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Meiji University

 

Title ソビエト会計発達史-1941年から1945年まで-

Author(s) 森,章

Citation 明大商學論叢, 67(1): 35-46

URL http://hdl.handle.net/10291/5957

Rights

Issue Date 1984-10-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

ソビエ ト会計発達史

一一・一一一1941年 か ら1945年 ま で一

森 章

は じ め に

本稿 は前稿 「ソビエ ト会計発達史一1934年 か ら1941年 まで」(〔17コ21-52)の ・

続編 であ る。

前稿においては,1930年 代初期から第2次 世界大戦直前 までの ソビエ ト会計

の史実 をみ なが ら,1933年 よ りの 「第2次5力 年計画期」 と,1938年 よ りの

「第3次5力 年計画期」におけ るソピsト 社会主義建設 の諸問題 に照応 し た 会

計の諸課題 を考察 した。

この考察 か ら,1930年 代末期に取支 バ ランスが制定 された ことに よ り,計 画

年度間 の個 々の国営企業の資金 の需要合計 とそ の全財源を計算 し,国 民経済の

各部 門全体 の資金循環 の全景を把握 して,そ の うえで企業財政 と国家予算 との

取支のつなが りを明確にす ることができるよ うになった こと,つ ま り,こ の時

点で社会主義社会 の生産関係に立脚 した会計史上最初の統一 国民経済計算制度

が確立 した こと,を 明 らかに した。 そして,こ の統一国民経済計算制度に ょっ

て第3次5力 年計画 の諸課題 を実現 しよ うとした矢先に,独 ソ戦が勃発 した。

このため,第3次5力 年計画は1941年 で中断を余儀 な くされ,同 時に確立をみ

た統一 国民経済計算制度のい っそ うの発展充実 も中断 され ることにな った。

そ こで,前 稿 での以上の よ うな考察をふ まえて本稿においては,ソ 連 で 「大

祖国戦争」 と呼ばれ てい る第2次 世界大戦の時期 におけ る ソビエ ト会計の史実

をみ てい くことに したい。

36明 大 商 学 論 叢 (36)

1大 祖国戦争と戦時経済

1941年6月22日,日 曜 日,電 撃戦 を展開 してア ァシス ト・ドイツは ソ連邦領

内に侵入 した。 ここに,ソ 連は 「その歴史において,社 会主義経済発展におけ

る特殊 な時期,す なわ ち戦時経済時代」(〔13〕1)に 突入 した。

開戦 に よって,社 会 主義平時経済 か ら社会主義戦時経済へ の再編成 が必要 と

な った。 このため,1941年6月30日,ス ター リンを議長 とす る 「国家防衛委員

会」 が特設 され,国 民経 済のあらゆ る資源 を戦争 目的のため に動員 した。

緒戦 の1年 間は ソ連 に とってまさに危機存亡の時期であった。 ウクライナ,

白 ロシアは敵 の手におちた。 ソ連全 人 口の40%の 居住地であって,石 炭生産 高

の63%,銑 鉄 生産高の68%,鋼 鉄生産高の58%,ア ル ミニウム生産高の60%,

穀物生産高の38%,砂 糖生産高の84%を 生 産 し,有 角家畜総 数の38%,豚 頭数

の60%を もち,鉄 道 路線 の41%を しめ ていた地域 が,ド イツ軍に占領 されて荒

廃 した(口3〕31)。

工業企業,機 械 トラクター ・ステーシ ョン,ソ フホーズ,コ ルホーズの貴重

な財産を敵に残 さないために,こ れ らの財産の西部地区か ら 「東方へ の偉大な

る移転」(〔13〕30)が,1941年 の後半 から開始 された。

西部地区 では,敵 の強 力な射撃を受けなが らも,短 期間の うちに設備 の解体,

積込み,発 送 がなされ,移 動 にあた っては,零 下40度 ないし50度 とい う冬将軍

のあれ くる うなか で,運 送 され る精密な工作機械な どにたい して労働 者たちが

自分の衣服や外套をぬ ぎす てて機 械の損傷を防いだ りした(〔11〕44)(1)。こ うし

て,数 百万の人間 とともに,数 万 の工 作機,圧 延機,圧 搾機,・鎚,タ ー ビンお

よび モー タニカミ移転 された。 それは 「歴史上 にかつ て見 られ なかった大量の人

間 と機械の移動 であった」(15〕800)。 ここに,1941年 のほんの3カ 月間に,1,3

60以 上 の大企業が東部へ撤収 され て,ウ ラル(455企 業),西 部 シ ベ リア(210企

業),カ ザ フお よび中央 アジア諸地方(250企 業)へ と疎 開 した(〔13〕31)。

その後,ウ ラルや西部シベ リアの開発は急テ ンポで進み,撤 取企業は稼動 し,

新設企業 も操業を 開始 した。 このため,1942年3月 か ら工業生産は逐 日増 加し

(37)ソ ビエト会計発達史37

は じめ,平 時 生産か ら戦時生産へ の転換がお こなわれ,戦 時経済は軌道に乗 っ

た。

この戦 時経済 力を基礎に して,ソ ビエ ト軍 は1942年 末か ら1943年 初めにかけ

て のスタ リン グラー ド、(現在ヴォルゴグラー ド)攻 防戦で勝利を収あたの ち,ド

イ ツ軍は潮のひ くよ うに ソ連邦領 内か ら撤退 した。

ドイ ツ軍占領地域 の解放 と同時に,、ドイ ツ軍に よって破壊 された ソ連 の北西

部,西 部,中 部,南 東部で の社会主義経済の 「英雄的な復興過程」(〔13〕42)が

ただ ちに開始された。Ig41年 末に ドイ ツ軍の 占領 に よって操業が完全 に とまっ

ていたモス クワ郊外炭 田は,1942年 に は復興 し,石 炭生産高は戦前 の水準 に達

した。 これ が模範に なって,そ れぞれ の解放地区 で も,銑 鉄生 産,.鋼 鉄生産,

砂糖生産が開始され,鉄 道,発 電所,機 械 トラクター ・ステニ シ ョンが復興 し,

コル ホーズでの作付 がな され,都 市 と農村での住居 が復 旧 または新 築 され てい

った。 ・

こ うして,大 戦末期か らす でに戦時経済 か ら平時経済への再編成が部分的に

着手 され てい った。例えばその一つ として,1944年4月 か らは,主 要都市に国

営の 自由販売 店が開設 された。 当時,主 要な消費物資は配給制度 の もとにあ り,

他方農産物は コル ホー ズ市場での 自由販売が一定 の条件 のもとで認め られ てい

た。 配給 品の公定価格は不変 であ ったが,コ ルホーズ市場の 自由価格は 物資が

不足す るに従 って高騰 した。 この時に,配 給制度 の公定価格 よ りはかな り高い

が コルホーズ市場の 自由価格 よ りは低い価格 で,消 費物資を 自由に販売す る店

として,自 由販売店が開設 された(〔12〕145)。

こ うした社会主義経済 の漸 次的な復興を背景に して,ソ ビエ ト軍は1945年5

月2日 ベル リンを陥落 させた。 ヨー ロッパに戦争 の終末が きて,ソ 連は大祖国

戦 争に勝利 した。 第2次 世界大戦は終 った。 が,大 戦は ソ連 に大 きな=被害をあ

たえた。1,710の 都市 と7万 の農村が損害を受け,600万 以上 の建物が焼失 し,・

2・500万人 の家 がな く,なった。3万1・850の 工業企業 が破壊 された。6万5,000

キ ロメー トルの鉄道 線路 と4,100の 駅が破壊 され た。10万 のコルホーズ と ソ フ

ホrズ が掠奪 され荒廃 し,そ こにいた7,100万 頭の家畜が殺 された り持 ち'さ ら

38明 大 商 学 論 叢(38)

れた りした。 こうした戦災に よる生産活動の中断 は,1兆8,900億 ルー ブ ル の

所得を減少 させた。4万 の病院や 医寮施設,8万4,000の 教育や研 究 施 設,4

万3,000の 図書館が破壊 された。財産 の損害は1941年 の価格で6,790億 ルー ブル

とな った。そ して,も っとも痛 ましい犠牲は,直 接の戦 死者700万 人,負 傷 者

その他1,000万 人の人的損 害であった(〔7〕8)。

2戦 時経済におけ るソビエ ト会計の特徴

大祖国戦争期 の ソビエ ト会計には,戦 時経済の要請に答え るべ き課題 があた

えられた。

1941年7月1日,ソ 連邦人民委員会議は 「戦時におけ る ソ連邦人民委員 の権

限の拡大について」 《OJpaclllHpeHullnpaBHap叩 服xI〈oMliccapoBCCCPB

yclloBlisxBoeHHoroBpeMeHli》 を決議 した(〔5〕155)。 この決議は,10項 目につ

いて人民委員 の権限の拡大 を内容 とす るものであったが,と くに,① 個 々の経

済施設 と企業のバ ランスに計上 されてい る損失を,施 設 と企業の 自己流動 資産

と人民委員部の計画超過利潤に よって消去す ること(第7項),② 納入 請負 者に

対す る債務を,管 轄下 の経済組織 と企業 の決済勘定で消却す ること(第8項),

③戦 争で崩壊 され た企業 と住宅の再建 のため の費用を,投 資,大 修繕,そ の他

の資金で,そ れ らがない場合には生産物原価 で捻出す る こと(第10項),な どを

決定 した(〔3〕704-705)。

この時期には,ま ず,戦 時経済 のための管理を構築す ることが必要 とな り,

これ と関連 して会計において も,① 報告書の改善 と簡素化,② 資金や原材料の

節約 とそれ らの経済的支 出 と合理的消費,③ 社会主義財 産の保全,が い っそ う

重視 され て きた(〔5〕155-156)。

しか し,戦 争は会計 の正常な実施を困難 ならしめた。工業に おいては,生 産

費のいわゆ る 「ドン ブ リ計算」 が実施 され るよ うになってい った。減価償却計

算の正常 な実施は さまたげ られ,と りわけ固定資産 の修繕活動はは じめは制限

され;の ちにはほ とん ど実施 され な くな り,し か も大修繕用基 金は 国庫へ収納

され てい った(〔1〕153,〔2〕100)。 棚卸 も定期的に実行 されず,債 権 ・債務 の決

(39)ソ ビエ ト会計発達史39

済 の点検 も乱れた。 このため,棚 卸,バ ランス項 目の評価,バ ランスからの財

産の消却 は,多 くの場合,戦 争に よる被害額を決定す る運動へ と変 った。 そ こ

で,ソ 連邦財務人 民委 員部は,1943年10月18日 付 の書簡(N・.676)で,こ の分

野に おけ る官庁 と財務機関の側か らの管理 を強化す るこ とを訴えた。その結果,

多 くの企業 では,資 材の余力を発見 し,財 政状態に一定の活 九 を も た ら し た

(〔5〕156)o

原価計算業 務を改善す るために,係 数法を採用 して個 々の種類 の生産物原価

が算定 された。 職場 費 と全工場費は簡単な方法 で配賦 された。多 くの企業では

補 助生産での生産物 の原価計算は廃止 され,そ の費用 は職場費に直接関連 させ

た。 小規模企業 では,職 場費は職場別に分割 され ることな く一つ の総勘定に計

上 された。 この場合,そ れは全工場につい ての平均率で生産 物原価に算入 され

た。 屑物は,標 準価額 で評価 され,そ の実際原価 を計算 しなか うた。材料 の実

際原価 と計画原価 との差異は総額で生産費に関連づけ,賃 金は 月ごとに計算 さ

れた(〔5〕156)。

戦時 とい う特殊 な時期 に発生 した支出 と損失は,基 本活動バ ランス と投資バ

ラソスとい う二つ のバ ランスの各簿記勘定 で表示 された。 基本活動 バランスに

は,戦 時下 の多 くの当面の施策 を実行す るために必要な支出,例 えば,防 空壕

作 りや 自衛 団の設置 のための支出,企 業,そ の従業 員 と家族の疎 開のための支

出な どが計上 され,ま た,空 襲に備えての防護施 設への投資 も考慮 された。 他

方,戦 争に よって破壊 された固定 資産,損 失を受けた流動資産の価額 が,基 本

活動バ ランスか ら消却 された。投 資バ ランスには,撤 収企業 の設備の解体費用

と疎開地での企業の新設に要 した費用 な どが計上 された(〔5〕157)。

なお,統 一 を確保す るために,ソ 連 邦財務人民委員部は,1942年 に,「 戦時

のために発生 した支 出 と損失」 とい う勘定を特設 した。 この特別勘定の借方 に

は,戦 争 のために発生 したすべ ての支出が記帳 され,貸 方には,そ の支 出を支

出内容に応 じた関連 勘定 に よる消却を記帳 した。 この特別勘定に よって明らか

に なった支出 と損失は,1942年4月1Bの 企業の報告書に表示 された(〔5〕157)。

なお また,基 本活動バ ランスに表示 され る戦時 のために発生 した支 出 と損失

40明 大 商 学 論 叢・(40)

は,そ の内容に従 って,三 つ のグルー プに分類 され て,① 「基本 生産」勘 定(No.

045),② 「損益」勘定(No.190),③ 「定款基金」勘 定(No.125),あ るいは バラ

ンスの借方の特別項 目で表示 され た(〔5〕158)。 生産物原価には,資 材 保 全 維

持 のための施策費,義 勇軍に参 加 した戦士の賃金,軍 隊に召集 された個人の手

当が含 まれた。防空壕の建設費,自 衛 団の整備費,地 方 国防団闘士 の奉仕費,

企業 の疎開費は,損 失 として記帳 され た(〔5〕158)。

ドイ ツ軍に よって一時期 占領 され ていた地域が解放 され ると,こ の地域 での

固定資産の棚卸 と再評価が実施 された(〔2〕53,〔5〕158)。 棚卸法は1942年5月

15日 付 の ソ連 邦財務人民委員部の回章 で指示 され,棚 卸の結果は,「 敵 に よ っ

て破壊 された固定資産」(No.265),「 敵 に よ っ'て破 壊,略 奪 され た 資 材」

(No.268),「 敵に よって部分的 に破壊 された固定 資産」(No.266),と い った諸

勘定 に記帳 された。 これ らの金額は企業 の定款基金を修正 して,同 時 に企業の

損失 として処理 した(〔5〕158)。'

勘定計画 も修正 された。 「戦時 との関連 で独立 した 勘 定」 とい う一 つ の 部

(Aの 第27部)が 特設 され,こ の部 のなかに,「 疎 開 しなか った 固 定 資 産」(No.

270),「 企業 の疎開前に到着 しなか った積送 中の材料」(No.251),「 疎 開 したが

企業の所在地 まで到着 しなか った資材」(No.253),と い った諸 勘 定 を 設 置 し

た(〔5〕158)。

戦時中に採用 され だ報告書 の主要な形態は,ソ 連邦 ゴス プラン中央統計局で

提示 された規定 の指標 の範 囲内で作成 され る業 務の月次電信報告書であ った。

この報告書の第1回 の ものは,1944年4月 に公表 され た 「解放 した地域 におけ

る企業の棚卸の結果 につい て」であ うた。 そ して,棚 卸 の総 合結果は1944年1

月1日 までに 明らかにされ ることとな った(〔5〕159)。

1944年 の 自由販売店 の開設は,商 業 におけ る会 計の再建 の糸 口とな ってい っ

た。 また,農 業において も,工 業 と同様に,費 用の ドン ブ リ計算が採用 され,

ソフホーズでは生産物の原価計算は放置 された。 ソフホーズ もコル ホーズ も会

計担 当者 が不足 した(〔5〕159)6

1944年1月26日,ソ 連邦財務人民委員部は購買者 と納入請負者 との決済 の会

(41)ソ ビエ ト会計 発達 史41

計を改善す るための書簡を発表 した。その内容は,計 画価格 または契約価格で

納入請負者 と決済す ること,そ して商品 と材料の販売 と購入の取 引に関す る自

己 の勘定 を ゴスバンクと照合す る こととし,照 合に際 しては,「 出荷 し た 商 品

と遂行 された業 務」勘定,「受納※を拒否 したため購買者 の責任 で保 全 してい る

商品」勘定,「 購買者に よって期 日内に支払われてい ない商 品 と業 務」 勘 定 を

利用す ること,で あ った(〔5〕159)。

※受納とは一定の条件で契約を結ぶ提案に同意することであ り,非 現金決済のもとで

は,納 入請負者勘定の支払に購買者が同意することを意味する(〔4〕5)。

1944年,ソ 連邦財務人民委員部の会計 と報告書 の部課 《OTJIenyqeTallOTq・

eTHocTIIHapxoMΦIIHaCCCP》 は,管 理局 《YnpaBneHMe》 に改組 された。それ

は会計に対す る指導を強化 させ るための重要な一 つの施策 であ った(〔5〕159)。

戦時中の苦難な もとで も,会 計 に関す る著作は約50点 出版 された(〔5〕159){2)。

しか し,ソ 連邦財務人 民委員部が1937年12月 か ら発行 していた月刊誌r会 計』

《ByxvanTepcKHnyqeT》 は,1946年 に は再 刊 され る こbl9.なっtcが,戦 時 中は

そ の刊行の中断を余儀 な くされ た(〔10〕51)。

3大 祖国戦争期のソビエ ト会計人の奮闘

大祖国戦争期には,ソ ビエ ト会計人のある者は直接戦線で戦闘を交え,あ る

者は銃後で活躍した。

会計担当者が軍隊にとられたため,多 くの場合,会 計業務と報告書の作成は,

職場の党組織の援助のもとで,少 人数のしかも未経験の会計担当者によってお

こなわれた。簿記係を早 く養成 しなければならなかったがゴその時間はなかっ

た。 このため,と ぐに戦争の初期には,会 計活動は極めて困難とな り,会 計業

務の簡略化 と報告書の削減を強制的に実施した。だが,会 計担当者は不断に献

身的に活動した(〔6〕5)6;

銃後では,党,政 府および甲家防衛委員会の指示を遂行するた め に,「すべ

てを戦線へ,す べてを勝利のために!」 のスローガンのもとで,新 しい資源の

動員 とすべての面での節約が重視された。会計担当者も活労働と死労働の節約

42明 大 商 学 論 叢(42)

に積極的に参加 した。その後戦時経済が次第に軌道 に乗 りは じめる と,労 働生

産性 の向上,生 産物原価 と りわけ軍事物資の原価 の引下げ,工 業 内蓄積の増大

に よって,戦 線 と銃後 に必要 な物資の生産に成功 してい った(〔6〕3-4)。

こうした情況 の もとで,財 産 の在高の変動,決 済状況 などについての情報 も

会計報告書 と統計報告書に よって把握 されてい くよ うに な り,報 告書 も次第に

定 期的に作成 され てい くことになった(〔6〕5)。

C.M.キ ー ロフ名称 「デイナモ」 モスク ワ工場 も戦争の影響 を大いに 受 け

た。戦時中 この工場 の会計に従事 していたA.B.ニ コ リスキーは,当 時の会

計事情 を次 の ように回想 してい る(〔8〕17-2e)。

この工場は,開 戦 と同時に軍事生産へ と転換 したが,1941年10月 には ウラ

ルへ疎開 し,設 備,資 材,生 産要員 とその家族が移転 した。疎開地では,馴

れぬ生産環境 と厳 しい気候の もとで,移 転 されて きた設備 で新 しい工 場を再

建 し,工 場は戦車,戦 闘機を作 るに必要な機械,設 備の製造 を開始 した。生

産要員,動 力,原 材料,器 具の確保は,困 難を きわめた。現地に到着 した生

産要員 とその家族 の住宅の建設,公 共食堂 の開設,食 糧の調達 も困難 であっ

た。

そ して,な に よ りも簿記係の人 員は戦時のため減少 した。 しか し,少 数 の

簿記係は,工 場 の疎開が きまると,不 眠不休で多 くの書類 を短期間に作成 し

た。疎開地 では,生 産要員 と設備の軍用列車が到着 した文字通 り最初の 日か

ら,簿 記係は財産 の運用 と生産要員への支払を した。厳 しい条件 の もとで,

資源の確保 とか くれ た余 力の動員,財 産の保全 と節約に注意を払いつつ,会

計活動がお こなわれてい った。 だが,か つてのモス クワ工場 と根本的に異 な

る企業活動 は,仕 事を錯 雑なものに した。そのなかで,設 備,器 具,材 料等

の在高の計算,資 材の支 出の計算,生 産要員の賃金の計算,商 品の計算,生

産 高の計算,原 価計算,原 価引下げのための経営分析等 々がな された。 と く

に証愚書類 そのものの用紙 までがきわめて不足 したが,工 夫を こらして簿記

係は書類 を作成 し,報 告書を整備 してい った。苦難な条件 の もとで,簿 記係

は強い責任感に支えられ なが ら職務を遂行 した,と 。

(43)ソ ビエト会計発達史43

戦時中 といえ ども,ソ 連邦財 務人 民委員部,中 央統計 局,大 学 では,会 計 と

報告制,経 営分析 な どの方法論 が,そ れ らのい っそ うの改善 と合理 化のために

研究 され,そ の経験 が交流 された。 その成果は,戦 時中には,解 放地区の財産

被害 の決定に関す る指令 となって,ま た終戦 か ら数 カ月後に公布 された,新 し

い材料会計に関す る指令,投 資の原価 計算 と会計に関す る基本規程,工 業 と建

設業に おけ る勘定計 画指針,証 愚書類 と記帳に関す る規程 とな って,さ らに終

戦か ら若干の時期 がす ぎてか ら公布 され た,経 営財産の棚卸に関す る基本規程

となって,そ れ ぞれ あ らわれ た(〔6〕5)。

また,戦 前 か らひき続 いて戦時中においても,工 業の各部 門 と商業におけ る

企業 では,会 計の帳簿式形態 と集 計表式仕訳指 図書形態,材 料 の残高計算法が,

試 験的に採用 され,研 究 されていった。その成果は,戦 後,若 干の修 正をほど

こされて各種 の規程 や指令 となってあ らわれた(〔6〕5)。

さらに また,戦 時中の有益 な会 計研究 としては,サ ラ トフ市の軽工業企業で

遂行 された会計におけ る労働 の科学的組織 《HOT》 の研究があ った。 それは各

種の計算業務 と報告書の作成 を科学 的に見積 られ た時間 と経費の枠内で実施 し

よ うとす るものであ った。 この経験はA.H.ロ ジンスキー教授に よって試み ら

れ,1945年4月30日 の ロシア共和 国人民委員会議 でそ の普及 が承認 された(〔6〕

5-6)。

経営 分析 の分野では,戦 争に よる被害額を会計 で どの よ うに算定す るか,と

い う重要な問題が研究 された。最初,こ の算定方法 の草案は1942年 に財務人民

委員部で用意 され,そ の後,被 害額算定特別委員会 が草案を もとに して基本的

な方法を作成 した。 この基本的な方法 に よって,戦 争に よる財産の被 害額は2

兆6,000億 ルー ブル と算出 された(〔6〕6)。

この よ うに して,戦 時中,会 計の担 当者や責任者は,企 業,省,官 庁等で職

務を充分に発揮 した(3}。

他方,戦 時 中,会 計学者は軍隊 の主計官 として厳 しい戦線に赴いた。戦線で

の会計学 者の活動は,軍 隊に対 して糧食,被 服,給 与 を不断に供給 し,財 産の

節約方式 と社会主i義財産 の保全 の問題に注意を払い,そ して戦線にあって会計,

44明 大 商 学 論 叢(44)

管理 お よび監査の分野での施策を遂行す ることであっ.た。■

r会計』誌 の編集 に携わ り,会 計理 論に関す る多 くの著作 を もつ著名 なA.ll.

スムツ ォフも,主 計大尉 として後 コーカサス戦線本部 で勤務 し た。 そ れ は 丁

度,ソ ビエ ト軍 が ドイツ軍の強 力な攻撃をはねかえ していた 時 期 で あ り,敵

はす でに北 コー カサ スか ら逃亡 し,.ウ クライナが解放 されつつ あ っ た 時 期 で

あ った。 この時期にスム ツォフは,主 計大佐Cエ ゴ ロフと共に,『 労農赤軍兵

士』 《BoeqPKKA》 とい うコー カサス戦線の1943年12月4日 付の新聞紙上 に,

「財産 を節約 し,か くれた余力を活用 しよ う」 《9KoHoMHTbcpe,IEcTBa,tlcnoab3L

oBaTbBHYTpeHHvaepe3epBH》 とい う記事を書 いてい る(〔9〕20-21)。.

この記事に よれぽ,と くに財産の節 約が戦線 で も重視 され,現 地の資材 と

代用品の利用がおこなわれた とい う。例えば.軍 隊 のある地域 では,ド ラム

罐か ら風呂,コ ップ,そ の他の 日用品を調達 した り,薪 の経済的な調達 をお

こな った。 また別 の地域 では,不 要 になった小桶か ら洗濯用風 呂を作 った り,

廃物や ポ ロか らス リッパや作業着 を調達 した り,銃 の遊底発条か ら皿,,コ ッ

ープ,湯 沸 し,バ ケツを調達 した。 また,こ うした施策は,同 じ記 事に よれ ば,

社会主義財 産の支払に対す る節約に もなった とい う♂例 えば,軍 隊のあ る地

域 の車輔修繕部門ではf・軍服1キ ログラムの洗濯に25グ ラムの基準に対 し20

グラムの石鹸を使 用 し,こ の石鹸の節約 に よって5万300ル ー ブルの 節 約 が

で きた。 また同 じ石鹸 の節約に よって,修 繕部門 では,32万800iV]・ 一ブ ル の

金額が節約 された。 さらにあ る軍用倉庫 では,労 働生産性の向上,原 価 の引'

下げ,材 料消費 ノルマの削減 の結果,30万9,700ル ー ブルの金額 を節約 した。

記事 から推察 され るよ うに,ス ムツォフをは じめ とす る ソビエ ト会計学 者た

ちは,戦 線において,か くれた資材の動員 と節約方式のi遂行を計 画的に おこな

い,財 産 の節約 と保全の問題 に取組み,・それに よって戦時経済の潜在力を増 加

させ ることに奮闘 したのである。

だが,レ ニソグラー ドの防衛戦 では,原 価計算の著名 な学者B・H.ス トジキ

ー教授が戦死し,B .E.ケ ドロフ助教授 もモス グワ予備軍か ら帰還す ることは な

か った(〔6〕6)。 ∵'tl.・1

(45)ソ ビエト会計発達史45

戦争勝利の前年 である1944年1月28日 に開催 された ソ連邦最高会議の席上 か

ら,戦 時 の苦難な蒔代に,ソ ビエ ト会計人た ちはそれぞれの任務を献身的に立

派 に遂行 した ことが報告 された(〔6〕4)。 この ことは,大 祖国戦争期 の ソ ビエ

ト会計人 の奮闘を永久に記念す るもの とな ったのであ る。

お わ り に

これ までに第2次 世界大戦の時期におけ るソビエ ト会計 の史実をみ て きたが,

この考察か ら,第1に,会 計の正常 な実施は戦争 のため困難 とな り,会 計の変

則的 な実施が余儀 な くされた こと,第2に,会 計には戦時経済 の要請に答え る

べ き課題が あたえ られ,そ の課題 が解決 されてい った ごと,第3に,戦 時の苦

難 の時代に,ソ ビエ ト会計人は銃後 と戦線 でそれぞれの職責 をみ ごとに果 した

こ と,が 明 らかになった。

終戦に よって,ソ ビエ ト経済は社会主義戦時経済か ら社会主義 平時経 済へ移

.行してい った。 そ して,会 計は戦後 の経済復興 のために役だ てられてい くこと

になった。

(1)労 働 者 た ち の こ うし た 行 動 は,た とえ 戦 時 とい う特 殊 な 状 況 に あ っ た とは い え,1人1人 の ソ

ビエ ト労 働 者 が 社 会 主 義 の も とで は 人 民 の 財 産 の 主 人 と し て 強 く感 じ て い た とい う一 例 で あ ろ う。

ス ター リン 憲 法 第131条 は,公 共 的,社 会 主 義 的 財 産 を ソ ビエ ト制 度 の 神 聖 か つ不 可 侵 な 基 礎 と

して,祖 国 の 富 お よび 力 の 源 泉 と し て,す べ て の 勤 労 者 の 豊 か で か つ 文 化 的 な 生 活 の 源 泉 と し て,

市 民 は 感 じ と る こ とを 明記 し て い る(〔14〕2て4)。

② 戦 時 中1こ,著 作,論 文 等 を あ ら わ し た 人 び と と し て は,C.K.タ トクー一ル,fi.H.ワ シ レ ン コ,

MX.ジ ェ ブ ラー ク,A.lll.マ ル グー リス,只.M.ガ リペ ー リン,H.A.キ パ リー ソ ブ,H、A.レ

オ ン チ ェ フ,H.P.ヴ ェ イ ツ マ ン,A.只 、 ロ クシ ー ン,KA.フ ェ ドセ ー エ フ,1Vl.M.ノ ミカー ノ フ,

T.C.ミ チ ュー シ キ ン,K.ピ ー ク,r.ワ シ チ ン ス キ ー,n、n.ゴ ー ル ベ フ,Φ 、H.ナ ザ レー フス

キ ー・一)E.H.グ レ イフ,E.r.ペ ニ コ ー プが い た(〔5〕160)。 さ ら に ま た,H.M.イ リ イ ン,M.¢.

ジ ャ チ コ ー プ,C.A.シ チ ェ ン コー プ,H.H、 フ メ リ ョー フ等 が い た(〔6〕6)。 な お,出 版 され た

会 計 文 献 に つ い て は 引 用 文 献 〔16〕 を 参 照 。

(3)工 業,農 業,建 設 業,商 業,ゴ ス パ ン ク,財 務 人 民 委 員 部 等 に お い て,当 時 活 躍 し た 会 計 責 任

老 と して は 次 の 人 び とが い た(〔6〕6)。C.A.ア レ クセ ー エ フ,B.A.バ ス ーr・一ノ ブ,H.A.バ ス

マ ー ノ フ,丑 丁.ワ シ ー リエ フ,JI.A.ゴ リ トシ ヴ ェ ン ト,A.A.ゴ ロ ヴ ァ ス チ コ フ,r.M.グ ラ.

ノフ ス キrM.H.グ リシ ン,H.H.ド ゥー ドフ,A.C.エ メ リヤ ー ノ フ,H.H.イ ワ ノ7,B.M.

イサ コ フ,T.B.カ リー ニ ン,X.r.カ ス タ ナ ー エ フ,R.B.ザ イ ツ ェ フ,H.兄.レ ヴ イ ッ ト,P.A.

46 明 大 商 学 論 叢 (46)

マ ゼ ー リ ・T・C・.ミ チ ュ ー シ キ ン,T・ ¢・ モ ク ロ ウ ・・一・ソ フ ・ Φ ・A・ モ ス コ ー フ ス キ ー .C・li・ ネ ジ

ェ ー リ ン,A.C.ナ リ ン ス キ ー,M.Kネ ー ス テ ロ フ,A.B.プ ロ シ ョ ー ル コ フ,H.C.ス ミ ル ノ

ー フ,Φ ・E・ シ ョー モ チ キ ン,JLE ・ シ ビ リ ギ コ ー プ,H.八.ツ ェ ム コ,A.B.ニ コ ー一 リ ス キ ー,

cn・ チ モ フ ェ ー エ フ 等 々 。

引 用 文 献

本 文 で は 各 文 献 の 番 号 お よ び 必 要 に 応 じ て ペ ー ジ 数 の み を 掲 げ た 。

〔1〕C.HleHKoB,AMopTil3aqtafiocHoBHHxcpe丑cTBEpoMNmneHHocTH,PeAaKTopH

p.JlorOBIIrtcKag,O,To貼lnHHa,BonpocNcoBeT'cKilxΦHHaHcoB ,jM.,1956.

〔2〕n・ByHH亨,AMoprH3aqHAocHoBHNxΦoHAoBBnpoMNIII刀eHHocTH,M.,1957.

〔3〕AKPeKwBNKIICCHceBeTcKorofiPaBHTeabcTBaRoxo3HVacTBeHHNMBorr.

pocaM,M.,1957.

〔4〕n.A.KocTR〕K,ByxTa刀Tepc江H口cnoBapb,MHHcK,1971.

〔5〕B.A.Ma3AopoB,McTopvagpa3BnTvas6yxrantepcKoroyqeTaBCCCP'(1917-

1972rr.),1)!.,1972.

〔6〕nepeAoBay,YqeTHKoHTpoAbBcypoBHeToJCNBenvaKofiOTeqecTBeHHoΩ

BothHH,《ByxraaTepcKvathyqeT》,No.5,1975.

〔7〕B・A.Mopo30B,Bellukastno6eAalleevacTopmecKMeypoKu,《ByxvaxTe・

pcKlltiyqeT》,No.5,1975.

〔8〕A.B.HuKonLcKllti,6yxramepcKmbygeTHanpeAllpHgTunBBoeHHHeroAN,

《ByxrallTepcKuitygeT》,No.5,1975.

〔9〕H3BoeHHoroapxHBa,《ByxranTepcKniygeT》,No.5,1975.

〔10〕H.P.BeΩ 口MaH,OT10000Ao1530003K3eMロngPoB班ypHaJlae)KeMec∬qHo,

.《ByxraJITepcKH茸ygeT》,No.12,1977.

〔11〕 平 館 利 雄 著,ソ 連 経 済 の 分 析,東 洋 経 済 新 報 社,1947.

〔12〕 副 島 種 典 編 著,ソ ヴ ェ ト経 済 の 歴 史 と 理 論,日 本 評 論 社,1963.

〔13〕 政 治 経 済 研 究 所 訳,ヴ オ ズ ネ セ ン ス キ ー,大 祖 国 戦 争 期 に お け る ソ 同 盟 戦 時 経

済,政 治 経 済 研 究 所,1949.'

〔14〕 山 之 内 一 郎 監 修 ・邦 訳,べ ・ア ・ カ ル ピ ン ス キ ー,ソ 同 盟 憲 法,法 律 文 化 社,

1953.

〔15〕 日本 共 産 党 中 央 委 員 会 宣 伝 教 育 部 訳,ソ 連 邦 共 産 党 史3,日 本 共 産 党 中 央 委 員

会,1960.

〔16〕 拙 稿,ソ 連 邦 に お け る 会 計 発 達 史 の 研 究,r明 治 大 学 社 会 科 学 研 究 所 年 報 』,第

23号,1982.

〔17〕 拙 稿,ソ ビ エ ト会 計 発 達 史 一1934年 か ら1941年 ま で,r明 大 商 学 論 叢 』,第66巻

第3・4号,1984.