃圃圃

タゴール、ノンド、ラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.2 横山大観《インド守護神))1903、個人蔵

Yokoyama Taikan, lndian Divini砂 01Protection

1903, Private Collection. [Awakening 1985: 74)

Fig.4 19世紀後期カーリ一女神の一般的イメージ

(P.Mi枕er1994より)

Popular Imagery of the Kali Goddess, Calcutta, ca.

end of 19白cen旬ry.[P. Mitter 1994: xrr)

163

稲賀繁美

ト・エリザベス・ノーブル、通称ニヴェデ、イタ(1 867-1911) が、岡倉滞印直前に『母なるカー

リー~ (1 901) を刊行している。人間を殺数する無慈悲で残虐なカーリ一女神、その漆黒の姿

は、通常インド社会で見られる女性性の対極をなす形象であり、そのマーヤー(仮象)とし

ての姿を跨ぎ越して、その背後に真実を見る必要がある、と彼女は説いた。オボニンドロナ

トの《母なるインド》は、まさに暗黒のカーリーのネガ、通常ならばカーリ一女神の図像によっ

て隠されている裏面、本来あるべき理想を描いたもの、ともいえようか。ニヴェデ、イタが定

式化したマーヤーとしてのカーリー女神の姿は、春草や大観がインドに渡るに先立ち、岡倉

によってすでに伝えられていた可能性も除外できまい。岡倉とニヴェデ、ィタとのあいだに相

互作用の働いていたことが、残されたふたりの著述から確認されるからだ。岡倉がインド滞

在中「我らはひとつJ と題して執筆した政治的扇動文書の草稿(これは 1939 年に『東洋の

覚醒』として日本語訳が出版される)の第 6 章官頭には、いささか唐突に、カーリー女神へ

の賛歌が綴られる。筆者はここに、ニヴエディタの著作からの直接的な感化の跡を認めるも

のだが、これもけっして無理な想定ではあるまい。

ここで従来必ずしも十分には指摘されてこなかった補助線を二本提案しておきたい。ひと

つは、オボニンドロナトのワッシュ技法と、大観や春草の藤膳体と称する技法との関係であ ・

る。大観や春草が藤瀧体を多用するのは、インド滞在期の前後に集中しており、数年後には

退潮する。とすれば、オボニンドロナトがそこに日本特有の技法を見て、それを独自に発展

した経緯には、歴史の偶然が作用した、といわねばなるまい。 1蒙膳体は、欧米のアカデミー

の線描の優位に対する東洋的抵抗として岡倉が提唱したものの、日本でも決して広く肯定さ

れたわけで、はない実験的な技法だった。ところがそれは、インドのベンガル・ルネッサンス

では、ムガールの細密画からの脱皮と、イギリスの美術教育への反発という文脈で、ことさ

ら積極的に活用され、ワッシュ技法へと生まれ変わり、タゴールの周囲で、市民権を確立した。

だがこの技法は作品の保存にはけっして有利ではなく、また容易に槌色を招き、徽などによ

る損傷を招きやすい脆弱さと裏腹だ、ったことも、否定できない。水洗された画面の絵柄は、

文字通り藤騰として、ある種表現上の弱々しさをも印象づける。また画面全体を水桶につけ

るという制作では、もとより大作は期待できない。そうした技法的短所を代価に、オボニン

ドロナトたちは、新たな国民絵画創出に挑んだ、ことになる。

日本趣味で著名なジェイムズ・マクニール・ホウイスラーには、港に出入りする帆船を

描いた《バルバライソ)) (1 866) が知られ、欧州|で大観はこれらの作品に接している。大観

自身の藤膳体による《帰帆)) (1 905) と比較すると、そこには意図的なまでの類縁性が浮かび

上がる。藤膳体とし 1 う表現法そのものが、例えばホウイスラーの日本趣味を教訓として、西

5 Nivedita 1967, vol. 2, p. 431.詳細についてはInaga 2004, pp. 129-159. 6 Okakura 1984, vol. 2, p. 191, Bharucha 2006, p. 27 はこの岡倉の一節を引し、ているが、「不動J Acalanta を和辻

哲郎の「風土J climate と同一の単語と誤認している。と はいえ興味深いことに、サンスクリットの「不動J

はシヴァ神の変容のひとつとみなされており、それはモンスーンの擬人化でもあった。 和辻はインド洋での

体験からモンスーン型文化を構想している。パルーチャの和辻に関する議論は、 Sakai 1996 参照。

7 Sat� S. 1997, pp. 31-58.

164

欧で流行のん

に、東洋人自 1

た「音楽的諮き

ら導きだされと

ラー追悼の辞

は、こう語っー

然ではなく、

れた束の間のさ

類による達成ι

り、それは古き

三百年の長きに

展派の放縦を、

めたのである」

第二に、大観

在に先立ち、岡

歴史的な名品の

を忘れてはなる

りわけ 13 世紀、

く見いだされる c

の《大元明王》‘

知られるが、大五

焔のなかで、憤怒(

代ヒンドワ教の;

も顕著な作例で2

品に、平安時代じ

があり、ピゲロ』

高い関心があり、

行への予行演習ι

でこうした条件カ

サンスを代表すそ

に至った、と見と

すでに別の論ゴ

やスレンドロナト

8 Fenollosa 1903, p. Yokoyama 1951; 1982, に‘Noc印me' の題名が9 SatδD. 2007, pp. 1

稲賀繁美

ト・エリザベス・ノーブル、通称ニヴェデ、イタ(1867-1911)が、岡倉滞印直前に『母なるカー

リー~ (1901)を刊行している。人間を殺致する無慈悲で残虐なカーリ一女神、その漆黒の姿

は、通常インド社会で見られる女性性の対極をなす形象であり、そのマーヤー(仮象)とし

ての姿を跨ぎ越して、その背後に真実を見る必要がある、と彼女は説いた。オボニンドロナ

トの《母なるインド》は、まさに暗黒のカーリーのネガ、通常ならばカーリ一女神の図像によっ

て隠されている裏面、本来あるべき理想を描いたもの、ともいえようか。ニヴェデ、イタが定

式化したマーヤーとしてのカーリ一女神の姿は、春草や大観がインドに渡るに先立ち、岡倉

によってすでに伝えられていた可能性も除外できまい。岡倉とニヴエディタとのあいだに相

互作用の働いていたことが、残されたふたりの著述から確認されるからだ。岡倉がインド滞

在中「我らはひとつ」と題して執筆した政治的扇動文書の草稿(これは 1939年に『東洋の

覚醒』として日本語訳が出版される)の第 6章冒頭には、いささか唐突に、カーリ一女神へ

の賛歌が綴られる。筆者はここに、ニヴエディタの著作からの直接的な感化の跡を認めるも

のだが、これもけっして無理な想定ではあるまい。

ここで従来必ずしも十分には指摘されてこなかった補助線を二本提案しておきたい。ひと

つは、オボニンドロナトのワッシュ技法と、大観や春草の藤騰体と称する技法との関係であ ・

る。大観や春草が藤瀧体を多用するのは、インド滞在期の前後に集中しており、数年後には

退潮する。とすれば、オボニンドロナトがそこに日本特有の技法を見て、それを独自に発展

した経緯には、歴史の偶然が作用した、といわねばなるまい。 1蒙膳体は、欧米のアカデミー

の線描の優位に対する東洋的抵抗として岡倉が提唱したものの、日本でも決して広く肯定さ

れたわけで、はない実験的な技法だった。ところがそれは、インドのベンガル・ルネッサンス

では、ムガールの細密画からの脱皮と、イギリスの美術教育への反発という文脈で、ことさ

ら積極的に活用され、ワッシュ技法へと生まれ変わり、タゴールの周囲で、市民権を確立した。

だがこの技法は作品の保存にはけっして有利ではなく、また容易に槌色を招き、微などによ

る損傷を招きやすい脆弱さと裏腹だ、ったことも、否定できない。水洗された画面の絵柄は、

文字通り藤騰として、ある種表現上の弱々しさをも印象づける。また画面全体を水桶につけ

るという制作では、もとより大作は期待できない。そうした技法的短所を代価に、オボニン

ドロナトたちは、新たな国民絵画創出に挑んだ、ことになる。

日本趣味で著名なジェイムズ・マクニール・ホウイスラーには、港に出入りする帆船を

描いた《バルバライソ))(1866) が知られ、欧州|で大観はこれらの作品に接している。大観

自身の藤膳体による《帰帆))(1905)と比較すると、そこには意図的なまでの類縁性が浮かび

上がる。 1蒙騰体という表現法そのものが、例えばホウイスラーの日本趣味を教訓として、西

5 Nivedita 1967, vol. 2, p. 431.詳細についてはInaga2004, pp. 129-159.

6 Okakura 1984, vol. 2, p. 191, Bharucha 2006, p. 27はこの岡倉の一節を引し、ているが、「不動JAcalantaを和辻

哲郎の「風土Jclimateと同一の単語と誤認している。と はいえ興味深いことに、サンスクリットの「不動J

はシヴァ神の変容のひとつとみなされており、それはモンスーンの擬人化でもあった。和辻はインド洋での

体験からモンスーン型文化を構想している。パルーチャの和辻に関する議論は、 Sakai1996参照。

7 Sato S. 1997, pp. 31-58.

164

~

稲賀繁美

ト・エリザベス・ノーブル、通称ニヴェデ、イタ(1867-1911)が、岡倉滞印直前に『母なるカー

リー~ (1901)を刊行している。人間を殺致する無慈悲で残虐なカーリ一女神、その漆黒の姿

は、通常インド社会で見られる女性性の対極をなす形象であり、そのマーヤー(仮象)とし

ての姿を跨ぎ越して、その背後に真実を見る必要がある、と彼女は説いた。オボニンドロナ

トの《母なるインド》は、まさに暗黒のカーリーのネガ、通常ならばカーリ一女神の図像によっ

て隠されている裏面、本来あるべき理想を描いたもの、ともいえようか。ニヴェデ、イタが定

式化したマーヤーとしてのカーリ一女神の姿は、春草や大観がインドに渡るに先立ち、岡倉

によってすでに伝えられていた可能性も除外できまい。岡倉とニヴエディタとのあいだに相

互作用の働いていたことが、残されたふたりの著述から確認されるからだ。岡倉がインド滞

在中「我らはひとつ」と題して執筆した政治的扇動文書の草稿(これは 1939年に『東洋の

覚醒』として日本語訳が出版される)の第 6章冒頭には、いささか唐突に、カーリ一女神へ

の賛歌が綴られる。筆者はここに、ニヴエディタの著作からの直接的な感化の跡を認めるも

のだが、これもけっして無理な想定ではあるまい。

ここで従来必ずしも十分には指摘されてこなかった補助線を二本提案しておきたい。ひと

つは、オボニンドロナトのワッシュ技法と、大観や春草の藤騰体と称する技法との関係であ ・

る。大観や春草が藤瀧体を多用するのは、インド滞在期の前後に集中しており、数年後には

退潮する。とすれば、オボニンドロナトがそこに日本特有の技法を見て、それを独自に発展

した経緯には、歴史の偶然が作用した、といわねばなるまい。 1蒙膳体は、欧米のアカデミー

の線描の優位に対する東洋的抵抗として岡倉が提唱したものの、日本でも決して広く肯定さ

れたわけで、はない実験的な技法だった。ところがそれは、インドのベンガル・ルネッサンス

では、ムガールの細密画からの脱皮と、イギリスの美術教育への反発という文脈で、ことさ

ら積極的に活用され、ワッシュ技法へと生まれ変わり、タゴールの周囲で、市民権を確立した。

だがこの技法は作品の保存にはけっして有利ではなく、また容易に槌色を招き、微などによ

る損傷を招きやすい脆弱さと裏腹だ、ったことも、否定できない。水洗された画面の絵柄は、

文字通り藤騰として、ある種表現上の弱々しさをも印象づける。また画面全体を水桶につけ

るという制作では、もとより大作は期待できない。そうした技法的短所を代価に、オボニン

ドロナトたちは、新たな国民絵画創出に挑んだ、ことになる。

日本趣味で著名なジェイムズ・マクニール・ホウイスラーには、港に出入りする帆船を

描いた《バルバライソ))(1866) が知られ、欧州|で大観はこれらの作品に接している。大観

自身の藤膳体による《帰帆))(1905)と比較すると、そこには意図的なまでの類縁性が浮かび

上がる。 1蒙騰体という表現法そのものが、例えばホウイスラーの日本趣味を教訓として、西

5 Nivedita 1967, vol. 2, p. 431.詳細についてはInaga2004, pp. 129-159.

6 Okakura 1984, vol. 2, p. 191, Bharucha 2006, p. 27はこの岡倉の一節を引し、ているが、「不動JAcalantaを和辻

哲郎の「風土Jclimateと同一の単語と誤認している。と はいえ興味深いことに、サンスクリットの「不動J

はシヴァ神の変容のひとつとみなされており、それはモンスーンの擬人化でもあった。和辻はインド洋での

体験からモンスーン型文化を構想している。パルーチャの和辻に関する議論は、 Sakai1996参照。

7 Sato S. 1997, pp. 31-58.

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~

.前 lこ『母なるカ」

神、その漆黒の姿

ヤー(仮象)とし

。オボニンドロナ

女神の図像によっ

ニヴェデ、イタが定

るに先立ち、岡倉

タとのあいだに相

。岡倉がインド滞

1939 年に『東洋の

、カーリ一女神へ

化の跡を認めるも

ておきたい。ひと

技法との関係であ

おり、数年後には

それを独自に発展

欧米のアカデミ一

決して広く肯定さ

ル・ルネッサンス

う文脈で、ことさ

行民権を確立した。

招き、 f歎などによ

した画面の絵柄は、

全体を水桶につけ

代価に、オボニン

出入りする帆船を

接している。大観

の類縁性が浮かび

を教訓として、西

不動J Acalanta を和辻

スクリットの「不動J

和辻はインド洋での

996 参照。

欧で流行の「東洋らしさ」に訴えるため

に、東洋人自らによって意図的に選ばれ

た「音楽的諮調」 だ、った、という解釈す

ら導きだされるだろう。事実、ホウイス

ラー追悼の辞でアーネスト・フヱノロサ

は、こう語っていた。「東洋の影響は偶

然ではなく、世界芸術の潮流のうえに現

れた束の間のさざ波ではない。それは人

類による達成の第二の主要なる流れであ

り、それは古き西洋の海峡へと流れ込み、

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.5 横山大観《帰帆)) 1905、滋賀県立美術館

三百年の長きにわたって席巻してきた官 Yokoyama Taikan, Sailing Back 1905, The Museum ofModern

展派の放縦を、ひとつの島へと孤絶せし Art, Shiga

めたのである J と。

第二に、大観や春草たちが、インド滞

在に先立ち、岡倉の指導のもと、日本で

歴史的な名品の模写に携わっていたこと

を忘れてはなるまい。そのなかには、と

りわけ 13 世紀、 14 世紀の密教図像が多

く見いだされる。例えば大観には醍醐寺

の《大元明王》や《孔雀明王》の模写が

知られるが、大元明王は四本の腕を持ち、

焔のなかで憤怒の形相を見せており、現

代ヒンドゥ教のカーリ一女神との類似性

も顕著な作例である。また岡倉遺愛の作

品に、平安時代の《大威徳明王》の画像

Fig.6 ジェイムズ ・ マクニール ・ ホウイスラー《薄明》

1866、テート・ブリテン、ロンドン

James McNeil Whistler, Crepuscule in Flesh Colour and Green 1866, Tate Britain, London.

があり、ピゲローの遺贈としてボストン美術館に収まっている。岡倉周囲には密教図像への

高い関心があり、そこでなされたこれらの古美術の模写は、大観や春草にとって、インド旅

行への予行演習の機会を与えるものだ、ったともいえるだろう。日本とインドとの文化を跨い

でこうした条件が事前に錯綜して準備されていた。その延長上にはじめて、ベンガル・ルネ

サンスを代表する水彩画とも称すべきオボ、ニンドロナトの《母なるインド》も形象化される

に至った、と見るべきだろう。

すでに別の論文で詳細に検討したことだが、ノンドラル・ボシュの《サティ)) (1 907 頃)

やスレンドロナト・ガングリーの《ラクシマン・センの逃亡、 1207 年)) (1 907) は、スワデシ

8 Fenollosa 1903, p. 15 . 横山大観自身も藤膳体をパリの回顧展で見たホワィスラーの作品と比べている。

Yokoyama 1951; 1982, p. 78 . 参照。 SatδDõshin 1992: pp. 436-452 . 佐藤道信はボストンで展示された横山の作品

に‘Noc同mどの題名が付されてBostonEvening Transcr収(Nov. 18, 1904) に言及されている事実を指摘している。9 SatδD. 2007, pp. 198-207.

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欧で流行の「東洋らしさ」に訴えるため

に、東洋人自らによって意図的に選ばれ

た「音楽的諮調」だ、った、という解釈す

ら導きだされるだろう。事実、ホウイス

ラー追悼の辞でアーネスト・フヱノロサ

は、こう語っていた。「東洋の影響は偶

然ではなく、世界芸術の潮流のうえに現

れた束の間のさざ波ではない。それは人

類による達成の第二の主要なる流れであ

り、それは古き西洋の海峡へと流れ込み、

三百年の長きにわたって席巻してきた官

展派の放縦を、ひとつの島へと孤絶せし

めたのであるJと。

第二に、大観や春草たちが、インド滞

在に先立ち、岡倉の指導のもと、日本で

歴史的な名品の模写に携わっていたこと

を忘れてはなるまい。そのなかには、と

りわけ 13世紀、 14世紀の密教図像が多

く見いだされる。例えば大観には醍醐寺

の《大元明王》や《孔雀明王》の模写が

知られるが、大元明王は四本の腕を持ち、

焔のなかで憤怒の形相を見せており、現

代ヒンドゥ教のカーリ一女神との類似性

も顕著な作例である。また岡倉遺愛の作

品に、平安時代の《大威徳明王》の画像

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.5 横山大観《帰帆))1905、滋賀県立美術館

Yokoyama Taikan, Sailing Back 1905, The Museum ofModem

Art, Shiga

Fig.6 ジェイムズ ・マクニール・ホワイスラー《薄明》

1866、テート・プリテン、ロンドン

James McNeil Whistler, Crepuscule in Flesh Colour and Green

1866, Tate Britain, London.

があり、ピゲローの遺贈としてボストン美術館に収まっている。岡倉周囲には密教図像への

高い関心があり、そこでなされたこれらの古美術の模写は、大観や春草にとって、インド旅

行への予行演習の機会を与えるものだ、ったともいえるだろう。日本とインドとの文化を跨い

でこうした条件が事前に錯綜して準備されていた。その延長上にはじめて、ベンガル・ルネ

サンスを代表する水彩画とも称すべきオボ、ニンドロナトの《母なるインド》も形象化される

に至った、と見るべきだろう。

すでに別の論文で詳細に検討したことだが、ノンドラル・ボシュの《サティ))(1907頃)

やスレンドロナト・ガングリーの《ラクシマン・センの逃亡、 1207年))(1907)は、スワデシ

8 Fenollosa 1903, p. 15.横山大観自身も藤膳体をパリの回顧展で見たホウイスラーの作品と比べている。

Yokoyama 1951; 1982, p. 78.参照。SatδDoshin1992: pp. 436-452.佐藤道信はボストンで展示された横山の作品

に‘Noc同rne'の題名が付されてBostonEvening Transcript (Nov. 18, 1904)に言及されている事実を指摘している。

9 SatδD. 2007, pp. 198-207.

165

欧で流行の「東洋らしさ」に訴えるため

に、東洋人自らによって意図的に選ばれ

た「音楽的諮調」だ、った、という解釈す

ら導きだされるだろう。事実、ホウイス

ラー追悼の辞でアーネスト・フヱノロサ

は、こう語っていた。「東洋の影響は偶

然ではなく、世界芸術の潮流のうえに現

れた束の間のさざ波ではない。それは人

類による達成の第二の主要なる流れであ

り、それは古き西洋の海峡へと流れ込み、

三百年の長きにわたって席巻してきた官

展派の放縦を、ひとつの島へと孤絶せし

めたのであるJと。

第二に、大観や春草たちが、インド滞

在に先立ち、岡倉の指導のもと、日本で

歴史的な名品の模写に携わっていたこと

を忘れてはなるまい。そのなかには、と

りわけ 13世紀、 14世紀の密教図像が多

く見いだされる。例えば大観には醍醐寺

の《大元明王》や《孔雀明王》の模写が

知られるが、大元明王は四本の腕を持ち、

焔のなかで憤怒の形相を見せており、現

代ヒンドゥ教のカーリ一女神との類似性

も顕著な作例である。また岡倉遺愛の作

品に、平安時代の《大威徳明王》の画像

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.5 横山大観《帰帆))1905、滋賀県立美術館

Yokoyama Taikan, Sailing Back 1905, The Museum ofModem

Art, Shiga

Fig.6 ジェイムズ ・マクニール・ホワイスラー《薄明》

1866、テート・プリテン、ロンドン

James McNeil Whistler, Crepuscule in Flesh Colour and Green

1866, Tate Britain, London.

があり、ピゲローの遺贈としてボストン美術館に収まっている。岡倉周囲には密教図像への

高い関心があり、そこでなされたこれらの古美術の模写は、大観や春草にとって、インド旅

行への予行演習の機会を与えるものだ、ったともいえるだろう。日本とインドとの文化を跨い

でこうした条件が事前に錯綜して準備されていた。その延長上にはじめて、ベンガル・ルネ

サンスを代表する水彩画とも称すべきオボ、ニンドロナトの《母なるインド》も形象化される

に至った、と見るべきだろう。

すでに別の論文で詳細に検討したことだが、ノンドラル・ボシュの《サティ))(1907頃)

やスレンドロナト・ガングリーの《ラクシマン・センの逃亡、 1207年))(1907)は、スワデシ

8 Fenollosa 1903, p. 15.横山大観自身も藤膳体をパリの回顧展で見たホウイスラーの作品と比べている。

Yokoyama 1951; 1982, p. 78.参照。SatδDoshin1992: pp. 436-452.佐藤道信はボストンで展示された横山の作品

に‘Noc同rne'の題名が付されてBostonEvening Transcript (Nov. 18, 1904)に言及されている事実を指摘している。

9 SatδD. 2007, pp. 198-207.

165

稲賀繁美

国民運動に結びつくべンガル・ルネサンスの文脈で、歴

史的な意義を担う作品である。前者は、イギリス側支配

者やキリスト教宣教者から、非人道的な蛮行と見なされ

た宗教的実践を、民族の自己主張として復権する訴えを

含んだものであった。そして後者はべンガルの歴史記述

における民族主義に関わる論争に樟さす歴史主題だ、つ

た。ヴィヴェカノンダに帰依したニヴェデ、イタが、師の

早世の後、これらの絵画作品を擁護し推奨する活動に挺

身したことも、よく知られる。《サティ》について述べ

た文章のなかで、ニヴェデ、イタはこれを社会的に強制さ

れる女性の自己犠牲などではなく、むしろ愛するものと

の一体化を希求する強固な信仰心の証であり、恐れを知

らぬ女性の意志の表明にして、不二一元を実現するため

の、栄光に満ちた聖なる行為と賞賛し、そこにキリスト

教のみならず、イスラームの教える殉教にも匹敵する美Fig.7 横山大観模写《大元明王像)) "l..-̂ --' -/ . 0-- -...J /11

1895 (京都醍醐寺、鎌倉時代 14 世紀) 徳を見いだす。また外敵の侵略により王位を纂奪され、Yokoyama Taikan, a Copy 企om Atavaka

1895 (Original at Daigoサ i Temple, Kyoto, Kamakura period, 14th cen加ry)

王宮からの退去と逃亡を余儀なくされた 13 世紀の弱小

王国の君主の事績を扱った歴史画についても、ニヴエデ

ィタは独自の解釈をくだす。これは単なる敗退と凋落の

物語ではない。『バガヴァッド・ギーター』も教えるとおり、この一時的な退去は、将来の

捲土重来を期した退却にすぎず、未来においてインドの「民族的=国民的正義J が回復され

ることの予兆である、とするのが彼女の主張だ、った。

ニヴェデ、イタの解釈の強引さを批判することは容易い。だが探るべきは、彼女の意図だ

ろう。彼女はサティに人を生け費とする非人道的な殺裁を見ようとはしない。そこには肉体

の穀損よりも精神の尊厳に重きをおく信仰の価値観が投影されている。愛する人との再結合

は、インド統一の暗喰だろう。ラクシマン・センの物語ともども、そこにはベンガル分割令

に反対し、イギリスによる分割統治への反抗を訴える政治的宣言、インドの再統一さらには

独立を「正義(ダルマ)J として要求する反体制的な主張が、隠喰として、溶け込まされていた。

とすれば、この潮流に参画した 1902 年段階の岡倉に「超国家主義者」の汚名を着せるのは、

単なる時代錯誤と言わねばなるまい。「アジアはひとつ」とは、 20 世紀冒頭の社会・政治的

状況下で、ベンガルの民族主義運動に共感を寄せ、インド独立を支援したひとりの日本人知

10 Inaga 2004, pp. 129-159、およびその短縮されたものとしてInaga 2006, pp. 90-95。ニヴェデ、イタの政治的

解釈に対しては反論もあり、論争を招いたことが知られている。

11 アナンダ・クーマラスワーミーもまた“Sta同s ofIndian Woman," The Dance ofSiva (1 924) でこの絵画作品の弁護を展開している。参照 Coomaraswamy 1985, pp. 95 sq. この点については Guha-Thakurta 1994, pp. 286ー288.ノンドラル ・ ボシュの《サティ》は日本に将来され、木版複製が頒布されている。 Kumamoto 1971 , p. 30. 日本から戻った原作はすっかり槌色していたが、故郷にもどるや元の色彩を回復した、という神秘的な逸話が知

られている。

166

識人の理念とし

2. 新たなべ〉

1890 年に岡1

の近代絵画を日

そこに岡倉の率

ている。だが、

様に高く評価し

っていた。 1908

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国の現状に対し

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ならなかった。

青陵・演田耕

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する『園華』編;

12 Woodro位 1908

13 本作品は "The

ボシュと日本とのE

Court によって英訳

14 Hamada 1909, p

稲賀繁美

国民運動に結び、つくべンガル・ルネサンスの文脈で、歴

史的な意義を担う作品である。前者は、イギリス側支配

者やキリスト教宣教者から、非人道的な蛮行と見なされ

た宗教的実践を、民族の自己主張として復権する訴えを

含んだものであった。そして後者はべンガルの歴史記述

における民族主義に関わる論争に樟さす歴史主題だっ

た。ヴィヴェカノンダに帰依したニヴェデ、ィタが、師の

早世の後、これらの絵画作品を擁護し推奨する活動に挺

身したことも、よく知られる。《サティ》について述べ

た文章のなかで、ニヴェデ、イタはこれを社会的に強制さ

れる女性の自己犠牲などではなく、むしろ愛するものと

の一体化を希求する強固な信仰心の証であり、恐れを知

らぬ女性の意志の表明にして、不二一元を実現するため

の、栄光に満ちた聖なる行為と賞賛し、そこにキリスト

教のみならず、イスラームの教える殉教にも匹敵する美Fig.7 横山大観模写《大元明王像)) "J/'. -~ - / . O-~ /11

1895 (京都醍醐寺、鎌倉時代 14世紀) 徳を見いだす。また外敵の侵略により王位を纂奪され、Yokoyama Taikan, a Copy企omAtavaka

1895 (Original at Daigo・jiTemple, Kyoto,

Kamalcura period, 14th cen加ry)

王宮からの退去と逃亡を余儀なくされた 13世紀の弱小

王国の君主の事績を扱った歴史画についても、ニヴエデ

ィタは独自の解釈をくだす。これは単なる敗退と凋落の

物語ではない。『パガヴァッド・ギーター』も教えるとおり、この一時的な退去は、将来の

捲土重来を期した退却にすぎず、未来においてインドの「民族的=国民的正義Jが回復され

ることの予兆である、とするのが彼女の主張だ、った。

ニヴエディタの解釈の強引さを批判することは容易い。だが探るべきは、彼女の意図だ

ろう。彼女はサティに人を生け費とする非人道的な殺裁を見ようとはしない。そこには肉体

の穀損よりも精神の尊厳に重きをおく信仰の価値観が投影されている。愛する人との再結合

は、インド統一の暗喰だろう。ラクシマン・センの物語ともども、そこにはベンガル分割令

に反対し、イギリスによる分割統治への反抗を訴える政治的宣言、インドの再統一さらには

独立を「正義(ダルマ)Jとして要求する反体制的な主張が、隠喰として溶け込まされていた。

とすれば、この潮流に参画した 1902年段階の岡倉に「超国家主義者」の汚名を着せるのは、

単なる時代錯誤と言わねばなるまい。「アジアはひとつ」とは、 20世紀官頭の社会・政治的

状況下で、ベンガルの民族主義運動に共感を寄せ、インド独立を支援したひとりの日本人知

10 Inaga 2004, pp. 129-159、およびその短縮されたものとしてInaga2006, pp. 90-95。ニヴエディタの政治的

解釈に対しては反論もあり、論争を招いたことが知られている。

II アナンダ・クーマラスワーミーもまた“Sta加sofIndian Woman," The Dance ofSiva (1924)でこの絵画作品の

弁護を展開している。参照 Coomaraswamy1985, pp. 95 sq.この点については Guha-Thakurta 1994, pp. 286ー288.ノンドラノレ・ボシュの《サティ》は日本に将来され、木版複製が頒布されている。 Kumamoto1971, p. 30.日本

から戻った原作はすっかり槌色していたが、故郷にもどるや元の色彩を回復した、という神秘的な逸話が知

られている。

166

稲賀繁美

国民運動に結び、つくべンガル・ルネサンスの文脈で、歴

史的な意義を担う作品である。前者は、イギリス側支配

者やキリスト教宣教者から、非人道的な蛮行と見なされ

た宗教的実践を、民族の自己主張として復権する訴えを

含んだものであった。そして後者はべンガルの歴史記述

における民族主義に関わる論争に樟さす歴史主題だっ

た。ヴィヴェカノンダに帰依したニヴェデ、ィタが、師の

早世の後、これらの絵画作品を擁護し推奨する活動に挺

身したことも、よく知られる。《サティ》について述べ

た文章のなかで、ニヴェデ、イタはこれを社会的に強制さ

れる女性の自己犠牲などではなく、むしろ愛するものと

の一体化を希求する強固な信仰心の証であり、恐れを知

らぬ女性の意志の表明にして、不二一元を実現するため

の、栄光に満ちた聖なる行為と賞賛し、そこにキリスト

教のみならず、イスラームの教える殉教にも匹敵する美Fig.7 横山大観模写《大元明王像)) "J/'. -~ - / . O-~ /11

1895 (京都醍醐寺、鎌倉時代 14世紀) 徳を見いだす。また外敵の侵略により王位を纂奪され、Yokoyama Taikan, a Copy企omAtavaka

1895 (Original at Daigo・jiTemple, Kyoto,

Kamalcura period, 14th cen加ry)

王宮からの退去と逃亡を余儀なくされた 13世紀の弱小

王国の君主の事績を扱った歴史画についても、ニヴエデ

ィタは独自の解釈をくだす。これは単なる敗退と凋落の

物語ではない。『パガヴァッド・ギーター』も教えるとおり、この一時的な退去は、将来の

捲土重来を期した退却にすぎず、未来においてインドの「民族的=国民的正義Jが回復され

ることの予兆である、とするのが彼女の主張だ、った。

ニヴエディタの解釈の強引さを批判することは容易い。だが探るべきは、彼女の意図だ

ろう。彼女はサティに人を生け費とする非人道的な殺裁を見ようとはしない。そこには肉体

の穀損よりも精神の尊厳に重きをおく信仰の価値観が投影されている。愛する人との再結合

は、インド統一の暗喰だろう。ラクシマン・センの物語ともども、そこにはベンガル分割令

に反対し、イギリスによる分割統治への反抗を訴える政治的宣言、インドの再統一さらには

独立を「正義(ダルマ)Jとして要求する反体制的な主張が、隠喰として溶け込まされていた。

とすれば、この潮流に参画した 1902年段階の岡倉に「超国家主義者」の汚名を着せるのは、

単なる時代錯誤と言わねばなるまい。「アジアはひとつ」とは、 20世紀官頭の社会・政治的

状況下で、ベンガルの民族主義運動に共感を寄せ、インド独立を支援したひとりの日本人知

10 Inaga 2004, pp. 129-159、およびその短縮されたものとしてInaga2006, pp. 90-95。ニヴエディタの政治的

解釈に対しては反論もあり、論争を招いたことが知られている。

II アナンダ・クーマラスワーミーもまた“Sta加sofIndian Woman," The Dance ofSiva (1924)でこの絵画作品の

弁護を展開している。参照 Coomaraswamy1985, pp. 95 sq.この点については Guha-Thakurta 1994, pp. 286ー288.ノンドラノレ・ボシュの《サティ》は日本に将来され、木版複製が頒布されている。 Kumamoto1971, p. 30.日本

から戻った原作はすっかり槌色していたが、故郷にもどるや元の色彩を回復した、という神秘的な逸話が知

られている。

166

ーンスの文脈で、歴

t、イギリス側支配

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、 う 神秘的な逸話が知

タ ゴーノレ、ノ ン ドラル・ポ、シュと荒井寛方

識人の理念として読むのが素直だろう 。

2 . 新たなべンガル絵画と日本での初期評価

1890 年に岡倉覚三が創刊した『園華』は、ベンガノレ

の近代絵画を日本に最初に紹介した美術雑誌となった。

そこに岡倉の率先があったことはひろく一般に認められ

ている。 だが、『園華』編集部がベンガル近代絵画を一

様に高く評価していたかといえば、実情はまったく異な

っていた。 1908 年には同誌に、ノンドラル・ボシュが『ラ

ーマーヤナ』に取材した《女王カイカイ》の原色木版複

製が掲載され、本文には「印度に於ける絵画の新派」と

題する論文が日本語に訳出された。 その著者ジョン・ G ・

ウ ッ ドローフ(1865-1936) はカルカッタ高等法院の院長

をも務めた司法官吏だが、タントラ哲学に開眼し、ヒン

ドゥに帰依した特異な経歴で知られる。 ベンガノレの新たFig.8 ((大威徳明王》 平安時代 11 世紀

な絵画は、インド人たちから大きな賞賛を得ることはな (岡倉愛蔵、ピゲローがボスト ン美術館

かった、とセイロン出身のアナンダ・クーマラスワーミ に寄贈)Dai・1to知的õ-õ (Yamantaka) , Heian

一(1 877-1947) は観察しているが、皮肉なことにそれは period, 11 th century (Piece cherished

むしろ英国人から好評を得た、とウッドローフは記し、 by Okakura. Bequeathed to the Boston Museum).

インドの「純正なる」美術が修復されるに至ったことに '

ついては、カルカッタ美術学校・前校長のE.B ・ハヴェル (1861-1934) の力に預かるとこ

ろが多いと観察する。 『園華』の同号には、オボニンドロナト・タクル(1871-1951) とスレン

ドロナト・ガングリー (1885-1909) の名前も見える。 ついで 1909 年、同誌 226 号はオボニ

ンドロナトの《月下の管弦》を彩色多色摺木版画複製で掲載し、 j賓田青陵(1881-1938) によ

る批評、「新印度画に就て」 が併載されている。創生期の考古学者として著名となる演田は、

ここで、ベンガノレ派の折衷的な様式に批判を加え、「国民ありて国家なし」というインドの亡

国の現状に対して、軽侮の念を隠していない。 演田にとって、ベンガノレの近代絵画とは「分

裂と屈服の歴史のみ」しかもたない「独立J なきインド亜大陸の「国民的煩悶の表象J に他

ならなかった。

青陵・演田耕作のいささか冷ややかな評価は、同時代のインドにおける新ベンガル派への

消極的評価を反映するだけでなく、同時に新ベンガル派との連帯を標梼する日本美術院に対

する『園華』編集部の批判的な態度をも裏書きするものだ、ったはずだ。 岡倉は 1913 年に没

12 Woodroffe 1908, pp. 150-151.

13 本作品は "The Music Pぽty" として P. Mitter 1994 図版 XXIV に複製がある。 Kumamoto 1971 , pp. 2ι31 はボシュと日本との関係を烏撤しているが、論争含みの話題はすべて検閲している。 こ の論文の英訳は Louise

Court によって英訳された。 Kumamoto Kenjir� 2008, pp.72-79. 14 Hamada 1909, pp. 234-8.

167

タゴーノレ、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

識人の理念として読むのが素直だろう。

2.新たなべンガル絵画と日本での初期評価

1890年に岡倉覚三が創刊した『園華』は、ベンガノレ

の近代絵画を日本に最初に紹介した美術雑誌となった。

そこに岡倉の率先があったことはひろく一般に認められ

ている。だが、『園華』編集部がベンガル近代絵画を一

様に高く評価していたかといえば、実情はまったく異な

っていた。 1908年には同誌に、ノンドラル・ボシュが『ラ

ーマーヤナ』に取材した《女王カイカイ》の原色木版複

製が掲載され、本文には「印度に於ける絵画の新派」と

題する論文が日本語に訳出された。その著者ジョン・ G・

ウッドローフ(1865-1936)はカルカッタ高等法院の院長

をも務めた司法官吏だが、タントラ哲学に開眼し、ヒン

ドワに帰依した特異な経歴で知られる。ベンガルの新たFig.8 ((大威徳明王》平安時代 11世紀

な絵画は、インド人たちから大きな賞賛を得ることはな (岡倉愛蔵、ピゲローがボストン美術館

かった、とセイロン出身のアナンダ・クーマラスワーミ に寄贈)Dai・ItokuMyo-o (Yamantaka), Heian

~ (1877-1947)は観察しているが、皮肉なことにそれは period, 11 th century (Piece cherished

むしろ英国人から好評を得た、とワッドローフは記し、 by Okakura. Bequeathed to the Boston Museum).

インドの「純正なる」美術が修復されるに至ったことに '

ついては、カルカッタ美術学校・前校長のE.B・ハヴェル(1861-1934)の力に預かるとこ

ろが多いと観察する。『園華』の同号には、オボニンドロナト・タクル(1871-1951)とスレン

ドロナト・ガングリー (1885-1909)の名前も見える。ついで 1909年、同誌 226号はオボニ

ンドロナトの《月下の管弦》を彩色多色摺木版画複製で掲載し、演田青陵(1881-1938)によ

る批評、「新印度画に就てj が併載されている。創生期の考古学者として著名となる演田は、

ここで、ベンガル派の折衷的な様式に批判を加え、「国民ありて国家なし」というインドの亡

国の現状に対して、軽侮の念を隠していない。演田にとって、べンガノレの近代絵画とは「分

裂と屈服の歴史のみ」しかもたない「独立Jなきインド亜大陸の「国民的煩悶の表象Jに他

ならなかった。

青陵・演田耕作のいささか冷ややかな評価は、同時代のインドにおける新ベンガル派への

消極的評価を反映するだけでなく、同時に新ベンガル派との連帯を標梼する日本美術院に対

する『園華』編集部の批判的な態度をも裏書きするものだ、ったはずだ。岡倉は 1913年に没

12 Woodroffe 1908, pp. 150-151.

13 本作品は "TheMusic Party"として P.Mitter 1994図版 XXNに複製がある。 Kumamoto1971, pp. 2ι31は

ボシュと日本との関係を烏撤しているが、論争含みの話題はすべて検閲している。この論文の英訳は Louise

Courtによって英訳された。KumamotoKenjiro 2008, pp.72-79.

14 Hamada 1909, pp. 234-8.

167

タゴーノレ、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

識人の理念として読むのが素直だろう。

2.新たなべンガル絵画と日本での初期評価

1890年に岡倉覚三が創刊した『園華』は、ベンガノレ

の近代絵画を日本に最初に紹介した美術雑誌となった。

そこに岡倉の率先があったことはひろく一般に認められ

ている。だが、『園華』編集部がベンガル近代絵画を一

様に高く評価していたかといえば、実情はまったく異な

っていた。 1908年には同誌に、ノンドラル・ボシュが『ラ

ーマーヤナ』に取材した《女王カイカイ》の原色木版複

製が掲載され、本文には「印度に於ける絵画の新派」と

題する論文が日本語に訳出された。その著者ジョン・ G・

ウッドローフ(1865-1936)はカルカッタ高等法院の院長

をも務めた司法官吏だが、タントラ哲学に開眼し、ヒン

ドワに帰依した特異な経歴で知られる。ベンガルの新たFig.8 ((大威徳明王》平安時代 11世紀

な絵画は、インド人たちから大きな賞賛を得ることはな (岡倉愛蔵、ピゲローがボストン美術館

かった、とセイロン出身のアナンダ・クーマラスワーミ に寄贈)Dai・ItokuMyo-o (Yamantaka), Heian

~ (1877-1947)は観察しているが、皮肉なことにそれは period, 11 th century (Piece cherished

むしろ英国人から好評を得た、とワッドローフは記し、 by Okakura. Bequeathed to the Boston Museum).

インドの「純正なる」美術が修復されるに至ったことに '

ついては、カルカッタ美術学校・前校長のE.B・ハヴェル(1861-1934)の力に預かるとこ

ろが多いと観察する。『園華』の同号には、オボニンドロナト・タクル(1871-1951)とスレン

ドロナト・ガングリー (1885-1909)の名前も見える。ついで 1909年、同誌 226号はオボニ

ンドロナトの《月下の管弦》を彩色多色摺木版画複製で掲載し、演田青陵(1881-1938)によ

る批評、「新印度画に就てj が併載されている。創生期の考古学者として著名となる演田は、

ここで、ベンガル派の折衷的な様式に批判を加え、「国民ありて国家なし」というインドの亡

国の現状に対して、軽侮の念を隠していない。演田にとって、べンガノレの近代絵画とは「分

裂と屈服の歴史のみ」しかもたない「独立Jなきインド亜大陸の「国民的煩悶の表象Jに他

ならなかった。

青陵・演田耕作のいささか冷ややかな評価は、同時代のインドにおける新ベンガル派への

消極的評価を反映するだけでなく、同時に新ベンガル派との連帯を標梼する日本美術院に対

する『園華』編集部の批判的な態度をも裏書きするものだ、ったはずだ。岡倉は 1913年に没

12 Woodroffe 1908, pp. 150-151.

13 本作品は "TheMusic Party"として P.Mitter 1994図版 XXNに複製がある。 Kumamoto1971, pp. 2ι31は

ボシュと日本との関係を烏撤しているが、論争含みの話題はすべて検閲している。この論文の英訳は Louise

Courtによって英訳された。KumamotoKenjiro 2008, pp.72-79.

14 Hamada 1909, pp. 234-8.

167

稲賀繁美

するが、その後の 1916 年にはノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールが来日を果たし、日

本美術院においてインド現代美術展が開催される 。 この機会に、田中豊蔵(1881-1948) は『園

華』誌上に「印度画の展覧を看る」を公刊したが、そこには演田の 7 年前の批評を繰り返す

ような言辞が認められる。 ベンガルの現代絵画には、精神的な深みと現世の悲哀が湛えられ

ているが、こうしたインドらしい外殻の下からは「繊弱なる感傷主義(センチメンタリズム)J

が漂っており、細密画を思わせる小さな画面の水彩からは「シャクンタラの戯曲やカリーダ

ーサの詩篇」に匹敵する「雄大にして沈痛な大思想、J ならではの「生気」が発散されている

とは認めがたい、と田中は否定的な評価をくだす。 果たして田中豊蔵が、ラヴィ・ヴァルマ

( 1848-1906) に代表されるような、西洋仕込みのアカデミックな油彩によるインド叙事詩の

描出を、より好ましいものと意識していたのか否かは、文面からは窺いしれない。たしかに

田中はオボ、ニンドラナトの《旅の終わり)) (沙漠の旅の終わりに疲労から倒れ込む賂舵を描

いた水彩)がパリのサロンで受賞した事実に好意的な言及を寄せてはいる。 だがそこに古代

インドの美術や文学への言及が欠けていることには、落胆を隠さない。ノンドラル・ボ、シュ

の((カノレカ ッ タ》都市風景に描写された日常風物も感興を催す佳作ではあるし、小ぶりな《ラ

ーマーヤナ))にも、大画面の《入信儀礼》にも「アジヤンタの古壁画を復興せんとする努力」

を認めるにはやぶさかでない。だがこうした努力も全体として見るならば「新興の国民義術

であるかと思えば柳か心細いJ ものであり、「現在の日本画に比べても猶ほ遜色あるもの」

と見るのが、田中の評価だ、った。 くわえて日本美術院が提唱していた「現代の日本画」その

ものに対しても、『園華』編集部はきわめて批判的であったことを、ここに付け加えておく

必要があろう 。

このように、田中豊蔵の新ベンガノレ絵画への評価は、ウッドローフのそれとはきわめて対

照的だ、った。 タゴール自身、日本での公開講演のなかでは謙遜の意味も含めて、日本におい

て仏教が今日に至るまで存続し隆盛を見せている様に賛嘆を惜しまなかった。 田中豊蔵はこ

うしたタゴールの賛辞を我田引水に及び、自らのいささか国粋主義的な見解の拠り所に流用

する。 すなわち、こと仏教に関する限り、インドの思想と美術は、その発祥の土地よりもむ

しろ日本において、よりよく発展を遂げ、今に至るま .で衰亡を遂げることなく保存せられて

いる、と 。 これは日本に東洋古代文化の生きた収蔵庫を見る『稿本日本帝国美術略記~ (フ

ランス語版を 1900 パリ万国博覧会で頒布)の九鬼隆ーによる序文にまで遡る、国威発揚の

言辞の延長上にある発言といってよい。

古代仏教の栄光はインドにおいてはもはや過去の残津にすぎず、その遺跡は郷愁と悲哀とよすが

を催す縁でしかない。 それに比べて日本は、歴史遺産が現代に咲き栄えて現存していること

を誇り得た。 それが田中豊蔵の日印文明比較だ、った。そうした見解を裏付ける事例としては、

サンチーの仏舎利塔を背景に取り込んだオボニンドロナトの《アショカ王妃)) (1 907-9) と、

15 Tanaka 1916, pp. 41-43. 16 See Ravi Varma Kalidasa Shakuntala /google image また以下も参照。 Inaga 2001 , pp. 329-348. 17 図版複製は Mitter 1994, ill.159;Awakening 1985:5.

18 Tanaka 1916, pp. 41-43.

168

Fig.9 サンチーの仏4

2 世紀

Sanci S旬pa, 2nd and 1 st c

日本美術院の寺崎!

る《大仏開眼)) (19C

上げることもできた

東大寺は、 8 世紀以

を今日にいたるまて

している。これに実

が件むストワーパピ

パルテノン同様、嘗

る遺構の残骸でしカ

インド絵画を紹介し

(1 909) には、東大寺

立女扉風》のコロタ

たが、これもあなが

えまい。 この遺品は

当時知られていた絵

掲載することは、当 i

日本において古代文

の衰退を印象づ、ける

このように、日本

側にはアジアにおけ

稲賀繁美

するが、その後の 1916年にはノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールが来日を果たし、日

本美術院においてインド現代美術展が開催される。この機会に、田中豊蔵(1881-1948)は『園

華』誌上に「印度画の展覧を看る」を公刊したが、そこには演田の 7年前の批評を繰り返す

ような言辞が認められる。ベンガルの現代絵画には、精神的な深みと現世の悲哀が湛えられ

ているが、こうしたインドらしい外殻の下からは「繊弱なる感傷主義(センチメンタリズム)J

が漂っており、細密画を思わせる小さな画面の水彩からは「シャクンタラの戯曲やカリーダ

ーサの詩篇Jに匹敵する「雄大にして沈痛な大思想Jならではの「生気」が発散されている

とは認めがたい、と田中は否定的な評価をくだす。果たして田中豊蔵が、ラヴィ・ヴァルマ

(1848-1906 )に代表されるような、西洋仕込みのアカデミックな油彩によるインド叙事詩の

描出を、より好ましいものと意識していたのか否かは、文面からは窺いしれない。たしかに

田中はオボ、ニンドラナトの《旅の終わり ))(沙漠の旅の終わりに疲労から倒れ込む賂院を描

いた水彩)がパリのサロンで受賞した事実に好意的な言及を寄せてはいる。だがそこに古代

インドの美術や文学への言及が欠けていることには、落胆を隠さない。ノンドラル・ボ、シュ

の((カノレカ ッタ》都市風景に描写された日常風物も感興を催す佳作ではあるし、小ぶりな《ラ

ーマーヤナ))にも、大画面の《入信儀礼》にも「アジャンタの古壁画を復興せんとする努力」

を認めるにはやぶさかでない。だがこうした努力も全体として見るならば「新興の国民塾術

であるかと思えば柳か心細しリものであり、「現在の日本画に比べても猶ほ遜色あるもの」

と見るのが、田中の評価だ、った。くわえて日本美術院が提唱していた「現代の日本画」その

ものに対しても、『園華』編集部はきわめて批判的であったことを、ここに付け加えておく

必要があろう。

このように、田中豊蔵の新ベンガル絵画への評価は、ウッドローフのそれとはきわめて対

照的だ、った。タゴール自身、日本での公開講演のなかでは謙遜の意味も含めて、日本におい

て仏教が今日に至るまで存続し隆盛を見せている様に賛嘆を惜しまなかった。田中豊蔵はこ

うしたタゴールの賛辞を我田引水に及び、自らのいささか国粋主義的な見解の拠り所に流用

する。すなわち、こと仏教に関する限り、インドの思想、と美術は、その発祥の土地よりもむ

しろ日本において、よりよく発展を遂げ、今に至るま.で衰亡を遂げることなく保存せられて

いる、と 。 これは日本に東洋古代文化の生きた収蔵庫を見る『稿本日本帝国美術略記~ (フ

ランス語版を 1900パリ万国博覧会で頒布)の九鬼隆ーによる序文にまで遡る、国威発揚の

言辞の延長上にある発言といってよい。

古代仏教の栄光はインドにおいてはもはや過去の残津にすぎず、その遺跡は郷愁と悲哀とよすが

を催す縁でしかない。それに比べて日本は、歴史遺産が現代に咲き栄えて現存Lていること

を誇り得た。それが田中豊蔵の日印文明比較だった。そうした見解を裏付ける事例としては、

サンチーの仏舎利塔を背景に取り込んだオボ、ニンドロナトの 《アショカ王妃))(1907-9)と、

15 Tanaka 1916, pp. 41-43.

16 See Ravi Varma Kalidasa Shakuntala /google imageまた以下も参照。Inaga2001, pp. 329-348.

17 図版複製は Mitter1994, ill.l59; Awakening 1985:5.

18 Tanaka 1916, pp. 41-43.

168

稲賀繁美

するが、その後の 1916年にはノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールが来日を果たし、日

本美術院においてインド現代美術展が開催される。この機会に、田中豊蔵(1881-1948)は『園

華』誌上に「印度画の展覧を看る」を公刊したが、そこには演田の 7年前の批評を繰り返す

ような言辞が認められる。ベンガルの現代絵画には、精神的な深みと現世の悲哀が湛えられ

ているが、こうしたインドらしい外殻の下からは「繊弱なる感傷主義(センチメンタリズム)J

が漂っており、細密画を思わせる小さな画面の水彩からは「シャクンタラの戯曲やカリーダ

ーサの詩篇Jに匹敵する「雄大にして沈痛な大思想Jならではの「生気」が発散されている

とは認めがたい、と田中は否定的な評価をくだす。果たして田中豊蔵が、ラヴィ・ヴァルマ

(1848-1906 )に代表されるような、西洋仕込みのアカデミックな油彩によるインド叙事詩の

描出を、より好ましいものと意識していたのか否かは、文面からは窺いしれない。たしかに

田中はオボ、ニンドラナトの《旅の終わり ))(沙漠の旅の終わりに疲労から倒れ込む賂院を描

いた水彩)がパリのサロンで受賞した事実に好意的な言及を寄せてはいる。だがそこに古代

インドの美術や文学への言及が欠けていることには、落胆を隠さない。ノンドラル・ボ、シュ

の((カノレカ ッタ》都市風景に描写された日常風物も感興を催す佳作ではあるし、小ぶりな《ラ

ーマーヤナ))にも、大画面の《入信儀礼》にも「アジャンタの古壁画を復興せんとする努力」

を認めるにはやぶさかでない。だがこうした努力も全体として見るならば「新興の国民塾術

であるかと思えば柳か心細しリものであり、「現在の日本画に比べても猶ほ遜色あるもの」

と見るのが、田中の評価だ、った。くわえて日本美術院が提唱していた「現代の日本画」その

ものに対しても、『園華』編集部はきわめて批判的であったことを、ここに付け加えておく

必要があろう。

このように、田中豊蔵の新ベンガル絵画への評価は、ウッドローフのそれとはきわめて対

照的だ、った。タゴール自身、日本での公開講演のなかでは謙遜の意味も含めて、日本におい

て仏教が今日に至るまで存続し隆盛を見せている様に賛嘆を惜しまなかった。田中豊蔵はこ

うしたタゴールの賛辞を我田引水に及び、自らのいささか国粋主義的な見解の拠り所に流用

する。すなわち、こと仏教に関する限り、インドの思想、と美術は、その発祥の土地よりもむ

しろ日本において、よりよく発展を遂げ、今に至るま.で衰亡を遂げることなく保存せられて

いる、と 。 これは日本に東洋古代文化の生きた収蔵庫を見る『稿本日本帝国美術略記~ (フ

ランス語版を 1900パリ万国博覧会で頒布)の九鬼隆ーによる序文にまで遡る、国威発揚の

言辞の延長上にある発言といってよい。

古代仏教の栄光はインドにおいてはもはや過去の残津にすぎず、その遺跡は郷愁と悲哀とよすが

を催す縁でしかない。それに比べて日本は、歴史遺産が現代に咲き栄えて現存Lていること

を誇り得た。それが田中豊蔵の日印文明比較だった。そうした見解を裏付ける事例としては、

サンチーの仏舎利塔を背景に取り込んだオボ、ニンドロナトの 《アショカ王妃))(1907-9)と、

15 Tanaka 1916, pp. 41-43.

16 See Ravi Varma Kalidasa Shakuntala /google imageまた以下も参照。Inaga2001, pp. 329-348.

17 図版複製は Mitter1994, ill.l59; Awakening 1985:5.

18 Tanaka 1916, pp. 41-43.

168

Fig. 9 -lj-/'T-O){b~flj :f;~L ff.c.~M 1,

2 i:ltff.c. Sanci Stupa, 2nd and 1 st century B. C. Stone.

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Abanindranath Tagore, Tissa, Ssoka's Queen,

1907- 9.

Fig. 11 ~I~ll* «::k{b~H& )) 1907, ~J?:~tl-T::k~*~

~vrijj$~

Terasaki K6gy6, Ceremony of the Opening Eye: Inauguration

of the Great Buddha in Nara, 1907, The University Art

Museum, Tokyo University of the Arts .

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169

Fig.9 サンチーの仏舎利塔、紀元前 l、

2世紀

Sanci Stupa, 2nd and 1 st cen同町 B.C. Stone.

日本美術院の寺崎虞業(1866-1919)によ

る《大仏開眼))(1907)とを比較して取り

上げることもできただろう。寺崎の描く

東大寺は、 8世紀以来の鎮護国家の理念

を今日にいたるまで護持し、繁栄を維持

している。これに対して、アショカ王妃

が件むストゥーパは、今日ではアテネの

パルテノン同様、嘗ての栄光を想起させ

る遺構の残骸でしかない。奇しくも現代

タゴール、ノンド、ラル ・ボ、シュと荒井寛方

Fig.l0 オボニンドロナト ・タゴール《ア

ショカ王妃))1907-9 (P. Mitter 1994: 315J

Abanindranath Tagore, Tissa, Ssoka's Queen,

1907-9.

インド絵画を紹介した『園華』の 226号 Fig.11 寺崎贋業《大仏開眼))1907、東京塞術大学大学

(1909)には、東大寺正倉院の通称《鳥毛 美術館蔵Terasaki KδUδ, Ceremony 01 the Opening Eye: Inauguration

立女扉風》のコロタイプ複製が掲載され 01 the Great Buddha in Nara, 1907, The University Art

たが、これもあながち偶然とばかりはし Museum,Tokyo University of the Arts

えまい。この遺品は 756年の年記をもち、

当時知られていた絵画作品としては日本最古の部類に属する。東大寺創建時代からの遺品を

掲載することは、当時皇室の財産に登録された、収蔵庫としての正倉院の優越性を言挙げし、

日本において古代文明が現在にまで存続している様を言祝ぎつつ、インド文明の凋落と今日

の衰退を印象づける修辞たり得た。

このよ うに、日本美術院が現代インドとの連帯をめざしたのに対して、『園華』編集部の

側にはアジアにおける日本の優位を考古学的・美術史学的な観点から強調する傾きがあった。

169

Fig.9 サンチーの仏舎利塔、紀元前 l、

2世紀

Sanci Stupa, 2nd and 1 st cen同町 B.C. Stone.

日本美術院の寺崎虞業(1866-1919)によ

る《大仏開眼))(1907)とを比較して取り

上げることもできただろう。寺崎の描く

東大寺は、 8世紀以来の鎮護国家の理念

を今日にいたるまで護持し、繁栄を維持

している。これに対して、アショカ王妃

が件むストゥーパは、今日ではアテネの

パルテノン同様、嘗ての栄光を想起させ

る遺構の残骸でしかない。奇しくも現代

タゴール、ノンド、ラル ・ボ、シュと荒井寛方

Fig.l0 オボニンドロナト ・タゴール《ア

ショカ王妃))1907-9 (P. Mitter 1994: 315J

Abanindranath Tagore, Tissa, Ssoka's Queen,

1907-9.

インド絵画を紹介した『園華』の 226号 Fig.11 寺崎贋業《大仏開眼))1907、東京塞術大学大学

(1909)には、東大寺正倉院の通称《鳥毛 美術館蔵Terasaki KδUδ, Ceremony 01 the Opening Eye: Inauguration

立女扉風》のコロタイプ複製が掲載され 01 the Great Buddha in Nara, 1907, The University Art

たが、これもあながち偶然とばかりはし Museum,Tokyo University of the Arts

えまい。この遺品は 756年の年記をもち、

当時知られていた絵画作品としては日本最古の部類に属する。東大寺創建時代からの遺品を

掲載することは、当時皇室の財産に登録された、収蔵庫としての正倉院の優越性を言挙げし、

日本において古代文明が現在にまで存続している様を言祝ぎつつ、インド文明の凋落と今日

の衰退を印象づける修辞たり得た。

このよ うに、日本美術院が現代インドとの連帯をめざしたのに対して、『園華』編集部の

側にはアジアにおける日本の優位を考古学的・美術史学的な観点から強調する傾きがあった。

169

稲賀繁美

そして、 1913 年の岡倉の死去は、日本美術院と『園華』編集部とのあいだの見解の相違を決

定づける事件となった。岡倉は『園華』創刊者で、あったから、通常ならばその死去は同誌で

追悼されて当然だ、っただろう。だが追悼記事などは一切掲載されず、その代わりに『園華』

はこの機会に、無記名の雑報欄で、岡倉が主催した日本美術院による日本絵画改革の運動を、

「惨めな失敗」に終わったものと決めつける、中傷に等しい記事を載せている。横山大観や

菱田春草は日本美術院を代表してインドに派遣され、その体験をもとに《流灯)) (1909) ((釈

迦十六羅漢)) (1 911) ほかの作品を発表していた。件の無記名記事からすれば、これらの近作

を『園華』編集部の中核は「失敗作」と見なしていたことになる。この無記名記事の掲載が、

編集長の認可なしになされたとは考えがたい。岡倉の跡を襲って 1900 年以来『園華』の編

集長を務めた瀧精一(1873-1945) は、同じ時期からしばしば岡倉の著作の学術的信濃性に疑

問を呈する発言を行っている。『園華』はこれ以降、学術雑誌としての性格を徐々に強めて

ゆく反面、現代美術の動向への関心を薄めてゆき、もっぱら古美術の学術的研究や考古学的

調査に傾注する傾向を顕著にしてゆくこととなる。

3. r詩聖タゴール」の初来日

このように日本美術院と『園華』編集部との利害対立あるいは路線の違いが表面化してい

た 1916 年に、ノーベル文学賞受賞者タゴールが日本に招かれ、三渓・原富太郎 (1868-1939)

のもとに 3 ヶ月にわたって寄寓する。その結果として発生した事態を以下に検討したいが、

その準備としてまず、次のタゴールの有名な詩「迷える鳥たち」を引し 1ておこう。これは、

横浜の三渓園に滞在したおりに、詩人が自ら体験した出来事に由来するものといわれている。

迷える夏の鳥たちは、わが窓辺を訪れて、歌っては飛び去る。

秋の黄ばんだ落ち葉たちは、歌う歌もなく羽ばたいて、吐息とともに落ちる。

やがてボッティチェルリの専門家として欧米にも知られることになる矢代幸雄(1890-

1975) は、この折に、タゴール翁の通訳を務めたが、詩人が聖フランチェスコのように小

鳥たちから歓迎される様を目にしたという。その矢代はまた、タゴールが下村観山(1873-

1930) を見いだしたおりの有様も回想に留めている。観山はインドの詩人に向かつて自分の

制作法をこう説明した。写生の際に事物の外見に捕らわれると、その内なる精神に入り込む

ことができない。それゆえ自分は、自然を熟視したのち、己が心眼に残る姿の印象のみを描

くようにしている、と。矢代がそれをどのような英語で翻訳したかはとにかく、この考えそ

のものは、東洋の伝統では、とりわけ特異なものとはいえまい。だがインドの詩人はこの言

葉に深く感動し、また満足を示した、と矢代は述べている。なぜタゴールは満足したのだろ

うか。それは、矢代の回想だけからでは判然としないのだが、以下の逸話と結びつけると、

19 この批判の詳細はInaga 2001b, pp. 329-348. 20 Yashiro 1958, pp. 98-115; 1972, pp. 42-51.

170

その間の事情がし

岡倉は死に先3

イザベラ・ステニ

パネルジー(1871

のち、母校で教割

画作品を制作して

強く連想させる。

山の《弱法師)) (1

作品に感応した¢

タゴールが在 f

完壁なる知覚にと

その左の三面はほ

ールの日記の記述

との対面から記さ

謡曲の『弱法師』

王寺の境内の梅の

景が「淡路絵島須

は心にあり」。こ 6

に呼応しているの

さらにこの場面

「我を暗黒より連才

て盲目の俊徳丸のJ

ば系内得ミできる。 ィ

からである。ここ 、

も銘記すべきであ,

って詩人の耳に届し

さらに精神の覚醒i

タゴ}ノレには自作(

『弱法師』の教訓同

もあったことにな J

る者~ (1 925) との是

ものとみて、的外オ

タゴーノレにとっ・

21 Rabindranath Tagon

22 W弱法師』の英訳1:23 Tago日の“Memoir"

稲賀繁美

そして、 19日年の岡倉の死去は、日本美術院と『園華』編集部とのあいだの見解の相違を決

定づける事件となった。岡倉は『園華』創刊者で、あったから、通常ならばその死去は同誌で

追悼されて当然だっただろう。だが追悼記事などは一切掲載されず、その代わりに『園華』

はこの機会に、無記名の雑報欄で、岡倉が主催した日本美術院による日本絵画改革の運動を、

「惨めな失敗Jに終わったものと決めつける、中傷に等しい記事を載せている。横山大観や

菱田春草は日本美術院を代表してインドに派遣され、その体験をもとに《流灯))(1909) ((釈

迦十六羅漢))(1911)ほかの作品を発表していた。件の無記名記事からすれば、これらの近作

を『園華』編集部の中核は「失敗作」と見なしていたことになる。この無記名記事の掲載が、

編集長の認可なしになされたとは考えがたい。岡倉の跡を襲って 1900年以来『園華』の編

集長を務めた瀧精一(1873-1945)は、同じ時期からしばしば岡倉の著作の学術的信憲性に疑

問を呈する発言を行っている。『園華』はこれ以降、学術雑誌としての性格を徐々に強めて

ゆく反面、現代美術の動向への関心を薄めてゆき、もっぱら古美術の学術的研究や考古学的

調査に傾注する傾向を顕著にしてゆくこととなる。

3. r詩聖タゴール」の初来日

このように日本美術院と『園華』編集部との利害対立あるいは路線の違いが表面化してい

た 1916年に、ノーベル文学賞受賞者タゴールが日本に招かれ、三渓・原富太郎 (1868-1939)

のもとに 3ヶ月にわたって寄寓する。その結果として発生した事態を以下に検討したいが、

その準備としてまず、次のタゴールの有名な詩「迷える鳥たちJを引し 1ておこう。これは、

横浜の三渓園に滞在したおりに、詩人が自ら体験した出来事に由来するものといわれている。

迷える夏の鳥たちは、わが窓辺を訪れて、歌っては飛び去る。

秋の黄ばんだ落ち葉たちは、歌う歌もなく羽ばたいて、吐息とともに落ちる。

やがてボッティチェルリの専門家として欧米にも知られることになる矢代幸雄(1890-

1975)は、この折に、タゴール翁の通訳を務めたが、詩人が聖フランチェスコのように小

鳥たちから歓迎される様を目にしたという。その矢代はまた、タゴールが下村観山 (1873-

1930)を見いだしたおりの有様も回想に留めている。観山はインドの詩人に向かつて自分の

制作法をこう説明した。写生の際に事物の外見に捕らわれると、その内なる精神に入り込む

ことができない。それゆえ自分は、自然を熟視したのち、己が心眼に残る姿の印象のみを描

くようにしている、と。矢代がそれをどのような英語で翻訳したかはとにかく、この考えそ

のものは、東洋の伝統では、とりわけ特異なものとはいえまい。だがインドの詩人はこの言

葉に深く感動し、また満足を示した、と矢代は述べている。なぜタゴールは満足したのだ、ろ

うか。それは、矢代の回想だけからでは判然としないのだが、以下の逸話と結びつけると、

19 この批判の詳細はInaga2001b, pp. 329-348.

20 Yashiro 1958, pp. 98-115; 1972, pp. 42-51.

170

稲賀繁美

そして、 19日年の岡倉の死去は、日本美術院と『園華』編集部とのあいだの見解の相違を決

定づける事件となった。岡倉は『園華』創刊者で、あったから、通常ならばその死去は同誌で

追悼されて当然だっただろう。だが追悼記事などは一切掲載されず、その代わりに『園華』

はこの機会に、無記名の雑報欄で、岡倉が主催した日本美術院による日本絵画改革の運動を、

「惨めな失敗Jに終わったものと決めつける、中傷に等しい記事を載せている。横山大観や

菱田春草は日本美術院を代表してインドに派遣され、その体験をもとに《流灯))(1909) ((釈

迦十六羅漢))(1911)ほかの作品を発表していた。件の無記名記事からすれば、これらの近作

を『園華』編集部の中核は「失敗作」と見なしていたことになる。この無記名記事の掲載が、

編集長の認可なしになされたとは考えがたい。岡倉の跡を襲って 1900年以来『園華』の編

集長を務めた瀧精一(1873-1945)は、同じ時期からしばしば岡倉の著作の学術的信憲性に疑

問を呈する発言を行っている。『園華』はこれ以降、学術雑誌としての性格を徐々に強めて

ゆく反面、現代美術の動向への関心を薄めてゆき、もっぱら古美術の学術的研究や考古学的

調査に傾注する傾向を顕著にしてゆくこととなる。

3. r詩聖タゴール」の初来日

このように日本美術院と『園華』編集部との利害対立あるいは路線の違いが表面化してい

た 1916年に、ノーベル文学賞受賞者タゴールが日本に招かれ、三渓・原富太郎 (1868-1939)

のもとに 3ヶ月にわたって寄寓する。その結果として発生した事態を以下に検討したいが、

その準備としてまず、次のタゴールの有名な詩「迷える鳥たちJを引し 1ておこう。これは、

横浜の三渓園に滞在したおりに、詩人が自ら体験した出来事に由来するものといわれている。

迷える夏の鳥たちは、わが窓辺を訪れて、歌っては飛び去る。

秋の黄ばんだ落ち葉たちは、歌う歌もなく羽ばたいて、吐息とともに落ちる。

やがてボッティチェルリの専門家として欧米にも知られることになる矢代幸雄(1890-

1975)は、この折に、タゴール翁の通訳を務めたが、詩人が聖フランチェスコのように小

鳥たちから歓迎される様を目にしたという。その矢代はまた、タゴールが下村観山 (1873-

1930)を見いだしたおりの有様も回想に留めている。観山はインドの詩人に向かつて自分の

制作法をこう説明した。写生の際に事物の外見に捕らわれると、その内なる精神に入り込む

ことができない。それゆえ自分は、自然を熟視したのち、己が心眼に残る姿の印象のみを描

くようにしている、と。矢代がそれをどのような英語で翻訳したかはとにかく、この考えそ

のものは、東洋の伝統では、とりわけ特異なものとはいえまい。だがインドの詩人はこの言

葉に深く感動し、また満足を示した、と矢代は述べている。なぜタゴールは満足したのだ、ろ

うか。それは、矢代の回想だけからでは判然としないのだが、以下の逸話と結びつけると、

19 この批判の詳細はInaga2001b, pp. 329-348.

20 Yashiro 1958, pp. 98-115; 1972, pp. 42-51.

170

さの見解の相違を決

まその死去は同誌で

の代わりに『園華』

絵画改革の運動を、

7いる。横山大観や

《流灯)) (1909) ((釈

Lば、これらの近作

記名記事の掲載が、

三以来『園華』の編

〉学術的信憲性に疑

主格を徐々に強めて

す的研究や考古学的

主いが表面化してい

富太郎(1868-1939)

下に検討したいが、

ておこう。これは、

のといわれている。

〉に落ちる。

る矢代幸雄 (1890-

・ ェスコのように小

/が下村観山(1873一

、に向かつて自分の

主る精神に入り込む

3姿の印象のみを描

Tかく、この考えそ

ドの詩人はこの言

は満足したのだろ

話と結びつけると、

タゴール、ノンドラノレ・ボシュと荒井寛方

その聞の事情がし 1 くらか鮮明な輪郭を結ぶように思われる。

岡倉は死に先立つて『白狐』と題する戯曲を執筆し、これを、ボストン社交界を主催した

イザベラ・ステュワート・ガードナーと並んで、インドの女性詩人プリアンバダ・デヴィ・

パネルジー(1871-1935) に献じたことが知られている。下村観山は東京美術学校を卒業して

のち、母校で、教鞭を執った画家だが、この岡倉の戯曲を下敷きに《白狐)) (1914) と題する絵

画作品を制作していた。 その舞台となる野原は、菱田春草の遺作となった《落葉)) (1911) をも、

強く連想させる。このように岡倉とインドとの深い関係を示唆する作品をなしてきた下村観

山の《弱法師)) (1 915) に、タゴールは強い衝撃を得た、という。ではなぜ、タゴールはこの

作品に感応したのだろうか。

タゴールが在日中の日記に残した記述に、次の一節が知られる。「空間における空虚は、

完壁なる知覚にとって、最も肝要なものである J 0 ((弱法師》は六曲一双よりなる扉風だが、

その左の三面はほぼ金地のみの空白であり、そこに沈みゆく夕日が朱で描かれている。 タゴ

ールの日記の記述との共鳴は明らかだろう。あるいはタゴールの日記の一節は、《弱法師》

との対面から記された、と想定することも無理ではあるまい。知られるとおり、この作品は

謡曲の『弱法師』を下敷きにしている。画面は俊徳丸と呼ばれる盲目の乞食が、大坂の四天

王寺の境内の梅の花の下で、夕日に祈る「日相観」の場面であり、幼少の折にしかとみた光

景が「淡路絵島須磨明石、紀の海までも J 彼の心眼にはくっきりと映っている。 「満目青山

は心にあり J。このくだりが、観山の「心眼に留まった印象のみを写す」という作画の態度

に呼応しているのは、あきらかだろう。

さらにこの場面はインドの詩人に『ウパニシャ ツ ド』の一節を思い起こさせるものだ、った。

「我を暗黒より連れ出して栄光の光へと導き賜え (Tomaso ma Jyotirgamaya)J 。 タゴールにとっ

て盲目の俊徳丸の姿が「言葉では言い尽くせぬほどJ の啓示となった理由も、ここまで来れ

ば納得できる。 インドの詩人の心眼にあった真理が、極東の旅先において改めて開示された

からである。 ここで観山の言葉が、あくまで矢代の通訳によってタゴールに伝達されたこと

も銘記すべきであろう 。 観山の言葉が《弱法師》の映像に投射され、それと重ね合わせとな

って詩人の耳に届いたからこそ、タゴールに、深い感動を及ぼしたもの、と想定できるからだ。

さらに精神の覚醒にとって肉眼の盲目が不可欠だ、った、という脈絡もまた見落としがたい。

タゴールには自作の戯曲に基づいた舞台で、盲目の詩人ホメーロスを演じた経験もあった。

『弱法師』の教訓は、このギリシア古典に纏わる文学的トポスの普遍性を裏書きする体験で

もあったことになる。 矢代自身、欧州体験を著書にまとめるに際して、それに『太陽を慕ふ

る者~ (1 925) との題を与えた。 そこにもこのタゴール体験が、なんらかの影を落としている

ものとみて、的外れではないだろう 。

タゴーノレにとって《弱法師》に描かれた日輪はまた、植民地支配下という聞に射し込み、

21 Rabindranath Tagore 2006, p. 176. 22 ~弱法師』の英訳は Kenneth Richard のものが http://www.ge吋i54.com

23 Tagore の“Memoir" から。 Tagore 1961. ~日本美術院百年史』第 5 巻, 1994, p. 1146 に復刻。

171

タゴール、ノンドラノレ・ボシュと荒井寛方

その聞の事情がいくらか鮮明な輪郭を結ぶように思われる。

岡倉は死に先立つて『白狐』と題する戯曲を執筆し、これを、ボストン社交界を主催した

イザベラ・ステュワート・ガードナーと並んで、インドの女性詩人プリアンパダ・デヴィ・

パネノレジー(1871-1935)に献じたことが知られている。下村観山は東京美術学校を卒業して

のち、母校で、教鞭を執った画家だが、この岡倉の戯曲を下敷きに《白狐))(1914)と題する絵

画作品を制作していた。その舞台となる野原は、菱田春草の遺作となった《落葉))(1911)をも、

強く連想させる。このように岡倉とインドとの深い関係を示唆する作品をなしてきた下村観

山の《弱法師))(1915)に、タゴールは強い衝撃を得た、という。ではなぜ、タゴールはこの

作品に感応したのだろうか。

タゴールが在日中の日記に残した記述に、次の一節が知られる。「空間における空虚は、

完壁なる知覚にとって、最も肝要なものであるJ0 <<弱法師》は六曲一双よりなる扉風だが、

その左の三面はほぼ金地のみの空白であり、そこに沈みゆく夕日が朱で描かれている。タゴ

ールの日記の記述との共鳴は明らかだろう。あるいはタゴールの日記の一節は、《弱法師》

との対面から記された、と想定することも無理ではあるまい。知られるとおり、この作品は

謡曲の『弱法師』を下敷きにしている。画面は俊徳丸と呼ばれる盲目の乞食が、大坂の四天

王寺の境内の梅の花の下で、夕日に祈る「日相観」の場面であり、幼少の折にしかとみた光

景が「淡路絵島須磨明石、紀の海までもJ彼の心眼にはくっきりと映っている。「満目青山

は心にあり J。このくだりが、観山の「心眼に留まった印象のみを写す」という作画の態度

に呼応しているのは、あきらかだろう。

さらにこの場面はインドの詩人に『ウパニシャ ツド』の一節を思い起こさせるものだ、った。

「我を暗黒より連れ出して栄光の光へと導き賜え (Tomasoma Jyotirgamaya)J。タゴールにとっ

て盲目の俊徳丸の姿が「言葉では言い尽くせぬほど」の啓示となった理由も、ここまで来れ

ば納得できる。インドの詩人の心眼にあった真理が、極東の旅先において改めて開示された

からである。ここで観山の言葉が、あくまで矢代の通訳によってタゴールに伝達されたこと

も銘記すべきであろう。観山の言葉が《弱法師》の映像に投射され、それと重ね合わせとな

って詩人の耳に届いたからこそ、タゴールに深い感動を及ぼしたもの、と想定できるからだ。

さらに精神の覚醒にとって肉眼の盲目が不可欠だ、った、という脈絡もまた見落としがたい。

タゴールには自作の戯曲に基づいた舞台で、盲目の詩人ホメーロスを演じた経験もあった。

『弱法師』の教訓は、このギリシア古典に纏わる文学的トポスの普遍性を裏書きする体験で

もあったことになる。矢代自身、欧州体験を著書にまとめるに際して、それに『太陽を慕ふ

る者j](1925)との題を与えた。そこにもこのタゴール体験が、なんらかの影を落としている

ものとみて、的外れではないだろう。

タゴールにとって《弱法師》に描かれた日輪はまた、植民地支配下という聞に射し込み、

21 Rabindranath Tagore 2006, p. 176.

22 ~弱法師』の英訳は KennethRichardのものが http://www.ge吋i54.com

23 Tagoreの“Memoir"から。Tagore1961. ~日本美術院百年史』第 5 巻, 1994, p. 1146に復刻。

171

タゴール、ノンドラノレ・ボシュと荒井寛方

その聞の事情がいくらか鮮明な輪郭を結ぶように思われる。

岡倉は死に先立つて『白狐』と題する戯曲を執筆し、これを、ボストン社交界を主催した

イザベラ・ステュワート・ガードナーと並んで、インドの女性詩人プリアンパダ・デヴィ・

パネノレジー(1871-1935)に献じたことが知られている。下村観山は東京美術学校を卒業して

のち、母校で、教鞭を執った画家だが、この岡倉の戯曲を下敷きに《白狐))(1914)と題する絵

画作品を制作していた。その舞台となる野原は、菱田春草の遺作となった《落葉))(1911)をも、

強く連想させる。このように岡倉とインドとの深い関係を示唆する作品をなしてきた下村観

山の《弱法師))(1915)に、タゴールは強い衝撃を得た、という。ではなぜ、タゴールはこの

作品に感応したのだろうか。

タゴールが在日中の日記に残した記述に、次の一節が知られる。「空間における空虚は、

完壁なる知覚にとって、最も肝要なものであるJ0 <<弱法師》は六曲一双よりなる扉風だが、

その左の三面はほぼ金地のみの空白であり、そこに沈みゆく夕日が朱で描かれている。タゴ

ールの日記の記述との共鳴は明らかだろう。あるいはタゴールの日記の一節は、《弱法師》

との対面から記された、と想定することも無理ではあるまい。知られるとおり、この作品は

謡曲の『弱法師』を下敷きにしている。画面は俊徳丸と呼ばれる盲目の乞食が、大坂の四天

王寺の境内の梅の花の下で、夕日に祈る「日相観」の場面であり、幼少の折にしかとみた光

景が「淡路絵島須磨明石、紀の海までもJ彼の心眼にはくっきりと映っている。「満目青山

は心にあり J。このくだりが、観山の「心眼に留まった印象のみを写す」という作画の態度

に呼応しているのは、あきらかだろう。

さらにこの場面はインドの詩人に『ウパニシャ ツド』の一節を思い起こさせるものだ、った。

「我を暗黒より連れ出して栄光の光へと導き賜え (Tomasoma Jyotirgamaya)J。タゴールにとっ

て盲目の俊徳丸の姿が「言葉では言い尽くせぬほど」の啓示となった理由も、ここまで来れ

ば納得できる。インドの詩人の心眼にあった真理が、極東の旅先において改めて開示された

からである。ここで観山の言葉が、あくまで矢代の通訳によってタゴールに伝達されたこと

も銘記すべきであろう。観山の言葉が《弱法師》の映像に投射され、それと重ね合わせとな

って詩人の耳に届いたからこそ、タゴールに深い感動を及ぼしたもの、と想定できるからだ。

さらに精神の覚醒にとって肉眼の盲目が不可欠だ、った、という脈絡もまた見落としがたい。

タゴールには自作の戯曲に基づいた舞台で、盲目の詩人ホメーロスを演じた経験もあった。

『弱法師』の教訓は、このギリシア古典に纏わる文学的トポスの普遍性を裏書きする体験で

もあったことになる。矢代自身、欧州体験を著書にまとめるに際して、それに『太陽を慕ふ

る者j](1925)との題を与えた。そこにもこのタゴール体験が、なんらかの影を落としている

ものとみて、的外れではないだろう。

タゴールにとって《弱法師》に描かれた日輪はまた、植民地支配下という聞に射し込み、

21 Rabindranath Tagore 2006, p. 176.

22 ~弱法師』の英訳は KennethRichardのものが http://www.ge吋i54.com

23 Tagoreの“Memoir"から。Tagore1961. ~日本美術院百年史』第 5 巻, 1994, p. 1146に復刻。

171

稲賀繁美

Fig.12 下村観山《弱法師)) 1915 、 重要

文化財、東京国立博物館

Shimomura Kanzarしめrobδshi, 1915, To勾o

National Museum.

(部分 detail)

そこからの解放を暗示する一条の光明、東亜の夜明けの太陽でもあったはずだ。《弱法師》

には、精神的な覚醒のみならず、政治的な宣言までもが、そうとは見えない形で透視されて

いた。それが、インドならば植民地統治政府の忌避に触れるような政治扇動とは無縁の、あ

くまでも詩的な章句として、古典戯曲のうちに綴られていたこともまた、タゴールにとって

は少なからぬ意味をもったはずだ。インドの民族的意識を目覚めさせ、アジアの若人に将来

への希望の灯火を掲げることこそ、詩人の使命とするところだ、ったのだから。

とはいえ、下村観山が《弱法師》を描いた 1915 年段階では、それはいわゆる「東洋の覚醒J

とは直接何らの関係もないものだ、った。描かれた太陽も、東海に昇る旭日ではなく、西海に

沈み行く夕日であり、それが示唆するのも、仏教でいう西方浄土の理念でしかなかったはず

だからだ。もっとも謡曲のなかでも、俊徳丸は盲目ゆえに朝日と夕日との分別がつかぬ振る

舞いを見せる。さらに西日は、ほかならぬ天竺すなわちインドの方角を指している。そして

陽光を慕う心持ちが、やがて遠からずして、日出る旭日の帝国の超国家主義思想、と結びつき、

皮肉にもそれをほかならぬタゴールが非難する成り行きとなる。インドの詩聖と寵われた彼

は、日本が西欧列強のナショナリズムを模倣し、それに追従しようとする姿勢には、痛烈な

批判を辞さず、とりわけ 1924 年の 3 度目の滞日では、日本の国家主義化、帝国主義化に対

して日本国民に辛隷な苦言を呈することとなる。だがこのインドの詩聖による警告は日本側

の受け入れるところとはならず 30 年代にはいると日本の大陸進出と軍国主義化は、世界の

趨勢と不可分に進展してゆく。そして岡倉が 1902 年にインドで執筆したまま未刊行で橿底

24 Arai 1943, p. 5. 荒井のタゴール追悼文は、時局下の影響を受けている可能性を排除できない。すくなくと

も時局向きの断りを入れることが刊行許可の条件となっていた。

172

に残されてきた;

れ、 1938 年には

洋の覚醒』と題 e

主義下の日本のi

1937 年には、岡

だに、日本の中E

蒋介石政権の非;

石政権を支持すミ

だが、ここでl

観山の《弱法師》

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ベル文学賞受賞。

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座に同意した、 j

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ず、タゴールは習

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時代の壁画復興違

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4. 荒井寛方の,

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25 未完の草稿はま・

た訳は、 1940 年に聖,

26 この論争につい「

参照。

27 荒井寛方の「志=

28 Mitter 2007, pp. 8:

29 Quintanilla 2009, I

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稲賀繁美

Fig.12 下村観山《弱法師))1915、 重要

文化財、東京国立博物館

Shimomura Kanzan,めrobδshi,1915, To勾o

National Museum.

(部分 detail)

そこからの解放を暗示する一条の光明、東亜の夜明けの太陽でもあったはずだ。《弱法師》

には、精神的な覚醒のみならず、政治的な宣言までもが、そうとは見えない形で透視されて

いた。それが、インドならば植民地統治政府の忌避に触れるような政治扇動とは無縁の、あ

くまでも詩的な章句として、古典戯曲のうちに綴られていたこともまた、タゴールにとって

は少なからぬ意味をもったはずだ。インドの民族的意識を目覚めさせ、アジアの若人に将来

への希望の灯火を掲げることこそ、詩人の使命とするところだ、ったのだから。

とはいえ、下村観山が《弱法師》を描いた 1915年段階では、それはいわゆる「東洋の覚醒J

とは直接何らの関係もないものだ、った。描かれた太陽も、東海に昇る旭日ではなく、西海に

沈み行く夕日であり、それが示唆するのも、仏教でいう西方浄土の理念でしかなかったはず

だからだ。もっとも謡曲のなかでも、俊徳丸は盲目ゆえに朝日と夕日との分別がつかぬ振る

舞いを見せる。さらに西日は、ほかならぬ天竺すなわちインドの方角を指している。そして

陽光を慕う心持ちが、やがて遠からずして、日出る旭日の帝国の超国家主義思想と結び、っき、

皮肉にもそれをほかならぬタゴールが非難する成り行きとなる。インドの詩聖と植われた彼

は、日本が西欧列強のナショナリズムを模倣し、それに追従しようとする姿勢には、痛烈な

批判を辞さず、とりわけ 1924年の 3度目の滞日では、日本の国家主義化、帝国主義化に対

して日本国民に辛苦束な苦言を呈することとなる。だがこのインドの詩聖による警告は日本側

の受け入れるところとはならず、 30年代にはいると日本の大陸進出と軍国主義化は、世界の

趨勢と不可分に進展してゆく。そして岡倉が 1902年にインドで執筆したまま未刊行で橿底

24 Arai 1943, p. 5.荒井のタゴール追悼文は、時局下の影響を受けている可能性を排除できない。すくなくと

も時局向きの断りを入れることが刊行許可の条件となっていた。

172

稲賀繁美

Fig.12 下村観山《弱法師))1915、 重要

文化財、東京国立博物館

Shimomura Kanzan,めrobδshi,1915, To勾o

National Museum.

(部分 detail)

そこからの解放を暗示する一条の光明、東亜の夜明けの太陽でもあったはずだ。《弱法師》

には、精神的な覚醒のみならず、政治的な宣言までもが、そうとは見えない形で透視されて

いた。それが、インドならば植民地統治政府の忌避に触れるような政治扇動とは無縁の、あ

くまでも詩的な章句として、古典戯曲のうちに綴られていたこともまた、タゴールにとって

は少なからぬ意味をもったはずだ。インドの民族的意識を目覚めさせ、アジアの若人に将来

への希望の灯火を掲げることこそ、詩人の使命とするところだ、ったのだから。

とはいえ、下村観山が《弱法師》を描いた 1915年段階では、それはいわゆる「東洋の覚醒J

とは直接何らの関係もないものだ、った。描かれた太陽も、東海に昇る旭日ではなく、西海に

沈み行く夕日であり、それが示唆するのも、仏教でいう西方浄土の理念でしかなかったはず

だからだ。もっとも謡曲のなかでも、俊徳丸は盲目ゆえに朝日と夕日との分別がつかぬ振る

舞いを見せる。さらに西日は、ほかならぬ天竺すなわちインドの方角を指している。そして

陽光を慕う心持ちが、やがて遠からずして、日出る旭日の帝国の超国家主義思想と結び、っき、

皮肉にもそれをほかならぬタゴールが非難する成り行きとなる。インドの詩聖と植われた彼

は、日本が西欧列強のナショナリズムを模倣し、それに追従しようとする姿勢には、痛烈な

批判を辞さず、とりわけ 1924年の 3度目の滞日では、日本の国家主義化、帝国主義化に対

して日本国民に辛苦束な苦言を呈することとなる。だがこのインドの詩聖による警告は日本側

の受け入れるところとはならず、 30年代にはいると日本の大陸進出と軍国主義化は、世界の

趨勢と不可分に進展してゆく。そして岡倉が 1902年にインドで執筆したまま未刊行で橿底

24 Arai 1943, p. 5.荒井のタゴール追悼文は、時局下の影響を受けている可能性を排除できない。すくなくと

も時局向きの断りを入れることが刊行許可の条件となっていた。

172

《弱法師)) 1915 、 重要

事物館

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自主義化は、世界の

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タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

に残されてきた英文草稿「我らはひとつJ は、日華事変後の時局下に遺族によって再発見さ

れ、 1938 年にはまず岡倉古四郎らにより『理想の再建』として、翌年には浅野晃により『東

洋の覚醒』と題されて、その日本語訳が刊行される。とりわけ浅野訳は、岡倉をして超国家

主義下の日本の進路を預言する先覚者へと変容させるのに預かつて力あった。これに先立つ

1937 年には、岡倉の衣鉢を継ぐと自認する詩人の野口米次郎(1875-1947) とタゴールのあい

だに、日本の中国侵攻の是非をめぐって、両国の新聞紙上を舞台に派手な論争が闘わされた。

蒋介石政権の非を唱える野口は、岡倉が生きていれば自分に同意したはずだと主張し、蒋介

石政権を支持するタゴールとは政治的に挟を分かつことになる。

だが、ここでは先を急ぐことはせず、ひとまず 1916 年の時点に戻ることにしよう。下村

観山の《弱法師》扉風(187.2x406.0cm) に開眼したタゴールは、その原寸大複製を所望した。

複製はまずカルカッタのジョラサンコ街にある邸宅ヴィチットラに運び込まれ、ついでノー

ベル文学賞受賞の賞金を元本にタゴールが創設したシャンチニケタンの学校、後のヴィシュ

ヴァ・パーラーティ大学に収められることになる。このタゴール翁からの申し出を受けて、

原富太郎かた模写を依頼されたのが、荒井寛方だ、った。横山大観と下村観山はこの人選に即

座に同意した、と伝えられる。三渓園に一室を宛がわれた荒井は、 1 ヶ月以上を費やして模

写を完成し、その作業を親しく見守った詩人は、荒井を絵画教師としてインドに招鳴する希

望を漏らす。当時のベンガル近代絵画で、は、この作品に匹敵する寸法の大作は知られておら

ず、タゴールは現代日本画の技法を頼りに、ムガール絵画の細密画の伝統からインドを解放

する切掛けを掴みたかったものとも推定できる。 30 年代には後述するノンドロル・ボ、シュ

がシャンティニケトンやパロダにおいて公共建築にプレスコ技法の装飾壁画を施すことにな

る。美術史家のパーサ・ミッター氏も説くように、ここで、ボシュは 1910 年に自らもその模

写を試みたアジャンター壁画の伝統を現代に蘇らせようとした。 1911 年に早世したニヴエデ

ィタはその晩年、歴史叙事絵画や現代生活の寓意的賛歌の野外展示を実現したい、との構想

を漏らしていたが、それもボシュの念頭に去来しただろう。欧州やとりわけメキシコでの同

時代の壁画復興運動とも連動する、こうした壁画制作への発想源のひとつとして、日本美術

院主導の扉風、荒井が模写した観山の《弱法師》も密接に関わっていた。

4. 荒井寛方のインド滞在

荒井寛方が下村観山の《弱法師》の模写に関与したことの意味が、このあたりでようや

く見えてくるだろう。寛方は仏画の刷新を目指し、インドへの関心を高めていたが、日本美

25 未完の草稿はまず『理想の再建』として河出書房より刊行。浅野晃により『東洋の覚醒』と題名を改め

た訳は、 1940 年に聖文閣より刊行された。

26 この論争については Bharucha 2006, pp. 167-175 および Hori 2009, ch.13 . また Wakakuwa 2009, pp. 22-26 も

参照。

27 荒井寛方の「志士タゴーノレ翁J はArai 1943, p.6.

28 Mitter 2007, pp. 82-90. 29 Quintanil1a 2009, pp. 190ー205.30 Sister Nivedita 1967--68, vol. 3, p. 58; Inaga 2004, pp. 149-50.

173

タゴール、ノンドラル・ボ¥ンュと荒井寛方

に残されてきた英文草稿「我らはひとつ」は、日華事変後の時局下に遺族によって再発見さ

れ、 1938年にはまず岡倉古四郎らにより『理想の再建』として、翌年には浅野晃により『東

洋の覚醒』と題されて、その日本語訳が刊行される。とりわけ浅野訳は、岡倉をして超国家

主義下の日本の進路を預言する先覚者へと変容させるのに預かつて力あった。これに先立つ

1937年には、岡倉の衣鉢を継ぐと自認する詩人の野口米次郎(1875-1947)とタゴールのあい

だに、日本の中国侵攻の是非をめぐって、両国の新聞紙上を舞台に派手な論争が闘わされた。

蒋介石政権の非を唱える野口は、岡倉が生きていれば自分に同意したはずだと主張し、蒋介

石政権を支持するタゴールとは政治的に挟を分かつことになる。

だが、ここでは先を急ぐことはせず、ひとまず 1916年の時点に戻ることにしよう。下村

観山の《弱法師》扉風(187.2x406.0cm)に開眼したタゴールは、その原寸大複製を所望した。

複製はまずカルカッタのジョラサンコ街にある邸宅ヴィチットラに運び込まれ、ついでノー

ベノレ文学賞受賞の賞金を元本にタゴールが創設したシャンチニケタンの学校、後のヴィシュ

ヴァ・パーラーティ大学に収められることになる。このタゴール翁からの申し出を受けて、

原富太郎かた模写を依頼されたのが、荒井寛方だ、った。横山大観と下村観山はこの人選に即

座に同意した、と伝えられる。三渓園に一室を宛がわれた荒井は、 1ヶ月以上を費やして模

写を完成し、その作業を親しく見守った詩人は、荒井を絵画教師としてインドに招鳴する希

望を漏らす。当時のベンガル近代絵画で、は、この作品に匹敵する寸法の大作は知られておら

ず、タゴーノレは現代日本画の技法を頼りに、ムガール絵画の細密画の伝統からインドを解放

する切掛けを掴みたかったものとも推定できる。 30年代には後述するノンドロル・ボ、シュ

がシャンティニケトンやパロダにおいて公共建築にフレスコ技法の装飾壁画を施すことにな

る。美術史家のパーサ・ミッター氏も説くように、ここで、ボシュは 1910年に自らもその模

写を試みたアジヤンター壁画の伝統を現代に蘇らせようとした。 1911年に早世したニヴエデ

ィタはその晩年、歴史叙事絵画や現代生活の寓意的賛歌の野外展示を実現したい、との構想、

を漏らしていたが、それもボシュの念頭に去来しただろう。欧州やとりわけメキシコでの同

時代の壁画復興運動とも連動する、こうした壁画制作への発想源のひとつとして、日本美術

院主導の扉風、荒井が模写した観山の《弱法師》も密接に関わっていた。

4.荒井寛方のインド滞在

荒井寛方が下村観山の《弱法師》の模写に関与したことの意味が、このあたりでようや

く見えてくるだろう。寛方は仏画の刷新を目指し、インドへの関心を高めていたが、日本美

25 未完の草稿はまず『理想、の再建』として河出書房より刊行。浅野晃により『東洋の覚醒』と題名を改め

た訳は、 1940年に聖文閣より刊行された。

26 この論争については Bharucha2006, pp. 167-175および Hori2009, ch.13.また Wakakuwa2009, pp. 22-26も

参照。

27 荒井寛方の「志士タゴーノレ翁JはArai1943, p.6.

28 Mitter 2007, pp. 82-90.

29 Quintani11a 2009, pp. 190-205.

30 Sister Nivedita 1967--68, vol. 3, p. 58; Inaga 2004, pp. 149-50.

173

タゴール、ノンドラル・ボ¥ンュと荒井寛方

に残されてきた英文草稿「我らはひとつ」は、日華事変後の時局下に遺族によって再発見さ

れ、 1938年にはまず岡倉古四郎らにより『理想の再建』として、翌年には浅野晃により『東

洋の覚醒』と題されて、その日本語訳が刊行される。とりわけ浅野訳は、岡倉をして超国家

主義下の日本の進路を預言する先覚者へと変容させるのに預かつて力あった。これに先立つ

1937年には、岡倉の衣鉢を継ぐと自認する詩人の野口米次郎(1875-1947)とタゴールのあい

だに、日本の中国侵攻の是非をめぐって、両国の新聞紙上を舞台に派手な論争が闘わされた。

蒋介石政権の非を唱える野口は、岡倉が生きていれば自分に同意したはずだと主張し、蒋介

石政権を支持するタゴールとは政治的に挟を分かつことになる。

だが、ここでは先を急ぐことはせず、ひとまず 1916年の時点に戻ることにしよう。下村

観山の《弱法師》扉風(187.2x406.0cm)に開眼したタゴールは、その原寸大複製を所望した。

複製はまずカルカッタのジョラサンコ街にある邸宅ヴィチットラに運び込まれ、ついでノー

ベノレ文学賞受賞の賞金を元本にタゴールが創設したシャンチニケタンの学校、後のヴィシュ

ヴァ・パーラーティ大学に収められることになる。このタゴール翁からの申し出を受けて、

原富太郎かた模写を依頼されたのが、荒井寛方だ、った。横山大観と下村観山はこの人選に即

座に同意した、と伝えられる。三渓園に一室を宛がわれた荒井は、 1ヶ月以上を費やして模

写を完成し、その作業を親しく見守った詩人は、荒井を絵画教師としてインドに招鳴する希

望を漏らす。当時のベンガル近代絵画で、は、この作品に匹敵する寸法の大作は知られておら

ず、タゴーノレは現代日本画の技法を頼りに、ムガール絵画の細密画の伝統からインドを解放

する切掛けを掴みたかったものとも推定できる。 30年代には後述するノンドロル・ボ、シュ

がシャンティニケトンやパロダにおいて公共建築にフレスコ技法の装飾壁画を施すことにな

る。美術史家のパーサ・ミッター氏も説くように、ここで、ボシュは 1910年に自らもその模

写を試みたアジヤンター壁画の伝統を現代に蘇らせようとした。 1911年に早世したニヴエデ

ィタはその晩年、歴史叙事絵画や現代生活の寓意的賛歌の野外展示を実現したい、との構想、

を漏らしていたが、それもボシュの念頭に去来しただろう。欧州やとりわけメキシコでの同

時代の壁画復興運動とも連動する、こうした壁画制作への発想源のひとつとして、日本美術

院主導の扉風、荒井が模写した観山の《弱法師》も密接に関わっていた。

4.荒井寛方のインド滞在

荒井寛方が下村観山の《弱法師》の模写に関与したことの意味が、このあたりでようや

く見えてくるだろう。寛方は仏画の刷新を目指し、インドへの関心を高めていたが、日本美

25 未完の草稿はまず『理想、の再建』として河出書房より刊行。浅野晃により『東洋の覚醒』と題名を改め

た訳は、 1940年に聖文閣より刊行された。

26 この論争については Bharucha2006, pp. 167-175および Hori2009, ch.13.また Wakakuwa2009, pp. 22-26も

参照。

27 荒井寛方の「志士タゴーノレ翁JはArai1943, p.6.

28 Mitter 2007, pp. 82-90.

29 Quintani11a 2009, pp. 190-205.

30 Sister Nivedita 1967--68, vol. 3, p. 58; Inaga 2004, pp. 149-50.

173

稲賀繁美

術院において大観や観山らの信頼を得る一方、瀧精一の父であり画家としても著名な瀧和亭

(1 832-1901) の知己を得ており、その伝手もあって『園華』編集部の仕事にも関与していた

からだ。利害を異にする日本美術院と『園華』社の双方からともに支持される若手の有力な

画家としては、当時寛方しか見あたらなかった、といって過言であるまい。寛方は、いわば

調停役としても打って付けの立場にあった。 この利点が、彼のアジャンターの壁画模写への

参画を容易ならしめることになる。

以下の論証に必要な限りで、インド旅行に先立つ寛方の画業を簡単に見ておこう。《菩提

樹下》の下絵 (1907) は、横山大観がまもなく滞印の成果として制作する《釈迦十六羅漢》や《献

灯》に通じる群像表現だ、った。洋画の人体解剖学を基礎に、ロマン主義の雰囲気が濃厚なあ

たりには、オボ、ニンドロナトの《カーチャとデヴジャニ)) (1906 : ~マハーパーラタ』より取

材)と同時代の息吹を感じない訳には行くまい。《乳康供養)) (1 915) は釈迦が入山修行からの

帰路の有名な逸話だが、菱田春草も滞印期に同一の主題を扱っており、その図像がオポ、ニン

ドロナトの描く《仏陀とスジャータ)) (ca.1915) に酷似していることは、これもすでに佐藤志

乃氏が指摘している。同じ主題に挑んだ荒井寛方の新機軸は、作品の画中には仏陀の姿を描

かず、牛と供物を運ぶ乳搾りの女性だけを描いたことだろうか。後にノンドラル・ボシュも

また同じ《スジャータ)) (1942 年に再制作)の主題で、仏陀を描かず、牛の乳を搾る女だけ

を描いている。仏陀を描かない仏画という共通する趣向からは、寛方とノンドラルとのあい

だの親密な信頼関係を想定できょう。ふたりの交友は寛方が残した素描や写真に加えて、そ

の詳細な「印度目誌」から復元することができる。

荒井寛方は 1916 年 11 月 13 日に東京を発ち、 12 月 17 日にカルカッタで下船している。 イ

ンド亜大陸とセイロンを含むその旅程を、ここでざっと辿っておこう。翌年の元旦までには

寛方が模写した《弱法師》が到着しており、オボ、ニンドロナトはその絵の面前で数時間にお

よぶ講話をなしたという。北米に旅行中だったラピンドロナートが現地に戻った際の様子を

寛方は、詩人没後に回想しているが、作品に向かつて祈りを献げた詩人が口にしたのは「す

べての世の中の者は暗い所に居て、ただ一点の光明を慕ふJ とする文句だ、った、という。寛

方はそれを「翁の根本思想、J rタゴール翁の作った歌J と解釈しているが、これはすでに触

れたとおり『ウパニシャツド』からの引用だ、ったとみて間違いあるまい。寛方はタゴール家

の人々がうち揃って《弱法師》に敬度な祈りを献げる様子に打たれ、「一同の斯の如き敬度

なる態度を見ては何だかわからぬが感激して了ふ」と記している。

ノンドラル・ボシュの名前が初めて「インド日誌」に見えるのは 1916 年 12 月 30 日。そ

の後の記載から見る限り、寛方はノンドラルやスレドロナト・タゴール(詩人の甥)と、牛

31 このモチーフについては SatδS. 1999, pp. 37-44.

32 r印度目誌J は以下に我妻和男によって校訂されている。 Nonaka Taiz� (ed.) 1974, pp. 60-101.また我妻によるベンガル語訳はArai 1993. 本件については、グーハ・タクル夕、河合努、堀まどかより情報を得た。 記

して謝意を表す。

33 Arai Kanpδ1943 , pp. 5-27, Tagore R. 1961 , W 日本美術院百年史~vol. 5, 1996, p. 1146. 34 同上。

174

車に乗るなどし

29 日には寛方は

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の帰郷を祝う行J

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35 Araki Kanp� 1943, 36 Kokka, no.339, vo

37 Sawamura 1932.論38 桐谷はインドにす

いた桐谷の写真を含主朴な方法で、は大作の吊1

39 W美術の日本~ vol

劣化が発生したことい

稲賀繁美

術院において大観や観山らの信頼を得る一方、瀧精一の父であり画家としても著名な瀧和亭

(1832-1901)の知己を得ており、その伝手もあって『園華』編集部の仕事にも関与していた

からだ。利害を異にする日本美術院と『園華』社の双方からともに支持される若手の有力な

画家としては、当時寛方しか見あたらなかった、といって過言であるまい。寛方は、いわば

調停役としても打って付けの立場にあった。この利点が、彼のアジャンターの壁画模写への

参画を容易ならしめることになる。

以下の論証に必要な限りで、インド旅行に先立つ寛方の画業を簡単に見ておこう。《菩提

樹下》の下絵 (1907)は、横山大観がまもなく滞印の成果として制作する《釈迦十六羅漢》や《献

灯》に通じる群像表現だ、った。洋画の人体解剖学を基礎に、ロマン主義の雰囲気が濃厚なあ

たりには、オボ、ニンドロナトの《カーチャとデヴジャニ))(1906 : ~マハーパーラタ』より取

材)と同時代の息吹を感じない訳には行くまい。《乳康供養))(1915)は釈迦が入山修行からの

帰路の有名な逸話だが、菱田春草も滞印期に同一の主題を扱っており、その図像がオボ、ニン

ドロナトの描く《仏陀とスジャータ))(ca.1915)に酷似していることは、これもすでに佐藤志

乃氏が指摘している。同じ主題に挑んだ荒井寛方の新機軸は、作品の画中には仏陀の姿を描

かず、牛と供物を運ぶ乳搾りの女性だけを描いたことだろうか。後にノンドラル・ボシュも

また同じ《スジャータ))(1942年に再制作)の主題で、仏陀を描かず、牛の乳を搾る女だけ

を描いている。仏陀を描かない仏画という共通する趣向からは、寛方とノンドラルとのあい

だの親密な信頼関係を想定できょう。ふたりの交友は寛方が残した素描や写真に加えて、そ

の詳細な「印度日誌」から復元することができる。

荒井寛方は 1916年 11月 13日に東京を発ち、 12月 17日にカルカッタで下船している。イ

ンド亜大陸とセイロンを含むその旅程を、ここでざっと辿っておこう。翌年の元旦までには

寛方が模写した《弱法師》が到着しており、オボニンドロナトはその絵の面前で数時間にお

よぶ講話をなしたという。北米に旅行中だったラピンドロナートが現地に戻った際の様子を

寛方は、詩人没後に回想しているが、作品に向かつて祈りを献げた詩人が口にしたのは「す

べての世の中の者は暗い所に居て、ただ一点の光明を慕ふJとする文句だ、った、という。寛

方はそれを「翁の根本思想Jrタゴール翁の作った歌Jと解釈しているが、これはすでに触

れたとおり『ウパニシャツド』からの引用だったとみて間違いあるまい。寛方はタゴール家

の人々がうち揃って《弱法師》に敬度な祈りを献げる様子に打たれ、「一同の斯の如き敬度

なる態度を見ては何だかわからぬが感激して了ふ」と記している。

ノンドラル・ボシュの名前が初めて「インド日誌」に見えるのは 1916年 12月 30日。そ

の後の記載から見る限り、寛方はノンドラルやスレドロナト・タゴール(詩人の甥)と、牛

31 このモチーフについては SatδS.1999, pp. 37-44.

32 r印度目誌J は以下に我妻和男によって校訂されている。 T、~onaka Taizδ(ed.) 1974, pp. 60-101.また我妻に

よるベンガル語訳はArai1993.本件については、グーハ・タクル夕、河合努、堀まどかより情報を得た。記

して謝意を表す。

33 Arai Kanpδ1943, pp. 5-27, Tagore R. 1961, W 日本美術院百年史~vol. 5, 1996, p. 1146.

34 同上。

174

稲賀繁美

術院において大観や観山らの信頼を得る一方、瀧精一の父であり画家としても著名な瀧和亭

(1832-1901)の知己を得ており、その伝手もあって『園華』編集部の仕事にも関与していた

からだ。利害を異にする日本美術院と『園華』社の双方からともに支持される若手の有力な

画家としては、当時寛方しか見あたらなかった、といって過言であるまい。寛方は、いわば

調停役としても打って付けの立場にあった。この利点が、彼のアジャンターの壁画模写への

参画を容易ならしめることになる。

以下の論証に必要な限りで、インド旅行に先立つ寛方の画業を簡単に見ておこう。《菩提

樹下》の下絵 (1907)は、横山大観がまもなく滞印の成果として制作する《釈迦十六羅漢》や《献

灯》に通じる群像表現だ、った。洋画の人体解剖学を基礎に、ロマン主義の雰囲気が濃厚なあ

たりには、オボ、ニンドロナトの《カーチャとデヴジャニ))(1906 : ~マハーパーラタ』より取

材)と同時代の息吹を感じない訳には行くまい。《乳康供養))(1915)は釈迦が入山修行からの

帰路の有名な逸話だが、菱田春草も滞印期に同一の主題を扱っており、その図像がオボ、ニン

ドロナトの描く《仏陀とスジャータ))(ca.1915)に酷似していることは、これもすでに佐藤志

乃氏が指摘している。同じ主題に挑んだ荒井寛方の新機軸は、作品の画中には仏陀の姿を描

かず、牛と供物を運ぶ乳搾りの女性だけを描いたことだろうか。後にノンドラル・ボシュも

また同じ《スジャータ))(1942年に再制作)の主題で、仏陀を描かず、牛の乳を搾る女だけ

を描いている。仏陀を描かない仏画という共通する趣向からは、寛方とノンドラルとのあい

だの親密な信頼関係を想定できょう。ふたりの交友は寛方が残した素描や写真に加えて、そ

の詳細な「印度日誌」から復元することができる。

荒井寛方は 1916年 11月 13日に東京を発ち、 12月 17日にカルカッタで下船している。イ

ンド亜大陸とセイロンを含むその旅程を、ここでざっと辿っておこう。翌年の元旦までには

寛方が模写した《弱法師》が到着しており、オボニンドロナトはその絵の面前で数時間にお

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寛方は、詩人没後に回想しているが、作品に向かつて祈りを献げた詩人が口にしたのは「す

べての世の中の者は暗い所に居て、ただ一点の光明を慕ふJとする文句だ、った、という。寛

方はそれを「翁の根本思想Jrタゴール翁の作った歌Jと解釈しているが、これはすでに触

れたとおり『ウパニシャツド』からの引用だったとみて間違いあるまい。寛方はタゴール家

の人々がうち揃って《弱法師》に敬度な祈りを献げる様子に打たれ、「一同の斯の如き敬度

なる態度を見ては何だかわからぬが感激して了ふ」と記している。

ノンドラル・ボシュの名前が初めて「インド日誌」に見えるのは 1916年 12月 30日。そ

の後の記載から見る限り、寛方はノンドラルやスレドロナト・タゴール(詩人の甥)と、牛

31 このモチーフについては SatδS.1999, pp. 37-44.

32 r印度目誌J は以下に我妻和男によって校訂されている。 T、~onaka Taizδ(ed.) 1974, pp. 60-101.また我妻に

よるベンガル語訳はArai1993.本件については、グーハ・タクル夕、河合努、堀まどかより情報を得た。記

して謝意を表す。

33 Arai Kanpδ1943, pp. 5-27, Tagore R. 1961, W 日本美術院百年史~vol. 5, 1996, p. 1146.

34 同上。

174

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

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和い力わへ

瀧て有い写

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名与手は画

著関若方壁

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車に乗るなどして頻繁に遠出している。例えば 1917 年 1 月 27 日にはプーリーまで出かけ、

29 日には寛方は、ボ、シュが美しい女性たちに取り固まれてお手上げの様となっているのを目

撃する(rボース氏眉人に取りつかれたる様おかしかりき J) 0 2 月 22 日には寛方はボシュが

持参したアショカの花を写生しているが、これはのちの寛方の仏画に登場することになる。

詩人ラビンドロナートが北米合衆国から戻ったのが 3 月 17 日のことで、日本人画家は詩人

の帰郷を祝う行列への参加を許される。寛方はタゴール家より「古代式の食事」すなわちリグ・

ヴェーダの仕来り lこ則ったタ飼の来賓として招かれており、画家はその折の詳しい素描を残

している。 4 月 27 日になるとノンドラルとスレンドロナトが寛方を一種の降霊術に誘った模

様であり、寛方の先祖の霊まで呼び出されたらしいが、さてその霊は何語でしゃべったのだ

ろう。 8 月 4 日と 12 日にはタゴールが公開講演に赴いている。スワデシ運動の高揚期であり、

発言次第では詩人が英国側官憲に身柄を拘束される恐れもあった。寛方は詩人が無事帰宅し

たのを見届けて胸を撫で降ろしている。 10 月 4 日にはノンドラルと映画を見に出かけている

が、その直後の 8 日から 11 月 28 日まで寛方は、日蓮宗の僧、岡教遼(生没年不明)ととも

にセイロン巡礼に出かけ、詳しい絵日記を残している。

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5. アジャンタ一石窟壁画の模写

そうした行程のなかでもっとも重要な任務が、アジヤンタ一石窟壁画の模写作業である。

寛方のインドへの出発に先立ち、当時、東京帝国大学文学部美術史教室主任で、あった瀧精ー

は、タゴールに居室を提供していた、富豪、原善三郎に接近し、アジヤンタ一石窟壁画模写

事業への資金援助を要請していた。『園華』はこの派遣事業の後援者たることを、誌上で誇

らしげに謡っている。将来、京都帝国大学教授に赴任することとなる美術史家の津村専太郎

(1884-1930) が、派遣団団長に任命された。調査団は 1917 年 12 月 6 日にカルカッタを発ち、

ほぼ 3 ヶ月に渉ってアジヤンターに滞在した。津村は主として写真撮影と拓本作製に従事し

た。そのアジヤンター彫刻や浮き彫りの研究は 1919 年『園華』に連載され、その遺著『東

洋美術史論考』に収められることとなる。

荒井寛方は、横山大観から助手に相応しい人材との推薦を得た朝井観波(1897-1985) と

ともに、壁画模写に取りかかった。インドに滞在中の桐谷洗鱗(1877ー1932) や野生司香雪

で下船している。イ

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寛方はタゴール家

一同の斯の如き敬度 (1 885-1973) が現地で参加した。ハイデラバードの地方政府からの許可を取り付けての作業

だ、ったが、作業条件は劣悪だ、った。壁面は泥と牛糞からなっており、剥落を防ぐための手段

を常に講じないと危険な状態だ、った。崩壊した遺構の修復のため数百人に及ぶ人夫を動員し5 年 12 月 30 日。そ

(詩人の甥)と、牛

pp. 60-101.また我妻に

かより情報を得た。記

35 Araki K姐pδ1943 , pp. 271-326. ベンガノレ語訳はArai 1993.

36 Kokka, no. 339, vol. 28, no. 4 (1 917), p. 149.

37 Sawamura 1932.論文初出は『園華』第30巻, 2, 3 , 6 , 11および12号。38 桐谷はインドにすで、に長期にわたって滞在していた。 Kiritani 1913 はタゴーノレ家のピジットラに滞在して

いた桐谷の写真を含む。Kiritani 1916 はオボニンドロナトのワッシュ技法に関する詳細な記述を含む。この素

朴な方法では大作の制作は無理との判断を桐谷は示している。

39 W美術の日本JI vol. 10, no. 1, 1918, p. 29 じは、日本による模写のあと、インド政府からアジヤンタ壁画に

劣化が発生したことについての苦情があったことが記録されている。荒井はこれに反論して、日本隊が細心

175

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

車に乗るなどして頻繁に遠出している。例えば 1917年 1月 27日にはプーリーまで出かけ、

29日には寛方は、ボ、シュが美しい女性たちに取り固まれてお手上げの様となっているのを目

撃する(rボース氏眉人に取りつかれたる様おかしかりきJ)0 2月 22日には寛方はボシュが

持参したアショカの花を写生しているが、これはのちの寛方の仏画に登場することになる。

詩人ラピンドロナートが北米合衆国から戻ったのが 3月 17日のことで、日本人画家は詩人

の帰郷を祝う行列への参加を許される。寛方はタゴール家より「古代式の食事」すなわちリグ・

ヴェーダの仕来りに則ったタ飼の来賓として招かれており、画家はその折の詳しい素描を残

している。 4月 27日になるとノンドラルとスレンドロナトが寛方を一種の降霊術に誘った模

様であり、寛方の先祖の霊まで呼び出されたらしいが、さてその霊は何語でしゃべったのだ

ろう。 8月4日と 12日にはタゴールが公開講演に赴いている。スワデシ運動の高揚期であり、

発言次第では詩人が英国側官憲に身柄を拘束される恐れもあった。寛方は詩人が無事帰宅し

たのを見届けて胸を撫で降ろしている。 10月4日にはノンドラルと映画を見に出かけている

が、その直後の 8日から 11月 28日まで寛方は、日蓮宗の僧、岡教遼(生没年不明)ととも

にセイロン巡礼に出かけ、詳しい絵日記を残している。

5 アジャンタ一石窟壁画の模写

そうした行程のなかでもっとも重要な任務が、アジヤンタ一石窟壁画の模写作業である。

寛方のインドへの出発に先立ち、当時、東京帝国大学文学部美術史教室主任であった瀧精ー

は、タゴールに居室を提供していた、富豪、原善三郎に接近し、アジヤンタ一石窟壁画模写

事業への資金援助を要請していた。『園華』はこの派遣事業の後援者たることを、誌上で誇

らしげに謡っている。将来、京都帝国大学教授に赴任することとなる美術史家の津村専太郎

(1884-1930)が、派遣団団長に任命された。調査団は 1917年 12月 6日にカルカッタを発ち、

ほぼ3ヶ月に渉ってアジヤンターに滞在した。津村は主として写真撮影と拓本作製に従事し

た。そのアジヤンター彫刻や浮き彫りの研究は 1919年『園華』に連載され、その遺著『東

洋美術史論考』に収められることとなる。

荒井寛方は、横山大観から助手に相応しい人材との推薦を得た朝井観波(1897-1985) と

ともに、壁画模写に取りかかった。インドに滞在中の桐谷洗鱗(1877-1932)や野生司香雪

(1885-1973)が現地で参加した。ハイデラバードの地方政府からの許可を取り付けての作業

だ、ったが、作業条件は劣悪だった。壁面は泥と牛糞からなっており、剥落を防ぐための手段

を常に講じないと危険な状態だ、った。崩壊した遺構の修復のため数百人に及ぶ人夫を動員し

35 Ar北iKanpδ1943,pp. 271-326.ベンガル語訳はArai1993.

36 Kokka, no. 339, vol. 28, no. 4 (1917), p. 149.

37 Sawamura 1932.論文初出は『園華』第30巻, 2,3,6,11および12号。

38 桐谷はインドにすで、に長期にわたって滞在していた。Kiritani1913はタゴーノレ家のピジットラに滞在して

いた桐谷の写真を含む。Kiritani1916はオボニンドロナトのワッシュ技法に関する詳細な記述を含む。この素

朴な方法では大作の制作は無理との判断を桐谷は示している。

39 W美術の日本~ vol. 10, no. 1, 1918, p. 29には、日本による模写のあと、インド政府からアジヤンタ壁画に

劣化が発生したことについての苦情があったことが記録されている。荒井はこれに反論して、日本隊が細心

175

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

車に乗るなどして頻繁に遠出している。例えば 1917年 1月 27日にはプーリーまで出かけ、

29日には寛方は、ボ、シュが美しい女性たちに取り固まれてお手上げの様となっているのを目

撃する(rボース氏眉人に取りつかれたる様おかしかりきJ)0 2月 22日には寛方はボシュが

持参したアショカの花を写生しているが、これはのちの寛方の仏画に登場することになる。

詩人ラピンドロナートが北米合衆国から戻ったのが 3月 17日のことで、日本人画家は詩人

の帰郷を祝う行列への参加を許される。寛方はタゴール家より「古代式の食事」すなわちリグ・

ヴェーダの仕来りに則ったタ飼の来賓として招かれており、画家はその折の詳しい素描を残

している。 4月 27日になるとノンドラルとスレンドロナトが寛方を一種の降霊術に誘った模

様であり、寛方の先祖の霊まで呼び出されたらしいが、さてその霊は何語でしゃべったのだ

ろう。 8月4日と 12日にはタゴールが公開講演に赴いている。スワデシ運動の高揚期であり、

発言次第では詩人が英国側官憲に身柄を拘束される恐れもあった。寛方は詩人が無事帰宅し

たのを見届けて胸を撫で降ろしている。 10月4日にはノンドラルと映画を見に出かけている

が、その直後の 8日から 11月 28日まで寛方は、日蓮宗の僧、岡教遼(生没年不明)ととも

にセイロン巡礼に出かけ、詳しい絵日記を残している。

5 アジャンタ一石窟壁画の模写

そうした行程のなかでもっとも重要な任務が、アジヤンタ一石窟壁画の模写作業である。

寛方のインドへの出発に先立ち、当時、東京帝国大学文学部美術史教室主任であった瀧精ー

は、タゴールに居室を提供していた、富豪、原善三郎に接近し、アジヤンタ一石窟壁画模写

事業への資金援助を要請していた。『園華』はこの派遣事業の後援者たることを、誌上で誇

らしげに謡っている。将来、京都帝国大学教授に赴任することとなる美術史家の津村専太郎

(1884-1930)が、派遣団団長に任命された。調査団は 1917年 12月 6日にカルカッタを発ち、

ほぼ3ヶ月に渉ってアジヤンターに滞在した。津村は主として写真撮影と拓本作製に従事し

た。そのアジヤンター彫刻や浮き彫りの研究は 1919年『園華』に連載され、その遺著『東

洋美術史論考』に収められることとなる。

荒井寛方は、横山大観から助手に相応しい人材との推薦を得た朝井観波(1897-1985) と

ともに、壁画模写に取りかかった。インドに滞在中の桐谷洗鱗(1877-1932)や野生司香雪

(1885-1973)が現地で参加した。ハイデラバードの地方政府からの許可を取り付けての作業

だ、ったが、作業条件は劣悪だった。壁面は泥と牛糞からなっており、剥落を防ぐための手段

を常に講じないと危険な状態だ、った。崩壊した遺構の修復のため数百人に及ぶ人夫を動員し

35 Ar北iKanpδ1943,pp. 271-326.ベンガル語訳はArai1993.

36 Kokka, no. 339, vol. 28, no. 4 (1917), p. 149.

37 Sawamura 1932.論文初出は『園華』第30巻, 2,3,6,11および12号。

38 桐谷はインドにすで、に長期にわたって滞在していた。Kiritani1913はタゴーノレ家のピジットラに滞在して

いた桐谷の写真を含む。Kiritani1916はオボニンドロナトのワッシュ技法に関する詳細な記述を含む。この素

朴な方法では大作の制作は無理との判断を桐谷は示している。

39 W美術の日本~ vol. 10, no. 1, 1918, p. 29には、日本による模写のあと、インド政府からアジヤンタ壁画に

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稲賀繁美

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寛方の日誌、 l

をかけ、紀元前

れを告げねばなぞ

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く繰り返す逸話カ

腕を斬り落とし犬

神を認めようとす

まで、生き残った夜

そして極東の画語

られたことを、 3

のしからしむとこ

アジヤンタ ~Ú

的野心とは、女子夫

ように公言して'~

年 4 月)において

園の塾術J にしオ

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を強調する。 アミ

いて類似性があと

人たちには適性カ

対抗意識は、こ こ

アにおける現代 f

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に従事した画家え

のあることは、梨

ろ深い相違のあミ

描くが、法隆寺寸

が、日本では 2 ヌ

認めることには担

れたとは信じが犬

Fig.13 荒井寛方 《古代式の食事(大正 6 年 3 月 17 日) )) 1917、栃木県立美術館

AraiKanpδ, Dinner at the Tagore Family in Ancient Manner 1917, Tochigi Prefectural Museum ofFine Arts.

ての作業が隣接地域で進められていた模様だが、石窟そのものは野放しの状態で、無数の煽

幅の住処となっており、床には糞が堆積し、構内には耐え難い悪臭が充満していたという 。

朝井観波は天井画の模写に取りかかったが、仰向けで、作業台に横になって絵筆を操る画家の

顔面には、絵の具が始終ぽたぽたと垂れるため、作業は一向に捗らず、若い朝井は不如意の

あまり落涙したとしづ 。 一向は宿営地で猿や猪の侵入にも対処せねばならなかった。 それば

かりか、ある朝には豹が洞窟入口で、寝そべっているのが報告され、またある日には近くに虎

の足跡が発見された。 夜になると、おそらくはこれと同じ虎の吠声が聞かれ、とある地方官

吏が命からがらその攻撃から逃れたといった通報も入ってくる。 そうした困難という以上に

肉体への危険すら及ぶ条件にもかかわらず、日本人部隊は、早朝より夕刻に至る模写作業を

3 ヶ月に渉って継続した。 休日は 2-3 日あったに過ぎないという 。 1919 年のタゴールの来日

に付き添った画家ムクル・チャンドラ・デイ(1895-1989) は横浜で荒井寛方の模写作業に立

ち会う機会は得なかったはずだが、アジャンターでは寛方の模写を目撃しており、後年『ア

ジヤンターとバーグへの私の巡礼~ (1 925) を著して高い評価を得ることとなる。

の注意を払って模写に臨み、地方政府に対して剥落の危険を訴え、 落下したまま放置されていた断片につい

て注意を促した事実を指摘している。 偶然の一致だが、同じ号には法隆寺金堂壁画の保存問題が報じられて

おり、また正倉院の秋の公開に際して入場制限を緩めることの是非が、当時文部省と宮内省とのあいだ、で、話

題となっていたこと が知られる(p.28)。

40 rアジャンタ壁画模写余談J Arai 1943, pp. 51-64.

41 Azuma 1974, p. 127.

176

42 Azuma 1974, p. ~

43 Taki 1918. 再録l

稲賀繁美

G. Tagor~,

_,RTago:ce

申ア

Fig.13 荒井寛方《古代式の食事(大正 6年 3月 17日)))1917、栃木県立美術館

AraiKanpδ,Dinner at the Tagore Family in Ancient Manner 1917, Tochigi Prefectural Museum ofFine Arts.

ての作業が隣接地域で進められていた模様だが、石窟そのものは野放しの状態で、無数の煽

幅の住処となっており、床には糞が堆積し、構内には耐え難い悪臭が充満していたとしづ。

朝井観波は天井画の模写に取りかかったが、仰向けで、作業台に横になって絵筆を操る画家の

顔面には、絵の具が始終ぽたぽたと垂れるため、作業は一向に捗らず、若い朝井は不如意の

あまり落涙したという。一向は宿営地で猿や猪の侵入にも対処せねばならなかった。それば

かりか、ある朝には豹が洞窟入口で、寝そべっているのが報告され、またある日には近くに虎

の足跡が発見された。夜になると、おそらくはこれと同じ虎の吠声が聞かれ、とある地方官

吏が命からがらその攻撃から逃れたといった通報も入ってくる。そうした困難という以上に

肉体への危険すら及ぶ条件にもかかわらず、日本人部隊は、早朝より夕刻に至る模写作業を

3ヶ月に渉って継続した。休日は 2-3日あったに過ぎないという。1919年のタゴールの来日

に付き添った画家ムクル・チャンドラ・デイ(1895-1989)は横浜で荒井寛方の模写作業に立

ち会う機会は得なかったはずだが、アジヤンターでは寛方の模写を目撃しており、後年『ア

ジヤンターとパーグへの私の巡礼Jl(1925)を著して高い評価を得ることとなる。

の注意を払って模写に臨み、地方政府に対して剥落の危険を訴え、落下したまま放置されていた断片につい

て注意を促した事実を指摘している。偶然の一致だが、同じ号には法隆寺金堂壁画の保存問題が報じられて

おり、また正倉院の秋の公開に際して入場制限を緩めることの是非が、当時文部省と宮内省とのあいだで話

題となっていたことが知られる(p.28)。

40 rアジヤンタ壁画模写余談JArai 1943, pp. 51-64.

41 Azuma 1974, p. 127.

176

稲賀繁美

G. Tagor~,

_,RTago:ce

申ア

Fig.13 荒井寛方《古代式の食事(大正 6年 3月 17日)))1917、栃木県立美術館

AraiKanpδ,Dinner at the Tagore Family in Ancient Manner 1917, Tochigi Prefectural Museum ofFine Arts.

ての作業が隣接地域で進められていた模様だが、石窟そのものは野放しの状態で、無数の煽

幅の住処となっており、床には糞が堆積し、構内には耐え難い悪臭が充満していたとしづ。

朝井観波は天井画の模写に取りかかったが、仰向けで、作業台に横になって絵筆を操る画家の

顔面には、絵の具が始終ぽたぽたと垂れるため、作業は一向に捗らず、若い朝井は不如意の

あまり落涙したという。一向は宿営地で猿や猪の侵入にも対処せねばならなかった。それば

かりか、ある朝には豹が洞窟入口で、寝そべっているのが報告され、またある日には近くに虎

の足跡が発見された。夜になると、おそらくはこれと同じ虎の吠声が聞かれ、とある地方官

吏が命からがらその攻撃から逃れたといった通報も入ってくる。そうした困難という以上に

肉体への危険すら及ぶ条件にもかかわらず、日本人部隊は、早朝より夕刻に至る模写作業を

3ヶ月に渉って継続した。休日は 2-3日あったに過ぎないという。1919年のタゴールの来日

に付き添った画家ムクル・チャンドラ・デイ(1895-1989)は横浜で荒井寛方の模写作業に立

ち会う機会は得なかったはずだが、アジヤンターでは寛方の模写を目撃しており、後年『ア

ジヤンターとパーグへの私の巡礼Jl(1925)を著して高い評価を得ることとなる。

の注意を払って模写に臨み、地方政府に対して剥落の危険を訴え、落下したまま放置されていた断片につい

て注意を促した事実を指摘している。偶然の一致だが、同じ号には法隆寺金堂壁画の保存問題が報じられて

おり、また正倉院の秋の公開に際して入場制限を緩めることの是非が、当時文部省と宮内省とのあいだで話

題となっていたことが知られる(p.28)。

40 rアジヤンタ壁画模写余談JArai 1943, pp. 51-64.

41 Azuma 1974, p. 127.

176

seum ofFine Arts.

〉状態で、無数の幅

高していたという。

7絵筆を操る画家の

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某存問題が報じられて

ち内省とのあいだで話

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

寛方の日誌、 1918 年 3 月 2 日の条に、模写完成の言葉がみえる。二千五百年に及ぶ年月

をかけ、紀元前 12 世紀から 6 世紀に至る歳月を跨ぐこの莫大な石窟壁画装飾に、いまや別

れを告げねばならない時がやってきた。そう悟った画家は感涙を禁じ得ない。 「古代此の美

を成せる美術家に生別の感ありて涙を出すをきんずる能はずJ。後年まで、寛方が何度とな

く繰り返す逸話がある。アジヤンターの画家たちは、壁画制作を終えると、そこで自らの右

腕を斬り落とした、というのである。そこに寛方は、古代の画家たちの深い献身と高遁な精

神を認めようとする。こうした画家たちの心がけあればこそ、この莫大な仕事も今日に至る

まで、生き残ったのだ、それこそが仏陀の慈悲により完遂された偉業なのだと寛方は確信する。

そして極東の画家は、模写の仕事を通じ、二千年前の画家たちの魂と対話を交わす機会の得

られたことを、みずからの名誉として受け止め、その幸運を仏陀の至徳ゆえの傍倖(1仏徳

のしからしむところJ) と、感謝の念を忘れない。

アジヤンターの遺構に対する荒井寛方の敬度な信心は、例えば瀧精ーの権威主義的な学術

的野心とは、好対照をなすものというほかない。荒井が日本に帰国してすぐの頃、瀧は次の

ように公言して偉らない。すなわち『大阪朝日新聞』掲載の「印度美術研究の必要J (1918

年 4 月)において、瀧はまずタゴールによって 2 年前に将来された現代べンガル絵画に「亡

園の萎術」にして「規模の小さい、感傷的の萎縮した萎術J と懸慧無礼な批判を加え、その

うえで今日の日本の美術家たちに、インドの古代美術の遺産から直接に学ぶ必要があること

を強調する。アジヤンターの壁画と日本の古代の仏教美術絵画とのあいだには、技術面にお

いて類似性がある。これに対して油彩画は東洋の技法とは相容れないものであるから、西洋

人たちには適性がない、とするのが瀧の主張だ、った。西洋の学術や技法に対する瀧の敵対心、

対抗意識は、ここでインドに対する思着せがましく倣慢なまでの蔑視と癒着している。アジ

アにおける現代日本の文化的優越性への信頼が、東洋の学術的覇者たる自尊と結託し、結果

的に、そうとは自覚もないまま、欧米列強の植民地主義的イデオロギーを鶏鵡返しに代弁し、

肩代わりしようとする陥穿に陥っている。

瀧の高飛車な議論に抗弁しようなどという意図とは無縁なまま、荒井寛方は「印度日誌」

の末尾に、アジヤンター壁画と斑鳩の法隆寺金堂壁画 (693 年頃)との関係について、 模写

に従事した画家ならではの見解を書き付けていた。これらふたつの文化遺産に多くの類似点

のあることは、幾多の学者がすでに指摘していたが、寛方は表現法の細部に注目して、むし

ろ深い相違のあることに気づいていた。アジヤンターでは黒い肌とは区別して足の裏は白く

描くが、法隆寺ではそうではない。また菩薩などの首の括れにインドでは 3 本の線を入れる

が、日本では 2 本しか描かない。とはいえこれらは、法隆寺金堂壁画にインド起源の影響を

認めることには抵触しない。この段階での寛方は、法隆寺壁画が日本人画工によって制作さ

れたとは信じがたい(1法隆寺に於ては其印度の直風なる、又筆者の我国人ならざるを信ずJ) 、

42 Azuma 1974, p. 92. また AJai 1935, pp. 13-15.

43 Taki 1918. 再録は『日本美術院百年史11 vol. 5, 1994, pp. 1141-1143.

177

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

寛方の日誌、 1918年 3月 2日の条に、模写完成の言葉がみえる。二千五百年に及ぶ年月

をかけ、紀元前 12世紀から 6世紀に至る歳月を跨ぐこの莫大な石窟壁画装飾に、いまや別

れを告げねばならない時がやってきた。そう悟った画家は感涙を禁じ得ない。「古代此の美

を成せる美術家に生別の感ありて涙を出すをきんずる能はず」。後年まで、寛方が何度とな

く繰り返す逸話がある。アジヤンターの画家たちは、壁画制作を終えると、そこで自らの右

腕を斬り落とした、というのである。そこに寛方は、古代の画家たちの深い献身と高逼な精

神を認めようとする。こうした画家たちの心がけあればこそ、この莫大な仕事も今日に至る

まで、生き残ったのだ、それこそが仏陀の慈悲により完遂された偉業なのだと寛方は確信する。

そして極東の画家は、模写の仕事を通じ、二千年前の画家たちの魂と対話を交わす機会の得

られたことを、みずからの名誉として受け止め、その幸運を仏陀の至徳ゆえの僕倖 u仏徳

のしからしむところJ) と、感謝の念を忘れない。

アジヤンターの遺構に対する荒井寛方の敬度な信心は、例えば瀧精一の権威主義的な学術

的野心とは、好対照をなすものというほかない。荒井が日本に帰国してすぐの頃、瀧は次の

ように公言して憧らない。すなわち 『大阪朝日新聞』掲載の「印度美術研究の必要J(1918

年4月)において、瀧はまずタゴールによって 2年前に将来された現代べンガル絵画に「亡

園の塞術」にして「規模の小さい、感傷的の萎縮した塞術」と感敷無礼な批判を加え、その

うえで今日の日本の美術家たちに、インドの古代美術の遺産から直接に学ぶ必要があること

を強調する。アジヤンターの壁画と日本の古代の仏教美術絵画とのあいだには、技術面にお

いて類似性がある。これに対して油彩画は東洋の技法とは相容れないものであるから、西洋

人たちには適性がない、とするのが瀧の主張だ、った。西洋の学術や技法に対する瀧の敵対心、

対抗意識は、ここでインドに対する恩着せがましく倣慢なまでの蔑視と癒着している。アジ

アにおける現代日本の文化的優越性への信頼が、東洋の学術的覇者たる自尊と結託し、結果

的に、そうとは自覚もないまま、欧米列強の植民地主義的イデオロギーを鶏鵡返しに代弁し、

肩代わりしようとする陥穿に陥っている。

瀧の高飛車な議論に抗弁しようなどという意図とは無縁なまま、荒井寛方は「印度日誌」

の末尾に、アジヤンター壁画と斑鳩の法隆寺金堂壁画 (693年頃)との関係について、模写

に従事した画家ならではの見解を書き付けていた。これらふたつの文化遺産に多くの類似点

のあることは、幾多の学者がすでに指摘していたが、寛方は表現法の細部に注目して、むし

ろ深い相違のあることに気づいていた。アジヤンターでは黒い肌とは区別して足の裏は白く

描くが、法隆寺ではそうではない。また菩薩などの首の括れにインドでは 3本の線を入れる

が、日本では 2本しか描かない。とはいえこれらは、法隆寺金堂壁画にインド起源の影響を

認めることには抵触しない。この段階での寛方は、法隆寺壁画が日本人画工によって制作さ

れたとは信じがたい u法隆寺に於ては其印度の直風なる、又筆者の我国人ならざるを信ずJ)、

42 Azuma 1974, p. 92.またArai1935, pp. 13-15.

43 Taki 1918.再録は『日本美術院百年史11vo1. 5, 1994, pp. 1141-1143.

177

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

寛方の日誌、 1918年 3月 2日の条に、模写完成の言葉がみえる。二千五百年に及ぶ年月

をかけ、紀元前 12世紀から 6世紀に至る歳月を跨ぐこの莫大な石窟壁画装飾に、いまや別

れを告げねばならない時がやってきた。そう悟った画家は感涙を禁じ得ない。「古代此の美

を成せる美術家に生別の感ありて涙を出すをきんずる能はず」。後年まで、寛方が何度とな

く繰り返す逸話がある。アジヤンターの画家たちは、壁画制作を終えると、そこで自らの右

腕を斬り落とした、というのである。そこに寛方は、古代の画家たちの深い献身と高逼な精

神を認めようとする。こうした画家たちの心がけあればこそ、この莫大な仕事も今日に至る

まで、生き残ったのだ、それこそが仏陀の慈悲により完遂された偉業なのだと寛方は確信する。

そして極東の画家は、模写の仕事を通じ、二千年前の画家たちの魂と対話を交わす機会の得

られたことを、みずからの名誉として受け止め、その幸運を仏陀の至徳ゆえの僕倖 u仏徳

のしからしむところJ) と、感謝の念を忘れない。

アジヤンターの遺構に対する荒井寛方の敬度な信心は、例えば瀧精一の権威主義的な学術

的野心とは、好対照をなすものというほかない。荒井が日本に帰国してすぐの頃、瀧は次の

ように公言して憧らない。すなわち 『大阪朝日新聞』掲載の「印度美術研究の必要J(1918

年4月)において、瀧はまずタゴールによって 2年前に将来された現代べンガル絵画に「亡

園の塞術」にして「規模の小さい、感傷的の萎縮した塞術」と感敷無礼な批判を加え、その

うえで今日の日本の美術家たちに、インドの古代美術の遺産から直接に学ぶ必要があること

を強調する。アジヤンターの壁画と日本の古代の仏教美術絵画とのあいだには、技術面にお

いて類似性がある。これに対して油彩画は東洋の技法とは相容れないものであるから、西洋

人たちには適性がない、とするのが瀧の主張だ、った。西洋の学術や技法に対する瀧の敵対心、

対抗意識は、ここでインドに対する恩着せがましく倣慢なまでの蔑視と癒着している。アジ

アにおける現代日本の文化的優越性への信頼が、東洋の学術的覇者たる自尊と結託し、結果

的に、そうとは自覚もないまま、欧米列強の植民地主義的イデオロギーを鶏鵡返しに代弁し、

肩代わりしようとする陥穿に陥っている。

瀧の高飛車な議論に抗弁しようなどという意図とは無縁なまま、荒井寛方は「印度日誌」

の末尾に、アジヤンター壁画と斑鳩の法隆寺金堂壁画 (693年頃)との関係について、模写

に従事した画家ならではの見解を書き付けていた。これらふたつの文化遺産に多くの類似点

のあることは、幾多の学者がすでに指摘していたが、寛方は表現法の細部に注目して、むし

ろ深い相違のあることに気づいていた。アジヤンターでは黒い肌とは区別して足の裏は白く

描くが、法隆寺ではそうではない。また菩薩などの首の括れにインドでは 3本の線を入れる

が、日本では 2本しか描かない。とはいえこれらは、法隆寺金堂壁画にインド起源の影響を

認めることには抵触しない。この段階での寛方は、法隆寺壁画が日本人画工によって制作さ

れたとは信じがたい u法隆寺に於ては其印度の直風なる、又筆者の我国人ならざるを信ずJ)、

42 Azuma 1974, p. 92.またArai1935, pp. 13-15.

43 Taki 1918.再録は『日本美術院百年史11vo1. 5, 1994, pp. 1141-1143.

177

稲賀繁美

Fig.15 アジヤンター壁画(蓮華手菩薩図)

Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha.

[Seth 1006: 56J

Fig.14 荒井寛方《アジヤンター壁画模写図(蓮華手菩薩図))) 1918、

焼失〔野中退蔵著『荒井寛方:人と作品11 1974 年、中央公論出版〕

Copy by Arai Kanpδ, Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha, 10st by the great Kantδearthquak.e on Sep.1 , 1923. [Nonaka 1974: 179J

とする見解を述べていた。ここには、同じ東洋人だから技法は類似しており、西洋人より容

易に教訓を汲める、などと主張する瀧の決めつけ同然の文化決定論的な議論に、無条件には

賛同しない現場の画家の姿が浮かび上がる。

ノンドロル・ポ、シュは 1928 年にタゴールと共に日本を訪れるが、 7 月 21 日に荒井寛方に

連れられて、斑鳩の法隆寺を尋ねている。寛方の回想によれば法隆寺管長の佐伯定胤(1867-

1952) は、予告もなく現れた日本人画家と未知の異邦人とを、手ずから雨よけの扉を開いて、

金堂に請じ入れたとしづ。壁画を目にするやボ、シュはアジヤンターと法隆寺との類縁性を感

得し、日本で 1200 年も前のフレスコが良好な状態で保存されてきたことに賛嘆したと、後

の回想に述べている。

1940 年代になると、荒井寛方は法隆寺金堂壁画の模写に携わる任務を帯びる。 1945 年の

突然の死去の時点までに、彼は北東隅に位置する《薬師如来浄土》を描いた第 10 号壁画の

模写をほぼ完了していた。対角となる南西隅の《阿弥陀如来浄土》は、すでに 19 世紀末に

44 戦時中の晩年に執筆した「法隆寺金堂壁画」で、荒井はやや意見を変更し、ひとりの親方が全体を監督

したとのかつての自論を撤回し、複数の画家たちが独立して作業にあたったとの考えを示した。また様式的

にはインドの影響が濃厚だが、インド人の手になるものではない、と結論づけた。Arai 1943, pp.49-50.

45 このとき派遣された一行のなかにはカリダス・ナグ- Kalidas Nag がいた。ナグーは日本の考古学に関す

る議論を含む書籍を刊行することになる。彼はまた 1936 年にブエノス・アイレスで聞かれた国際ペンクラブ

総会でインド代表を務めている。その折の彼の島崎藤村や有島生馬との交友については、 Inaga2007. 46 Arai 1943, pp. 141-42.

47 Bharat Si1pi 1967, pp. 71-72.

178

桜井香雲(1845ー

至菩薩は、アジ

像》としばしば

まる観察だった【

たつを模写して

年の段階で原作

ったことが納得

ワニスが黄変と ;

当時、さらなる

1909 年から 191

は、寛方たちが

ンドと同じ技法

めの助けが得ら

48 イギリスの外

模写を推進したら

Princess Akiko 2008

49 Arai 1935, pp. 1

稲賀繁美

Fig.15 アジャンター壁画(蓮華手菩薩図)

Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha.

[Seth 1006: 56J

Fig.14 荒井寛方《アジヤンター壁画模写図(蓮華手菩薩図)>>1918、

焼失〔野中退蔵著作E井寛方:人と作品~ 1974年、中央公論出版〕

Copy by Arai Kanpo, Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha, 10st by the

great Kantδearthquake on Sep.1, 1923. [Nonaka 1974: 179J

とする見解を述べていた。ここには、同じ東洋人だから技法は類似しており、西洋人より容

易に教司iIを汲める、などと主張する瀧の決めつけ同然の文化決定論的な議論に、無条件には

賛同しない現場の画家の姿が浮かび上がる。

ノンドロル ・ボ、シュは 1928年にタゴールと共に日本を訪れるが、 7月 21日に荒井寛方に

連れられて、斑鳩の法隆寺を尋ねている。寛方の回想によれば法隆寺管長の佐伯定胤 (1867-

1952)は、予告もなく現れた日本人画家と未知の異邦人とを、手ずから雨よけの扉を開いて、

金堂に請じ入れたという。壁画を目にするやボシュはアジヤンターと法隆寺との類縁性を感

得し、日本で 1200年も前のプレスコが良好な状態で保存されてきたことに賛嘆したと、後

の回想に述べている。

1940年代になると、荒井寛方は法隆寺金堂壁画の模写に携わる任務を帯びる。 1945年の

突然の死去の時点までに、彼は北東隅に位置する《薬師如来浄土》を描いた第 10号壁画の

模写をほぼ完了していた。対角となる南西隅の《阿弥陀如来浄土》は、すでに 19世紀末に

44 戦時中の晩年に執筆した「法隆寺金堂壁画」で、荒井はやや意見を変更し、ひとりの親方が全体を監督

したとのかつての自論を撤回し、複数の画家たちが独立して作業にあたったとの考えを示した。また様式的

にはインドの影響が濃厚だが、インド人の手になるものではない、と結論づけた。Arai1943,pp.49-50.

45 このとき派遣された一行のなかにはカリダス・ナグ-Ka1idas Nagがし、た。ナグーは日本の考古学に関す

る議論を含む書籍を刊行することになる。彼はまた 1936年にブエノス・アイレスで聞かれた国際ペンクラブ

総会でインド代表を務めている。その折の彼の島崎藤村や有島生馬との交友については、Inaga2007.

46 Arai 1943,pp. 141-42.

47 Bharat Silpi 1967, pp. 71-72.

178

稲賀繁美

Fig.15 アジャンター壁画(蓮華手菩薩図)

Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha.

[Seth 1006: 56J

Fig.14 荒井寛方《アジヤンター壁画模写図(蓮華手菩薩図)>>1918、

焼失〔野中退蔵著作E井寛方:人と作品~ 1974年、中央公論出版〕

Copy by Arai Kanpo, Ajanta Cave 1 Padmapni Buddha, 10st by the

great Kantδearthquake on Sep.1, 1923. [Nonaka 1974: 179J

とする見解を述べていた。ここには、同じ東洋人だから技法は類似しており、西洋人より容

易に教司iIを汲める、などと主張する瀧の決めつけ同然の文化決定論的な議論に、無条件には

賛同しない現場の画家の姿が浮かび上がる。

ノンドロル ・ボ、シュは 1928年にタゴールと共に日本を訪れるが、 7月 21日に荒井寛方に

連れられて、斑鳩の法隆寺を尋ねている。寛方の回想によれば法隆寺管長の佐伯定胤 (1867-

1952)は、予告もなく現れた日本人画家と未知の異邦人とを、手ずから雨よけの扉を開いて、

金堂に請じ入れたという。壁画を目にするやボシュはアジヤンターと法隆寺との類縁性を感

得し、日本で 1200年も前のプレスコが良好な状態で保存されてきたことに賛嘆したと、後

の回想に述べている。

1940年代になると、荒井寛方は法隆寺金堂壁画の模写に携わる任務を帯びる。 1945年の

突然の死去の時点までに、彼は北東隅に位置する《薬師如来浄土》を描いた第 10号壁画の

模写をほぼ完了していた。対角となる南西隅の《阿弥陀如来浄土》は、すでに 19世紀末に

44 戦時中の晩年に執筆した「法隆寺金堂壁画」で、荒井はやや意見を変更し、ひとりの親方が全体を監督

したとのかつての自論を撤回し、複数の画家たちが独立して作業にあたったとの考えを示した。また様式的

にはインドの影響が濃厚だが、インド人の手になるものではない、と結論づけた。Arai1943,pp.49-50.

45 このとき派遣された一行のなかにはカリダス・ナグ-Ka1idas Nagがし、た。ナグーは日本の考古学に関す

る議論を含む書籍を刊行することになる。彼はまた 1936年にブエノス・アイレスで聞かれた国際ペンクラブ

総会でインド代表を務めている。その折の彼の島崎藤村や有島生馬との交友については、Inaga2007.

46 Arai 1943,pp. 141-42.

47 Bharat Silpi 1967, pp. 71-72.

178

画(蓮華手菩薩図)。uddha.

華手菩薩図))) 1918

中央公論出版〕

~uddha, lost by the

974: 179J

西洋人より容

こ、無条件には

ヨに荒井寛方に

主伯定胤 (1867ー

の扉を開いて、

どの類縁性を感

雪嘆したと、後

〈る。 1945 年の

第 10 号壁画の

に 19 世紀末に

見方が全体を監督

Jた。また様式的

, pp.49-50.

ドの考古学に関す

と国際ペンクラブ

19a 2007.

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

Fig.16 法隆寺金堂において模写をする荒井 Fig.17 法隆寺金堂壁画、 693 年頃(1949

寛方、昭和 17 年頃 年火災により損傷)桜井香雲模写 (W模

Arai at work in the Golden Pavilion in Hδryü-ji, 写 ・ 模造と日本美術』東京国立博物館、

around 1942. [Nonaka 1974: 109J 2005: 56 参照)

Mural Painting at the Golden Pavillion,

HOIγuji Temple (damaged by fire in 1949)

copy by Sakurai K�n (Passing Traditions

in Japanese Art-Study, Copy, Create, Tokyo

National Museum, 2005 , p.56)

桜井香雲(1845-1890?) による模写がなされていた。 阿弥陀如来の右手の観音菩薩、左手の勢

至菩薩は、アジヤンターの第一窟の傑作として名高い《パダマパニー仏陀))あるいは《菩薩

像》としばしば比較されてきた。 さきに触れた寛方の比較考察は、この菩薩表象にもあては

まる観察だ、っ た。寛方自身は、アジヤンター第一窟の《降魔》と《菩薩)) (272x364 cm) のふ

たつを模写してきたが、現存する模写の原色写真複製から判断する限り、寛方の模写は 1918

年の段階で原作に残されていた色彩や剥落を忠実に写しており、その限りでも貴重な資料だ

ったことが納得できる 。 原作は初期のイギリス調査隊が保存を目的として壁面表層に施した

ワニスが黄変と槌色とを引きおこし、かえって損傷が促進していたといわれている 。 1918 年

当時、さらなる槌色と劣化が作品に脅威を及ぼしていた。ノンドラル・ボ、シュととともに、

1909 年から 1911 年にかけてのハリンガム夫人による模写に立ち会ったサイード・アハマド

は、寛方たちが模写に訪れた折には保存責任者となっていた。アハマドは、伝統的に古代イ

ンドと同じ技法に通じている日本隊による新たな模写によって、原作をより良く保存するた

めの助けが得られるとの希望を表明した、と伝えられる。

48 イギリスの外交官として知られたアーネスト・サトウ Emest Satow (1843-1929) が桜井による金堂壁画

模写を推進したらしい。そのうちのひとつがサトウの遺贈で大英博物館に所蔵されている。本件については

Princess Akiko 2008, pp. 130-131. 49 Arai 1935, pp. 13-15.

179

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.16 法隆寺金堂において模写をする荒井 Fig.17 法隆寺金堂壁画、693年頃(1949

寛方、昭和 17年頃 年火災により損傷)桜井香雲模写 (W模Arai at work in the Golden Pavilion in Hδryuてji, 写・模造と日本美術』東京国立博物館、

around 1942. [Nonaka 1974: 109J 2005: 56参照)

Mural Painting at the Golden Pavillion,

Horyuji Temple (damaged by fire in 1949)

copy by Sakurai Koun (Passing Traditions

in Japanese Art-Stuめ1,Copy, Create, To匂ro

National Museum, 2005, p.56)

桜井香雲 (1845-18907)による模写がなされていた。阿弥陀如来の右手の観音菩薩、左手の勢

至菩薩は、アジヤンターの第一窟の傑作として名高い《パダマパニー仏陀》あるいは《菩薩

像》としばしば比較されてきた。さきに触れた寛方の比較考察は、この菩薩表象にもあては

まる観察だ、った。寛方自身は、アジヤンター第一窟の《降魔》と《菩薩))(272x364 cm)のふ

たつを模写してきたが、現存する模写の原色写真複製から判断する限り、寛方の模写は 1918

年の段階で原作に残されていた色彩や剥落を忠実に写しており、その限りでも貴重な資料だ

ったことが納得できる。原作は初期のイギリス調査隊が保存を目的として壁面表層に施した

ワニスが黄変と槌色とを引きおこし、かえって損傷が促進していたといわれている。 1918年

当時、さらなる槌色と劣化が作品に脅威を及ぼしていた。ノンドラル・ボ、シュととともに、

1909年から 1911年にかけてのハリンガム夫人による模写に立ち会ったサイード・アハマド

は、寛方たちが模写に訪れた折には保存責任者となっていた。アハマドは、伝統的に古代イ

ンドと同じ技法に通じている日本隊による新たな模写によって、原作をより良く保存するた

めの助けが得られるとの希望を表明した、と伝えられる。

48 イギリスの外交官として知られたアーネスト・サトウ EmestSatow (1843-1929)が桜井による金堂壁画

模写を推進したらしい。そのうちのひとつがサトウの遺贈で大英博物館に所蔵されている。本件については

PrincessAkiko 2008, pp. 130-131.

49 Arai 1935, pp. 13-15.

179

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

Fig.16 法隆寺金堂において模写をする荒井 Fig.17 法隆寺金堂壁画、693年頃(1949

寛方、昭和 17年頃 年火災により損傷)桜井香雲模写 (W模Arai at work in the Golden Pavilion in Hδryuてji, 写・模造と日本美術』東京国立博物館、

around 1942. [Nonaka 1974: 109J 2005: 56参照)

Mural Painting at the Golden Pavillion,

Horyuji Temple (damaged by fire in 1949)

copy by Sakurai Koun (Passing Traditions

in Japanese Art-Stuめ1,Copy, Create, To匂ro

National Museum, 2005, p.56)

桜井香雲 (1845-18907)による模写がなされていた。阿弥陀如来の右手の観音菩薩、左手の勢

至菩薩は、アジヤンターの第一窟の傑作として名高い《パダマパニー仏陀》あるいは《菩薩

像》としばしば比較されてきた。さきに触れた寛方の比較考察は、この菩薩表象にもあては

まる観察だ、った。寛方自身は、アジヤンター第一窟の《降魔》と《菩薩))(272x364 cm)のふ

たつを模写してきたが、現存する模写の原色写真複製から判断する限り、寛方の模写は 1918

年の段階で原作に残されていた色彩や剥落を忠実に写しており、その限りでも貴重な資料だ

ったことが納得できる。原作は初期のイギリス調査隊が保存を目的として壁面表層に施した

ワニスが黄変と槌色とを引きおこし、かえって損傷が促進していたといわれている。 1918年

当時、さらなる槌色と劣化が作品に脅威を及ぼしていた。ノンドラル・ボ、シュととともに、

1909年から 1911年にかけてのハリンガム夫人による模写に立ち会ったサイード・アハマド

は、寛方たちが模写に訪れた折には保存責任者となっていた。アハマドは、伝統的に古代イ

ンドと同じ技法に通じている日本隊による新たな模写によって、原作をより良く保存するた

めの助けが得られるとの希望を表明した、と伝えられる。

48 イギリスの外交官として知られたアーネスト・サトウ EmestSatow (1843-1929)が桜井による金堂壁画

模写を推進したらしい。そのうちのひとつがサトウの遺贈で大英博物館に所蔵されている。本件については

PrincessAkiko 2008, pp. 130-131.

49 Arai 1935, pp. 13-15.

179

稲賀繁美

荒井寛方が制作した 2 枚の模写は、瀧精ーによって、東京帝国大学文学部美術史教室に、

派遣事業による戦利品よろしく後生大事に格納された。矢代幸雄は、瀧の独占欲にきわめて

批判的な人物だ、ったが、その矢代の証言によれば、寛方の模写からさらにその複製を複数作

って主要な博物館に収める案もあったものの、この提案は瀧の容れるところとはならなかっ

たとしづ。だがこの独り占めが裏目にでて、寛方ら入魂の模写一式は、 1923 年の関東大震災

による火災で灰燈に帰す。偶然の悪戯といえばそれまでだが、アジヤンターの模写はなぜか

同じような運命に魅入られていた。メイジャー ・ ロパート・ギル(1805?-1879) による最初の

模写は 1858 年のロンドンの水晶宮の火災で失われ、ジョン・グリフイツチ(1872-1885 に滞

印)によるふたつ目の模写も 1885 年 7 月 13 日のサウス・ケンジントン博物館の火災で喪失

している。ノンドラル・ボ、シュにとっても遺憾なことに、法隆寺金堂壁画もまた、寛方が亡

くなって 4 年後の 1949 年 1 月 26 日には、ほかならぬ模写担当者の電気座布団の漏電に起因

する火災によって、復元不可能な損傷を被っている' 0

6 . 寛方の日本帰国とその後

1918 年 5 月 7 日、インドから日本へと帰国するこ日前に、荒井寛方はノンドラル・ボシ

ユより夕食に招かれ、 2 枚の絵を記念に贈呈される。その翌日、ラピンドロナートは日本人

画家にベンガル語の能書直筆による詩を託した。現在シャンチニケタンの日本学院中庭に置かれた石碑に刻まれている詩句である。

親愛なる友よ、

ある日汝は、来賓として我が室にやって来た。

今日、出発に際して、我が魂の内へとやって来る。

ベンガル暦印5 年ボ、イジヤツク月 25 日(西暦 1918 年 5 月 8 日 7

「インド日誌J の最後に寛方はこう綴っていた。「渡航以来葱に一有半歳を送る。其間苦

楽交々至り再するなき宝を得たる、是れ信なる仏の導き給ふ難有かりける事なりき J (一年

有半におよぶ我が印度滞在は歓喜と苦難とに満たされており、二度と繰り返し得ぬ経験であ

る。仏陀の加護のお陰で、印度で、の生活を享受で、きた。この経験は我にとって比類なき宝物

である) (1 918 年 5 月 11 日 )2。

このインド滞在が寛方のその後の創作に深い刻印を刻んだ事は、疑いもない。それを 5 点

に要約しよう。まずこれ以降の仏画の図像にアジヤンター壁画模写の経験が生かされている

ことは、明白である。《釈迦出山)) (1 918) に典型的にみられるとおり、寛方がノンドラルら

50 Yashiro Yukio 1972, p. 50.

51 野中退蔵による「イ云記」参照。 Nonaka 1974, pp. 16-17, 33. 52 我妻和男による日本語訳を稲賀が英訳したものから、再度日本語に訳した。タゴール直筆の筆跡はNonaka 1974, p. 105; その色彩図版はArai 1998, p. 30, pl. 18. 53 Nonaka 1974, pp. 60-101 , 105.

180

の教えをうけ、

ター壁画に見

人の持物であ,

かされている ;

ふたつ目に、

ノレ州ランチ)お

られた、青、 来

みないような哲

明王)) (1926) た

いた歴史的名品

できた、という

国鳥となるが、

寓意する紋章と

さらに第 3 と

霊夢)) (1920)

陀の生涯の物語

は掛け軸仕立て

日本での批評を

高く評価する論

とができない画;

さらに第 4 に

方向へと発展し、

在位)との出会し

延長上の出来事

タクルこと詩人 t

画家はインドの5

ルと老荘あるいt

は琳派風の金地。

れる。無地の金需

の背景を想起さセ

荒井寛方のこよ

うに理解しようと

講演で、タゴール同

き原稿の一部を寛

54 C王 Yashiro 1958,

55 これらの展覧会5

稲賀繁美

荒井寛方が制作した 2枚の模写は、瀧精ーによって、東京帝国大学文学部美術史教室に、

派遣事業による戦利品よろしく後生大事に格納された。矢代幸雄は、瀧の独占欲にきわめて

批判的な人物だったが、その矢代の証言によれば、寛方の模写からさらにその複製を複数作

って主要な博物館に収める案もあったものの、この提案は瀧の容れるところとはならなかっ

たとしづ。だがこの独り占めが裏目にでて、寛方ら入魂の模写一式は、 1923年の関東大震災

による火災で灰燈に帰す。偶然の悪戯といえばそれまでだが、アジャンターの模写はなぜか

同じような運命に魅入られていた。メイジャー・ロパート・ギル(18057-1879)による最初の

模写は 1858年のロンドンの水晶宮の火災で失われ、ジョン・グリフィッチ(1872-1885に滞

印)によるふたつ目の模写も 1885年 7月 13日のサウス・ケンジントン博物館の火災で喪失

している。ノンドラル・ボシュにとっても遺憾なことに、法隆寺金堂壁画もまた、寛方が亡

くなって 4年後の 1949年 1月 26日には、ほかならぬ模写担当者の電気座布団の漏電に起因

する火災によって、復元不可能な損傷を被っている。

6.寛方の日本帰国とその後

1918年 5月 7日、インドから日本へと帰国する二日前に、荒井寛方はノンドラノレ・ボシ

ュより夕食に招かれ、 2枚の絵を記念に贈呈される。その翌日、ラピンドロナートは日本人

画家にベンガル語の能書直筆による詩を託した。現在シャンチニケタンの 日本学院中庭に置

かれた石碑に刻まれている詩句である。

親愛なる友よ、

ある日:汝は、来賓として我が室にやって来た。

今日、出発に際して、我が魂の内へとやって来る。

ベンガル暦 1325年ボイジャック月 25日(西暦 1918年 5月 8日)

「インド日誌Jの最後に寛方はこう綴っていた。「渡航以来葱にー有半歳を送る。其間苦

楽交々至り再するなき宝を得たる、是れ信なる仏の導き給ふ難有かりける事なりきJ(一年

有半におよぶ我が印度滞在は歓喜と苦難とに満たされており、二度と繰り返し得ぬ経験であ

る。仏陀の加護のお陰で、印度での生活を享受できた。この経験は我にとって比類なき宝物

である)(1918年 5月 11日)と。

とのインド滞在が寛方のその後の創作に深い刻印を刻んだ事は、疑いもない。それを 5点

に要約しよう。まずこれ以降の仏画の図像にアジヤンター壁画模写の経験が生かされている

ことは、明白である。《釈迦出山))(1918)に典型的にみられるとおり、寛方がノンドラノレら

50 Yashiro Yukio 1972, p. 50. 51 野中退蔵による「イ云記J参照。 Nonaka1974, pp. 16-17,33. 52 我妻和男による日本語訳を稲賀が英訳したものから、再度日本語に訳した。タゴーノレ直筆の筆跡は

Nonaka 1974, p. 105;その色彩図版は Arai1998, p. 30, pl. 18. 53 Nonaka 1974, pp. 60-101, 105.

180

稲賀繁美

荒井寛方が制作した 2枚の模写は、瀧精ーによって、東京帝国大学文学部美術史教室に、

派遣事業による戦利品よろしく後生大事に格納された。矢代幸雄は、瀧の独占欲にきわめて

批判的な人物だったが、その矢代の証言によれば、寛方の模写からさらにその複製を複数作

って主要な博物館に収める案もあったものの、この提案は瀧の容れるところとはならなかっ

たとしづ。だがこの独り占めが裏目にでて、寛方ら入魂の模写一式は、 1923年の関東大震災

による火災で灰燈に帰す。偶然の悪戯といえばそれまでだが、アジャンターの模写はなぜか

同じような運命に魅入られていた。メイジャー・ロパート・ギル(18057-1879)による最初の

模写は 1858年のロンドンの水晶宮の火災で失われ、ジョン・グリフィッチ(1872-1885に滞

印)によるふたつ目の模写も 1885年 7月 13日のサウス・ケンジントン博物館の火災で喪失

している。ノンドラル・ボシュにとっても遺憾なことに、法隆寺金堂壁画もまた、寛方が亡

くなって 4年後の 1949年 1月 26日には、ほかならぬ模写担当者の電気座布団の漏電に起因

する火災によって、復元不可能な損傷を被っている。

6.寛方の日本帰国とその後

1918年 5月 7日、インドから日本へと帰国する二日前に、荒井寛方はノンドラノレ・ボシ

ュより夕食に招かれ、 2枚の絵を記念に贈呈される。その翌日、ラピンドロナートは日本人

画家にベンガル語の能書直筆による詩を託した。現在シャンチニケタンの 日本学院中庭に置

かれた石碑に刻まれている詩句である。

親愛なる友よ、

ある日:汝は、来賓として我が室にやって来た。

今日、出発に際して、我が魂の内へとやって来る。

ベンガル暦 1325年ボイジャック月 25日(西暦 1918年 5月 8日)

「インド日誌Jの最後に寛方はこう綴っていた。「渡航以来葱にー有半歳を送る。其間苦

楽交々至り再するなき宝を得たる、是れ信なる仏の導き給ふ難有かりける事なりきJ(一年

有半におよぶ我が印度滞在は歓喜と苦難とに満たされており、二度と繰り返し得ぬ経験であ

る。仏陀の加護のお陰で、印度での生活を享受できた。この経験は我にとって比類なき宝物

である)(1918年 5月 11日)と。

とのインド滞在が寛方のその後の創作に深い刻印を刻んだ事は、疑いもない。それを 5点

に要約しよう。まずこれ以降の仏画の図像にアジヤンター壁画模写の経験が生かされている

ことは、明白である。《釈迦出山))(1918)に典型的にみられるとおり、寛方がノンドラノレら

50 Yashiro Yukio 1972, p. 50. 51 野中退蔵による「イ云記J参照。 Nonaka1974, pp. 16-17,33. 52 我妻和男による日本語訳を稲賀が英訳したものから、再度日本語に訳した。タゴーノレ直筆の筆跡は

Nonaka 1974, p. 105;その色彩図版は Arai1998, p. 30, pl. 18. 53 Nonaka 1974, pp. 60-101, 105.

180

市美術史教室に

l 占欲にきわめて

の複製を複数作

t とはならなかっ

年の関東大震災

の模写はなぜか

9) による最初の

(1872-1885 に;帯

館の火災で喪失

また、寛方が亡

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ンドラノレ・ボシ

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を送る。其間苦

Zなりき J (一年

し得ぬ経験であ

て比類なき宝物

い。それを 5 点

生かされている

がノンドラノレら

ール直筆の筆跡は

タゴール、ノンドラノレ・ボ、シュと荒井寛方

の教えをうけて素描していた熱帯の植生が背景を覆い、それに固まれた仏たちが、アジヤン

ター壁画に見られたままの特有の所作を取り、印を結ぶ。《摩耶夫人の肖像)) (1918) は、夫

人の持物であるアショカの花に飾られているが、これにノンドラノレから寛方が得た知識が生

かされていることは、先に触れたとおりである。

ふたつ目に、寛方の用いる色彩はインド滞在で劇的な変貌を遂げている。とりわけピハー

ノレ州ランチー滞在での夕刻の光景が、寛方に強い印象を残したようだ。その地の風景に用い

られた、青、緑、燈の大胆な組み合わせが、仏教図像のうえにも採用され、日本では前例を

みないような色彩に富んだ仏たちが登場した。なかでも顕著な効果をあげているのが《孔雀

明王)) (1926) だろう。正面向きの孔雀の背中に載った明王の姿は、当時原富太郎が所蔵して

いた歴史的名品の図像をそのまま忠実に受け継いでいる。原の庇護によりインド滞在が実現

できた、という背景がそこには示唆されているだろう。 1949 年の独立により孔雀はインドの

国鳥となるが、そのこともまたこの図像に、インドと日本との交流に尽くした寛方の生涯を

寓意する紋章ともいえる役割を授けることだろう。

さらに第 3 として抽象的象徴をともなった大作に注目したい。荒井寛方は《摩耶夫人の

霊夢)) (1 920) から《光輪)) (1 921) さらには《浬繋)) (1 922) などの院展出品作において、仏

陀の生涯の物語をインドの図像と結ひ、つけて実現した。前 2 点は六曲の扉風であり、《浬繋》

は掛け軸仕立てだが、それらにはいずれも巨大な光輪が精神の輝きを発している。同時代の

日本での批評を見ると、それらの記念碑的な寸法の装飾画を、仏教絵画の刷新の成果として

高く評価する論評がある一方、インドの教訓を模倣することに隷従して、そこから脱するこ

とができない画家の限界を指摘する批判的言辞もみられる。

さらに第 4 に注目すべきは、寛方がレパートリーを拡げて、中国仏教史をも視野に収める

方向へと発展してゆくことだ。その例としては、玄英三蔵 (ca. 622-664) と唐の太宗 (599-649

在位)との出会いを描いた《三蔵法師)) (1927) などに指を屈することができるだろう。その

延長上の出来事として、最後に 5 点目に見落とせないのは、荒井寛方のラピンドロナート・

タクルこと詩人タゴールへの強い尊崇の念が、独自の図像を生み出したことだろう。日本の

画家はインドの詩人を東洋の賢者へと理想化してゆく。し 1 くつかの作品では、もはやタゴー

ルと老荘あるいは儒者の聖人とを区別することすら困難になる。あるときにはインドの詩聖

は琳派風の金地のうえに、禅風味漂わす山水画特有の、水墨の筆跡、も鮮やかな筆裁きで描か

れる。無地の金箔地は、繰り返すまでもなく、タゴールが高く賞賛した下村観山の《弱法師》

の背景を想起させる舞台装置だ、った。

荒井寛方のこうした「東洋の賢者」像からは、タゴール自身の思索の軌跡を寛方がどのよ

うに理解しようとしていたかを探ることもできるだろう。 1929 年の東京・朝日会館講堂での

講演でタゴールは「有閑哲学」を説いたが、その折には、独特の素描画と一体になった手書

き原稿の一部を寛方に手向けている。この講演にタゴールの道教理解の一班をみることも可

54 C王 Yashiro 1958, pp. 91-98. 55 これらの展覧会評の抜粋は NipponBijutsuin 1994, vol. 4, pp. 841-843.

181

タゴール、ノンドラノレ・ボ、シュと荒井寛方

の教えをうけて素描していた熱帯の植生が背景を覆い、それに固まれた仏たちが、アジヤン

ター壁画に見られたままの特有の所作を取り、印を結ぶ。《摩耶夫人の肖像))(1918)は、夫

人の持物であるアショカの花に飾られているが、これにノンドラノレから寛方が得た知識が生

かされていることは、先に触れたとおりである。

ふたつ目に、寛方の用いる色彩はインド滞在で劇的な変貌を遂げている。とりわけピハー

ノレ州ランチー滞在での夕刻の光景が、寛方に強い印象を残したようだ。その地の風景に用い

られた、青、緑、燈の大胆な組み合わせが、仏教図像のうえにも採用され、日本では前例を

みないような色彩に富んだ仏たちが登場した。なかでも顕著な効果をあげているのが《孔雀

明王))(1926)だろう。正面向きの孔雀の背中に載った明王の姿は、当時原富太郎が所蔵して

いた歴史的名品の図像をそのまま忠実に受け継いでいる。原の庇護によりインド滞在が実現

できた、という背景がそこには示唆されているだろう。1949年の独立により孔雀はインドの

国鳥となるが、そのこともまたこの図像に、インドと日本との交流に尽くした寛方の生涯を

寓意する紋章ともいえる役割を授けることだろう。

さらに第 3として抽象的象徴をともなった大作に注目したい。荒井寛方は《摩耶夫人の

霊夢)) (1920)から《光輪))(1921)さらには《浬繋))(1922)などの院展出品作において、仏

陀の生涯の物語をインドの図像と結びつけて実現した。前 2点は六曲の扉風であり、《浬繋》

は掛け軸仕立てた、が、それらにはいずれも巨大な光輪が精神の輝きを発している。同時代の

日本での批評を見ると、それらの記念碑的な寸法の装飾画を、仏教絵画の刷新の成果として

高く評価する論評がある一方、インドの教訓を模倣することに隷従して、そこから脱するこ

とができない画家の限界を指摘する批判的言辞もみられる。

さらに第 4に注目すべきは、寛方がレパートリーを拡げて、中国仏教史をも視野に収める

方向へと発展してゆくことだ。その例としては、玄奨三蔵 (ca.622-664)と唐の太宗 (599-649

在位)との出会いを描いた《三蔵法師))(1927)などに指を屈することができるだろう。その

延長上の出来事として、最後に 5点目に見落とせないのは、荒井寛方のラピンドロナート ・

タクルこと詩人タゴールへの強い尊崇の念が、独自の図像を生み出したことだろう。 日本の

画家はインドの詩人を東洋の賢者へと理想化してゆく 。いくつかの作品では、もはやタゴー

ルと老荘あるいは儒者の聖人とを区別することすら困難になる。あるときにはインドの詩聖

は琳派風の金地のうえに、禅風味漂わす山水画特有の、水墨の筆跡も鮮やかな筆裁きで描か

れる。無地の金箔地は、繰り返すまでもなく、タゴールが高く賞賛した下村観山の《弱法師》

の背景を想起させる舞台装置だ、った。

荒井寛方のこうした「東洋の賢者」像からは、タゴール自身の思索の軌跡を寛方がどのよ

うに理解しようとしていたかを探ることもできるだろう。1929年の東京・朝日会館講堂での

講演でタゴールは「有閑哲学」を説いたが、その折には、独特の素描画と一体になった手書

き原稿の一部を寛方に手向けている。この講演にタゴーノレの道教理解の一斑をみることも可

54 Cf. Yashiro 1958, pp. 91-98. 55 これらの展覧会評の抜粋はNipponBijutsuin 1994, vol. 4, pp. 841-843.

181

タゴール、ノンドラノレ・ボ、シュと荒井寛方

の教えをうけて素描していた熱帯の植生が背景を覆い、それに固まれた仏たちが、アジヤン

ター壁画に見られたままの特有の所作を取り、印を結ぶ。《摩耶夫人の肖像))(1918)は、夫

人の持物であるアショカの花に飾られているが、これにノンドラノレから寛方が得た知識が生

かされていることは、先に触れたとおりである。

ふたつ目に、寛方の用いる色彩はインド滞在で劇的な変貌を遂げている。とりわけピハー

ノレ州ランチー滞在での夕刻の光景が、寛方に強い印象を残したようだ。その地の風景に用い

られた、青、緑、燈の大胆な組み合わせが、仏教図像のうえにも採用され、日本では前例を

みないような色彩に富んだ仏たちが登場した。なかでも顕著な効果をあげているのが《孔雀

明王))(1926)だろう。正面向きの孔雀の背中に載った明王の姿は、当時原富太郎が所蔵して

いた歴史的名品の図像をそのまま忠実に受け継いでいる。原の庇護によりインド滞在が実現

できた、という背景がそこには示唆されているだろう。1949年の独立により孔雀はインドの

国鳥となるが、そのこともまたこの図像に、インドと日本との交流に尽くした寛方の生涯を

寓意する紋章ともいえる役割を授けることだろう。

さらに第 3として抽象的象徴をともなった大作に注目したい。荒井寛方は《摩耶夫人の

霊夢)) (1920)から《光輪))(1921)さらには《浬繋))(1922)などの院展出品作において、仏

陀の生涯の物語をインドの図像と結びつけて実現した。前 2点は六曲の扉風であり、《浬繋》

は掛け軸仕立てた、が、それらにはいずれも巨大な光輪が精神の輝きを発している。同時代の

日本での批評を見ると、それらの記念碑的な寸法の装飾画を、仏教絵画の刷新の成果として

高く評価する論評がある一方、インドの教訓を模倣することに隷従して、そこから脱するこ

とができない画家の限界を指摘する批判的言辞もみられる。

さらに第 4に注目すべきは、寛方がレパートリーを拡げて、中国仏教史をも視野に収める

方向へと発展してゆくことだ。その例としては、玄奨三蔵 (ca.622-664)と唐の太宗 (599-649

在位)との出会いを描いた《三蔵法師))(1927)などに指を屈することができるだろう。その

延長上の出来事として、最後に 5点目に見落とせないのは、荒井寛方のラピンドロナート ・

タクルこと詩人タゴールへの強い尊崇の念が、独自の図像を生み出したことだろう。 日本の

画家はインドの詩人を東洋の賢者へと理想化してゆく 。いくつかの作品では、もはやタゴー

ルと老荘あるいは儒者の聖人とを区別することすら困難になる。あるときにはインドの詩聖

は琳派風の金地のうえに、禅風味漂わす山水画特有の、水墨の筆跡も鮮やかな筆裁きで描か

れる。無地の金箔地は、繰り返すまでもなく、タゴールが高く賞賛した下村観山の《弱法師》

の背景を想起させる舞台装置だ、った。

荒井寛方のこうした「東洋の賢者」像からは、タゴール自身の思索の軌跡を寛方がどのよ

うに理解しようとしていたかを探ることもできるだろう。1929年の東京・朝日会館講堂での

講演でタゴールは「有閑哲学」を説いたが、その折には、独特の素描画と一体になった手書

き原稿の一部を寛方に手向けている。この講演にタゴーノレの道教理解の一斑をみることも可

54 Cf. Yashiro 1958, pp. 91-98. 55 これらの展覧会評の抜粋はNipponBijutsuin 1994, vol. 4, pp. 841-843.

181

Fig. 18 ~1lJ*. ((:fL~I~JEE{~J~P~~ 19 "tl!:ff.c ~~OOft1W~~

Yokoyama Taikan, a copy of Kujaku My66, 19th

century, Tokyo National Museum.

Fig.19 m#JtjJ ((:rL~~JEE» 1926 tJ: C$xJ!l[ W -1 / F ~ m#JtjJ ~ p. 59.)

Arai Kanp5, Kujaku My66, c. 1926 (From Indo to Arai

Kanp6, p. 59).

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182

稲賀繁美

Fig.18 横山大観《孔雀明王像模写~ 19世紀

東京国立博物館

Yokoyama Taikan, a copy of Kujaku Myδδ,19th

century, Tokyo National Museurn.

Fig.19 荒井寛方《孔雀明王))1926頃(幸文庫『イ ン

ドと荒井寛方~ p. 59.)

Arai Kanpδ, Kuja伯尚IOO,c. 1926 (From lndo to Arai

Kanpδ,p.59).

能だが、それ以上にタゴール自身が東洋哲学を自ら綜合しようと意図していた、と考えても、

的外れとはいえまい。

7.大東亜共栄圏構想と寓意表現

さらに 10年を経た日華事変下の世相にあって、荒井寛方自らも、自身の宗教哲学を綜合

しようと目指した節が窺われる。顕著な事例としては、日本の神道の女性の神格のひとり、

コノハナサクヤヒメを描いた《天地和平))(1938)を揚げることも許されよう。仏画を専門に

していた画家が『古事記』神話に突如接近したとなれば、そこに世相との妥協や時局便乗の

嫌疑を差し挟む筋もありえよう。だが以上の経緯を踏まえるならば、むしろコノハナサクヤ

ヒメという女性形象のうちに、オボ、ニンドロナトの《母なるインド》の日本版を見る可能性

を否定するわけにはゆかないだろう。さらにそこには観音菩薩が垂迩したにも等しい混請の

跡も認めるべきだろう。実際、翌 1939年の第 26回再興日本美術院展には《観音摩利耶》が

出品される。2曲のディプティック体裁で、一方には観音、他方にはキリスト教の聖母子が

描かれた特異な組み合わせである。特異といったが、実際にはインドにおいてはこうした取

り合わせもヒンドワ教では珍しくない。この対作品に見るべきは、東西の宗教観の共存への

182

稲賀繁美

Fig.18 横山大観《孔雀明王像模写~ 19世紀

東京国立博物館

Yokoyama Taikan, a copy of Kujaku Myδδ,19th

century, Tokyo National Museurn.

Fig.19 荒井寛方《孔雀明王))1926頃(幸文庫『イ ン

ドと荒井寛方~ p. 59.)

Arai Kanpδ, Kuja伯尚IOO,c. 1926 (From lndo to Arai

Kanpδ,p.59).

能だが、それ以上にタゴール自身が東洋哲学を自ら綜合しようと意図していた、と考えても、

的外れとはいえまい。

7.大東亜共栄圏構想と寓意表現

さらに 10年を経た日華事変下の世相にあって、荒井寛方自らも、自身の宗教哲学を綜合

しようと目指した節が窺われる。顕著な事例としては、日本の神道の女性の神格のひとり、

コノハナサクヤヒメを描いた《天地和平))(1938)を揚げることも許されよう。仏画を専門に

していた画家が『古事記』神話に突如接近したとなれば、そこに世相との妥協や時局便乗の

嫌疑を差し挟む筋もありえよう。だが以上の経緯を踏まえるならば、むしろコノハナサクヤ

ヒメという女性形象のうちに、オボ、ニンドロナトの《母なるインド》の日本版を見る可能性

を否定するわけにはゆかないだろう。さらにそこには観音菩薩が垂迩したにも等しい混請の

跡も認めるべきだろう。実際、翌 1939年の第 26回再興日本美術院展には《観音摩利耶》が

出品される。2曲のディプティック体裁で、一方には観音、他方にはキリスト教の聖母子が

描かれた特異な組み合わせである。特異といったが、実際にはインドにおいてはこうした取

り合わせもヒンドワ教では珍しくない。この対作品に見るべきは、東西の宗教観の共存への

182

Fig. 20 5fE # Jt JJ « ~ fU ::R :R.)) 1922,

t»J*~ft~*~ Arai Kanpo, Marici, 1922, Tochigi

Prefectural Museum of Fine Arts.

Fig.21 5fE#JtJJ ((~flj~:R.)) 1941, *jj:~~ffl~

~~ Arai Kanpo, Marici, 1941, Kosan-ji Museum.

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183

開!""'"""

Fig.20 荒井寛方《摩利支天))1922、

栃木県立美術館

Arai Kanpδ, Marici, 1922, Tochigi

Prefectural Museum ofFine Arts.

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

Fig.21 荒井寛方《摩利支天))1941、耕三寺博物

館蔵

Arai Kanpo, Marici, 1941, Kosan-ji Museum.

訴えだけではない。欧州大戦勃発の危機の下、さらに踏み込んで、物質的衝突の危機を精神

的な融合と和解によって昇華しようと願った画家の祈りをも、聞き取ってしかるべきだろう。

ここにみえる宗教的折衷と混請とは、東洋的な価値観による西洋世界の我有化の欲望という

にとどまらず、戦時下の愛国主義鼓吹の風潮のなかで、公認の規範コードの許容臨界を慎重

に探りつつ、可能な妥協点を見いだそうとする営みだ、ったとも言えるだろう。もとより寛方

にとって、タゴールか日本かという二者択一の選択肢は耐え難い。両者の和解が成立する地

点を図像に託して描く一一そこに、当時の荒井寛方の賭けもあったように思われる。

1940年代に入ると摩利支天が頻繁に描かれることとなるが、そこに込められた意味は何

だ、ったのか。インドの民衆的な信仰から生まれたこの女性の神格はまた、至高の女神として

の太陽の象徴でもある。この観点からすれば、摩利支天は、東亜新秩序の構築を使命とする

旭日の帝国の、神聖なる威光を託された暗喰とみることも不可能ではない。天照大神に本地

としての摩利支天が垂迩した姿をみるか、それとも逆に本地としての神州の天照大神がイン

ドに垂迩して摩利支天となったとみるかは、解釈次第だろう。いずれにせよそうした類縁関

係を信ずるならば、そこにインドと日本との精神的な一体性の夢を託す宗教的象徴を見るこ

とは、容易い技となる。さらに摩利支天が武人たちの守護神として信仰されていた、という

事実を踏まえるならば、それが戦時下の主題として、日本臣民たる画家にとってこのうえな

く相応しい画題だ、ったことも、明白である。八紘一宇の理念が「大東亜共栄圏Jとして近衛

内閣によって明言されるのは 1941年秋のことだが、同年の《摩利支天》が、そうした時局

の要請を満たす模範解答であったことは否定しがたい。

183

開!""'"""

Fig.20 荒井寛方《摩利支天))1922、

栃木県立美術館

Arai Kanpδ, Marici, 1922, Tochigi

Prefectural Museum ofFine Arts.

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

Fig.21 荒井寛方《摩利支天))1941、耕三寺博物

館蔵

Arai Kanpo, Marici, 1941, Kosan-ji Museum.

訴えだけではない。欧州大戦勃発の危機の下、さらに踏み込んで、物質的衝突の危機を精神

的な融合と和解によって昇華しようと願った画家の祈りをも、聞き取ってしかるべきだろう。

ここにみえる宗教的折衷と混請とは、東洋的な価値観による西洋世界の我有化の欲望という

にとどまらず、戦時下の愛国主義鼓吹の風潮のなかで、公認の規範コードの許容臨界を慎重

に探りつつ、可能な妥協点を見いだそうとする営みだ、ったとも言えるだろう。もとより寛方

にとって、タゴールか日本かという二者択一の選択肢は耐え難い。両者の和解が成立する地

点を図像に託して描く一一そこに、当時の荒井寛方の賭けもあったように思われる。

1940年代に入ると摩利支天が頻繁に描かれることとなるが、そこに込められた意味は何

だ、ったのか。インドの民衆的な信仰から生まれたこの女性の神格はまた、至高の女神として

の太陽の象徴でもある。この観点からすれば、摩利支天は、東亜新秩序の構築を使命とする

旭日の帝国の、神聖なる威光を託された暗喰とみることも不可能ではない。天照大神に本地

としての摩利支天が垂迩した姿をみるか、それとも逆に本地としての神州の天照大神がイン

ドに垂迩して摩利支天となったとみるかは、解釈次第だろう。いずれにせよそうした類縁関

係を信ずるならば、そこにインドと日本との精神的な一体性の夢を託す宗教的象徴を見るこ

とは、容易い技となる。さらに摩利支天が武人たちの守護神として信仰されていた、という

事実を踏まえるならば、それが戦時下の主題として、日本臣民たる画家にとってこのうえな

く相応しい画題だ、ったことも、明白である。八紘一宇の理念が「大東亜共栄圏Jとして近衛

内閣によって明言されるのは 1941年秋のことだが、同年の《摩利支天》が、そうした時局

の要請を満たす模範解答であったことは否定しがたい。

183

稲賀繁美

Fig.22 ノンドラノレ・ボシュ《アンナ

フ。ルナ} 1943、ニューデリー国立近代

美術館

Nandalal Bose, Annapurna 1943.

Fig.23 ノンドラル・ボシュ《燃え上

がる松の木} 1944

Nandalal Bose, Burning Pine Tree, 1944.

(Awakening 1985: 12J

56 Quintanella 2008, p. 138.

184

コノハナサクヤヒメは、名前の通り花の精だが、ま

た同時に富士山の擬人化ともされてきた。この観点から

みれば、横山大観が皇紀 2600 年を記念して描いた富岳

図たる《日輪)) (1 939) が、国家総動員体制下の公式イデ

オロギーを託された寓意図像として、寛方の《天地和平》

と平灰を合わせた役割を担うに至った様も見えてくる。

かつてはタゴールが高く評価した《弱法師》の日輪が、

ここでははっきりと、東直を指導する旭日の帝国の化身

へと変貌を遂げていた。大観の日輪といい、寛方の摩利

支天といい、ひとり日本国内でしか通用しない象徴では

ない。海外への武力行使を辞さない東亜新秩序建設の大

業を、インドにおいても正当化される図像に託して描こ

うとする射程が、そこに込められていたこともまた、見

落としてはなるまい。 実際、戦時下での寓意画表現は、

国家主義的な世相が世界を覆うにつれて、日本だけでは

なく、枢軸国側、連合国側を含めて、世界各地で雁行す

るように追求されていった。インドもまた例外ではない。

大東亜共栄圏の図像は、国際比較のなかで改めて吟味せ

ねばならない。この課題を完遂するためには場所を改め

ねばなるまいが、さしあたり本稿では、ノンドラル・ボ

シュの同時期の作品が問題となる。

ノンドラル ・ ボシュには《アンナフ。ルナ)) (1 943) とい

う特異な図像が知られる。女神アンナフ。ルナは肥沃と滋

養の象徴であり、ガンジス河の源流となるヒマラヤの霊

峰もその名を戴いている。 日本の富巌とコノハナサクヤ

ヒメに対応する神格といっても語弊はない。その脇には

苦行で骨と皮だけの姿となったシヴァ神が踊っている。

このやせ衰えて憤怒の形相のシヴァ神は、 1943 年に東

インドを襲った壊滅的な飢僅の寓意的表現であり、この

飢僅は、日本との軍事衝突に直面した連合軍側の要請で

イギリス当局が強制した穀物調達・備蓄によって引きお

こされた、人為的災害だ、ったことが、今日では通説とな

っていざ。すなわち《アンナプルナ》は、英国によるインド支配への抗議を込めた、インドの国民意識覚醒の映

像に他ならなかった。同時期の日本では日輪が頻繁に描

かれたのに」

においてはミ

空が、熱暑ト

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っており、度

陽」の出現を,

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頭観音》が知

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う確証はない。

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の炎と化した姿

洋の覚醒』のな

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稲賀繁美

Fig.22 ノンドラル ・ボシュ 《アンナ

フ。ルナ}1943、ニューデリー国立近代

美術館

Nandalal Bose, Annapurna 1943.

Fig.23 ノンドラノレ・ボシュ《燃え上

がる松の木}1944

Nandalal Bose, Burning Pine Tree, 1944.

(Awakening 1985: 12J

56 Quintanella 2008, p. 138.

184

コノハナサクヤヒメは、名前の通り花の精だが、ま

た同時に富士山の擬人化ともされてきた。この観点から

みれば、横山大観が皇紀 2600年を記念して描いた富岳

図たる《日輪))(1939)が、国家総動員体制下の公式イデ

オロギーを託された寓意図像として、寛方の《天地和平》

と平灰を合わせた役割を担うに至った様も見えてくる。

かつてはタゴーノレが高く評価した《弱法師》の日輸が、

ここでははっきりと、東亜を指導する旭日の帝国の化身

へと変貌を遂げていた。大観の日輪といい、寛方の摩利

支天といい、ひとり日本国内でしか通用しない象徴では

ない。海外への武力行使を辞さない東亜新秩序建設の大

業を、インドにおいても正当化される図像に託して描こ

うとする射程が、そこに込められていたこともまた、見

落としてはなるまい。実際、戦時下での寓意画表現は、

国家主義的な世相が世界を覆うにつれて、日本だけでは

なく、枢軸国側、連合国側を含めて、世界各地で雁行す

るように追求されていった。インドもまた例外ではない。

大東亜共栄圏の図像は、国際比較のなかで改めて吟味せ

ねばならない。この課題を完遂するためには場所を改め

ねばなるまいが、さしあたり本稿では、ノンドラル・ボ

シュの同時期の作品が問題となる。

ノンドラル ・ボ、シュには《アンナフ。ルナ))(1943)とい

う特異な図像が知られる。女神アンナフ。ルナは肥沃と滋

養の象徴であり、ガンジス河の源流となるヒマラヤの霊

峰もその名を戴いている。日本の富巌とコノハナサクヤ

ヒメに対応する神格といっても語弊はない。その脇には

苦行で骨と皮だけの姿となったシヴァ神が踊っている。

このやせ衰えて憤怒の形相のシヴァ神は、 1943年に東

インドを襲った壊滅的な飢僅の寓意的表現であり、この

飢僅は、日本との軍事衝突に直面した連合軍側の要請で

イギリス当局が強制した穀物調達・備蓄によって引きお

こされた、人為的災害だ、ったことが、今日では通説とな

っていよすなわち《アンナフ。ルナ))は、英国によるイ

ンド支配への抗議を込めた、インドの国民意識覚醒の映

像に他ならなかった。同時期の日本では日輪が頻繁に描

一-圃圃圃

稲賀繁美

Fig.22 ノンドラル ・ボシュ 《アンナ

フ。ルナ}1943、ニューデリー国立近代

美術館

Nandalal Bose, Annapurna 1943.

Fig.23 ノンドラノレ・ボシュ《燃え上

がる松の木}1944

Nandalal Bose, Burning Pine Tree, 1944.

(Awakening 1985: 12J

56 Quintanella 2008, p. 138.

184

コノハナサクヤヒメは、名前の通り花の精だが、ま

た同時に富士山の擬人化ともされてきた。この観点から

みれば、横山大観が皇紀 2600年を記念して描いた富岳

図たる《日輪))(1939)が、国家総動員体制下の公式イデ

オロギーを託された寓意図像として、寛方の《天地和平》

と平灰を合わせた役割を担うに至った様も見えてくる。

かつてはタゴーノレが高く評価した《弱法師》の日輸が、

ここでははっきりと、東亜を指導する旭日の帝国の化身

へと変貌を遂げていた。大観の日輪といい、寛方の摩利

支天といい、ひとり日本国内でしか通用しない象徴では

ない。海外への武力行使を辞さない東亜新秩序建設の大

業を、インドにおいても正当化される図像に託して描こ

うとする射程が、そこに込められていたこともまた、見

落としてはなるまい。実際、戦時下での寓意画表現は、

国家主義的な世相が世界を覆うにつれて、日本だけでは

なく、枢軸国側、連合国側を含めて、世界各地で雁行す

るように追求されていった。インドもまた例外ではない。

大東亜共栄圏の図像は、国際比較のなかで改めて吟味せ

ねばならない。この課題を完遂するためには場所を改め

ねばなるまいが、さしあたり本稿では、ノンドラル・ボ

シュの同時期の作品が問題となる。

ノンドラル ・ボ、シュには《アンナフ。ルナ))(1943)とい

う特異な図像が知られる。女神アンナフ。ルナは肥沃と滋

養の象徴であり、ガンジス河の源流となるヒマラヤの霊

峰もその名を戴いている。日本の富巌とコノハナサクヤ

ヒメに対応する神格といっても語弊はない。その脇には

苦行で骨と皮だけの姿となったシヴァ神が踊っている。

このやせ衰えて憤怒の形相のシヴァ神は、 1943年に東

インドを襲った壊滅的な飢僅の寓意的表現であり、この

飢僅は、日本との軍事衝突に直面した連合軍側の要請で

イギリス当局が強制した穀物調達・備蓄によって引きお

こされた、人為的災害だ、ったことが、今日では通説とな

っていよすなわち《アンナフ。ルナ))は、英国によるイ

ンド支配への抗議を込めた、インドの国民意識覚醒の映

像に他ならなかった。同時期の日本では日輪が頻繁に描

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185

タゴール、ノンド、ラノレ・ボ、シュと荒井寛方

かれたのに対して、《アンナフ。ルナ))

においては三日月の浮かぶ漆黒の天

空が、熱暑に灼かれ、朱や代緒に染

まる天地の奥で、黒色円形の穴を穿

っており、あたかも不吉な「黒い太

陽Jの出現を思わせる。なお寛方には、

日米開戦の年 1942年に描かれた《龍

頭観音》が知られ、龍を従えた観音

の姿は、シヴァ神を従えたかのよう

な、ボシュのアンナフ。ルナ像と好一

対をなす。

Fig.24 横山ゴ胡(仮龍の鴎 l郎、イザンくラ・ガード十す謝諸臓

Yokoyama Taikan, Two Dragons, 1904, Isabella S. Gardner

Museum.

さて、この《アンナフ。ルナ》制作

の前年、 1942年にボシュは《燃え上がる松の木》という

不思議な光景を描いている。樹木の幹から自然発火した

光景らしく、実際にボシュが目にしたものとの証言があ

る。だがそこにし 1かなる意味が含まれているか、それ以

上に読み解く試みはなされていない。しかしノンドラル・

ボ、シュを始めとするベンガル派の画家たちと日本美術院

の画家たちとの交流のなかで、松の巨木が担った意味を

考えると、横山大観の《双龍の図))(1905)を思い出さぬ

わけにはゆくまい。イサベラ・ステュワート・ガードナ

ーに献げられた作品ほかが知られるが、そこでは、薄明

の太陽を背景として、双の龍がひとつの玉をめぐって争

奪戦を演じている。龍といったが、あきらかに松の枝が

徐々に龍に変身を遂げる過程であり、従来の伝統的な松Fig.25 下村観山 《不動尊))1925、大

林図などとはまったく異質な、見方によっては稚拙なま ち

倉文化財団蔵

でに直裁な寓意画である。 日露戦争開戦下の時代状況を Shimomura Kanzan. Fud,δ1925. Okura

踏まえて、東西文明が覇を競う有様を託したものといい、 Cl曲 rralFoundation.

大観らのインド滞在の直後、北米巡回の旅程で披露され

た新趣向と推定される。現時点ではこうした構想がノンドラル・ボ、シュに知られていたとい

う確証はない。とはいえ、東西文明の閲ぎ合いとは、植民地下のインドが直面していた現実

であり、それは 1942年 12月には、日本が米英中蘭に宣戦を布告することにより、決定的局

面を迎える。それを踏まえて、龍に戻るなら、龍はしばしば不動明王の剣に巻き付き、紅蓮

の炎と化した姿で描かれる。岡倉はインド滞在中に執筆した「我らはひとつJすなわち後の『東

洋の覚醒』のなかで、不動をカーリ一女神と同格に扱い、その不動の貧Ijの霊力を言祝いでい

た。とすれば、ボッシュにとっても、松から立ちのぼる火焔が不動明王の剣に結び、っき、そ

185

タゴール、ノンド、ラノレ・ボ、シュと荒井寛方

かれたのに対して、《アンナフ。ルナ))

においては三日月の浮かぶ漆黒の天

空が、熱暑に灼かれ、朱や代緒に染

まる天地の奥で、黒色円形の穴を穿

っており、あたかも不吉な「黒い太

陽Jの出現を思わせる。なお寛方には、

日米開戦の年 1942年に描かれた《龍

頭観音》が知られ、龍を従えた観音

の姿は、シヴァ神を従えたかのよう

な、ボシュのアンナフ。ルナ像と好一

対をなす。

Fig.24 横山ゴ胡(仮龍の鴎 l郎、イザンくラ・ガード十す謝諸臓

Yokoyama Taikan, Two Dragons, 1904, Isabella S. Gardner

Museum.

さて、この《アンナフ。ルナ》制作

の前年、 1942年にボシュは《燃え上がる松の木》という

不思議な光景を描いている。樹木の幹から自然発火した

光景らしく、実際にボシュが目にしたものとの証言があ

る。だがそこにし 1かなる意味が含まれているか、それ以

上に読み解く試みはなされていない。しかしノンドラル・

ボ、シュを始めとするベンガル派の画家たちと日本美術院

の画家たちとの交流のなかで、松の巨木が担った意味を

考えると、横山大観の《双龍の図))(1905)を思い出さぬ

わけにはゆくまい。イサベラ・ステュワート・ガードナ

ーに献げられた作品ほかが知られるが、そこでは、薄明

の太陽を背景として、双の龍がひとつの玉をめぐって争

奪戦を演じている。龍といったが、あきらかに松の枝が

徐々に龍に変身を遂げる過程であり、従来の伝統的な松Fig.25 下村観山 《不動尊))1925、大

林図などとはまったく異質な、見方によっては稚拙なま ち

倉文化財団蔵

でに直裁な寓意画である。 日露戦争開戦下の時代状況を Shimomura Kanzan. Fud,δ1925. Okura

踏まえて、東西文明が覇を競う有様を託したものといい、 Cl曲 rralFoundation.

大観らのインド滞在の直後、北米巡回の旅程で披露され

た新趣向と推定される。現時点ではこうした構想がノンドラル・ボ、シュに知られていたとい

う確証はない。とはいえ、東西文明の閲ぎ合いとは、植民地下のインドが直面していた現実

であり、それは 1942年 12月には、日本が米英中蘭に宣戦を布告することにより、決定的局

面を迎える。それを踏まえて、龍に戻るなら、龍はしばしば不動明王の剣に巻き付き、紅蓮

の炎と化した姿で描かれる。岡倉はインド滞在中に執筆した「我らはひとつJすなわち後の『東

洋の覚醒』のなかで、不動をカーリ一女神と同格に扱い、その不動の貧Ijの霊力を言祝いでい

た。とすれば、ボッシュにとっても、松から立ちのぼる火焔が不動明王の剣に結び、っき、そ

185

稲賀繁美

Fig.26 張大千《煙雲暁霜)) 1969、個人蔵

Zhang Daqian,>'ànyun xiaoling, 1969. Private collection, Taipei.

の火焔が龍へと変身を遂げるという想像

力は、けっして疎遠なものではなかった

ことになる。

こうした補助線を引いた上で《燃え上

がる松の木》に立ち返ってみれば、焔か

ら立ちのぼる煙が龍へと変貌を遂げる途

上の形象だ、ったとしても、必ずしも過剰

な解釈とは言えなくなる。 とはいえ焔に

包まれた松は、天駆ける龍の生誕を約束

しつつも、自らは焼け落ちて滅びる運命

にある。 いったいこの燃え落ちる松の幹

と、そこから立ちのぼる火焔とは、ボシ

ュの隠された象徴主義のなかで、いかな

る意味を担い得たのだろう 。 寓意的な深

読みが許されるなら、燃える樹は、一方

で日本帝国主義の危険に対する警告でも

ありえ、他方それは汎アジア主義という

昇龍によって焼き尽くされようとする英

国のインド統治を榔撤した調喰と読めな

くもない。 しかし画家その人の意図を示

唆するような証言は知られておらず、は

たしてどちらかの読解が妥当するのか否

Fig.27 竹内栖鳳 《揚洲城外)) 1922、静岡県立美術館蔵 かも、なお決定不可能と言わざるを得まTakeuchi Seihδ , YIδshü jδgai (Outside the City Wall of

Yangzhou), 1922. Shizuoka Prefectural Art Museum. い。 むしろそうした相反する解釈へと潜在的に聞かれつつも、黙して語らないところに、ノンドラノレ・ボシュの《燃え上がる松の木》

の秘密が宿っているようだ。同時代の絵画作品を、強引にある特定の政治的立場の代弁的挿

絵へと還元するのではなく、むしろそれが同時代に担い得た象徴性を丹念に検討すること。

この課題が今日なお残されている。

8. 汎アジア的抽象表現主義にむけて:結論にかえて

20 世紀前半のアジアを横断する文化地理学的な星座のありょうの、ごく一班をここまで

復元してきた。最後にもうひとつの補助線を引くことで、今後の探索への目星をつけておき

たい。ちょうど荒井寛方が法隆寺で、金堂壁画の模写に従事していた頃、中国では敦;崖・莫高

窟で、張大千(1899-1983) が壁画模写に動員されていた。 仏教図像に則った精密な模写をな

すだけの力量を自負した張大千だが、戦後、台湾に移ってからは、水墨山水画の破墨ある

いは溌墨の技法を多用した、奔放でほとんど抽象画にちかい風景画を好んで制作するよう

57 Wong 2009, pp. 95-110 にこれとは異なった解釈が提案されている。

186

になる。 若き

たしてその折l

(1 922) のようえ

か。 1900 年のE

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ばきを生かしつ

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とって、表現主

代の前衛として

もあった。 気穣

義の洗礼と合涜

で再評価される

波及したことは

(1 930) 正月号ι

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張大千もまた、

果たした若い画;

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追求の途上、老:

触れたとおりだ,

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している。 画家カ

ことは、『洞察と

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58 本件に関する筆三

稲賀繁美

Fig.26 張大千《煙雲暁需))1969、個人蔵

Zhang Daqian, Yanyun xiaoling, 1969. Private collection,

Taipei.

の火焔が龍へと変身を遂げるという想像

力は、けっして疎遠なものではなかった

ことになる。

こうした補助線を引いた上で《燃え上

がる松の木》に立ち返ってみれば、焔か

ら立ちのぼる煙が龍へと変貌を遂げる途

上の形象だ、ったとしても、必ずしも過剰

な解釈とは言えなくなる。とはいえ焔に

包まれた松は、天駆ける龍の生誕を約束

しつつも、自らは焼け落ちて滅びる運命

にある。いったいこの燃え落ちる松の幹

と、そこから立ちのぼる火焔とは、ボシ

ュの隠された象徴主義のなかで、し1かな

る意味を担い得たのだろう。寓意的な深

読みが許されるなら、燃える樹は、一方

で日本帝国主義の危険に対する警告でも

ありえ、他方それは汎アジア主義という

昇龍によって焼き尽くされようとする英

国のインド統治を榔撤した菰喰と読めな

くもない。しかし画家その人の意図を示

唆するような証言は知られておらず、は

たしてどちらかの読解が妥当するのか否

Fig.27 竹内栖鳳《揚洲城外))1922、静岡県立美術館蔵 かも、なお決定不可能と言わざるを得まTakeuchi Seihδ, YIδshu jδgai (Outside the City Wall of

い。むしろそうした相反する解釈へと潜Yangzhou), 1922. Shizuoka Prefectural Art Museum

在的に聞かれつつも、黙して語らないところに、ノンドラル・ボ、シュの《燃え上がる松の木》

の秘密が宿っているようだ。同時代の絵画作品を、強引にある特定の政治的立場の代弁的挿

絵へと還元するのではなく、むしろそれが同時代に担い得た象徴性を丹念に検討すること。

この課題が今日なお残されている。

8.汎アジア的抽象表現主義にむけて:結論にかえて

20世紀前半のアジアを横断する文化地理学的な星座のありょうの、ごく一班をここまで

復元してきた。最後にもうひとつの補助線を引くことで、今後の探索への目星をつけておき

たい。ちょうど荒井寛方が法隆寺で金堂壁画の模写に従事していた頃、中国では敦;崖・莫高

窟で、張大千(1899-1983)が壁画模写に動員されていた。仏教図像に則った精密な模写をな

すだけの力量を自負した張大千だが、戦後、台湾に移ってからは、水墨山水画の破墨ある

いは溌墨の技法を多用した、奔放でほとんど抽象画にちかい風景画を好んで制作するよう

57 Wong 2009, pp. 95-110にこれとは異なった解釈が提案されている。

186

稲賀繁美

Fig.26 張大千《煙雲暁需))1969、個人蔵

Zhang Daqian, Yanyun xiaoling, 1969. Private collection,

Taipei.

の火焔が龍へと変身を遂げるという想像

力は、けっして疎遠なものではなかった

ことになる。

こうした補助線を引いた上で《燃え上

がる松の木》に立ち返ってみれば、焔か

ら立ちのぼる煙が龍へと変貌を遂げる途

上の形象だ、ったとしても、必ずしも過剰

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包まれた松は、天駆ける龍の生誕を約束

しつつも、自らは焼け落ちて滅びる運命

にある。いったいこの燃え落ちる松の幹

と、そこから立ちのぼる火焔とは、ボシ

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る意味を担い得たのだろう。寓意的な深

読みが許されるなら、燃える樹は、一方

で日本帝国主義の危険に対する警告でも

ありえ、他方それは汎アジア主義という

昇龍によって焼き尽くされようとする英

国のインド統治を榔撤した菰喰と読めな

くもない。しかし画家その人の意図を示

唆するような証言は知られておらず、は

たしてどちらかの読解が妥当するのか否

Fig.27 竹内栖鳳《揚洲城外))1922、静岡県立美術館蔵 かも、なお決定不可能と言わざるを得まTakeuchi Seihδ, YIδshu jδgai (Outside the City Wall of

い。むしろそうした相反する解釈へと潜Yangzhou), 1922. Shizuoka Prefectural Art Museum

在的に聞かれつつも、黙して語らないところに、ノンドラル・ボ、シュの《燃え上がる松の木》

の秘密が宿っているようだ。同時代の絵画作品を、強引にある特定の政治的立場の代弁的挿

絵へと還元するのではなく、むしろそれが同時代に担い得た象徴性を丹念に検討すること。

この課題が今日なお残されている。

8.汎アジア的抽象表現主義にむけて:結論にかえて

20世紀前半のアジアを横断する文化地理学的な星座のありょうの、ごく一班をここまで

復元してきた。最後にもうひとつの補助線を引くことで、今後の探索への目星をつけておき

たい。ちょうど荒井寛方が法隆寺で金堂壁画の模写に従事していた頃、中国では敦;崖・莫高

窟で、張大千(1899-1983)が壁画模写に動員されていた。仏教図像に則った精密な模写をな

すだけの力量を自負した張大千だが、戦後、台湾に移ってからは、水墨山水画の破墨ある

いは溌墨の技法を多用した、奔放でほとんど抽象画にちかい風景画を好んで制作するよう

57 Wong 2009, pp. 95-110にこれとは異なった解釈が提案されている。

186

になる。若き日の張大千は京都に遊んでいるが、は

たしてその折に竹内栖鳳(1864-1942) の《揚州城外》

(1922) のような作品を見る機会に恵まれたのだろう

か。 1900 年の欧米視察のおりにコローやターナーに

感化を受けた栖鳳は、帰国後の作品では巧みな筆さ

ばきを生かして、大胆な溌墨技法をとりこみ、清新

闘達な風景画を生み出していた。 東京の横山大観と

は、若き日に京都絵画専門学校で同僚として教鞭を

とった仲であった栖鳳は、いわば大観らの東京の藤

鵬体を、かれなりの遣り方で自家薬寵中に取込み、

20 年代からの南画復興の気運に乗じて、己が様式

を確立していった。 同時代の東アジアの画家たちに

とって、表現主義的な筆致を発揮することは、同時

代の前衛としての立場を鮮明にする意識的な手段で Fig.28 ノ ン ドラル・ボシユ《雨にけむる家》もあった。 気韻生動の理念は、後期印象派や表現主 1955、ニューデリー国立近代美術館

Nandalal Bose, Houses Blued in the Rain, 1955 , 義の洗礼と合流して、第一次世界大戦後の日本画壇 一

ational Gallerv of Modern Art. New Delhi

で再評価されるが、その余波が上海経由で大陸にも (Awakening 1985: 36J

波及したことは、豊子憧(1898-1975) が『東方雑誌』

(1 930) 正月号の官頭に掲載した「現代世界萎術にお

ける中国美術の勝利」といった論文にも確認できる。

張大千もまた、そうした潮流のなかで、日本留学を

果たした若い画家のひとりだ、った。

30 年代のラピンドロナート・タゴールが東洋哲学

追求の途上、老荘思想にも接近したことは、すでに

触れたとおりだが、ノンドラル・ボシュも、かれの Fig.29 ノ ン ドラル・ボシュ 《風景} 1962、

創作の生涯の最後を飾る戦後の 50 年代になると、自 ニューデ、 リー国立近代美術館蔵

像た想つ

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ても、必ずしも過剰

なる 。 とはいえ焔に

ける龍の生誕を約束

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義のなかで、し、かな

だろう 。 寓意的な深

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《燃え上がる松の木》

治的立場の代弁的挿

ー念に検討すること 。

らの若き日々のワッシュ技法をさらに発展させて、

中国あるいは日本風の運筆や筆跡を画面に残す工夫

に取り組むようになる。 《雨にけむる家)) (1 955) など

さく一班をここまで

目星をつけておき

中国では敦爆・莫高

た精密な模写をな

黒山水画の破墨ある

んで制作するよう

タ ゴール、ノ ン ドラル・ボ、シュと荒井寛方

-・ . ・・・・4 . .,. ..1..... 司・智・

Nandalal Bose, Landscape, 1962, National

Gallerγof Modem Art, New Delhi.

(From Rhythems ollndia: The Art 01 Nandalal Bose, San Diego Museum of Art, 2008, p. 218.)

では、墨(英語では indian ink) のたらし込みを意図的に用いて、雨期の雷雨の黒雲を表現

している。 画家が破墨や溌墨の技法を知識として知っていただけなく、実践としても試みた

ことは、『洞察と創造』とい う 題で没後まとめられたその著作からも跡づけられる 。 惨んだ

墨の空には、雨脚に驚いて巣へと急ぐ烏たちの姿が、 筆先の黒い斑点で描かれる。 これまた

菱田春草が、インド滞在の直後、藤瀧体の全盛期に北米で制作した 《夕の森)) (1 904) の、夕

空に輪舞する鳥たちの姿を初併とさせる表現といってよい。 この春草の鳥たちの輪舞に影響

58 本件に関する筆者の初期の見解は Inaga 1988, pp. 145-47.

187

になる。若き日の張大千は京都に遊んでいるが、は

たしてその折に竹内栖鳳(1864-1942)の《揚州城外》

(1922)のような作品を見る機会に恵まれたのだろう

か。 1900年の欧米視察のおりにコローやターナーに

感化を受けた栖鳳は、帰国後の作品では巧みな筆さ

ばきを生かして、大胆な溌墨技法をとりこみ、清新

閲達な風景画を生み出していた。東京の横山大観と

は、若き日に京都絵画専門学校で同僚として教鞭を

とった仲であった栖鳳は、いわば大観らの東京の腹

膜体を、かれなりの遣り方で自家薬寵中に取込み、

20年代からの南画復興の気運に乗じて、己が様式

を確立していった。同時代の東アジアの画家たちに

とって、表現主義的な筆致を発揮することは、同時

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

代の前衛としての立場を鮮明にする意識的な手段で Fig.28 ノンドラル・ボシユ《雨にけむる家》

もあった。気韻生動の理念は、後期印象派や表現主 1955、ニューデリー国立近代美術館

義の洗礼と合流して、第一次世界大戦後の日本画壇

で再評価されるが、その余波が上海経由で大陸にも

波及したことは、豊子憧(1898-1975)が『東方雑誌』

(1930)正月号の官頭に掲載した「現代世界塞術にお

ける中国美術の勝利」といった論文にも確認できる。

張大千もまた、そうした潮流のなかで、日本留学を

果たした若い画家のひとりだ、った。

30年代のラピンドロナート・タゴールが東洋哲学

追求の途上、老荘思想にも接近したことは、すでに

触れたとおりだが、ノンドラル・ボシュも、かれの

創作の生涯の最後を飾る戦後の 50年代になると、自

らの若き日々のワッシュ技法をさらに発展させて、

中国あるいは日本風の運筆や筆跡を画面に残す工夫

に取り組むようになる。《雨にけむる家))(1955)など

Nandalal Bose, Houses Blued in the Rain, 1955,

National Gallery of Modern Art, New Delhi

(Awakening 1985: 36)

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Fig.29 ノンドラル・ボシュ 《風景~ 1962、ニューデ、リー国立近代美術館蔵

Nandalal Bose, Landscape, 1962, National

Gallery ofModern Art, New Delhi.

(From Rhythems ollndia: The Art 01 Nandalal Bose, San Diego Museum ofArt, 2008, p. 218.)

では、墨(英語では indianink) のたらし込みを意図的に用いて、雨期の雷雨の黒雲を表現

している。画家が破墨や溌墨の技法を知識として知っていただけなく、実践としても試みた

ことは、『洞察と創造』という題で没後まとめられたその著作からも跡づけられる o 渉んだ

墨の空には、雨脚に驚いて巣へと急ぐ鳥たちの姿が、筆先の黒い斑点で描かれる。これまた

菱田春草が、インド滞在の直後、藤膳体の全盛期に北米で制作した《夕の森))(1904)の、夕

空に輪舞する鳥たちの姿を初練とさせる表現といってよい。この春草の鳥たちの輪舞に影響

58 本件に関する筆者の初期の見解はInaga1988, pp. 145-47.

187

になる。若き日の張大千は京都に遊んでいるが、は

たしてその折に竹内栖鳳(1864-1942)の《揚州城外》

(1922)のような作品を見る機会に恵まれたのだろう

か。 1900年の欧米視察のおりにコローやターナーに

感化を受けた栖鳳は、帰国後の作品では巧みな筆さ

ばきを生かして、大胆な溌墨技法をとりこみ、清新

閲達な風景画を生み出していた。東京の横山大観と

は、若き日に京都絵画専門学校で同僚として教鞭を

とった仲であった栖鳳は、いわば大観らの東京の腹

膜体を、かれなりの遣り方で自家薬寵中に取込み、

20年代からの南画復興の気運に乗じて、己が様式

を確立していった。同時代の東アジアの画家たちに

とって、表現主義的な筆致を発揮することは、同時

タゴール、ノンドラル・ボシュと荒井寛方

代の前衛としての立場を鮮明にする意識的な手段で Fig.28 ノンドラル・ボシユ《雨にけむる家》

もあった。気韻生動の理念は、後期印象派や表現主 1955、ニューデリー国立近代美術館

義の洗礼と合流して、第一次世界大戦後の日本画壇

で再評価されるが、その余波が上海経由で大陸にも

波及したことは、豊子憧(1898-1975)が『東方雑誌』

(1930)正月号の官頭に掲載した「現代世界塞術にお

ける中国美術の勝利」といった論文にも確認できる。

張大千もまた、そうした潮流のなかで、日本留学を

果たした若い画家のひとりだ、った。

30年代のラピンドロナート・タゴールが東洋哲学

追求の途上、老荘思想にも接近したことは、すでに

触れたとおりだが、ノンドラル・ボシュも、かれの

創作の生涯の最後を飾る戦後の 50年代になると、自

らの若き日々のワッシュ技法をさらに発展させて、

中国あるいは日本風の運筆や筆跡を画面に残す工夫

に取り組むようになる。《雨にけむる家))(1955)など

Nandalal Bose, Houses Blued in the Rain, 1955,

National Gallery of Modern Art, New Delhi

(Awakening 1985: 36)

-・・... .~‘"・4 ・r・

Fig.29 ノンドラル・ボシュ 《風景~ 1962、ニューデ、リー国立近代美術館蔵

Nandalal Bose, Landscape, 1962, National

Gallery ofModern Art, New Delhi.

(From Rhythems ollndia: The Art 01 Nandalal Bose, San Diego Museum ofArt, 2008, p. 218.)

では、墨(英語では indianink) のたらし込みを意図的に用いて、雨期の雷雨の黒雲を表現

している。画家が破墨や溌墨の技法を知識として知っていただけなく、実践としても試みた

ことは、『洞察と創造』という題で没後まとめられたその著作からも跡づけられる o 渉んだ

墨の空には、雨脚に驚いて巣へと急ぐ鳥たちの姿が、筆先の黒い斑点で描かれる。これまた

菱田春草が、インド滞在の直後、藤膳体の全盛期に北米で制作した《夕の森))(1904)の、夕

空に輪舞する鳥たちの姿を初練とさせる表現といってよい。この春草の鳥たちの輪舞に影響

58 本件に関する筆者の初期の見解はInaga1988, pp. 145-47.

187

稲賀繁美

されてのことだろうか、寛方もまた《浄の池)) (1934) で、鳥を魚に置き換え、渦巻きをなし

て泳ぐ魚影を、意図的に観念的な構図に纏めていた。

画家は自らの呼吸を計りながら、筆先の筆致によって「宇宙普遍の生命の律動」に同調する。

そこに東洋的な運筆の秘訣のあることは、ノンドラル自身が画論に述べているところであり、

彼自身、きわめて自覚的に実践していた。水墨を模倣した淡彩墨絵の具体例としては、魚た

ちが小川の堰を越えようと跳躍する有様を描いた《カヌアの瀧)) (1954) などが知られ、ここ

にも「鯉の瀧登り」と共通する主題が認められる。 さらにノンドラノレの絶筆とも言われる《風

景)) (1 962) では、ヒマラヤを越えてゆく渡り鳥たちの群れが、上下する 5 本の点線だけで簡

素に示唆される。 画面に置かれた斑点のひとつひとつが、運筆の呼吸を運び、それがそのま

ま大空の下に飛朔する烏たちの姿に重なり、画家晩年の枯淡の境地を伝えている。

一見したところ意のままになされたドリ ッ ピングは、最晩年のノンドラルを、同時代フラ

ンスのアンフォルメルや北米の抽象表現主義といった最新流行の近傍へと誘ってゆく 。 60 年

代に張大千が群青や緑青といった原色色班による壮大な山水画に挑むのも、こうした同時代

の西欧における動向を感知していればのことだ、った。 ここで気韻生動とは、宇宙の運行を司

る気の流れの謂であり、それを水墨画の筆触に託して表現しようとする画家の営みを導く、

万物流転の流動であり、かつまた、その生命を分有した画面から発露する生命感の謂でもあ

った。ノンドラルはこの文脈で中国語起源の気韻生動という語葉を「生命の律動」と訳し、

こう述べている。「通常のものであれ、格別のものであれ、すべての形のうちに、私は現実

というものの、生命の律動 pranachhande を探す。その活力が全世界を、そして現実で、あれ、

想像上のものであれ、すべての形を生み出したのであり、この生命の律動は、それらのうち

に鼓動しているのだ」と 。

張大千とノンドラル・ボ、シュとのあいだには、ただの偶然の一致があったにすぎないのだ

ろうか。 それは 1950 年代から 60 年代にかけての欧米の同時代塞術への反応が、たまたま台

北とカルカッタとのあいだで起こした、逢かなる共鳴現象に過ぎなかったのだ、ったのだろう

か。それともそこには、 20 世紀初頭の、藤膳体様式以来の意図的な「東洋ぶり」の、半世紀

後の帰結を見るべきなのだろうか。 思えば、アーネスト・フェノロサが 1905 年、「ホウイス

ラー氏の歴史における位置」と題する追悼文で述べた、かの託宣と時を同じくする、自覚的

な東洋的表現の追求が、「藤瀧体」やワッシュ技法に他ならなかった。それが半世紀の時空

を経て、アジア全域を横断するような規模で、なかば無意識のまま、より表現主義的で抽象

的な装いをもって噴出したのが、張大千やノンドラル・ボ、シュ老境の映像だ、ったのではない

か。

先に引用したフェノロサのホウイスラー礼讃は、結果的にはフェノロサその人にとって

59 Bose 1999, p. 35.

60 気韻生動を四文字熟語の観念として捉えるのは寧ろ近代以降の解釈であろ う。 瀧精ーは南斉の謝赫の時代には気韻と生動とは別個の概念で、あったと主張する。 T北i 1918b, pp. 16-21.破墨および溌墨に関する文献学的な議論については Tanaka 1918, pp. 182-185 . 田中は溌墨とは元来水墨画一般を指す用語だ、ったと推定する。

61

188

も、自らの遺:

さない暖昧さ J

に、 20 世紀の

ようとしたもじ

が残るだけの、

彩。《夜想曲》、

名を繕ったそオ

たのが、日本走

て 1920 年代か

義そして表現主

が、東洋の撃手ft

は 30 年代にはさ

学J の名で呼ば

だが、そこに

後になって抽象

らなかった。 そ

う言い換える。

あいだに存し、

溶け合うことが

村観山からタゴ

あの信念に対す

も許されよう 。

ノンドラノレは

漆黒なのか。 なー

はこう答えるし;

らふたつはひと J

雲の喜びは私に主

る」 。 ここに述べ

ニグェデ、イタ i‘

の喋笑が不意の言

存在とは、殺毅之

さぬ雷雨の黒雲カ

の投影に他なら右

62 Bose 1999, p. 47. 63 Bose 1999, p. 50. 64 Sisiter Nivedita 1 S

稲賀繁美

されてのことだろうか、寛方もまた《浄の池))(1934)で、烏を魚に置き換え、渦巻きをなし

て泳ぐ魚影を、意図的に観念的な構図に纏めていた。

画家は自らの呼吸を計りながら、筆先の筆致によって「宇宙普遍の生命の律動」に同調する。

そこに東洋的な運筆の秘訣のあることは、ノンドラル自身が画論に述べているところであり、

彼自身、きわめて自覚的に実践していた。水墨を模倣した淡彩墨絵の具体例としては、魚た

ちが小川の堰を越えようと跳躍する有様を描いた《カヌアの瀧))(1954)などが知られ、ここ

にも「鯉の瀧登り Jと共通する主題が認められる。さらにノンドラルの絶筆とも言われる《風

景))(1962)では、ヒマラヤを越えてゆく渡り鳥たちの群れが、上下する 5本の点線だけで簡

素に示唆される。画面に置かれた斑点のひとつひとつが、運筆の呼吸を運び、それがそのま

ま大空の下に飛朔する鳥たちの姿に重なり、画家晩年の枯淡の境地を伝えている。

一見したところ意のままになされたドリッピングは、最晩年のノンドラルを、同時代フラ

ンスのアンフォルメルや北米の抽象表現主義といった最新流行の近傍へと誘ってゆく 。60年

代に張大千が群青や緑青といった原色色班による壮大な山水画に挑むのも、こうした同時代

の西欧における動向を感知していればのことだ、った。ここで気韻生動とは、宇宙の運行を司

る気の流れの謂であり、それを水墨画の筆触に託して表現しようとする画家の営みを導く、

万物流転の流動であり、かつまた、その生命を分有した画面から発露する生命感の謂でもあ

った。ノンドラルはこの文脈で中国語起源の気韻生動という語葉を「生命の律動」と訳し、

こう述べている。「通常のものであれ、格別のものであれ、すべての形のうちに、私は現実

というものの、生命の律動 pranac凶 andeを探す。その活力が全世界を、そして現実で、あれ、

想像上のものであれ、すべての形を生み出したのであり、この生命の律動は、それらのうち

に鼓動しているのだJと。

張大千とノンドラル・ボ、シュとのあいだには、ただの偶然の一致があったにすぎないのだ

ろうか。それは 1950年代から 60年代にかけての欧米の同時代塞術への反応が、たまたま台

北とカルカッタとのあいだで起こした、逢かなる共鳴現象に過ぎなかったのだ、ったのだろう

か。それともそこには、 20世紀初頭の、藤瀧体様式以来の意図的な「東洋ぶり」の、半世紀

後の帰結を見るべきなのだろうか。思えば、アーネスト・フェノロサが 1905年、「ホウイス

ラー氏の歴史における位置」と題する追悼文で述べた、かの託宣と時を同じくする、自覚的

な東洋的表現の追求が、「藤膳体Jやワッシュ技法に他ならなかった。それが半世紀の時空

を経て、アジア全域を横断するような規模で、なかば無意識のまま、より表現主義的で抽象

的な装いをもって噴出したのが、張大千やノンドラル・ボ、シュ老境の映像だ、ったのではない

か。

先に引用したフェノロサのホウイスラー礼讃は、結果的にはフェノロサその人にとって

59 Bose 1999, p. 35.

60 気韻生動を四文字熟語の観念として捉えるのは寧ろ近代以降の解釈であろ う。 瀧精ーは南斉の謝赫の時

代には気韻と生動とは別個の概念で、あったと主張する。T北i1918b, pp. 16-21.破墨および溌墨に関する文献学

的な議論については Tanaka1918, pp. 182-185.田中は溌墨とは元来水墨画一般を指す用語だ、ったと推定する。

61 “The Art Pursuit," in Bose 1999, p. 18.

188

稲賀繁美

されてのことだろうか、寛方もまた《浄の池))(1934)で、烏を魚に置き換え、渦巻きをなし

て泳ぐ魚影を、意図的に観念的な構図に纏めていた。

画家は自らの呼吸を計りながら、筆先の筆致によって「宇宙普遍の生命の律動」に同調する。

そこに東洋的な運筆の秘訣のあることは、ノンドラル自身が画論に述べているところであり、

彼自身、きわめて自覚的に実践していた。水墨を模倣した淡彩墨絵の具体例としては、魚た

ちが小川の堰を越えようと跳躍する有様を描いた《カヌアの瀧))(1954)などが知られ、ここ

にも「鯉の瀧登り Jと共通する主題が認められる。さらにノンドラルの絶筆とも言われる《風

景))(1962)では、ヒマラヤを越えてゆく渡り鳥たちの群れが、上下する 5本の点線だけで簡

素に示唆される。画面に置かれた斑点のひとつひとつが、運筆の呼吸を運び、それがそのま

ま大空の下に飛朔する鳥たちの姿に重なり、画家晩年の枯淡の境地を伝えている。

一見したところ意のままになされたドリッピングは、最晩年のノンドラルを、同時代フラ

ンスのアンフォルメルや北米の抽象表現主義といった最新流行の近傍へと誘ってゆく 。60年

代に張大千が群青や緑青といった原色色班による壮大な山水画に挑むのも、こうした同時代

の西欧における動向を感知していればのことだ、った。ここで気韻生動とは、宇宙の運行を司

る気の流れの謂であり、それを水墨画の筆触に託して表現しようとする画家の営みを導く、

万物流転の流動であり、かつまた、その生命を分有した画面から発露する生命感の謂でもあ

った。ノンドラルはこの文脈で中国語起源の気韻生動という語葉を「生命の律動」と訳し、

こう述べている。「通常のものであれ、格別のものであれ、すべての形のうちに、私は現実

というものの、生命の律動 pranac凶 andeを探す。その活力が全世界を、そして現実で、あれ、

想像上のものであれ、すべての形を生み出したのであり、この生命の律動は、それらのうち

に鼓動しているのだJと。

張大千とノンドラル・ボ、シュとのあいだには、ただの偶然の一致があったにすぎないのだ

ろうか。それは 1950年代から 60年代にかけての欧米の同時代塞術への反応が、たまたま台

北とカルカッタとのあいだで起こした、逢かなる共鳴現象に過ぎなかったのだ、ったのだろう

か。それともそこには、 20世紀初頭の、藤瀧体様式以来の意図的な「東洋ぶり」の、半世紀

後の帰結を見るべきなのだろうか。思えば、アーネスト・フェノロサが 1905年、「ホウイス

ラー氏の歴史における位置」と題する追悼文で述べた、かの託宣と時を同じくする、自覚的

な東洋的表現の追求が、「藤膳体Jやワッシュ技法に他ならなかった。それが半世紀の時空

を経て、アジア全域を横断するような規模で、なかば無意識のまま、より表現主義的で抽象

的な装いをもって噴出したのが、張大千やノンドラル・ボ、シュ老境の映像だ、ったのではない

か。

先に引用したフェノロサのホウイスラー礼讃は、結果的にはフェノロサその人にとって

59 Bose 1999, p. 35.

60 気韻生動を四文字熟語の観念として捉えるのは寧ろ近代以降の解釈であろ う。 瀧精ーは南斉の謝赫の時

代には気韻と生動とは別個の概念で、あったと主張する。T北i1918b, pp. 16-21.破墨および溌墨に関する文献学

的な議論については Tanaka1918, pp. 182-185.田中は溌墨とは元来水墨画一般を指す用語だ、ったと推定する。

61 “The Art Pursuit," in Bose 1999, p. 18.

188

渦巻きをなし

力」に同調する。

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現主義的で抽象

ったのではない

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-は南斉の謝赫の時

支墨に関する文献学

ったと推定する。

タゴーノレ、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

も、自らの遺言に等しい文章となった。 それは、形をな

さない唆昧さが声高に批判されたホウイスラーの実験作

に、 20 世紀の初期において、世界史的な意義を付与し

ようとしたものだ、った。 形態が溶解して詰漠たる筆遣い

が残るだけの、ホワイスラーの腹膜として模糊たる油

彩。 《夜想曲》、《編曲》、《譜調》といった音楽用語で題

名を繕ったそれらの作品を正当化するために担ぎ出され

たのが、日本趣味と呼ばれる新奇な価値観だ、った。そし

て 1920 年代から 30 年代にかけては、写実主義、象徴主

義そして表現主義の対立を止揚するという造形的な課題

が、東洋の塾術家たちに科せられたといってよい。 それ

は 30 年代には金原省吾(1888-1958) らによって「東洋美

学」の名で呼ばれることともなった。

だが、そこに抜本的な造形的反省がなされるには、戦

Fig.30 ノンドラノレ・ボシュ 1883-1966

Nandalal Bose 1883-1966

(From Rhythems ollndia: The Art 01

後になって抽象絵画が隆盛を見る時代を待たなければな Nandalal Bose, San Diego Museum of Art,

らなかった。その間の事態をノンドラルは要約して、こ 2008, p. 218.)

う言い換える。 「真実J は本物らしさにも、抽象にもない。 「真実は形と形ならざるものとの

あいだに存し、その両者の性質を帯びる J。そこでは「見る者と見られるものとが融合し、

溶け合うことが目指されJ 、そこに「内的な精神性が成就する J のである、と。ここに、下

村観山からタゴールに伝えられた制作上の秘訣、肉眼で見た事物を心眼によって描くという、

あの信念に対する、ノンド、ラノレ・ボッシュによる、ひとつの可能な創造的解釈を認めること

も許されよう 。

ノンドラルはまた、こうも問し、かける。 「東洋の雨雲はなぜ洗眼剤のコリリウムのように

漆黒なのか。 なぜそれは心の根元までも揺さぶるほどに強く訴えかけるのか」と 。 「それに

はこう答えるしかあるまいーーと彼は言う。一方に黒雲があり、他方に私が居るが、これ

らふたつはひとつの意識なのだ。 おそらく雲は彼方に、我はここに居るのだろうが、しかし

雲の喜びは私に透過し、私の悲嘆は雲のうちに入る。見る者と見られるものとはひとつにな

る J。ここに述べられた、意識にそって刻々とその姿を変える黒雲とは何であろうか。

ニヴエディタは『インド生活の経緯』ほかの著作で「不吉な雨雲のように漆黒J な存在、「そ

の喋笑が不意の雷鳴となって轟き、すべてを撃滅する」災厄の徴を語っていた。 この漆黒の

存在とは、殺裁と破壊の象徴、カーリ一女神に他ならない。この脅威そのものたる、形をな

さぬ雷雨の黒雲が、また同時に塞術家の心の底に潜む下意識の流れを映す鏡像、あるいはそ

の投影に他ならないこともまた、ノンドラル・ボ、シュの先の言に明らかだ。この渦巻く暗黒

62 Bose 1999, p. 47. 63 Bose 1999, p. 50. 64 Sisiter Nivedita 1901 , 1967--68, vo1.2, pp. 419-420.

189

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

も、自らの遺言に等しい文章となった。それは、形をな

さない暖昧さが声高に批判されたホウイスラーの実験作

に、 20世紀の初期において、世界史的な意義を付与し

ようとしたものだ、った。形態が溶解して荘漠たる筆遣い

が残るだけの、ホワイスラーの藤騰として模糊たる油

彩。《夜想曲》、《編曲》、《詣調》といった音楽用語で題

名を繕ったそれらの作品を正当化するために担ぎ出され

たのが、日本趣味と呼ばれる新奇な価値観だ、った。そし

て 1920年代から 30年代にかけては、写実主義、象徴主

義そして表現主義の対立を止揚するという造形的な課題

が、東洋の塞術家たちに科せられたといってよい。それ

は30年代には金原省吾(1888-1958)らによって「東洋美

学Jの名で呼ばれることともなった。

だが、そこに抜本的な造形的反省がなされるには、戦

Fig.30 ノンドラノレ ・ボシュ 1883-1966

Nandalal Bose 1883-1966

(From Rhythems ollndia: The Art 01

後になって抽象絵画が隆盛を見る時代を待たなければな Nand,αlal Bose, San Diego Museum of Art,

2008, p. 218.) らなかった。その間の事態をノンドラルは要約して、こ p. ~ lO.)

う言い換える。「真実j は本物らしさにも、抽象にもない。「真実は形と形ならざるものとの

あいだに存し、その両者の性質を帯びるJ。そこでは「見る者と見られるものとが融合し、

溶け合うことが目指されJ、そこに「内的な精神性が成就するJのである、と。ここに、下

村観山からタゴールに伝えられた制作上の秘訣、肉眼で見た事物を心眼によって描くという、

あの信念に対する、ノンドラル・ボッシュによる、ひとつの可能な創造的解釈を認めること

も許されよう。

ノンドラノレはまた、こうも問いかける。「東洋の雨雲はなぜ洗眼剤のコリリウムのように

漆黒なのか。なぜそれは心の根元までも揺さぶるほどに強く訴えかけるのか」と。「それに

はこう答えるしかあるまいーーと彼は言う。一方に黒雲があ り、他方に私が居るが、これ

らふたつはひとつの意識なのだ。おそらく雲は彼方に、我はここに居るのだろうが、しかし

雲の喜びは私に透過し、私の悲嘆は雲のうちに入る。見る者と見られるものとはひとつにな

るJ。ここに述べられた、意識にそって刻々とその姿を変える黒雲とは何であろうか。

ニヴェデ、イタは『インド生活の経緯』ほかの著作で「不吉な雨雲のように漆黒」な存在、「そ64

の喋笑が不意の雷鳴となって轟き、すべてを撃滅する」災厄の徴を語っていた。この漆黒の

存在とは、殺裁と破壊の象徴、カーリ一女神に他ならない。この脅威そのものたる、形をな

さぬ雷雨の黒雲が、また同時に塞術家の心の底に潜む下意識の流れを映す鏡像、あるいはそ

の投影に他ならないこともまた、ノンドラル・ボシュの先の言に明らかだ。この渦巻く暗黒

62 Bose 1999, p. 47.

63 Bose 1999, p. 50.

64 Sisiter Nivedita 1901, 1967-68, vo1.2, pp. 419-420.

189

タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方

も、自らの遺言に等しい文章となった。それは、形をな

さない暖昧さが声高に批判されたホウイスラーの実験作

に、 20世紀の初期において、世界史的な意義を付与し

ようとしたものだ、った。形態が溶解して荘漠たる筆遣い

が残るだけの、ホワイスラーの藤騰として模糊たる油

彩。《夜想曲》、《編曲》、《詣調》といった音楽用語で題

名を繕ったそれらの作品を正当化するために担ぎ出され

たのが、日本趣味と呼ばれる新奇な価値観だ、った。そし

て 1920年代から 30年代にかけては、写実主義、象徴主

義そして表現主義の対立を止揚するという造形的な課題

が、東洋の塞術家たちに科せられたといってよい。それ

は30年代には金原省吾(1888-1958)らによって「東洋美

学Jの名で呼ばれることともなった。

だが、そこに抜本的な造形的反省がなされるには、戦

Fig.30 ノンドラノレ ・ボシュ 1883-1966

Nandalal Bose 1883-1966

(From Rhythems ollndia: The Art 01

後になって抽象絵画が隆盛を見る時代を待たなければな Nand,αlal Bose, San Diego Museum of Art,

2008, p. 218.) らなかった。その間の事態をノンドラルは要約して、こ p. ~ lO.)

う言い換える。「真実j は本物らしさにも、抽象にもない。「真実は形と形ならざるものとの

あいだに存し、その両者の性質を帯びるJ。そこでは「見る者と見られるものとが融合し、

溶け合うことが目指されJ、そこに「内的な精神性が成就するJのである、と。ここに、下

村観山からタゴールに伝えられた制作上の秘訣、肉眼で見た事物を心眼によって描くという、

あの信念に対する、ノンドラル・ボッシュによる、ひとつの可能な創造的解釈を認めること

も許されよう。

ノンドラノレはまた、こうも問いかける。「東洋の雨雲はなぜ洗眼剤のコリリウムのように

漆黒なのか。なぜそれは心の根元までも揺さぶるほどに強く訴えかけるのか」と。「それに

はこう答えるしかあるまいーーと彼は言う。一方に黒雲があ り、他方に私が居るが、これ

らふたつはひとつの意識なのだ。おそらく雲は彼方に、我はここに居るのだろうが、しかし

雲の喜びは私に透過し、私の悲嘆は雲のうちに入る。見る者と見られるものとはひとつにな

るJ。ここに述べられた、意識にそって刻々とその姿を変える黒雲とは何であろうか。

ニヴェデ、イタは『インド生活の経緯』ほかの著作で「不吉な雨雲のように漆黒」な存在、「そ64

の喋笑が不意の雷鳴となって轟き、すべてを撃滅する」災厄の徴を語っていた。この漆黒の

存在とは、殺裁と破壊の象徴、カーリ一女神に他ならない。この脅威そのものたる、形をな

さぬ雷雨の黒雲が、また同時に塞術家の心の底に潜む下意識の流れを映す鏡像、あるいはそ

の投影に他ならないこともまた、ノンドラル・ボシュの先の言に明らかだ。この渦巻く暗黒

62 Bose 1999, p. 47.

63 Bose 1999, p. 50.

64 Sisiter Nivedita 1901, 1967-68, vo1.2, pp. 419-420.

189

稲賀繁美

の意識の底流からは、沈潜の時を終えると創成途上の昇龍が噴煙となって現れる。ノンドラ

ルが目にした、松の幹から立ちのぼる焔と煙もまた、その春属だ、ったのだろう。

真っ黒な墨の惨みによって描かれる、雷を呼ぶこの暗黒の不定形。ノンドラル・ボシュの《雨

のなかの家々》を包む巨大な墨の垂らし込みの惨み。それは、西洋官展派の絵画伝統という

親から東洋の萎術家を解き放っために彼を誘惑する、巧妙なる疑似餌だ、ったのだろうか一一

ちょうどフェノロサがそのホワイスラー論で述べたように。それとも破墨や溌墨の戯れが描

く滴りは、日本、インドそして中国の 20 世紀前半を生きた画家たちにとって、西洋起源の

モダニズムによる支配を克服し、西洋による文化的な覇権を超克するための、汎アジア的なよりしろ 65

挑戦の表徴、その訴えの声を託すべき懇代だったのだろうか。

*本論文はInaga Shigemi,寸'heInteraction ofBengali and Japanese Artistic Milieus in the First Half ofthe Twentieth

Cen印可(1 901-1945): Rabindranath Tagor, Arai Kanpõ, and Nanda1a1 Bose," Japan Review, no 21 , pp. 149-181に必要な訂正を加えて自由に日本語に訳したものである。 引用箇所は、英文からの重訳ではなく、必要に応じて原文

資料の日本語に戻したが、漢字、仮名遣いの一部は技術上の都合から、現行の書体に改めた。

* The English version of this paper was first prepared for the Intemational Symposium,“Rethinking Nandalal: Asian

Modemism and Nationalist Discourse," Saturday, April5, 2008 at the San Diego Museum of Art. My thanks go first to Ed.

Rothfarb, who initia11y encouraged the author to take part in the symposium. My thanks a1so go to Sonya Rhie Quintani11a, organizer of the symposium, who kind1y invited the author to the gathering and who was so generous in welcoming us a11 to 也e SDMA. Let me also express my gratitude to Atsushi Yokozawa, librarian ofNippon Bhavana Visva-Bharati in Santiniketan, West Benga1, who he1ped the author have access to prim訂y sources in relation with Nanda1a1 Bose. Tsutomu

Kawai, ofthe Kanpδ-kai, also kind1y provided the author with first hand materials and precious information of Arai Kanp�.

Commentaries and discussions provided by Tapati Guha-Thakurta, Bert Winther・Tamaki, Aida Yuen Wong, Debashish Banerji, Partha Mitter and other participants were the most precious for the author to e1aborate his ideas. Last but not 1east,

my wife and partner, Mari Inaga must be named for her he釘匂I support during the hastily preparation ofthis paper.

REFERENCES

Ajia kindαi 1985

Ajia ki・ndai kaiga no yoake ten: Tenshin, Tag<δru ik,δ no Nihon ω lndo アジア近代絵画の夜明け展:天

心、タゴール以降の日本とインド、アジア近代絵画の夜明け展実行委員会、毎日新聞社、 1985

Akiko, Princess 2008

Akiko, Princess彬子女王,“UiriamuAnd縱on korekushon saikδ ウィリアム・アンダーソンコレクショ

ン再考(Re-examining the Anderson Collection)," Hikaku Nihongaku Kenかü Center Kenかü nenpδ 比較

日本学研究センター研究年報, Vo1.4, Ochanomizu Women's Universityお茶の水女子大学, 2008, pp.

123-131.

Arai 1935

Arai Kanpδ 荒井寛方,“Hekiga mosha kaisδ 壁画模写回想" (Recollection of the Copying of the Mural

Painting), 'FIδei 塔影, Oct. 1935, pp. 13-15.

Arai 1943

一一一一, Amida-in Zakki 阿繭陀院雑記, 1943.

65 See Winther・Tamaki 2009.

190

Arai 1993

一一一一, BJ

VishobabidOJ

Arai1998

一一一一一一, ln

氏家, 1998.

Azuma 1974

AzumaKazu<

Art and Arai 1

Awakening 1985

Awakening oj

Bh穩at Silpi 1967

Nandal緲 Bh緲

Japanese by A

Bharucha 2006

Bharucha, Rus

Bose 1999

Bose, Nandala

Coomaraswamy 15

Coomaraswam

Guha旬Thakurta 195

Guha-Thakurta

G叶1a-Thakurta 200

一一一一一ー,“Dil

Fenollosa 1903

Fenollosa, Eme

Hamada 1909

Hamada Seiryδ

Kokka 園華, Nc

Hori 2009

Hori Madoka 坊

詩人の生涯, Pl

文, 2009.

Iio 2008

Iio Yukiko 飯尾

の南画をめぐと

in Modem Japan

is Southem Style

Inaga 1989

Shigemi Inaga,“

du la couleur," W

稲賀繁美

の意識の底流からは、沈潜の時を終えると創成途上の昇龍が噴煙となって現れる。ノンドラ

ルが目にした、松の幹から立ちのぼる焔と煙もまた、その巻属だ、ったのだろう。

真っ黒な墨の惨みによって描かれる、雷を呼ぶこの暗黒の不定形。ノンドラル・ボ、シュの《雨

のなかの家々》を包む巨大な墨の垂らし込みの惨み。それは、西洋官展派の絵画伝統という

親から東洋の肇術家を解き放っために彼を誘惑する、巧妙なる疑似餌だ、ったのだろうか一一

ちょうどフェノロサがそのホウイスラー論で述べたように。それとも破墨や溌墨の戯れが描

く滴りは、日本、インドそして中国の 20世紀前半を生きた画家たちにとって、西洋起源の

モダニズムによる支配を克服し、西洋による文化的な覇権を超克するための、汎アジア的なよりしろ 65

挑戦の表徴、その訴えの声を託すべき懇代だったのだろうか。

*本論文はInagaShigemi,“The Interaction ofBengali and Japanese Artistic Milieus in the First Half ofthe Twentieth

Cen佃可(1901-1945):Rabindranath Tagor, Arai Kanpδ,and Nandala1 Bose," Japan Review, no 21, pp. 149-181に必要な

訂正を加えて自由に日本語に訳したものである。引用箇所は、英文からの重訳ではなく、必要に応じて原文

資料の日本語に戻したが、漢字、仮名遣いの一部は技術上の都合から、現行の書体に改めた。

* The English version of this paper was fust prepared for the Intemational Symposium,“Rethinking Nandalal: Asian

Modemism and Nationalist Discourse," Sa加rday,April 5, 2008 at the San Diego Museum of Art. My thanks go fust to Ed.

Rothfarb, who initially encouraged the author to take part in the symposium. My thanks also go to Sonya Rhie Quintanilla,

organizer of the symposium, who kindly invited the author to the gathering and who was so generous in welcoming us

all to the SDMA. Let me also express my gratitude to Atsushi Yokozawa, librarian ofNippon Bhavana Visva-Bharati in

Santiniketan, West Bengal, who helped the author have access to primary sources in relation with Nandalal Bose. Tsutomu

Kawai, ofthe Kanpo-kai, also kindly provided the author with fust hand materials and precious information ofArai Kanpδ.

Commentaries and discussions provided by Tapati Guha-Thakurta, Bert Winther・Tamaki,Aida Yuen Wong, Debashish

Banerji, Partha Mitter and other participants were the most precious for the author to elaborate his ideas. Last but not least,

mywife andp紅白er,Mari Inaga must be named for her hear匂Isupport during the hastily preparation ofthis paper.

REFERENCES

Ajia kindlαi 1985

Ajia kindai kaiga no yoake ten: Tenshin, Tagδru ikδno Nihon to lndoアジア近代絵画の夜明け展:天

心、タゴール以降の日本とインド、アジア近代絵画の夜明け展実行委員会、毎日新聞社、 1985

Akiko, Princess 2008

Akiko, Princess彬子女王,“UiriamuAndason korekushon saikδ ウィリアム・アンダーソンコレクショ

ン再考(Re-examiningthe Anderson Collection),"即応αkuNihongaku Kenkyu Center Kenかunenpδ比較

日本学研究センター研究年報, Vo1.4, Ochanomizu Women's Universi守お茶の水女子大学, 2008,pp.

123-131.

Arai 1935

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Arai 1943

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190

稲賀繁美

の意識の底流からは、沈潜の時を終えると創成途上の昇龍が噴煙となって現れる。ノンドラ

ルが目にした、松の幹から立ちのぼる焔と煙もまた、その巻属だ、ったのだろう。

真っ黒な墨の惨みによって描かれる、雷を呼ぶこの暗黒の不定形。ノンドラル・ボ、シュの《雨

のなかの家々》を包む巨大な墨の垂らし込みの惨み。それは、西洋官展派の絵画伝統という

親から東洋の肇術家を解き放っために彼を誘惑する、巧妙なる疑似餌だ、ったのだろうか一一

ちょうどフェノロサがそのホウイスラー論で述べたように。それとも破墨や溌墨の戯れが描

く滴りは、日本、インドそして中国の 20世紀前半を生きた画家たちにとって、西洋起源の

モダニズムによる支配を克服し、西洋による文化的な覇権を超克するための、汎アジア的なよりしろ 65

挑戦の表徴、その訴えの声を託すべき懇代だったのだろうか。

*本論文はInagaShigemi,“The Interaction ofBengali and Japanese Artistic Milieus in the First Half ofthe Twentieth

Cen佃可(1901-1945):Rabindranath Tagor, Arai Kanpδ,and Nandala1 Bose," Japan Review, no 21, pp. 149-181に必要な

訂正を加えて自由に日本語に訳したものである。引用箇所は、英文からの重訳ではなく、必要に応じて原文

資料の日本語に戻したが、漢字、仮名遣いの一部は技術上の都合から、現行の書体に改めた。

* The English version of this paper was fust prepared for the Intemational Symposium,“Rethinking Nandalal: Asian

Modemism and Nationalist Discourse," Sa加rday,April 5, 2008 at the San Diego Museum of Art. My thanks go fust to Ed.

Rothfarb, who initially encouraged the author to take part in the symposium. My thanks also go to Sonya Rhie Quintanilla,

organizer of the symposium, who kindly invited the author to the gathering and who was so generous in welcoming us

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Kawai, ofthe Kanpo-kai, also kindly provided the author with fust hand materials and precious information ofArai Kanpδ.

Commentaries and discussions provided by Tapati Guha-Thakurta, Bert Winther・Tamaki,Aida Yuen Wong, Debashish

Banerji, Partha Mitter and other participants were the most precious for the author to elaborate his ideas. Last but not least,

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in Modern Japan)," in Nanga ~te Nanda ? Nihon no kokoro to biWJ@ -0 -C {jjJt;::? s *0) ::=. ::=. 6 ~ ~ (What

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文, 2009.

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in Modern Japan)," in Nangα'tte Nanda ? Nihon no kokoroωbi南画って何だ?日本のこころと美(What

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194

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学術文庫, 1982 .

手塚治

はじめに

日本のマン;

作者はいない

ヤラクター、通

呼ばれ、戦後可

マンガ、 日本ι

観の源になって

運動が彼に与え

彼は大胆なニ

れは「映画的」

で完結していた

構成を採ってい

なパノレフコミ

小作者はそこか

で(その模倣と

マンガが大量に |

ンガを手にでき

印刷所とも聞にf

消えて、マンガi

となる(大人向 l

の赤本作者とレ

東京に引っ越し、

1959 年には週

代には高度成長σ

マンガは廃れた。

者層が広がり、乙

読者層が成立した

園町

稲賀繁美

1961; reprinted in Nihon Bijutsu-in hyakunen shi日本美術院百年史(OneHundred Years of Japan Art

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Changing Perceptions of Japan in South Asia in the New Asian Era: The State of Japanese Studies in India and other SAARC Countries

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T 600-8357 m~J5075 (801) 6391

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Changing Perceptions of Japan in Sou血Asiain the New Asian Era:

The State of Japanese Studies in India and other SAARC Coun仕ies

アジア新時代の南アジアにおける日本像

インド ・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性

ーイ ンド ・シンポジウム 2009ー

非売品

発行日 2011年3月25日

発行国際日本文化研究センター

京都市西京区御陵大枝山町3丁目2番地

干610-1192 電話075(335) 2222

印刷宇野印刷株式会社

京都市下京区五条通猪熊西入

干600・8357 電話075(801) 6391

0国際日本文化研究センター

Changing Perceptions of Japan in Sou血Asiain the New Asian Era:

The State of Japanese Studies in India and other SAARC Coun仕ies

アジア新時代の南アジアにおける日本像

インド ・SAARC諸国における日本研究の現状と必要性

ーイ ンド ・シンポジウム 2009ー

非売品

発行日 2011年3月25日

発行国際日本文化研究センター

京都市西京区御陵大枝山町3丁目2番地

干610-1192 電話075(335) 2222

印刷宇野印刷株式会社

京都市下京区五条通猪熊西入

干600・8357 電話075(801) 6391

0国際日本文化研究センター